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古城めぐり(埼玉) ブログトップ
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花井氏陣屋(埼玉県深谷市) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN1087.JPG←菅沼定利の供養塔
 花井氏陣屋は、旧本郷村を領した花井氏の陣屋である。花井氏の前は上野吉井城主菅沼氏の陣屋があった。菅沼小大膳定利は三河国額田郡菅沼の出身で、徳川氏に仕え、長篠の合戦で軍功を上げた。1582年、織田信長横死後の武田遺領争奪戦「天正壬午の乱」を経て信濃の過半が徳川氏の支配下となると、下伊那の飯田城に入って伊那郡を統括した。1590年に徳川家康が関東に移封となると、定利は吉井城主となり2万石を領し、本郷村も菅沼氏が支配するところとなった。菅沼氏は本郷字木の下に陣屋を置いたが、1603年に本郷村450石、榛沢新田村の一部50石、合計500石を菅沼氏と縁の深い花井伊賀守定清に与え、以後は花井氏の陣屋が置かれた。その後、1690年の花井勘左エ門の時に分家200石が足された。花井氏は本家300石、分家200石で続き、花井家14代吉十郎の時に明治維新を迎えた。

 花井氏陣屋は、定光院の南にあったらしい。遺構は完全に湮滅し、一面の畑と宅地に変貌しているが、菅沼定利が開基した定光院に、花井家歴代の墓が残っている。また定光院の南の畑脇には菅沼定利の供養塔が残る。供養塔の解説板によれば、供養塔は陣屋の北端に建てられたらしく、供養塔の位置から南側が陣屋跡であるらしい。
花井家歴代の墓→DSCN1080.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.170767/139.212162/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
(場所は菅沼定利供養塔の位置)


埼玉県の歴史 (県史)

埼玉県の歴史 (県史)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2010/11/01
  • メディア: 単行本


タグ:陣屋
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北根代官所(埼玉県深谷市) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN1068.JPG←代官所跡
 北根代官所は、徳川家の旗本日根野氏が置いた代官所である。日根野氏は最初豊臣秀次に仕えていたが、後に徳川家康に仕えた。その所領は武蔵・常陸・上野に分散しており、合計1500石余りを領していた。1680年には目付役に任ぜられた。日根野氏は江戸に居住していたため、武蔵の北根村・柏合村・長在家村の支配を行うため、北根村の名主であった宇野家を郷代官に任じた。北根代官所は、宇野家の役宅を兼ねた居宅である。郷代官は、地頭所の下達文書を各村の名主に伝えたり上申書を取り次いだり、年貢扶役の割付・調停なども行い、報酬として給米や所役免除の特権を与えられ、名字帯刀など武士の格式が認められていたらしい。

 北根代官所は、現在県の史跡に指定されている。現在も宇野家の宅地・居宅であるため、許可なく中に入る事はできない。現在の建物は1747年にたてられたものであるが、傍から見ると古い農家の建物ぐらいにしか見えない。屋敷の北側に土塁が、西と北には空堀が残ると解説板に書いてあるが、空堀は埋められてしまったらしく、わずかに北側の土塁が道路脇に確認できるだけである。
北側の土塁→DSCN1073.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.145196/139.252546/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


埼玉県の歴史散歩

埼玉県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2005/03/01
  • メディア: 単行本


タグ:代官所
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新開氏館(埼玉県深谷市) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN1030.JPG←館跡付近の現況
 新開氏館は、新開荒次郎実重の居館である。新開氏は、渡来系の豪族秦河勝の後裔と言われ、平安時代末に新開次郎忠氏がこの地に館を構えた。実重は、相模西部の豪族で鎌倉幕府創業の功臣土肥実平の次男で、忠氏の養子となって新開氏を継いだ。石橋山合戦で大敗した源頼朝が海路で安房に逃れた際、同道した主従7騎の中に忠氏の名があり、一方の実重は北条政子に頼朝の無事を伝える使者を務めたとされる。頼朝が鎌倉に幕府を開くと、実重はその御家人となって活躍した。子孫は鎌倉末期に越中・阿波に移ったが、このうち阿波新開氏は牛岐城を本拠として阿波細川氏・三好氏に仕え、戦国末期に長宗我部元親に滅ぼされるまでその命脈を保った。

 新開氏館は、小山川西方の東雲寺と大林寺の間辺りにあったらしい。遺構は完全に湮滅しており、正確な位置も判明していない。昭和20年代前半の航空写真を見ると、東雲寺の西隣にほぼ方形をした畑の区画が確認できるが、これが館跡であろうか?
 尚、東雲寺には新開実重の墓が、また大林寺にはその夫人の墓がある。それぞれ男寺・女寺と呼ばれ、それぞれの寺に男女を別々に葬るという珍しい風習が明治時代まで伝わっていたという。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.229865/139.302671/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


相模のもののふたち―中世史を歩く (有隣新書10)

相模のもののふたち―中世史を歩く (有隣新書10)

  • 作者: 永井 路子
  • 出版社/メーカー: 有隣堂
  • 発売日: 2022/12/29
  • メディア: 新書


タグ:居館
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熊谷陣屋(埼玉県熊谷市) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN1005.JPG←陣屋跡の現況
 熊谷陣屋は、熊谷宿を領した忍藩が築いた出張陣屋(役所)である。忍藩主の命を受けて町の運営が行われ、忍藩の役人が交替で陣屋に赴いて、駅伝事務や地方事務など熊谷宿の運営の監督をした。陣屋には、平時は留守番が置かれ、事あるときは役人を派遣して事務を行ったと言う。陣屋が設置された年月は不明で、その規模もあまり大きなものではなかったと考えられている。

