SSブログ
古城めぐり(宮城) ブログトップ
前の30件 | 次の30件

御殿楯(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN9663.JPG←主郭群西側の横堀
(2020年11月訪城)
 御殿楯(御殿館)は、歴史不詳の城である。国分氏に関連する城(国分35城の中の古天城)とも、或いは野武士達が立て籠もった城とも言われる。尚、城のある御殿山には古くから「山神の祠堂」が祀られていたと言われ、1189年の奥州合戦の際、源頼朝はこの祠堂に戦勝を祈願し、合戦後配下の伊沢家景(留守氏の祖)に社殿を造営させ、その本殿は1457年まで御殿山山頂に祀られていたと言う。

 御殿楯は、諏訪神社の背後にある標高180m、比高70m程の独立丘陵に築かれている。東麓の諏訪神社脇から散策路が整備されており、簡単に登ることができる。城内は大きく3つの曲輪群で構成されている。ここでは西の山頂から順に主郭群・二ノ郭群・三ノ郭群と呼称する(現地解説板では、主郭群を西曲輪、二ノ郭群・三ノ郭群を合わせて東曲輪としている)。散策路を登っていくと、最初に現れるのが三ノ郭群で、頂部に細長い三ノ郭を置き、北側下方に広い四ノ郭を築いている。四ノ郭の北側には横堀が穿たれている。また三ノ郭群の東端から北西に降るようにもう1本の横堀が穿たれており、散策路と並走している。頂部の三ノ郭の南斜面にも数段の帯曲輪が築かれている。三ノ郭群の西にある二ノ郭群は、頂部の二ノ郭はほとんど自然地形であるが、その後部に祠のある小さな土壇がある。南斜面には帯曲輪群が三ノ郭群から繋がる形で築かれている。二ノ郭の先の西尾根と主郭群を区画する部分に、南に降る堀底道があり、これは堀切とされている。堀底道を降った所に「湧水の池」があり、御殿山山頂にあった神社の御神水とのことだが、御殿楯の水の手であったのだろう。主郭も削平が甘く、頂部に水分神社が鎮座している。その背後には土塁状の土盛りが見られる。主郭群の西側は大きな横堀が穿たれている。南に向かって降っており、中央部が凸型に突出して横矢を掛けている。横堀に沿って内側には延々と土塁が築かれている。主郭群は、頂部にある主郭の南に段状に曲輪群を築いているが、少々薮が多いせいもあって普請が明瞭でない部分もある。しかし南東部にははっきりと帯曲輪群が確認できる。以上が御殿楯の遺構で、主郭群西側の横堀はしっかりしているが、それ以外はそれほどしっかりした普請ではなく、野武士達が立て籠もった城という伝承もあながち嘘ではないかもしれない。
主郭の水分神社→DSCN9582.JPG
DSCN9575.JPG←水の手であった湧水の池
四ノ郭北側の横堀→DSCN9680.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.266051/140.754229/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 日本の城

ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 日本の城

  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2018/06/19
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

西館(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN9451.JPG←館跡の平場群
(2020年11月訪城)
 西館は、伊達政宗の長女で、徳川家康の6男松平忠輝に嫁いだ五郎八(いろは)姫の仮御殿である。元々は、慶長年間(1596~1615年)の頃に伊達氏の家臣山岸修理之助定康の屋敷であった。定康は、富沢館主山岸三河守宗成の子であった。その後1621年頃から、伊達政宗の重臣茂庭綱元の屋敷となり、政宗は5回以上、この綱元の屋敷を訪れていることが記録に残っている。最後の訪問は1636年4月19日政宗の死の1ヶ月前のことで、この時の政宗は「御顔色衰へさせられ、御膳も進みたまわず」という状況であったと言われる。綱元屋敷訪問の翌日江戸に向かった政宗は病状が急速に悪化し、翌月24日に品川の江戸屋敷で70歳で病没した。政宗の訃報を聞いた88歳の綱元は、栗原郡文字村に引き籠もり、その地で没した。綱元は、この屋敷を引き払った際、五郎八姫に屋敷を差し上げたと言う。五郎八姫は、夫の忠輝が不行跡により改易となったため、離縁して政宗の元に帰り、仙台城二の丸の西屋敷に移り住み、「西館様」と呼ばれた。綱元が去った後、西館では新たに普請が加えられ、五郎八姫の仮御殿として利用されたらしい。この時五郎八姫は43歳で、以後68歳で仙台城西屋敷で没するまで、仙台城とこの粟生西館の両方で生活した。即ち、西館は五郎八姫の別荘的な性格を持っていた屋敷であったと考えられている。

 西館は、愛子バイパス(国道48号線)の南の段丘上に築かれている。現在、市の史跡に指定されており、館跡の主要部は整備されている。館内には、段差で区画された平場群があり、最上段の小さな平場には、小さい稲荷社が祀られている。南側と西側には土塁が築かれ、その外側には空堀跡が残っている。西の入口は坂土橋になっているが、遺構かどうかは不明。東の平場は一部が畑、大半が耕作放棄地の藪になっているが、段差部分に石積みが残っている。前述の神社の建つ平場の切岸にも、石積みらしい跡が残る。昭和61年に発掘調査が行われ、東半部北側の館入口に当たる部分に石垣が発見されたが、バイパス道建設のため破壊された。西館は、城館というより上流階級層の屋敷地であるが、江戸初期の屋敷の形態を留める遺構として貴重である。
西側の土塁→DSCN9454.JPG
DSCN9489.JPG←石積み遺構

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.264855/140.789688/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


伊達の国の物語 政宗からはじまる仙台藩二七〇年

伊達の国の物語 政宗からはじまる仙台藩二七〇年

  • 作者: 菅野正道
  • 出版社/メーカー: 株式会社プレスアート
  • 発売日: 2021/05/22
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

郷六館(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN9415.JPG←北辺の土塁
(2020年11月訪城)
 郷六館は、国分氏の一族郷六大膳盛元の居館である。郷六氏は、国分盛氏の庶子盛政を祖とし、宮城郡国分荘の内、愛子・郷六の2郷を領し、郷六館に居住していたと言う。天正年間(1573~92年)に伊達政宗の叔父国分盛重が家中の統制が取れずに政宗の家臣となると、国分氏の家臣団は政宗直轄の国分衆として再編され、郷六氏は郷六村を没収されて郷六館は廃館となった。1598年、元猶が当主の時に郷六氏は森田氏に姓を改めた。

 郷六館は、広瀬川曲流部西岸にある比高10m程の丘陵上に築かれている。対岸には葛岡城がある。周囲は宅地化・市街化が進んでいるが、郷六館は奇跡的にその遺構を残している。周囲より一段高くなった、ほぼ方形をした畑地で、北面と西面には土塁が築かれ、主郭内は2段の平場に分かれている。主郭の塁線は全て直線ではなく、北面で歪んでおり、南西では櫓台状に突出している様であるが、西側は薮が激しく確認が難しい。また畑に通じる小道のある北面には腰曲輪が置かれ、その北側には堀跡が残っている。西側にある水路も堀跡で、南には幅広の水堀跡が低地となって残っている。いかにも小豪族の居館という雰囲気の漂う館跡である。
南の幅広の水堀跡→DSCN9430.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.261502/140.814096/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


宮城県の歴史散歩

宮城県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2007/07/01
  • メディア: 単行本


タグ:居館
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

菅生楯(宮城県村田町) [古城めぐり(宮城)]

DSCN9387.JPG←主郭背後の堀切
(2020年11月訪城)
 菅生楯(菅生館)は、菅生助八郎の居城と伝えられる。『伊達世臣家譜』によると菅生氏は下野の小山下野守高朝の後裔と言われ、小山氏が室町時代に滅亡した後に柴田郡菅生村に移住して菅生氏を称したと言う。菅生氏の祖は伯耆で、伯耆の子与作は相馬氏との戦いで討死した。その子助八郎は伊達政宗に仕え、葛西大崎一揆の宮崎の役で軍功を挙げた。1595年に菅生村で100石を給され、その後、栗原郡刈敷村に改められたと言う。

