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古城めぐり(福島) ブログトップ
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戸山城(福島県北塩原村) [古城めぐり(福島)]

DSC03927.JPG←本郭下部の横堀
 戸山城は、1564年に葦名氏家臣の穴沢氏が築いた山城である。伊達輝宗による桧原侵攻を受けた穴沢俊恒は、伊達勢の再攻撃に備えてこの城を築いた。しかし築城の翌年7月に、戸山城の北側尾根筋から、堀切を越えて伊達勢約800人の奇襲攻撃を受け、辛くも撃退したものの戸山城の防備の弱さが判った為、俊恒はこれを破却して新たに岩山城を築いて移ったと言う。従って戸山城は、非常に短命に終わった城である。
 この城を登るのには大分苦労した。登り口の標識はあるが、道がいきなりないのである。山頂の方向はわかっているので、仕方なく道無き斜面を直登すること比高200m程でようやく城に辿り着いた。
 戸山城は、山頂の小ぶりな本郭を中心にその手前の南西側斜面に横堀と土塁が2段ずつ築かれて防御を固めている。南東尾根にはいくつかの段曲輪があり、その先は中央に土橋を残し両側を堀切で遮断した形の小堀切を設けている。東斜面は斜度がきつく防御施設はない。本郭の北の尾根筋には全部で3本の堀切があり、各堀切間は削平され、小規模な曲輪となっている。一番大きな堀切は本郭背後のもので、高低差は5m程もある。この堀切から西側に落ちる竪堀は、どうも搦手虎口を兼用していた様で、一直線に落ちているのではなく途中でクランクしている。本郭の南西下の2段目の横堀の西端付近には土橋が掛かっていて、その5m程下方には窪みが見られ、更にその下に段曲輪があり、どうも水の手であったようである。普請はしっかり成されているものの、全体に小ぶりな印象で、あくまで詰城の位置づけだったと考えられる。
 それにしてもこの山はここ数年人が入った形跡が無く、道は途絶し、山上は藪がひどく、曲輪内部もまともに歩けたものではない。しかも石田明夫氏のHPの記載では、熊の冬眠跡もあったというほど熊の出没確率の高い山城だそうなので、登る際には近くにある桧原城以上に厳重な注意を要する。私が見た限りでは、熊の出没した形跡は確認できなかったが。それにしても、そこまでヤバい城とは知らずに登ってしまった・・・。
本郭背後の堀切→DSC03947.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.725362/140.034914/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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桧原城 外構え(福島県北塩原村) [古城めぐり(福島)]

DSC03889.JPG←角馬出しの土塁と内堀
 桧原城には、山上に築かれた城本体のほかに、南山麓の平地部に「外構え」と呼ばれる遺構が残る。これは平地の居館地域を防衛する城郭遺構である。
 桧原城の南麓を走る車道の南方150m程の所に、農地に隣接して東西に一直線に伸びる土塁と、その桧原湖沿岸部に四角い大手角馬出しの方形土塁が残っている。角馬出しの土塁は、外側と北辺内側に堀を伴っている。馬出しはやや破壊を受けているようで、西側の土塁は確認できない。しかしその先に直線状の土塁があり、そのまま湖中まで伸びている。この水没している土塁は、Yahoo!地図の航空写真でも湖中にはっきりと確認することができる。桧原湖は、桧原城が築かれた当時はなく、明治時代(1888年)に磐梯山が大規模な水蒸気爆発を起こして山体を吹き飛ばし、その莫大な土砂が流れ込んでできた、堰止め湖なのである。観光地として有名な五色沼などもこの時できたものである。その為、江戸期の桧原宿集落が発展して、本来ならば近代市街化で湮滅するところであった外構え遺構が、湖ができたことで返って破壊を免れるという幸運で生き残ったものだ。
 かつては各地の山城に作られていたであろう居館地域の外構えが、ほぼそのままの形で現代まで残る貴重な遺構である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.726974/140.055798/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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桧原城(福島県北塩原村) [古城めぐり(福島)]

DSC03789.JPG←本郭の多重枡形虎口
 桧原城は、小谷山城とも言い、1585年に会津侵攻の拠点として伊達政宗が築いた山城である。裏磐梯の桧原周辺は、会津の葦名氏と米沢の伊達氏の領国の接壌地帯であり、また金山もあったことから軍事的に極めて緊張した場所であり、葦名氏の戸山城柏木城綱取城など、臨戦態勢の多くの山城が築かれている。桧原は葦名方の穴沢氏が支配し金山経営をしていたが、1584年、政宗は奇襲により岩山城を陥とし穴沢氏を滅ぼした。桧原を手に入れた政宗は桧原城を築き、重臣の後藤孫兵衛を城将として置いて、1589年に摺上原の戦いで葦名氏を駆逐する迄これを守らせた。政宗は会津方面侵攻作戦の為、54日の間、桧原城に在城したことがあると言う。

 桧原城の名は、現地では小谷山城で統一されている。比高130m程の山城で、遺構は極めて良好に残っている。広い本郭を中心に、堀切を挟んで背後に物見台を兼ねたと思われる二ノ郭を置き、本郭手前には細長く何段かの段差を持った三ノ郭を構え、その前面は三重堀切で防御した連郭式の縄張である。(他の城郭サイトでは本郭を二ノ郭とし、二ノ郭を本郭としているものもあるが、ここでは虎口や横堀により厳重に防御された最大の曲輪を本郭として記載した。)これらの曲輪の外周には、一段下に横堀をぐるりと廻らして防御しているが、この横堀防御は、舘山城岩部山城小滝城などの伊達氏系山城共通の特徴である。またこの城最大の特徴は、本郭大手に作られた多重枡形の見事な虎口で、両側を2m程の土塁で挟まれた切通しの様な通路が幾重にも屈曲して構築されている。また本郭の西側には、搦手虎口の枡形が形作られている。ここには石が転がっているので、石垣が有った可能性がある。虎口が見事な一方で本郭内の削平は甘く、石田明夫氏の言う「伊達政宗は性格上、見栄を張る傾向があり…」という意味がよくわかった。背後の二ノ郭は周囲を土塁で囲んで防御し、主郭より1mほど高い位置にあり、物見台と詰の丸の機能を併せ持っていた様だ。三重堀切は遊歩道の敷設でやや破壊を受けている。尚、これら山上部分以外に、南山麓に外構え遺構が残っている。

 本郭以外は藪が多く遺構の確認が難しい部分もあるが、麓には案内板と入口の表示がされ、大手筋・搦手筋の2本の遊歩道も整備されているのはありがたい。但し、この地域は熊の出没確率が高いようなので、山歩きには厳重な注意を要する。私は幸い、熊の出没の形跡すら発見することなく済んだが。
本郭の搦手虎口→DSC03785.JPG
DSC03818.JPG←外周の横堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.732290/140.055064/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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鶴峰城(福島県猪苗代町) [古城めぐり(福島)]

