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古城めぐり(静岡) ブログトップ
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勝坂城(静岡県浜松市天竜区) [古城めぐり(静岡)]

DSC08747.JPG←勝坂城とされる城山
 勝坂城は、犬居城主天野氏の支城である。その創築は明確ではないが、1331年に天野氏が地頭職として犬居に入部して以来、犬居と奥山(水窪)の間にあって何らかの重要な関係があったと推測されている。天野氏は、武田信玄が遠江に侵攻すると早々とその麾下に入った為、徳川家康の武田氏攻撃が始まると、真っ先にその攻撃目標となった。1576年、徳川軍が大挙侵攻して樽山城を攻略して犬居城に迫ると、天野藤秀は犬居城を捨てて最奥の天険、勝坂城に立て籠もって最後の抵抗を試みた。しかし衆寡敵せず、遂に甲斐に逃れたと言う。
 勝坂城の所在地には2説あり、気田川が大きく彎曲した部分に突き出した標高340mの城山と、その南西に位置する鹿ヶ鼻砦が候補とされている。仮に前者とすると、現在は県道が通っている西の尾根続きは天然の大堀切となって遮断されており、急峻な独立丘陵となっている。あまりに急峻すぎて登坂できる道がなく、登城は断念せざるを得なかったので遺構は確認できていないが、一応山頂には狭小な平場があるらしい。小和田氏などは、ここが周囲の山から見下ろされる位置で、しかも展望が悪い地勢であることから、この城山を勝坂城とすることに否定的であるが、同じく天野氏の支城であった樽山城とよく似た地勢であり、その類似性から考えるとあながち否定し得るものではないようにも思うが如何であろうか?

 お城評価(満点=五つ星):-(未登城のため評価なし)
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.067515/137.918351/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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久野城(静岡県袋井市) [古城めぐり(静岡)]

DSC08662.JPG←大手から見た城址
 久野城は、駿河の今川氏親が遠江侵攻の拠点として築いた城である。明応年間(1492~1501年)に当地の国人領主久野宗隆が氏親の命で城を築き、城主となったらしい。以後、久野氏3代の居城となり、1568年、宗隆の孫宗能の時に徳川家康の麾下に入り、戦功を挙げた。1590年に家康が関東に移封となると、宗能も関東に移り、下総佐倉に入部した。代わって豊臣秀吉の家臣松下之綱(実は秀吉の若い頃の恩人)が久野城主となり、2代続いたが1603年に咎により移封され、その後には再び久野氏が再封、その後、北条氏重が城主となったが、1640年に関宿城に移ると、久野城は廃城となった。
 久野城は、比高15m程の小丘に築かれた城である。現在城の全域が城址公園として整備され、遺構が綺麗に整備されている。本丸を中心にして、周りに二ノ丸・三ノ丸を始めとした多数の腰曲輪群で囲んだ縄張りで、近世初頭まで使われた城にしては、規模は小ぢんまりしていて、中世城郭的雰囲気が強い。特に本丸北東の小堀切と独立堡塁が築かれた部分などは、中世的遺構であろう。往時は周囲を低湿地帯に囲まれた城だったらしく、小さな丘城ではあるが屈指の要害となっていた様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.766541/137.929467/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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馬伏塚城(静岡県袋井市) [古城めぐり(静岡)]

DSC08575.JPG←南郭群の馬出し郭跡
 馬伏塚城は、徳川家康が改修した、高天神城攻略の為の作戦拠点である。築城時期は明確ではないが、1501年に駿河の今川氏親が遠江の斯波氏勢力と、遠江の支配を巡って激しい戦闘を繰り広げた際には、久野城天方城と共に今川方の拠点となった。明確に確認できる最初の城主は小笠原春茂で、福島正成が今川氏に背いて小田原北条氏の元に逃れると、高天神城主も兼帯した。その子氏清も今川氏に属して、馬伏塚城・高天神城両城主を務めたが、1568年に今川氏から離反して徳川家康に仕え、69年に没した。1574年6月、武田勝頼が高天神城を攻略すると、徳川家康は馬伏塚城を修復し、大須賀康高に守らせて武田氏に備えた。翌75年、長篠合戦で大敗した勝頼は劣勢となり、反転攻勢に出た家康は馬伏塚城を高天神城攻めの前線基地とした。1578年に新たな前進基地として大須賀康高に横須賀城を築かせると、康高をそのまま横須賀城将に据え、1580年に高天神城攻めが本格化すると、高力与左衛門清長を馬伏塚城主とした。その後、高天神城が落城、更に82年には武田氏が滅びると馬伏塚城はその戦略的価値を失い、同年8月、清長が田中城に移ると、馬伏塚城は廃城となった。

 馬伏塚城は、平地の只中の低台地を利用して築かれた城で、大きく北郭群と南郭群に分かれている。宅地化で改変されているが、遺構は比較的明瞭である。特にその形状がわかりやすいのが南郭群で、曲輪跡は周囲の水田より一段高くなっていて、主郭には土塁・櫓台が残り、周囲には堀跡や馬出しが残っている。北郭群はより改変が進んでいるが、民家に変貌した主郭には土塁らしき跡が残り、西側には堀跡が残っている様である。また居館域であったと推測されている了教寺のある高台にも、北端に堀跡らしい窪みと切岸が残っている。宅地化されている割には、往時の縄張りをよく残した城である。

お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:【北郭群】http://maps.gsi.go.jp/#16/34.712355/137.933532/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

    【南郭群】http://maps.gsi.go.jp/#16/34.710521/137.933747/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0


戦国静岡の城と武将と合戦と

戦国静岡の城と武将と合戦と

  • 作者: 小和田 哲男
  • 出版社/メーカー: 静岡新聞社
  • 発売日: 2015/02
  • メディア: 単行本


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岡崎の城山(静岡県袋井市) [古城めぐり(静岡)]

DSC08562.JPG←横矢の掛かる堀跡
 岡崎の城山は、岡崎城とも呼ばれ、歴史不詳の城である。伝承では土豪の四ノ宮右近の城と言われるが、現在見られる遺構からは戦国末期の陣城としての可能性が指摘されることから、高天神城攻略の前進基地の一つとして、馬伏塚城と最前線基地の小笠山砦との中継拠点として築かれたのではないかとも言われている。
 岡崎の城山は、北八雲神社が鎮座する、比高10m程の丘陵上に築かれている。東西2郭から成る比較的簡素な縄張りの城で、中央に2郭を分断する堀が穿たれている。この堀は空堀ではなく、丘陵上にあるのに水が溜まって水堀となっており、湧き水でもあるのであろうか?また堀には横矢が掛かっており、クランク状に曲がっている。東郭はほとんど茶畑に変貌しているが、東端に土塁が築かれ、その先は切り通し状になった小道が貫通しており、堀切として穿たれたものらしい。西郭は、中央の堀に沿って土塁が築かれ、東西2郭を繋ぐ土橋の先には虎口が形成されていた様である。堀のような窪地も曲輪内の虎口付近に確認できる。しかしその先は物凄いガサ藪で、遺構がほとんど確認できないのでそれ以上の突入は断念した。もう少し整備されていれば良かったのにと惜しまれる。また静岡の城にしては珍しく、標柱も解説板もないのもちょっと残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.704347/137.945591/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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横須賀城(静岡県掛川市) [古城めぐり(静岡)]

