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直江石堤(山形県米沢市) [その他の史跡巡り]

IMG_1329.JPG←野面積みの石堤
 直江石堤は、正式には谷地河原堤防と呼ばれ、上杉景勝の執政直江山城守兼続が築いた堤防である。1600年、豊臣秀吉亡き後に独断を強めた徳川家康に対して激しく抗した為、関ヶ原合戦の導火線となった会津の上杉景勝は、関ヶ原合戦で西軍敗戦の後、会津120万石から大減封されて米沢30万石に移された。兼続は、景勝の居城となった米沢城下の町作りの為に、洪水の多発地帯であった最上川に築堤が不可欠と判断して、近くの赤崩山に登って形勢を検討し、この石堤を築いたと言われている。
 また、石堤の上流2.5km程の所に掘立川に導水するための堰、猿尾堰が築かれたが、兼続は堰の着工前に城下の水難火難の無事を祈って、「龍師火帝の碑」を建立したと言う。

 直江石堤は、現在公園化されており、公園の西側に延々と堤防が伸びている。現在の最上川の流路からは結構離れた場所にあるが、これは近年の河川改修によって大きく流路が変えられたためらしい。多くは雑草に埋もれているが、一部に野面積みの石堤がはっきりと見られ、特に県道151号線の下流側は規模が大きく見応えがある。
 また、龍師火帝の碑は中ノ在家楯に程近い場所にあり、城に登る前に立ち寄った。改修された導水路の脇に往時の石碑が整備されて建っており、「龍師火帝」の文字が刻まれているのがはっきりと分かる。少々行き辛い場所にあるが、兼続ゆかりの遺蹟として一見の価値がある。
龍師火帝の碑→IMG_1339.JPG

 場所:【直江石堤】http://maps.gsi.go.jp/#16/37.867231/140.121185/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
    【龍師火帝の碑】http://maps.gsi.go.jp/#16/37.844969/140.123631/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


実伝 直江兼続 (角川文庫)

実伝 直江兼続 (角川文庫)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 角川学芸出版
  • 発売日: 2008/12/25
  • メディア: 文庫


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有明の松(茨城県石岡市) [その他の史跡巡り]

IMG_1159.JPG←有明の松、後ろは難台山
 有明の松は、南北朝時代の難台山合戦にまつわる史跡である。難台山合戦は、下野の名族であった小山義政が始めた、前後17年にもわたって引き続いた「小山氏の乱」の一合戦である。その経緯は館岸城の項に記載する。義政の子若犬丸は、小田氏を頼って難台山城に立て籠もり、上杉朝宗率いる幕府軍に攻められ、8ヶ月に及ぶ籠城戦の末に難台山城は落城した。この落城の際に、城主小山五郎藤綱は婦女子を城から逃した。5~6名の従者に守られた婦女子は、敵の包囲する東側を避けて、一旦山頂まで登った後、手足を血だらけにしながら闇の中を西へと降って行った。敵の追撃を避けるため、夜が明けるまでに里に下り、ようやく平地に辿り着いたところで夜明けを迎えた。ここまで来てようやく安心し、道沿いにある大松の下で一休みした時、夜明けの空が爽やかであったので、自分等の行先も、この松にあやかり、長くたくましかれとの念願から有明の松と名付けてここを立ち去ったと伝えられている。
 現在、往時の松は松クイ虫の害で伐採されて残っておらず、新たに植えられた松と石碑が建っているだけである。ここからは東方背後に難台山城が遠望でき、悲哀の歴史を感じさせる。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.289816/140.200689/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


小山氏の盛衰 下野名門武士団の一族史 (中世武士選書 第27巻)

小山氏の盛衰 下野名門武士団の一族史 (中世武士選書 第27巻)

  • 作者: 松本一夫
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/05/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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三ツ木原古戦場(埼玉県狭山市) [その他の史跡巡り]

IMG_0851.JPG
 三ツ木原古戦場は、新興勢力である小田原の北条氏綱と旧勢力である扇谷上杉朝定が戦った古戦場である。父伊勢宗瑞(北条早雲)の創業を受け継いで着々と関東に勢力を広げた2代氏綱は、1524年に要衝江戸城を攻略し、その後武蔵への勢力拡大に向けて扇谷上杉朝興と激しい攻防が続けられた。一旦は、岩槻城蕨城毛呂城などを攻略して河越城に向けて北上を続けた北条勢であったが、扇谷上杉方の激しい逆襲に遭い、これらの諸城を奪還された。しかし天文年間(1532~55年)に入ると、安房里見氏・上総真里谷武田氏の内訌と上杉朝興の死を契機として両勢力の均衡が崩れ、1537年氏綱は、朝興の跡を継いだ上杉朝定が新たに取り立てた深大寺城(神太寺古要害)を攻略し、そのまま河越城へ向けて進撃した。一方、河越城の朝定は、北条勢迎撃のため叔父の上杉朝成を大将とする軍勢を差し向け、三ツ木原で両軍は激突した。氏綱はこの合戦に打ち勝ち、上杉方の大将朝成も生け捕りとなった。この敗戦に、朝定は河越城の維持を諦めて重臣難波田氏の拠る松山城に移り、氏綱はそのまま河越城を攻略した。享徳の乱以来、扇谷上杉氏の本拠であった河越城が落ちたことで、扇谷上杉氏の衰退は決定的なものとなった。

 尚、三ツ木原では、1333年の新田義貞による鎌倉攻めの際にもこれを迎え撃った幕府軍との間で合戦があったとされる。また現地解説板では、1440年の結城合戦に関連して上杉勢と結城勢の間でも、この地で合戦があったとされるが、詳細は不明である。

 三ツ木原古戦場は、新狭山駅に程近い本田技研の隣の三ツ木公園に石碑が建てられている。周辺は市街化が進み、かつての古戦場らしい面影は微塵もない。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.874898/139.436170/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:古戦場
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苦林野古戦場(埼玉県毛呂山町) [その他の史跡巡り]

IMG_0828.JPG←古墳上の石碑と解説板
 苦林野古戦場は、南北朝時代の古戦場である。1351年の観応の擾乱の時、実弟足利直義を破って室町幕府権力の一元化を成し遂げた足利尊氏は、薩埵山合戦の勝利に大きく貢献した宇都宮氏を上野・越後の守護とし、その重臣芳賀氏をその守護代に任じて、両者を鎌倉府の中核に据えた「薩埵山体制」を構築して鎌倉府の体制を刷新した。しかし尊氏が死ぬと、鎌倉公方足利基氏(尊氏の次男)は、かつて幼い自分を養育した重臣でありながら、直義方に付いたため尊氏に追放された上杉憲顕を、再び執事(関東管領)に復帰させようとした。1362年のことである。その為、まず宇都宮氏の越後守護職を取り上げ、元の憲顕を越後守護に任じた。この処置に守護代であった芳賀禅可が反発し、上杉方と越後で戦った後に南下して上野に入った。一方、基氏は、反旗を翻した禅可を討伐するため平一揆・白旗一揆らを引き連れて武蔵に着陣し、禅可と合戦を行った。これが武蔵岩殿山合戦と呼ばれる戦いで、苦林野はその主戦場であったと『太平記』に記載されている。この戦いに打ち勝った基氏は、宇都宮氏を討伐するためそのまま下野に進軍し、ここで宇都宮氏綱の降伏を受け入れた。これによって薩埵山体制は終焉を迎え、鎌倉府(鎌倉公方・関東管領)の歴史は新たな段階に入ることになった。
 尚、室町後期に生起した長尾景春の乱の際、景春派の討伐に当たった扇谷上杉氏の家宰太田道灌が、景春の部将矢野兵庫助と1477年にこの地で激突したと伝えられている。

