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古城めぐり(東京) ブログトップ
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松木屋敷(東京都八王子市) [古城めぐり(東京)]

DSC01160.JPG←松木七郎の墓
 松木屋敷は、室町時代初期の武士松木七郎師澄の屋敷である。一説には、師澄は藤原氏の流れを汲み、鎌倉公方足利持氏の家臣であったと言われるが、残っている師澄の墓に刻まれている年が、持氏の生年よりも早い為、年代的に合わないと言う。その他のことは一切不明であるが、室町初期にこの地を領した土豪であったと思われる。
 松木屋敷の故地は、多摩ニュータウンの開発で一変しており、遺構はおろか地勢すら変貌している。しかし住宅地の只中の高台に浅間神社があり、その境内に松木七郎の墓と伝えられる宝篋印塔が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.623134/139.393362/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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小田屋敷(東京都八王子市) [古城めぐり(東京)]

DSC01151.JPG←富士見台公園の東端付近
 小田屋敷は、滝山城主北条氏照の重臣小田野源太左衛門の居館である。源太左衛門の父小田肥後守定久は藤原氏の流れで、北条氏照に仕えた。流離の後にこの地に住して、1616年に没したと伝えられている。「流離の後」と「新編武蔵国風土記稿」にあるので、おそらく1590年の北条氏滅亡後にこの地に辿り着いたものだろう。定久の死後、その子源太左衛門周定は教福寺を建立したと言う。
 小田屋敷のあった地は、現在は多摩ニュータウンの開発で地形が激変しているため、日本城郭大系の要図と見比べても、その位置を正確に知ることは至難の業であるが、おそらく富士見台公園の東端付近の傾斜地にあったものであろうか。ただの森林公園で遺構はないが、古代の住居跡の残る史跡広場があり、太古の昔から居館を構えるに好適な地勢だったことが伺われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.625105/139.388427/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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植松太郎兵衛屋敷(東京都八王子市) [古城めぐり(東京)]

DSC01143.JPG←植松太郎兵衛屋敷付近
 植松太郎兵衛は、全く事績不明の人物であるが、おそらく小田原北条氏の家臣であったと推測されている。その屋敷があったとされる場所は井草屋敷の東方に当たり、江戸後期の文化・文政年間(1804~30年)頃までは四方に堀の跡を残していたと言う。現在は多摩ニュータウンの開発で一変し、一面の住宅地となっている。前面には大田川が流れ、天然の外堀となっていたと思われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.622245/139.389821/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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井草屋敷(東京都八王子市) [古城めぐり(東京)]

DSC01139.JPG←井草屋敷付近
 井草屋敷は、小田原北条氏の家臣井草越前守とその子井草織部の屋敷と伝えられている。井草氏は、現在の杉並区井草周辺に勢力を持っていた土豪と言われ、武蔵に勢力を拡張した北条氏に属すと、八王子市街の南東の旧松木村を与えられて移ったと伝えられている。
 井草屋敷のあった地は、かつては松木の稲荷社が建ち、背後には丘陵地を控えた南斜面であったが、現在は多摩ニュータウンの開発で一変し、稲荷社も既に失われている。丘陵上は首都大学東京の敷地となり、井草屋敷のあった場所は現在マンションの建つ敷地の背後の高台に当たるようだが、行き方がわからず遠景のみ撮影して終了とした。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.620082/139.386667/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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小山城(東京都町田市) [古城めぐり(東京)]

DSC01125.JPG←城址の住宅地
 小山城は、武蔵七党横山党の一流、小山太郎有高の居城である。有高は、鎌倉幕府創設に当って源頼朝に従って功を挙げた。しかし1213年の和田合戦で、横山党の多くと共に和田義盛方に付いて敗れ、討死した。その後の事績は定かではなく、没落したものだろう。
 小山城のあった地は、福生寺の北に当たり、現在でも南に半島状に突き出した台地となっている。台地上はほとんどは宅地化されているが、一部が高圧鉄塔の建った山林となっている。この山林は周囲を高いフェンスで囲まれているので、中に入ることができない。従って、残存遺構の有無も不明であるが、おそらく既に湮滅しているだろう。HP「多摩の古城」によれば、開発前の発掘調査で土橋・空堀・段切状遺構・腰郭・柱穴等が検出されたと言う。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.599566/139.368321/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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後藤将監屋敷(東京都八王子市) [古城めぐり(東京)]