DSC08498.JPG←松尾山外周の空堀
 横須賀城は、徳川家康が遠江の要衝高天神城奪還の為に築いた拠点城郭である。1575年、長篠合戦で大敗した勝頼は劣勢となり、徳川家康に西から徐々に蚕食されて諏訪原城も陥落し、高天神城は徳川領東部沿岸域に孤立した突出点となった。家康は、高天神城に対抗する拠点として馬伏塚城を築いていたが、1578年、前進基地として大須賀康高に命じて横須賀城を築城した。その後、周囲を完全包囲され兵糧攻めにあった高天神城は、武田氏から後詰めを放棄され、降伏も許されず、1581年城兵は玉砕して落城した。しかし横須賀城は、その後も廃されることなく近隣支配の拠点となり、近世城郭として整備拡張された。大須賀氏の後、渡瀬氏、有馬氏、松平氏、井上氏、本多氏と城主が変遷し、1682年以降は西尾氏が城主となって幕末まで存続した。

 横須賀城は、南を遠州灘に望む交通の要地に築かれた平山城である。東西に長く伸びた、広大な城域を持ち、通常は一つしかない大手門を東西2ヶ所に持つ特徴的な縄張りとなっている。本丸周辺は城址公園として整備され、遺構が復元されている。玉石垣で築かれた石垣を持つ珍しい城で、礎石の残る天守台を持ち、更に東と西には空地となった二ノ丸と三ノ丸が置かれている。また本丸の北東には松尾山という小山があり、物見台として機能した様である。この松尾山の北面には大きな空堀が残っており、この付近は中世城郭であった頃の雰囲気を残している。一方、二ノ丸外周の堀跡は、僅かな窪地や水路に変貌している。城の南面には外郭の堀があり、現在は宅地化されているが、櫓台や堀跡が段差として残っていて、往時の縄張りが大体把握できる。この他、遺構はないが、大手門などの標柱が多数建てられており、時間を掛けて歩けば、中々楽しめる。
本丸付近の玉石垣→DSC08386.JPG
DSC08443.JPG←外郭の堀跡・櫓台跡
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.685364/137.971448/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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黒田代官屋敷(静岡県菊川市) [古城めぐり(静岡)]

DSC08302.JPG←屋敷外周の水堀
 黒田代官屋敷は、徳川家の直参旗本本多日向守の知行地を支配する代官所跡である。黒田氏は、越前黒田庄を領した黒田下野守義次を祖とし、永禄年間(1558~69年)に8代九郎大輔義則が遠江に移住し、今川義元に仕えたとされる。今川氏没落後は徳川家康に仕えて高天神城主小笠原長忠の組下となった。1574年、武田勝頼によって高天神城が攻め落とされると、義則・義得父子は城を出て平川村へ戻り、帰農した。江戸時代に入り、岡崎城主本多忠利の庶長子助久が1645年に当地を分地されると、黒田氏はその代官となって幕末まで存続したと言う。
 黒田代官屋敷は、現在国の重要文化財に指定されている。周囲を水堀で囲まれたほぼ方形の中世居館の形状を残しており、また内部には江戸時代の長屋門や主屋、蔵なども残っていて、往時の雰囲気そのままという感じである。現在でも黒田家の方が住んでいるが、建物内部以外は一般に公開されており、その寛大さには頭が下がる思いである。訪問時は、まだ梅が咲き始めたばかりの頃で、宅内の梅を見に訪れている人も多かった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.699090/138.084272/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:陣屋
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堤城(静岡県菊川市) [古城めぐり(静岡)]

DSC08245.JPG←主郭背後の堀切
 堤城は、今川氏親の家臣松井左衛門尉信薫の城と言われている。松井氏は、横地城主横地氏とも古くから関係が深かったが、南北朝時代には既に今川氏の被官となっていた。堤城は永正年間(1504~21年)頃に築かれたと推測されており、1514年に信薫は、氏親の命で二俣城に移り、その後は弟の宗信が城主となり、その宗信も1529年に二俣城に転出した。それ以降に堤城は廃されたと推測されている。
 堤城は、比高35m程の丘陵上の城で、現在は主郭(千畳敷)を始め、城域の大半が茶畑に変貌している。その為、遺構は必ずしも明確ではないが、主郭の東尾根に深さ5m程の堀切があり、その東側に祠の祀られた物見台らしい小郭があり、その更に東には「塩の道」と言われる相良街道が切通し道となって横断し、これも堀切として機能していたと考えられる。この他、西にやや離れて、城山と呼ばれる出丸があり、ここにも堀切が穿たれている。出丸の中腹には松井信薫のものとされる墓が残っている。
切通し状の相良街道→DSC08227.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.712143/138.084918/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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八幡平の城(静岡県御前崎市) [古城めぐり(静岡)]

DSC08146.JPG←主郭~ニノ郭間の二重堀切
 八幡平の城は、新野古城とも呼ばれ、歴史不詳の山城である。元はこの地域の領主であった新野氏が新野新城の詰城としていたものを、戦国後期に遠江に進出した武田氏が、高天神城への軍道の押さえとして改修したと考えられている。
 八幡平の城は、想慈院西側の比高50m程の丘陵上に築かれた城である。新野新城の東北東600m程の位置にある。平坦で広い主郭とニノ郭から成る縄張りは高橋ノ城によく似ているが、より技巧的なもので、武田流らしい特徴を随所に備えている。まず主郭とニノ郭の東面に横堀を集中配置した縄張りで、横矢も掛かった横堀と腰曲輪の形状は、丸子城に似ている。特に主郭の東斜面では二重横堀となっており、最下方に馬出しとされる出曲輪を備えている。主郭・ニノ郭から派生する尾根には堀切が効果的に配置され、特にこの城では二重堀切が多用されている。城域の北端・南端・西端など、その数は合計で5ヶ所にも及ぶ。その配置は現地解説板の縄張図にも明らかであるが、1ヶ所、主郭の西尾根の物見台の北側に、縄張図にない二重堀切が存在していた。また主郭とニノ郭を繋ぐ尾根筋にも二重堀切があり、この配置は高橋ノ城と酷似している。曲輪外周を巡る横堀や二重堀切の多用など、武田氏の築城術を堪能できる技巧的縄張りの城である。
主郭東側の横堀→DSC08065.JPG
DSC08115.JPG←縄張図にない二重堀切
ニノ郭東側の堀切と櫓台→DSC08183.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.682875/138.128208/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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新野新城(静岡県御前崎市) [古城めぐり(静岡)]

DSC07974.JPG←主郭南尾根の鋭い堀切
 新野新城は、舟ヶ谷城とも呼ばれ、今川氏の庶流新野氏の城と伝えられている。新野氏は、嘉吉の乱や応仁の乱の際に今川氏の部将としてその名が見られ、今川義忠が塩買坂で討死した後の家督問題に際しても、今川一族の重臣としてその名が確認できる。新野氏で有名なのは戦国時代の武将新野左馬助親矩で、親矩と妻は、井伊直親が謀反を疑われて今川氏真に誅殺された際、後に徳川四天王となる幼い井伊直政を身を以って匿い、守り通した。1564年親矩は、主君氏真の命で、今川氏に背いて徳川氏に通じた飯尾豊前守連竜を曳馬城に攻めたが、苦戦の末討死した。

 新野新城は、新野川東岸の比高60m程の山上に築かれた城である。この付近の城にしては珍しく解説板も案内板もなく、明確な登城道もないので、西麓の茶畑の先端辺りから適当に斜面に取り付いて直登するしかない。新野新城は大規模な堀切が穿たれた城で、5m程の深さの鋭い堀切が周囲の尾根筋に多数構築されている。しかし肝心の主郭は採土で消滅しているらしく、山頂部には細尾根だけで平場は確認できない。しかし周囲に腰曲輪が数ヶ所見られ、一部には井戸跡の窪みもある。また主郭北側には二ノ郭らしい平場と、更にその北に北出丸らしい小ピークがあり、それぞれ大小の堀切で分断されている。採土による破壊で、縄張りがわかりにくい部分もあるが、主郭の北東部分以外はほぼ遺構が残存している様である。現存遺構から考えると、主郭も狭小な平場に過ぎなかった様に推測される。この付近の城には珍しい、南尾根の鋭く深い薬研堀が印象に残る城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.681375/138.121041/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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高橋ノ城(静岡県御前崎市) [古城めぐり(静岡)]

