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古城めぐり(埼玉) ブログトップ
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敏桑館(埼玉県秩父市) [古城めぐり(埼玉)]

IMG_6780.JPG←民家裏の石塁
 敏桑館は、別名を嫩桑館、高根城とも言い、歴史不詳の城館である。一説には、武蔵七党丹党に属する岩田氏の館であったとも、或いは小田原北条氏の侵攻を受けた藤田重利が、1560年にこの地に逃れて、敏桑館の館主となったとも言う。
 敏桑館は、荒川西岸の台地の中程に築かれた館である。周囲は畑や宅地となっており、明確な遺構は少ない。畑と民家を仕切るように石塁が残っており、これを遺構とする説もある様だが、秩父地方で石塁を有する阿左美氏館設楽氏館と比べると、石の大きさも積み方も異なり、近世の構築と捉えた方が自然であろう。もう少し確実な遺構が残っていればと惜しまれる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.973318,139.055221&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:居館
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織原氏館(埼玉県寄居町) [古城めぐり(埼玉)]

IMG_6771.JPG←堀跡と思われる水路
 織原氏館は、武蔵七党の一流丹党に属する織原氏の居館である。織原氏は、丹党の薄長房の次男泰房が男衾郡折原村に分封されて、織原丹五郎を名乗ったのが始まりとされる。その他の事績は不明である。
 織原氏館は、荒川南岸の平野に築かれていたとされる。現在は畑となって遺構は完全に湮滅しており、周囲の堀跡と思われる90度折れ曲がった水路と堀の内の地名がその痕跡を残しているに過ぎない。館跡には「堀の内 織原氏の 屋敷跡」という郷土かるたが立てられており、その隣には井戸がある。これは往時の井戸が残っているのだろうか?いずれにしても、高度成長期前の1960年の航空写真を見ても、既に前述の水路以外は確認できないので、早くに遺構が失われたのだろう。それでも郷土かるたに謳われるほど、その歴史が伝えられているのが微笑ましい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.114338,139.176221&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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騎西城(埼玉県加須市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC02171.JPG←天神曲輪の残存土塁
(2007年1月訪城)
 騎西城は、私市城とも呼ばれ、武蔵北東部の要衝の一つである。元々この地には、武蔵七党の一、私市党の居館があったと推測されている。騎西城がいつ築かれたかは明確ではないが、その姿は享徳の大乱の中で初めて現れる。即ち、鎌倉を逐われて古河に本拠を据えた古河公方足利成氏は、1455年、対立する山内上杉氏方の庁鼻和性順(憲信、上杉一族)、家宰長尾景仲が守る騎西城を攻め落とした。その後、山内上杉氏に属した種垂城主で常陸の名族小田氏の一族であった小田大炊頭顕家が、戦国前期に騎西城に居城を移した。後に顕家は、忍城主成田下総守親泰の子助三郎宗長を養子に迎えて小田助五郎家時と名を改めさせて騎西城を守らせ、自身は種垂城に隠居した。1563年には、武蔵松山城の救援に間に合わなかった上杉謙信が、小田家時の守る騎西城を攻め落とした。1574年、上杉謙信は深谷城奪還のため越後より越山し、騎西城・菖蒲城羽生城岩槻城を攻め落とした。しかし謙信の連年の関東出兵にも関わらず、関東北部まで小田原北条氏の勢力が拡張し、その後は騎西城も北条氏の支城となった。1590年の小田原の役の際、騎西城も上方勢に攻め落とされた。北条氏滅亡後、徳川家康が関東に入部すると、松平康重が2万石で騎西城に入った。1601年、康重が笠間城に移封になると、大久保忠常が騎西城主となった。1632年、大久保忠職が美濃加納城へ移封となると、この地は天領となり、騎西城は廃城となった。