DSC01118.JPG←みなみ野君田小付近の地勢
 後藤将監は、小田原北条氏に仕えた医師で、法名を才郷長勤居士と号し、1607年に没したと言われている。その屋敷は、殿ノ台と呼ばれる東方に突き出た台地の先端付近にあったと言う。現在は「みなみ野ニュータウン」と言う一面の住宅地に変貌し、地勢もかなり改変されている様だ。位置的には、現在のみなみ野君田小学校のある付近にあったらしい。現在も丘陵地とはなっているが、あまりの変貌ぶりで往時の面影は微塵もない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.627198/139.324933/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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高山(東京都八王子市) [古城めぐり(東京)]

DSC01112.JPG←高山付近の現況
 高山は、高山四郎時貞館とも言い、「新編武蔵国風土記稿」に記載される伝承によれば、高山四郎時貞という者の居館跡と伝えられている。しかしこの人物については全く不明で伝説すら残っていない。
 高山は、湯殿川の南、2本の支流に挟まれた丘陵上にある。文政年間(1818~30年)頃には食違い土塁などが残っていたらしいが、現在は館町団地という住宅地に変貌し、遺構は完全に湮滅し、その正確な位置も不明である。館町周辺には殿入などの地名が残り、城館の存在した痕跡をわずかに残している。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.627251/139.299999/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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大江氏館(東京都八王子市) [古城めぐり(東京)]

DSC01095.JPG←広園寺
 大江氏館は、鎌倉幕府創業の功臣大江広元の後裔の居館跡と伝承されている。元々この方面には武蔵七党の一つ、横山党が蟠踞していたが、和田合戦で横山党が没落した後、大江氏がこの地を与えられ、広元の次男時広から出た長井氏が入部した。長井氏は片倉城を居城としたとも言われるが、広園寺の地に居館が築かれたとの伝承が、いつの頃からか生じた様である。
 大江氏館は、前述の通り現在の広園寺の地にあったとの伝承があるが、定かではない。広園寺は、寺伝によれば室町前期の1390年に、大江備中守師親が開創したとも、長井広道が開創したとも伝えられている。1590年の小田原の役の際に兵火に罹って諸堂宇が消失したが、江戸時代に再建されている。緑豊かな境内になかなか大きな伽藍が建ち、大江氏館の所在は定かではなくても、寺を見て回るだけでも十分である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.646730/139.316522/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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大久保長安陣屋(東京都八王子市) [古城めぐり(東京)]

DSC01084.JPG←陣屋跡の産千代稲荷神社
 大久保石見守長安は、徳川家康の家臣である。元は甲斐武田氏に仕えた猿楽師の子と言われ、武田氏滅亡後、徳川家康の重臣大久保忠隣に才腕を認められ、その推挙を受けて徳川家に仕えるようになった。そして忠隣の庇護を受けて大久保の姓を与えられた。1590年に小田原北条氏が滅び、関東に入部することとなった家康は、江戸に入城して領国経営を急いだが、この時長安に北条氏照が支配した八王子一円を代官頭として支配させて、新田開発と甲斐国境の固めを行わせた。八王子落城間もない多摩一帯では、北条氏遺臣が不穏な動きをしていたが、長安は家康の許しを得て、これら遺臣を代官や千人同心に取り立てて民政を整え、横山宿に代官衆の陣屋が置かれた。関ヶ原の合戦後、長安は更に出世して石見・佐渡・伊豆の鉱山奉行を兼ね、1613年に没した。死後、佐渡金山奉行中に不正に莫大な蓄財を為したとされて、墓を暴かれて屍は鞭打たれ、遺子7人は全員死罪となった。また大久保忠隣も失脚した。これは、忠隣と本多正信・正純父子との政争によるとされる。(いわゆる大久保長安事件)