 熊谷陣屋は、千形神社脇にあったらしい。遺構は完全に湮滅しているが、神社境内の脇に標柱と解説板があり、中山道から神社に至る道には陣屋町通りの名が残る。尚、訪問したのは7月下旬であったが、近々祭りがあるらしく、見事な山車の準備が行われていた。
準備中の山車→DSCN1003.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.145733/139.384532/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


小藩大名の家臣団と陣屋町 3 南関東・中部(新装改訂版)

小藩大名の家臣団と陣屋町 3 南関東・中部(新装改訂版)

  • 作者: 米田藤博
  • 出版社/メーカー: クレス出版
  • 発売日: 2021/03/25
  • メディア: 単行本


タグ:陣屋
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大成館(埼玉県さいたま市) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN0852.JPG←館跡の普門院
 大成館は、応永年間(1394~1428年)にこの地の領主であった金子駿河守家光の居館と伝えられる。1426年、駿河守は関東を巡って仏法を説いていた曹洞宗の高僧・月江正文に帰依し、自らの居館を禅庵に改め、寺号を普門院としたと言う。

 大成館は、現在普門院の境内となっている。よくある単郭方形居館であったらしく、以前は北辺の空堀が残っていたが、館跡北部が大成中学建設の際に校地の一部となってしまい、空堀は失われたと言う。戦後間もなくの航空写真を見ると確かに空堀らしいものが確認できる。結局今では遺構は残っておらず、門前の「大成館跡」の石碑が残るだけである。尚、普門院には大成領主であった旗本小栗忠政一族の墓が残っている。幕末の偉人の一人、小栗上野介忠順の直系の先祖である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.911742/139.612777/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


小栗上野介

小栗上野介

  • 作者: 村上 泰賢
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2010/12/15
  • メディア: ペーパーバック


タグ:居館
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内藤氏陣屋(埼玉県久喜市) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN0792.JPG←陣屋跡の現況
 内藤氏陣屋は、栢山陣屋とも言い、徳川家の旗本内藤氏が築いた陣屋である。内藤氏の初四郎左衛門正成は、徳川家康の父広忠の代から仕えた武将で、弓・槍の名手として知られ、三河一向一揆の戦い・三方ヶ原の戦い姉川の戦い・小牧長久手の戦いなど家康の名だたる合戦に従軍して軍功著しく、徳川16神将に挙げられた。1590年に徳川氏が関東に移封となると、正成も家康に従って関東に移り、菖蒲・新堀・小林・栢山・三箇の5ヶ村5000石を拝領し、栢山に所領支配のための陣屋を造営した。1602年4月に正成がこの地で病に臥すと、2代将軍秀忠は侍医の久志本左京亮常衡を差し遣わして治療に当たらせるほど、将軍の信任を得ていた。1625年に旗本の府内宅地の制により、内藤家が江戸詰めとなってからも陣屋は置かれた。正成の孫・新五郎忠俊の時に改易となったが、正成の外孫・内藤外記正重が跡を継いで家名と所領は存続した。最終的には5700石まで加増され、幕末まで約280年間・14代にわたって大身旗本として続いた。

 内藤氏陣屋は、現在栢山小学校の校地となっている。久喜市の資料によれば、陣屋の範囲は小学校校地よりも更に西と南に広がっていらしく、北から北西辺にかけては二重の堀で囲まれ、南には2つの外郭があったらしい。現在はわずかに堀の名残の水路が残っているぐらいで、遺構は完全に湮滅している。小学校南に解説板があるだけである。尚、南西にある善宗寺に正成に始まる内藤一族の墓所がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.035418/139.579110/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


江戸の旗本事典 (角川ソフィア文庫)

江戸の旗本事典 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 小川 恭一
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA/角川学芸出版
  • 発売日: 2016/01/23
  • メディア: 文庫


タグ:陣屋
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鴻巣御殿(埼玉県鴻巣市) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN0780.JPG←御殿跡に残る東照宮
 鴻巣御殿は、徳川家康が関東各地に造営した御殿の一つである。鷹狩や領内視察などの宿泊・休憩所として1593年に建てられた。規模はおよそ一町四反歩(約1.4ヘクタール)に及んだとされる。その後、秀忠・家光と将軍家3代にわたって鷹狩の際の休泊所として利用されたが、1630年頃を最後としてそれ以降使用されなくなった。1657年の明暦の大火後にその一部が解体されて江戸城に運ばれ再利用された。1682年頃には残りの建物も腐朽して倒壊し、1691年には御殿地に東照宮を祀り除地としたと言う。

 鴻巣御殿は、現在では路地裏の小さな東照宮しか残っていない。なんでも日本一小さい東照宮とのことで、近年まで御殿の比定地も明らかでなかったが、平成6年の試掘調査でその一部が確認されたらしい。東照宮前を通る路地の街並みが「御成町」で、将軍が御成りになったことにちなむ名にその歴史を残している。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.057573/139.511840/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


徳川家康という人 (河出新書)

徳川家康という人 (河出新書)

  • 作者: 本郷和人
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2022/10/26
  • メディア: Kindle版


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小谷城(埼玉県鴻巣市) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN0689.JPG←城跡の現況
 小谷(こや)城は、戦国期に忍城主成田氏の家臣小宮山内膳の居城であったと伝えられる。小谷とは即ち「小屋」であり、戦国時代には小規模な城のことを「小屋」と呼んだ。小宮山氏としては、同じ成田氏の家臣の中に戸塚城主小宮山弾正介忠孝がおり、弾正介は小谷城北方にある宝勝寺の開基であったとも伝えられる。これらのことから、内膳と弾正介は同族であり、内膳の方が古い時代の人であったと推測されている。また宝勝寺の石碑では、弾正介が小谷城主の時、城の塁壁内に宝勝寺を建立したものと推測している。尚、1590年の小田原の役の際、忍城主成田氏長は小田原城に詰めており、その応援部隊の中に小宮山弾正の名がある。豊臣秀吉に降伏した成田氏は、1591年に下野烏山城に移封となっており、成田氏に仕えた小宮山氏は弾正が最後であったろうと考えられている。