 騎西城は、岩槻城や羽生城と同様、沼地(低湿地帯)の只中に浮島の様に曲輪が浮かぶ水城であったが、現在は耕地整理と市街化によって城のほとんどの遺構は湮滅している。わずかに県道38号線脇にほとんど唯一の現存遺構とも言える、天神曲輪の土塁が残っている。高さ3m程の立派な土塁で、所謂掻き揚げの城として往時はその威容を誇っていたことが想像される。また外郭に当たる前玉神社の西側にも、堀跡が一段低い畑となって残っている。この他、発掘調査の結果、外郭の堀跡の中に全国的にも珍しい、碁盤の目の様な緻密な障子堀が発見されているが、これはそのまま地下に埋まっている。古い航空写真を見ると1960年頃までは本丸・ニノ丸・馬屋曲輪・天神曲輪・外郭といった各曲輪の輪郭が水田の中にはっきりと残っていたが、その後の耕地整理で大半は失われてしまった。それでも各所に「二の丸跡」などの標柱が建っているのはありがたい。
前玉神社脇の堀跡→DSC02184.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.104318,139.584571&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
    (土塁の位置)
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善能寺館(埼玉県坂戸市) [古城めぐり(埼玉)]

IMG_0849.JPG←櫓台か古墳らしい土盛
 善能寺館は、歴史不詳の城館である。南北朝記の文和年間(1352~1356)に善応寺を開いた広沢善応という人に関連する城館とも考えられているが、確かな事はわかっていないらしい。
 善能寺館は、善能寺塁とほぼ隣接する位置にあり、地元では善能寺塁と合わせて中西城と読んでいた様である。民家の近くに微高地となった竹林があり、その中に櫓台か古墳らしい土盛が見られる。その周囲に堀状の窪地も見られるが、これらが遺構かどうかも定かではなく、謎の多い城館である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.961773/139.355152/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:居館
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大類氏館(埼玉県坂戸市) [古城めぐり(埼玉)]

IMG_0842.JPG←林の中に残る土塁
 大類氏館は、武蔵七党児玉党に属する大類氏の居館である。大類氏は、児玉党秩父行綱(坂東八平氏の秩父氏とは別系統)の次男行義が、この地に入部して大類氏を称したことに始まる。
 大類氏館は、現在の大薬寺から十社神社にかけての付近にあったとされる。耕地化が進んでおり遺構は不分明だが、近くの林内に一直線状の土塁が残っている。どうも二重土塁の様で、間は空堀となっている様だ。しかし、善能寺塁の土塁と堀にちょっと毛が生えたぐらいのささやかな遺構で、すでに遺構の大半は失われている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.960544/139.350409/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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善能寺塁(埼玉県坂戸市) [古城めぐり(埼玉)]

IMG_0824.JPG←わずかに残る土塁と堀
 善能寺塁は、中西城とも呼ばれ、歴史不詳の城砦である。鎌倉公方足利基氏が芳賀禅可と戦った苦林野古戦場に近いことから、この戦いに関連した陣城との説もあるが、定かではない。
 善能寺塁は、善能寺付近にあった城砦で、民家や畑に変貌しているが、北側にわずかに土塁と堀らしい遺構が残っている。しかしかなり規模は小さく、それと言われないと城砦の遺構とはわからないぐらいなので、この分ではいずれ破壊されてしまうだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.962733/139.353949/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世平城
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堀込氏館(埼玉県坂戸市) [古城めぐり(埼玉)]

IMG_0818.JPG←斜面上の館跡遠望
 堀込氏館は、鎌倉時代、武蔵七党児玉党の一流で浅羽氏の一族堀込(籠)氏の居館とされている。場所はにっさい幼稚園の北側の民家であるとされている。この民家は台地縁の斜面の上に建っており、西側に土塁状の土盛が一直線に見られる他、民家の北側に当たる斜面上端部にも土塁っぽい地形が遠目に垣間見られる。宅地化で大きく改変されているので、遺構かどうかは何とも言えない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.966085/139.365537/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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大法寺館(埼玉県坂戸市) [古城めぐり(埼玉)]

