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古城めぐり(静岡) ブログトップ
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鴨江城(静岡県浜松市中区) [古城めぐり(静岡)]

DSC00636.JPG←鴨江寺
 鴨江城は、南北朝時代に遠江南朝方の柱石であった井伊氏の支城である。井伊道政が、後醍醐天皇の皇子宗良親王を三岳城に奉じて立て籠もり、南に鴨江城、北に田沢城、西に千頭峯城、東に大平城と、三岳城を中心として周囲に城砦群を築いて北朝の足利方に抵抗した。1339年、足利尊氏は高一族を下向させ、大将の高越後守師泰(尊氏の執事高師直の弟)は大平城に向かい、高尾張守師兼(師直の従兄弟)は7月26日に鴨江城を陥した。その後、1540年までに千頭峯城、三岳城、大平城を攻め落とし、遠江南朝方の抵抗は潰えた。この後、宗良親王は駿河安倍城に逃れた。その後の鴨江城の歴史は不明である。
 鴨江城は、現在の鴨江寺の地にあったと推測されている。鴨江寺は、古く飛鳥時代に創建された寺院と言われ、南北朝時代には多数の僧兵を擁する大伽藍であったらしい。従って鴨江城は、南北朝期に多い、寺院をそのまま城塞化した寺院城郭であったと想像される。現在は市街化が進み、境内にも明確な遺構はなく、城の痕跡は残っていない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.705299/137.719985/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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横岡城(静岡県島田市) [古城めぐり(静岡)]

DSC00623.JPG←井戸と主郭跡
 横岡城は、志戸呂城とも呼ばれ、戦国時代にこの地を領した鶴見因幡守栄寿の居城である。鶴見氏は、応永年間(1394~1428年)には今川氏に属して掛川に居たが、斯波氏が遠江守護になると斯波氏に従い、応仁の乱では西軍の斯波義廉の麾下となって横岡城を築いて移り住んだ。1496年、鶴見因幡守は勝間田城主勝間田播磨守と共に、今川氏に属する松葉城主河合(河井)蔵人成信を攻め滅ぼした。同年、駿河の今川氏親は遠江に侵攻し、相賀村に偽旗を押し立てて陽動作戦を展開し、長者原から一気に横岡城を急襲し、鶴見因幡守を討ち取ったとされる。
 横岡城は、「城之壇」と呼ばれる比高40mの台地上に築かれた城である。城跡は現在、一面の茶畑に変貌しており、遺構はほとんど湮滅している。しかし南端の大手には、下方への備えの土壇と段曲輪が山林内に残る他、主郭と思われる平場内には石組み井戸が残っている。茶畑内には、わずかに地形の膨らみと窪みがあり、土塁と堀跡の名残かもしれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.854315/138.112376/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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石上城(静岡県島田市) [古城めぐり(静岡)]

DSC00587.JPG←主郭背後の堀切
 石上城は、南北朝時代に駿河南朝方の最後の拠点となった徳山城の支城である。代々この地の領主であった石上氏が城主であった。1353年、在地土豪の鴇(土岐)氏は本城の徳山城を中心として駿河山間部に立て籠もった。将軍足利尊氏の命を受けて今川範氏はこれを討伐し、援将伊達景宗は先鋒として発向し、まず出陣の翌日の2月11日、早くも萩多和城を落とし、尾根伝いに洗沢に抜け、13日には護応土城を攻め落とし、徳山城に迫ったと伝えられている。この戦いの中で石上城も今川氏の攻撃を受けて落城し、以後は今川氏に属した。1568年に武田信玄が駿河に侵攻し、今川氏を逐って駿河を併呑すると、石上氏も武田氏に降った。1575年の二俣城の戦いでは、石上城主石上兎角之助が討死し、その後石上城は廃城になったと考えられている。

 石上城は、笹間川の支流の沢筋に挟まれた、標高340m、比高70mの山上に築かれた山城である。かなり小規模な山城で、狭小な主郭とニノ郭、そしてその西側を巡る腰曲輪から成る単純な山城である。ニノ郭前面と主郭背後には堀切が穿たれ、腰曲輪には竪堀も穿たれて動線を遮断している。更に主郭から北に伸びた尾根筋の先にも堀切があって、城域が終わっている。この他、山の南西麓の台地上の、現在穂積神社が置かれている場所は、やや広めの平坦地となり、居館跡とされている。武田氏の関係が考えられる城であるが、その割にはやや見所に欠ける、古風な城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.011522/138.149202/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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小長谷城(静岡県川根本町) [古城めぐり(静岡)]

DSC00494.JPG←丸馬出
 小長谷城は、小長井城とも言い、この地の土豪小長谷氏の居城である。小長谷氏は、一説には、南北朝時代に徳山城で北朝方に抵抗した鴇氏の後裔と言われるが、明確ではない。室町時代には今川氏に属し、1568年に武田信玄が駿河に侵攻して、今川氏を逐って駿河を併呑すると、小長谷氏は武田氏に降った。その後、1575年の長篠の戦いで武田氏が大敗し、徳川氏が武田領を蚕食すると共に、小長谷城は改修を受けたと推測されている。廃城時期も明確ではなく、1582年の武田氏滅亡の前後ではないかと考えられている。

 小長谷城は、大井川東岸の段丘上に築かれた城である。城域は、主城部が現在の徳谷神社の境内に当たり、副郭部にはB&G海洋センターが建てられている。その為、城地北半の副郭部は破壊を受けて遺構は湮滅しているが、南半の主城部はほぼ遺構を残している。主城部は最上段に本丸を置き、西に階段状にニノ丸・三ノ丸を築いた梯郭式の縄張りとなっている。主城部は外周に土塁を築き、西面と東面に大きな空堀を穿ち、防御を固めている。特に東側は二重空堀となっている。又、西側の三ノ丸大手は参道で破壊を受けているが、枡形虎口の土塁が明瞭に残り、その近くには井戸も残っている。しかし何よりこの城の白眉は、本丸南東裏に築かれた二重馬出しで、内側は武田氏の城でよく見られる丸馬出となって、外周を三日月堀が囲み、外側は角型の馬出しとなって、それぞれ外部と土橋のみで連絡している。この他、二ノ丸の搦手にも枡形が築かれている。基本的には単純な構造の比較的小規模な城であるが、二重馬出し部の複雑な構造が見所である。
主郭背後の空堀→DSC00491.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.102167/138.140400/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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護応土城(静岡県川根本町) [古城めぐり(静岡)]