DSC07829.JPG←堀切と主郭虎口
 高橋ノ城は、「天ヶ谷の城平」とも呼ばれ、歴史不詳の城である。室町時代後期から戦国時代にかけての頃に、この地の在地領主(高橋氏か)が築いた城と考えられている。1545年に今川義元が、高橋ノ城の北に位置する竜源寺に宛てた文書に、この地の地頭高橋左近将監の名があり、この城との関係が指摘されている。また縄張り面からは、武田氏による改修の可能性も推測されている。

 高橋ノ城は、釜原城の尾根続きの比高40m程の山上に築かれた城である。釜原城からは650m程しか離れておらず、新野新城とも新野川を挟んで1.1km程しか離れていないが、両城との関係は不明で、縄張り面でも類似性は少ない。かなり広大な城域を有した城で、現地解説板の縄張図では、土塁で囲まれた楕円形の主郭と三角形状のニノ郭から構成されているとしているが、実際には主郭の更に北のピークにも出丸が存在し、更にその北の主郭から300mも離れた所にも遺構が存在する。新野地区の神明神社の150m西にある登り口から北へと登って行くと、茶畑の広がる広い平地に至り、その西端から城跡への尾根道に繋がるが、この部分には櫓台状の土壇と二重堀切、腰曲輪が確認できる。この先の尾根道にも、途中に2~3本の明確な堀切が確認できる。前述の北のピークの出丸は、古墳(天ヶ谷1号墳)らしいのだが、ピーク上に明確な削平跡があり、東の尾根には堀切が穿たれ、南にも大空堀らしい窪地が構築されている。この出丸は位置的に古墳を利用した北の物見台であったと考えられる。ここから主郭に向かって更に南下すると、主郭手前には深い谷戸が天然の大空堀となって登城道を防御しており、そこからの登道には2本の堀切があって主郭虎口に通じている。主郭は低い土塁で囲繞された曲輪で、西側には腰曲輪に通じる虎口があり、そこを降ると横堀状の腰曲輪が築かれている。主郭の南側には枡形虎口が築かれ、二重堀切を介してニノ郭に繋がっている。ニノ郭は虎口に櫓台が備えられ、曲輪内部は耕作放棄地でガサ藪となっている。ニノ郭南端にも櫓台を備えた枡形虎口が構築され、そこから派生する尾根には東西にそれぞれ堀切が穿たれ、特に西尾根には二重堀切で防御を厳重にしている。またニノ郭東端にも堀切が穿たれている。以上が遺構の概要である。

 高橋ノ城は、堀切と連携させた枡形虎口など、この付近の城では「八幡平の城」と並ぶ技巧的な縄張りで、他の城とは一線を画しており、確かに武田氏の関連が強く類推される良好な遺構である。
北出丸東側の堀切→DSC07801.JPG
DSC07841.JPG←主郭西側の横堀
櫓台を備えたニノ郭搦手虎口→DSC07920.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.677582/138.109421/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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釜原城(静岡県御前崎市) [古城めぐり(静岡)]

DSC07716.JPG←尾根筋の堀切
 釜原城は、歴史不詳の城である。一説には、城主は聖道寺の前身の寺の大旦那で、南北朝時代の戦いで落城したとも言われているが、定かではない。
 釜原城は、新野川西岸に連なる丘陵上の一角に築かれた比高40m程の平山城である。東の谷戸(殿之谷)からの登ると、NTTの中継所の建つ茶畑放棄地のニノ郭があり、その先に土塁と片堀切が築かれて、主郭に繋がっている。主郭も耕作放棄地となっており、かつての耕地化で往時の形状はあまりはっきりしない。しかし外周の一部に土塁が残り、また主郭から北に派生する3つの尾根にはそれぞれ深さ3m程の小堀切が良好に残っている。この形状は、勝間田城穴ヶ谷城とよく似ており、それから推測すれば勝間田氏による築城とも考えられるが、勢力圏としては横地氏のものと見る方が自然であろう。勝間田氏と横地氏は、今川義忠の遠江侵攻に対して共闘するなど、関係が密接であったので、築城技術でも関係があったのかもしれない。また主郭から西に向かって細尾根が伸びており、西の出丸に繋がっている。この出丸も耕作放棄地のガサ藪で突入は断念した。間を結ぶ尾根には、一騎駆け状の土塁や小堀切が残っており、主郭と出丸の間を分断した一城別郭構造となっていた様である。耕地化により破壊されてはいるものの、尾根筋の堀切などがよく残る城である。
出丸との間の一騎駆け土塁→DSC07745.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.671773/138.110229/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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相良城(静岡県牧之原市) [古城めぐり(静岡)]

DSC07660.JPG←二ノ丸の土塁跡
 相良城は、江戸時代後期に老中として専権を振るった田沼意次が築いた近世城郭である。しかしその前身は、戦国時代末期にまで遡る。即ち、長篠合戦で大敗後、徳川家康に遠江に侵攻され、諏訪原城まで落とされて劣勢となっていた武田勝頼は、1576年3月、要衝高天神城を死守するため、兵站基地として高坂弾正に命じ相良古城を築いたとされる。また同じ年には、武田・徳川両水軍によって相良沖海戦が行われ、相良古城が武田水軍の根拠地でもあったことが推測されている。1581年に高天神城が徳川氏に攻め落とされると、相良古城も徳川氏の持ち城となり、その後、松平家忠に命じて城を修築した。しかし翌82年に武田氏が滅亡すると、遠江・駿河は徳川領となり、戦略的意義を失った相良古城は、小山城滝堺城と共に廃城となった。1584年には、家康は古城の一部を改修して鷹狩りの際に使用する相良御殿とした。しかし元和以降は荒廃し、江戸中期の1710年に至って、寺社奉行本多忠晴が入封し初代相良藩主となり、旧御殿地に居館造営を手掛けたが、1746年に陸奥泉に移封となり、同年、若年寄板倉勝清が入封して城地の拡張整備に着工したが、間もなく移封となった。1758年、将軍家重・家治によって重用された側用人田沼意次が相良藩主となった。意次は更に昇進を重ね、1767年、2万石に加増されて、家治から相良築城を許された。翌68年、相良城は近世城郭として新たに築城が開始され、1780年に11年の歳月を掛けて竣工した。往時は田沼全盛時代を象徴する壮麗な城であったというが、1782年頃から始まった天明の大飢饉と、1784年に子の意知が幕臣佐野政言に江戸城中で殺害されて以降、権勢は次第に衰え、86年、家治の死と共に失脚した。その後、松平定信が老中となると、田沼氏は陸奥に移封となり、1788年、相良城は収公の上、徹底的に破却された。着工以来わずか20年の短命の城であった。

 相良城は、萩間川が河口付近で大きく蛇行する部分の西岸に築かれた平城である。往時は2重3重に堀を巡らした城であったらしいが、徹底的な破却とその後の市街化で、往時の遺構はほとんど残っていない。わずかに相良小学校校庭の南端に二ノ丸土塁跡が残るだけである。この他では仙台河岸と呼ばれる石垣遺構があるらしいが、時間もなく見つけられなかった。尚、藤枝市の大慶寺に本丸御殿が移築されて残っている。
大慶寺に残る御殿→DSC05035.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.686122/138.198341/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:近世平城
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穴ヶ谷城(静岡県牧之原市) [古城めぐり(静岡)]