 菅生楯は、標高200m、比高80m程の丘陵先端部に築かれている。東北自動車道の菅生PAのすぐ北に当たる。現在は「菅生舘跡のうそんこうえん」として整備されている。公園の駐車場の奥には二重堀切があり、その先に副郭が置かれている。この二重堀切は、それぞれ土塁を伴っており、土塁同士の間が堀状地形となっているため、実際には2.5重堀切とでも言うべき形となっている。副郭の先は主郭との間を分断する堀切が穿たれているが、副郭側の堀切沿いに1段腰曲輪が付随し、横堀状の通路となって南側に下っている。主郭は2段の平場に分かれ、西側と南側に土塁を築いている。主郭の東側には舌状の腰曲輪が広がっているが、この腰曲輪は後部に櫓台を築き、櫓台と主郭との間を堀切としている。この他、主郭・副郭の南斜面には数段の腰曲輪群が築かれ、東斜面まで腰曲輪が囲んでいる。但し、南斜面の腰曲輪群は山林内にその姿をよく残しているが、東斜面のものは薮に覆われてその形状がよくわからない。以上が菅生楯の遺構で、いかにも小土豪の詰城という趣の城である。
東の腰曲輪と櫓台→DSCN9348.JPG
DSCN9354.JPG←主郭南側の腰曲輪

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.171965/140.764035/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/08/21
  • メディア: 単行本


nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

小野城(宮城県川崎町) [古城めぐり(宮城)]

DSCN9192.JPG←主郭後部の土塁と堀切
(2020年11月訪城)
 小野城は、伊達氏の家臣小野雅楽之允の居城である。小野氏は、砂金城主砂金氏・上楯城主支倉氏と並ぶ川崎地方の豪族で、戦国時代頃から伊達氏の家臣となり、伊達稙宗・晴宗父子が争った伊達天文の乱では晴宗に属して戦功を挙げた。また1576年に伊達輝宗が相馬盛胤との間で伊具郡の領有を巡って争った際には、小野氏は砂金氏・支倉氏と共に参陣した。1588年、伊達政宗が大崎氏家中の内紛に軍事介入した大崎合戦では、小野雅楽之允は支倉紀伊と共に出陣した。1600年の慶長出羽合戦では、伊達政宗が山形城主最上義光に援軍を送った際、小野雅楽之允・弥七郎も従軍したと言う。江戸時代に入り、幕藩体制が確立すると、小野氏は仙台伊達藩から「召出」の家格を与えられ、小野城の故地に屋敷を構えて代々居住し、そのまま幕末まで存続した。

 小野城は、小野集落の北側にそびえる標高230.1m、比高70m程の丘陵上に築かれている。現在城跡は山林が伐採されて整備されているので、遺構がよく確認できる。頂部に東西に長く広い主郭を置き、背後に堀切を挟んで西郭を置いている。西郭の背後も堀切で分断しているが、西郭は薮だらけでほとんどその形状がわからない。主郭は3段の平場に分かれ、堀切沿いと北辺に土塁を築き、南東に虎口を築いている。主郭の南北の斜面には腰曲輪を築いており、特に南斜面には3段以上の腰曲輪があり、一番広いものが二ノ郭とされている。二ノ郭には熊野神社が建っている。また主郭の東尾根には段曲輪群が置かれ、堀切と竪堀が確認できる。この他、南東の腰曲輪には横堀も穿たれている。主郭の北側1/3はフェンスで仕切られ、立入禁止となっているが、現地で入手できるパンフレットの縄張図によれば、北面の山腹にも横堀がある様だ。小野城は、主郭は広いものの全体の規模はさほど大きくはなく、それほど技巧的な縄張りでもないが、整備により遺構が確認しやすいのがありがたい。
主郭東側の段曲輪群と堀切→DSCN9165.JPG
DSCN9146.JPG←南東山腹の横堀
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.187989/140.665115/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


仙台藩ものがたり

仙台藩ものがたり

  • 出版社/メーカー: 河北新報総合サービス
  • 発売日: 2021/05/08
  • メディア: 単行本


nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

菅原楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN5450.JPG←二重堀切
(2020年10月訪城)
 菅原楯(菅原館)は、菅原大夫公成の居城と言われている。『日本城郭大系』によると菅原氏は白鶯氏の祖であるらしいのだが、菅原公成についても白鶯氏についてもその事績は不明である。現地標柱の解説文には、源頼義が八幡神社を勧進した時に別当寺として建てられたとあるが、元は寺だったのだろうか?

 菅原楯は、後藤楯の西方260mの位置にあり、八幡神社の北の尾根が二迫川に向かって突き出た部分に築かれている。以前に後藤楯を訪れた時に、林道脇の標柱を見つけていたのだが、その時は付近を探索したが遺構を確認できなかった。城跡は標柱から200m以上も離れた場所にあり、今回その場所を特定できたのでリベンジした。
 八幡神社西の山道から、薮に埋もれかけた林道が北に向かって分岐しており、それを辿って200m程歩いたところで道から逸れて北側の薮に分け入ると、すぐ目の前に二重堀切が現れる。この二重堀切は深さはそれほどでもないが東西に長く伸びて、尾根両側に入り込んだ谷まで落ちている。二重堀切の北には物見台を兼ねた三ノ郭があり、その北には深さ5~6mの大堀切が穿たれている。この堀切も東西に長く伸び、前述の二重堀切と東西の谷で合流するような感じで落ちている。これらの堀切で囲まれた、東西に降る斜面に小郭群が築かれ、その頂部に三ノ郭が置かれた形となっている。大堀切の北には繋ぎの曲輪を挟んで主郭が築かれ、それらの外周に1~2m程の段差で腰曲輪状の二ノ郭が広がっている。二ノ郭の更に東西斜面にも腰曲輪群が築かれている。二ノ郭の北端は断崖となっている。

 以上が菅原楯の遺構で、それほど技巧的ではないが、二重堀切や大堀切などの遺構は、戦国期に使われた可能性を示しているように思う。尚、比較的大きな城である後藤楯と隣接するように築かれているが、両城が同時代に並立していたとは考えにくい。両城の関係については今後の後究を待ちたい。
大堀切→DSCN5515.JPG
DSCN5499.JPG←二ノ郭から見た主郭切岸

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.810286/140.935439/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


あなたの知らない宮城県の歴史 (歴史新書)

あなたの知らない宮城県の歴史 (歴史新書)

  • 出版社/メーカー: 洋泉社
  • 発売日: 2013/03/06
  • メディア: 新書


タグ:中世崖端城
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

野沢館(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN5422.JPG←重機で蹂躙された堀切跡
(2020年10月訪城)
 野沢館は、伝承では野沢豊後守の居館であったとされる。野沢豊後守の事績については不明である。

 野沢館は、山間部にある文字(もんじ)地区の平地に突き出た比高30m程の丘陵上に築かれている。長方形に近い形状の主郭の周囲に腰曲輪を渦郭式に廻らした簡素な城館で、丘陵基部は堀切で分断している。しかし腰曲輪も堀切も重機による破壊が著しい。従って、腰曲輪もどこまでが往時のものなのか、どこからが重機によって切り開かれたものなのか、よくわからない。かなり残念な状況になってしまっている。麓には朽ちた標柱が転がっていて、初めて城館の名前が特定できた。宮城県遺跡地図が示す野沢館の場所は間違っている様である。野沢館への登り口は、やや薮化しているが南東側に重機道の名残があり、それを登っていけばよい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.830665/140.906492/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


宮城 ぶらり歴史探訪ルートガイド

宮城 ぶらり歴史探訪ルートガイド

  • 作者: 仙台歴史探検倶楽部
  • 出版社/メーカー: メイツ出版
  • 発売日: 2018/11/30
  • メディア: Kindle版


タグ:中世平山城
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

宮下楯〔仮称〕(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN5348.JPG←主郭南側の横堀
(2020年10月訪城)
 宮下楯は、おそらく私が発見したことになる近年発見された城である。位置的には秋法楯の真向かいにある丘陵先端の峰にあり、両城の間はわずか400m程しか離れていない。秋法楯は東方への眺望が塞がれていることから、宮下楯はその支城として東方への監視の任に当たっていた可能性が考えられる。