DSC00416.JPG←クランクする切通し状の古道
 護応土城は、南北朝時代に駿河南朝方の最後の拠点となった徳山城の支城である。1353年、在地土豪の鴇(土岐)氏は本城の徳山城を中心として駿河山間部に立て籠もった。将軍足利尊氏の命を受けて今川範氏はこれを討伐し、援将伊達景宗は先鋒として発向し、まず出陣の翌日の2月11日、早くも萩多和城を落とし、尾根伝いに洗沢に抜け、13日には護応土城を攻め落とし、徳山城に迫ったと伝えられている。尚、範氏が景宗に与えた感状によれば、護応土城が徳山城を守る「一の木戸」としての重要な役割を持っていたとされる。
 護応土城は、富士城地区の標高955mの山上に築かれている。ここは尾根伝いに南に降ると、高山を経由して徳山城が築かれた無双連山に至る交通の要地で、山頂から南東と南西に伸びる尾根上には古道が現在でも残っている。この古道は、途中で屈曲しており、特に南西尾根ではクランクした切り通しになっており、入口付近は枡形状の空間がある。また、南東尾根では堀切状の切り通しも確認できる。この他、一部は城戸口らしい地形も確認できる。山頂は主郭とされるが(「本丸」の標識がある)ほとんど自然地形で、周囲の緩斜面もほとんど自然地形に近い。一部に平場があるが、かつては畑があったらしいので俄に遺構とは判断できない。いずれにしても明確な遺構には乏しいが、古道が屈曲して枡形状や堀切状になっており、古道を押さえる砦として機能した様である。尚、3月の訪城時には「本丸」「壕」の小さな標識が建っていたが、城址として整備中らしい。
堀切状の古道→DSC00427.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.093788/138.188514/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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尾沢渡城(静岡県静岡市葵区) [古城めぐり(静岡)]

DSC00354.JPG←ニノ郭背後の二重堀切
 尾沢渡城は、歴史不詳の山城である。静岡古城研究会の考究では、1581年の穴山梅雪の書状から、この時期の武田氏による西駿河防衛の為の城ではないかとの見解が出されている。
 尾沢渡城は、黒俣川とその支流の尾沢の間に突き出した、標高220mの山稜先端に築かれた山城である。この城に登るには、南東斜面の民家裏の茶畑を登らなくてはならないので、地元の方の許可を得て登る必要がある。茶畑からは道が付き、下草が刈られているので、簡単に登ることができる。先端の頂部にやや広めの主郭を置き、その前面と南西側に腰曲輪を配置し、更に東に伸びる尾根と南東の支尾根にも腰曲輪を数段築き、更に主郭背後にはほぼ方形の小型のニノ郭を配置している。その背後には見事な二重堀切を穿ち、更に背後の尾根の少し先にも小堀切がある。背後の尾根には古道らしい道が残っており、尾根筋の連絡路があった可能性がある。主郭とニノ郭には北側を重点防御する土塁が築かれていることから、この方面からの攻撃を想定して築かれた様である。また主郭前面の腰曲輪等には石積みが残るが、遺構かどうかは不明で、植林の際の改変の可能性が捨てきれない。また腰曲輪に数ヶ所竪堀も穿たれている。比較的小ぢんまりした城であるが、この手の城にしては中規模の堀切がしっかりと普請され、また土塁の築かれた主郭とその周囲の腰曲輪の雰囲気は、犬居城によく似た印象がある。静岡古城研究会の考究の通り、武田氏による構築の可能性は十分有り得る様に見受けられた。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.037606/138.230740/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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一谷城(静岡県静岡市葵区) [古城めぐり(静岡)]

DSC00298.JPG←堀切状の切り通し
 一谷城は、徳山城の支城である萩多和城の出城とされる。ということは南北朝時代に駿河南朝方の城であったことになるが、その歴史は手元に情報がなく不明である。
 一谷城は、日向集落の中央に北から突き出した台地の先端に位置している。主郭と思われる台地上は民家裏の茶畑になっており、進入は憚られる。城域の一部と思われる福田寺の脇には堀切状の切通しが尾根を分断しており、一応空堀跡とされているらしい。その上の尾根には庚申塔などが祀られている。『日本城郭大系』にも静岡古城研究会の『静岡県の城跡』にも一谷城についての記載がないので、実際にここに城があったのかも不明であるが、現地には「南朝方ノ一谷城跡」と記載された手書きの表示板が付いており、少なくとも地元では城跡と認識されている様である。尚、ここからしばらく尾根筋を登って行くと、「小城ノ段」と呼ばれる平場もあるそうだ。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.090487/138.242544/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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萩多和城(静岡県静岡市葵区) [古城めぐり(静岡)]

DSC00282.JPG←萩多和城の遠望
 萩多和城は、南北朝時代に駿河南朝方の最後の拠点となった徳山城の支城である。1353年、在地土豪の鴇(土岐)氏は本城の徳山城を中心として駿河山間部に立て籠もった。将軍足利尊氏の命を受けて今川範氏はこれを討伐し、援将伊達景宗は先鋒として発向し、まず出陣の翌日の2月11日、早くも萩多和城を落とし、尾根伝いに洗沢に抜け、13日には護応土城を攻め落とし、徳山城に迫ったと伝えられている。一説には萩多和城には、土岐山城守が籠っていたと言われるが確証はない。

 萩多和城は、藁科川の蛇行部に西から張り出した標高290m、比高40mの城山と呼ばれる丘陵上に築かれている。周囲を高い山々に囲まれ、北・東・南の三方を藁科川が天然の堀となって分断した要害である。この城山は私有地らしく、民家の裏にあり、山中に入ることができなかったので遺構は確認できていない。静岡古城研究会の『静岡県の城跡』によれば、頂部から東に向かって雛壇状に平場が広がっている様だが、必ずしも遺構とは確認されていないらしい。城は別の場所との説もある様だ。おまけに春先だった訪城当日は、猟師が山中で害獣駆除をしており、鉄砲の音が間近に聞こえておっかなかったので、早々に撤収した。
 尚、ここからかなり離れた東の山中の林道脇に、「萩多和城址」の石碑が建っているそうで、そこがもう一つの城址推定地なのかもしれないが、時間の都合で訪城はしなかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.094515/138.237772/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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朝倉氏屋敷(静岡県静岡市葵区) [古城めぐり(静岡)]