IMG_0815.JPG←土塁っぽく見える地形
 大法寺館は、歴史不詳の城館である。一説には、武蔵七党児玉党に属する浅羽氏から分かれた堀籠氏の居館であったとの説もあるが明証はない。戦国後期には小田原北条氏に属した太田十郎兵衛の知行地であったとされ、太田氏の関連する城館であった可能性もある。北条氏滅亡後、徳川家康が関東に入部すると、徳川氏の旗本多田氏の所領となったと言う。
 大法寺館は、現在の大法寺の位置にあった城館で、おそらくは三福寺館と同様に寺院を城塞化した寺院城郭であったものであろう。ネット上の情報ではつい数年前まで周辺に土塁が残っていたらしいが、着々と宅地化が進められている場所で、明確な遺構はほぼ湮滅状態の様である。近くの林の中に土塁らしき地形が見られたが、訪れたのが夏場で藪が繁茂し、はっきりとはわからなかった。残っていたとしてもささやかな遺構であろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.964870/139.364465/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:居館
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三福寺館(埼玉県坂戸市) [古城めぐり(埼玉)]

IMG_0808.JPG←三福寺
 三福寺館は、歴史不詳の城館である。伝承では、1562年、越山した上杉謙信によって落とされた松山城を奪還する為、北条・武田連合軍が攻め寄せた際、兵火に掛かって三福寺は焼失したと言われる。また、1590年の小田原の役の際には、豊臣方の北国軍の上杉景勝が松山城を攻略した際、同様に三福寺は兵火に掛かって焼失したと言う。また、平安末期に多田満仲の居館であったとの伝承もあるが、全く確証はない。
 三福寺館は、現在の三福寺の位置にあった城館で、おそらくは寺院を城塞化した寺院城郭であったものであろう。しかし遺構はほぼ湮滅しており、寺の背後の畑地に館の塁線の名残と思われる段差が見られるが、遺構とは俄には判断し難い。陣城との説もあるが、どのような城館だったのか、縄張りもわからないので何とも言い様がない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.964044/139.362667/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:居館
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大河原氏館(埼玉県坂戸市) [古城めぐり(埼玉)]

IMG_0805.JPG←山林に残る遺構らしい土盛
 大河原氏館は、武蔵七党児玉党の一流で、浅羽城主であった浅羽氏の一族大河原氏の居館である。源頼朝の奥州合戦に参陣した浅羽五郎行長の子行家が大河原氏を称したと言われ、武蔵にはこの他にも丹党などの流れを汲む大河原氏が並立していた様である。
 大河原氏館は、葛川北岸の微高地に築かれている。遺構はあまりはっきりせず、その為縄張りもはっきりしないが、館跡を南北に貫通する小道の脇の山林の中に、土壇か土塁と思われる土盛がわずかに確認できる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.962222/139.366804/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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勝呂豊前守屋敷(埼玉県坂戸市) [古城めぐり(埼玉)]

IMG_0801.JPG←勝呂氏関連の板石塔婆
 勝呂豊前守屋敷は、永禄年間(1558~69年)に小田原北条氏の家臣であった勝呂豊前守の居館である。『新編武蔵国風土記稿』によれば、勝呂氏は元は「須黒氏」と記載し、武蔵七党村山党の一流であった。『吾妻鏡』には須黒兵衛太郎恒高の名があり、その子頼高は承久の乱で討死した。豊前守はその後裔とされ、北条氏滅亡後は安房里見氏に仕えたが、里見氏も転封・改易となった為、浪人となったと伝えられる。
 勝呂豊前守屋敷は、現在の宗福寺の付近一帯にあったとされている。『日本城郭大系』の図によれば、以前は宗福寺の北側に土塁があったらしいが、現在は宅地開発などで湮滅している。宗福寺東側の車道沿いの水路も堀の名残とされるが、既に改変が激しく、これを遺構と言っても俄には信じがたい程である。勝呂氏の事績を伝える板石塔婆が、寺の中に残るだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.974084/139.418635/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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小代館(埼玉県東松山市) [古城めぐり(埼玉)]

