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竹田城(兵庫県朝来市) [古城めぐり(兵庫)]

DSC04049.JPG←朝日の当たる南千畳
 竹田城は、「天空の城」として国内で最も有名な山城の一つである。元々は、但馬守護山名氏の重臣で山名四天王の一、太田垣氏の居城であった。太田垣氏は但馬の国人領主であったが、南北朝期に足利氏の重臣山名時氏が但馬守護となると、同族の八木氏と共に山名氏に臣従した。そして垣屋氏や田結庄氏と並んで、山名四天王と称された。山名宗全(持豊)が、1441年の嘉吉の乱の際に赤松満祐の討伐で功を挙げ、播磨守護職を与えられると、播磨・丹波から但馬への侵入路に当たる要衝に13年を費やして築いた城と言われている。そして太田垣光景を竹田城に置き、以後太田垣氏7代にわたる歴代の居城となった。応仁の乱以後、山名氏は没落し、戦国後期には東から織田信長の勢力が伸長し、信長の部将羽柴秀吉は中国平定を命ぜられて、播磨・但馬に侵攻した。1569年と1577年の2度にわたって秀吉の攻撃を受けて、竹田城は2度とも落城し、2度目の落城後は秀吉の実弟羽柴小一郎秀長が城代となって城を整備した。1580年に但馬を平定した秀吉は、桑山重晴を城主とし、1585年には四国征伐で軍功のあった龍野城主赤松広秀を竹田城主とした。この秀長から広秀に至る時代に竹田城は大改修を受け、総石垣の山城として変貌したと推測されている。1600年の関ヶ原合戦の時に赤松広秀は鳥取城を攻略したが、城下を焼き払ったことで徳川家康の怒りを買い、切腹となった。竹田城はそのまま廃城となった。

 竹田城は、今では説明の必要もないぐらい有名な総石垣の山城で、山上にそびえるその遺構の荘厳さは言語を絶する。天守台を頂く本丸を中心の最高所に置き、本丸の北東に二ノ丸・三ノ丸・北千畳の各曲輪を配置し、南には南二ノ丸・南千畳を配置している。また本丸周囲は腰曲輪で囲み、西側に花屋敷と呼ばれる方形の曲輪を置いている。これら山上の曲輪群は全て石垣で囲繞され、各虎口は巧みに屈曲された枡形虎口となっている。要所には櫓台も配置されている。いずれも見事な遺構で見ているだけで溜息が出てくる。しかし城の規模を冷静な目で見ると、実はそれほど大規模な城ではない。利神城などと同規模で、置塩城感状山城の方が遥かに城の規模は大きい。

 以上は、純然たる戦国末期に築かれた近世山城の姿であるが、竹田城には中世山城としての遺構も山中に散在している。現地解説板の縄張図によれば竪堀も数本構築されているが、いずれも深い藪の中に埋もれていてほとんど確認することができない。中腹の駐車場からの搦手直登コースの途中には段曲輪と堀切も確認できる。また山腹には井戸跡や、登り石垣とされる遺構も確認できる。但し、この登り石垣は、山頂から山麓までのある範囲を完全に取り囲んで敵の侵入を防御した、伊予松山城などで見られる所謂「登り石垣」とは形状が異なり、石垣で囲まれた段曲輪の付随施設で、竪石垣と言う方が正しい様だ。この遺構は全く道のない斜面を藪こぎして行く必要があり、しかも石垣の崩落が進んでいるので、経験豊かなキャッスラー以外にはお勧めできない。

 今回、竹田城を訪れたのは秋口で、一番混む時期ということで朝5時に駐車場に入ったが、既に山上の駐車場はほぼ満車状態であった。城に来ている人は雲海と日ノ出見物が多く(今回は残念ながら雲海は出現しなかった)、純然たるキャッスラーはもちろん、アマチュアカメラマンですら少数派であった。古城が有名になるのは嬉しいことだが、心無い人によって遺構が荒らされるかも知れず、ちょっと不安を持たざるを得ない。朝来市には、観光目当てだけではなく、史跡保護にも一層努力して欲しい。
天守台遠望→DSC04059.JPG
DSC04342.JPG←中腹の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.300469/134.829100/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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感状山城(兵庫県相生市) [古城めぐり(兵庫)]

DSC03657.JPG←ニノ郭群前面の石垣
 感状山城は、瓜生城とも呼ばれ、鎌倉時代の当地の豪族瓜生左衛門尉が築いたとも、南北朝時代の1336年に赤松円心の3男赤松則祐が築いたとも言われている山城である。この城がはっきり歴史に残っているのは、南北朝動乱の時のことである。後醍醐天皇が始めた建武の新政は失政が相次ぎ、1335年に発生した中先代の乱を契機として足利尊氏は後醍醐より離反した。その後、後醍醐による新田義貞の足利討伐への派遣、竹之下でこれを破った後の尊氏の西上戦と続き、一旦は京都に攻め込んだ尊氏であったが、奥州から馳せ参じた北畠顕家の攻撃もあって敗退し、九州に落ち延びることとなった。その時、赤松円心の勢力圏の播磨室ノ津で軍議を行い、九州から再挙東上するまでの武家方の備えを固めた。播磨の守りは円心に任せられた。円心は白旗城を拠点に、攻め寄せた新田義貞の大軍を播磨に釘付けにし、義貞に貴重な時日を浪費させることに成功し、その間に態勢を立て直した尊氏は、大軍を率いて京都目指して進軍を始めた。赤松則祐も父円心と同様、感状山城に籠って奮戦し、尊氏再起の立役者の1人となった。この功績により、尊氏が則祐に感状(戦功を賞する書状)を与えたことから、感状山と呼ばれるようになったと言う。その後の感状山城の歴史は定かではないが、現在残る遺構は明らかに戦国時代のもので、宇喜多氏が改修したとも言われている。