DSC03701.JPG←主郭北側虎口と堀切・土橋
 鶴峰城は、「弦峰城」とも書き、戦国末期、猪苗代盛国の隠居城と言われている。猪苗代盛国は、嫡男盛胤に家督を譲ってこの鶴峰城に移って隠居したが、1588年盛胤が黒川城の葦名義広に伺候している間に、猪苗代城を襲って城を乗っ取った。以後、盛国・盛胤父子は何度も干戈を交えたが、これは伊達政宗への対応をめぐっての意見対立によるものであったと考えられている。後に盛国は伊達政宗に内応し、摺上原で葦名氏を破る端緒となったので、その功によって伊達氏の一家に準ぜられたと言う。
 鶴峰城は、猪苗代城の北西に堀切を1本跨いで続く丘陵地に築かれている。以前、猪苗代城を訪れた時には、まだこの城のことを知らなかった。小さい城のようなので、今回あまり期待しないで行ったが、主郭の南北に築かれた坂虎口と堀切・土橋が明瞭に残っているほか、周囲にはいくつかの腰郭があり、土塁には一部石垣も残存している。主郭は周囲を土塁で防御し、小さい隠居城ながらも備えを固めている。その規模や位置からすると、鶴峰城は元々は猪苗代城の出城または北出郭で、猪苗代城の一部として機能していたのだろうと考えられる。
 コンパクトな城であるが、なかなか面白味があるので、猪苗代城とセットで訪れると良い。但し、猪苗代城と異なり、鶴峰城は未整備で山林となっている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.563715/140.102012/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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小浜城(福島県二本松市) [古城めぐり(福島)]

DSC05229.JPG←主郭石垣
 小浜城は、南奥の戦国大名大内氏の居城である。陸奥大内氏は元々西国の大勢力大内氏の一族とされ、主家石橋氏が奥州探題に任ぜられて塩松に入封してきた際に、石橋氏の本城塩松(四本松)城の支城として築かれ、家臣団の四天王の一つ大内氏の居城となった。後に下克上で主家石橋氏を滅ぼし、同じ家臣団の筆頭大河内氏をも謀略で滅ぼすと、塩松荘を掌中に収めた。その後は三春の戦国大名田村氏の傘下となったが、独立領主的な色合いが強く、特に一代の梟雄大内定綱の代になると田村氏に対する反抗を開始し、度々田村勢を破って完全に戦国大名化した。のち、伊達氏の勢力が伸びてくると、一旦は伊達氏につくような素振りを見せたがやがて反抗したため、若き当主伊達政宗は田村清顕と連合して大内攻めを開始、攻撃目標の小手森城をなで斬りにした。これに恐怖を覚えた定綱は葦名氏を頼って逃亡した。大内氏を追った政宗は小浜城に入り、父輝宗を宮森城に入れた。こんなときに二本松畠山氏による伊達輝宗拉致事件は起こるのである。のちに大内定綱は家中分裂して動揺する葦名氏を見限って伊達氏に臣従し、摺上原の合戦でも活躍して伊達の重臣に列した。こうして見事に戦国を生き残り、伊達藩士として幕末まで続いたのである。
 一方、小浜城は豊臣秀吉の奥州仕置きで伊達領から会津の蒲生領となり、支城として整備された。現在に残る主郭石垣はこのとき整備されたものだという。しかし最終的には1627年に廃城となった。
 城跡は現在公園として整備されているが、公園化しているのは主郭部のみで、他はほとんどが畑になっている。二本の川に挟まれた丘陵上に築かれた城で、耕地化されているものの全体に遺構は良く残っている。主郭の周囲の空堀は規模が大きく、周囲の曲輪も畑となっているものの形状が良く残っている。主郭南西の谷間には段々の畑が残っているが、これらはみな家臣団の屋敷跡といわれ、切岸や一部には堀切跡らしい地形も残る。訪れたのが夏場で薮がひどく確認できない部分もあったが、良好な城址遺構である。
主郭西側の堀切→DSC05216.JPG
DSC05211.JPG←主郭北側の第3郭

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.564034/140.511036/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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宮森城(福島県二本松市) [古城めぐり(福島)]

DSC05147.JPG←主郭南側の堀切
 宮森城は陸奥大内氏の支城の一つであり、独眼龍伊達政宗の痛恨事、畠山義継による伊達輝宗拉致事件が起きた城でもある。

 元々は下野の宇都宮氏10代氏綱の次男氏広が奥州探題に任ぜられて、1396年に築城したことに始まる。当初は四本松城と称した。奥州伊達氏中興の祖といわれる儀山公政宗(独眼龍伊達政宗とは同名異人)が鎌倉公方足利満兼に対して反乱を起こした際(伊達政宗の乱)、宇都宮氏広は伊達方に組したため、並立する奥州探題の斯波詮持、石橋棟義等によつて亡ばされた(1400年)。氏広討伐の功によつて石橋氏は塩松荘の領主となつた。

 石橋氏は足利一門の出で、奥州の押さえとして派遣された一家であった。石橋氏の四天王の筆頭大河内氏が1471年にこの城に入って城を修築し、宮森城と名を改めた。主家石橋氏は下克上の気風の中で没落し、四天王の一つ大内氏が実権を握って、1569年大内備前は父能登および石川弾正・寺坂信濃らと共謀して大河内備中を攻め滅ぼした。宮森城の近くには、この時にまつわる稚児の墓、腹切り石、かっか石などの史跡が残る。こうして大内氏は塩松領の領主となったが、戦国末期になると独眼龍伊達政宗の激しい攻勢にさらされ、小手森城をなで斬りにされて葦名氏を頼って落ち延びた。政宗は自身は大内氏の本城であった小浜城に、父輝宗は宮森城に入り、ここを拠点に更に二本松畠山氏を降した。若い政宗は明らかに性酷薄であり、畠山氏はわずか五ヶ村の保有を許されるだけで、事実上の滅亡状態に瀕した。窮した畠山義継は宮森城の輝宗を訪れて取り成しを頼むが断られ、なんと前代未聞の輝宗拉致を敢行し、輝宗は結局粟の須で悲壮な最期を遂げることとなった。

 さてそんな血生臭い戦国の歴史を地で行く宮森城であるが、城は思ったより小さい。なだらかな丘陵上に築かれた城で、最上部に主郭を、その東西に何段かの曲輪を持っている。また堀切を挟んで主郭の南側にも曲輪があり、その東西にも何段かの曲輪があるようだが、夏場は薮がひどくて全貌を掴むことはできなかった。しかし大きな堀などはないらしく、小浜川を天然の堀とはしているものの要害性はあまり感じられなかった。居館としての側面を前面に押し出した城だったのだろう。なお城跡の麓には御膳清水と呼ばれる輝宗も使ったといわれる歴代城主の御用水跡も残っている。
主郭の土塁跡→DSC05141.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.547499/140.505833/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

三春城(福島県三春町) [古城めぐり(福島)]