 宮下楯は、熊野神社の裏山に築かれている。神社の裏の斜面を適当に登れば、すぐに腰曲輪に至る。神社の建つ高台も曲輪であった可能性がある。頂部の主郭と外周を廻る腰曲輪から成る小規模な城砦であるが、主郭の後部には大土塁が築かれ、城門跡と考えられる虎口があり、そこから外(西)に出ると堀切が穿たれていて、丘陵基部を分断している。この堀切は、北側では竪堀となって降っているが、南側に降ったところでは90度折れ曲がって主郭の南側を防御する横堀に変化し、その東端部はそのまま東側の腰曲輪に繋がっている。この腰曲輪には、東斜面に通じる竪堀状虎口が築かれている。腰曲輪の北側は一段高くなり、その先は横堀が円弧状に穿たれている。横堀の西端は竪堀に変化して北斜面に落ちている。この横堀に沿って、上段には主郭より一段低い腰曲輪が築かれ、横堀に対する攻撃陣地となっている。以上が宮下楯の概要である。

 宮城県の遺跡地図にも載っていないので、一応新発見としているが、城内に人が入って薮払いしている形跡があるので、未発見ではないように思える。残念ながら地元の人に行き会うことがなかったため、聞き取り調査はできていない。栗原市教育委員会の文化財保護課にも問合せのメールを出したが、今に至るまで回答は得られていない。何かご存じの方がいれば、情報を頂きたい。

【2023-2-2追記】
栗原市の文化財保護課からようやく回答があり、やはり既に城跡として認知されていたとのことであった。『宮城考古学』第17号の「宮城県二迫川地域の中世城館(2)」の中で紹介されているとのことであるが、本誌については未見のため何という城名が命名されているのかもわからないので、仮称のままとしておく。
主郭北東側の円弧状横堀→DSCN5372.JPG
DSCN5390.JPG←主郭後部の大土塁
主郭背後の堀切→DSCN5392.JPG
DSCN5396.JPG←主郭背後の虎口
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.801039/140.903081/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


宮城県の歴史 (県史)

宮城県の歴史 (県史)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2010/01/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
nice!(3)  コメント(2) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

清水館(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN5299.JPG←主郭
(2020年10月訪城)
 清水館は、真坂楯を本拠とした大崎氏の家臣狩野氏(一迫氏)の一族、狩野和泉の居館と伝えられている。江戸時代には、仙台伊達藩の一門伊達(岩城)薩摩国隆の居館となった。

 清水館は、普門寺の北西の丘陵上に築かれている。細長い長円形の主郭を中心に、西から南にかけては1段、北から東にかけては2段の腰曲輪を廻らした環郭式の縄張りとなっている。主郭は畑と山林になっており、北端部は小堀切を挟んで小郭に神社が建っている。周囲の腰曲輪は、南側は畑になっているが、北側・西側は山林、東側は深い薮に埋もれている。南側には丘陵が続いているが、切通し状に畑に至る山道が通っており、往時の堀切であったと推測される。近世まで使われた城館にしては、極めて平凡な縄張りである。尚、北東の車道沿いに標柱が立っている。普門寺の墓地から尾根伝いに北西に向かって歩いていけば、館跡の畑まで行くことができる。
主郭先端の小掘切→DSCN5304.JPG
DSCN5334.JPG←西側の腰曲輪
 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.733682/140.942906/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


仙台藩ものがたり

仙台藩ものがたり

  • 出版社/メーカー: 河北新報総合サービス
  • 発売日: 2021/04/01
  • メディア: 単行本


nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

大口楯(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN5165.JPG←主郭背後の二重堀切の内堀
(2020年10月訪城)
 大口楯(大口館)は、大西楯(大西館)とも言い、歴史不詳の城である。『鳴子町史』では、南北朝時代に葉山城に居た奥州総大将石塔義房の家臣馬場豊後の居城との伝承を伝えているが、葉山城の項で記載した通り、石塔義房が葉山城を拠点にした伝承自体が疑わしく、従ってその家臣の城という伝承もどこまで信憑性があるのか、疑問符がつく。

 大口楯は、江合川の南岸に尾ヶ岳の北東麓が突き出た比高80m程の丘陵上に築かれている。手のひらの様な主郭から東に向かって、3本指の様な細尾根が突き出た地形となっている。この3本尾根の内、一番南のものが大手らしく、細尾根上を辿る踏み跡がある。尾根の付け根には物見台状の土壇がある。その先は主郭だが、主郭内は薮が多くて形状を掴むのが困難である。ただ、主郭の南辺には土塁が続いている様である。一方、3本尾根の真ん中は舌状曲輪の先に細尾根があり、その先端は断崖で途絶している。3本尾根の北尾根は確認していない。主郭に戻って奥まで行くと、主郭背後に二重堀切が穿たれており、台地基部と分断しているが、堀切はそれほど大きなものではない。二重堀切の後ろ(西側)には広大な平場が広がっている。ほとんど自然地形に近いが、内部に2つの横堀状遺構が見られる。ただ、堀と言うほどの規模はなく、防御構造として考えるのは疑問が残る。近世の猪垣か何かかもしれない。耕作地であった痕跡もあるので、耕作時の改変の可能性もある。この自然地形の一番奥には、高台があり、物見台か何かの様にも見える。また平場外周の一部には土塁も確認できる。平場の背後は自然の谷を利用した堀切状地形となっていて、遺構の様にも見えるが確信が持てない。この主郭の西に広がる平場については、『日本城郭大系』も「大口館との関係の有無もわからない」としている。いずれにしても、大口楯は技巧的な縄張りは見られず、戦国期以前の古い時代の縄張りをそのまま残している様である。
 尚、大口楯へ登るには、東麓の民家裏の空き地から山林内に分け入り、南の尾根に取り付けば良い。
主郭西側の平場にある堀状地形→DSCN5232.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.733297/140.744294/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


宮城県の歴史散歩

宮城県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2007/07/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

湯山城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN5023.JPG←主郭の櫓台
(2020年10月訪城)
 湯山城は、宿ノ沢楯(宿ノ沢館)とも呼ばれ、城主は大崎義隆の家臣湯山修理亮とも湯山駿河とも伝えられるが、これは湯山基綱という武士のことであるらしい。基綱は、1588年の大崎合戦の際に新井田隆景に属して伊達勢と戦ったと言う。

 湯山城は、江合川南岸の標高200m、比高100m程の山上に築かれている。城の中心部がある東に突き出た主尾根とその北東に伸びる支尾根にまたがって城域が広がっている。主尾根と支尾根の間は谷戸状の斜面になっていて、そこにひな壇状に多数の曲輪群が築かれており、その間を縫うように大手道が上まで伸びている。ただこの谷戸状斜面の最下方は、深いV字の谷になってしまっていて、道を辿ることができない。おそらく豪雨などの影響で、往時の地形が変わってしまったものと思われる。また大手道も、わずかな踏み跡が見られるだけなので、山から降る時にはわかったが、登る時にはわからない程度のものである。大手道の最下方の南側には広い平場が広がっており、城主居館などが置かれていた可能性がある。山頂には主郭があり、後部に櫓台を築いており、そこに祠と城址標柱がある。主郭の背後には鋭く穿たれた堀切があり、その後ろの尾根上には物見台がある。主郭の前面下方(東側)には二ノ郭が築かれており、外周には土塁が築かれ、正面に当たる先端部には枡形虎口が築かれている。この桝形虎口は、土塁の形状から推測すると櫓門の構造であったと思われ、まるで近世城郭の様な作りである。その下には三ノ郭が広がっている。従って城の中心の曲輪は、西から東に向かって梯郭式に3つの曲輪が連なっている。三ノ郭の外周には弧を描く様に横堀が廻らされている。横堀の外側には櫓台状の平場も見られる。この横堀は城内通路を兼ねていた様で、谷戸の腰曲輪群に繋がっている。おそらく前述の大手道はこの横堀に繋がっていたのだろう。また三ノ郭の南と南西にも腰曲輪が築かれている。南西の腰曲輪の脇には、主郭背後の堀切が長い竪堀となって落ちてきている。この堀底には井戸の様な溜水のある窪みがある。三ノ郭の東斜面にも何段もの腰曲輪が築かれている。一方、二ノ郭から北東に伸びる支尾根には細尾根上の曲輪が続き、側方に腰曲輪も伴っている。北東尾根には堀切も2つ穿たれている。尾根の裏に当たる西側にも腰曲輪と虎口が見られ、搦手道があったらしい。北東尾根は途中で東に向かってくの字型に折れており、この曲がりの部分に物見台がある。この付近にはわずかに石積み跡が見られる。以上が湯山城の遺構で、かなり規模の大きな拠点的な城であった様である。石積みがあり、また枡形虎口の作りが大崎氏の城っぽくなく伊達氏系山城に多い作りなので、伊達政宗の岩出山城移封後に伊達氏による改修の可能性が考えられるのではないだろうか。