DSC00278.JPG←屋敷地付近の現況
 朝倉氏屋敷は、一乗谷を本拠とした越前朝倉氏の庶流、柿島朝倉氏の居館である。越前の戦国大名朝倉貞景の次男景高は兄孝景と不和となり、永正年間(1504~21年)に子の六兵衛在重と共に今川氏親を頼って柿島に移住したと言われている。柿島朝倉氏は、今川氏没落後も一旦は反武田の一揆を起こすが、後に武田氏に従属し、武田氏滅亡後は朝倉宣正が徳川氏に仕え、後に駿河大納言忠長(3代将軍家光の弟)の付家老として掛川城主となったと言う。
 朝倉氏屋敷は、山間部の傾斜地に位置し、現在は茶畑に変貌しており、明確な遺構は残っていない。しかしこの傾斜地南端の高台には朝倉氏歴代の墓所があり、墓に刻まれた家紋は、正に越前朝倉氏の家紋そのものであった。本家の朝倉氏は織田信長に滅ぼされたが、遠い駿河でこうして命脈を保っていたとは、不思議な運命という他はない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.154337/138.328332/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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奥池ヶ谷城(静岡県静岡市葵区) [古城めぐり(静岡)]

DSC00251.JPG←石積みの残欠が散在する曲輪群
 奥池ヶ谷城は、歴史不詳の山城である。伝承によれば、南北朝時代に今川範国が軍功によって駿河守護となった後、1341年にその家臣友任氏が奥池ヶ谷城に居を構えたとされるが確証はない。駿河今川氏の財源であった安倍金山のあった地方でもあることから、室町時代に今川氏の城郭が構えられたことは間違いないと思われる。
 奥池ヶ谷城は、中河内川が大きく西に蛇行する部分に東から張り出した、標高362mの半島状の山に築かれている。東基部の県道から登山道が整備されている。この尾根筋は結構急な登り道で、途中にはいくつかの小郭が築かれている。本城域の入口には堀切で分断され土橋の掛かった馬出し状の小郭が置かれ、その上には曲輪先端の櫓台がそびえて、防御を厳重にしている。ここから山頂の主郭までの間には数段の曲輪が置かれ、その脇には倉庫などが置かれたとみられる腰曲輪も築かれている。主郭は、背後に物見台を備えているが、規模は比較的小さい。主郭の西斜面には4~5段の曲輪群が広がっており、石積みの残欠が多数散在している。奥池ヶ谷城は、堀切が少なく、基本的に段曲輪群だけで構成された、比較的古い形態の山城である。しかし石積みが築かれているということは、戦国期頃まで継続的に使用されたことを示しているのかもしれない。
東側の堀切・土橋と小郭→DSC00272.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.146898/138.325456/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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湯島城(静岡県静岡市葵区) [古城めぐり(静岡)]

DSC00154.JPG←主郭西尾根の土橋・堀切
 湯島城は、駿河南朝方として安倍城で奮戦した狩野氏が、室町時代に築いた山城である。当初は、南北朝の争乱期に安倍城北方の押えの支城として築かれたと言われ、その後、今川氏に降伏した狩野介貞長の後裔が、湯島城を居城としたらしい。1433年、駿河守護今川範政が死ぬと、将軍足利義教や今川家重臣朝比奈氏・岡部氏・矢部氏らが支持する次男範忠と、鎌倉公方足利持氏らが支持する末子の千代秋丸が、その後継を巡って国内を二分して争った。これが「永享の内乱」と呼ばれ、京都の将軍義教と鎌倉公方持氏との対立を背景とした代理戦争の一面を持ち、駿河国内は騒乱状態となった。この時、国人領主興津氏・由比氏・富士氏らと共に、狩野氏は千代秋丸派に加担して争った。しかし室町幕府や遠江今川氏の援軍が派遣され、今川貞秋(遠江今川氏)を主将とする遠江・駿河の軍によって、狩野氏が立て籠もる湯島城は攻められ落城した。

 湯島城は、安倍川東岸の標高303m、比高163mの山上に築かれている。主郭と二ノ郭と思われる東西2郭から成ると考えられているが、主郭は茶畑の耕作放棄地となり改変され、曲輪内は削平も甘く、明確な形状は不明である。わずかに外周に腰曲輪状の一段低い平場が見られる程度である。しかし主郭西の尾根には土橋の掛かった堀切とその先の細長い小郭が残る他、ニノ郭の北東尾根にも堀切が残っていて、城郭遺構であることは明確である。後世の耕地化による改変があるのではっきりしない部分もあるが、戦国期以前の素朴な古い山城の形態を残している。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.111136/138.366089/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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各和氏館(静岡県掛川市) [古城めぐり(静岡)]

DSC00135.JPG←館跡とされる八幡神社付近
 各和氏館は、遠江今川氏の一族、各和氏の居館である。居城の各和城との関係は不明で、各和氏の傍流の居館だったものであろうか。
 各和氏館は、各和城の北方約1kmの原野谷川東岸の平地に築かれていたとされるが、現在は八幡神社や宅地等に変貌し、遺構は残っていない。「堀ノ内」「奥屋敷」などの地名が残っているらしいので、何らかの居館があったことは間違いないのだろう。尚、神社東側に水路が通っているが、堀の名残であろうか?

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.778773/137.955805/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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各和城(静岡県掛川市) [古城めぐり(静岡)]

DSC00129.JPG←墓地脇の土盛
 各和城は、今川了俊を祖とする遠江今川氏の一族、各和氏の居城である。各和氏は、了俊の孫貞行を祖とすると言われるが、その事績はほとんど明確にできない。わずかに、今川氏親の客将伊勢宗瑞が1506年に三河に侵攻した際、これに従った遠江衆の中に各和氏が見られる他、1569年の徳川勢の攻撃に対して各和三郎兵衛が今川方として籠城して戦い、討死したことが伝わっているだけである。
 各和城は、現在の永源寺付近にあったと推測されている。この地は原野谷川西岸の比高10m程の段丘上に位置している。既に城域の大部分は茶畑などに変貌して明確な遺構はなく、永源寺の墓地の脇に祠の祀られた土盛が、もしかしたら土塁の跡かもしれないという程度である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.770472/137.955526/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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堀越館(静岡県袋井市) [古城めぐり(静岡)]