DSC07615.JPG←西郭南端の堀切・土橋
 穴ヶ谷城は、室町時代に勝間田城主勝間田氏が築いた城である。城主としては勝間田十郎正次の名が伝わっているが、詳細は不明である。おそらくは1476年に遠江に侵攻した今川義忠によって、勝間田城、横地城などと共に攻め落とされたのであろう。
 穴ヶ谷城は、標高114.8m、比高105m程の山上に築かれた山城である。南東麓の小仁田薬師堂のところから茶畑の中を道が伸びており、それを登っていけば城に到達できる。東郭・西郭の2つの曲輪で構成された城で、2つの曲輪とも茶畑に変貌しているが、遺構は思いの外よく残っている。まず入口に当たる東郭の南東端には二重堀切と土塁がはっきりと残っていて、この付近だけは郭内にも高さ2m程の土塁が残っている。他にも東郭の北東端と西郭の北端・南端角部の尾根筋に、はっきりと堀切が残っており、特に西郭南端のものは土橋も明瞭である。東西2郭の間は、かつては堀切が穿たれた細長い中間郭で繋がっていた様だが、耕地化と通信設備建設で破壊されており、わずかに北辺の土塁の一部が削り残されている。堀切の配置や規模など勝間田城とよく似ており、築城主体が同じだったことがよくわかる。尚、かつては城址南麓を走る県道脇に解説板が建っていた様だが、既に撤去されていた様だった。
東郭北端の堀切→DSC07598.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.760878/138.207877/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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岩尻山砦(静岡県沼津市) [古城めぐり(静岡)]

DSC07463.JPG←S字状土橋と食い違い堀切
 岩尻山砦は、海賊城として名高い長浜城の背後に築かれた出城である。平成8年に確認された城で、下方に位置する網代山砦と共に、1579年の武田氏との抗争期に築かれた可能性が指摘されている。
 岩尻山砦は、標高90mの山上に位置している。小規模な山城であるが、網代山砦よりもしっかりした普請がされた城で、主郭の周囲に数段の腰曲輪を廻らし、城道は一旦南側の腰曲輪に回りこんでから広めの腰曲輪と主郭に繋がり、主郭には坂虎口が築かれるなど内部の動線が明瞭である。背後の南東尾根には岩盤を断ち切った天然の堀切が穿たれ、また南西の支尾根には食い違い堀切が穿たれたS字状土橋で小郭と連結されている。網代山砦と同様、西麓の光明寺背後の墓地に伸びている道を登り、尾根上の給水設備から東に尾根を登っていくと行くことができる。網代山砦よりも薮が少ないので、遺構も確認しやすく、お勧めである。
主郭の坂虎口と腰曲輪→DSC07472.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.015436/138.891001/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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網代山砦(静岡県沼津市) [古城めぐり(静岡)]

DSC07431.JPG←堀切
 網代山砦は、海賊城として名高い長浜城の背後に築かれた出城である。近年確認された城で、より上方に位置する岩尻山砦と共に、1579年の武田氏との抗争期に築かれた可能性が指摘されている。
 網代山砦は、ほぼ単郭に近い小規模な城である。狭小な主郭の前面には2段程の腰曲輪があり、その先は県道建設で削られてしまっている。主郭は薮ではっきりしないが、井戸跡の様な窪みもある。主郭背後の尾根には細長い曲輪が続き、その先に深さ3m程の小堀切が穿たれている。以上が遺構の全てである。この城へ行くには、西麓の光明寺背後の墓地に伸びている道を登り、尾根上の給水設備から北西に尾根を辿っていくと行くことができる。
主郭前面の腰曲輪→DSC07440.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.016852/138.888935/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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鷲頭山砦(静岡県沼津市) [古城めぐり(静岡)]

DSC07335.JPG←尾根道の二重堀切
 鷲頭山砦は、小田原北条氏が築いた砦である。1569年に武田信玄が駿河に再侵攻した際、北条氏康の命によって雲見上の山城主高橋氏高が築いたと言われている。その後一旦、甲相同盟が結ばれて和睦したが、越後上杉氏の内乱「御館の乱」を巡って北条氏政と武田勝頼は再び対立し、両軍は駿河東部で激しい攻防を繰り広げた。その中にあって、伊豆半島西岸の要衝獅子浜城の背後を扼し、駿河湾全体を俯瞰できる鷲頭山砦は、物見番所としての機能と、伊豆半島西岸部の水軍基地から内陸部の韮山城への狼煙網を中継する機能を併せ持ち、極めて重要な砦であったと考えられる。

 鷲頭山砦は、獅子浜城の背後にそびえる標高392mの鷲頭山山頂に築かれている。鷲頭山と東方の大平山を結ぶ稜線は、沼津アルプスと呼ばれ、多数のハイカーで賑わうトレッキングコースとなっている。その為、登り口さえ間違えなければ、道や案内板が整備されているので、迷わずに登ることができる。(私は参考にしたHPに、間違ったルートマップが載っていた為、登り口を間違え、途中で道が途絶し、大変な目に遭った。)但し、登頂比高は高く、稜線に取り付いてからも砦までは尾根縦走の長いルートであるので、それなりの装備と覚悟が必要である。多比口から登って稜線に取り付き、この縦走ルートを西に辿ると、砦からかなり離れた位置に堀切や段曲輪の遺構が確認できる。一部は二重堀切を穿つなど、この尾根上の連絡路をかなり重要視していたことが伺われる。何しろ、この道を北東に辿れば大平新城に至り、鷲頭山から北に行けば戸倉城に通じる要路であったのである。これらの遺構を見ながら登って行くと、ようやく山頂の主郭に到達する。主郭は広い平場となっており、西側に土塁状の高まりが見られる。東側や南側には数段の腰曲輪を伴っている。主郭北側には土塁囲郭のようなものがあるらしいが、冬でも藪が深く不明である。主郭から北西に尾根を下って行くと、標高330mの小鷲頭山があり、ここも出曲輪であったと考えられている。ここには「中将さん」と呼ばれる平重衡の「終焉切腹之場」が祀られている。(ただの伝説であろうが。)小鷲頭山の北西の尾根を下って行くと、岩場の先に堀切があり、備えを固めていることがわかる。遺構としてはささやかであるが、駿東での抗争の際に重視された砦として、貴重である。
山頂の主郭→DSC07364.JPG
DSC07396.JPG←小鷲頭山の先の堀切
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.059334/138.893956/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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笹岡古城(静岡県浜松市天竜区) [古城めぐり(静岡)]

DSC07143.JPG←山頂の主郭らしき平場
 笹岡古城は、歴史不詳の城である。一説には、戦国時代初期に斯波氏、今川氏が戦略拠点とした「二俣城」とは、この笹岡古城のことを指しているとされる。現在の天竜区役所の敷地からその背後の本城山にかけての一帯が城跡であったが、本城山の詰めの曲輪以外は、区役所建設の際に城地の大半が破壊され、遺構はほとんど残っていないとされる。
 しかし本城山はともかくも山容を留めているので、遺構がないかと周囲を探索したところ、本城山の背後の尾根に伸びる道があり、そこから尾根鞍部に取り付くと、山中の散策路があり、その入口に小堀切状の切れ込みがある。ここから山裾にかけて平場が広がっており、腰曲輪だった可能性がある。その背後は急峻な岩場の断崖となっており、そこを迂回して斜面を直登すると、頂上には鉄塔などの建つ平場が広がっており、これが主郭(詰ノ丸)であったと思われる。主郭前面には小さな建物と鉄塔の立つ一段低い平場があり、ニノ郭であったと考えられる。その前面にも、帯曲輪・腰曲輪らしき平場が数段残っている。ここから山道が降っており、辿ってみたら最初に尾根へと登った道の途中に出た。もしかしたらこれが大手道だったかもしれない。その他では、区役所の脇に高台が残っており、曲輪の一部だったとも言われているが、現在では破壊が進み、確かめる術がない。
腰曲輪らしき平場→DSC07152.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.873433/137.815021/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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鶴ヶ城(静岡県浜松市天竜区) [古城めぐり(静岡)]