 感状山城は、多数の石垣の残る、往時は総石垣だった城で、現在でもその遺構が良く残っている。標高305m、比高225mの山上に築かれているが、城域は広大で拠点城郭として重要視されたであろうことがその遺構からわかる。龍野古城などと同じく、赤松流一城別郭の縄張りで、最上部に主郭・ニノ郭、それに連なる南北の段曲輪群があり、その主城部の西側下方の平坦地には、三ノ郭群や出曲輪が連なり、いずれも崩落が進んでいるものの随所に石垣の跡が良く残っている。三ノ郭群の南東部下方には大手門が、また北西下方には搦手門が残り、どちらも櫓門の石垣がかなり崩落しているものの残っていて、往時の姿を彷彿とさせる。また石組み井戸も2ヶ所残る。その他、主郭には排水石列がはっきりと残り、排水口の石も形が明瞭である。各曲輪への動線は屈曲しており、枡形は中世城郭の完成形で、戦国末期の築城技術を堪能できる、素晴らしい山城である。城内は整備され、羅漢の里からの登山道も整備されており、さすがに国指定史跡ともなると、金の掛け方が違うことを実感した。

 ちなみに感状山城では、ハイキング中の団体さん一行や二人で観光に来た背広姿のおっちゃんと出くわした。そこで耳にした摩訶不思議な会話。ハイキングの一行は、ここに城跡があるのを知らなかったらしく、標柱などを見て城跡だとわかったらしい。この一行の白髭のリーダーが、2人のおっちゃんの1人にこう訊いた。「天守閣はどこにあるんですか?」「あっちですよ、あっち」。はぁ?天守閣?しかも何もないのに「あっち」って・・・。う~ん、すごいブッ飛んだ会話だ。感状山城は中世城郭なので、当然天守閣はありませんので・・・。
ニノ郭横の石垣→DSC03694.JPG
DSC03613.JPG←大手門に残る櫓門石垣

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.881354/134.451317/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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龍野古城(兵庫県たつの市) [古城めぐり(兵庫)]

DSC03567.JPG←豪快な竪堀
 龍野古城は、単に龍野城とも、或いは鶏籠山城とも呼ばれ、1499年、播磨守護赤松氏の庶流で塩屋城主赤松政秀が、幼い村秀の為に築いた戦国期の山城である。その後、龍野赤松氏4代78年の歴代の居城となった。赤松広秀が城主の時の1577年、天下統一を目指す織田信長の部将羽柴秀吉は、播磨平定に出陣し、2万の大軍で揖保川まで攻め寄せた。広秀は一度は籠城戦を覚悟したが、赤松家の滅亡を惜しんで戦わずして秀吉に降り、広秀は後に但馬竹田城主となった。赤松氏の退去した龍野城は、秀吉の支配下となり、豊臣秀吉の時代には蜂須賀正勝・福島正則など、錚々たる秀吉幕下の大名が城主を歴任した。徳川の時代になると、播磨一国は姫路城主池田輝政の所領となり、龍野城には城代が置かれた。慶長年間(1596~1615年)の石川光元時代か、或いは元和から寛永年間(1615~43年)にかけての本多政朝か小笠原長次時代に龍野城は麓に移され、以後近世城郭としての山麓の龍野城が龍野藩主の居城となり、龍野古城は廃されたと思われる。

 龍野古城は、城山城がそびえる亀山(きのやま)の尾根筋の最南端が東に張り出した、標高218m、比高178mの鶏籠山に築かれている。山頂部に本丸を置き、尾根の鞍部を挟んでその南の小高い部分に二ノ丸を置いている。二ノ丸の周囲には、多数の腰曲輪群が前衛の防御を担い、土塁や横堀で更に防御性を高めている。西側山腹を落ちる竪堀は、山頂から山麓まで落ちる非常に豪快なもので、南側に竪土塁を伴い、この竪土塁は下方でL字状に曲って段曲輪の土塁に連結する構造を取っている。これによって竪堀側から城内への侵入を食い止めようとする意図がわかる。山上部の主要な曲輪では、桝形虎口や動線の屈曲が明瞭で、中道子山城と同様、中世城郭の完成形と言っても良い。城内には、石垣の残欠が散在しているが、崩落しているものが多く、麓の龍野城に転用された可能性もあるだろう。尚、本丸と二ノ丸の間の鞍部には馬場状の広く平坦な曲輪が広がっている。赤松氏の城郭では、白旗城置塩城も全く同じ構造で、鞍部の曲輪で城域を分断した一城別郭構造は、赤松流の築城術の様である。城内は下草なども整備され、登山道も完備しており、地元の人もトレーニングで登っている親しまれる山城である。
石垣の残欠→DSC03497.JPG
DSC03425.JPG←土塁を伴った腰曲輪