 苦林野古戦場は、善能寺塁から北西に240mの付近にある。小さな前方後円墳の上に、石碑と解説板が建っている。また、古墳の後円部には江戸時代後期に建てられた供養塚が残っている。戦いの規模はそれほど大きくないが、中世関東の歴史の一つの転換点となった場所であり、感慨深い。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.964348/139.352018/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:古戦場
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境根原古戦場(千葉県柏市) [その他の史跡巡り]

IMG_9788.JPG←合戦の首塚・胴塚
 境根原古戦場は、酒井根合戦場とも呼ばれ、室町時代後期に太田道灌と千葉孝胤が一戦を交えた古戦場である。1476年に生起した長尾景春の乱の際に、景春方に付いた千葉一族討伐の為、1478年、扇谷上杉定正は家宰の江戸城主太田道灌と赤塚城主千葉自胤(武蔵千葉氏)らを下総国府台に向けて出陣させた。対する千葉孝胤は、原景弘・円城寺図書之助・臼井俊胤ら一族重臣を率いて境根原で迎撃した。合戦の様子は明確には伝わっていないが、『鎌倉大草紙』によれば孝胤の重臣木内氏・原氏らが討死したとされ、相当の激戦の末に孝胤方が敗れ、孝胤は一族の臼井持胤・俊胤の守る臼井城に籠城した。翌年正月、道灌は弟の図書助資忠・千葉自胤を率いて臼井城を攻囲したが、守りが堅く容易に落ちなかった。太田資忠は、ようやく臼井城を落城させたが、自身は乱戦の最中に討死したと伝えられている。

 境根原古戦場は、現在は光ヶ丘団地に変貌している。最も激戦が展開されたのは麗澤大学附近の小字赤作であったと言われ、赤作の名も一説には、討死した将兵の血でこの付近の野原が真っ赤に染まったことから付いたとも言う。いずれも既に景観が失われて久しいが、団地の中に合戦の首塚・胴塚と伝わる2基の円球状の塚が残っており、往時の歴史を伝えている。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.828336/139.959155/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:古戦場
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源頼朝上陸地(千葉県鋸南町) [その他の史跡巡り]

IMG_9263.JPG
 源頼朝上陸地は、石橋山の合戦で大敗した頼朝が、再起を期して安房に逃れた際に上陸した場所である。1180年、頼朝は、平家の専横を憎む以仁王の令旨を受けて、平家打倒の兵を挙げたが、攻め寄せた大庭景親らの平家軍と石橋山で戦い、衆寡敵せず大敗した。敗走した頼朝は山中に逃げ込み、土肥実平の手引によって真鶴の岩海岸より小舟で脱出し、安房へ落ち延びた。上陸地点の猟島が現在の鋸南町竜島とされ、頼朝はここで北条時政、三浦義澄らに迎えられて合流した。この後、房総一の兵力を擁していた上総介広常の元へ向かうべく、長狭に移動し、ここで平家方の豪族長狭常伴の襲撃を一戦場で撃破して、安西景益の館(平松城か?)に入った。その後、坂東各地の豪族に書状を送って味方を募り、源氏恩顧の諸豪を従えた頼朝は、鎌倉に入って武家政権樹立の基を築いた。

 源頼朝上陸地には、現在石碑と解説板が建っている。この海岸からは対岸の三浦半島がよく見えるが、頼朝が船出したのは更に遠く相模湾を越えた伊豆半島で、どれほどの時間と労苦を費やしてこの地まで逃れたかは想像に余りある。今では、夏にはのどかにバーベキューなどが行われる浜辺である。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.118071/139.828461/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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善得寺跡(静岡県富士市) [その他の史跡巡り]

IMG_9050.JPG←善得寺跡の石碑
 善得寺は、戦国史上に名高い、甲相駿三国同盟が締結された寺である。1363年に下野国那須雲巖寺の大勲策禅師が開山した寺で、戦国期には駿河東部第一の寺となり、善得寺城も併設されたと言われる。天文年間(1532~55年)、駿河の今川義元、甲斐の武田信玄、相模の北条氏康の間で駿河東部を中心とした抗争が繰り広げられたが、上洛を目指して西に進出したい義元、北信を巡って越後上杉氏との抗争を行う信玄、関八州制圧を目指して東と北に勢力を伸ばしたい氏康の、3者の思惑が一致し、今川義元の軍師で善得寺の住持でもあった太原雪斎の仲介により、1554年、甲相駿三国同盟が締結された。この時、善得寺で今川・北条・武田の3大名の会盟があったといわれ、「善得寺の会盟」とも称されるが、3大名の当主が一堂に会して、と言うのは史実としては疑わしいとされている。後に武田氏が同盟を破棄して駿河に侵攻すると、善得寺は尽く兵火により焼失した。

 善得寺の場所には、いくつかの説がある様だが、一つは善得寺城址とされる場所、もう一つは現在の善得寺公園付近である。この公園内には、歴代住持の墓の中に太原雪斎の墓も残っている。現在では小さな公園に過ぎず、場所の比定もされていないものの、戦国史に名高い場所として一度は訪れておきたい場所である。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.168872/138.696165/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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木原畷古戦場(静岡県袋井市) [その他の史跡巡り]

IMG_8975.JPG
 木原畷古戦場は、三方ヶ原の戦いの前哨戦として行われた戦いの場である。1572年、室町幕府将軍足利義昭の要請に応えて西上作戦を開始した武田信玄は、信濃から青崩峠を越えて遠江に侵攻した。天竜川沿いに南下した信玄の本軍は、途中徳川方から寝返った犬居城主天野景貫の先導を得て天方城などを降しつつ南下を続けた。信玄は、一説には久野城を攻めたが久野宗能の激しい抵抗に遭ってそのまま通過したと言われ、東海道を西に向かって木原・西島に陣を張った。一方、浜松城の徳川家康は寡兵であったが、遠江の動揺を恐れて出陣した。この時、徳川方の偵察隊内藤信成・本多忠勝が木原畷で武田軍と衝突し、小競り合いを行ったとされる。即ち木原畷の戦いは、来るべき三方ヶ原の戦いに至る前の、小規模な局地戦であった。敗れた徳川勢は敗走し、これを追撃した武田勢との間で一言坂合戦が行われ、本多平八郎忠勝が活躍して勇名を馳せることとなった。

 木原畷古戦場は、許禰神社に石碑と解説板が建っている。神社のすぐ南の道路は旧東海道で、近くに一里塚も築かれている。木原畷も一言坂も東海道筋の戦いで、街道を押さえることがいかに重要だったのかを現代に伝えている様である。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.743975/137.902054/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:古戦場
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会下山楠木正成本陣跡(兵庫県神戸市) [その他の史跡巡り]