DSC07011.JPG←主郭周囲の横堀
 鶴ヶ城は、歴史不詳の山城である。一説には、1565年に鶴山大磯之丞という武士が築いたとも言われるが、定かではない。横堀が使われる縄張りから、遠江に進出した武田氏か、武田氏から遠江を奪い返した徳川氏によって築かれた可能性も指摘されている。
 鶴ヶ城は、天竜川の支流相川が大きく蛇行し、奈根川と合流する地点に突き出した、標高320m、比高100mの山上に築かれている。途中まで未舗装の車道があり、そこから登れば比高は40m程しかない。車道からの入口は、一騎駆け状の細尾根になっており、中央に土塁があり両脇に横堀状の道が伸びており、古道のあとであろうか?城までの途中には物見台らしい小ピークがあり、この物見台の南側基部にも小堀切が穿たれている。物見台の先は両側を竪堀で掘り切った一騎駆けとなり、ここから本城域に入る。ほぼ方形の主郭を中心に、周囲に横堀を廻らし、主郭の北側だけ土塁が築かれている。主郭は北東部だけが内側にえぐれた形になっており、横矢掛かりとなっている。主郭周囲に派生する尾根にはそれぞれ、堀切が穿たれ、その先に曲輪が設けられている。主郭北西隅から下方へは竪土塁が築かれ、横堀を分断している。主郭南側の馬出しから、西曲輪に繋がる動線には竪堀が穿たれ、動線を拘束している。縄張りとしては割と平易で、規模も決して大きなものではないが、各所に小技が効いた構造となっている。但し私見では、この縄張りからは武田氏の関連はあまり感じられなかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.033510/137.720650/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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高根城(静岡県浜松市天竜区) [古城めぐり(静岡)]

DSC06932.JPG←三ノ郭の二重堀切
 高根城は、久頭郷城とも呼ばれ、国人領主奥山氏の居城である。奥山氏は、水巻城・若子城・小川城等の支城に一族を配し、一帯を支配していたとされるが、確かなことはわかっていない。戦国時代に入る頃には、奥山氏は遠江に勢力を拡張した今川氏の支配下に入ったが、永禄年間(1558~69年)に武田信玄が遠江に侵攻すると、間もなくその勢力下に組み入れられ、1572年には武田軍が在番可能な城となっていたことが、信玄の書状から判明している。この武田氏支配時代に高根城は大きく改修され、現在残る形となったと考えられている。しかし長篠合戦で大敗し、坂道を転げ落ちるように転落への道を歩みだした武田氏の勢力が、1576年に遠江から一掃されると、高根城は廃城となったと推測されている。

 高根城は、水窪川東岸にそびえ立つ標高410m、比高170mの山上に築かれた山城である。発掘調査の結果に基づいて復元整備が実施され、時代考証に基づいて櫓、掘立建物、城門、土塀、柵列等が復元されて、戦国山城の姿を現代に蘇らせている。比較的小規模な連郭式の城で、主郭・二ノ郭・三ノ郭から構成され、各々の曲輪は堀切で分断し、主郭とニノ郭の間には、馬出し状の枡形門が築かれている。この門の脇には、県内で唯一確認されたとされる武田氏時代の石垣が残っている。三ノ郭の先は二重堀切で分断されているが、内側の堀切は円弧状となり、更に横堀と接続したやや複雑な形状をしている。この他、主郭周囲などに数段の腰曲輪が築かれている。山上に、これ程見事に中世城郭の姿を復元した例は珍しく、一度は行くべき城の一つである。
武田氏時代の石垣→DSC06947.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.149885/137.867251/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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若子城(静岡県浜松市天竜区) [古城めぐり(静岡)]

DSC06797.JPG←南尾根の二重堀切
 若子城は、大洞若子城とも言い、高根城主奥山氏の支城である。室町~戦国時代の頃に奥山氏の庶流奥山加賀守定吉が築いたと言われ、兄の高根城主奥山美濃守定茂と不和で、定茂に攻め落とされて、定吉は追放されたと伝えられている。
 若子城は、水窪川東岸にそそり立つ標高310m、比高90mの山城である。先端の山頂に主郭を置き、南尾根に小郭と数本の堀切を配しただけの単純な縄張りの小規模な城である。小さな主郭には、城主加賀守を祀った若子神社が建てられている。主郭の北尾根下方にも物見曲輪の様な小郭が置かれ、沢筋からの尾根道を防御している。主郭の南側には10m程降ってニノ郭と思われる小郭があり、その先を二重堀切で分断防御している。この二重堀切は、2本目は深さ4m程もあり、この手の小城にしては規模が大きく見応えがある。更にその先にも細長い平場の先に小規模な堀切が穿たれて、城域が終わっている。尚、城址東側の谷戸には緩斜面の農地が広がっているが、街道筋から隠れるように位置しており、城に隠れた屋敷跡だったものだろうか?

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.133241/137.864323/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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鳥羽山城(静岡県浜松市天竜区) [古城めぐり(静岡)]

DSC06700.JPG←主郭北側の腰曲輪群
 鳥羽山城は、徳川家康が武田軍の守る二俣城を攻略するため、本陣を敷いた城である。しかし発掘調査の結果では、もう少し築城年代が遡る可能性が指摘されており、当初から二俣城と別城一郭的な関係で使用されていたと考えられている。いずれにしても、鳥羽山城が明確に歴史上に姿を表すのは二俣城攻防戦の時である。1575年5月の長篠・設楽ヶ原の戦いで、勝ちにはやる武田勝頼は、織田・徳川連合軍を強攻して大敗し、信玄以来の多数の重臣を失った。この戦いを境として、遠江での攻守は逆転し、間もなく徳川家康は二俣城を奪回する為、鳥羽山城・毘沙門堂砦・蜷原砦・和田ケ島砦といった付城群を築いて、二俣城を完全包囲した。中でも鳥羽山城には本陣が置かれ、重臣の大久保忠世を置いて守らせた。兵糧攻めに遭った二俣城が、7ヶ月後に落城すると、鳥羽山城は歴史の表舞台から姿を消すが、廃されることなく存続して順次拡張されたらしい。徳川氏の関東移封後は、二俣城と共に豊臣秀吉の家臣堀尾氏の持ち城となり、この時期に大きく整備されたと考えられている。特に鳥羽山城は、発掘調査の結果、幅6mの大規模な大手道や庭園遺構が確認され、迎賓館的な位置付けで使用されたものと推測されている。

 鳥羽山城は、天竜川が大きく蛇行した部分に半島状に張り出した台地上の鳥羽山に築かれている。城址は現在、鳥羽山公園に変貌しているが、遺構は良く残っている。特に主郭周囲の土塁や虎口付近の石垣(大手門、搦手門など)、主郭周囲の腰曲輪、笹曲輪、腰巻き石垣など、公園化されながらも往時の面影を色濃く残している。また、主郭・ニノ郭の西側に連なる尾根には、2つの中規模の堀切が明瞭に残り、更にその先の尾根を貫通する車道も、往時の巨大堀切であったらしい。この巨大堀切は、更に東側の大堀切と共に深さ15~20m程もある絶壁状の薬研堀で、往時からこの規模であったとすれば八王子城太鼓曲輪の大堀切に匹敵する巨大さである。本当に元々この規模の堀切であったのか、やや疑いも残るが、いずれにしてもかなりの大堀切であったことは間違いない様だ。公園化でかなり整備されている割には、十分楽しめる城址である。
堀切→DSC06620.JPG
DSC06662.JPG←大手門の石垣
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.858221/137.805709/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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大平城(静岡県浜松市浜北区) [古城めぐり(静岡)]