 大久保長安陣屋は、現在の産千代稲荷神社の地にあったと言われている。江戸後期まで土塁が残っていたと言うが、現在は市街化で遺構は完全に湮滅している。ただ、境内はわずかに微高地となり、神社入口に陣屋跡の石碑と解説板が建てられている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.658517/139.324847/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:陣屋
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横山党館(東京都八王子市) [古城めぐり(東京)]

DSC01078.JPG←横山神社
 横山党館は、東京都の史跡名では「横山党根拠地」と言われ、武蔵七党で最大規模の武士団横山党の居館である。横山党は、武蔵国司として中央から派遣された小野氏の流れとも、武蔵国造の後裔とも言われ、孝泰またはその子義孝(隆)の時代に多摩丘陵の北、多摩川南流域の小野牧の一部を開墾して定住し、義孝が横山氏を称した。その後、海老名氏愛甲氏小沢氏田名氏目黒氏由木氏矢部氏など一族二十余家を輩出して勢力を張った。前九年の役では横山経兼が源頼義に従って功を挙げ、源頼朝の挙兵時には横山時広・時兼が軍功をたてて御家人に列せられた。しかし1213年の和田合戦で、時兼は和田義盛に味方して敗れ、和田氏一族と共に一族31人が滅ぼされて一族の勢力は衰退した。
 横山党館は、現在の八幡八雲神社の境内付近にあったと言われ、都の旧跡にも指定されている。神社境内の一隅に横山氏の御霊を祭った横山神社が建ち、ここから北へ200m程の位置にある妙薬寺には横山氏の供養塔がある。遺構はないが、横山氏所縁の史跡が散在している。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.661167/139.335158/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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青木屋敷(東京都町田市) [古城めぐり(東京)]

DSC01031.JPG←八幡神社参道沿いの平場
 青木屋敷は、源頼朝の家臣青木二郎の屋敷と言われている。伝承によれば、頼朝が奥州合戦からの帰途関所を設け、青木二郎に守らせたと言う。しかし青木二郎についての事績は不明で、その関所跡も一説には鶴見川の南岸に広がる神奈川との県境西側に隣接する丘陵地とも、また別説では木暮八幡神社付近とも言われている。前者は既に宅地化で旧状は一変しているが、後者は丘陵上の神社境内となっている。ここではHP「多摩の古城」の記事に倣って、木暮八幡神社付近としておく。いずれも明確な遺構はないが、木暮八幡神社の参道沿いには数段の段曲輪状の平場があり、ほのかに城館らしさを漂わせている。但し、遺構かどうかは不明である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.571899/139.460396/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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殿ノ城(東京都町田市) [古城めぐり(東京)]

DSC01019.JPG←「御屋敷」の名の残る公園
 殿ノ城は、城主不明の城館である。一説には一色伊予の城であったと言うが、定かではない。恩田川南岸の段丘上に位置し、住宅街の只中に変貌しているが、現在でも公園などの名前に「御屋敷」の地名が残っている。このすぐ近くには井出の沢古戦場があるが、この戦いとの関連も不明で、謎に包まれた城館である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.561391/139.448272/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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馬込城(東京都大田区) [古城めぐり(東京)]

DSC09647.JPG←城らしさを漂わせる高台
 馬込城は、小田原北条氏の家臣梶原助五郎の持ち城である。梶原氏は、鎌倉幕府草創期の重臣で有名な梶原景時の後裔とも言われるが、確証はない。大井町付近にを構え、馬込城のほか新井宿城などを領していた。
 馬込城は、現在の湯殿神社付近になったとされる。この地は周囲より10m程の高台になっており、南側は低い谷戸状の地形になっている。しかし市街化が進み、それ以上城の存在を思わせるものは残っていない。城のある台地の麓の谷戸部にある家が、「城下」という表札なのは、何か馬込城と由縁があるのであろうか。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.588574/139.708961/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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八王子城 その2(東京都八王子市) [古城めぐり(東京)]