IMG_0795.JPG←小代氏の板石塔婆
 小代館は、武蔵七党児玉党の一流、小代氏の居館である。児玉党の入西資行の次男遠弘が小代郷に分封されて小代氏を称した。4代重俊は、子の重康が宝治合戦で活躍したことにより、1247年、肥後国野原荘の地頭職に任ぜられたが、小代郷から動かず、野原荘の管理は地頭代に任せていた。1271年、重俊の子息達は、モンゴル帝国の襲来に備えるためと、領内の争いを鎮めるために鎌倉幕府から野原荘下向を命じられ、肥後に移り住んだ。
 小代館は、青蓮寺一帯にあったとされている。比高10m程の段丘上の縁に位置している。日本城郭大系によれば、かつては空堀と土塁がわずかに残っていた様だが、現在は宅地化などによって遺構は湮滅している。青蓮寺には、この地に残った小代氏一族関係者が重俊を追慕して建てた板石塔婆(供養碑)が残っており、小代氏の歴史を今に伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.998501/139.411368/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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道祖土館(埼玉県川島町) [古城めぐり(埼玉)]

IMG_0784.JPG←水堀跡
 道祖土(さいど)館は、小田原北条氏の家臣で老袋城主を務めたと言われる道祖土氏の居館である。道祖土氏は、那須氏の一族と言われ、いつの頃からか武蔵に入部し、戦国時代前期には岩槻城主太田氏に属して、後に武蔵を制圧した北条氏の家臣に列した。1590年に北条氏が滅亡すると、道祖土氏は帰農したと言う。
 道祖土館は、現在もこの地の旧家として著名な道祖土家の宅地として残っている。南東に隣接する善福寺との間には水堀が残っており、この堀は途中から空堀となって北辺まで伸びている。薮で判別できないが、宅地北辺にも堀と土塁が残っている可能性がある。今に至るまで往時の小土豪の居館の趣を残していることは貴重である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.999456/139.484796/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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美尾屋十郎廣徳館(埼玉県川島町) [古城めぐり(埼玉)]

IMG_0773.JPG←境内に残る内堀跡
 美尾屋十郎廣徳館は、源頼朝に従って武功を挙げた美尾屋十郎廣徳の居館である。廣徳の事績については不明点が多いが、『平家物語』等にその名が見える。廣徳の死後、頼朝の妻二位ノ尼(北条政子)がその冥福を祈って、館跡に大御堂などを造営して広徳寺を建立したと伝えられており、政子が直接関わったことから考えると、相当頼朝の近くで活躍した武士であったと推測される。
 美尾屋十郎廣徳館は、現在は広徳寺となっている。外周の堀跡の一部が水路となって残る他、国重文の大御堂の東側に内堀跡が残っている。尚、大御堂の背後の塚は廣徳の墳墓と伝えられ、板碑が建っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.980062/139.504816/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:居館
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天神島城(埼玉県幸手市) [古城めぐり(埼玉)]