DSC06506.JPG←東曲輪群の堀切
 大平城は、南北朝時代に遠江南朝方の柱石であった井伊氏の支城である。井伊氏は三岳城を本城とし、周囲に城砦群を築いて北朝の足利方に抵抗したが、大平城は井伊氏の城砦群の内、東方の防衛拠点であった。1339年、足利尊氏は高一族を下向させ、大将の高越後守師泰(尊氏の執事高師直の弟)は大平城に向かい、高尾張守師兼(師直の従兄弟)は鴨江城を陥した後、千頭峯城を落城させた。しかし大平城の守りは固く、翌40年正月、高師泰、仁木義長らの大軍は、先に本城である三岳城を攻め落とした。三岳城の落城後、井伊道政は宗良親王とともに大平城に立て籠もったが、同年8月24日には高師泰、仁木義長ら北朝方の攻撃によって落城し、遠江南朝方の抵抗は潰えた。この後、宗良親王は駿河安倍城に逃れた。その後、大平城は歴史の表舞台から姿を消すが、現在残る遺構からは戦国期の改修の跡が垣間見られるため、戦国期にも利用されたと推測されている。

 大平城は、標高100m、比高60mの東西に広がる尾根上とその南斜面に展開した山城である。基本は連郭式の山城だが、派生する尾根に山裾まで曲輪群を配置しており、全体ではかなり広い城域を有している。地形的には三岳城などより要害性は劣るが、より大きな兵を収容できたため、中々攻め落とせなかったのであろう。五大力神社の所に城址解説板と登り口があり、登り始めてすぐ南の出曲輪群に行き当たる。出曲輪群は、広く削平された曲輪やその上に腰曲輪群と詰丸らしい曲輪が築かれ、本城とは天然の堀切で区画されており、かなり独立性の高い区画となっている。本城域は、主郭を中心に、東西に連なる尾根上に東曲輪群、西曲輪群を展開しており、更に北と南の尾根にも腰曲輪を築いて防御を固めている。要所には堀切が穿たれ、特に西曲輪群の北に派生する曲輪群への堀切は、角度が鋭く規模も中規模の見応えのあるものである。それ以外でも東曲輪群中程の堀切もしっかりと穿たれている。この辺りの遺構は、南北朝時代のものとは明らかに一線を画しており、戦国期の改修と考えられる。一方で、削平の甘い曲輪も多く、特に主郭南側に連なる腰曲輪は、傾斜があって自然地形に近いなど、普請が不徹底な部分も残る。公園化で動線が破壊されている部分もあって、城道がよくわからないこともあり、よりその様に映るのかもしれない。尚、主郭の北尾根下方の曲輪の堀には、水が湧き出しており、水の手の一つだったと考えられる。大平城は、一ノ城・二ノ城から成る三岳城に次ぐ規模の大きさで、北朝方の猛攻にさすがに最後まで持ちこたえた城である。
水の湧く北尾根の堀→DSC06533.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.847784/137.748150/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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三岳城(静岡県浜松市北区) [古城めぐり(静岡)]

DSC06338.JPG←一ノ城の枡形の石垣
 三岳城は、南北朝時代に遠江南朝方の柱石であった井伊氏の本城である。井伊道政が、後醍醐天皇の皇子宗良親王をこの城に奉じて立て籠もり、南に鴨江城、北に田沢城、西に千頭峯城、東に大平城と、三岳城を中心として周囲に城砦群を築いて北朝の足利方に抵抗した。1338年秋にこの城に入った宗良親王の歌集『李花集』にも「井伊城」としてその名が見え、遠江南朝方の中心拠点であった。この頃の南朝方は、抗争の初期段階で討死した三木一草(楠木正成、名和長年〔伯耆〕、結城親光、千種忠顕)の他に、更に反転攻勢の中心と成るべき新田義貞、北畠顕家をも失っており、各地の南朝勢力の再建が急務であった。その為、吉野の後醍醐天皇は各地に皇子を下向させて、再建の中心を担わせることとした。宗良親王の遠江入りもその一環で、本来は伊勢より出港して奥州を目指したが、途中暴風で船が座礁して遠江に漂着し、井伊道政を頼ったものである。1339年、北朝の将軍足利尊氏は高一族や足利一門の武将を下向させて井伊氏を討伐し、翌40年正月、高師泰、仁木義長らの大軍による攻撃によって、周辺諸城と共に三岳城も落城した。この後、遠江の最後の拠点大平城も落とされ、遠江の足場を失った宗良親王は、駿河の安倍城に逃れた。その後三岳城はしばらく歴史の表舞台から姿を消すが、戦国時代に入ると、元遠江守護であった斯波義達が、井伊谷に入って反今川の兵を挙げ、曳馬城の大河内貞綱と共に井伊氏も斯波氏に与して三岳城に立て籠もった。今川氏親は、刑部城堀川城に伊達忠宗を入れて前進基地とし、1513年に掛川城主朝比奈泰以を主力とする今川勢の総攻撃によって落城した。

 三岳城は、井伊谷の北東にそびえる標高466.8mの三岳山に築かれた山城である。大きく3つの城域に分かれ、山腹の三岳神社周辺の三ノ城(出城)と、山頂の一ノ城、その東の尾根に位置する二ノ城で構成されている。特に一ノ城と二ノ城は尾根続きとは言うものの独立性が強く、それぞれが独立して機能する一城別郭構造となっている。その為、全体の規模も大きく、並の山城2つ分程の城域を有している。山頂へは三岳神社から登山道が整備されており、それを登ると一ノ城・二ノ城の間の尾根鞍部に到達する。

 東側の二ノ城は、主郭入口はS字状土橋が掛かった小堀切で防衛され、その先に櫓台状の土壇を備えた、削平のやや甘い主郭が構築され、主郭東側に続く一段低い二ノ郭の方が広く、削平もしっかりしている。主郭とニノ郭のほぼ全周が腰曲輪で囲繞されている。ニノ郭の東側には半円弧状の横堀があり、その先を下って行くと、大岩を利用した虎口の先に幅3m程の浅い堀切が穿たれている。その先にも、ほとんどわからない程度の小堀切があって城域が終わっている。また周囲の腰曲輪には、虎口部に石垣の残欠があり、一部の腰曲輪には下方の腰曲輪に対して横矢掛かりの櫓台も築かれている。二ノ城の解説板が設置されているのは西出丸で、主郭はかなり離れている。ニノ城は、横矢掛かりなどがあるものの普請が徹底されておらず、比較的古い形態をそのまま残している様である。

 次に西側山頂の一ノ城であるが、先ほど登り着いた尾根鞍部にわずかな小堀切があり、その上に枡形門跡とされる小平場があり、その先は長い登道となる。途中に数段の腰曲輪が備えられ、主郭手前にも薮ではっきりしないが、段曲輪が数段形成されている。石碑の建つ主郭は、眺望が素晴らしく、浜名湖や遠江の平野部全域をほぼ一望の下に収めることができる。主郭の西側には腰曲輪群が集中配置されている。前述の主郭東側の曲輪群は、あまりはっきりしないものであったが、西側のものは普請がしっかりしており、しかも下段の腰曲輪には土塁に石垣が残っている。中には枡形虎口を石垣で構築している部分もあり、この辺りは戦国期の遺構と思われる。