IMG_8885.JPG
 会下山は、1336年の湊川合戦の際に楠木正成が本陣を敷いた場所である。この年の正月、京都争奪戦に敗れた足利尊氏は、丹波を経由して、赤松円心の勢力圏であった兵庫まで退き、更に室の津まで落ち延びた。ここで「室泊の軍議」と呼ばれる、今後の行方を左右する重要な軍議が開かれた。即ち、尊氏が一旦九州まで落ち延びてから再挙東上する迄の間、多くの一族武将を西国各地に派遣して、来るべき新田勢による追撃の防衛に当たらせることにしたのである。こうして今後の処置を抜かりなく行った尊氏は僅かな兵を連れて九州に向かい、少弐頼尚に迎えられて筑前に入った。多々良浜の合戦で、兵数的に圧倒的な不利な状況にもかかわらず、大逆転によって勝利した尊氏は、鎮西諸豪を傘下に収め、都での敗戦から僅か3ヶ月で態勢を立て直し東上を開始した。5月10日に備後の鞆の津を発向した足利勢は、尊氏が水軍を率いて海路を進み、弟の直義が大軍を率いて陸路を並進した。備中福山城三石城の新田勢を追い散らし、足利勢は兵庫に迫った。24日、直義は陸路軍を三手に分け、中央の大手軍を直義が直率し副将に高師泰、山の手軍の大将を斯波高経、浜の手軍の大将を少弐頼尚として進撃した。対する新田義貞は、二本松から和田の岬にかけて本軍を布陣して尊氏の直率する水軍の上陸に備え、和田の岬北西に位置する会下山に楠木正成が本陣を敷いて、足利方の陸路軍に備えた。合戦が始まると、足利方は水軍を擁する利点を活かして、細川定禅率いる水軍を新田軍の背後に当たる生田の森に迂回上陸させ、義貞を東西から挟撃する姿勢を示した。義貞は挟撃の危険に晒されて全軍を東に後退させた為、会下山に拠る楠木軍は孤立することとなった。正成は、元々この合戦に臨むに当たって死を覚悟していたと言われ、眼下に迫る足利の大軍を前に一歩も退かず、奮戦して一族もろとも自刃して果てた。尊氏は、正成の死を深く悲しみ、首実検して軍法に従って梟首した後、河内の遺族の元に首を送り届けたと伝えられている。

 会下山は、標高50~60m程の丘陵地で、ここからは義貞が全軍を布陣させた浜手から大阪湾を一望できる要衝で、会下山公園内に東郷平八郎の筆になる「大楠公湊川陣之遺蹟」と刻まれた石碑が建っている。公園付近は急峻な地形と狭い路地が入り組んだ住宅地に囲まれているので、車だと近づくのも容易ではない。往時はなおのこと、近づき難い地形だったことだろう。ここに布陣した正成の心中はいかばかりであったろうか。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.677758/135.157446/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:古戦場
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上杉氏発祥地(京都府綾部市) [その他の史跡巡り]

IMG_7628.JPG←「上杉姓氏発祥之地」の石碑
(2014年4月訪問)
 上杉氏は、勧修寺流藤原氏の流れより出た中級官人の家柄であった。その祖、勧修寺(藤原)重房は、鎌倉幕府6代将軍として京都から宗尊親王が迎えられた時、親王に従って鎌倉に下向した。重房は丹波国何鹿郡上杉荘を賜り、上杉氏を名乗った。その子頼重の娘清子が足利貞氏に嫁して、尊氏・直義を生んだことで、足利氏の姻族として飛躍する機会を得た。清子の兄憲房は、若き尊氏の良き相談相手となって1336年正月の京都争奪戦で尊氏を庇って討死にし、その子憲顕は、初期の室町幕府を兄に代わって主宰した直義から絶大な信任を得て鎌倉府の執事となり、以後上杉氏の活動の拠点は関東と守護管国であった越後に移った。憲房の系統を主として、山内・扇谷・詫間・犬懸の4つの上杉氏が勢力を有し、「上杉四家」と呼ばれた。当初、関東管領には上杉四家が相次いで就いたが、途中からは山内上杉氏の系統のみがこれを世襲することとなった。戦国時代に入ると、小田原北条氏が勢力を伸ばし、3代氏康が河越夜戦で大勝して一気に関東南半の覇権を握ると、山内上杉憲政は領国の上野も支えられず、越後守護代の長尾景虎を頼って落ち延びた。景虎は憲政の請いを容れて関東に出兵、北条氏の居城小田原城を包囲し、鶴岡八幡宮で関東管領職に就任し、上杉氏の名跡を譲られて上杉政虎(後の謙信)と名を改めたことは、よく知られている通りである。

 この上杉氏の発祥の地が、綾部市にある。国道27号線の上杉交差点の付近で、線路を越えて東側に「上杉姓氏発祥之地」の石碑が建っている。ここから一山越えれば、そこはもう丹後の舞鶴で、上杉荘は丹波の北端に位置していることがわかる。南北朝フリークにとっては避けては通れない史跡の一つである。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.360925/135.317252/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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足利尊氏挙兵地(京都府亀岡市) [その他の史跡巡り]

IMG_6237.JPG
 室町幕府の初代将軍となった足利尊氏は、元の名を高氏と言った。鎌倉幕府の御家人筆頭として、また頼朝の血脈が絶えて以来の源氏の嫡流として、鎌倉幕府の執権北条氏から厚遇を受け、得宗北条高時の一字を拝領して、高氏と名乗っていた(得宗とは北条氏の惣領のこと)。しかし鎌倉時代後期になると北条氏の得宗専制体制が強化され、得宗家の家来筋に当たる内管領が権勢を強め、また諸国の守護も多くを北条一門が独占する様になると、足利氏も圧迫を受けるようになったと考えられている。そして1333年、隠岐に流されていた後醍醐天皇が、島を脱出して名和長年の支援で伯耆船上山に立て籠もると、狼狽した幕府首脳は名越氏などの北条一門と共に、高氏を船上山討伐に出陣させた。途中分国であった三河で一族の軍勢と合流して上洛した高氏は、京から丹波に入り、伝来の所領であった丹波篠村の篠村八幡宮に本陣を敷くと、この地で後醍醐天皇の綸旨を掲げ、倒幕の旗を挙げて全国の武家に参陣を促した。そして、一族と共に戦勝祈願の願文を捧げた。4月29日のことであったと伝えられる。こうして挙兵した高氏の元には、北条氏支配に反感を募らせていた諸国の武家が多数参集し、高氏はこれらを率いて京に進撃し、5月7日に六波羅探題を滅ぼして、建武の新政が始まる端緒となった。京に還幸した後醍醐天皇は、高氏を勲功第一とし、多くの所領と共に、自らの諱「尊治」の一字を与え、「尊氏」と名を改めさせた。
 しかしこうして始まった建武の新政は失政相次ぎ、諸国の武家の不満は以前にも増して高まった。そして1335年の中先代の乱を契機として、尊氏は新政より離反し、伊豆竹之下で新田義貞の討伐軍を打ち破り、再び京都に進撃した。しかし翌36年1月30日、一旦制圧した京都攻防戦に敗れた尊氏は、再び丹波篠村八幡宮に逃れてここで残兵を集め、再起を祈願した。この後、兵庫に出て、室津から九州に落ち延びた尊氏は、瞬く間に勢力を盛り返し、室町幕府を開くこととなった。

 足利尊氏の挙兵の地である篠村八幡宮は、亀岡市街の東の外れに位置する。それ程大きくはない、よくある程度の広さの境内と社殿に過ぎないが、「足利高氏旗あげの地」という石碑の他、足利一門が矢を奉献して塚の様になったという「矢塚」や、足利家の軍旗を掲げた「旗立楊(やなぎ)」などの史跡が残り、太平記や梅松論に伝えられる往時の状況が、目に見える様である。よく見ると、境内の林の中に土塁状の土盛が見られたが、まさか往時の陣跡であろうか?この地を訪れるのは2000年以来14年ぶりで、何とも懐かしかった。
矢塚→IMG_6243.JPG
IMG_6245.JPG←旗立楊
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.002731/135.611286/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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東金御殿(千葉県東金市) [その他の史跡巡り]