 八王子城には2年前に訪れているが、主郭周辺の段曲輪群や大天守付近の遺構など、まだ多くの遺構を見逃していたので、再訪した。

<登城門付近の石垣>
DSC04211.JPG
 管理棟の裏側から金子曲輪方面に登っていく道に登城門跡があり、その近くに小規模な石垣が残っている。

<主郭北西側段曲輪群>
DSC04330.JPG
 主郭北西側の尾根に、10段程もある段曲輪群がある。

<大天守に至る尾根筋側方の竪堀>
DSC04347.JPG
 主城部から大天守に至る途中の尾根の西斜面には、二重竪堀が穿たれている。またこの尾根筋には石塁が築かれた跡があり、竪堀同様南側斜面に石垣も残っている。二重竪堀の上の尾根上は削平されて、小さな曲輪が築かれている。竪堀については、何故こんなところに竪堀を穿つ必要があるのか最初の訪城時にはわからなかったが、今回、大天守付近の遺構を見て回って初めてその意図が理解できた。これについては後述する。

<大天守裏大堀切の石の穴>
DSC04372.JPG
 大天守裏には深さ15m程の大堀切があるが、堀切に面した石にはノミで人為的に削った穴が開いている。灯明を灯したとか、仏像を祀ったとか言われている。

<大天守北東尾根の曲輪群と石垣>
DSC04404.JPG
 大天守から奥棚沢水平道に至る北東に伸びる尾根には、段曲輪群が築かれている。またこの北東の尾根筋にも、西側斜面に石垣が残り、石塁が築かれた跡も残っている。

<柵門台段曲輪群の石垣>
DSC04491.JPG
 柵門台の下には尾根に沿って段曲輪群が築かれているが、この側面に城中で最も見事なものの一つである石垣が残っている。この石垣は、斜面の曲がりに沿って湾曲して積まれている。

【大天守付近の遺構についての考察】
 大天守北東尾根の石垣は、明らかに段曲輪の側面ではなく「尾根」の西側に築かれている。大天守から主城部に伸びる南東尾根も、尾根の西側に崩れかけた石塁が残っている。これはまさしく伊予松山城の登り石垣と同じコンセプトであり、史上初の登り石垣である可能性がある。この尾根側方の石垣で、西側山塊からの敵の侵攻を遮断している事が判る。ここで、北東尾根は尾根筋が一直線状に長いため防衛線も長く、敵の侵攻を食い止めるのに問題はないが、南東尾根は途中で北東に曲がっており、西側に向いた部分が短いので、敵の侵攻を食い止める十分な防御線の長さが確保できていない。ここで前述の二重竪堀が効いてくる。即ち、二重竪堀で、敵兵が南東側から北東側の斜面へ回りこむのを阻害しているのである。
 これらをまとめると、大天守を中心に南北に連なる尾根の西側に頑強な防衛線が敷かれていることが判る。つまりは、小仏峠越えや和田峠越えでの甲斐からの侵攻に対する備えが想定されているのであり、八王子城はあくまで甲斐武田に対する防衛拠点として築かれていたのであろう。一方で、主城から北東方向にあった搦手口は、陣馬街道口を押さえる浄福寺城があった故に比較的防御構造が弱く、直接中枢部まで敵兵が侵入しやすい欠陥縄張りであった様だ。豊臣勢の侵攻の際、松井田城で降服した大道寺政繁が先兵となって搦手口から侵攻し、大城郭八王子城がわずか1日で陥ちた理由はそのせいかも知れない。
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殿丸城(東京都町田市) [古城めぐり(東京)]

DSC04131.JPG←切通し状の古道
 殿丸城は、御殿峠東側の高台に築かれた城である。東京都の遺跡地図には、「相原氏館」と記載されている。武蔵七党の一、横山時重の弟孝遠がこの地に住んで藍原(粟飯原)氏を称したと言うが定かではない。日本城郭大系では、居館ではなく見張り台としての城を推定している。その他のことは不明である。
 殿丸城は、現在国道16号線の西側にあるが、これは新道であって、かつては旧道の東側に位置していた。現在でも切通し状の古道が通っており、上から見るとまるで堀切の様である。古道の東側の高台上は平坦な地形で、ほとんど自然地形に近いが、南側斜面にわずかに腰曲輪らしい小さな平場が2段確認できる。高台の西端にわずかに虎口跡らしき斜面があり、かすかな土塁の名残らしいものもあるが、明瞭ではないため推測の域を出ない。それら以外に城郭らしい遺構は確認できないが、古道を監視する目的で築かれたことが如実にわかる城の配置で、古道監視を主任務とした小さな砦であったのだろう。それにしても、都内の幹線国道の近くに中世の古道跡がこれほどはっきり残っているとは、ちょっと驚きである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.619471/139.339997/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:中世平山城
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川辺堀之内(東京都日野市) [古城めぐり(東京)]