 小谷城は、荒川東岸の平地にあったらしい。現在は城跡付近を堤防が貫通しており、往時の景観は変わってしまっている。堤防上にある現地解説板によれば、城の中心部は堤防の西側にあったらしく、近辺には城山・小城沼・元屋敷・仕置場など城に関係した地名が残ると言うが、一面の畑・空き地になってしまっている。近くの日枝神社は城の北東にあるため、城の鬼門除けとして祀られた社との説もある。今となっては失われた城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.077190/139.465964/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


 尚、訪城した時、たまたま日枝神社では氏子さん達が集まって作業をしていたが、覆屋の中にある本殿を案内してくれた。なんでも令和になってから発見された本殿とのことで、それまでは覆屋の中は未整備の物置状態で、誰も中を覗けなかった状態だったらしい。中を皆さんで整理したところ、現れたのは国宝の妻沼聖天山とよく似た極彩色の貴重な本殿で(⇒当時の新聞記事はこちら)、とりあえず2022年2月に市の有形文化財に指定されたばかりとのこと。普段は見ることのできない本殿で、とても貴重なものを見せていただける幸運に巡り会えた。案内していただいた方には本当に感謝!である。
素晴らしい彫刻の本殿→DSCN0706.JPG
(拡大可)



秀吉の天下統一戦争 (戦争の日本史)

秀吉の天下統一戦争 (戦争の日本史)

  • 作者: 小和田 哲男
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2006/09/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世平城
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箕田館(埼玉県鴻巣市) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN0660.JPG←館跡付近に立つ石碑
 箕田(みだ)館は、平安時代に箕田源氏、源仕(みなもとのつこう)・宛(あたる)・渡辺綱(つな)3代の居館であったと伝えられる。箕田源氏は嵯峨源氏の一流で、嵯峨天皇の第8皇子源融(とおる)の孫・仕が、長じて後に武蔵国箕田郷に居を構えたことに始まる。周辺の土地を開墾し、家の子・郎党を養い、次第に力を蓄えた。知勇兼備の武将として武蔵介源経基に仕え、承平天慶の乱では平将門討伐や藤原純友討伐に軍功を挙げ、従五位上武蔵守となった。その子・宛は弓馬の道に優れ、父・仕に従って西国で藤原純友討伐に軍功を挙げたが、953年に21歳で没した。宛の長子・綱は953年に箕田に生まれ、幼くして両親を失い、従母である多田満仲の娘に引き取られ、摂津国渡辺庄で育ち、渡辺姓を名乗った。幼少より勇名を馳せ、長じてからは源頼光に仕え、頼光四天王の第一と称せられた剛勇の武将であった。

 箕田館は、箕田氷川八幡神社の北、満願寺の南にあったとされる。しかし館跡付近は現在一面の住宅地に変貌しており、遺構は一切残っていない。1000年以上前の開発領主の館であるから、遺構が残っていなくても仕方のないところだろう。県の旧跡に指定されているが、標柱や解説板は現地にはない。市のHPに載っている館跡の小さい石碑は館を示すものではなく、山上・荒神と刻まれた地域信仰のもので、住宅地の中に完全に埋没している。ただ館跡付近には箕田古墳群があり、その2号墳は三士塚とも呼ばれ、源仕とその妻子の墓との伝承もあるが、築造年代が合わず伝承は否定されている。尚、宝持寺や箕田氷川八幡神社は箕田源氏所縁の地で、その解説板や由緒書に箕田源氏3代の記載があり、箕田碑が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.080555/139.480373/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


平将門と天慶の乱 (講談社現代新書)

平将門と天慶の乱 (講談社現代新書)

  • 作者: 乃至 政彦
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2019/04/10
  • メディア: 新書


タグ:居館
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設楽氏陣屋(埼玉県加須市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC07574.JPG←標柱が立つ陣屋跡伝承地
 設楽氏陣屋は、礼羽陣屋とも言い、徳川家康の家臣設楽氏が礼羽に築いた陣屋である。設楽氏は2代貞通の時に三河国設楽郡の川路城主となり家康に仕えた。1590年の小田原の役の後、徳川氏が関東に移封となると、設楽氏3代甚三郎貞清も関東に移り、武蔵国太田庄羽生領の内、加須・礼羽・馬内・戸崎の4ヶ村1500石を拝領し、礼羽に陣屋を構えた。後に陣屋は加須に移され、明治の初めまで蔵屋敷として残っていたと言う。

 設楽氏陣屋は、礼羽氏館跡のすぐ東にあったらしい。遺構はなく、現在は畑の隅に標柱が立っているだけである。標柱には、「伝承 陣屋跡」とあるので、正確な場所もわかっていないようである。尚、3代貞清が開基した香積寺に、設楽家累代の墓があり、市の史跡となっている。
設楽家累代の墓→DSCN0601.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.127052/139.583970/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


江戸の旗本事典 (角川ソフィア文庫)

江戸の旗本事典 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 小川 恭一
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA/角川学芸出版
  • 発売日: 2016/01/23
  • メディア: 文庫


タグ:陣屋
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菅谷北城(埼玉県上尾市) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN8412.JPG←土塁らしき土盛り
 菅谷北城は、南北朝期に春日八郎行元と言う武士が築いた城と推測されている。『新編武蔵国風土記稿』によれば、将軍足利尊氏と弟直義が争った室町幕府の内訌「観応の擾乱」の際に尊氏方として軍功を上げた春日行元が、菅谷村にあった丸七郎の領地を恩賞として拝領したことが記されており、『旧埼玉県史』ではこの春日氏が菅谷北城を築城したと推測している。