 尚、城へ登り口は東麓の林道脇の取り付きやすいところから上がると、谷状の地形(大手道の最下方)があるので、そこをそのまま進むか、北側の支尾根の小郭群に取り付いて尾根筋を登るかすれば良い。
主郭堀切から落ちる竪堀→DSCN5011.JPG
DSCN4960.JPG←二ノ郭枡形虎口の土塁
横堀と三ノ郭切岸→DSCN5068.JPG
DSCN4918.JPG←北東尾根曲輪群の石積み

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.719855/140.791436/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/08/21
  • メディア: 単行本


nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

山際楯(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN7817.JPG←主郭背後の堀切
 山際楯(山際館)は、奥州管領(後の奥州探題)として奥州に下向した斯波家兼(大崎氏の祖)の家臣湯山宗節が一時居城したと伝えられている。

 山際楯は、JR川渡温泉駅の北東約600mの位置にある、西に向かって突き出た標高194mの山稜上に築かれている。城のある山稜の北から西を小河川が流れ、天然の堀となって機能している要害地にある。城の北側を通る県道から沢筋に降り、渡渉しやすい部分を渡って急斜面をよじ登って、尾根上に達する。そこから尾根を東に向かって登っていけばよい。最初は自然地形の細尾根だが、暫く歩くと曲輪らしいやや広い平場に至る。更に登っていくと堀切が穿たれている。堀切背後に段曲輪が一段あり、その上に主郭が築かれている。主郭は菱形に近い形状の曲輪で、後部に土塁を築いている。主郭背後には堀切が穿たれ、その先は自然地形の尾根となるが、少し進むと堀切と段曲輪が築かれている。その上は自然地形に近いが、物見郭となっている。物見郭の背後に堀切が穿たれている。おそらくここまでが城域だろう。また物見郭の南側下方には2段の腰曲輪が築かれ、前述の堀切から落ちる竪堀は、腰曲輪に繋がっている。この他、登ってきた尾根の西端には、堀切状の鞍部を介して物見らしい峰があるが、あまりに藪が酷く、遠目に眺めただけで踏査できなかった。以上が山際楯の遺構で、有事の際の詰城的な小城砦であった様である。おそらく南麓の平地に城主居館があったのだろう。
主郭後部の土塁→DSCN7860.JPG
DSCN7802.JPG←最初の堀切から落ちる竪堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所: https://maps.gsi.go.jp/#16/38.739691/140.785793/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


室町幕府と東北の国人

室町幕府と東北の国人

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/10/30
  • メディア: 単行本


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

箕ノ口楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN7700.JPG←主郭西側の堀切
 箕ノ口楯(箕ノ口館)は、『日本城郭大系』では巳口城と記載され、この地の豪族狩野氏の歴代の居城である。狩野氏は、真坂楯を本拠とし、一迫川流域一帯を支配した豪族で、その事績は真坂楯の項に記載する。箕ノ口楯は、真坂楯主狩野氏の一族狩野兵庫頭為直が1190年に築いて居城としたと伝えられるが、築城時期は室町時代まで降る可能性も考えられる。城の南東麓にある城国寺には楯主狩野氏の墓があり、墓碑に箕ノ口狩野氏の事績が刻まれているが、室町・戦国期の記述には不明点が多い。いずれにしても、1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で大崎氏が改易となると狩野氏も没落した。

 箕ノ口楯は、標高190m、比高90m程の山上に築かれている。南麓の道路沿いに城址(遺跡)標柱があり、その奥から登れそうだったのでそこから登ったが、斜面直登で少々大変だった。後でよくよく調べてみたら、城国寺の裏に東尾根が伸びてきており、尾根途中には高圧鉄塔も建っているので保守道があるはずであり、城国寺裏から登る方が正解だった様だ。箕ノ口楯は、山頂に南北に長い主郭を置き、外周に腰曲輪を廻らしている。主郭の南東部は一段低い平場となって東側に張り出しており、横矢を意識している。腰曲輪は基本的に1段だが、南東部だけ数段の腰曲輪群が連なっている。その先は城国寺裏に伸びる東尾根で、こちらに大手があったと思われる。城内に入ったところで雨が降ってきたので、東尾根は踏査しなかったが、途中に堀切があるらしい。一方、主郭の西と北西に張り出した尾根には堀切を挟んで出曲輪が築かれている。西の堀切は幅広の浅い箱堀で、腰曲輪兼用の堀切である。北西の堀切は浅い薬研堀である。西と北西の出曲輪は、いずれも先端部が自然地形で切岸がないので、先端の境界がはっきりせず、普請がアバウトである。この内、北西の出曲輪では、曲輪内に塚の様な土壇を築き、南辺には帯曲輪を配置している。また城から北に伸びる尾根に対しても堀切が穿たれている。以上が箕ノ口楯の遺構で、藪払いがされているので遺構は見やすいが、あまり技巧性のある縄張りの城ではなく、見所が少なくて少々残念である。
主郭切岸と腰曲輪→DSCN7719.JPG
DSCN7747.JPG←北尾根を分断する堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所: https://maps.gsi.go.jp/#16/38.769125/140.866152/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/08/21
  • メディア: 単行本


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

秋法楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN7623.JPG←主郭手前の腰曲輪群
 秋法楯(秋法館)は、この地の土豪秋法氏の居城と考えられている。また別説では、城主は橘遠江とも言われる。いずれにしても詳細は不明である。

 秋法楯は、丘陵北西端に張り出した標高125m、比高40m程の小山に築かれている。明確な登道はないが、比高わずか40m程なので、適当に取り付きやすい北斜面を直登した。山上に主郭を置き、北側斜面に3~4段の段曲輪・腰曲輪を築いただけの小城砦である。主郭は藪が酷く、ほとんど形状を追うことができない。主郭背後もド薮で、アプリのスーパー地形で見る限り、背後の尾根を分断する堀切が穿たれていると思われるが、藪が酷くて明確には確認できなかった。大手は北東にあったらしく、この方向に段曲輪が続いている。城址標柱が、西麓の車道脇に立っている。
主郭背後の堀切らしい地形→DSCN7650.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所: https://maps.gsi.go.jp/#16/38.798363/140.905527/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

  • 作者: 松岡 進
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/02/27
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

保呂羽楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN7479.JPG←主郭の天守台らしい土壇
 保呂羽楯(保呂羽館)は、計須見館とも言い、二迫氏が城主であったとも、或いは無冠太夫伯元の居城であったが安部貞任に攻め落とされたとも伝えられる。現地の城址標柱の解説文には、1499年の『薄衣状』(薄衣城主薄衣美濃入道が大崎氏の内紛に巻き込まれて葛西軍の攻撃を受けた時、薄衣氏が伊達尚宗に支援を要請した書状)にかすかにその存在を示していると言う。