IMG_2570.JPG←御殿跡の現況
 東金御殿は、徳川家康の鷹狩りの際の宿泊施設である。家康は、江戸開府後、関東各地で鷹狩を行い、その際に御殿建設を命じたが、東金御殿もその一つである。家康の命を受けた佐倉城主土井利勝が、1613年から翌年にかけて東金代官嶋田次右兵衛尉重次伊栢を造営に当たらせたもので、東金辺で鷹狩りを行なう将軍(大御所)の宿泊施設であった。しかし1630年の大御所秀忠の御成りを最後に鷹狩りは行なわれず、1671年に東金が幕府直轄地から福島の板倉藩領となった際に、御殿は取り壊されたと言う。
 東金御殿は、現在の県立東金高校の敷地にあった。ここはかつての東金城の東麓に当たる。周辺は市街化が進み、遺構は全く残っておらず、解説板が建つだけである。尚、小西城下の正法寺には、東金御殿の御殿建築の一部が移築され、講堂となって残っている。
正法寺に残る御殿建築→IMG_2467.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:hhttps://maps.gsi.go.jp/#16/35.560063/140.356481/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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発坂峠古戦場本陣跡(千葉県いすみ市) [その他の史跡巡り]

IMG_6953.JPG
 発坂峠古戦場は、万喜城主土岐頼春が押し寄せた安房里見氏の軍勢を撃ち破った古戦場である。戦国末期の1589年、それまでの度々の万喜城攻撃に失敗してきた里見義康は、またしても万喜城攻撃に軍勢を派遣した。安西遠江守が大手から、山川豊前守が搦手から攻撃し、正木頼忠が後詰となった。里見勢は、別働隊300人を坂水寺・発坂峠経由で東から背後に回り込ませて、前線に出張った頼春を挟撃しようと目論んだ。しかし武略に優れる頼春は、農民からの注進で里見軍の動きを察知し、旗立山に陣を移し、発坂峠に伏兵を配置して待ち伏せし、里見勢を撃破大勝したと言う。

 発坂峠古戦場は、国道465号線沿いにあり、閉鎖された旧道トンネルの手前に小さな神社と「発坂峠古戦場本陣跡」と刻まれた石碑が建っている。ここから50m程の高さを登れば旗立山に至り、そこにも石碑や解説板がある様だが、訪問した時はもう日没間近で登ることはできなかった。1589年と言えば小田原の役の前年で、豊臣秀吉と小田原北条氏の軍事的緊張が極度に高まっていた時期である。発坂峠の戦いは、歴史の本流からは外れた、房総半島の一角での局地戦に過ぎないが、土岐頼春の武名を遥か後世にまで轟かせる戦いとなった。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.266844/140.367413/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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犬掛古戦場(千葉県南房総市) [その他の史跡巡り]

IMG_4198.JPG←古戦場の碑と解説板
 犬掛古戦場は、安房里見氏の内乱「天文の内訌」の古戦場である。伝承では、1518年に里見義通が病没すると、その嫡子義豊がまだ幼かったため、弟の実堯が後見役となって家中を取り仕切った。その後、義豊が元服しても実堯は国を譲らず、1533年、義豊は叔父実堯を稲村城に攻め滅ぼした。しかし翌34年、今度は実堯の嫡子義堯は小田原の北条氏綱の支援を得て、父の仇である義豊を犬掛に攻め破り、討ち滅ぼしたとされる。これによって里見氏の家督は、庶流の義堯の系統に移り、これ以後を後期里見氏とも称する。
 但し、近年ではこの伝承に異説が出て有力視されているらしい。即ち、義通の没後、義豊が里見家当主になっている明証があることから、実堯が実権を握っていたのではないらしい。北条氏の支援を得て不穏な動きを見せていた叔父実堯を、当主の義豊が自身の居城稲村城に呼び出して、誅殺したのではないかとする。後に義豊から家督を奪った義堯が、自身の正当性を主張するために、仇討ち話を作ったとするものである。いずれにしてもこの内乱の実態は、義豊を支援する小弓公方足利義明・扇谷上杉朝興・真里谷武田氏と、扇谷上杉氏と熾烈な抗争を続けて義堯を支援した北条氏綱との代理戦争であったと考えられている。

 犬掛の戦いは、里見氏の支城滝田城里見番所の間に広がる平久里川の氾濫原で行われた。東の山裾には古い小さな「古戦場」と刻まれた石碑と解説板が建てられている。また、その北東100m程の所には里見義通・義豊父子の墓が建っている。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.078749/139.903400/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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三船山古戦場(千葉県君津市) [その他の史跡巡り]

IMG_3118.JPG←山頂部の砦跡
 三船山古戦場は、小田原北条氏と安房里見氏の間で戦われた古戦場である。1564年、第二次国府台合戦で里見氏を撃ち破った北条氏は、勝浦正木氏や東金酒井氏らを従属させ、上総侵攻の機会を伺っていた。1567年、上総の重要拠点で里見義弘の本拠でもあった佐貫城を攻略する為、三船山に砦を築いて藤沢播磨守・田中美作守らに守らせた。一方、体勢を立て直した里見氏は、佐貫城防衛の為逆襲に転じ、三船山砦に攻め寄せた。急報を受けた北条氏政は小田原城を出立して江戸湾を渡海し、三船山砦に本陣を敷いた。里見方は正木時茂の養子憲時率いる8000余騎の本隊が佐貫城から出陣して三船山の北条勢に突撃した。激戦の中、時茂率いる里見方別働隊が北条勢を背後から急襲し、挟撃された北条勢は一気に劣勢に陥り、殿を務めた岩槻城主太田氏資が討死して北条氏は大敗を喫した。この敗北によって、北条氏の両総攻略は一大蹉跌を余儀なくされ、一旦従属した国衆は再び離反した。一方、追い込まれていた里見氏は勢いを盛り返し、下総に侵攻するなど1576年の北条氏との和睦まで優勢を保つこととなった。

 三船山古戦場は、標高138.7mの三船山一帯で戦われた。この山の山頂部は広くなだらかな丘陵地となっており、それほど標高は高くないが眺望に優れ、東京湾一帯が一望できる。大軍を駐屯させるには便利であろうが、地形的な要害性はそれほどなく、また現在でも複数のハイキング路が整備されているので、攻め寄せやすい地勢だったものと思われる。山頂部には「三船山陣跡」の標柱・解説板が設置され、そこからやや東に離れた場所に、大きな塚が3つ築かれている。これはこの戦いで戦死した北条方の将兵を弔ったものらしい。ハイキングに適した、房総半島の戦国史の転機となった古戦場である。
山頂に残る塚→IMG_3124.JPG

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.300340/139.894332/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:古戦場
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武田勝頼滅亡地(山梨県甲州市) [その他の史跡巡り]