 菅谷北城は、北中地公民館付近にあった。ここは東側に流れる小河川に面した低台地の縁辺部に当たる。宅地化・耕地化で遺構はかなり湮滅しているが、城の中心付近とされる公民館から北西140m程の所に、車道に沿って土塁らしい土盛りが残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.001592/139.596212/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


埼玉の城―127城の歴史と縄張

埼玉の城―127城の歴史と縄張

  • 作者: 太久夫, 梅沢
  • 出版社/メーカー: まつやま書房
  • 発売日: 2018/01/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世平城
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原市陣屋(埼玉県上尾市) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN8393.JPG←陣屋付近の現況
 原市陣屋は、徳川家康の家臣西尾隠岐守吉次・丹後守忠永父子が築いた陣屋である。吉次は、元々は三河国東条に生まれ、織田信長に仕えて1574年に美濃国で3千石を給された。1582年の本能寺の変の際には、家康を案内して堺におり、いわゆる「神君伊賀越」に同行した。翌年家康の家臣となり、小牧・長久手の戦いや小田原の役に従軍した。1590年に徳川氏が関東に移封となると、足立郡で5千石の地を給され、上尾下村・上村に陣屋を設けた。1602年、美濃で7千石を加増され、都合1万2千石を領する大名となった。吉次は、1606年に京都伏見において77歳で没し、その子忠永が跡を継いだ。1618年、忠永は常陸土浦城主を命ぜられてこの地を去るまで、28年間にわたる原市藩支配を行った。

 原市陣屋は、現在の陣屋公民館付近にあったとされる。残念ながら周囲は市街化され、遺構は全く残っていない。尚、陣屋の東方500mの位置にある妙厳寺に、西尾隠岐守一族の墓所がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.971816/139.610717/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


埼玉県の歴史散歩

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  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2005/03/01
  • メディア: 単行本


タグ:陣屋
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平柳蔵人館(埼玉県川口市) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN8361.JPG←公園に立つ石碑
 平柳蔵人館は、岩付城主太田資正の家臣平柳蔵人の居館である。1564年の第二次国府台合戦では、安房の里見義弘と太田資正が連合して北条氏康と戦ったが、北条勢が苦戦の末に大勝し、平柳蔵人は討死したと伝えられる。

 平柳蔵人館は、現在住宅地の一角にある蔵人公園となっている。遺構はまったくないが、公園に立派な石碑と解説板が立っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.796626/139.734292/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 南関東編: 埼玉・千葉・東京・神奈川

関東の名城を歩く 南関東編: 埼玉・千葉・東京・神奈川

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/07/26
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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羽生陣屋(埼玉県羽生市) [古城めぐり(埼玉)]

IMG_1738.JPG←陣屋跡とされる高山稲荷
 羽生陣屋は、江戸時代最末期に築造された陣屋である。1867年7月、徳川幕府は羽生領18ヶ村を天領(幕府の直轄領)とし、岩鼻代官木村飛騨守勝教の支配下とした。そして岩鼻代官所を羽生に移転するため11月に陣屋の築造を開始し、翌年2月に水堀で囲まれた11棟の建物が完成したと言う。羽生陣屋は利根川の渡河点である川俣関所に近い交通の要地であった。川俣には、日光脇往還と言う街道の重要な宿駅川俣宿があり、関東16渡津の一つ川俣渡船場もあり、渡船者の厳重な取締りが行われる江戸防衛の拠点であった、そのため羽生陣屋には、鈴木蠖之進を取締として歩兵350人が配置された。しかし陣屋完成前の1月に鳥羽伏見の戦いで幕軍は敗れ、兵力を立て直して衝鋒隊を組織した古屋佐久左衛門は、3月1日に江戸を出て、7日に羽生陣屋に入った。翌8日、850余名を率いて梁田(足利市)に泊まったが、9日に官軍の奇襲攻撃を受けて壊滅した(梁田戦争)。勝に乗じた官軍は川俣関所から羽生陣屋に迫り、陣屋を焼き払った。こうして完成からわずか十数日で陣屋は焼き払われた。

 羽生陣屋は、現在は市街化により遺構は完全に湮滅している。具体的な場所も現況では明確ではないが、羽生城址の一角に当たる高山稲荷神社(城山稲荷)付近にあったらしい。今から見れば、羽生陣屋の急造は徳川幕府の最後のあがきであったように思える。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.175262/139.544220/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


富原文庫蔵 陸軍省城絵図

富原文庫蔵 陸軍省城絵図

  • 作者: 富原 道晴
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/05/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:陣屋
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堀越館(埼玉県羽生市) [古城めぐり(埼玉)]

IMG_1713.JPG←北側の堀跡
 堀越館は、堀越屋敷とも言い、歴史不詳の城館である。『日本城郭大系』では鎌倉時代の土豪の居館と推測している。羽生城から500m程しか離れていないことから、羽生城主木戸氏の家臣などの関係を推測する説もあったが、発掘された遺物の年代から戦国時代の城館との推測には疑問が持たれている。

 堀越館は、現在は堀越家の屋敷地となっている。堀越家の祖先が代々居住していたことからこの名称が付けられたとのことで、遺跡名称と館の歴史との間には関係がない。発掘調査の結果、二重の堀で囲まれた屋敷跡であることが判明している。何でも、随分前に史跡保存の為に所有者から羽生市に土地が寄付されたらしいが、現在でも手付かずのまま竹林となっており、立入禁止となっている。しかし夏でも遠目に外堀跡が確認でき、竹林の中にも内堀らしいわずかな溝地形が見えた。ただ、スズメバチ数匹が近くを飛んでいたこともあって、早々に切り上げた。
 尚、館の南東の民家の裏に大型の五輪塔が残っており、鎌倉末期のものと推測されている。堀越館との関係は不明であるが、館主に関係する遺物であると考えたいところである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.180181/139.551344/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