DSC05061.JPG←本丸搦め手の石垣
 三春城は、戦国大名田村氏の居城である。田村氏の出自は諸説あるが、自身は坂上田村麻呂の裔を称していた。南北朝期に宇津峰城を拠点として南朝勢力として活動した庄司系田村氏とは別で、三春田村氏とも呼ばれる。1504年、田村義顕のとき三春城を築いて移り住んだ。それ以前は守山城を居城としていたともされるが、この辺の田村氏の歴史はあまり明らかではないようだ。奥州戦国の中で周辺の葦名氏、伊達氏、相馬氏などと合従連衡を繰り返した。
 田村氏は奥州の雄、伊達政宗の正室愛姫の実家で、高視聴率を誇ったNHK大河ドラマ「独眼龍政宗」で有名になった。田村氏は豊臣秀吉の奥州仕置きで改易となったが三春城はその後も存続し、三春藩の城として幕末まで存続した。
 三春城は三春の町の東に築かれた山城で、城跡からは町を一望することができる。城跡は現在城山公園となっているため夏でも歩きやすい。本丸周囲にはわずかに石垣も残っている。全山に段々の曲輪を展開させ、三ノ丸など独立した構造の曲輪などをもつ規模の大きな山城である。お城坂と呼ばれる坂道の上の突き当たりにある竪堀や、西曲輪との間の堀切(現在は車道になっている)などは戦国期の遺構であろう。政庁や城主居館としての機能も併せ持った山城だったようだ。なお麓の小学校は、かつての藩主居館跡とのことである。
お城坂上部の竪堀→DSC04992.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.442419/140.496490/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0

郡山城(福島県郡山市) [古城めぐり(福島)]

DSC04971.JPG←主郭跡?
 郡山城は、安積伊東氏の一族郡山氏の城である。この城が歴史上に登場するのは戦国末期、奥州の雄、伊達政宗が頻りに葦名領を侵して南下を策していた際、摺上原の戦いの前年の1588年に行われた「郡山合戦」である。葦名・佐竹・二階堂らの連合軍と伊達軍が郡山で激戦を繰り返した。それ以外ではこの城を語る歴史は皆無に近く、城の歴史も縄張りも明確ではない。しかし唯一、国土変遷アーカイブの1940年代の航空写真で、3つの方形の曲輪が東西に横一直線に並んでいるのをおぼろげに見ることができる。
 現在、城のあった地域は完全に市街化し、遺構は跡形もなく消滅している。北を流れる逢瀬川に落ち込む断崖上に築かれた城であったようで、周囲の急な坂が往時の要害性を物語っている。城の東側も高低差のある坂になっていて、「せせらぎこみち」という住宅街の中の公園は、当時の堀跡であったようである。主郭跡とされる部分は数年前まで雑木林となって解説板も立っていた様だが、今夏訪城したときには、林は伐採されて分譲予定地の看板が立てられて更地になっていた。郡山市は、わずかに残された遺構も完全に地上から消滅させる決断をしたようだ。残念なことである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.407665/140.374396/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0
タグ:中世崖端城

篠川城(福島県郡山市) [古城めぐり(福島)]

DSC04949.JPG←堀跡?
 篠川城(ささがわじょう)は、篠川御所とも呼ばれ、鎌倉公方足利氏の一族が拠った城である。すなわち、時の鎌倉公方第3代満兼が奥州への支配力を強めるため、弟の満直、満貞をそれぞれ篠川、稲村に派遣したことに始まる。篠川に入った足利満直は篠川公方と呼ばれ、鎌倉公方を中心とする戦乱に幕府側として参加した。その後、結城合戦の折、南奥諸家に篠川城を攻められ自害した。 ただ篠川城自体は、満直が下向してくる以前からの資料上に見られるということで、このとき初めて築かれたわけではない。またずっと時代は下って戦国後期にも須賀川二階堂氏の家臣須田佐渡守頼隆が在城したという。
 群郭式と呼ばれる珍しい縄張りを持っていたとされるが、現在ではほとんどの遺構は湮滅し、わずかに東館稲荷神社の築かれている部分の土塁と、その周囲の切岸、西面の堀跡らしい雰囲気だけが当時の面影を残している。阿武隈川を天然の堀とした台地上に築かれた城だったようである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.350151/140.369911/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0

守山城(福島県郡山市) [古城めぐり(福島)]

DSC04894.JPG←二ノ丸の大きな堀と石垣
DSC04915.JPG
 守山城は、藤原姓田村氏が田村庄に入封した際に築かれたが、後に鎌倉公方に攻められ没落した。その後、三春城を本拠とした平姓田村氏の支城になった。1591年に蒲生氏郷が会津に入封すると、会津若松城の支城となった。現在野面積みの石垣が残っているが、これは蒲生時代またはその後の上杉支配時代に築かれたようだ。その後、元和の一国一城令で破城とされた。
 守山小学校の付近一帯が城跡で、守山八幡宮の置かれているのが本丸跡、現在宅地と畑になっているのが二の丸跡、そして小学校があるのが三ノ丸跡である。本丸の周囲には低いながらも土塁が残り、その外は黒石川に向かって落ち込む急斜面となっている。二ノ丸と三ノ丸の間に大きな箱掘の堀跡があり、その二ノ丸側に見事な石垣が残っている。その他にも、小学校北側の道路は明らかに堀跡であろう。従って、宅地化したりはしているが、ほぼ城の縄張りを追うことができる。
 大きな城ではないが、この地域では珍しい石垣のある城である。
本丸の土塁→DSC04933.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.330959/140.413899/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0

岩瀬山城(福島県須賀川市) [古城めぐり(福島)]

DSC04886.JPG←主郭虎口と土塁
 岩瀬山城は、平城の須賀川城が築かれる以前の須賀川氏の居城で、古須賀川城とも呼ばれ、愛宕山山頂に築かれている。南北朝期に南朝の北畠顕家について戦った二階堂行朝が鎌倉末期に築いたという。平城の須賀川城が築かれた後も詰城として機能していたらしい。
 城跡は翠ヶ丘公園になっているので改変の手が入っており、どこまでが遺構がはっきりしない部分もあるが、駐車場から登っていく途中の平場は公園案内図には南館と書かれているので、おそらく曲輪跡ではないかと思われる。あまりに公園化されすぎているので、期待薄だと思っていたが、主郭はほとんど手付かずで残っており、ほっとした。周囲には土塁と腰曲輪が築かれ、東側には第2郭の広い曲輪と土塁、そしてさらにやや離れて空堀らしき跡も残る。全体に緩やかな斜面なので要害性は全く感じることができないが、古い山城遺構として貴重なものであろう。
横矢張出しのある土塁→DSC04882.JPG
DSC04861.JPG←空堀跡

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.292235/140.380554/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0

保土原館(福島県須賀川市) [古城めぐり(福島)]

DSC04836.JPG
 保土原館は、須賀川城とその詰城である岩瀬山城との間の高台上に築かれた館跡で、二階堂氏が築いて家臣の保土原氏に守らせたという。
 現在は市立博物館が建ち、周辺には段々上の帯曲輪のような地形が残るが、公園化が著しいので果たして遺構がどうかはわからない。その他、目立った遺構は見ることができなかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.291279/140.379159/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0

須賀川城(福島県須賀川市) [古城めぐり(福島)]