DSC04107.JPG←土塁の残欠
 多摩川の支流浅川の北岸には、川辺堀之内と言う、いかにも城館の存在を感じさせる地名がある。この川辺堀之内地区には比高10m程の段丘があり、その南端に川辺堀之内と呼ばれる城館があった様である。ゴルフ練習場の南側に遺構が残っており、曲輪らしい平場やその北側の土塁らしい遺構が確認できる。最も明瞭な遺構は、ゴルフ練習場の脇、民家の裏にあるL字状の土塁で、はっきりと形状が確認できる。室町期にこの地域を領有した高麗左衛門と言う人物の関連が指摘されている様だ。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.664985/139.395422/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:中世崖端城
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百草城(東京都日野市) [古城めぐり(東京)]

DSC04014.JPG←虎口とされる地形
 百草城は、歴史不詳の城で、近年城郭研究家が研究して、城の存在を指摘しているものである。百草園の裏山から百草八幡神社にかけてが城域とされている。百草園に入ると金を取られるので、私は神社の裏山だけを探索したが、遺構不明瞭ながらも確かに城郭遺構らしい地形が確認できる。特に神社南側に張り出した平坦地は、やや削平が甘いものの曲輪状をしており、この平場の山側の基部には片堀切と思われる地形もあって、城郭遺構と考えれば合理的説明が付き易いことは間違いない様である。山の頂部は小さな物見台であろうか。今後の考証が待たれるところである。
南側の平場と片堀切状地形→DSC04015.JPG


 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.653600/139.426664/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:中世平山城
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出羽山砦(東京都八王子市) [古城めぐり(東京)]

DSC04305.JPG←土塁跡?
 出羽山砦は、八王子城主北条氏照の重臣近藤出羽守助実の旧跡と伝えられている。史料的に定かではないが、伝承では助実の屋敷(大名屋敷と称せられる)の続きにある砦とのことであるが、助実の居館としては浄泉寺城があり、八王子城を固める為に一時的に築かれた砦に近藤助実が入ったか、或いはその家臣が拠った砦で近藤助実の配下にあったものなどと、個人的には想像される。
 出羽山砦は、現在は出羽山公園となっており、丘陵地に平坦な高台が広がるものの、はっきりした遺構とは考えられない。一部には土塁の名残らしいものがあるが、公園化に伴う改変の恐れがあり「?」である。全体的には小田野城に近い雰囲気なので、明確な遺構はないが、八王子城を固める周辺城砦群の一つであったことは十分考えられる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.655867/139.285859/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=red&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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梶原館(東京都八王子市) [古城めぐり(東京)]

DSC04280.JPG←参道に残る梶原杉
 梶原館は、梶原景時館とも言い、伝承では鎌倉幕府草創の功臣梶原平三景時の居館と伝えられているが、この地の伝説と思われる。梶原景時は、荒くれの多い坂東武者には珍しい能吏で、その為源頼朝の寵遇を受けたが、一方で冷徹に過ぎる態度から多くの鎌倉武士の反感を買う事となった。その為、頼朝没後、御家人連名での弾劾状が奏請される事態となり、結局滅ぼされることとなった。また、源平合戦の折には軍監として源義経に従い、何かと暴走しがちな義経と事々に対立して、結局義経滅亡の元凶となってしまった為、判官贔屓の後世からは悪役として捉えられてしまっている。しかし鎌倉幕府の創設に当たってはなくてはならなかった人物であり、梶原景時の旧跡を称する場所は多く、ここもその一つであろう。
 現在の八幡神社がその旧跡とされ、梶原八幡とも呼ばれており、参道脇には梶原景時が植えたと伝えられる梶原杉の切り株があって、大切に保存されている。一方、神社は緩やかな丘陵地を背にして築かれているが、はっきりした遺構は確認することができない。ただ八王子城の大手口を押さえる丘陵地なので、八王子城の砦ぐらいは築かれた可能性がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.656494/139.276696/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=red&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:居館
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金比羅山砦(東京都八王子市) [古城めぐり(東京)]