DSC08301.JPG←景徳院に残る勝頼達の墓
 武田勝頼は、武田信玄の4男で、信玄死後の武田氏を率いた。「率いた」と言うのは、家督は継いでいなかった可能性があるからである。信玄が今際の際に家督を継がせたのは、孫に当たる勝頼の子信勝で、勝頼は信勝が元服するまでの後見に過ぎなかったという説がある。それは「勝頼」の名乗りから見ても説得力がある。「頼」の字は勝頼の母方諏訪氏の通字で、甲斐武田氏の通字「信」は使っていないからである。そうした微妙な立場上からの劣等感があったのか、勝頼は父信玄の喪が明けてから、積極的な外征策に転じる。戦巧者の信玄でさえ落とせなかったとされる遠江の要衝高天神城を落とし、西へ西へと兵を進めた。しかし1576年、長篠設楽ヶ原で織田・徳川連合軍を強攻して致命的な大敗を喫し、信玄以来の多くの重臣を失い、武田氏の勢力拡張は終わりを告げた。1578年の越後上杉氏の内乱「御館の乱」では、景勝・景虎両者の和睦仲介に失敗し、景勝と和睦したことで景虎の敗北を招いた。景虎は北条氏政の実弟であったため、景虎の滅亡により小田原北条氏との同盟関係は破綻し、勝頼は上杉氏との同盟を結んだ。一方の北条氏は、西の徳川家康と同盟し、駿河・遠江において武田領を東西から挟撃する態勢を取った。勝頼は、戦場では勇猛な武将であったが、政略は稚拙であったらしい。殊に北条・徳川からの挟撃を許した外交の失敗は、武田氏の命運に深刻な事態をもたらした。西から徳川が攻めてくれば出撃してこれを撃退したが、すると今後は東から北条が攻めてくる。結局字義通り東奔西走して両軍を追い払うのに手一杯となり、国内は疲弊するばかりとなった。そして1582年、木曽義昌の武田氏からの離反をきっかけとして、織田軍による甲州征伐が開始された。信長の嫡子信忠と滝川一益を先鋒とした織田軍は伊那谷を進撃し、徹底抗戦した高遠城を除いて武田方は総崩れとなった。勝頼は領国の崩壊を前に軍議を開き、新たに居城としたばかりの新府城を自焼し、小山田信茂の岩殿城に落ち延びることに決した。しかし笹子峠まで来た所で信茂の裏切りを知り、やむなく天目山に籠もって最後の防戦をすることとなった。この時の勝頼主従は、わずか50名ほどであったと言われる。しかし田野で滝川一益の軍勢に捕捉され、秋山紀伊守光継・阿部加賀守・小宮山内膳正友信・土屋惣蔵昌恒らが迫り来る織田軍を激闘して防ぐ中、勝頼とその妻北条夫人、嫡子信勝は田野で自刃し、ここに新羅三郎義光以来の源氏の名門甲斐武田氏は滅亡した。

 ぶどうの産地として有名な勝沼より東、国道20号線から県道218号線にかけて、勝頼の最後の足跡が点々と記されている。勝頼主従が投宿し、縁者の理慶尼がその最後の有り様を語り継いだとされる大善寺や、四郎作古戦場・鳥居畑古戦場・土屋惣蔵片手切などである。そして景徳院には勝頼・北条夫人・信勝の墓があり、その遺骸を葬った場所に建てられた没頭地蔵や、自刃した生害石が残っている。これらの点在する史跡を西から辿ると、勝頼主従が徐々に山間の地に追い詰められていったことがよくわかり、いやが上にも滅亡の悲劇性が増してくる。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.641202/138.803469/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
    (景徳院)
タグ:墓所
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浦添ようどれ(沖縄県浦添市) [その他の史跡巡り]

DSC05528.JPG←陵墓の復元石垣
 浦添ようどれは、琉球王国中山王の陵墓である。英祖王統の初代英祖王が1261年に築いたと言われ(但し英祖王統はまだ実在が確定していない)、1620年に尚寧王が修築して、英祖王墓の傍らに尚寧王自身と尚寧一族の陵墓を築いた。尚、「ようどれ」とは夕凪の意味である。
 浦添ようどれは、浦添城の北側の山腹に築かれている。琉球風の、角部が弧を描いた総石垣の壮麗な陵墓であったが、沖縄戦で徹底的な破壊を受け、岩盤まで破壊されるほどの被害を受けたが、近年往時の姿に再建復元された。本土の陵墓や石垣技術と比べると明らかに異質なもので、現在は日本国として一括りにまとめられている沖縄が、かつては完全に独自の文明を花開かせていたことが、浦添ようどれを見るとよく分かる。墓室は横穴式で、内部も石造りにしており、英祖王陵である西室の内部は、付近にある「浦添グスク・ようどれ館」に復元されており、見ることができる。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/26.247986/127.731010/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:墓所
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梶原塚(静岡県静岡市葵区) [その他の史跡巡り]

DSC05115.JPG←山頂の梶原塚
 梶原塚は、鎌倉幕府創業の功臣梶原景時終焉の地である。景時の事績については梶原景時館の項に記載する。1199年、2代将軍頼家の時、鎌倉の御家人衆から弾劾されて鎌倉を追放された景時は、翌年1月再起を期して一族を率い上洛の途に就いた。しかし清美ヶ関付近で鎌倉の命を受けた駿河の武士達に発見されて合戦となった。一族家臣33人は死力を尽くして戦ったが次第に討ち取られ、最後を覚悟した景時とその子景季、景高の3人は、牛ヶ谷の山(現在の梶原山)の山頂を目指して登っていった。そして、湧き水で顔を洗い、喉を潤し、鬢のほつれを直して身を整え、山頂で自害して果てたと言う。
 現在梶原山の山頂は公園化され、景時親子を供養した塚が建ち、地元で梶原塚と呼ばれている。また「梶原景時終焉之地」と刻まれた立派な石碑も建てられている。山頂からは駿河湾が一望できる景勝地で、その無念さとは裏腹に良い死に場所を得たのだと、わずかながら心慰められる。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.023267/138.431500/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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一言坂古戦場(静岡県磐田市) [その他の史跡巡り]

DSC05027.JPG←一言坂の旧道
 一言坂古戦場は、遠江に侵攻した武田軍と徳川軍との間で戦われた戦いである。1572年、室町幕府将軍足利義昭の要請に応えて西上作戦を開始した武田信玄は、信濃から青崩峠を越えて遠江に侵攻した。天竜川沿いに南下した信玄の本軍は、途中徳川方から寝返った犬居城主天野景貫の先導を得て天方城などを降しつつ南下を続けた。一方、浜松城の徳川家康は寡兵であったが、遠江の動揺を恐れて出陣した。徳川軍は武田軍と遭遇し、三箇野川で戦いとなったが敗れ、浜松城へと敗走したが、一言坂で追いつかれた。この時、本軍を逃すため殿として本多平八郎忠勝と大久保忠佐が残り、武田軍と再び干戈を交えた。忠勝は、「蜻蛉切り」と言われた大槍を振り回しながら一人奮戦し、枯れ草に火をかけて敵を撹乱し、味方の軍を見事に退却させた。敵の武田軍も、その見事な戦いぶりを讃え、「家康に 過ぎたるものが 二つあり 唐の頭に 本多平八」という落首を磐田市国府台に掲げたと言う。
 一言坂は、現在でも国道1号線が通る交通の要地で、旧道は1号線より50m程北に通っているが、1号線沿いの坂の途中に石碑と解説板が建っている。頻繁に車が行き交う現代からは遠く離れた、戦国の世の一コマである。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.725724/137.838539/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:古戦場
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千本浜古戦場(静岡県沼津市) [その他の史跡巡り]

DSC04886.JPG←千本浜の首塚
 千本浜古戦場は、戦国時代末期の北条・武田両軍の激戦の地である。小田原の北条氏政と甲斐の武田勝頼は、越後上杉氏の内乱「御館の乱」を巡って対立関係となり、駿豆国境地域の支配を巡って激しく争った。特に戸倉城三枚橋城を拠点に両軍は厳しく攻防を繰り返し、1580年9月には千本浜で両軍による激戦が展開された。
 近代に入った後の明治33年、暴風雨で倒れた松の大木の下から、たくさんの頭蓋骨が発見され、千本浜合戦の戦死者のものと言い伝えられてきた。昭和29年に、人骨研究の権威鈴木尚東大教授の調査によって、当時のものと確認されたと言う。10代後半の若者の骨が多く、頭蓋骨の数と刀傷の深さから戦いの激しさが伺われたと、現地解説板に記載されている。
 千本浜古戦場には、明治期の発見時に骨を集めて弔った首塚が築かれ、現在でも本光寺の脇に残っている。塚には大きく立派な石碑が建ち、往時の歴史を留めている。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.094069/138.848702/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:古戦場
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塩買坂古戦場(静岡県菊川市) [その他の史跡巡り]