DSC04827.JPG←神炊館神社境内の空堀
 須賀川城は、須賀川二階堂氏の本拠である。二階堂氏は元々鎌倉幕府の中で評定衆などを勤める官僚肌の有力御家人で、建武の新政期に登場する二階堂道蘊(貞藤)が殊に名高い。事務能力に秀でた二階堂氏の中でも道蘊は賢才として名高く、倒幕がなり後醍醐天皇が新政を始めた際にも、鎌倉幕府の首脳の一人で言わば「朝敵の元凶」であったにもかかわらず、その才を惜しんで死一等を減じられ、雑訴決断所の寄人に列したほどであった。須賀川二階堂氏もそうした二階堂氏の一流であることには間違いないが、具体的な系図は諸説あってわからないようである。
 ずっと時代が下り戦国末期になると二階堂氏は葦名氏側に付いて、伊達の昇り竜、政宗に抵抗したが、摺上原の戦いで葦名氏が滅び伊達氏が南奥の覇権を握った後も抵抗し続けたため、須賀川城を攻め落とされ二階堂氏は滅亡した。城はまだしばらく存続したが、江戸初期に廃城になった。
 城跡は現在、ほとんど市街化して遺構は湮滅しているが、二階堂神社のある場所が本丸周辺で、神社の建つ高台はその土塁跡だそうである。それ以外では、長松院と神炊館神社の境内に空堀と土塁跡が残っている。長松院のものはかなり堀が浅くなり土塁も崩れて変形しているが、神炊館神社のものは薮の中に雰囲気満点の空堀と土塁が残り、貴重な遺構となっている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.289692/140.374460/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0

陣が峯城(福島県会津坂下町) [古城めぐり(福島)]

DSC01818.JPG←巨大な二重空堀と土塁
 陣が峯城は、極めて特異な謎の城である。よく下調べせずに、この日の城巡りの最後に立ち寄った程度のつもりだったが、あまりに異様な遺構に正直身震いがしたほどである。程近い鶴沼川に面した段崖上に築かれた単郭の城であるが、周囲を二重の堀で囲っている。主郭は台形状を呈しており、現在では川西公民館が置かれている。かつては旧越後街道に面した交通の要地であったようで、越後城氏が会津進出に伴って築いた会津八館の一つともされるが、近年の発掘の成果ではそれより古い平安末期の城館と推測されるようで、蜷河庄という荘園の統治拠点であったとも考えられ、はっきりしていない。
 城の遺構であるが、主郭の虎口左側に土塁が築かれているほかは、主郭内に目立った遺構はない。虎口から左右両翼に、真ん中に1m程度の高さの土塁を挟んで、2本の空堀が走っている。この空堀は、虎口付近では幅も深さも2~3m程度のよくある規模のものに過ぎないが、虎口から離れるにしたがってその巨大さを現してくる。そして、東面の断崖の底に向かって、最終的には15mもの深さと20m近い幅を持った巨大な堀に成長するのである。しかもそれが二重になっている。二重堀の中央を走る土塁は、まるで巨大なイモ虫の様に横たわっており、圧巻でもあり、不気味な様でもある。肝心の虎口方面の防御にはあまり力が入れられていない一方で、主郭左右のこの空堀の巨大さは異様である。
 平安期に築かれた荘園の統治拠点にしては、巨大な二重空堀の意図するところが良くわからないし、かといってその後戦国期に改修された城館でもないらしい。そんな謎を秘めた陣が峯城は、その特異性ゆえに昨年国の指定史跡となった。
巨大な堀の断面→DSC01840.JPG
写真で巨大さが伝えられないのが残念

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.595141/139.810896/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:中世崖端城

慶徳城(福島県喜多方市) [古城めぐり(福島)]

DSC01770.JPG←堀跡?
 慶徳城は、葦名氏の家臣慶徳氏の居城である。慶徳氏の出自はよくわからないらしいが、ほど近くに新宮城があるので、新宮氏の一族ではないだろうか?これは、小生の全くの推測であり、根拠があるわけではない。
 複郭式の平城だったようだが、城跡は現在、慶徳小学校の敷地となっている。遺構はほとんど湮滅しており、わずかに周辺道路との段差などが、曲輪跡・堀跡らしき様相を示しているのみである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.633164/139.834499/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

鏡ヶ城(福島県喜多方市) [古城めぐり(福島)]

DSC01756.JPG←主郭北辺の土塁と堀跡
 鏡ヶ城は、戦国大名葦名氏の四天宿老の筆頭、平田氏の居城である。会津に入封した葦名直盛に従って入国した平田光範が1384年に築城し、累代の居城となった。複郭式の平城で、会津北辺の重要拠点として重きを成したという。後に摺上原の合戦で伊達政宗に敗れて葦名氏が滅亡すると、もともと葦名氏家中で伊達派であった平田氏は政宗に降伏。更に時代が下って、会津が上杉氏の領国となると上杉氏に出仕。関ヶ原後に上杉氏が米沢に減封されると、それに付いて米沢に移り、米沢藩士として幕末まで続いた。
 現在の源太屋敷集落が、ほぼそのまま鏡ヶ城の遺構の中に納まっていると考えられるが、明確に残っているのは、主郭北辺の土塁と堀跡だけで、その他はほとんど湮滅している。多少周囲との高低差や、曲輪間の堀跡と思しき跡も散見されるが、集落の宅地の中なので、詳細に縄張りを追うことはできない。それでも北田城などと比べれば、城の面影を追うことができるだけ、良しとするべきであろうか。
曲輪間の堀跡?→DSC01765.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.620554/139.885998/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

北田城(福島県湯川村) [古城めぐり(福島)]

DSC01743.JPG
 北田城は、佐原十郎義連(葦名氏の祖)の子、盛連の次男佐原廣盛が北田氏を称して1193年に築いて住居したと伝えられている。往時は二つの川の合流点にあたる河岸段丘上に築かれた、北会津を押さえる要害の地であったという。鎌倉中期から室町初期までの間では県内最大の平城だったということで、かなりの規模を持つ複郭式の居館であったようだ。城郭構造としては、同じ佐原義連裔の新宮氏の新宮城と同じようなものだったのかもしれない。その新宮氏と時には反目し、時には結んで本家の葦名氏との抗争を繰り広げたが、1409年6月3日6代目の上総介政泰の時に葦名盛政に攻め滅ぼされた。
 城跡は現在ではほとんど完全に耕地化してしまい、ほんのわずか5m四方程度残された土塁跡だけが、申し訳程度に畑の中にぽつんと残っているだけである。したがって、往時の姿を思い浮かべられるよすがは何もない。現地解説板に、「中世会津の歴史を語る上に欠くことのできない存在価値をもつ城塁址である。」と記載されているのが虚しく聞こえる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.581317/139.874089/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:中世平城

浜崎城(福島県湯川村) [古城めぐり(福島)]