DSC04272.JPG←竪堀らしき跡
 金比羅山砦は、小田原北条氏が築いた八王子城を防衛する周辺砦群の一つである。小仏峠に通じる街道の入口に当たり、甲斐武田氏の武蔵侵入を監視し阻止する為に物見の兵が置かれたと思われる。近くには、初沢城廿里砦があって、連携して八王子城防衛網を構築していたと考えられる。
 金比羅山砦は、その名の通り金比羅山に築かれている。金比羅山は2つのピークで構成され、高い方のピークに主郭があったと考えられるが、現在は神社が置かれて改変されており、主郭の遺構は明確にはできない。第二のピークにも平場があり、その下方にも腰曲輪らしい平場が存在する。堀切は明確には確認できないが、尾根の北側に、竪堀らしき跡が2本程確認できる。その他に虎口らしき地形も確認できるが、後世の改変の可能性もありはっきりしない。遺構はそれだけで、あくまで物見を主体とした砦だったと想像される。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.640104/139.277061/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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横地監物屋敷(東京都八王子市) [古城めぐり(東京)]

DSC03963.JPG←宗関寺に残る横地堤
 横地監物屋敷は、八王子城主北条氏照の重臣横地監物景信の屋敷である。八王子城下の根小屋地区の入口にあり、屋敷地付近には大城戸があったと伝えられている。景信は氏照配下の滝山衆の中でも筆頭重臣としてその信頼厚く、国境警衛の烽火台であり現在はハイキングコースとして知られる景信山にもその名が残っている。1590年の八王子城の戦いの際には、小田原城に籠った主君に代わって中山勘解由家範・狩野一庵・近藤出羽守助実らを指揮して八王子城を死守奮戦した。しかし、松井田城で豊臣方に降って八王子城攻めの先峰を務めた大道寺政繁等の手引きによって、濃霧の中、搦手口より攻め込まれて1日で落城した。景信は、城を脱出して檜原城に入って更に抗戦を続けたが、これも落とされて再度城を脱出した景信は、重傷を負って蛇沢という所で自刃したと伝えられている。

 横地監物屋敷は、現在の宗関寺の場所にあったと伝えられている。宗関寺の東側には横地堤と称される土塁がわずかに残り、往時はこの部分に大城戸があったらしい。現在でも車道がこの宗関寺の所で屈曲しており、八王子城最初の防備の要となっていた様である。その屋敷の位置を見ただけでも、それだけ氏照の景信に対する信頼が厚かったことが伺える。尚、宗関寺には水戸徳川家家老の中山信治の寄進した梵鐘が残っているが、信治は八王子城で自刃した中山勘解由家範の孫に当たる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.657924/139.267663/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=red&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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由井氏館(東京都八王子市) [古城めぐり(東京)]

DSC03952.JPG←観音堂のある平場
 由井氏館は、武蔵七党の一、西党の一流由井氏の居館である。由井氏は、西宗頼の子宗弘を祖とする。由井氏は、後に興った横山氏に押されて一時勢いを失ったが、鎌倉時代初期の和田合戦で横山氏が没落すると、伊豆出身の天野氏の勢力がこの地に入ってきた。天野顕茂の妹は由井氏に嫁いで是勝尼と称し、訴訟の末に、由井本郷の内「源三郎屋敷」を相続した。由井源三郎の家系は戦国時代まで続いた様で、大石定久の養子となって滝山城に入った北条氏照(北条氏康の次男)は、幼い時に由井氏の名跡を継いで、一時「由井源三」を名乗った。その後の由井氏の事績は定かではない。
 由井氏館は、現在の弐分方町にある観音堂の地にあったと推定されている。遺構は全く無く、ただの平場があるだけで、どこまでが往時の遺構かも定かではない。尚、このすぐ南側に空堀状の地形があるが、遺構かどうか判断に迷う。
南の空堀状地形→DSC03946.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.678930/139.276654/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=red&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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中山勘解由屋敷(東京都八王子市) [古城めぐり(東京)]