DSC07681.JPG←古戦場の坂道
 塩買坂古戦場は、今川氏6代当主義忠が非業の死を遂げた古戦場である。応仁文明の大乱の時、東軍に付いた駿河守護今川義忠は、東軍の主将細川勝元の指令で西軍方の斯波義廉の領国であった遠江に侵攻し、横地氏・勝間田氏らの義廉方国人領主と戦った。1476年2月、義忠は500騎を従えて大井川を越え、勝間田城、次いで横地城を攻め落とし、横地秀国・勝間田修理亮両将を討死させた。義忠はその凱旋の途次、夜半に塩買坂に差し掛かったところで、横地・勝間田両軍の残党によって襲撃されて討死した。今川氏では、これをきっかけにして義忠後継を巡る争いが起き、これを収めて活躍したのが伊勢宗瑞(北条早雲)であった。

 塩買坂古戦場は、義忠の菩提寺でもある正林寺付近の坂道(県道)で、正林寺の参道入口に古戦場と刻まれた大きな灯籠が建っている。正林寺は後年、宗瑞の働きで無事に家督を継ぐことができた今川氏親が、1517年に父義忠の追善供養のために創建した寺で、義忠の墓が建っている。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.699301/138.128625/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:古戦場
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三方原古戦場(静岡県浜松市北区) [その他の史跡巡り]

DSC05841.JPG←古戦場碑
 三方原古戦場は、上洛を目指す武田信玄とそれを迎え撃った徳川家康が戦った古戦場である。1572年、15代将軍足利義昭の要請を受ける形で開始された信玄の西上戦は、信玄率いる本軍が信濃から青崩峠を越えて遠江に入り、犬居城を経由して二俣城を取り囲み、2ヶ月の包囲戦の上、落城させた。この時の武田勢の兵力は2万5千と言われる。一方、織田信長と同盟して武田勢に抗した家康は寡勢であり、信長からの援軍を含めても1万1千の兵力しかなかった。そこで、浜松城に籠城して武田勢を迎え撃とうとした家康であったが、信玄は案に相違して、浜松城を素通りして三方原台地へと向かった。これを見た家康は、居城を素通りされて領国を蹂躙されるは恥辱であると激怒し、家臣の反対を押し切って武田勢を背後から襲う強攻策に転じたとされる。こうして、家康を野戦に引きずり出した信玄は、三方原で徳川勢を迎え撃ち、12月22日に激戦が行われた。しかし、わずか2時間の戦闘で徳川勢は大敗し、家康の身代わりとなって死んだ夏目吉信以下多数の家臣を失い、信長から派遣された援将平手汎秀まで討たれた。家康も武田勢に逐われて命からがら浜松城に逃げ帰り、馬上で脱糞したと伝えられている。この大敗を深く心に刻んだ家康は、「顰像」と呼ばれる有名な絵を描かせ、終生自らへの戒めにしたと言う。一方、徳川勢に圧勝した信玄であったが、野田城を落した後に病に倒れ、上洛の夢は潰えた。

 三方原の戦いは、浜松城の北方約10kmの位置で行われたと言われている。国道257号線沿いの三方原墓園の駐車場脇に古戦場の石碑が建てられている。この他にも、浜松城のほど近くに犀ヶ崖、夏目吉信墓、本多忠実墓などの史跡がある。今では市街化が進み、往時とは景観が一変しているが、関連史跡も多く興味深い。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.793770/137.701725/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:古戦場
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伝・山吹の里(埼玉県越生町) [その他の史跡巡り]

DSC05156.JPG←山吹の里歴史公園
 山吹の里は、扇谷上杉氏の家宰で中世関東屈指の名将であった太田道灌の「山吹伝説」の地である。道灌が鷹狩りに出た際に(現地解説板では、「河越の領主であった頃、父の道真を訪ねた際」とされる)、俄か雨に遭い、近くの農家に立ち寄って蓑を借りようとした。すると、中から一人の少女が出てきて、黙って山吹の一枝を差し出した。花の意味がわからない道灌は、「花が欲しいのではない」と言って怒って帰ってしまった。後で道灌がこの話を人にしたところ、それは「七重八重 花は咲けども 山吹の 実の(「蓑」を掛ける)一つだに なきぞ悲しき」(後拾遺集)という古歌に寄せて、蓑の一つさえ持てない悲しさを山吹の枝に託したものでありましょう、と聞かされて自分の無学を恥じ、それ以降道灌は歌道に精進して、文武両道を兼ねた名将となったと言う(『常山紀談』)。この話は古い人には広く知られており、私の父も学校で習ったそうである。

 山吹の里伝説の地は、東京都豊島区や横浜市六浦などいくつか伝承地があり、越生町もその一つである。越生には道灌の父道真が、道灌生誕の地とされる山枝庵や、隠居所の自得軒を建てて住んでいるなど、道灌との縁が深く、龍穏寺には道灌父子の墓もある。またこの地は、古く武蔵七党児玉党に属する越生一族の山吹氏が居り、山吹の小名で呼ばれていた。現在は県道の脇に「山吹の里歴史公園」が整備され、小さな水車小屋などが復元されている。山枝庵など道灌縁の城館を訪ねた折に寄ると、何とも感慨深いものがある。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.963280/139.305278/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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河原田古戦場(栃木県栃木市) [その他の史跡巡り]

DSC00585.JPG←升塚
(2006年9月訪問)
 河原田古戦場は、皆川氏を危急存亡の淵に追い詰めた古戦場である。1523年、宇都宮城主宇都宮忠綱は、鹿沼西部の加園城の渡辺氏・上南摩城の南摩氏を併呑し、その余勢をかって皆川領に大挙侵攻した。皆川城主皆川宗成は嫡子成勝ら一族を引き連れて河原田に布陣し、総力を挙げてこれを迎え撃った。両軍は河原田で激突し、激戦の中、当主宗成・弟成明以下一族家臣の多数を失う大難戦となった。しかし、そのとき、小山・結城氏の連合軍が北上して宇都宮侵入の態勢を示したことで、忠綱は急遽軍を返し、皆川氏は総崩れギリギリのところで辛勝した。当主を失った皆川氏は成勝が家督を継ぎ、小山・結城氏らと連携して徐々に勢力を回復させ、江戸時代までその命脈を保った。

 河原田の戦いが行われた地は、現在、「合戦場」の地名が残っている。周囲一帯は一面の住宅地で、かつての激戦を思わせる風景は微塵もないが、この合戦の戦死者を集めて葬ったと言われる升塚が例幣使街道沿いに残っている。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.413253/139.748014/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:古戦場
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薩埵山古戦場(静岡県静岡市清水区) [その他の史跡巡り]

DSC00129.JPG←峠からの景観
 薩埵山古戦場は、東海道の要衝薩埵峠付近を主戦場として展開された戦いである。現在は江戸時代末期の安政の大地震(1854年)によって海岸付近の地盤が隆起し、海岸に道が通っているが、中世においては山中の峠か海沿いを通る「親知らず子知らず」の難所であった。街道を遮る様に山稜が海岸まで迫っている交通の要地である為、度々合戦の舞台となった。