DSC00060.JPG←寺背後の丘陵地
 堀越館は、今川了俊(貞世)を祖とする遠江今川氏の居城と言われている。今川了俊は、足利尊氏に従って今川氏の勲功を打ち立てた今川範国の次男で、知略を備えた名将であった。3代将軍足利義満の時、征西将軍宮懐良親王率いる南朝軍が九州を席巻しており、了俊は時の管領細川頼之から九州探題に補任された。大内氏らの支援を得て九州に入った了俊は、九州南朝方の主柱菊池氏や鎮西の三豪と称される少弐氏・大友氏・島津氏らと渡り合って、25年に渡って九州統一事業を推し進めた。しかし突如解任され、失意の内に遠江に戻った。この解任には諸説あり、感状を勝手に発給するなど独自の権威を高めつつあった了俊を義満が危険視したためとも、対明貿易のために了俊の存在が障害になったからだとも言われる。また、了俊は文才にも優れ、当代一流の歌人であると共に、『難太平記』を著述して貴重な資料を後世に残した。了俊の後裔は、堀越氏を称し、見付端城を居城としたと言われる。堀越館と見付端城の関係は不明で、共に遠江今川氏の本拠と伝えられている。

 堀越館は、現在の海蔵寺付近にあったとされる。市街化で改変が進み、明確な遺構は残っていない。寺背後に丘陵地があるが、これは遺構の一部であろうか?尚、境内には今川了俊の供養塔が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.758256/137.910572/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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天方城(静岡県森町) [古城めぐり(静岡)]

DSC09986.JPG←主郭外周の空堀
 天方城は、天方新城とも呼ばれ、国人領主天方氏の居城である。築城時期は明確ではないが、応永年間(1394~1428年)の初め頃には山内対馬守が城主で、天方城を弟の山城守に譲り、自身は飯田城を築いて移ったとされる。但し、この時の天方城は、大鳥居にある本城山に築かれた天方本城と考えられている。14世紀後半の山内豊後守通秀が天方氏を称し、その後、天方山城守通興の時に、遠江に勢力を拡大していた駿河の今川氏の被官となり、より要害性の高い天方新城を築いた。今川氏没落後に徳川家康が遠江に侵攻しても、通興は今川方として抵抗したが、1569年に激しい攻撃を受けて徳川氏に降伏した。1572年に武田信玄が遠江に進撃すると、天方氏も武田氏に降り、天方城は久野弾正忠宗と天方山城守に守らせた。しかし信玄が陣没すると、家康は平岩親吉を将として派遣し、天方城を再び攻略した。その後天方氏は徳川氏の家臣となり、通興の子通綱は、二俣城で家康の嫡子信康が自刃させられた際、介錯を務めた。通綱は後に信康介錯のことをはばかって高野山に入り、後年、家康の次男で越前藩主となった結城秀康に召し出されて仕え、越前天方氏となった。一方通興は、通綱が高野山に入った為、家名存続の為に外孫の通直(青山播磨守忠成の5男)を養子とした。通直は家康・秀忠に仕え、大阪冬の陣で戦功を挙げ、江戸城に勤仕する旗本となった。

 天方城は、標高248mの城ヶ平に築かれた山城で、現在城ヶ平公園として整備されている。ここは山上の城址公園で、太田川沿いの県道からの車道はかなり距離がある。天方城は、空堀で囲まれた広い主郭と、その北側斜面の二ノ郭から構成された単純な縄張りである。主郭には空堀に沿って土塁が巡らされ、遺構が良く残っている。ニノ郭は、斜面となっていて削平がほとんどされていない様である。その外周にも浅い空堀が残っている。それほど規模の大きな城ではないが、徳川・武田争奪の舞台となった城で歴史的に重要である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.847691/137.949990/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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飯田城(静岡県森町) [古城めぐり(静岡)]

DSC09849.JPG←主郭と御前郭
 飯田城は、天方氏の同族山内氏の居城である。応永年間(1394~1428年)の初め頃に飯田荘を押領した天方城主山内対馬守が、天方城を弟の山城守に譲り、飯田城をこの地に築いて移ったとされる。以後、国人領主として勢力を扶植し、山内大和守通泰の代の1545年頃、遠江に勢力を拡大していた駿河の今川氏の被官となった。今川氏没落後も、通泰は今川氏の元を離れず、永禄年間(1558~69年)末頃に徳川家康に攻められて、主従ことごとく討死して廃城になった。

 飯田城は、太田川東岸に連なる丘陵地の西端の、比高25m程の台地上に築かれた平山城である。現在城址保存会が立ち上がって、城址整備が進められている。珍しい縄張りの城で、ほぼ方形の広い主郭を中心にして、周囲や派生する尾根に腰曲輪・段曲輪を築いただけの構造が基本で、更に広い幅の空堀の南側の丘陵部にも曲輪群を連ねている。いわゆる二ノ郭に相当する様な曲輪が存在していないのである。主郭の周囲には高土塁が築かれ、東側には一段高く御前郭があって、その名称からこの曲輪には祭祀や信仰に関わる施設があったものと考えられる。前述の尾根筋の曲輪群には、要所に堀切が穿たれているが、規模はささやかなものである。西麓に向かって大手道が伸びているが、大手には枡形が築かれている。また下って行く途中の平場には井戸跡が溜池となって残っている。尚、城址の整備であるが、訪城時は主郭部の樹木が伐採中で、車両や重機が入って伐採しているらしく、城址がやや荒れていた。遺構の損壊がちょっと心配になった。
支尾根の段曲輪→DSC09892.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.804974/137.921356/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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本郷城(静岡県掛川市) [古城めぐり(静岡)]

DSC09817.JPG←主郭側から見た谷と館跡の段丘
 本郷城は、原谷郷の土豪原氏の初期の居城である。原氏の事績については、高藤城の項に記載する。
 本郷城は、原野谷川東岸の比高10m程の段丘先端部に位置し、主郭である長福寺一帯と東側の谷を隔てて配置されている館から成るとされる。主郭は寺の境内に変貌し、館も茶畑や民家に変貌しており、遺構は残っていない。ただ主郭と館の間を隔てる谷は、往時は二郭を分断する空堀として機能したと想像される。長福寺背後の丘陵上も遺構がないか探索したが、やはり改変されていて明確な遺構は確認できなかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.812059/137.956384/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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高藤城(静岡県掛川市) [古城めぐり(静岡)]