DSC01737.JPG
 この湯川村近辺は、川沿いに築かれた城(居館)が多い。この浜崎城もその一つ。葦名氏家臣の浜崎主馬が築いた城という。葦名家中の内紛により、二度の合戦の舞台となり、二度目の松本右馬允通輔の乱の際に落城して浜崎氏は滅んだという。その後時代が下って、豊臣秀吉の奥州仕置きで蒲生氏が会津に入封すると、水害の多い元の浜崎城を捨て、現在残る浜崎城の地に新城を築いた。
 現在は、一部を除き遺構は湮滅しているが、城の北東側には宅地の中にそこだけ亜空間のような雰囲気で、土塁と堀跡がかなり良好に残っている。かなり城跡らしい良い雰囲気を醸し出しているので、一見の価値がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.588374/139.889581/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

笈川館(福島県湯川村) [古城めぐり(福島)]

DSC01713.JPG←南側に残る土塁と堀跡
 笈川館は、葦名氏の家臣栗村下総守盛胤の館跡と伝えられている。近くを流れる溷川を水堀として取り込んだ、複郭の居館跡であったらしい。松本太郎行輔と共に主家に謀反を起こし、一旦は黒川城を占拠したが、後に追討されて滅亡したという。
 館跡は現在、小学校や幼稚園などに変貌し、わずかに堀跡や土塁跡らしき地形が散見されるほかは、遺構は宅地化の中で完全に湮滅している。Mapfanの地図を見ると、「館の内橋」という橋が書かれており、わずかに居館跡であったことを物語っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.573307/139.887586/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

神指城(福島県会津若松市) [古城めぐり(福島)]

DSC01673.JPG←本丸跡
 神指城は、上杉景勝が対徳川戦用に準備した巨大城郭、未完の巨城である。黒川城(現、会津若松城)が山に近く、かつて葦名氏の時代に詰の城とされた小田山などを敵軍に攻略されると、黒川城内の動きが敵に筒抜けになり極めて不利であるため、新たな本拠地として平野部に築こうとしたのが、この神指城である。直江兼続が普請奉行となって、昼夜兼行の突貫工事で完成を急いだが、残念ながら関ヶ原には間に合わず、西軍が敗北し上杉氏が米沢に転封後、そのまま廃城となった。
 城跡は、昭和初期までは堀跡などかなり明瞭に残っていたようであるが(国土変遷アーカイブの昭和20年代の写真でははっきりわかる)、その後の耕地化でほとんどが姿を消し、本丸跡が残る他は、二ノ丸の4隅の土塁跡が残っているだけである。全くの新城であるため、東西南北に正確に四辺を向けた、完全な四角形の輪郭式縄張りで、それぞれ4箇所に虎口が設けられていたらしい。本丸跡は、周囲の土塁が良く残っているが、その外側の堀跡はごく一部を除き、ほとんど埋め立てられて姿を消している。本丸内は畑になっている。面白いのは、本丸内部の南東隅の土塁の北側に、入り江のような窪地が残っているが、これが虎口跡なのであろう。二ノ丸とは水掘を隔てて橋を架けていたと思われる。
 二ノ丸の北東隅の土塁上には、国指定天然記念物の大ケヤキが残っている。
本丸の土塁と堀跡→DSC01698.JPG
DSC01671.JPG←二ノ丸土塁跡

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.511224/139.892585/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

向羽黒山城(福島県会津美里町) [古城めぐり(福島)]

DSC01550.JPG←一の曲輪周囲の横堀
 向羽黒山城は、葦名氏中興の英主、16代盛氏が、小田山城に代わって新たに築いた詰の城で、福島県内でも最大級の規模の山城である。会津西街道を扼する要害の地に築かれている。遺構は向羽黒山全山に及び、一の曲輪、二の曲輪、三の曲輪をはじめ、多くの曲輪とそれを防御する堀切跡などが残っている。

 もともと葦名盛氏が築いたが、摺上原の合戦で葦名氏が滅亡し、伊達政宗が黒川城(現、会津若松城)に居城を移すと要害としてこの城も整備された。また、その後も蒲生氏郷や上杉景勝が入封した時も、それぞれの大名によって整備され続けた。特に景勝は関ヶ原前夜の緊張状態の中で、徳川家康の会津侵攻に備えて、各所の城や防塁の修築、新造と合わせて、この城も整備拡張した。結局、この城で実戦が行われることはないまま、徳川の世に時代は移り、そのまま廃城となった。

 山中には車道が整備されているため登るのはたやすいが、何しろ遺構の範囲が広いので、一通り回ろうとすると半日は要する。また車道のために遺構が破壊されている部分もあるので、今から考えると車道はなかったほうが良かったであろう。北側から車道を登り、羽黒山と向羽黒山の間に車を止めて歩き回った。まず、葦名盛氏屋敷跡と北曲輪跡があるが、5月初めというのにかなり草木が生い茂り、形状を掴むのが容易ではない。夏場になったら、それこそ何もわからないであろう。それぞれの曲輪の周りは、土塁と堀を設けて区画しており、防御性も持たせているようだ。特に盛氏屋敷跡は四周を土塁で固めており、防御性を意識した造りになっている。三の曲輪周辺は広くなだらかな丘陵部にあたり、公園化されてさつき等が植えられている。三の曲輪自体は簡単な土塁があるほかはそれほど防御性を持たないように見受けられた。三の曲輪から二の曲輪に向かう途中に城中最大の堀切(といっても自然の谷間を利用したものであるが)があるが、薮がひどく形状が良くわからなかった。車道に沿って歩くと、弁天曲輪を経由して二の曲輪に到達するが、この間にも車道の下に竪堀跡などが散見される。また車道の脇にも曲輪の跡が多数見受けられる。二の曲輪は、この城の実質上の主郭に当たるとのことで、城主の居館が置かれていたと想定されている。二の曲輪周囲にも多くの帯曲輪があるほか、西側の三日月口大手から登ってくる登城道には、厳重な虎口が幾重にも作られ、防御の硬さを物語っている。一部の虎口には、石垣があったと思しき跡も見られた。二の曲輪の西側には多くの削平地(西曲輪群)があり、家臣団の住居跡だったらしい。ここにも要所に竪堀や虎口が作られ、防御性を高めている。しかしこの城での白眉は、なんと言っても一の曲輪であろう。二の曲輪側から登ると、見事な竪堀あり、頂上部の曲輪を防御する横堀ありと、見所が多い。また西側を下っていくと、2本の大きな堀切で尾根筋を遮断しているなど、一の曲輪は城中でもっとも防御性が高い。最後はここに拠って敵軍を防ぐつもりであったことが良くわかる。

 5月といえども温暖化の進む昨今では、草木が生い茂っていて、なかなか遺構の確認がしづらい部分もあったが、それでも十分堪能できる山城だった。
盛氏屋敷跡周囲の堀跡→DSC01460.JPG
DSC01524.JPG←二の曲輪につながる虎口
一の曲輪背後の堀切と土橋→DSC01595.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.442836/139.901898/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

小田山城(福島県会津若松市) [古城めぐり(福島)]