 大きな合戦は二度行われた。一度目は南北朝時代の1351年、足利尊氏・直義兄弟が争った観応の擾乱の中である。尊氏は、1335年の箱根山の合戦以来、弟直義に多くの権限を譲り、幕政を主導させていたが、直義と執事高師直の不和によって、幕府を二分する内訌に発展した。それは、元々の室町幕府政権の二元性(軍権と政権)に根差した対立であった。擾乱の委細はここでは省くが、京都を脱出した直義は、八相山の戦いの後、直義方の足利一門と共に北陸から東下して鎌倉に入った。尊氏は、天下三分の状況を有利に持ち込むべく、南朝と和議を結び直義追討の綸旨を得て、軍勢を率いて東に向かった。尊氏は薩埵山に本陣を構え、一方、直義方は三島に本陣を据え、先鋒の上杉憲顕、石堂義房・頼房父子らが尊氏軍に対峙した。兵力は直義方が優勢であったが、後方より宇都宮氏綱ら尊氏方の大軍が箱根竹之下まで進出すると、直義方は浮き足立ち、総崩れとなった。伊豆山中に逃れた直義は、結局和議を結んで鎌倉の尊氏の元に戻ったが、後に急死した。一説には実兄尊氏による毒殺とも言われるが、真相は闇の中である。
 もう一つの大きな合戦は、戦国時代後期の1569年、武田信玄の駿河侵攻によって生起した戦いである。今川義元亡き後の今川氏の弱体化を見て取った信玄は、1568年12月、甲相駿三国同盟を破棄して駿河に攻め込んだ。今川氏真を駿府から逐ったが、今川氏救援のため駿河に進出した小田原北条氏の軍勢が薩埵山に陣を構え、横山城の武田勢と3ヶ月余りにわたって対峙した。苦境に陥った武田勢は甲斐に敗走し、その後1569年12月、信玄は北条勢が前線拠点としていた蒲原城を落とし、3度目の侵攻でようやく駿河を制圧した。北条勢は蒲原城陥落まで、約1年に渡って薩埵山に陣を構えていたと推測されている。
 この他に、最初に信玄が駿河に侵攻した際、駿府防衛のため今川方の軍勢が薩埵山に布陣して抵抗したとされる。

 薩埵山古戦場は、広義では薩埵峠から数キロに渡って山稜上に展開する陣場群を含むが、ここでは薩埵峠の石碑の建つ街道として記載する。駐車場から700m程南に離れた所に峠の石碑が建ち、展望台が据えられている。幾つもの解説板などが建っていて、その中に古戦場のことを記載したものもある。展望台からは、眼下に東名高速と国道1号線が通る、よく知られた海沿いの絶景が広がっている。本来なら遥かに富士山の雄大な景観を望むことができるのだが、訪問した当日は生憎の雲で富士の姿を望むことができなかった。この景観を望みながら、武将たちは何を思っていたのだろうか。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.065849/138.539129/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:古戦場
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鳥打場古戦場(山形県大蔵村) [その他の史跡巡り]

DSC07272.JPG←夏山塚
 鳥打場古戦場は、最上氏と庄内の武藤氏(後の大宝寺氏)とが戦った古戦場である。最上氏は室町時代末期より北に勢力を推し進め、一族の成沢城主成沢兼義の子、孫次郎満久をこの地に入部させて清水城を築かせた。一方、武藤氏は1563年、庄内3郡を制圧し、その勢いに乗じて最上の鮭延氏をも制圧した。この時、まだ幼かった鮭延秀綱は捕らえられて庄内へ連れ去られた。その後、1565年、武藤勢は再び大軍で最上地方に侵攻し、清水領に迫った。時の清水城主清水義高は知勇兼備の武将として知られ、最上勢の主将としてこれを鳥打場に迎え撃った。義高は、自ら陣頭に立って勇戦奮闘し、一族もよく戦って武藤勢を撃退して清水城防衛に成功したが、義高は流矢に当たって戦死したと言う。江戸時代中期の1763年、義高の200回忌供養の折、村人は義高を偲んでかつての古戦場の戦死の地に夏山塚を築き、今に伝わっている。

 鳥打場古戦場は、清水城の北方わずか2.3kmの距離に位置し、清水城防衛の最前線であったと考えられる。最上川東岸の丘陵地で、清水城主の「御狩場」であったことから「鳥打場」と呼ばれたとされる。現在は夏山塚公園となっており、国道458号線に公園の案内板が出ている。丘陵上の小さな公園には、清水義高を供養した夏山塚が残っており、「清水城主五代 義高公戦死の地」の標柱が建っている。清水義高は、死後200年も経ってから供養塚が築かれるというのは、よほどその遺徳が慕われていたのであろう。公園の眼下には今では平和な田園地帯が広がっており、かつての激戦は時の彼方に過ぎ去っている。
 尚、私事ではあるが、この公園まで来た所でアクシデントが発生し、車のタイヤがパンクしてしまった。久しぶりにJAFのお世話になった史跡巡りとなってしまった。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.717762/140.229911/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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小夜の中山古戦場(静岡県掛川市) [その他の史跡巡り]

DSC04858.JPG←名越邦時を葬った鎧塚
 小夜の中山は、箱根と並ぶ東海道の難所と言われた峠である(「佐夜の中山」とも書く)。交通の要所を押さえる高地であったため、度々合戦の舞台となった。最も有名なのは、南北朝時代の合戦である。1333年に鎌倉幕府が滅亡し、京都に戻った後醍醐天皇は建武の新政を始めたが、失政相次ぎ、諸国の武家だけでなく公家からも怨嗟の声が上がった。そんな中の1335年7月、執権北条氏の残党が北条高時の遺児時行を奉じて大規模な反乱を起こした。いわゆる中先代の乱である。挙兵した北条家残党は鎌倉奪還を目指して瞬く間に関東を席巻した。この時鎌倉府を預かる執権足利直義(尊氏の弟)は軍勢を差し向けたが、女影原では岩松経家や渋川義季(直義の妻の兄)が戦死。府中では、下野の名族小山秀朝が一族家人数百人と共に討死するという事態に陥った。そして直義が自ら軍勢を率いて井出の沢で時行勢を迎え撃ったが、激戦の末ここでも足利勢は敗れ、直義は鎌倉府の主の成良親王を京都に逃げ延びさせ、自身は兄尊氏の妻登子と嫡男千寿王(後の義詮)と共に三河まで落ち延びた。この後、時行勢は鎌倉を占領したが、後醍醐天皇の聴許を待たずに東下した足利尊氏率いる足利勢は、三河矢作宿で直義と合流すると、遠江の橋本の戦いを皮切りに、小夜の中山、駿河の高橋縄手、箱根山、相模川、片瀬川、鎌倉口と東海道7つの要害戦を一度も落とさず進撃し、たちどころに時行勢を追い散らして鎌倉を取り戻した。時行が鎌倉を保つこと20日余り。故に中先代の乱は二十日先代の乱とも呼ばれる。小夜の中山合戦は、足利尊氏が北条時行の軍勢を打ち破ったこれらの戦いの一つであった。

 小夜の中山合戦では、足利一門で海道軍の大将の一人であった今川頼国(今川範国の兄、今川了俊の伯父に当たる)が北条一族の大将名越太郎邦時を打ち取った。頼国は、討死した邦時の武勇を讃え、この地に塚を作って葬ったと言われ、「鎧塚」として現在に残っている。この他にも周辺には史跡が多く、なかなか見所が多い。峠付近は公園になっており、西行の歌碑が建っている。また関ヶ原合戦の前、会津の上杉討伐に東下する途中の徳川家康を、掛川城主山内一豊が茶亭を設けてもてなしたと伝えられる久延寺や、その時水を汲んだという「御上井戸」も残っている。

 静岡に来たことがほとんど無かった私は、東海道はてっきり海岸近くや平地の街道だとばかり思っていたが、途中には山も多く起伏の多い街道であったことがよくわかった。殊に小夜の中山峠付近は、難所と言われるだけあって急坂の道が続き、車のなかった昔は、多くの旅人や軍勢を苦しめたことであったろう。思うに、小夜の中山合戦は高地の争奪戦だったようである。小夜の中山には、その地名のなんとも言えぬ風雅な響きが好きで、以前から一度は来てみたいと思っていた。茶畑の中を続く旧東海道の小道は、ここを西に東にと多くの武将たちが通ったかと思うと、何とも感慨深い。
一豊が家康をもてなした茶亭跡→DSC04898.JPG
DSC04874.JPG←公園頂部からの眺望