DSC09769.JPG←北東方面から見た城址遠望
 高藤城は、原谷郷の土豪原氏の居城である。原氏は、1185年、源頼朝が平家追討に功のあった原三郎清益を原谷郷に入部させたことに始まる。最初は本郷城を居城とした。清益は幕府の御家人として鎌倉に住し、1193年の富士の巻狩りの際、仇討のため工藤祐経を夜襲した曾我十郎・五郎兄弟と斬り結び、重傷を負ったことが『曾我物語』などに記されている。8代忠益の時、南北朝の動乱期に遭遇し、嫡子忠清と共に南朝方に付いて北朝方の今川氏に対抗する為、新たに山城の高藤城を築いたとされる。時代は下って戦国時代後期の1572年、西上作戦を開始した武田信玄が遠江に侵攻すると、原氏は武田氏に属した為、翌73年に徳川勢に高藤城を攻め落とされて、原氏は没落した。

 高藤城は、掛川市殿谷の標高140mの山頂一帯に築城されていた山城であったが、現在はゴルフ場が建設されて、城は完全に破壊されたらしい。国土地理院の地形図を見ても、既にこの付近に標高100mを超える山が存在せず、ゴルフ場の造成に伴って山自体が消滅している。その為、明確な場所も不明となっている。この山地の北西尾根の先だけが旧状を留めているようだったので、遺構を求めて探索してみたが徒労に終わった。悲しい運命を辿った城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.802263/137.964431/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
    (推定地)
タグ:中世山城
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美人ヶ谷城(静岡県掛川市) [古城めぐり(静岡)]

DSC09731.JPG←二ノ郭前面の堀切
 美人ヶ谷城は、石谷城とも言い、この地の国人領主石谷氏の城と言われている。石谷氏の出自には諸説あり、鎌倉・室町幕府の実務官僚であった二階堂氏の後裔とも、西郷民部少輔という土豪の裔とも言われるがはっきりしない。石谷氏がはっきりと姿を現すのは、石谷政清の代からである。政清は、二階堂左馬助清長の子と言われ、最初今川氏に仕え、後の1568年から初めて徳川家康に仕えた。その子政信・清定も、父政清と共に家康に仕え、1590年に徳川氏が江戸に移封となると、多摩郡に所領を賜わって徳川氏の旗本となり、徳川幕府の要職を歴任した。
 美人ヶ谷城は、比高50m程の丘陵上に築かれた城である。南北に伸びるなだらかな尾根上に築かれた単純な連郭式の城で、南斜面は特に平坦で茶畑となっており、こちらに大手があったと考えられる。その先の山林の中に平坦な曲輪が広がっている。南から順に三ノ郭・二ノ郭・主郭・西郭と連なっており、各曲輪は堀切で分断されている。堀切は、いずれも比較的小規模なもので、最も深い二ノ郭前面の堀切でも深さ3m程しかない。またこの二ノ郭前面だけが腰曲輪を挟んだ二重堀切となっている。また主郭背後にはわずかに土塁が築かれている。西郭は耕作放棄地の茶畑となっている。美人ヶ谷城は、いずれの曲輪も削平が全体に甘く、普請の状況から考えれば、南北朝期から戦国初期の城だったと推測される。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.815847/138.014277/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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倉真城(静岡県掛川市) [古城めぐり(静岡)]

DSC09680.JPG←西側の空堀跡
 倉真城は、歴史不詳の城である。わずかに『世楽院略記』に、城主松浦兵庫頭が1497年11月に戦乱の城内で自刃したことが記されているだけである。
 倉真城は、倉真川西岸の比高30m程の台地上に築かれた城で、主郭には世楽院が建っている。訪城した時は、幸いなことにご住職に案内をしていただけた。本堂の西側には土塁が残り、更にその西から南にかけて、空堀跡が残っている。堀の北半分は埋められているが形状ははっきりしている。南半分は水が貯められて池となっている。境内にある市の指定保存樹木である「さざんか」は、杉の木と共に樹齢500年だそうで、ここに城があった当時から残っている樹だそうである。また境内の井戸も、昔からのものらしい。主郭の南東に伸びる台地上のニノ郭は、茶畑になっているが後継者がいなくて、現在は耕作放棄してしまっている。寺の背後の地形は急峻な谷戸で、明確な塁線を伴っている。城から東に50m程離れて高台があり、「松浦兵庫頭城跡」の石碑が建っているが、ここは御殿跡だそうだ。この他、世楽院の庫裏内に掲げられている扁額を見せていただいたが、これは「弥次喜多」で有名な『東海道中膝栗毛』を書いた十返舎一九が、一宿一飯のお礼に残していったものとのことであった。城巡りもさることながら、聞かせていただけた色々な話が楽しかった。この場を借りて御礼申し上げます。
石碑の建つ御殿跡の高台→DSC09709.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.816977/138.029904/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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松葉城(静岡県掛川市) [古城めぐり(静岡)]

DSC09634.JPG←南出曲輪群
 松葉城は、今川氏親の家臣河合成信の居城である。1496年、河合成信は松葉城を反今川派の勝間田城主勝間田播磨守、横岡城主鶴見因幡守に攻め落とされ、成信夫妻は松原城に逃れて、長松院の淵に身を投じたと伝えられている。

 松葉城は、粟ヶ岳から伸びる西の支尾根が倉真川に臨む先端部に築かれた山城である。遺構はほぼ完存しており、ほぼ日本城郭大系の縄張図の通りだが更に段曲輪や堀切があり、かなりの遺構が確認できる。城域は3つの部分に分かれ、県道81号線の北側の先端部にある北物見曲輪と、山頂部の本城と、その南の東西に伸びる尾根上に築かれた南出曲輪群から構成されている。北物見曲輪は現在墓地などに改変されているが、先端の櫓台との間の堀切がしっかりと残っている。一方、県道の登り口から本城に登って行くと、途中に1本の小堀切がある他、本城の北東尾根に2本の堀切と段曲輪が築かれており、この段曲輪ともう一つの段曲輪を経由して城道は本城ニノ郭へと繋がっている。本城は山頂の狭小な主郭と、その南西側に連なる二ノ郭等の数段の段曲輪から構成されている。これらの曲輪は段差の切岸だけで区画され、その先端部から西に派生する尾根には、更に小堀切とその先に物見番所とされる櫓台が築かれている。本城のニノ郭から南東尾根に向かって搦手道が伸びており、段曲輪を経由して尾根鞍部を過ぎ、その上の南出曲輪群に至る。ちなみにこの尾根鞍部は、日本城郭大系では堀切とされるが、ほとんど自然地形に近い。南出曲輪群は、やはり狭小な主郭とその西に連なる数段の段曲輪群で構成されている。東の尾根暗部には大堀切があるが、鋭さはないものの深さ・幅とも大きく見応えがある。その更に東に出丸と小堀切があって城域が終わっている。基本的に小規模な遺構群ではあるが、城域はかなり広い。参考にした他の城郭サイトでは明確な遺構なしと言うものもあったが、誤解の様である。
本城の南西端の段曲輪→DSC09597.JPG
DSC09653.JPG←南出曲輪群の大堀切
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.839414/138.050970/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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松原城(静岡県掛川市) [古城めぐり(静岡)]