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.872711/134.544936/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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龍野城(兵庫県たつの市) [古城めぐり(兵庫)]

DSC03401.JPG
 龍野城は、鶏籠山に築かれた中世山城とその南麓に築かれた御殿風の近世平山城と2つから成る複合城郭である。山城は、別名を龍野古城とも鶏籠山城と呼ばれ、本項とは別に記載する。ここでは近世城郭としての龍野城について記載する。

 近世龍野城は、慶長年間(1596~1615年)の石川光元時代に築かれたとも、或いは元和から寛永年間(1615~43年)にかけての本多政朝か小笠原長次時代に築かれたとも言われている。しかし、その後京極氏が入り、京極氏が1658年に丸亀城に移封となると、天領となって城は一旦破却された。1672年、脇坂安政が信濃飯田から入部すると、荒れ果てた龍野城を修復して現在残る形とした。その後は龍野藩脇坂氏の歴代の居城となり、脇坂氏は忠臣蔵で有名な浅野内匠頭切腹後の赤穂城の受取りの大役を全うするなど、幕政に重きを成した。そのまま幕末まで城は存続した。

 龍野城は、鶏籠山を背後に控えた比高20m程の台地上に築かれた平山城である。築城時の太平の世という時代背景を投影して、城とは言うものの構え自体も規模も御殿風となっている。しかし周囲を石垣で囲み、桝形門や隅櫓が築かれていて、堂々たる構えである。ただ現在見られる龍野城は、明治維新後に破却されたものを昭和50年以降に復元した際、石垣を壊して壮大な埋門を新築し、1層の隅櫓があったところに2層の隅櫓を新築するなど、「復元よりも新築に変わってしまった」(日本城郭大系の記述)と言うので、往時の城の姿はその分を割り引いて考える必要があるだろう。それでも古い城下町の雰囲気を濃厚に漂わせた街並みの奥にそびえ、復元された本丸御殿が優美な、捨てがたい雰囲気の城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆(正確な復元でない分、減点)
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.868556/134.544550/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:近世平山城
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城山城(兵庫県たつの市) [古城めぐり(兵庫)]

DSC03257.JPG←主郭跡
 城山(きのやま)城は、嘉吉の乱の際に赤松一族が最後を迎えた城である。中世城郭としての城山城は、1352年に赤松円心の3男で兄範資の死後に家督を継いだ赤松則祐が、本城の白旗城を守る外郭として築いたと言われている。1441年、恐怖政治を敷いた専制君主の6代将軍足利義教に追い詰められた赤松満祐は、京都の自邸に将軍義教を招いて結城合戦の祝宴を催し、その席上で将軍を暗殺した。列席した諸大名が狼狽して成すところを知らぬという状況の中、満祐は上京していた軍勢を率いて本拠の播磨に戻り、書写坂本城を拠点として幕府に対抗した。幕府軍は、山名持豊を実質的な総大将とした討伐軍を繰り出し、赤松勢は善戦したものの敗れ、満祐父子は坂本城を捨てて城山城に籠城した。しかし赤松勢には援軍もなく、脱落者が相次ぎ、山名持豊の軍勢に攻囲されて、満祐は自刃し、赤松宗家は滅亡した。その後、城は放棄されていたが、1538年に出雲の月山富田城主尼子晴久が播磨に侵攻すると、赤松政村は置塩城を捨てて淡路に逃れ、播磨のほぼ全域が尼子氏の支配下となった。この時、晴久は城山城を再興し、3年間にわたって播磨支配の拠点とした。1540年に尼子勢が播磨から撤退すると、城山城は再び廃城となった。

 これが中世の城山城の歴史であるが、この城にはもう一つの側面があり、大和朝廷の築いた古代山城でもあった。663年、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗北した朝廷は、唐・新羅の侵攻に備えて、九州から瀬戸内海一帯に城砦群を築いた。これが古代山城で、朝鮮式山城とも呼ばれる。城山城もその一つで、従って城山城は古代山城の遺構と中世城郭の遺構が混在している。

 城山城は、標高458m、比高418mの亀山(きのやま)の山頂部一帯に築かれている。さすがに比高400m超ともなるとその峻険さはダテではなく、大手とされる馬立地区からの登り道を登って、主峰のある尾根筋に到達するまででも30分以上を要する。尾根の西側には亀の池という大きな池があり、こんな山上に水をたたえる神秘的な情景が広がっている。城山城の遺構は、広大な城域に散在しているが、中心的曲輪がはっきりしない。亀山は大きく3つの峰から構成されているが、西山頂と東山頂の谷間に曲輪群が展開し、ここが主郭だったようである。主郭の東の山頂は自然地形であるが、周囲に多数の段曲輪群を伴っており、特に東斜面の段曲輪には土塁や建物礎石が残っている。西山頂の西側下方には、規模の大きな石塁があり、古代山城の遺構であるらしい。いわゆる神籠石であろう。この石塁は沢の下に築かれており、水場の確保が目的だったように思われる。また北山頂部の北の尾根筋にわずかな堀切や横堀がある。北山頂部から西側に降って行くと、古代山城の門跡の礎石が残っている。これらの遺構の中でどこまでが中世山城の遺構かはっきりしないが、中世城郭としては俄造りの印象が強い。尼子氏が播磨支配の拠点としたというのは、遺構からするとやや疑問に思う。
堀切跡→DSC03212.JPG
DSC03338.JPG←石塁跡