DSC01422.JPG←物見櫓跡
 小田山城は、葦名氏が平山城である黒川城の詰の城として、南東約1.5kmの小田山に築いた山城である。後に葦名氏中興の英主、16代盛氏が向羽黒山城を築くと詰の城としての機能を失ったといわれる。城跡は、大きく2つのブロックに分かれ、小田山に築かれた曲輪群のほかに、その南の青木山にも何段かの曲輪が残っているという。今回は、本城である小田山の曲輪群のみ訪城した。
 小田山には現在、散策路が整備されているので、非常に歩きやすい。何段かの削平地があるのも確認できる。主郭と二の曲輪には、会津藩の名臣の墓が建てられている。途中の帯曲輪と思われる場所には、戊辰戦争の折、官軍が若松城に向けてアームストロング砲の砲列を敷いた「西軍砲陣跡」が残されている(会津をはじめ、戊辰戦争で薩長に攻められた奥羽諸藩では「官軍」といわず「西軍」という)。天気が良いと、ここから見る会津若松城は、呼べば聞こえるような近さである。ここから砲撃されては、城内は丸見えだし、たまったものではなかったろうと思われる。
砲陣跡から見た会津若松城→DSC01401.JPG
 主郭を越えて延びる散策路を行くと、物見櫓跡と堀切跡が残っている。ただ堀切跡は、江戸時代に墓石の採掘で改変されたらしく、かなり旧状が変わってしまっていて、どういう堀切だったか良くわからないほどだ。現在では大きな窪地の様になってしまっている。
 詰の城とは言っても古い城なので、堀切などの防御設備が少なく、かなり古い形態の城だったようである。諸説あるようだが、現地の城跡の碑には「承久四年(1222年)葦名光盛築く」と書かれている。
 なお途中の散策路には、葦名氏歴代当主の廟所跡が残されているが、跡なので何も残っていない。山を下って北側の住宅地の中に、花見が森廟所があり、そちらには16代盛氏から3代の墓が残っているので行ってみるとよいだろう。
DSC06892.JPG←葦名盛氏の墓

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.480069/139.943612/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

大塚山城(福島県会津若松市) [古城めぐり(福島)]

DSC01375.JPG←主郭跡、石碑は城ではなく
                                      古墳を記したもの
 大塚山城は、黒川城(現、会津若松城)の北北東2.5kmほどの位置に築かれており、会津若松周辺の葦名氏城塞群の一つと考えられる。大塚山古墳群を利用した城である。現在は、大塚山の東半分は大規模な墓地(大塚山墓園)になっているので、はっきりした遺構が確認できない部分も多いが、主郭と思われる削平地を始め、何段かの曲輪らしき平場が残っているのが確認される。しかし、明確な虎口や堀跡らしい遺構は確認できないので、城といっても砦や出城に近い、小規模なものだったのではないかと推測される。
 現地解説板では、あくまで古墳のことしか書かれていないので、城としての歴史は不明である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.512824/139.944127/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

久川城(福島県南会津町) [古城めぐり(福島)]

久川城遠景
 久川城は、この地の豪族、河原田氏が築いた城である。河原田氏は、鴫山城主の長沼氏と同じく下野の大豪族小山氏の庶流である。もともと下野にいたが、源頼朝の奥州征伐の功で奥会津の伊南郷に封ぜられた。ちなみに下野には、戦国期に同族皆川氏が皆川領に侵攻してきた宇都宮氏と大会戦を行った河原田の戦いがあり、会津河原田氏はこの「河原田」をもともと領していたものと思われる。(河原田の戦いが行われたのは、現在の東武日光線「合戦場駅」近辺。近くには、升塚という塚が築かれており、その際の戦死者が葬られている。しっかし、合戦場っていう名前もすごいよなー。そのまんまやん。)
 伊南郷に来てからは、伊南川東岸に駒寄城を築いて本拠としていたが、伊達政宗が摺上原の戦いで会津の大勢力葦名氏を滅ぼし、奥会津へ勢力を伸ばしてくると、伊達氏に降ることを潔しとしなかった河原田盛次は狭い駒寄城を捨てて、新たに伊南川の対岸に久川城を築いて、伊達氏に抵抗し続けた。伊達軍は兵站線が長く伸びきるこの地を攻めきれず、結局豊臣秀吉の奥州仕置が行われるまで、この地を手中にすることはできなかった。しかし河原田氏も秀吉に存続を許されず、旧主葦名義広の実家、佐竹氏を頼って移り住み、更に佐竹氏の秋田転封に伴って秋田に移り、その家系は現在まで秋田で続いているという。
 さてそんなわけで、強豪伊達軍を迎え撃った歴戦の城であるが、山城といっても最高所でも比高は60m程度と低い丘陵上に築かれており、それほどの要害性を持っているようには傍目からは見えない。しかしよく見ると、城が築かれているのは西側奥の山間部とは急峻な沢で隔てられた独立峰の様な小山であり、その前面にはわずか100mほどの距離で伊南川が流れているため、城の前面に大軍を展開するスペースもない。その意味で、伊南川が天然の堀として機能するようである。また、城に登って驚くのは、その曲輪の平坦で広いこと。かなりの数の兵を城内に張り付けることができるので、大軍を有効に展開できず補給もままならない伊達軍を跳ね返せるだけの条件は揃っていた様である。

広大な北曲輪→
 久川城は、事前にネットで調べた限りかなり公園化されているようなので、はっきり言ってあまり期待していなかったのだが、実際訪れてみると各曲輪の土塁や虎口が明確に残り、曲輪間を分断する横堀・竪堀や本丸を取り巻く土塁と横堀もダイナミックで、戦国城郭の醍醐味を十分に味わえる隠れた名城だった。東側から上ったのだが、そこには昔は野面積みの石垣の枡形虎口があっというが、今は完全に隠滅している。登城道を上りきるとまた枡形虎口の土塁があり、なかには平坦で広大な曲輪群が広がっている。曲輪が南北に連なった連郭式山城で、北から順に北出丸・北曲輪・本丸・二の丸・三の丸・南曲輪・南出丸と、大きい曲輪が7つもある。そしてそれらの曲輪は、それぞれを土塁・横堀・横堀から伸びた竪堀・枡形虎口といった防御施設で区画しており、伊達の大軍を迎え撃つ気満々の縄張りである。中でも特に素晴らしいのは本丸周囲の土塁と空堀で、隅には明らかにそれとわかる櫓台が築かれている。二の丸の虎口には石垣の跡も残っており、ついつい往時の様子を想像したくなってしまう。本丸背後には自然地形を利用した高い土塁が南北に伸び、背後の沢からの攻撃を防ぐと同時に城の最高所でもあるので、監視砦の役目も負っていたものと思われる。なおかつこの高台には各曲輪を南北にに分断する横堀がそのまま竪堀となって駆け上がり、高台の部分で堀切となって高台を更に南北に分断しているのである。南曲輪から南側には枡形虎口を通してもう1本の登城道が下っており、その下には角馬出の土塁と空堀が現存している。城の南側一帯の平野部は、県道より一段高くなっていて、かつての侍屋敷跡と推定されているようだ。
 なお、現地案内板によるとこの城のある土地の持ち主は、なんと317名もいるらしい。それだけ皆で大切にしているということなのだろう。現に公園化といっても遺構にはほとんど手を加えず、下草をきれいに除いて適度に植林していて、全体に小奇麗で見通しもよく、住民のこの城への愛着を感じさせるようだ。これほど構造のわかりやすい山城はないほどである。伊達軍を跳ね返した歴史といい、遺構のすばらしさといい、歴史ファンならば必須の名城といえると思う。
本丸北側の土塁と空堀→ 
←本丸内部と土塁・櫓台
本丸と二の丸を分断する空堀→
←南側の角馬出