DSC03926.JPG←屋敷跡の高台
 中山勘解由屋敷は、滝山城主北条氏照の重臣にして、八王子城で激闘の後自刃した中山勘解由家範の屋敷跡である。中山氏の事績は、中山氏館の項に記載する。中山氏の本領は別にあったので、ここで言う勘解由屋敷は滝山城近くに滝山衆家臣団が設けた上屋敷の一つであったのだろう。
 中山勘解由屋敷は、滝山城の南東1.5kmの中山谷戸とか勘解由谷と呼ばれる谷戸地形の東側の高台にある。現在は畑となっていて改変されている為、どこまでが遺構かははっきりしないが、確かに屋敷地らしい高台となっていて、広い平坦地となっている。中山家範は、この地から毎日滝山城に登城していたのであろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.691844/139.338838/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=red&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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左入城(東京都八王子市) [古城めぐり(東京)]

DSC03920.JPG←谷戸に面した急崖
 左入城は、中丸淡路守の居城とされ、滝山城の出城と言われている。しかしその歴史は不明で、位置すら近年まで明確ではなかった。現在、村内家具(現名称、村内ファニチャーアクセス)のある付近が城跡と伝えられており、その口伝を土地の古老から聞いた村内家具の社長が自費で立派な石碑を建てたことで、広く知られることとなったそうである。
 石碑の記載によれば、左入城は東西約400m、南北175mの卵形で、東南及び西に幅40~50m、深さ9mの空堀を巡らした要害であったと言う。現在は国道16号線が通り、中央高速八王子インター入口に近い現代モータリゼーションの要地であるので、当然ながら遺構は全く残っていない。しかし、村内ファニチャーアクセスの敷地の北側は、谷戸に面した10m程の急崖となっていて、往時の要害地形を想起させる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.678947/139.337486/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=red&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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小山田1号遺跡(東京都町田市) [古城めぐり(東京)]

DSC06318.JPG←発掘保存されている遺構
 小山田1号遺跡は、平安時代末から室町時代に掛けての有力武士の居館跡と考えられている。この周辺に広がる多摩丘陵には、谷が複雑に入り込んだ地形を利用して馬牧が各地に営まれ、関東武士が台頭する一因となったとされる。小山田1号遺跡付近は、秩父平氏で小山田城主小山田有重が開発した小山田荘の中心地に当たり、小山田氏の関連が考えられると言う。
 小山田1号遺跡は、小山田桜台団地の一角にあり、小山田城の南西1.5km程の場所に位置し、谷に面した南向き斜面に残っている。数棟の掘立柱建物や地下式横穴・柵柱列の遺構が発掘されており、現在貴重な遺跡として保存されている。団地の一角にこうした遺構が保存されているとは、町田とは奥の深い街である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.592831/139.399681/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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三輪城(東京都町田市) [古城めぐり(東京)]

DSC06281.JPG←主郭周囲の空堀
 三輪城は、沢山城とも言い、小田原北条氏が関係したと考えられる歴史不詳の城である。「北条氏照印判状」には、同郷の馬を三輪に集めよとの命令が記されており、北条氏照の配下にあった城と想定される。
 三輪城は、鶴見川南岸の丘陵上に築かれており、七面堂を祀った主郭を最上部に置き、空堀で分断された二ノ郭・三ノ郭を備える平山城である。城内は公園化や耕地化しているものの遺構はよく残っており、七面堂の鎮座する主郭の櫓台や周囲の空堀、二ノ郭・三ノ郭の土塁など、遺構は明瞭である。堀や曲輪の塁線には横矢も掛かっており、小規模ながらも本格的な築城の跡を残している。都内ではなかなかの遺構を残す城である。なお、腰曲輪などへの立入り規制が多いが、土地の所有者の方のご好意で公開していただいているようなので、モラルは守るよう心掛けたい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.578505/139.490769/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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伝成瀬城主館(東京都町田市) [古城めぐり(東京)]