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.894318/134.527153/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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置塩城(兵庫県姫路市) [古城めぐり(兵庫)]

DSC03042.JPG←南西曲輪群の大石垣
 置塩城は、1469年に播磨守護赤松政則が築いた大規模な山城である。赤松氏は、初代円心則村が足利尊氏に従って大功を挙げ、3代将軍足利義満が定めた武家の典礼では三管四職に名を連ねた名門の強豪守護であった。しかし6代将軍足利義教の時に、赤松満祐が将軍を暗殺するという前代未聞の嘉吉の乱を起こし、幕府軍の討伐を受けて没落した。その後、赤松遺臣が主家再興運動を起こし、後南朝から神璽を奪還した功績を認められて、1458年に赤松政則が加賀半国の守護となって、守護大名赤松氏が再興された。その後、応仁の大乱の時に、東軍の細川勝元に与して山名氏に奪われていた本拠の播磨を奪還し、播磨守護に返り咲いた。播磨に戻った政則は、新たに置塩城を築いて居城とした。しかし再興後の赤松氏には往時の勢威はなく、山名氏との播磨を巡る抗争の他、守護代として台頭した三石城主浦上氏の下克上等で播磨一国を支配する力は既に失われていた。戦国時代後半に織田信長が勢力を伸長すると赤松則房は信長に従い、信長の部将羽柴秀吉が1577年に播磨平定に乗り出すと、その与力となった。信長の死後、秀吉が天下の権を握ると、則房は阿波住吉に移封されて置塩城を去り、1581年の姫路城築城の際に用材を転用され、置塩城は廃城となった。

 置塩城は、標高370m、比高310mの峻険な城山に築かれた城で、衰えたりとは言え守護大名赤松氏の拠った堂々たる山城である。城域は広大で、城内には本丸・二ノ丸・三ノ丸等の主要な曲輪の他に、多数の段曲輪群・腰曲輪群を連ね、崩落した石積みが多数残っている。この城の縄張りで特徴的なのは、本丸が完全に独立した一城別郭構造で、本丸とは言うものの実質的に有事の際の詰丸と考えられ、平時には二ノ丸が実質的な本丸として機能したのではないかと推測される。二ノ丸~本丸間の鞍部は馬場状の曲輪となっていて、本丸にはここから更に30m程の高さを登らなくてはならない。また主要な曲輪間は堀切で分断しているが、堀切はそれほど大きな規模ではなく、いずれの堀切も城内通路を兼ねている。全体に虎口は割と平易な構造で、大手門は西尾根の段曲輪群のかなり下方に築かれており、現在は深い薮に埋もれている。国指定史跡となっているだけあって、城内は整備されており、全体に薮が少なく遺構の確認がしやすい。ただ、現在整備されている登城道から西曲輪群に繋がる道は一部崩落しており、注意が必要である。とにかく再興赤松氏の城の広さには目を見張るばかりで、守護大名の勢威の強さとはこれほどのものであったのかと思い知らされる。
二ノ丸北側の堀切→DSC03077.JPG
DSC03017.JPG←茶室曲輪の石積み虎口

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.923352/134.683156/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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書写坂本城(兵庫県姫路市) [古城めぐり(兵庫)]

DSC02959.JPG←土塁と堀跡
 書写坂本城は、室町時代に播磨守護赤松氏が築いた守護所である。坂本の地は交通の要所で、南北朝時代以来、足利尊氏を始め赤松満祐・山名宗全などの武将がこの地に陣を敷いた。城の創築は定かではないが、一説には赤松氏初代の赤松円心則村が築いたとも言われている。その後、室町幕府の守護領国制の定着に伴って、播磨守護所となり、京都に常駐した赤松氏に代わって守護代が入って、領国支配の中心とした。1441年の嘉吉の乱では、6代将軍足利義教を暗殺して領国に戻った赤松満祐は、坂本城に拠って追討する幕府の大軍と戦ったが落城し、満祐は城山城に撤退した。赤松氏没落後、播磨を領した山名宗全も坂本城を播磨の支配拠点とし、応仁の乱後、播磨を巡る再興赤松氏と山名氏の間の抗争でも、坂本城は争奪の地となった。その後、赤松政則が置塩城を築いて居城を移すと廃城になったと思われる。
 書写坂本城は、なだらかな地に築かれた平城で、現在はほとんど宅地化と耕地化で遺構は失われているが、わずかに西側の土塁と堀跡が残っている。その地勢からは争奪の歴史は全く想像できないが、周囲を低湿地帯に囲まれ、背後に街道の通じる要衝であったのだろう。城郭遺構としては期待できないが、南北朝ファンとしては足利尊氏にまつわる故地として重要である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.873362/134.652504/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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中道子山城(兵庫県加古川市) [古城めぐり(兵庫)]