IMG_0661.JPG←天神社の建つ浮島状の微高地
 天神島城は、幸手一色氏が築いた砦である。一色氏は足利一門に連なる名家で、その事績は一色氏館の項に記載する。日本城郭大系によれば、天正年間(1573~92年)には一色宮内大輔の屋敷が置かれたとされる。一色氏館の南東1.5km程の位置にあり、陣屋を防衛する砦であったのだろう。
 天神島城は、倉松川沿いの微高地に位置し、現在は天神社が建てられている。周辺は民家と畑となり、倉松川も河川改修を受けているため、往時の状況とは位置関係が異なっていると考えられる。それでも神社の建つ台地は周囲より盛り上がっており、浮島状の台地に築かれていた砦であることがよくわかる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.065915/139.729092/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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仙波氏館(埼玉県川越市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC07805.JPG←段丘上の長徳寺
 仙波氏館は、武蔵七党村山党の一流仙波氏の居館である。『保元物語』には、仙波七郎高家が同族の金子氏山口氏等と共に源義朝に従って崇徳上皇の白河殿を襲撃したことが見え、『吾妻鏡』にも仙波平太・同太郎・次郎・弥三郎・左衛門尉等の名が記されていると言う。
 仙波氏館は、「堀の内」の小字名が残る長徳寺にあったと推測されている。この地は段丘上に位置し、かつて境内には土塁と堀があったと伝えられている。遺構は市街化で完全に湮滅しているが、地勢は往時の雰囲気をほのかに漂わせている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.909769/139.495114/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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老袋城(埼玉県川越市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC07793.JPG←城址推定地付近の現況
 老袋城は、歴史不詳の城である。『新編武蔵風土記稿』によれば、戦国時代に道祖土下総守が、小田原の北条氏康から康の一字を賜って康成と名乗り、老袋城に住んだとされているが、明証はない。その他、河越夜戦の際に、古河公方足利晴氏がこの付近に陣を構えたとされており、老袋城の地が「御所」とも呼ばれることから、晴氏の陣所があったという見解も出されている様だ。
 老袋城は、荒川と入間川の合流点から1.5km程上流の入間川西岸の地にあったと考えられている。推定地は、氷川神社付近とされているが、明確な遺構は確認できない。神社東の民家一帯は微高地となっており、遠目に見ると城跡っぽくは見える。HP「そこに城があるから」の聞き取り調査ではもう少し北にあった可能性も指摘されており、城址位置も確定はしていない謎の城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.929041/139.533094/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
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福岡城(埼玉県ふじみ野市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC07773.JPG←城址の現況
 福岡城は、単に「城山」とも呼ばれ、小田原北条氏の家臣富永善左衛門の居城と言われている。富永氏は、伊豆の土肥に本領を持つ豪族で、北条氏の始祖伊勢宗瑞(北条早雲)が伊豆に侵攻した際、早い段階で宗瑞に従った功から、伊豆衆と伊豆水軍を率いる重臣の一人となった。その事績は、高谷城の項に記載する。善左衛門は、江戸城代となった富永三郎左衛門尉政直の甥と言われる。これほどの家格の武将を入部させたことから推測して、福岡城は北条氏綱が扇谷上杉氏から河越城を奪取して間もない頃に、河越城を防衛する支城であったと共に、荒川水系の水運を扼し、下流の江戸城との兵站線を確保する拠点であったと思われる。