 保呂羽楯は、標高200m、比高150mの山上に築かれている。北東に尾根が長く伸びた山なので、まともに登ると結構な時間を要するが、幸いにも東麓の貯水池脇から林道が通っており、この道で城近くまで車で登ることができる。この道は未舗装路だが、きれいに整地された道で、普通の乗用車でも困難なく通ることができる。この道が東向きから西向きに大きく180度向きを変える部分の横に竪堀の様な地形が藪の中にあるが、実際にこれは主郭群背後の堀切から落ちる竪堀で、この竪堀沿いに登っていけば城域に達する。保呂羽楯は一城別郭の城で、西の主郭群と東の二ノ郭群とで構成されている。いずれも頂部に広い曲輪を置き、外周に腰曲輪を廻らしている。二ノ郭では腰曲輪は1段で、南東の尾根に向かって竪堀状の虎口があり、尾の尾根が大手だった様である。また二ノ郭腰曲輪の北側には舌状曲輪が張り出し、その先端から北西の尾根に2段程の段曲輪が置かれている。二ノ郭群と主郭群の間は浅い堀切で区画されている。主郭群は、頂部の曲輪の外周に3段程の腰曲輪を廻らしている。主郭内には天守台か櫓台らしい土壇が築かれ、その脇には祠が祀られている。主郭群の背後(西側)には鞍部の曲輪があり、この曲輪はいくつかの段に分かれ、西側に土塁が築かれている。土塁の外には城域西端の堀切が穿たれている。以上が保呂羽楯の遺構で、城内には西尾根から主郭に至る作業林道が通るが、破壊は最小限に押さえられている。また城内は綺麗に藪払いされており、遺構が見やすい。無名にも関わらず非常にきれいな城跡で、おすすめである。
 尚、城址標柱は、城からかなり離れた北東麓の車道脇に立っている。
二ノ郭切岸と腰曲輪→DSCN7517.JPG
DSCN7551.JPG←二ノ郭群北の舌状曲輪
城域西端の堀切・土塁→DSCN7451.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所: https://maps.gsi.go.jp/#16/38.818930/140.914346/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 日本の城

ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 日本の城

  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2018/06/19
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

臥牛楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN7316.JPG←三重堀切の内堀
 臥牛楯(臥牛館)は、大崎氏の家臣石川蔵人の城と伝えられている。それ以外の歴史は不明であるが、その普請の規模と構造から推測して、戦国時代の城であることは疑いないだろう。

 臥牛楯は、八幡楯南東の標高90mの峰に、八幡楯とすぐ隣接して築かれている。屯岡八幡神社の南の参道が、南の尾根上に達したところに鳥居が立っているが、そこから参道を東にそれるとすぐに尾根を断ち切る大きな三重堀切が現れる。この堀切は面白い構造で、尾根から南側は三重堀切だが、尾根の北側は中堀がなくなって二重堀切となっている。また内堀は深い薬研堀で、完全に八幡楯側と分断している。この堀切の東側に二ノ郭があり、更に堀切を介して南東に主郭が置かれている。主郭の周囲には腰曲輪が築かれている。臥牛楯は横堀・竪堀を多用した城で、主郭~二ノ郭間の堀切から北に落とした竪堀には、主郭の北面から東面にかけて穿たれた横堀と二ノ郭北側下方の横堀が段違いに接続している。また主郭の南東部では、外周の横堀から腰曲輪を分断する様に東に竪堀を落とし、その左右に段違いに横堀を繋げている。この段違いの横堀は、それぞれ主郭周囲の腰曲輪の下方に構築されている。主郭の側の腰曲輪では、南西部の土塁の脇に竪堀が落ち、また主郭下方を南西に降る尾根にも、尾根と平行に竪堀が落ちている。藪が酷いのでわかりにくいが、どうも尾根の両側に竪堀が落ちている様である。
 臥牛楯は、主郭の北東から東面にかけて二段の横堀を配置して防御を固めており、この方面からの攻撃を強く意識している。また横堀は竪堀と接続されて堀のネットワークを形成し、戦国後期の巧妙な縄張りを見せている。

 尚、隣接する八幡楯と比較すると、堀などの構築の規模と構造が全く異なり、八幡楯が戦国時代以前の古い城砦であるのに対して、臥牛楯が設計の新しい城であることがよく分かる。この様に築城時代の違いが如実にわかる城が隣接して存在する例は、極めて珍しい。
 ちなみに、山の形などを形容した名称「臥牛」が、城の別称ではなくそのまま正規の城名になっている珍しい例でもある。
竪堀に繋がる二ノ郭横堀、腰曲輪→DSCN7328.JPG
DSCN7368.JPG←南東の竪堀と横堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所: https://maps.gsi.go.jp/#16/38.811924/140.996164/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


歴史家の城歩き

歴史家の城歩き

  • 出版社/メーカー: 高志書院
  • 発売日: 2018/05/22
  • メディア: 単行本


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

八幡楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN7220.JPG←主郭北側外周の横堀
 八幡(やわた)楯(八幡館)は、屯岡(営岡)陣営地とも言い、前九年の役の際に源頼義・義家父子が陣営を置いた場所と伝えられている。古くは延暦年間(782~806年)に坂上田村麻呂が、蝦夷征討の際に軍団を駐屯させた所とも言われる。前九年の役では、源頼義は奥六郡を支配した俘囚の長安倍貞任を討伐しようとしたが、貞任の強豪な大軍の前に苦戦を強いられ、劣勢を挽回するために出羽の豪族清原光頼を味方に付けようと画策した。そして1062年、遂に光頼は頼義の味方に付くことに決し、弟の清原武則を総大将とする大軍を派遣した。この時、頼義が陣営を置き、武則の援軍を集結させたのがこの屯岡であったと伝えられる。
 一方でこの付近一帯は、南北朝時代に行われた合戦の舞台ともなった。『鬼柳文書』等の古文書によれば、1342年に北畠顕信率いる南朝勢は、「三迫・つくもはし(津久毛橋)・まひたの新山林、二迫のやハた(八幡)・とや(鳥谷)」の5ヶ所に「たて」(楯、城郭のこと)を築いて陣を張った。対する北朝方の奥州総大将石塔義房は、向城として鎌糠城(大原木楯か?)を築いたと言う。この地で対峙した両軍は、三迫合戦と呼ばれる大会戦を行い、北朝方が南朝勢を討ち破り、敗れた北畠顕信は出羽方面に逃れた。この三迫合戦で南朝方が築いた「二迫のやハた」とは、おそらくこの八幡楯のことと推測される。

 八幡楯は、標高100m、比高60~70m程の丘陵上に築かれている。現在山頂の主郭には屯岡八幡神社が建っており、南麓から参道が整備されているが、城の遺構を見るなら西尾根の登道から登ったほうが良い。栗駒中学校の東側に尾根上に登る階段があるので、そこを登って尾根上の小道を東に進めば、すぐに右手に円弧状の堀切が現れる。かなり広い範囲を城域としており、この最初の堀切は主郭から300m近く西に離れている。堀切の南側は竪堀となって落ち、堀切の前面には堡塁・土塁が構築され、前述の小道の左手には腰曲輪らしい平場もある。その先はしばらく自然地形の尾根が続くが、1本目の堀切から200m程進むと、土塁を伴った虎口が現れ、その前面両翼には堀切が穿たれている。ここから東側が城の中心部で、平らな幅広の尾根の両側には何段かの帯曲輪群が確認できる。更に東に進むと、周囲より1段高くなった主郭に達する。神社が鎮座する主郭は、長円形に近い形状の曲輪で、北西部に低土塁が築かれている。主郭の北半の下部には横堀が延々と穿たれている。その下にも何段かの帯曲輪が築かれ、やや北に降った山腹に2本目の横堀が穿たれている。この横堀は、瓢箪型に緩やかな弧を描きながら、延々と主郭東の尾根まで伸びている。この長い横堀の下方にも何段も帯曲輪があり、とても全部を確認することはできなかった。また横堀の東端部は東尾根の段曲輪群に至っている。但し東尾根の曲輪軍は藪が多くて、形状をあまりはっきりと捉えることができない。主郭の南側は参道整備などで改変を受けている様だが、帯曲輪らしい平場が残っている。主郭南の尾根はほとんど自然地形である。
 尚、南尾根の先から南東に伸びる尾根上には、八幡楯にすぐ隣接する形で臥牛楯が築かれている。両者を比較すると、堀などの構築の規模と構造が全く異なり、八幡楯が戦国時代以前の古い城砦であることがよく分かる。この様に築城時代の違いが如実にわかる城が隣接して存在する例は、極めて珍しい。
西尾根の1本目の堀切→DSCN7163.JPG
DSCN7183.JPG←2本目の堀切と虎口
山腹の横堀→DSCN7240.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所: https://maps.gsi.go.jp/#16/38.813780/140.994684/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