DSC09535.JPG←長松院脇の土塁らしき土盛
 松原城は、今川氏親の家臣で松葉城主河合成信の支城と推測されている。1496年、河合成信は居城の松葉城を反今川派の勝間田城主勝間田播磨守、横岡城主鶴見因幡守に攻め落とされ、成信夫妻は松原城に逃れて、この地にあった長松院の淵に身を投じたと伝えられている。
 松原城は、逆川西岸に西から突き出した台地上に築かれており、現在も長松院が置かれている。ここには居館があったとされ、境内以外の台地上の大半は駐車場や原っぱとなっており、若干の土塁らしき土盛が見られるほかは明確な遺構は見られない。また「静岡県の城総覧」によれば、ここから北西に位置する標高130mの宮沢山には主郭が置かれ、周囲にのびた尾根上に曲輪を配置しているとされるが、墓地の先から登ってみたところ宮沢山と思われる山の上には明確な遺構は確認できなかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.815590/138.067929/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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真田城(静岡県森町) [古城めぐり(静岡)]

DSC09424.JPG←主郭外周の横堀・腰曲輪
 真田城は、この地の豪族武藤氏の居城であったと言われている城である。武藤氏は、戦国期には今川氏に属していたと思われるが、武田信玄が遠江に侵攻すると、武藤刑部丞氏定は武田氏に従って小国神社に立て籠もり、徳川家康に攻略された。その後再び武田氏に属して高天神城に入り、家康に攻め滅ぼされたと言う。なお真田城は、武田氏に属していた時に改修されたと考えられている。

 真田城は、宮代西の城山と呼ばれる標高112m、比高60m程の丘陵上に築かれた山城である。主郭の南側と北側の外周に横堀が巡らされ、その外には腰曲輪が築かれている。また主郭への虎口は、この腰曲輪から直角に繋がり、竪土塁で側方を防御された枡形虎口となっていて、これらの構造は八幡平城丸子城犬居城などと酷似しており、武田氏による築城はほぼ間違いないところであろう。主郭背後には土塁が築かれ、その背後の堀切も深さ5m程もあって規模は大きい。北側の横堀には横矢が掛けられ、奥に虎口の土塁が築かれている。また主郭の西面には、薮に埋もれて枡形虎口も築かれている。主郭内には大穴がいくつか開いているが、何によるのかは不明。この他、主郭西側の緩斜面に曲輪群が連なるほか、今でも水の湧いている井戸跡も残っている。城の南側は広い緩斜面となっていて、明確な遺構はないが、竪堀状の溝があったりするなど何らかの施設として使用された可能性もあり、どこまでが城域だったのかは判然としない。その点ではやや普請が不徹底である。とはいえ、真田城は小規模な城ながら、武田氏の縄張りが見られる貴重な遺構である。
主郭背後の堀切→DSC09454.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.837219/137.900474/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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二俣城(静岡県浜松市天竜区) [古城めぐり(静岡)]

DSC09312.JPG←堀切と蔵屋敷、奥に石垣
 二俣城は、武田・徳川両軍が激しい攻防を繰り広げた城である。創築時期は不明で、戦国時代後期には遠江をめぐって攻防を繰り広げた斯波氏と今川氏が相次いで領有し、1506年頃には今川氏一門の瀬名一秀が二俣城に在城した。その後、堤城主松井左衛門尉信薫、次いでその弟の松井宗信が城主を務めた。今川氏が衰退すると徳川家康が二俣城を攻略し、鵜殿氏長を城番とした。1572年、武田信玄は15代将軍足利義昭の要請を受けて西上戦を開始し、信玄率いる本軍が信濃から青崩峠を越えて遠江に入り、犬居城を経由して二俣城を取り囲んだ。しかし二俣城は頑として落ちず、2ヶ月に渡る包囲戦の上、水の手を断ち切ってようやく落城させた。武田方の支城となった二俣城には、武田氏の家臣依田信守・信蕃父子が城将として入った。その後信玄が病没し、家康は二俣城・犬居城を攻めたが、攻め落とすことができなかった。しかし、1575年5月、長篠の戦いで武田勝頼が織田・徳川連合軍に大敗すると一気に流れが変わり、翌6月、徳川勢は二俣城奪還の為に4つの付城(毘沙門堂砦・鳥羽山城・蜷原砦・和田ヶ島砦)を築いて包囲攻撃した。また別隊を差し向けて後方の中継拠点、光明城を攻略すると二俣城は孤立化したが、依田信蕃の守る二俣城は奮戦を続け、諏訪原城が落とされてもなお抵抗を続けたが、7ヶ月の籠城戦の後にようやく城を明け渡した。この時、信蕃は、二俣城から堂々と退去して高天神城に入城したと伝えられる。こうして二俣城奪還に成功した家康は、重臣の大久保忠世を城将とした。1579年には家康の嫡子信康が、織田信長の命で二俣城で自刃させられた。1590年、家康が関東に移封となると、忠世も小田原城に移り、二俣城には豊臣秀吉の家臣堀尾宗光(浜松城主となった堀尾吉晴の弟)が入城した。この堀尾氏の下で、二俣城は天守台を持つ近世城郭へと改修された。1600年の関ヶ原合戦の後、廃城となった。

 なお一説には、斯波・今川時代の二俣城とは笹岡古城を指し、現在の二俣城は永禄年間(1558~69年)に徳川氏が領有後、新たに築城したものであるとも言われていることを付記しておく。