 福岡城は、現在はただの水田の平地と一部は城山公園となっており、遺構はほぼ湮滅している。一部に堀跡のような畑や土塁らしき土盛もあるが、改変が進んでいるため俄に遺構とは判断できない。城の鬼門に当たる場所には、現在天神社が鎮座し、そこに解説板が建っている。解説板が建てられているだけでも、嬉しいものだ。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.874846/139.546891/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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中丸城(埼玉県さいたま市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC07760.JPG←神明神社付近
 中丸城は、この地の土豪春日氏の居城とされる。南北朝期の1352年に、春日行元が足利尊氏からこの地を賜り、中丸城を築いたと言われている。戦国時代になると、春日兵庫助景定が岩槻城主太田資正に属し、岩槻城が小田原北条氏の属城となると、その支配下に入った様である。それ以外の歴史は不明である。
 中丸城は、現在の神明神社付近にあったとされている。付近一帯は市街化が進み、神社周辺だけ周囲より一段高い空き地となっている他は、遺構らしきものは確認できない。国土地理院・空中写真閲覧サービスの昭和20年代初頭の航空写真を見ると、この付近は低湿地帯に北西から突き出た半島状の台地の上に当たり、台地先端部の林を囲む様に堀跡のようなものが確認できる。もしこれが往時の城跡だとすると、主郭は神社より200m程南西に位置していた様である。そこは南風台と呼ばれる一面の住宅団地で、往時の面影は微塵もない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.911907/139.659137/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
     (推定主郭位置)
タグ:中世平山城
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真鳥山城(埼玉県さいたま市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC07752.JPG←城址碑の建つ日向不動堂
 真鳥山城は、鎌倉幕府創業の功臣畠山重忠の家臣であった真鳥日向守の居城と言われている。現在の日向不動堂付近が城跡とされているが、周囲よりやや高い微高地であるほかは周囲一帯が市街化され、遺構は全く確認できない。しかし不動堂の前には立派な城址碑が建ち、その歴史を今に伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.864552/139.629546/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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太田窪堀之内館(埼玉県さいたま市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC07741.JPG←祠の後ろに残る土塁状の土盛
 太田窪堀之内館は、木内氏館とも呼ばれる。伝承によれば、平安末期に佐々木盛綱の陣所となったと言うが定かではない。戦国時代に入って、千葉国胤(邦胤か?)が家臣木内右衛門をこの地に入れ、その居館となったと言われている。
 太田窪堀之内館は、浦和競馬場のすぐ東に隣接する、緩やかな丘陵地に築かれている。現在は民家や公園に変貌しており、遺構はほとんど残っていない。国土地理院・空中写真閲覧サービスの昭和20年代初頭の航空写真を見ると、低湿地帯に三方を囲まれた、半島状の小台地に築かれていた様である。頂部は千葉家の宅地となり、周囲には土塁状の土盛が見られるが、これは車道建設時の改変によるものと思われる。一方、丘陵西裾の公園にも祠の後ろにも土塁状の土盛があるが、こちらは遺構の可能性がある。頂部の民家と公園の土塁はやや離れており、どのような縄張りだったのか想像するのは、現状からでは難しい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.857457/139.674028/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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領ヶ谷城(埼玉県さいたま市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC07726.JPG←城址付近の段丘
 領ヶ谷城は、源頼朝の側近佐々木盛綱にまつわる城と伝えられている。即ち1180年、頼朝が挙兵した際、盛綱は領ヶ谷城に拠って軍兵を催促したと言われている。室町時代には、佐々木持清が領ヶ谷城主であったとされるが、詳細は不明である。
 領ヶ谷城は、藤右衛門川の北岸の段丘上に築かれた城で、現在は市街化によって遺構は完全に湮滅している。「領ヶ谷」とはおそらく、「龍ヶ谷」と同じく「要害」の転訛であろう。城址とされる場所には、現在「幸楽園」といううなぎ屋さんが建っている。周辺は急な坂道が通る起伏の多い土地で、遺構はないが往時の雰囲気は地勢の中に残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.850066/139.682633/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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本郷城(埼玉県川口市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC07715.JPG←城址とされる傑傳寺
 本郷城は、『新編武蔵風土記稿』によれば扇谷上杉氏麾下の名将太田道灌が築城したと伝わる城である。戦国時代後期には、道灌の曽孫太田備中守輝資が小田原北条氏に仕えて、本郷城に住したとされる。その他の歴史は不明である。
 本郷城は、傑傳寺の付近にあったとされている。この地は、比較的急峻な斜面に囲まれた高台の頂部に位置しており、同じ太田道灌が築城した稲付城によく似た選地である。傑傳寺の南側には民有地の雑木林があり、急峻な斜面上にある平場のようなので、何かしらの遺構がありそうな雰囲気である。それ以外は市街化で改変されており、城の雰囲気を感じさせるものは残っていない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.827956/139.759365/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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大相模氏館(埼玉県越谷市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC07710.JPG←わずかに残る南西角の土塁
 大相模氏館は、武蔵七党野与党の一流、大相模氏の居館である。大相模氏はまた、房総3ヶ国で叛乱を起こした平忠常の7代目の支族でもある。次郎能高の時、この地に入部して大相模氏を称した。以後、この地に土着して子孫は連綿と続き、江戸時代中期の1729年に中村と改姓して今に至っていると言う。
 大相模氏館は、現在その子孫中村家の宅地となっているが、わずかに南西部に土塁が残っている。以前は外周に堀跡も残っていたらしいが、現在では道路拡張などによって埋められてしまったらしく、堀は確認できない。改変を受けているものの、現在まで連綿と家系が続いているというのもすごいことである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.885712/139.815799/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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大河戸氏館(埼玉県松伏町) [古城めぐり(埼玉)]