前九年・後三年合戦と兵の時代 (東北の古代史)

前九年・後三年合戦と兵の時代 (東北の古代史)

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2016/03/29
  • メディア: 単行本


nice!(5)  コメント(2) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

金成楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN7099.JPG←西館の大土塁
 金成楯(金成館)は、金田城とも言い、金売吉次(橘次)伝説の残る城である。伝承では前九年の役の最中の1056年に、源頼義・義家父子が安倍氏討伐の陣場として金田城を築き、その鎮護のために金田八幡神社を勧請したのが始まりとされる。戦役が終わり、頼義父子が都に戻る際に、清原成隆を金田八幡神社の神官として残るように命じた。その後奥州藤原氏の庇護を受け、平安後期に畑村に住む炭焼藤太夫婦の子、橘次・橘内・橘六の3兄弟が藤原秀衡の命により、八幡社の近くに東館・南館・西館を構えて居住した。3人共黄金を京都で売りさばき富豪となった様で、特に長兄の金売橘次は有名で、1174年、鞍馬寺で牛若丸(源義経)と出会い、平泉の秀衡の所へ案内する途中、自分の館・東館に義経を泊めており、義経は金田八幡に詣でて平家追討を祈願したと言う。しかし金売吉次自体の実在が疑わしく、これらの話はもとより伝説に過ぎない。一方、戦国期には、葛西氏の家臣金成内膳が居住したと言う。

 金成楯は、標高50m、比高30m程の西に突き出た丘陵一帯に築かれている。金田八幡神社の南にあるのが東館で、南北に長い尾根に築かれ、最も城域が広く、中心的な城である。東館から西に伸びた尾根の先にあるのが南館、更にその北西にあるのが西館と思われる。登道は東館の南麓と北麓にあり、南麓の登り口には解説板が立っている。これを登っていくと、東館に至る。頂部の主郭と思われる平場はガサ薮が酷いが、削平された平場になっており、北東には二ノ郭らしい平場も確認できる。但し、主郭に板碑や墓石があるので、改変を受けているかもしれない。北に伸びる尾根の先端には金田八幡神社があり、主郭の西側には宮司の元居宅らしい民家があるが、現在は無住の様である。民家の平場も東館の一郭であったかもしれない。東館で一番明確なのは、南尾根に穿たれた堀切で、西側に長い竪堀となって落ち、前述の登り道の脇に落ちてきている。
 東館から西に尾根を進むと、藪の中にいくつかの平場が見られ、その先に堀切が穿たれている。南館との間を画する堀切と思われる。南館には頂部に主郭と思われる切岸で囲まれた高台があるが、藪がひどくてほとんど形状がわからない。
 南館から北西にガサ薮を進んでいくと、突然視界が開け、高さ5m程の高台がそびえている。これが西館で、南北に長い主郭を持ち、後部には高土塁を築いている。主郭の東西には腰曲輪が築かれているが、特に斜度の緩い西側は広い曲輪群が何段か築かれている。主郭の南西端からこの腰曲輪に向かって、土塁状の坂土橋が伸びている。
 以上が、金成楯の遺構で、一番綺麗に残るのは西館で、ここだけ藪払いされた綺麗な山林に覆われている。他の館はがさ藪が酷く、辟易してしまう。
東館の南尾根の堀切→DSCN7016.JPG
DSCN7075.JPG←東館と南館を画する堀切
西館の腰曲輪群→DSCN7119.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.814666/141.082896/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


義経伝説をゆく―京から奥州へ

義経伝説をゆく―京から奥州へ

  • 出版社/メーカー: 京都新聞出版センター
  • 発売日: 2020/09/14
  • メディア: 単行本


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

雨生沢城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN6987.JPG←神社背後の堀切の名残
 雨生沢城は、雨生沢将監の居城と伝えられる。後には岡左衛門が居住したとされる。

 雨生沢城は、比高わずか5m程の、舘神社のある低台地に築かれている。遺構はわずかで、神社社殿背後に堀切1本の名残が見られるだけである。元々は三重堀切だったとされるが、神社のある主郭の裏は宅地になっているので、湮滅したのであろう。かなり残念な状況である。往時は低湿地帯に囲まれた浮島のような城だったのだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.633467/140.939409/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 日本の城

ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 日本の城

  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2018/06/19
  • メディア: 単行本


タグ:中世平城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

柳沢大楯(宮城県加美町) [古城めぐり(宮城)]

DSCN6887.JPG←主郭背後の大堀切
 柳沢大楯(柳沢大館)は、大楯城とも呼ばれ、大崎氏の家臣柳沢和泉守の居城と伝えられる。1591年、伊達政宗による葛西大崎一揆討伐の際に落城したと言う。尚、城主については、『日本城郭大系』では笠原七郎と言い、『陶芸の里 みやざきの文化財』では柳沢紀伊・同近江・同七郎(後伊豆)・同備前の居城と伝える。柳沢氏は笠原氏の一族であった様である。

 柳沢大楯は、宮崎城の東方約1.4kmの標高160m、比高80mの山上に築かれている。広い主郭を持つ城で、その規模は加美郡内で第一位とされる。南東麓の民家に通じる車道脇に城址標柱があり、その先に進み、一番奥の民家の裏に山へ入る山道が付いている。この道を辿って北へと登っていけば、やがて3~4段程の小郭群が現れる。従ってこの山道が大手道であることがわかる。但しこの小道は草木が多く、踏み跡がわずかなので、夏場は見出すことが困難であろう。小郭群を横目に大手道を登っていくと、左手に竪堀が見え、右手には上の段に登っていく桝形虎口が築かれている。桝形虎口の奥には櫓台が築かれ、城道はこの左手(西側)の腰曲輪へ迂回して奥に通じている。櫓台の背後には主郭に通じる土橋が架けられている。ちなみに櫓台の東側にも腰曲輪があるが、土橋に通じる部分に片堀切が穿たれ、動線を制約している。土橋の先は広大な主郭で、東側は急崖で囲まれているが、西側には腰曲輪が延々と築かれている。主郭の北西部には大土塁が築かれ、主郭の背後には深さ10m以上の大堀切が穿たれている。この大堀切は箱堀で、南西部は屈曲しながら西の谷に向かって深く落ちている。前述の主郭西の腰曲輪から深い横堀状の切通し虎口が、堀切に繋がっている。主郭にはこの上にだけ大土塁があるので、ここが防御の要の一つであったと思われる。大堀切の北西にも太鼓森と呼ばれる広大な平地が広がっている。この太鼓森の掘切沿いにだけ、桝形虎口と横堀・土塁の塹壕線が構築されている。横堀の中央部には土塁に通じる土橋も架かっている。以上が柳沢大楯の遺構の概要で、宮崎城がコンパクトに纏められた殺気立った実戦の城だったのに対して、広大な主郭は居住機能を優先させた城だった様に思われる。

 私見であるが、どうも太鼓森の広大な平場は、宮崎城に立て籠もった一揆勢の将兵の親類縁者の避難場所だったのではないだろうか。太鼓森は広大なのでちょっとしか見ていないが、城郭遺構があるのは主郭背後の大堀切沿いだけで、それ以外はただの平地が広がっているだけなのである。太鼓森入口に築かれた桝形虎口や塹壕線は、避難民たちを守る最後の防衛線で、柳沢大楯の主郭を蹂躙して迫り来る伊達軍の猛兵をここで必死に食い止め、避難民を逃がす時間を稼ぐため最後の抵抗をしていた様に思う。そう思うと、伊達勢に殲滅された悲劇の城であり、もの悲しい気持ちになった。
主郭に通じる土橋→DSCN6857.JPG
DSCN6879.JPG←主郭北西の大土塁
太鼓森の土塁・横堀の塹壕線→DSCN6933.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.621162/140.776674/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