DSC02864.JPG←搦手虎口の石積み
 中道子山城は、播磨守護赤松氏の一族の居城である。その創築は、赤松円心の4男氏範によると言われている。氏範は、赤松一族ではただ一人終始南朝方に付いて奮戦したものの、後に北朝方に降伏、その後叛乱を起こして1383年に滅ぼされた。その後、赤松満政の3男満直は、孝橋氏の養子となって孝橋繁広となり、嘉吉の乱で一旦滅亡した赤松宗家が再興されると、孝橋繁広は中道子山城を与えられて居城とした。その後、孝橋氏の歴代の居城となったが、戦国時代の孝橋秀時の時に居城を浅瀬山城に移し、中道子山城は天正年間(1573~92年)に羽柴秀吉の攻撃を受けて落城したと言う。

 中道子山城は、標高271.3m、比高240m程の城山に築かれている。遺構は完存しており、大きく本丸・二ノ丸・三ノ丸とそれらを取り巻く腰曲輪から構成され、各曲輪の虎口構造は中世城郭の完成形とも言えるほど整っている。2ヶ所の櫓門跡がよく残っており、搦手には規模は小さいが石積みで固められた門跡も残っている。搦手には井戸曲輪があり、石積み井戸が残っている。三ノ丸の先の尾根筋には堀切が穿たれているが、二重堀切とされるものは実際の形状は、一重の大堀切+横堀と言う感じに近い。大堀切は深さ7~8m程もあり、斜度も60°近い急斜面で分断効果が大きいものである。大堀切から三ノ郭に近づくと土塁があり、その先が横堀に近い形状の堀切となっている。三ノ郭前面に腰曲輪があり、更にその前衛の堀切という構造の様である。割りと小さい城であるが見所は多く、整備も適度にされているのでおすすめである。ただ、地図では麓から車道が伸びていて山頂近くまで車で行けるかと思ったが、実際は車両進入禁止で麓から延々歩きとなったのは誤算だった。
大堀切→DSC02921.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.831735/134.855086/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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平井山本陣(兵庫県三木市) [古城めぐり(兵庫)]

DSC02763.JPG←本陣を囲む土塁
 平井山本陣は、史上有名な羽柴秀吉の兵糧攻め「三木の干殺し」の際に、三木城を取り囲む羽柴軍諸陣営を統括する本陣として、秀吉が在陣した場所である。諸陣営を一望できる最高所に当たり、ここで秀吉は1年8ヶ月にわたる長期包囲戦を指揮し(但し、常に在陣したわけではない)、病身を押して在陣した名参謀竹中半兵衛はこの地で没したのである。また主君織田信長から茶会を許可された秀吉が、初めて茶会を催した場所でもある。
 平井山本陣は、近くまで道が伸びているので、容易に訪城できる。車道から標識に従って山道を数分登ると、頂部にはわずかな土塁で囲まれた10m四方程度の小さな空間があった。本陣と言うにはあまりに小さく、ちょっと拍子抜けした。陣所と言うよりは、陣営を総覧する物見台だったのかもしれない。周囲には平場があると思われるが、天候が悪く時間もなかったので、探索は断念した。よく見て回れば、藪の中にもっと遺構があるかもしれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.811751/135.016115/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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三木城(兵庫県三木市) [古城めぐり(兵庫)]

DSC02692.JPG←本丸~二ノ丸間の空堀跡
 三木城は、羽柴秀吉の長期包囲戦「三木の干殺し」で有名な別所長治の居城である。別所氏は、播磨守護で三管四職に名を連ねる赤松氏の庶流で、嘉吉の乱後、宗家の赤松氏が衰退して播磨国内が群雄割拠の状況になった後、東播磨八郡を支配した大勢力であった。三木城は、明応年間(1492~1501年)に別所則治が築いた。則治は、浦上氏らに追放された置塩城主赤松政則を援助して再び播磨に入れるなどして、赤松家臣団の中で浦上氏に次ぐ実力者となった。天文年間(1532~55年)には、出雲の尼子晴久や三好長慶の攻撃を受けたが、三木城は落城を免れた。戦国時代後期に、織田信長が足利義昭を奉じて上洛し、室町幕府を名目上再興して天下の権を握ると、別所氏は織田氏に気脈を通じた。5代目城主別所長治は、信長の命で毛利攻めの先鋒とされ、信長の部将羽柴秀吉の麾下となったが、間もなく信長から離反した。秀吉は、城が力攻めでは落とし難く、また来るべき毛利との戦いに備えて兵の損耗を防ぐため、長治の拠る三木城を兵糧攻めにした。この長期包囲戦は1年8ヶ月の長きにわたり、1580年1月17日、別所長治以下一族が自害する代わりに城兵を助ける条件で、遂に開城した。その後、三木城には秀吉の家臣杉原氏や中川秀政が城主となったが、関ヶ原合戦後は姫路城主池田輝政の持ち城となり、元和の一国一城令で廃城となった。

 三木城は、美嚢川南岸の比高15m程の段丘上に築かれた崖端城である。城内は住宅地などの市街化が激しいが、城の地形がよく残っている。本丸は上の丸公園となっており、西側に矢倉台や井戸跡が残っている。その南の市立図書館や上の丸庁舎が建っている場所が二ノ丸で、本丸との間の道路は空堀跡であることが明らかである。この下に大手門があったらしい。また東側の新城部分の空堀や腰曲輪も、かなり改変を受けながらも地形的には残っている。南側外郭に当たる鷹ノ尾の出城の外側にも、外堀跡がはっきりと残っている。ざっと見て回っただけでも市街化の中にも城の名残を漂わせており、これ以上の改変がないよう保護してもらいたいものである。
外郭の外堀跡→DSC02738.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.799894/134.987791/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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苔縄城(兵庫県上郡町) [古城めぐり(兵庫)]