 三岳城は、全体的な普請は大規模とは言い難いが、二ノ城は東側に、一ノ城は西側に、多数の腰曲輪群と横堀・堀切等による重厚な防御線を張っている。南北朝期の山城にしては、横矢掛かりや石垣による枡形虎口などの縄張りが発達しており、戦国期にかなり改修を受けたらしく、ほとんど戦国時代の縄張りを残した城となっている。
ニノ城の堀切→DSC06171.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.852833/137.690953/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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田沢城(静岡県浜松市北区) [古城めぐり(静岡)]

DSC06079.JPG←山頂の三角点のある平場
 田沢城は、天山城とも呼ばれ、三遠国境に築かれた井伊氏の城砦群の一つである。井伊氏の一族、田沢三郎兵衛直家の子、兵衛次郎直道が築いたと言われている。南北朝時代に、後醍醐天皇の皇子宗良親王を奉じて南朝方として北朝足利勢に抵抗した井伊氏は、井伊谷を中心に城砦群による防衛網を構築したが、その中で田沢城は北辺の防衛拠点となった。時の城主は直道の孫彦次郎頼直とその子大炊介通直であったと伝えられ、1339年から始まった足利方の大軍による攻勢の前に、井伊氏は苦戦を強いられ、その年の秋頃、田沢城は落城したと推測されている。同時期に大平城千頭峯城なども落とされた井伊氏は、1340年に本城の三岳城も落とされ、井伊氏の抵抗は潰えた。

 田沢城は、標高656.8mの城山山頂に築かれた峻険な山城である。幸い山頂まで車道が整備されており、未舗装路ではあるがガレ道ではないので、距離が長く時間は掛かるが、普通の車で楽に登ることができる。城山山頂には、現在無線中継所の大きな電波塔が建っているなど、改変されており、明確な遺構は確認できない。2基の電波塔の間に三角点のある小高い平場があり、そこだけわずかに往時の地形を残している。今となってはどのような縄張りであったのかも不明で、残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.918647/137.645933/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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井伊谷城(静岡県浜松市北区) [古城めぐり(静岡)]

DSC06052.JPG←主郭大手門の土塁
 井伊谷城は、浜名湖東北部に勢威を張った井伊氏歴代の居城である。井伊氏は、平安時代に遠江国司であった藤原共資の子共保を祖とし、徳川譜代の近世大名として幕末まで連綿と続いた名族である。南北朝時代に井伊道政は南朝方に属し、この地に後醍醐天皇の皇子宗良親王を迎え、三岳城を始めとする城砦群を築いて北朝の足利方に抵抗したことは史上に名高い。この抗争では、平地に囲まれた井伊谷城は、足利方の大軍を向こうに回して籠城するには要害性に乏しかった為、三岳城が本城となったが、井伊氏の城砦群の一翼を担い、1339~40年に高師泰・仁木義長らに攻められて落城した。井伊氏はその後、足利一門の今川氏に服属し、戦国時代には国人領主の一人として、今川氏の西遠江の押さえの一翼を担った。しかしその地位は決して安泰ではなく、井伊直盛は桶狭間で今川義元と共に討死し、跡を継いだ直親は今川氏真に謀反の疑いを掛けられ、その釈明に駿府に向かう途中、掛川城主朝比奈泰能に謀殺された。その後、当主となったのが女戦国大名として有名な井伊直虎である。直虎の後、跡を継いだのが後に徳川四天王として勇名を馳せた直政である。井伊谷城は、この直政が今川氏の難を避けて三河に逃れるまで、約540年余にわたって井伊氏の居城であった。直政は、1575年に15歳で徳川家康に見出され、以後、獅子奮迅の活躍をして家康の天下取りに大きく貢献した。武田家滅亡後は、武田の遺臣団を預けられて「井伊の赤備え」と呼ばれる精強な軍団を擁し、家康の関東移封後は徳川家臣団では最高の12万石を以って上野箕輪城に封ぜられた。関ヶ原合戦でも活躍し、戦後近江に移封されて後の彦根藩の礎を築いた。江戸時代を通じて井伊家は幕府の重臣として重きを成し、幕末に大老となった井伊直弼は特に有名である。

 井伊谷城は、標高115m、比高85mの城山に築かれた平山城である。城址は公園化されており、登山道も整備されているので楽に登ることができる。井伊氏歴代の居城としてはささやかな遺構で、山頂に主郭の平場が残るほかは、大手虎口・搦手虎口の門跡と主郭周囲を取り巻く腰曲輪がわずかに残る程度である。主郭には大手門付近や北辺部に土塁が残り、また主郭内は2段の平場に分かれていて、高い方に小規模な主殿があったと思われる。この他、南側山腹にも腰曲輪状の平場が見られるが、改変が多く遺構かどうかはっきりしない。いずれにしても山上のものは詰城で、平時は南麓の居館が中心であったらしい。

 尚、歴史の長い井伊氏だけあって、井伊谷にはその墓所である龍潭寺や、宗良親王を祀った井伊谷宮など、見所が多い。特に龍潭寺は、井伊氏の家臣団の墓もあり、井伊家の歴史そのものを感じさせる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.837090/137.670568/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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刑部城(静岡県浜松市北区) [古城めぐり(静岡)]

DSC05885.JPG←主郭南側の土塁
 刑部城は、阿王山紫城とも呼ばれ、当地の土豪が築いた城である。一説には、庵原忠良、長谷川秀匡、内山一党が守っていたと言う。いずれにしても徳川家康の遠江侵攻に対して抵抗したことから考えれば、今川方の拠る城であった。1568年12月に刑部城にこの地の人々が立て籠もって徳川軍と戦ったが、敗れて落城した。その後、家康は、菅沼氏を置いて城を守らせたと言う。その他の歴史は不明である。
 刑部城は、都田川支流の南岸の比高15m程の小丘に築かれている。山上は竹林となっているが、一応登道があって、遺構の表札が設置されている。東側に登り口があり、主郭とニノ郭を分断する堀切に通じている。堀切の東側のニノ郭は、金山神社が鎮座する小さな曲輪である。堀切から腰曲輪を経由して登ると、小さな枡形虎口を介して主郭に通じている。主郭内部は一面の竹林で、南側に高さ1.5m程の土塁が築かれている。主郭内には井戸状の円形の窪みが3ヶ所ほど存在するが、改変されたものらしい。遺構の井戸は、主郭の東縁部に石組みの大井戸が残っている。いきなりポッカリと口を開けていて、子供が来たら間違って落ちそうな感じでやや危険である。柵があった方がいい様に思う。主郭内は、竹薮で歩くのが大変であるが、何とか進むと、主郭北半分の辺縁部に沿って堀状の溝が走っており、武者走りの遺構ではないかと言われているらしい。見た限りでは武者走りというより、排水側溝か柵列か何かに思える。以上が遺構の全てで、遺構はよく残っているが非常に小規模な城で、せいぜい数十人しか籠城できない規模のささやかな城砦である。
石組みの井戸跡→DSC05902.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.804677/137.659882/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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奥山城(静岡県浜松市北区) [古城めぐり(静岡)]