伊達氏と戦国争乱 (東北の中世史)

伊達氏と戦国争乱 (東北の中世史)

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/12/21
  • メディア: 単行本


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

谷地森楯(宮城県加美町) [古城めぐり(宮城)]

DSCN6791.JPG←主郭~二ノ郭間の堀切
 谷地森楯(谷地森館)は、大崎氏の家臣笠原主膳(谷地森主膳)の居城である。笠原主膳は、柳沢文二郎とも呼ばれるらしい。主膳は葛西大崎一揆の激戦の一つ、宮崎城の合戦後、羽州山形に逃れ、その末裔は伊達氏に仕えたと伝えられる。

 谷地森楯は、鳥嶋楯の北西に隣接した丘陵上に築かれている。南の民家脇に小道があり、これを進めば城域に至る。この小道は、北の突き当りで東に折れて登っていくが、その先は尾根を貫通する切通しとなっている。この切通しは堀切の跡と思われる。この堀切から東が三ノ郭、西が二ノ郭と思われる。三ノ郭は先端が削られているので、往時の規模はよくわからないが、先端の物見台的な小郭だったと考えられる。二ノ郭は細尾根上の曲輪で、先端は前述の通り切通しとなった深い堀切で分断され、西の主郭との間も堀切で区画されている。この堀切は、主郭南北の腰曲輪を連絡する城内通路として機能していたことがわかる。また堀切の北端には枡形空間があり、北側からの登城道があったことが想定される。主郭は切岸で囲まれた長方形に近い形状の曲輪で、南北に腰曲輪を伴い、特に北の腰曲輪は広やかである。一方、南の腰曲輪は幅が狭いが、何段かの平場に分かれ、竪堀や竪堀状の虎口が構築されている。以上が谷地森楯の縄張りで、小規模な城砦ではあるが普請はしっかりしている。

 それにしても、この地域の城郭密度の高さは半端ではない。そもそも宮城県には城郭密度の高い地区が多いが、この地域も宮崎城を中心に笠原一族の城が林立しており、まるで一家に一城、持ち城があった感じである。もしかしたらこの地でのしきたりとして、庶子が分家して一家を立てると、近隣の親類縁者が総出で家を建てるように城造りをしていたのではないだろうか?そのようにでも考えなければ、 あまりの城の多さに説明がつかない様に思う。
 尚、城の西麓の民家の入口脇に城址標柱がある。
堀切北端の枡形空間→DSCN6792.JPG
DSCN6800.JPG←北側腰曲輪と主郭切岸

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.604815/140.796651/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/08/21
  • メディア: 単行本


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

鳥嶋楯(宮城県加美町) [古城めぐり(宮城)]

DSCN6693.JPG←南郭~中2郭間の堀切
 鳥嶋楯(鳥嶋館)は、大崎氏の家臣北郷右馬允の居城と伝えられている。北郷氏は、一栗城主一栗弾正の一族であったと言う。右馬允は、1590年の葛西大崎一揆の際、佐沼城に入って大将の一人として伊達軍に抗戦し、討死したとも、桃生郡深谷に於いて惨殺された(須江山の惨劇)とも伝えられる。

 鳥嶋楯は、田川北方に連なる丘陵地の一角にある。標高80m、比高25m程で、城全体の形状は3本の指が前に突き出た鳥の足のような形状をしている。主郭と思われるのは鳥の足の付け根に当たる北西の曲輪で、場内最大の面積を持ち、ほぼ方形をしている。曲輪内部は削平されているが、周囲に土塁はなく、背後の切岸も甘く、随分と無防備な感じである。この主郭から東・南東・南の三方に、3本指に当たる曲輪が突き出ている。仮にこれらを東郭・中2郭・南郭と呼称する。主郭との間はいずれも堀切で分断されている。東郭では二重堀切となっており、また東郭の北側には横堀が穿たれている。中2郭と南郭は、主郭との間に小さな半円形の曲輪を置いている。ここではこれを中1郭と称する。中1郭は背後に主郭との間を分断する堀切を穿ち、前面の中2郭と南郭との間にもそれぞれ堀切を穿っている。中2郭と南郭の付け根部分の間も堀切で分断されている。またこれら3本指の曲輪の間には、ちょうど鳥の足の水かきのようになっており、ここも暗部の曲輪群となっている。この他、中1郭の西斜面にも腰曲輪群が築かれている。鳥嶋楯は、主郭と東郭以外は藪が多くて踏査が大変であるが、全体に堀切の規模が大きく、かなりしっかりと普請された城であることがよく分かる。尚、城の北西麓の車道脇に城址標柱が立っている。
主郭~東郭間の二重堀切→DSCN6612.JPG
DSCN6622.JPG←東郭北側の横堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.601210/140.798990/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


隠れた名城 日本の山城を歩く

隠れた名城 日本の山城を歩く

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2020/07/02
  • メディア: 単行本


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

弥八ヶ館(宮城県加美町) [古城めぐり(宮城)]

DSCN6508.JPG←主郭南東の堀切
 弥八ヶ館は、大崎義隆の家臣渋谷新左衛門の居館と言われている。現地標柱には、「葛西氏時代に渋谷新左衛門の居館、大崎氏時代には侍大将木舟与惣右衛門の居館」と書かれているが、この地が葛西氏に支配されたことはないはずで、この内容には疑問がある。

 弥八ヶ館は、田川西岸の低台地の辺縁部に築かれている。田んぼの北側を通る未舗装路のすぐ脇の小高い台地にあり、2つ乃至3つの曲輪で構成されている。北西にあるのが主郭と思われ、西辺部に円弧状の堀切・土塁が築かれている。堀切南端の東側には虎口が確認できる。主郭の南東には土塁の先に堀切が穿たれている。その先に小さな笹曲輪があり、南西に腰曲輪が築かれている。笹曲輪の先も堀切が穿たれている。この堀切の底にはU字溝が敷設されており、改変があるが、堀切自体は往時の遺構と推測される。その南東には、縦長の台地が続いているが、城域かどうか判然としない。ほとんど自然地形に近いが、土塁状の地形もあり、外郭であった可能性もある。この台地の先端部は小川で区切られている。以上が弥八ヶ館の遺構の概要で、小規模な城館である。尚、前述の標柱は、館跡から北西に350m程離れた車道脇に立っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.593998/140.782832/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

  • 作者: 松岡 進
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/02/27
  • メディア: 単行本


nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

駒場小屋楯(宮城県大衡村) [古城めぐり(宮城)]

DSCN6403.JPG←主郭前面の二重堀切の内堀
 駒場小屋楯(駒場小屋館)は、鶴巣楯主黒川氏に属する児玉氏の居城と伝えられている。伝承では、児玉右近・同惣九郎と言う武士が2代に渡って天正年間(1573~92年)まで居住したとされる。児玉氏の詳細は不明であるが、元々関東武士の流れを汲み、隣接する大森地区の中楯城も支配していたと伝えられ、この地域一帯を領していた小豪族と推測されている。城は東北自動車道建設のため、昭和48年に遺構の一部が発掘調査され、建物跡や門跡などが確認されている。

 駒場小屋楯は、標高70m、比高30~40m程の丘陵上に築かれている。城の南東部は東北自動車道建設のため消滅しているが、全体の3/4程の遺構が残存している。この城へは、北西の谷筋から登るのがわかりやすい(数年前に北尾根からアプローチしたが、薮に阻まれ失敗した)。途中まで小道があり、この小道の入口(民家に通じる道との分岐部)には「駒場館跡」と書かれた解説板が立っている。小道は途中で消失しているが、奥に進むと小さな沢沿いに出て、それを越えて南に登ればすぐ城域に至る。駒場小屋楯は、長方形の主郭を中心とする主郭群と、その南東の小丘に築かれた副郭群から構成されている。主郭群は、主郭の南北に幅の広い二ノ郭(北二ノ郭・南二ノ郭)を築き、主郭はその上に高さ7~8m程の大切岸でそびえている。主郭の前面には大型の二重堀切が穿たれ、その前には半月形の西郭があり、西郭の全面にも円弧状に横堀が穿たれている。西郭の南端には桝形虎口が構築され、二重堀切の脇を抜けて南二ノ郭に通じている。南二ノ郭の下方にも腰曲輪が築かれている。主郭群の東端部は高速道建設で消滅している。一方、完全消滅していると思っていた副郭群は、実際には西側1/3程度が残っている。副郭は物見台的な曲輪であるが、発掘調査で建物跡が検出されている。副郭群南の尾根に穿たれた二重堀切も、一部が残っている。副郭群の西側下方には円弧状の横堀があるらしいが、草木が茂っていてよくわからなかった。以上が遺構の概要で、主郭の切岸は大きく、二重堀切の規模も大きく、中々見応えがある。