DSC08061.JPG←主郭
 苔縄城は、元弘の乱の際に赤松円心が挙兵した城である。1333年、後醍醐天皇は既に隠岐に配流されていたが、後醍醐天皇の子の大塔宮護良親王は再び反幕の兵を挙げ、諸国の武士に挙兵を促す令旨を発した。河内では楠木正成が密かに千早城を築いて兵を挙げ、播磨の土豪赤松円心則村も苔縄城を築いて一族を集めて挙兵した。元弘の乱は、その最終段階で足利尊氏・新田義貞が後醍醐方に付き、六波羅探題・鎌倉を攻め滅ぼして集結したが、円心は早い段階から挙兵しており、その倒幕における功績は楠木正成・名和長年らに引けを取らないものであった。しかし建武の新政では冷遇された為に、尊氏が叛すると足利方に付いて活躍した。その経緯は赤松円心館の項に記載する。以後は白旗城が円心の軍事拠点となっており、苔縄城は元弘の乱の時だけ使用されたと考えられる。

 苔縄城は、標高369m、比高319mの峻険な山城である。しかし城としてはささやかなもので、主郭と腰曲輪だけから成るほぼ単郭の砦で、楠木正成の赤坂城と同じく急ごしらえの城と考えられる。主郭には現在愛宕社が鎮座している。一方の白旗城は、準備万端の築城であったものだろう。苔縄城へは、赤松小学校の裏から登山道が伸びている。きつい登り道で、やはり400m超の白旗城の後での登城は辛い。白旗城・苔縄城を連チャンで登ったら、さすがに足がヘロヘロになった。尚、赤松小裏には段々の削平地があり、赤松氏の屋敷があったとも言われているそうだ。いずれにしても、南北朝フリークや赤松ファン以外はあまり見るべきもののない城であろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.902440/134.347504/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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白旗城(兵庫県上郡町) [古城めぐり(兵庫)]

DSC08005.JPG←大手郭群に残る石垣
 白旗城は、南北朝期に赤松円心が築いた山城である。築城は、1333年に大塔宮護良親王の令旨を受けて円心が挙兵した時とも、足利尊氏が九州に下り、播磨に残った円心が新田義貞の侵攻を食い止めるために1336年に築いたとも言われている。1336年、尊氏討伐のために軍勢を率いて西国に下った新田義貞は、赤松円心の拠る白旗城を数万の大軍で取り囲んだ。しかし天険の要害であったために白旗城は頑として落ちず、攻防は50余日にも及んだ。義貞が白旗城に固執したのは、自身が播磨守護であったため、領国の叛乱を放置出来なかったからとも言われている。しかし義貞がここで貴重な時日を費やしたことが、結果的に後醍醐天皇方の戦略上の大きな失策となり、この間に尊氏は九州諸豪を従えて西上を開始することとなった。逆に尊氏からすれば、義貞軍を長期にわたって釘付けにした円心の軍功は計り知れないものがあり、室町幕府が開かれると赤松氏は播磨守護として揺るぎない地位を築いた。以後、白旗城は播磨守護赤松氏の本城として5代100有余年にわたって重要な位置にあった。赤松氏は播磨の他、備前・美作の守護も兼帯したが、赤松満祐の時に6代将軍足利義教を暗殺して嘉吉の乱が勃発し、幕府の討伐を受けて一時滅亡した。後、赤松政則が赤松氏を再興したが、居城を置塩城に移し、白旗城は支城の一つとなった。戦国時代には守護の赤松氏や守護代の浦上氏によって使用され、戦国末期まで機能したと考えられる。

 白旗城は、標高440m、比高390mを数える峻険な山城である。その規模は強豪守護の本城というに相応しく、城域は広大で各曲輪の規模も大きく、堂々とした山城のイメージである。山頂に本丸を置き、その南尾根に三ノ丸、北尾根には付郭群が配置され、メインとなる本丸から東に伸びる尾根には、馬場丸・二ノ丸・櫛橋丸が築かれ、更にそれらの主要な曲輪の周囲には多くの腰曲輪が付随している。付随する段曲輪も多い城であるが、堀切の数は少なく規模も小さめである。解説板の縄張図では二ノ丸と櫛橋丸の間も堀切とされるが、私が見た限りただの尾根の鞍部にしか見えなかった。また二ノ丸から南に降ると侍屋敷とされる曲輪と、更にその下方に大手郭群があり、ここには多数の石垣が残っている。ただそれぞれの石垣は高さが低く、全体的にかなり崩落が進んでいる。侍屋敷跡には窪地があり、そこには石が散乱しているので、廃城処理した井戸跡ではないだろうか。その他、虎口などは構造が平易な坂虎口が多く、本丸だけが小さな枡形虎口となっている。これらから推測すると、縄張り自体は南北朝時代の結構をそのまま引き継いでおり、戦国期には石垣や段曲輪群などを増強しただけのように思える。この城では何と言っても比高と峻険さが最大の武器で、それ以上の改修の必要もなかったのかも知れない。この峻険さでは、いかに大軍といえども「平場の懸」を得意とする坂東武者の新田義貞では攻め切れなかっただろう。その歴史、規模共に堂々たる山城である。なお赤松方面から登る登山道は、石がゴロゴロ転がっていて足場が悪いので、健脚の方以外は登らない方が良いだろう。
本丸の虎口→DSC07922.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.908185/134.380732/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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赤松円心館(兵庫県上郡町) [古城めぐり(兵庫)]