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆(何より歩きやすいのがいい!)
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.187091/139.523213/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0

PS.今回は日没タイムアウトで、近くの駒寄城などには行けなかった。まーた来よおっと♪


タグ:中世山城

鴫山城 その1(福島県田島町) [古城めぐり(福島)]

山側から見た根小屋全景

 鴫山城は、この地方を統治した長沼氏によって南北朝期に築かれたと伝えられている。長沼氏は、結城氏と並び、藤原秀郷の裔を誇った中世下野の最大の豪族、小山氏の庶流である。もともとの本拠の下野では、後に姓を変えて皆川氏となった。皆川氏とは、戦国大名となり最後には徳川家康の不肖の息子、松平忠輝の付家老となった皆川広照の系統である。一方、会津田島の長沼氏は、戦国末期に摺上原の合戦で宿敵葦名氏を滅ぼし奥州の覇権を握った伊達政宗に降伏し、その一軍となって伊南郷の久川城を攻撃した際、戦死してお家断絶となった。その後は、豊臣秀吉の奥州仕置で会津に入封した蒲生氏郷、次いで入封した北越の雄、上杉景勝の支配下となった。
 もともと鴫山城は、長沼氏の時代に愛宕山の山頂部に詰の城として築かれたようだが、その後、特に上杉氏支配時代に、関ヶ原合戦前夜の徳川氏との緊張関係の中で会津南方からの侵攻を抑える要衝として大きく整備拡張されたといわれ、現在残る遺構はその時のものが多い。
 城は、頂上の主郭とその下に連なる小曲輪群、山裾の根小屋に当たる広い削平地、そして大きくそれらを東西から防御する長大な壁塁から構成されている。根小屋部分の広い曲輪群は、拠点統治の政庁として機能したようだ。入り口は、高い土塁と堀、そしてささやかな石垣によって防御されているが、全体に政庁機能を優先させた作りの様で、それほど防御が厳重とは思えない。山上の曲輪は全体に規模が小さく、詰の城としての機能以上の意味はないようだ。この城で特徴的なのは、東西を防御する塁壁で、ちょうど根小屋部分を中心とする城の中枢部を、大きく馬蹄形に包み込んで防御した形になっている。今回は東側の塁壁しか見なかったが、大きな横堀を斜面に作り、横堀の前後の土塁の高さの違いから、現地解説板にもある通り小田原北条氏の比高二重土塁に類似した形をしている。(西側塁壁は後日確認)この形態の塁壁としては、小山義政が籠った粕尾城(栃木県鹿沼市)の横堀に非常に雰囲気が似ている。

東側塁壁の横堀→
 全体によく遺構が残り、特に根小屋部は整備もされているので、夏場でも歩きやすいだろう。ただ、現地解説版の縄張り図がわかり辛いので、もっと実際に合ったものに差し替えて欲しい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.194630/139.769161/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0

※その後の再訪記はこちら
タグ:中世山城
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新宮城(福島県喜多方市) [古城めぐり(福島)]

県道沿いに残る堀と主郭跡

 猪苗代から米沢へ向かう途中、喜多方を経由することにし、喜多方の新宮熊野神社に寄った。ここには、長床という古い形の拝殿があり、国の重要文化財に指定されている。この形式の拝殿は全国的にもかなり珍しく、ほかでは南北朝史に名高い福井の杣山城の近く、大塩八幡宮にやはり重文指定の長床式拝殿を見たことがあるだけである。ちなみに大塩八幡宮は、新田義貞に味方して戦死した瓜生保の一族が宮司をしていたと伝えられている。
 さて、熊野神社を参拝した後、近くに城跡があるのは事前調査で知っていたが、雨脚が強いのでそのまま通り過ぎようとしたら、県道沿いに「新宮城跡駐車場」というあまりにも直接的な名前の看板が出てくるではないか!これはと思い、車を止めて雨の中周囲を歩いてみると、駐車場の南側に薮に埋もれた沢と言うか小川が流れていて、外堀の雰囲気である。次に県道に沿って北側に歩いていくと、畑の手前に「新宮城址」の碑が立っていて、その背後の畑は一段高台になっている。どうもこれが城跡のようだ。さらに歩くと、盛夏ゆえ草が生い茂っていてちょっと見ただけでは分かりづらいが、堀跡と土塁らしき地形が明確に残っているのがわかった。どうもこの城は平野部に築かれた方形居館跡の様である。ぐるっと回って駐車場に戻ってみたが、駐車場の隅にもどうやら土塁の一部らしい地形が残っている。
 畑化しているがかなり遺構がはっきりと残っており、現代では奇跡に近い。このままこの貴重な遺構を、残していって欲しいものである。
 なお、この城を築いた新宮氏は佐原義連の後裔で、この城から8kmほど北に佐原義連のものと伝えられる墓がある。佐原義連の後裔の一流は、戦国大名として名高い葦名氏となった。

北側の堀と土塁

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.622560/139.835143/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0

(補足)後で調べたら、この城は複郭のかなり大きな城だったようだ。


タグ:中世平城

猪苗代城〔附、三忠碑〕(福島県猪苗代町) [古城めぐり(福島)]

 天気がよくないので会津周辺の城は無視して、移動して猪苗代城に行った。猪苗代城は、小高い丘のような山に築かれた平山城である。近代まで残っていた城なので期待して行ったが、全体は非常に小さく、土塁と若干の横堀、腰曲輪で防御されている以外には、あまり特徴がない。石垣は、基本的に大手と本丸搦手の虎口にだけ使われていて、それほど防御性が高いとも思われない。比高も20~30mぐらいしかないので、大軍で攻められたらひとたまりもない、という程度の城だった。遺構としては良く残っているが、ちょっと物足りなさを感じる城である。

二の丸虎口の石垣

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.562116/140.104008/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0

 なお、会津から猪苗代城までの移動の途中には、三忠碑という史跡がある。これは、かの摺上原の戦いで伊達軍と戦って戦場に散った葦名氏の3人の忠臣を顕彰したものである。やけに表通りから離れた松林の中にあるなと思ったら、江戸時代の昔はここが二本松街道というかつての大通りだったそうだ。その古道の脇に、唐の顔真卿の書を集めて作った碑がひっそりとたたずんでいる。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.562099/140.065813/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


会津若松城(福島県会津若松市) [古城めぐり(福島)]