 二俣城は、天竜川東岸に屹立する比高40mの城山に築かれた城である。連郭式を基本とした縄張りで、城域の8割程が公園化されている。遺構はよく残っており、枡形虎口・食い違い虎口を有し、石垣の天守台が築かれた本丸や、その南側の大手虎口を有した二ノ丸がある。各虎口には石垣が築かれている他、本丸・二ノ丸共に土塁が外周を巡っている。更に堀切を介して神社の鎮座する北曲輪があり、南にも堀切を介して蔵屋敷の曲輪が配置されている。蔵屋敷にも土塁が築かれ、南側の枡形虎口に臨む櫓台には石垣も残っている。更にその南にも堀切を挟んで南曲輪があるが、この辺りは藪化していて歩くのが大変である。更にその先に堀切があって、先端の物見台らしい土壇で城域が終わっている。この他にも東側と西側に腰曲輪が築かれ、特に西側のものは曲輪間を分断する竪堀が穿たれている。また、本丸の北側にも腰曲輪があるが、その先は北曲輪との間の堀切から落ちる大竪堀で分断されている。それほど技巧的とは言い難い縄張りだが、要所を押さえた造りになっており、歴戦の城の名残を感じさせる。
本丸北の大竪堀→DSC09248.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.861848/137.809229/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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光明城(静岡県浜松市天竜区) [古城めぐり(静岡)]

DSC09121.JPG←まるで城の様な寺院跡の石垣
 光明城は、甲斐武田氏が二俣城の背後の押さえとして重視した山城である。元々の創築は、享禄年間(1528~32年)に今川氏輝が北遠の押さえとして朝比奈時茂に築かせたものと言われ、後に朝比奈又太郎泰方が引き継いで在城したと伝えられる。元亀年間(1570~73年)に武田信玄が遠江に侵攻すると、武田方の支城となって城番が置かれるようになった。この頃に城としての体裁を整えたものと推測されており、1573年には武田勝頼が、犬居城・光明城・只来城・二俣城を巡検したことが知られている。光明城は、二俣と犬居、森方面からの街道が山中で交差する交通の要衝であり、犬居城と二俣城を結ぶ中継地点でもあった為、武田方の重要拠点であった。特に武田方からすれば、橋頭堡である二俣城を背後から守り、徳川勢の北遠侵攻を阻止するという役目も担っていたと考えられる。1575年5月、長篠合戦で織田・徳川連合軍が武田方に大勝すると、徳川家康は直ちに遠江攻略に乗り出し、翌6月、二俣城奪還に不可欠であった光明城を、家臣の本多忠勝、榊原康政らに命じて攻略させた。以後、徳川氏の支城となり、二俣城を攻略した後は、二俣城主大久保忠世がその家臣に光明城を守らせた。1582年の武田氏滅亡後、天正壬午の乱で徳川領が信濃まで拡張すると、光明城は戦略的意義が失われ、廃城となったと思われる。

 光明城は、光明山山頂から南南西約700mに位置する、標高489mのピーク上に築かれた山城である。ここには「光明山遺跡」があり、山上まで車道が通り、標識も出ているので迷うことなく来れるが、道路は途中あちこちで落石があり、かなり荒れていたので通るのが大変だった。光明山遺跡は、中世の光明城と近世の光明寺から成る複合遺跡で、光明城の主郭部に築かれた寺院跡は、近世城郭のものと見紛う総石垣の造りである。北側斜面に井戸が残っており、城があった当時も水の手として機能したのだろう。寺院跡から北東に「中曲輪」が広がり、腰曲輪を伴っている。ここには井戸らしき窪みがあり、今でも水が湧き出している。中曲輪の先にも曲輪があり、戦死した徳川方将士を弔った五人塚が築かれている。その先に小堀切があって城域が終わっている様である。近世の改変があるので、俄には判断し難いが、あまり高度な縄張りはなく、あくまで支城網を結ぶ中継拠点的な位置付けで運用された城だった様だ。ただこの山上からの景観は抜群である。
堀切→DSC09198.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.917221/137.858194/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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堀之内城山城(静岡県浜松市天竜区) [古城めぐり(静岡)]

DSC09056.JPG←東尾根の塁段
 堀之内城山城は、徳川家康が犬居城攻めの為に築いた付城と考えられている。犬居城主天野氏は、今川氏が弱体化すると、一度は徳川方に付いたが、その後武田信玄が遠江に進出すると武田氏に寝返って、翌72年の信玄の西上作戦で武田軍の先導を務めるなど、遠江における武田氏の尖兵として活動した。その為、徳川家康は激怒して犬居城を2度にわたって攻撃した。一度目の74年の攻撃では徳川軍は撃退されたが、翌75年には武田勝頼が長篠合戦で大敗し、76年に再び徳川軍は大挙侵攻し、犬居城を落城させた。堀之内城山城は、この2度に渡る犬居城攻撃の際に、徳川方の本陣として構えられたものと推測されている。

 堀之内城山城は、標高330mの「堀之内の城山」と呼ばれる山頂に築かれた山城である。犬居城からは、南東1.4kmの地点に位置している。山頂に仕切り土塁で区画された主郭とニノ郭を置き、北斜面に1段のやや広い腰曲輪と、東尾根に4段程度の段曲輪を連ね、2つの小堀切を穿っただけの、簡素な造りの小規模な陣城である。二ノ郭直下の段曲輪には浅い横堀も築かれている。また、主郭背後には土塁が築かれ、その脇に搦手虎口が造られている。この構造から考えると、現在道は途絶しているが、急峻な西斜面にも搦手道があった様である。陣城とはいえ、本格的な普請がされていることがわかる。

 同じ家康の築いた小笠山砦と比べると、規模はともかく、縄張りも大きく異なっており、徳川氏が西遠江での攻防の中で武田氏の築城技術を取り込んでいった過程を垣間見ることができる。また、谷戸を挟んで北西わずか400mの位置に、若身城山城があるが、こことの関係はわかっていない。犬居城攻撃の際には、若身城山城も当然徳川勢に押さえられたと思われるが、若身城山城だと犬居城の正面過ぎて、敵からもこちらの動きが丸見えになるため、わざわざちょっと奥の山に新たに堀之内城山城を築いたのかもしれない。

 尚、城址は近年、発掘調査が行われ、案内板も整備されているので遺構の確認がしやすい。ハイキングコースも整備されているので、藪漕ぎの苦労をすることなく遺構が見れる。
東尾根の堀切→DSC09097.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.952071/137.899787/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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若身城山城(静岡県浜松市天竜区) [古城めぐり(静岡)]

DSC09039.JPG←山頂付近の現況
 若身城山城は、歴史不詳の山城である。犬居城の外郭として、見張台か烽火台が天野氏によって築かれたと考えられている。
 若身城山城は、犬居城から気田川を挟んだ対岸の、標高290mの山上に築かれた山城である。山頂近くにはNHKの中継設備が建てられており、改変を受けている。山頂や、中継設備の前面の山林には平場があるが、土塁や堀切などの明確な遺構は皆無で、後世の改変の可能性もあり、城の遺構は不明である。ここから谷戸を挟んで南東わずか400mの位置に、犬居城攻撃の際に徳川勢が築いた付城、堀之内城山城があるが、若身城山城は明確な遺構もなく、徳川方に利用されたのかどうなのか、その位置付けも不明である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.954232/137.897075/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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犬居城(静岡県浜松市天竜区) [古城めぐり(静岡)]