DSC07763.JPG←館跡の土塁
 赤松円心館は、播磨の守護大名赤松氏の祖赤松円心則村の館跡である。円心は、1331年から始まった元弘の乱の際に後醍醐天皇の子、大塔宮護良親王の令旨を受けて苔縄城で挙兵し、乱の最終段階では京都目前まで迫って六波羅勢と干戈を交えるなど、楠木正成や名和長年に劣らぬ抜群の軍功を挙げた。しかし1333年に鎌倉幕府が倒され、後醍醐天皇による建武の新政が始まると冷遇を受け、倒幕の恩賞では、もともと実効支配していた播磨一国どころか本拠地の佐用の庄一所のみを賜う有様であった。これは円心が、帝との直接のつながりが一切無く、大塔宮の指令のみによって動いたことが原因であった。新政政府の中には帝の寵妃阿野廉子を中心とする隠岐閥と大塔宮派の深刻な対立があったと言われ、そのため大塔宮派の円心は冷遇されたのである。これに怒った円心は、「たとえ朝敵となっても、この恨みを(いつか晴らしてくれよう)。」と言って本国に帰ったと太平記に記されている。そして新政が破綻し、1335年の中先代の乱をきっかけに足利尊氏が離反して京都に攻め上ると、円心は尊氏に味方して西から京に攻め上った。尊氏が京都争奪戦で敗退して兵庫に下ってくると円心は足利勢を自領に迎えて保護した。尊氏は室泊の軍議で、来るべき新田義貞を総帥とする官軍の侵攻に対抗する手立てを講じ、自身は僅かな兵を率いて九州に下って再起を図った。播磨は赤松円心が白旗城に籠って官軍に抵抗した。新田義貞は白旗城を攻めたが中々降せず貴重な時日を費やしている間に、九州では尊氏が多々良浜の戦いで大勝してわずか3ヶ月で頽勢を盛り返し、少弐・大友ら鎮西諸豪を率いて大軍で再挙東上を始めた。新田義貞を白旗城に釘付けにした円心の軍功は抜群で、その後の歴史の流れを大きく変えたと言ってよい。室町幕府成立後の内部抗争、観応の擾乱でも赤松氏は終始尊氏方に従い、3代将軍足利義満が武家の典礼を定めた際には、三管領家に次ぐ四職家に名を連ねる強豪守護大名となった。

 赤松円心館は、白旗城から西に2.2km、苔縄城から北東に1.5kmの位置にあり、段丘上に築かれている。現在は空き地(公園?)と幼稚園の敷地となっていて、館跡の平場の周囲に何段かの腰曲輪らしい平場や土塁の跡が残っている。堀跡もあると解説板にはあるがよくわからなかった。周りがみな宅地に変貌しているので、どこまでが遺構かも判然としないが、円心縁の地として貴重である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.913297/134.360036/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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福原城(兵庫県佐用町) [古城めぐり(兵庫)]

DSC07129.JPG←空堀跡の道路
 福原城は、佐用城とも呼ばれ、赤松氏の一族佐用兵庫介範家が建武年間(1334~38年)に築城したと伝えられる城である。範家は弓矢の名手で、元弘の乱の際、赤松円心の京都六波羅攻めに従い、船上山に向かう幕軍の大手の大将名越尾張守高家を、久我畷の戦いに於いて一閃のもとに討ち取り功を挙げた。その後、赤松36家衆の一、福原隼人がこの城を守った。戦国末期には、織田・毛利の二大勢力の狭間で上月城・高倉城・利神城と共に赤松氏の城郭群を形成していたが、1577年、羽柴秀吉の家臣竹中半兵衛重治・黒田官兵衛孝高らの率いる3千余騎に攻め落とされ、城主福原藤間允則尚は自刃した。福原城はそのまま廃城となった。

 福原城は、佐用川西岸の段丘上に築かれた城で、現在城地はほとんど畑となっている。しかし遺構は比較的よく残っており、最上段の本丸に当たる方形の平場には北側と西側に土塁が残り、特に西側は櫓台となっていた様で、ある程度の広さを持ち、現在はそこに自刃した福原則尚を祀った福原霊社が置かれている。この土塁の西側は切通し状の狭い車道となっていて、空堀跡であった様である。日本城郭大系に拠れば、本丸周囲の段々になった畑も曲輪跡とされている。城とは言っても、どちらかと言うと居館から発展した形態で要害性に乏しく、あくまで地域統治の政庁的拠点であったと考えられ、半兵衛・官兵衛の名軍師に攻められたらひとたまりもなかったであろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.996412/134.351774/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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上月城(兵庫県佐用町) [古城めぐり(兵庫)]