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.815318/138.096074/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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手越河原古戦場(静岡県静岡市駿河区) [その他の史跡巡り]

DSC04846.JPG←古戦場の石碑
 手越河原古戦場は、南北朝時代の古戦場である。この地は安倍川と藁科川が自由に流れていた広い河原で、駿河府中の西を押さえる交通の要衝であった。その為、南北朝時代に度々合戦の場となった。中でも名高いのは、1335年に行われた合戦である。中先代の乱の後、鎌倉に腰を落ち着けて新政からの離反の態度を鮮明にした足利尊氏に対して、後醍醐天皇は新田義貞に足利討伐を命じた。大軍を率いて東下する義貞に対して、尊氏は高越後守師泰に矢作川での防衛を命じた。これは、三河国が足利氏の鎌倉時代からの領国で、しかも東国にある鎌倉府からの威令が強い範囲が三河国までであったためとされる。尊氏は師泰に、矢作川より西への進軍を禁じ、師泰は新田勢に苦戦を強いられて兵を退き、遠江鷺坂を経て、駿河まで後退した。ここで足利直義が新手の兵を率いて師泰軍に合流し、手越河原に防衛線を敷いた。義貞の大軍は手越河原に押し寄せ、ここでも両軍による激戦が展開された。太平記では両軍合わせて10万余と言われる。正午頃に始まった合戦は、両軍入り乱れて夜8時頃に至るまで17度にわたって激戦が展開され、決着せず両軍川を挟んで兵馬を休めた。深夜になって、義貞は屈強の射手を選んで夜討ちを懸けると、足利勢は周章狼狽して、麾下に参じていた佐々木道誉など多数の武家が新田方に降参し、足利勢は敗北を喫した。今川了俊の「難太平記」によれば、この時、足利方の部将細川定禅は直義に討死を勧め、淵辺伊賀守義博は「まず御前で討死つかまつろう」と言って、ただ一騎で新田勢の中に駆け入って討死した。また今川名児耶三郎入道も、この時に討死。一方、今川範国は直義に、「今は討死の時ではありません。一旦退いて、後日の合戦を期すべきです。」と言って、直義を退かせたと言う。退いた直義は、足利一門と箱根の水呑に要害を構えて、最後の合戦を挑もうと立て籠もった。この後、鎌倉で蟄居していた尊氏が、足利一門を救うために密かに挙兵し、竹之下の合戦へと繋がっていくのである。

 足利直義ら足利一門が浮沈を掛けて戦った手越河原は、現在では市街化の波に飲まれ、往時の姿はほとんど残っていない。JR安倍川駅の近くのみずほ公園内に古戦場の石碑が建っており、かつての激戦の名残をわずかに伝えているのみである。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.938508/138.365840/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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川中島古戦場(長野県長野市) [その他の史跡巡り]

DSC03603.JPG←一騎打ちの像
 川中島古戦場は、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が正面切って激突した第4次川中島の戦いの主戦場である。武田信玄の信濃侵攻と葛尾城主村上義清の越後亡命によって惹起された甲越両軍の激突は、1553年~64年迄の12年間に5回あったとされている。そのほとんどは両軍にらみ合いに終始していたが、1561年の第4次川中島合戦だけは両軍の精鋭部隊が全面対決する激戦となった。甲陽軍鑑によれば、妻女山に陣を敷いて長期滞陣の構えを見せた謙信に対して、信玄は山本勘助の考案した啄木鳥戦法を採用し、別働隊に妻女山背後から奇襲攻撃を行わせ、押されて妻女山を降りた上杉勢を八幡原で待ち受ける武田勢本軍が迎え撃ち、挟み撃ちにするという作戦であったとされる。しかし奇襲の前夜、海津城から立ち上る多数の炊煙を見た謙信は、武田勢の動きを察知し、夜陰に紛れて密かに妻女山を降り、千曲川を夜間渡渉して武田勢本軍の正面に全軍を布陣した。明朝、八幡原に濃く垂れ込めていた霧が朝日と共に徐々に晴れてくると、両軍は至近距離で対峙しており、鶴翼の陣で備えを固める武田勢に、上杉勢は車懸りの陣で襲いかかった。兵数は、妻女山別働隊に兵を割いた武田勢が不利で、上杉勢の猛攻に押し込まれ、信玄の実弟典厩信繁ら名立たる武田方将帥が討死する大難戦となった。しかしその後、妻女山から戻った別働隊が主戦場の八幡原に到着して上杉勢の背後を襲うと、攻守逆転して上杉勢は撤退を余儀なくされた。この際、上杉謙信は、単騎武田本陣に斬り込んで、武田信玄と直接一騎打ちをしたと言う。

 以上が甲陽軍鑑で伝えられる合戦の概要で、妻女山の地形などを考えると、そのまま甲陽軍鑑の記載を鵜呑みにできるものではないが、八幡原で激戦が行われたことは事実であるらしい。その為、長野市内にはこの戦いにまつわる史跡が多数残されている。夏を中心にそれらの史跡を巡ったが、史跡の詳細については長野市の特設サイト「川中島の戦い」に詳しいので、ここでは一々記載しない。

 信玄が本陣を敷いたとされる場所は、現在八幡原史跡公園となって整備されており、一騎打ちの場面を描いた有名な銅像などが建っている。八幡社の周囲には、低い土塁が残っており、これは信玄本陣の遺構であるとされている。さすがに戦国史上、最も有名な戦いであり、朝早くからここを訪れる人は多い。私が訪れたのが、狙ったわけではないが偶々決戦のあった9月10日近くの日で、合戦の様子を想像するとなかなか感慨深いものがあった。旧暦新暦の違いがあるにせよ、夏の盛りの激戦で、両軍の兵士は汗まみれで、体力的にもさぞキツかっただろうと思う。そして、度重なる両軍の激突は、徒に川中島地方の農村を荒廃させるだけで、結局両軍に何の恩恵ももたらさなかったことは、何とも皮肉という他はない。
武田方本陣跡の土塁→DSC03592.JPG

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.591188/138.186690/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0
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人見原古戦場(東京都府中市) [その他の史跡巡り]

DSC02526.JPG←浅間山山頂の浅間神社
 人見原古戦場は、南北朝時代の古戦場である。観応の擾乱で、弟足利直義を討つため東下した足利尊氏は、直義を破って鎌倉に入ったが、北朝方(足利方)の分裂につけ込んで挙兵した新田義宗・義興ら南朝方に攻めこまれた。そして、1352年閏2月20日に武蔵国人見原・金井原一帯で、新田勢との間で激しい合戦が繰り広げられた。しかし尊氏は敗れて危殆に陥った。尊氏は自刃を覚悟するほどであったというが、辛くも石浜に逃れて、軍勢を立て直した。そして、関東諸豪の援軍も得て、新田勢を関東から駆逐することに成功した。この一連の合戦を武蔵野合戦といい、人見原古戦場は金井原古戦場と並ぶ激戦地であった。
 人見原古戦場の地は、浅間山を中心に、その周辺に広がる人見ヶ原一帯であった。平地部は都市化が激しく、往時の面影はないが、浅間山は公園化されてその姿を残している。山頂には浅間神社が祀られて、その脇に武蔵野合戦のことを簡略に記載した、浅間山の解説板が建っている。解説板にちょこっと記載があるだけで、古戦場碑がないのは残念。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.681161/139.502324/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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