 お盆連休中は、例によってほとんどずっと仕事で、お盆明けに休みを取って、夏の東北近代城郭巡りと称して、3日間の城巡りに出掛けた。お盆中の連日の好天と異なり、あいにく雨模様の多い天気になってしまった。初日は夜中のうちに会津西街道を北上して、最初に会津若松城を訪れた。
 現在は、幕末の京都守護職松平容保の居城として知られているが、中世・戦国期は黒川城と呼ばれ、東北の雄、葦名氏の居城であった。葦名氏が伊達政宗に滅ぼされ、その伊達氏が居城を米沢城から黒川城に移したのもつかの間、小田原北条氏を滅ぼした豊臣秀吉の奥州仕置によって、蒲生氏郷が入封し、その際に大々的に近代城郭に仕立て直されたそうだが、全体の縄張りはほぼ中世黒川城のものを踏襲しているようである。会津盆地に作られた平城で、中世にも関わらず防御性の弱い平地に居城を構え、大きな堀と土塁を巡らした縄張りは、戦国大名葦名氏の先進性を感じさせる。しかし良く考えてみると葦名氏だけでなく、伊達氏の米沢城、最上氏の山形城と、この近辺の戦国大名はみな平地の真ん中に城を設けている。奥州の大名は要害性よりも統治拠点としての機能性を重視していたのであろうか?それとも山に城を築くと、冬の雪で身動きが取れなくなることを嫌ったのであろうか。
 さて現在に残る会津若松城は、戊辰戦争で砲弾にさらされ、明治に入ってから完全に取り壊されてしまったので、昭和に入ってからの復元城郭である。(東北の城はみんなそう。だから私は明治維新は嫌いだ!)しかし二の丸や出丸の全周を取り巻く石垣や土塁、水濠はほぼ完全に近い形で残っており、会津若松市民のこの城に対する愛着を象徴しているようである。
 またこの城を訪れるのはもう4~5回目になるが、本格的な城郭巡りとして訪れたのは今回が初めてで、そのため今まで気にもしていなかったことが今回の訪城でよくわかった。全周が石垣といっても、結構、腰巻土塁も多く、二の丸には仕切り土塁も構築されている。また街中には蒲生統治時代に築かれた総構の遺構の一部として、天寧寺町土塁や甲賀町口門跡の石垣なども残っていて、国指定史跡となっている。また裏の方まで回ると、民家の裏に三の丸の濠と石垣も残っているのが見られた。
 全体に遺構が非常に良く残るいい城であると改めて感じた。

二の丸との間の木橋
戦時には落とせるようになっている。
二の丸の外堀
天寧寺町土塁
甲賀町口門跡の石垣

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.487135/139.930437/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0
    【天寧寺町土塁】https://maps.gsi.go.jp/#16/37.490847/139.940565/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0
    【甲賀町口門跡】https://maps.gsi.go.jp/#16/37.496210/139.931810/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


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棚倉城(福島県棚倉町) [古城めぐり(福島)]

 2日間の東北近代城郭巡りのラストは、棚倉城である。棚倉は、東北道から離れた山あいの中にある町で、普通であれば、まず行く機会はほとんどないと思われる位置にある。しかし、私は以前に何回かこの街を通り過ぎたことがある。それは、福島空港に行くのに下道の最短コースで行った際にこの町を通っているのである。今から5~6年前のことである。まだその頃は城巡りなど全く興味のない頃だったので、こんなところに城があるなんて全く知らずに通り過ぎていたものである。
 この城は、本格的には丹羽長重が入封してから近代城郭として整備された。全くの偶然であるが、今回巡った城のうち、小峰城二本松城、そしてこの棚倉城と、丹羽長重・光重親子が相次いで築城した名城を巡ることとなった。(そういえば、金沢に住んでいた折、丹羽長重が前田利長と関ヶ原の際に交戦した石川県の浅井畷古戦場も行った事がある。)別に丹羽ファンではないのだが。
 さてその棚倉城であるが、遺構として残っているのは本丸の土塁と水堀がほとんどで、それ以外は例によって宅地化されていて、ほとんど遺構らしい遺構は残っていない。しかし、その本丸の遺構であるが、これが結構素晴らしい。横矢の入った土塁もさることながら、その周囲の水堀も噴水などできれいに整備され、ほとんど往時の状態で残っていると思われる。その堀幅の広いこと!立派なものである。また周囲を走る道路には、ところどころクランク状の曲がりがあり、桝形門の跡をとどめているのが印象的である。ほかの城では、区画整理などでほとんど直線化されて、名残もとどめていないものが多い中で、なかなか城跡らしくて趣があって良い。まぁ、城好きの人でない限り、そんなこと知らずに曲がってて通りにくいなー、なんて思ってるんだろうけど。
 それ以外では、棚倉中学の校庭脇に石垣が残っているとのことであるが、あいにく行った日は平日で、とてもカメラ持って入っていける状況でなかったので、今回は見逃してしまった。そのうち機会があれば、見に行きたいところである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.029897/140.385725/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


タグ:近世平城

赤館城(福島県棚倉町) [古城めぐり(福島)]

 赤館城は、棚倉町北方にある歴戦の城である。古くは伊達政宗(戦国末期の正宗の7代前の先祖で、同名異人)が鎌倉公方に対して起こした反乱で知られ、戦国期に入ってからは磐城侵攻を目論む佐竹氏とそれを阻む白川氏との攻防の場、さらに続いて南下する伊達氏と佐竹氏の攻防の場となった。さらにその後、関が原で西軍について敗れた立花宗茂が一時期、この地に飛ばされ逼塞していたこともあった。今回訪れたのは、あの名将立花宗茂の居た城ということで期待していったのである。
 しかし実際訪れてみると、近代城郭的な整備は全くされておらず、やや期待とは異なる城跡だった。主郭部は広いが、公園化されているので、往時の面影を想像するのは難しい。その周囲の腰曲輪も同じである。また主郭のすぐ下まで民家が迫っていて(廃屋になっていたが・・・)、おそらく曲輪の跡とは思われるが、どこまでが遺構でどこからが近世の改変なのか、よくわからない。この、よくわからない削平地は、主郭から麓の国道に下りるまでの間にたくさんあるので、もしこれが全て曲輪跡だとすると、かなりの居住性を備えた城ということになりそうだ。その他、ちょろっと見て回った限りでは、堀切や竪堀などあまり遺構らしい遺構が確認できず、やや失望気味に感じていた矢先、登山道の途中に「一番平駐車場」というスペースがあり、土塁らしきものもあり、位置的にも曲輪跡に見えたので、そこから北西の薮に突入してみると、出てきました、横堀。それほど巨大な規模ではないが、しっかり堀とそれを取り巻く土塁があり、そこそこ見ごたえがある。ただ、結構薮化しているので、全体の規模は把握しづらかった。
 この後、棚倉城も見たかったので、あまり時間的なゆとりがなく、その辺で撤退したのだが、全体的に事前の期待ほど規模が大きくなく、遺構も思ったほどではなかったというのが正直な印象で、立花宗茂の居た城と言う実感もあまり湧かなかった。良く考えてみれば、宗茂は敗将であり石高も思いっきり減らされてこの地に飛ばされてきたのである。城郭整備のゆとりもなく、また整備しようとすれば謀反の疑いを懸けられる恐れもあったのだから、この地に来てもほとんど謹慎の状態だったのだろう。

土塁と横堀→

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.041168/140.376692/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


タグ:中世山城
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