DSC08923.JPG←竪堀と東曲輪の横堀・腰曲輪
 犬居城は、北遠の国人領主天野氏の歴代の居城である。天野氏は、源頼朝の側近であった天野遠景を祖とする鎌倉幕府の御家人で、承久の乱の後、山香荘の地頭となってこの地に入部した。1333年の倒幕戦の際には、天野経顕は一族を率いて新田義貞の鎌倉攻めに参陣して軍功を挙げた。南北朝時代には他の武家と同じく、一族内で南北両朝に分かれて抗争が繰り広げられたが、北朝方の一族が勢力を伸ばし、以後、周辺に徐々に勢力を扶植して、樽山城篠ヶ嶺城勝坂城などの支城網を構築して、北遠を代表する国人領主に成長した。戦国時代には遠江に進出した今川氏に属し、今川義元の時代にはその忠実な家臣となって各地を転戦して軍功を挙げ、北遠の要として位置付けられた。しかし1560年に今川義元が桶狭間で討死にすると、徳川家康は今川氏から独立して遠江攻略に乗り出し、天野氏も今川氏から離反して徳川氏に属した。その後、武田信玄が遠江に進出すると、1571年頃には武田氏に従属し、翌72年の信玄の西上作戦で武田軍の先導を務めるなど、遠江における武田氏の尖兵として活動した。その為、激怒した徳川家康から2度にわたる攻撃を受け、一度目の74年の攻撃は徳川軍を撃退した天野氏であったが、翌75年には武田勝頼が長篠合戦で大敗し、76年に再び大挙侵攻してきた徳川軍の前に犬居城を落とされた。天野氏は勝坂城に逃れて最後の抵抗を試みたが、衆寡敵せず、甲斐に逃れて没落した。この時、犬居城も廃城となった。

 犬居城は、標高250m、比高140mの行者山に築かれた山城である。東西に伸びる尾根上に曲輪を配した連郭式の縄張りであるが、随所に武田氏による改修の跡が見受けられる。ニノ郭全面に置かれた東曲輪は、周囲を横堀で固め、側方から土橋で腰曲輪と連結した構造で、丸子城のものに酷似している。またこの東曲輪と二ノ郭は堀切で分断されており、中央の土橋でニノ郭虎口に連結している。この堀切の南北は竪堀となって斜面を落ちているが、特に南側の竪堀は長大で規模が大きく、城への登り道が途中で竪堀を横断しており、その規模がよく分かる。主郭とニノ郭は段差だけで区画され、共に東西に長く南北に狭い曲輪で、削平はやや甘く、それほど大規模な建物は置けなかったであろう。主郭の西に一段高く物見曲輪がそびえ、その西側下方に堀切があって城域が終わっている。一方、城の主要部の北側斜面には腰曲輪が取り巻いており、一部には横堀が穿たれている。その更に下方に段曲輪があり、最下方に井戸曲輪がある。また東曲輪の北側にも堀切を挟んで広く平坦な出曲輪が築かれている。犬居城は、若干普請が不徹底な面も拭えないものの、「武田流築城法が随所に見られることから、天野氏が対徳川戦に備えて、元亀年間(1570~73年)頃に武田氏の支援を受けて大改修が行われたと考えられている」(静岡県の城総覧)と言う通りの良好な遺構である。
東曲輪から落ちる竪堀→DSC08880.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.961899/137.889994/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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篠ヶ嶺城(静岡県浜松市天竜区) [古城めぐり(静岡)]

DSC08816.JPG←三ノ郭の切岸と空堀
 篠ヶ嶺城は、犬居城主天野氏の支城で、室町期から天正年間(1573~92年)初頭まで存続した城である。城主としては天野氏の庶流天野安芸守虎景、その子宮内右衛門勝秀、その甥の和田河内守秀長らが在城したと伝えられている。おそらく徳川家康による天野氏攻略戦の中で廃城となったものだろう。

 篠ヶ嶺城は、北側が大きく蛇行する部分に東から張り出した山稜上に築かれた山城である。北西麓から山道が付いているが、民家と畑を突っ切るため、許可を得て登城した。麓の一段高い畑地と更にその上方20m程の所に広い平坦地が広がっており、往時は居館などが置かれていたと考えられる。その先の尾根筋を登って行くと、堀切の先に広く平坦な四ノ郭があり、その一段上に三ノ郭がある。四ノ郭と三ノ郭の間は、尾根道の西側だけにやや大きな空堀と急峻な切岸で区画防御されている。三ノ郭からニノ郭には、馬出し状の小郭を経由して登り、更に主郭へは城道を兼ねた土塁の上を伝って登っていく。主郭背後には搦手虎口があり、堀切を介して櫓台が築かれており、その周りを腰曲輪が取り巻いている。その先は細尾根となり合計2本の堀切が穿たれて城域が終わっている。シダなどの下草が冬でも繁茂し、藪が多く見辛いが、遺構は明瞭である。ただ、堀切・空堀はその配置から考えて、あまり分断機能が効果的ではなく、やや中途半端な縄張りに感じられる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.013063/137.901013/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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鹿ヶ鼻砦(静岡県浜松市天竜区) [古城めぐり(静岡)]

DSC08749.JPG←主郭と腰曲輪
 鹿ヶ鼻砦は、犬居城主天野氏の支城である。一説には、鹿ヶ鼻砦が天野氏が最後の抵抗を試みた勝坂城のことではないかと言われている。勝坂城の所在地には2説あり、気田川が大きく彎曲した部分に突き出した標高340mの城山と、その南西に位置する鹿ヶ鼻砦が候補とされている。
 鹿ヶ鼻砦は、入地山の南東に伸びる尾根の先端に築かれた砦である。比高80m程の、狭小な主郭と腰曲輪で構成された細尾根上の小規模な砦である。主郭背後の尾根には小堀切があり、その先の尾根筋を辿って行くと、その先にも木戸口の様な地形などが続き、詰丸の様な平場も見られる。想像していたよりも城域が長く、最後の抵抗拠点としてそれなりに機能した可能性が伺われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.064996/137.911537/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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