DSC06237.JPG←谷戸公園の谷間地形
 伝成瀬城主館は、成瀬城の城主館があった場所と言われている。場所は、成瀬城の南西に当たり、現在の松葉公園から谷戸公園付近にかけてとされている。この館の伝承は、くま星人さんのブログ「多摩の古城」を拝見して初めて知った。それによれば、城主館は松葉公園の北麓の松葉稲荷神社付近を中心とし、都営団地付近には馬場があり、そのほか都営住宅周辺には近年まで堀跡らしい地形が残っていたようである。しかし現在は、開発によって遺構は湮滅しているようである。谷戸公園には谷間のような地形が残り、ちょっと気にはなるが、どうも自然地形にしか見えない。いずれにしても上記ブログを拝見しただけで全く調査していないので、詳細は不明である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.536181/139.464655/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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成瀬城(東京都町田市) [古城めぐり(東京)]

DSC06205.JPG←主郭東側の斜面
 成瀬城は、歴史不詳の城である。城の南東約1000mにあった経塚からは武運長久、息災延命を祈った「天文4年(1535年)11月日 四条彦次郎」の銘が記された経筒が出土しており、成瀬城と関連がある有力武士と推定されているようである。また「北条氏所領役帳」では成瀬の地は小山田弥三郎(信茂?)に給されていたと言い、甲斐郡内の小山田氏に小田原北条氏から所領を与えられていたようであり、そこから類推すれば小山田氏の一族か家臣が拠った可能性も指摘されている(日本城郭大系)。以前設置されていた解説板には、小田原北条氏2代氏綱が小机城の支城として築いたとの記載があったようだが、新しい解説板にはこのくだりが削られているので、おそらく史実と異なる可能性が高くなったのだろう。
 成瀬城は、恩田川に面し、中世の主要道であった鎌倉街道を北東に見下ろす台地の先端に築城されている。現在は周囲は住宅地となり、城跡も住宅街の中の一公園となっているが、地勢はよく残っている。周囲はコンクリートで固められているが、東側に切岸状の斜面が残り、往時のままである可能性もある。しかしそれ以外の遺構はほぼ皆無で、南側に空堀があったようだが、現在は民家で湮滅している。北端には櫓台があったようだが、ほとんど削られてしまっている。また土塁は全く残っていない。住宅街にわずかに遺構を残す謎の城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.541053/139.472530/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:中世崖端城
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八幡塚砦(東京都大田区) [古城めぐり(東京)]

DSC05562.JPG←本殿裏に残る八幡塚
 八幡塚砦は、六郷の領主で小田原北条氏の家臣行方弾正明連の築いた砦と言われている。伝承では、1569年に甲斐の武田信玄が相模に侵攻して小田原城を攻めた際に、明連は八幡塚に砦を築いて防ぎ戦ったと言うが、信玄の侵攻ルートからは大きく外れており、事実とは思われない。どちらかと言えば、甲斐本軍ではなく周辺の北条氏の敵対勢力が信玄に呼応して侵攻したものかも知れない。それ以外の歴史は不明である。
 八幡塚砦は、現在の六郷神社の地にあったとされている。この地は、多摩川が大きく南に蛇行して半島状に突き出た地形になっており、多摩川下流域を押さえる要衝であったことが想像される。しかし周囲は完全に市街化しており、神社境内にも遺構らしきものは全く見られない。本殿の裏には八幡塚が今でも残っているが、柵で囲われて近づくことができず、遠目に見た限りではわずかな土盛に過ぎないようである。現状からではほとんど砦らしさは感じられないのが残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.544065/139.713135/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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大森堀之内(東京都大田区) [古城めぐり(東京)]

DSC05545.JPG←堀之内の名が残る三輪神社
 大森堀之内は、詳細不詳の城館である。東方を呑川が流れる微高地は昔から堀之内と呼ばれ、城館があったことが推察される。現地の由緒書きに拠れば、鎌倉時代中期の北条時頼の時代(1247~59年)に置かれていた陣屋の旧跡であるとも伝えられているという。日本城郭大系では、蒲田氏または大井氏の館跡との説を紹介している。遺構はおろか、発掘調査によってもまだ何も発見されていないらしい。わずかに堀之内の地名が伝えられている三輪神社の境内がその旧跡とされている。近くには「大森堀之内児童公園」なんていう公園もあり、その歴史は不明でも、「堀之内」の名は間違いなく現在まで語り継がれている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.565231/139.733005/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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