DSC05837.JPG←奥山城の遠望
 奥山城は、井伊氏一族の奥山朝藤が築いたと言われる城である。1336年に後醍醐天皇の皇子宗良親王が入城したとも言われ、はっきりしない部分もあるが井伊氏の築いた城砦群の一翼を担っていた様である。その他、1514年には曳馬城主大河内貞綱らと共に井伊直盛は今川氏に叛して挙兵し、朝比奈泰以に三岳城で敗れた直盛は、奥山城へ逃れたとも言われている。
 奥山城は、方広寺の北方300mに位置する標高200mの山頂に築かれていたとされている。山の北半分は採石で削り取られており、遺構の破壊が進んでいるらしい。地図を見ると方広寺から南の山裾に道が伸びているが、この道は進入禁止となっていて登ることができない。仕方なく、山容を遠目に眺めて撤収した。

 お城評価(満点=五つ星):- (未登城のため評価なし)
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.850791/137.618340/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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千頭峯城(静岡県浜松市北区) [古城めぐり(静岡)]

DSC05742.JPG←南曲輪の横矢掛かりの囲郭
 千頭峯城は、南北朝時代に遠江南朝方の柱石であった井伊氏の支城である。井伊氏は三岳城を本城とし、周囲に城砦群を築いて北朝の足利方に抵抗したが、千頭峯城は井伊氏の城砦群の内、西方最大の拠点であった。守将は、井伊氏一族の奥山朝藤と言われ、その他に南朝方廷臣や浜名神戸庄庄官県氏、大江氏など数百騎が籠城した。1339年、足利尊氏は高一族を下向させ、大将の高越後守師泰(尊氏の執事高師直の弟)は大平城に向かい、高尾張守師兼(師直の従兄弟)は鴨江城を陥した後、千頭峯城を3ヶ月にわたって攻囲し、10月30日に落城させた。この頃の高一族は各地を転戦し、その働きには目覚ましいものがあった。その後の千頭峯城の歴史は伝わっていないが、現在残る遺構からは戦国時代にも利用されたと推測されている。

 千頭峯城は、湖北五山の一つ摩訶耶寺の背後にそびえる標高137.7m、比高118mの城山に築かれた山城である。登山道が整備されており、比高も大したことはないので簡単に登ることができる。主郭を中心に三方の広い尾根上に曲輪を展開しており、要所を堀切で分断している。主郭は二ノ郭等の周りの曲輪からの高低差が大きく、切岸だけで防御を固めている。深い切れ込みの入った坂虎口があり、そこから下の曲輪への道が通じている。東曲輪群は土塁はなく、数段の平場と2本の堀切だけで構成された簡素な作りである。西曲輪群は、ニノ郭との間に堀切を穿ち、中心郭は周囲を低土塁で囲んだ囲郭となっている。その先にも数段の平場が広がるが、削平は甘くどこまでが城域かも明確ではない。西曲輪群から繋がるニノ郭の虎口は、原初的な枡形虎口となっている。最後の南曲輪群は最も縄張り的に優れており、中心郭は西曲輪群と同様、周囲を低土塁で囲んだ囲郭となっている。しかしただの方形囲郭ではなく、横矢掛かりまで備えられている。またこの上方の腰曲輪群には、横堀が直角に曲がって竪堀に変化して落ちており、前述の横矢と合わせて、この辺の遺構は戦国期の改修によるものと考えられる。比較的小規模な城であるが、囲郭が見事に残っているなど、その歴史と合わせて興味深い。
ニノ郭の枡形虎口→DSC05681.JPG
DSC05734.JPG←横堀から落ちる竪堀
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.821170/137.559597/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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野地城(静岡県浜松市北区) [古城めぐり(静岡)]

DSC05534.JPG←二ノ丸の堀跡
 野地城は、佐久城を落として持ち城とした徳川家康が、1583年に本多百介信俊、上村庄右衛門を奉行として新たに築城した平城である。これは、かつて浜名氏の本拠であった佐久城が地域的に偏っている為、新たに東方の街道沿いに当地の支配拠点として築いたものと考えられている。以後、本多忠勝、本多信俊・信勝、三浦為春らが城主となり、1619年以後は代官が置かれて城を預かった。慶長年間(1596~1615年)以後は、家康が東西通行時の宿営地とするなど、湖北の重要拠点として重視され、5代将軍綱吉の時の1680年に廃城となった。

 野地城は、佐久城の北、入江を挟んで隣接する半島上に築かれた城である。佐久城と比べると、より平坦で広い城地となっており、要害性よりも近世的な政庁機能を重視して築かれた城だったと思われる。城内は現在、一面のみかん畑に変貌しており、遺構はほとんど湮滅しているが、堀跡が断片的に残っている。その痕跡はgoogle Map等の航空写真からも窺うことができ、かなり広い城域を持った城であることが推測される。本丸は半島の北西端に位置し、現在は広場になっているが、西側に土塁と櫓台が残っていて、神明社が土塁上に置かれている。本丸の周りがニノ丸で、ほとんど湮滅しているものの本丸との間を区画する堀跡が微低地となって確認できる。二ノ丸の東側には更に三ノ丸があったようで、二ノ丸~三ノ丸間を区画する堀跡や三ノ丸外周の堀跡が、一部であるが畑の中に明瞭に残っている。特に三ノ丸外周は茂みの中に水堀が残り、本丸からここまでは250m程も離れている。全体に遺構の湮滅が進んでいるが、街中などに埋もれた城の遺構をわずかな地形変化から確認できるレベルのスキルを持ったキャッスラーならば、そこそこ楽しめる。但し、畑中の道が狭く、車を置く場所に苦労する。
本丸西側の櫓台→DSC05561.JPG
DSC05582.JPG←三ノ丸の水堀跡

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.792431/137.569717/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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佐久城(静岡県浜松市北区) [古城めぐり(静岡)]

DSC05511.JPG←主郭から見た土橋と馬出し
 佐久城は、南北朝期から戦国時代までを通して浜名地域を支配した浜名氏の歴代の居城である。浜名氏は、平清盛の時代に名声を馳せた源三位頼政の後裔と言われ、南北朝時代の1348年に、浜名氏中興の祖、浜名左近大夫清政が築城したと伝えられている。清政は、北朝の足利方に付いて戦った為、当時遠江南朝方の柱石であった井伊氏の圧迫を受けて、伊勢・美濃の所領に逼塞を余儀なくされたが、その後足利方の攻勢で井伊氏が勢威を弱めると、清政は浜名に戻って佐久城を築いたと言う。以来室町期を通して、浜名氏は足利幕府の奉公衆に列座し、常に京都にあって足利将軍の側近として活躍したほか、歴代歌人としても著名であった。戦国時代後期には、この地を支配した戦国大名今川氏に属していたが、1560年に桶狭間で今川義元が討死し、三河を奪還して自立した徳川家康が、1568年12月に遠江に兵を進めると、浜名氏10代肥前守頼広は、今川方として佐久城に籠って抵抗したが、翌年2月に力尽きて甲州に逃れ、浜名氏は滅亡した。その後、家康の部将本多百介信俊が入城したが、1583年に新たに野地城が築かれると佐久城は廃城となった。

 佐久城は、浜名湖北方の猪鼻湖に東から突き出た半島の先端に築かれている。標高11.9mの段丘上に築かれた城で、城の間近まで別荘地が迫っているものの、遺構は良好に残っている。先端の主郭と、南郭に当たる二ノ郭で構成され、ニノ郭は南半分が破壊を受けてしまっているが、主郭と馬出しが完存している。主郭は公園化されているが、大土塁や虎口が明瞭に残り、その外側に堀切と土橋で連結された馬出しが築かれている。馬出しは角が丸まっていて丸馬出に近い形状になっており、外周に低い土塁を伴い、堀切から侵入した敵への迎撃拠点となっている。主郭内には井戸跡が残り、突端には湖岸に通じる搦手道も残っている。縄張りとしては、比較的素朴なもので、規模も決して大きなものではないが、遺構が良好で中々楽しめる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.786933/137.566391/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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