DSC07099.JPG←背後の尾根筋の堀切
 上月城は、尼子氏再興が潰え、尼子氏滅亡の城として知られている。元々は、鎌倉時代末期に上月次郎景盛が大平山に初めて城を築いたと言われている。その後本城を、谷を隔てた南の荒神山に移したと考えられ、これが現在言われる上月城となった。室町時代の播磨は、当初赤松氏が守護として支配したが、嘉吉の乱で赤松氏が滅びると山名氏がこれに取って代わり、後、赤松氏が再興して再び播磨に入るなど情勢が流動的で、上月城主も変遷を経たようである。更に戦国時代に入ると、1538年、月山富田城主尼子晴久が播磨にも進出し、上月城を支配した。しかし毛利元就が尼子氏を降すと、今度は毛利氏が播磨に進出し、上月城主赤松政範は毛利方に付いた。1577年、織田信長の命により播磨に侵攻した羽柴秀吉は、福原城を攻略し、1万5千の軍で上月城を包囲した。そして救援に駆けつけた宇喜多直家の軍を秀吉が退けると、上月城は落城し、政範は自刃した。この時秀吉は、残った城兵を悉く斬首にし、女子供までも串刺し・磔としたと言われる。秀吉は、上月城に尼子氏再興を目指す尼子勝久・山中鹿介幸盛に守らせたが、宇喜多勢に責められて一時撤退し、再び秀吉が奪還して、再度尼子勝久・山中鹿介幸盛が上月城に入った。尼子勢は、利神城を攻め落とすなど、織田方で勢力を伸ばしつつあったが、1578年、毛利氏は3万の大軍で上月城を囲んだ。秀吉は信長の命により援軍を引き揚げた為、上月城は孤立し、勝久は城兵の助命を条件に毛利氏に開城降服し、自らは自刃してここに尼子氏は滅亡した。鹿介は毛利方に捕らえられ、備中に誤送の途中、高梁川の阿井の渡しで斬殺された。その後、上月城は廃城となった。

 上月城は、山中鹿介幸盛が奮戦した歴史上の有名さに比すると、非常にささやかな城である。比高はわずか100m程で石垣はなく、主郭・ニノ郭には土塁も築かれていない。勿論天守台もなく、播磨の名だたる大城郭に比べれば古色蒼然とした土の城である。主郭周囲には腰曲輪が数段築かれて守りを固め、主郭前面に1本とニノ郭裏の尾根筋に2本の堀切があるが、いずれもかなり規模は小さい。攻防の的となった城とは言っても、各勢力の接壌地帯に築かれた出城という位置付けで、支配拠点という意味の城ではなかったと思われる。しかも山陰屈指の大名尼子氏の最後の地としてはあまりに地味で、やはり没落する勢力には協力者が少なかったのかと感じられる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.975439/134.323912/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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利神城(兵庫県佐用町) [古城めぐり(兵庫)]

DSC06910.JPG←三ノ丸の石垣
 利神城は、播磨守護赤松氏の庶流別所氏の築いた城である。南北朝期の1349年、別所敦範が白旗城の北の守りとして城を築いたのに始まる。別所氏は光則の代に嘉吉の乱が起こり、主家赤松氏と共に衰亡したが、応仁の乱の際に別所治定は再興された赤松政則を助けた功により、利神城主に復帰した。戦国時代後期の1578年、尼子氏再興を図って上月城にあった山中鹿介幸盛は、別所林治の拠る利神城を攻め落とした。その後は宇喜多秀家の持ち城となったが、宇喜多氏は1600年の関ヶ原の戦いで敗北・滅亡し、姫路城に入部した池田輝政が、甥の池田由之を3万石で利神城主とした。利神城が、今に残る近世城郭へと改修されたのは由之の時である。その後、1631年に池田氏が赤穂城に転封となると、利神城は廃城となった。

 利神城は、標高373m、比高233mの利神山に築かれた山城である。山頂部は木が伐採されているので、麓からでも城の勇姿を眺めることができる。総石垣の城で、最高所に天守台を置き、Y字状に曲輪を配置している。二ノ丸・三ノ丸は郭内にややきつい傾斜があり、削平が不十分であるので、あまり大きな建物はなかったと思われる。各曲輪は虎口構造が明確で、鴉丸と呼ばれる本丸には面白い事に梯子を架けたと思われる埋門がある。各曲輪の外周には高い石垣が築かれ、斜面に沿った登り石垣に近い城塁となっており、大きいものでは高さ最大5m程、長さは30m程にもなる。石垣の外にはほとんど犬走りがない場所もあり、よくこんな斜面上にこれだけの石垣を積むことができたものだと感心する。しかし所々かなり石垣の崩落が進んでおり、この城に登るのは危険とされている。堀切は無く、各曲輪は大した広さはないので、それ程大規模な山城というわけではない。これらの諸点で、若桜鬼ヶ城と非常に似通った印象がある。利神城も、若桜鬼ヶ城と同様見応えがあって素晴らしい。石垣はこれ以上崩壊しないよう、何らかの保護措置を施して欲しい。尚、城の北側には途中まで車道が伸びているが、訪城した時は途中で道が崩落し通行不能となっていたので、大手道から登城した。ちなみに、山麓のやや離れた場所には城主居館跡の石垣も残っている。
利神城遠望→DSC06854.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.046107/134.377459/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:近世山城
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