DSC07700.JPG←館跡と推測されている神明神社
 大河戸氏館は、藤原秀郷の後裔とされる大河戸氏の居館である。大河戸行方(下総権守重行)を祖としている。その子、大河戸太郎広行・次郎秀行(清久氏)・三郎行元(高柳氏)・四郎行平(葛浜氏)の4兄弟は、1181年、三浦義澄に伴われて源頼朝に伺候した。大河戸氏を継いだ嫡子広行は、源義経の一ノ谷の合戦に17人の武将の一人として参戦し、その後、三河守範頼率いる平家追討軍にも参戦した。また広行は、三浦義明の娘(義澄の妹)を妻としており、鎌倉幕府の有力御家人三浦氏の縁戚であったことから、大河戸氏も有力御家人に成長した。その後、1258年まで一族の名が幕府の行事に参列していることが見受けられるが、その後の事績は不明となる。おそらく新恩給付の地に移ったものと推測されている。
 大河戸氏館は、光厳寺の南東に位置する大河戸神明神社付近にあったと推測されている。この地は、古利根川東岸の平地の中でも微高地となっている。しかし明確な遺構は確認できない。尚、光厳寺には鎌倉後期に造られ、現在県の指定史跡となっている「帰依仏塔」(板石塔婆)が残り、大河戸氏の足跡を残しているものと考えられている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.938301/139.817312/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:居館
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佐枝氏館(埼玉県さいたま市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC07669.JPG←龍門寺に残る土塁
 佐枝氏館は、小田原北条氏の重臣佐枝若狭守秀成の居館である。佐枝氏は、宇多源氏佐々木氏の一流と言われ、秀成の時に北条氏康に仕えて岩槻城に配された。1550年に出家して、居館の中に龍門寺を創建した。その嫡子若狭守植行も北条氏に仕え、引き続き岩槻城防衛の一翼を担ったが、1590年の小田原の役の際、豊臣・徳川連合軍2万の大軍に囲まれた城兵2千足らずの岩槻城に於いて、新曲輪に詰めて死力を尽くして戦い、討死した。城を脱出して生き延びた、植行の幼い嫡子種長は、母宝樹院と共に徳川家康に保護され、長じて後、尾張徳川家の家老となり、以後徳川御三家の筆頭家老の家柄として幕末まで存続した。

 佐枝氏館は、佐枝若狭守秀成が開基となった龍門寺の境内に変貌している。岩槻城外郭のすぐ外側に位置することから、城の防衛陣地の一つとして機能したと考えられる。現在、本堂の周囲に土塁が残っているが、寺の掲示資料によれば、これは小田原の役の際に築かれたものだとされる。それ以外には遺構はなく、堀跡も残っていない。尚、境内には佐枝氏の墓の他、江戸時代中期に9代将軍徳川家重の側用人となって幕政を主導した岩槻城主大岡忠光の墓も残っている。遺構はわずかであるが、掲示物や解説も多く、見所が多い。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.960275/139.696344/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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江ヶ崎城(埼玉県蓮田市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC07651.JPG←江ヶ崎城の石碑
 江ヶ崎城は、歴史不詳の城である。城主は、伝承では新羅三郎義光の子孫或いは家臣とも言われ、武蔵七党野与党の鬼窪尾張守繁政とも言われるが定かではない。発掘調査の結果からは、発掘された遺物などから鎌倉時代後期の築城と推測されている。
 江ヶ崎城は、現在「瑞穂団地」という住宅団地に変貌しており、遺構は湮滅している。日本城郭大系によれば、かつては回字状に二重の空堀を巡らした環郭式の平城で、その形状は空中写真閲覧サービスの昭和20年代の航空写真でもはっきりと捉えられている。わずかに城の南の民家前に建つ立派な石碑だけが、城があったことを伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.997417/139.686238/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
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高野城(埼玉県杉戸町) [古城めぐり(埼玉)]