関東の名城を歩く 南関東編: 埼玉・千葉・東京・神奈川

関東の名城を歩く 南関東編: 埼玉・千葉・東京・神奈川

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/07/26
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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土屋陣屋(埼玉県さいたま市) [古城めぐり(埼玉)]

IMG_0359.JPG←現存の長屋門
 土屋陣屋は、永田陣屋とも呼ばれ、江戸時代初期に徳川家康の家臣の関東郡代・伊奈備前守忠次が、荒川改修や新田開発をおこなうために設置した陣屋である。その時期は、家康が江戸に開幕し覇権を確立した1603年以降と推測されている。1642年、伊奈忠治が赤山陣屋を築いて移転したため、土屋陣屋は伊奈氏の家臣である永田氏が拝領した。永田氏は伊奈家の職を辞して帰農し、この地で名主となった。
 土屋陣屋は、現在も永田家の居宅となっている。周囲には水堀が廻らされ、南西正面には大きな長屋門と築地塀が現存している。その南西側の空き地も陣屋の一部であったらしく、土塁跡の様なわずかな土盛りや堀跡の様な溝が残っている。比較的小規模な史跡であるが、現存門など見応えがある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.905772/139.573960/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


江戸幕府代官頭 伊奈備前守忠次

江戸幕府代官頭 伊奈備前守忠次

  • 作者: 和泉 清司
  • 出版社/メーカー: 埼玉新聞社
  • 発売日: 2019/05/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:陣屋
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羽生城(埼玉県羽生市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC06437.JPG←城址碑の建つ古城天満宮
(2007年6月訪城)
 羽生城は、上杉謙信の関東攻略の前線基地となった城である。元々は天文年間(1532~55年)に古河公方足利晴氏の家臣広田式部大輔直繁・木戸忠朝の兄弟によって築かれた。1552年、小田原北条氏が羽生城を攻め落とし、中条出羽守が城代となった。1560年、上杉謙信が初めて越山して関東に進撃すると、羽生城も攻め落として直繁・忠朝兄弟に城を与え、以後羽生城は謙信の関東攻めの最前線基地となった。翌61年、忍城の成田下総守長泰に対する守りを固める為、謙信は皿尾城を築いて木戸忠朝(監物入道玄斎)を皿尾城主に移した。1568年、武田信玄の駿河侵攻によって甲相駿三国同盟が破棄されると、北条氏康は信玄に対抗するため、上杉謙信と越相同盟を結んだ。同盟中の1570年、直繁は館林城へ移され、代わって弟忠朝が羽生城へと入った。その後、越相同盟は実効性に乏しかった為、1571年、氏康の死とともに同盟が破棄され、再び北条・武田両氏の間に甲相同盟が結ばれた。これによって関東の野は再び北条・上杉両勢力の抗争の場となった。しかし北条氏は着実に勢力を拡張し、遂に1574年、謙信は越後と遠い羽生城を放棄・破却し、忠朝以下の城兵を上野膳城へと移した。翌75年、羽生城は北条氏麾下の忍城主成田下総守氏長が支配し、その一族成田大蔵少輔長親が羽生城代となった。1590年の小田原の役の際には、時の羽生城代善照寺向用斎は氏長の命により、羽生城を捨てて忍城に籠城した。北条氏と共に成田氏が滅亡すると、関東に入部した德川家康の重臣大久保忠隣に羽生城が与えられた。忠隣は後に父忠世の死により小田原城主となり、羽生城主を兼務したが、1614年、忠隣が改易されると羽生城は廃城となった。その後も遺構は残っていたらしいが、幕末の1867年に羽生陣屋が新たに構築された際、城跡は悉く破壊されたと言う。

 羽生城は、沼地に面した平城で、浮島のように曲輪が連なる城であったらしい。古絵図によれば、主郭を中心に円弧状に幾重にも曲輪が取り囲む縄張りで、平地続きの南と南西にも沼が外堀となって、天然の要害であった様である。現在は完全に市街化しており、遺構は完全に湮滅している。おそらく曙ブレーキ本社の敷地あたりに主郭があったのだろう。少し南の羽生市役所付近も城域だったと思われる。古城天満宮が建つ場所が天神曲輪跡と言われ、現在城址碑と解説板が建つ。また曙ブレーキから南西に少し離れて建っている高山稲荷は、以前は城山稲荷と呼ばれ、羽生城の西の外郭にあったらしい。いずれにしても、その姿はすでに地上から永遠に失われている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.175747/139.550164/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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菖蒲城(埼玉県久喜市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC06398.JPG←城址碑の建つ公園
(2007年6月訪城)
 菖蒲城は、古河公方初代足利成氏が築かせた城である。1454年、鎌倉公方足利成氏が対立する関東管領上杉憲忠を誅殺して、関東全域を巻き込む「享徳の大乱」が勃発した。その経緯は古河城の項に記載する。古河に本拠を移した成氏は、1456年に奉公衆の金田式部則綱に命じて菖蒲城を築かせ、騎西城と合わせて対立する上杉勢の重要拠点河越城に対する最前線とした。則綱は後に佐々木氏を称し、菖蒲佐々木氏と称される(近江の名族六角佐々木氏の裔を称したというが、真偽は不明)。以後、菖蒲城は菖蒲佐々木氏の歴代の居城となった。後に小田原北条氏が勃興して勢力を伸ばし、古河公方家も北条氏の勢力に呑み込まれると、佐々木氏も北条氏に属することとなった。戦国後期の1574年、関宿城を巡って三度目の攻防戦が生起した。北条氏政と上杉謙信が戦い、上杉勢によって菖蒲城は騎西城と共に城下を焼討ちされた。1590年の小田原の役で落城し、そのまま廃城となった。