DSC07636.JPG←城址?の藪山
 高野城は、古河公方の重臣幸手一色氏の支城である。伝承では、1362年に因幡前司藤原長福という武士が田宮庄近郷を領し、高野浅間台に高野城を築いたとされる。長福は後に乱行に奔り、非業の死を遂げたと言う。その後、幸手一色氏の持ち城となった様である。幸手一色氏の事績については、一色氏館(幸手城)の項に記載する。1461年、扇谷上杉氏の家宰であった岩槻城主太田氏が、古河公方勢力の前進基地であった高野浅間台城を攻めた。また1471年にも扇谷上杉氏の重臣長尾景信(長尾景春の父)と太田資忠(太田道灌の弟)によって幸手城と共に攻め落とされたが、再び一色氏によって両城は奪還されたと言う。

 高野城は、現在周囲一帯が市街化で改変されているため、遺構はよくわからないが、わずかに藪山が残っており、城址の一部と考えられる。すぐ近くには日光御成街道(県道65号線)が通り一里塚が残っていることから、往時から交通の要地であったことが推測される。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.050018/139.701923/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
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清久氏館(埼玉県久喜市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC07626.JPG←浅間神社の土壇
 清久氏館は、藤原秀郷の後裔大河戸氏の庶流、清久氏の居館である。大河戸行方(下総権守重行)の2男次郎秀行がこの地に入部して清久氏を称した。1181年、大河戸太郎広行・次郎秀行・三郎行元・四郎行平の4兄弟は、三浦義澄に伴われて源頼朝に伺候した。清久氏はその後鎌倉幕府に仕え、1190年の頼朝上洛の際も随兵として従った。その後清久氏は、兵衛尉秀綱が1221年の承久の乱の際、宇治橋の合戦で活躍した。南北朝時代には、中先代の乱の時、清久山城守が北条時行方の将となり、観応の擾乱の際には左衛門次郎泰行が高師直に従って、足利直義が逃げ込んだ将軍尊氏の邸宅を囲んだことが知られている。南北朝期から室町期にかけては、伊奈町や四国に主な領地があり、一族はこの地から移住して、廃館となったものと考えられる。

 清久氏館は、現在の常徳院・白幡雷電神社一帯の台地上に築かれていたと言われている。この地は、周囲の水田からは浮島の様な微高地となっており、遺構は湮滅しているものの、館の雰囲気は地勢の中にわずかに残っている。尚、雷電神社裏にある祠(浅間神社)の土壇は往時の土塁の様にも見えるが、果たしてどうであろうか。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.076922/139.644331/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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粟原城(埼玉県久喜市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC07620.JPG←粟原城付近の現況
 粟原城は、戦国時代に岩槻城の支城として機能した城である。元々は、鷲宮神社の発展と共に形成された社領領主の居館であったと考えられている。戦国時代中期に、小田原北条氏の勢力と越後上杉氏の勢力が関東で激突する様になると、粟原城もその抗争に巻き込まれることとなった。1560年、初めて関東に出馬した上杉謙信は、翌年3月、北条氏康の小田原城を大軍で包囲攻撃した。この時、粟原城主細萱民部少輔光仲は、70余人を率いて小田原城に詰めた。小田原城を攻めあぐねた謙信は軍勢を退き、その帰途、羽生城主木戸宮内少輔忠朝が北条方の粟原城と花崎城を攻め落とした。しかしその後、北条氏は着々と勢力を拡大し、天正年間(1573~92年)には、粟原城は北条氏の1級支城であった岩槻城の出城として機能していたことが、同時代文書から知られている。

 粟原城は、青毛堀川を挟んで鷺宮神社に隣接する平地上に築かれていたが、現在は畑や民家に変貌し、遺構は完全に湮滅している。畑には段差が残り、脇には土塁のような茂みも見られるが、遺構の名残かどうかは不明である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.099550/139.652485/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
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