 菖蒲城は、現在「あやめ園」という公園に変貌している。一応、菖蒲城址とは銘打っているが、城址とは名ばかりで遺構は全く残っておらず、城址碑が建っているだけである。また公園内には、徳川家康の旗本、内藤氏の陣屋であった栢間陣屋のものと伝えられる移築門が建てられている。戦後まもなくの航空写真を見ても、周囲は一面開墾されていて城の面影すら見ることができず、早くに失われた城の様だ。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.061763/139.594452/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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油井ヶ島城(埼玉県加須市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC06377.JPG←水堀
(2007年6月訪城)
 油井ヶ島城は、油井城、或いは鐘撞山とも呼ばれ、騎西城の支城である。伝承では、武蔵七党猪俣党の当主で源平合戦などで名高い猪俣小平六範綱またはその末裔の城と言われるが、範綱の本拠はここからかなり離れた現・美里町であり、単なる伝承に過ぎない。油井ヶ島城の歴史については『鐘撞山之記』に記載があり、それによれば1563年、松山城救援のため出陣したが間に合わなかった上杉謙信が、転じて小田原北条氏の属城となっていた騎西城を攻め、同時に油井ヶ島城も攻撃した。油井ヶ島城の城兵は鐘を鳴らして騎西城に急を告げたが、騎西城も謙信本隊の攻撃を受けていて救援できず、結局城兵は甲冑兵器を丘に埋めて逃れたと言う。後の元禄年間(1688~1704年)に、ここから矢の根・鉄砲玉・大身槍・陣鍋が出土したと言う。

 油井ヶ島城は、騎西城の東南東2.3kmの位置にあり、低湿地に浮かぶ浮島の様な平城であったらしい。現在は民家となっているが、周囲に水堀と土塁があり、これが油井ヶ島城の遺構とされている。また城外西側に古墳の様な塚があり、その上に『鐘撞山之記』の石碑が建っている。往時も物見台として機能したのだろう。いずれにしてもささやかな遺構であるが、標柱・解説板・石碑があるのはありがたい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.098094/139.607112/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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花崎城(埼玉県加須市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC06338.JPG←城址公園内に残る水堀
(2007年6月訪城)
 花崎城は、細萱氏の居城粟原城の支城である。戦国時代中期に小田原北条氏の勢力と越後上杉氏の勢力が関東で激突する様になると、花崎城もその抗争に巻き込まれることとなった。1560年、初めて関東に出馬した上杉謙信は、翌年3月、北条氏康の小田原城を大軍で包囲攻撃した。この時、粟原城主細萱民部少輔光仲は、70余人を率いて小田原城に詰めた。わずか11歳の長子半左衛門泰秀が花崎城を守っていたが、小田原城から軍勢を退いた謙信はその帰途、羽生城主木戸宮内少輔忠朝に粟原城と花崎城を攻め落とさせたと言う。

 花崎城は、武蔵中部に多い、低湿地帯に浮かぶ浮島のような平城であったと思われる。現在は市街化が進み、城址には東武伊勢崎線が東西に貫通し、その北側は住宅地に変貌しているが、それでも東武線の南側に城跡公園として残されており、僅かだが遺構が確認できる。現地解説板によれば、畝堀・障子堀・角馬出などが発掘されたそうで、北条氏の築城技術が導入された縄張りであったらしい。残念ながら角馬出は住宅地となって破壊されてしまったが、前述の城址公園内に水堀跡と曲輪の塁線が見られる。これほど市街化が進んだ中にも、僅かでも遺構が残されていることは、非常に嬉しいことである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.111461/139.627680/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
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足利政氏館(埼玉県久喜市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC06309.JPG←甘棠院境内に残る空堀
(2007年6月訪城)
 足利政氏館は、古河公方2代足利政氏の隠居後の居館である。1506年頃から、嫡子高基と対立し、一旦和解するものの1513年に山内上杉氏の跡継ぎを巡って再び対立し、抗争の末、頼っていた小山氏まで離反して高基方に付き、1518年には後ろ盾であった扇谷上杉朝良が死去すると、政氏は久喜に隠居した。一方、政氏の政治勢力の後継者であった次男義明は、真里谷武田氏の要請を受けて上総に下向し、その支援を受けて小弓城に入って小弓公方家を創出した。こうした旧勢力の古河公方家や山内・扇谷両上杉氏の内訌の隙を突いて新たに勃興したのが、今川氏親の元軍師で関東に討ち入った伊勢宗瑞(いわゆる北条早雲)であった。

 足利政氏館は現在、政氏がこの館に隠居後に開山した甘棠院となっている。寺の周囲には空堀が残り、また政氏の墓も建っている。空堀はかなり埋もれているのか、規模は小さく、豪族の居館ほどの構えは備えられていない。永正の乱の主役の一人でもあった政氏は、ここでどのような余生を過ごしたのだろうか。1520年には、古河城を訪れてかつて対立した高基とも和解しており、政治活動からは一切身を引いて、読経三昧の日々を過ごしたものだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.073401/139.668535/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:居館
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春日山館(埼玉県伊奈町) [古城めぐり(埼玉)]

IMG_7513.JPG←桂全寺に残る春日氏墓
 春日山館は、小田原北条氏の家臣春日下総守景定の居館である。春日氏は藤原氏の出自と言われ、春日八郎光行は1537年に北条氏綱が扇谷上杉朝定の本拠であった河越城を攻略した際に軍功を挙げ、足立郡菅谷村に館を設け、足立一円を領した。その嫡子景定は岩槻太田氏に属していたが、岩槻城が北条氏康によって攻略されてその支城となると、そのまま北条氏に属し、1569年に小針内宿村に陣屋を築いたと言われる。後に北条氏が滅亡すると徳川家に仕え、京都伏見城の御門番を務めたと言う。
 春日山館は、現在は詳細な場所は不明であるが、内宿台という地名のある一帯にあったと思われる。この地は、宅地化され尽くした現在ではわかりにくいが、昭和20年代前半の航空写真を見ると、綾瀬川流域の低湿地帯に西から張り出した低台地上に位置し、三方を湿地帯で囲まれた要害地形だった様である。前述の通り宅地化され尽くしているので遺構は見る影もないが、内宿駅近くの桂全寺に春日氏の墓が残っており、その足跡を今に伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.016511,139.605589&z=15&base=std&vs=c1j0l0u0
    ※但し、正確な場所は不明。
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足立遠元館(埼玉県桶川市) [古城めぐり(埼玉)]

IMG_7506.JPG←館跡に建つ石碑
 足立遠元は、鎌倉幕府初期の宿老である。元々源氏の家人で武蔵国足立郡を本拠としており、平治の乱で源義朝に従った。後にその遺児頼朝が石橋山で挙兵し、敗北して安房に逃れて再起すると、武蔵で豊島清光葛西清重らと共に頼朝の元に参じた。頼朝の側近であった安達盛長とは縁戚に当たり、頼朝が公文書を設立するとその寄人の一人に登用され、やがて勲功10人の1人として左衛門尉に任じられた。2代将軍頼家の独断を抑えるために、13人の有力御家人による合議制が敷かれた際、遠元もその1人として加わっている。
 足立遠元の館には、幾つかの伝承地があり、桶川市のものもその一つである。現在、桶川市総合福祉センターが建っている場所に館跡があったとされるが、早くにその遺構は失われたらしい。現在は何も残っておらず、福祉センター脇に立派な石碑が建っているのみである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.006062,139.571214&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:居館
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石戸堀の内館(埼玉県北本市) [古城めぐり(埼玉)]

IMG_7502.JPG←神社裏の土塁と堀跡
 石戸堀の内館は、蒲冠者源範頼の居館であったとも、石戸左衛門尉の居城であったとも言われる城館である。範頼の館との説は、単なる伝承と思われるが、付近には範頼伝説の残る東光寺や石戸蒲桜がある。それに対し、鎌倉幕府の御家人であった石戸左衛門尉については、『吾妻鏡』に鎌倉中期の鶴岡八幡宮放生会参列の記事があり、その石戸氏の館であったという説が有力である。
 石戸堀の内館は、荒川東岸の段丘の中程に位置している。北本市の資料によれば、100m四方の方形の主郭を、円形とおむすび形の二重の土塁・堀で囲郭する、規模の大きな城館であったらしい。現在も遺構の一部が残っており、石戸神社の裏の山林内には土塁と堀が残っている。またおむすび形の外郭の南辺には、切岸跡の大きな傾斜地と堀跡の水路が残っており、往時の規模を偲ばせる。遺構はわずかだが、地勢は往時のまま残っている様だ。
外郭の堀跡の水路→IMG_7478.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.007017,139.513814&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:中世平城
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久下氏館(埼玉県熊谷市) [古城めぐり(埼玉)]

IMG_7257.JPG←館跡付近の現況
 久下氏館は、武蔵七党の一、私市党の一流久下氏の居館である。私市家盛の弟為家が武蔵国久下郷に分封されて久下氏を称した。久下直光・重光父子は、源頼朝に石橋山の挙兵時から従い、殊に土肥の杉山の頼朝の陣に一番に馳せ参じたことから、「一番」の家紋を賜わり、承久の乱の際には久下三郎が京に攻め上った鎌倉勢に従軍して功を挙げ、そのまま丹波の所領に留まり、丹波の国人領主となった。後の南北朝時代に、『太平記』に名高い久下弥三郎時重を輩出した。
 久下氏館は、現在は荒川北岸の河川敷になっている。この河川敷は、辺り一面が耕地化されており改変が進んでいるため、どこに居館があったのかも定かではない。戦後間もなくの航空写真を見ても、既に明確な館跡らしい形状はどこにも見られないので、遺構は早くに失われているのであろう。尚、館跡の北西1.3kmの場所にある東竹院は、久下次郎重光の開基とされ、境内には直光・重光父子の墓が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.119937,139.411204&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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西城(埼玉県熊谷市) [古城めぐり(埼玉)]

IMG_7233.JPG←西城の現況
 西城は、長井城とも呼ばれ、成田氏の祖となった成田助高の初期の居館とされる。この福川南岸の地は長井庄の要衝で、平安初期には左近衛少将藤原義孝の所領となり、その5代の裔、幡羅太郎道宗が館を構え、その子成田式部大輔助高が本城として西城を築いたとされる(但し、成田氏は武蔵七党横山党の一流との説もある)。この時、東には東城が出砦として築かれた。その後、1062年に前九年の役で源頼義・義家父子に従い軍功を挙げた越前斎藤実遠が、源家所領の長井庄の庄司となってこの地に入部すると、助高は太田庄成田郷に館を移したと言う。以後斎藤氏の領するところとなったが、実遠の子実直は越前河合の同族から実盛を養子として迎え、実盛は首邑の地利を考慮して、館を西野郷に移したと伝えられている。実盛は、源平争乱の際に加賀篠原での戦いで木曽義仲と戦って壮絶な討死を遂げた。

 西城は、東城より南南西750mの位置にあり、一面の耕地の只中に立派な石碑が建てられている。明確な遺構は見られないが、石碑が建っているのは微高地で、これが城館の痕跡であろうか。日本城郭大系では水堀の一部が残存しているとされるが、その後の改変で失われたようである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.195421,139.394896&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:居館
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東城(埼玉県熊谷市) [古城めぐり(埼玉)]

IMG_7228.JPG←八幡神社脇の窪地
 東城は、西城に対する東の砦であったとされる。この福川南岸の地は長井庄の要衝で、平安初期には左近衛少将藤原義孝の所領となり、その5代の裔、幡羅太郎道宗が館を構え、その子で成田氏の祖となった成田式部大輔助高が本城として西城を築いたとされる(但し、成田氏は武蔵七党横山党の一流との説もある)。この時、東に砦を設けており、これが東城と呼ばれる。その後、1062年に前九年の役で源頼義・義家父子に従い軍功を挙げた越前斎藤実遠が、源家所領の長井庄の庄司となってこの地に入部すると、助高は太田庄成田郷に館を移したと言う。以後斎藤氏の領するところとなったが、実遠の子実直は越前河合の同族から実盛を養子として迎え、実盛は首邑の地利を考慮して、館を西野郷に移したと伝えられている。実盛は、源平争乱の際に加賀篠原での戦いで木曽義仲と戦って壮絶な討死を遂げた。

 東城は、福川南岸の八幡神社付近にあったとされている。神社の脇の茂みの中には、窪地状の地形が見られ、堀跡であるかもしれない。しかし古い館でもあり、周辺の改変も進んでいるため、明確に遺構とは言い切れない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.201326,139.398737&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:居館
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金子十郎家忠館(埼玉県入間市) [古城めぐり(埼玉)]

IMG_6895.JPG←金子氏一族の墓
 金子十郎家忠は、武蔵七党の一、村山党の武士である。家忠は保元の乱の際、崇徳上皇方に与して白河殿攻めに活躍し、源平争乱の際には平家追討軍に加わって屋島・壇ノ浦と多くの戦功を挙げた。鎌倉幕府が開府すると、家忠は源頼朝・頼家・実朝3代の将軍に仕え、1216年に没した。
 金子十郎家忠館は、現在の瑞泉院(木蓮寺)境内にあったとされる。南向きの丘陵中腹に当たり、鎌倉期に居館を置くに好適な地勢であったと思われるが、現在は墓地造成などで改変され尽くされてしまっており、館跡の遺構は完全に湮滅している。しかし、家忠一族の位牌堂や6基の宝篋印塔が残っており、その歴史を今に伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/?ll=35.814699,139.319108&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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加治氏館(埼玉県飯能市) [古城めぐり(埼玉)]

IMG_6869.JPG←寺近くの段丘
 加治氏館は、日本城郭大系では加治屋敷と記載され、武蔵七党の一、丹党の加治氏の居館である。丹党の秩父丹五基房(坂東八平氏の秩父氏とは別流)の5男経家が武蔵国高麗郡に分封され、経家の次男家季が加治氏を称したと言われている。加治氏は鎌倉幕府の御家人となり、家季は頼朝上洛の随兵となり、また執権北条氏が謀略で畠山重忠を討った二俣川合戦で討死した。鎌倉末期には、新田義貞挙兵の折、これを小手指原・久米川・分倍河原と迎え撃った鎌倉勢の桜田治部大輔貞国が率いる軍勢の中に、加治次郎左衛門入道(家貞)の名前が『太平記』に記載されている。家貞を供養する板碑が円照寺(入間市)に残っており、その日付が鎌倉幕府滅亡の日に当たることから、家貞は鎌倉で北条一族と運命を共にしたと考えられる。
 尚、戦国時代には、加治氏の後裔は中山氏に改称し、中山勘解由家範は小田原北条氏に仕えて北条氏照の重臣となり、八王子城の戦いで壮絶な戦死を遂げた。家範の次男信吉は、徳川家康に見出されて信任を受け、家康の11男頼房が立藩した際に附家老に抜擢され、頼房が水戸藩を興すと、中山家は代々水戸徳川家の附家老として、後には常陸松岡城主となって幕末まで重要な地位にあった。

 加治氏館は、宝蔵寺付近にあったとされている。私はてっきり宝蔵寺西の段丘部分かと思ったが、帰ってから調べたら、どうも寺の背後の山林の中にあったとされているらしい。しかしいずれにしても、城郭大系に記載されている掘切や屋敷跡とされる平坦地などの遺構は残っていないらしい。いずれ再訪して、自分の目でも確認したいと思っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.864987,139.32827&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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三峰城(埼玉県秩父市) [古城めぐり(埼玉)]

IMG_6833.JPG←掘切とされる地形
 三峰城は、歴史不詳の城である。奈良時代以来この地に鎮座する三峯神社の境内にあることから、武装化した神社の神人によって城砦が築かれた可能性は考えられよう。

 三峰城は、三峯神社背後の尾根に築かれているとされる。「される」と記載したのは、これが本当に城郭遺構なのか、確証が持てなかったからである。三峯神社は、山を越えた先にある秩父からでも車で1時間も掛かる、物凄い山奥にある。しかし最近、三峯神社はパワースポットとして有名らしく、これ程の山奥なのに立派な観光地となっており、観光客もかなりの数に登る。この神社の裏に、ヤマトタケルの大きな銅像が建った高台があり、いかにも主郭らしい雰囲気がある。しかし周囲にはあまり明確な腰曲輪状の平場は見られない。これは後世の改変によるせいもあるだろう。そこから南に伸びる尾根上に城郭遺構があるとされ、確かに遥拝殿に至る階段は掘切を利用したように見えるし、その先の尾根にも堀切状の地形が数ヶ所見受けられるが、ほとんど自然地形に近く判然としない。一番疑問なのは、これらの地形に明確な防御構想が感じられないことである。その意味で、これを城郭遺構と呼んでいいのか疑問を感じたのが正直なところである。武蔵御嶽城の例もあり、神社が武装化することは十分考えられるが、御嶽城に見られた様な、明らかな城郭遺構はここでは見られない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.925322,138.931839&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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