 一部が高速道建設で破壊されたとはいえ、これほど遺構がよく残り、解説板まで立っているのに、ネット上では発掘調査報告書以外の情報が皆無であるのは不思議でならない。東北地方には、まだまだ知られていない良好な中世城郭が多い。
主郭切岸と南二ノ郭→DSCN6411.JPG
DSCN6447.JPG←副郭群の残存状況

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.478420/140.922779/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/08/21
  • メディア: 単行本


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

千石城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN2486.JPG←堀切と二ノ丸
(2020年2月訪城)
 千石城は、松山城とも言い、伊達氏の家臣遠藤氏の居城で、伊達領最北端を守る要衝であった。伝承では、遠藤氏の祖遠藤盛遠(文覚上人)が築いたとされるが、定かではない。室町時代の1401年に、遠藤盛継が鎌倉公方足利満兼より志田・玉造・加美三郡の奉行に任じられて陸奥に下向し、千石城を居城とした。以後、200年間7代に渡る遠藤氏の居城となった。1536年、大崎氏の内乱に際して、15代光定は伊達稙宗に従って古川城攻撃に参陣した。1588年、大崎氏家中の内紛を機に伊達政宗による武力介入を許し、大崎合戦が生起した。その際、千石城は留守政景・泉田重光を大将とする伊達勢が集結する前線基地となった。このことから北の鳴瀬川を挟んで大崎領と対峙する、伊達家臣団の最北限として遠藤氏が位置付けられていたことがわかる。1590年の葛西大崎一揆平定の際も、伊達政宗は千石城に入城している。一揆平定後、政宗が岩出山城に移封となると、遠藤出雲守高康は領地替えとなって登米郡石森館に移封となった。その後、石川昭光が1598年まで在城し、その後は古内重直が1603年まで在城した。1603年からは茂庭良元が松山の領主となり、千石城三ノ丸に居を構えた。1631年、千石城三ノ丸が手狭であったため、新たに下屋敷として上野館を築いた。良元は1651年に隠居すると、上野館に移り住んだ。その後1657年、良元の子定元は作事の完成を待って正式に居館として上野館に移住し、千石城三ノ丸には留守居として家臣1名を置くだけとなった。

 千石城は、標高76m、比高60m程の丘陵上に築かれている。城跡は現在御本丸公園として整備されており、主要な曲輪だけでなく、周りの段曲輪・腰曲輪に至るまで、かなり広範囲に整備されているので、訪城は容易である。北から順に三ノ丸、繋ぎの曲輪、二ノ丸、本丸が配置された連郭式の縄張りである。三ノ丸は公園化で改変が進んでいるが、周囲に低土塁が残り、南西部に大型の櫓台が残っている。三ノ丸の北側には腰曲輪群が何段も築かれ、大手道の車道沿い両側にも段々の平場が見られる。また三ノ丸北東の尾根にも舌状曲輪群が置かれている。ここは花舘の地名が残っているが、花=端の意味で、城域先端部の曲輪群である。繋ぎの曲輪の奥には堀切を挟んで二ノ丸があり、更に堀切を挟んで本丸がある。本丸は中央部がややくびれたつづみ型の曲輪である。本丸背後にも大切岸の下に舌状曲輪が2段あり、その先は大堀切で分断されている。この大堀切は、房総南部に多い垂直絶壁型の堀切で、崩れにくい地質らしい。そういえば、各曲輪の切岸も鋭く切り立った垂直に近い切岸である。またこの大堀切まで西麓から登道があり、弁慶坂と呼ばれている。この登道周囲にも多くの腰曲輪群が築かれている。この他、繋ぎの曲輪・二ノ丸・本丸の周囲にも帯曲輪、腰曲輪が築かれている。本丸の南東には切岸直下に小堀切を穿ち、その下方の尾根にも段曲輪群が築かれている。千石城は、近世に拡張整備された部分もあると思うが、戦国期には伊達領最北端を守る要衝だっただけあって、巨大な拠点城郭である。
大堀切→DSCN2537.JPG
DSCN2577.JPG←主郭切岸と南東の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.505410/141.053091/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


戦国大名伊達氏 (中世関東武士の研究25)

戦国大名伊達氏 (中世関東武士の研究25)

  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2019/03/30
  • メディア: 大型本


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

百々城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN2351.JPG←三ノ丸の遠望
(2020年2月訪城)
 百々(どど)城は、鶴城とも言い、奥州探題大崎氏の庶流百々氏の居城である。百々氏は、大崎氏5代満持の弟高詮を祖とする一族で、1536年の大崎氏天文の内訌の際には、大崎義直方として百々弾正少弼直孝の名が見える。天正年間(1573~92年)には大崎義隆重臣の百々氏5代左京亮隆元が城主であった。1588年の大崎合戦では、隆元は師山城に籠もって伊達軍と争ったと言う。1590年の奥州仕置により大崎氏が改易となり、葛西大崎一揆を経てこの地が伊達領となると、1591年、亘理元宗が亘理城から百々城に移封となり、1593年には元宗は更に涌谷城に移り、亘理氏の家臣長谷修理亮景重が百々城主となった。寛文年間(1661~73年)に長谷氏も涌谷城下に移ると、百々城は廃城となった。

 百々城は、比高30mの丘陵南端に築かれている。南に開いたU字状になった尾根を利用して築かれた城で、間の谷間には城主・家臣団の居館群や馬場があり、谷の中心に大手道が通っていた。現在はあちこち山が削られて地形がやや変形している様だが、概ねの遺構は残っている。城の中心はU字尾根の西側尾根にあり、北から順に本丸・二ノ丸・三ノ丸と並んでいる。妙見社の脇から登った先が三ノ郭の上段で、畑になっている。その南には1~2m程の段差で区切られた下段の平場があるが激薮で進入困難である。一方、三ノ郭の北にはニノ郭があって、畑と竹林になっている。その奥に主郭があり、やはり竹林になっている。少々薮っぽいが踏査は可能である。以前は畑であったらしいが、主郭内にはコンクリートの深い大穴がある。『日本城郭大系』によれば、太平洋戦争中に製錬所が建てられていたらしいので、その跡なのだろう。主郭の北端はやや高くなっており、櫓台があったかもしれない。その北には細尾根が続き、尾根の先端に物見台がある。その先は採石で尾根が消滅している。東側の尾根は、民家の裏なので踏査できなかったが、遠目に平場があって畑になっているのが見えた。
 百々城は、堀切・横堀がなく、小規模な段差・切岸だけで区画された曲輪群が連ねられている。虎口構造などにも取り立てて言うべきことがなく、江戸前期まで使われた城にしては縄張り面での特色が少ない。居館機能を優先した城だった様である。
 尚、城内に妙見神社があるのが不思議である。百々氏は源氏だから八幡神社ならわかるが、妙見社といえば下総の名族千葉氏に所縁が深い社である。奥州千葉氏の一族もこの地に関係したことがあったのだろうか?
本丸後部の土壇→DSCN2380.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.583969/141.069077/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 日本の城

ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 日本の城

  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2018/06/19
  • メディア: 単行本


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

如来山城(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN2256.JPG←主郭周囲の三重横堀の内堀
(2020年2月訪城)
 如来山城は、如来山館とも言い、城主は葛西氏の家臣葛西典益(伝益?)入道であったとも、或いは永正年間(1504~21年)に七尾城の山内首藤氏と同盟を結んだ牛田典膳とも伝えられる。永正合戦では、葛西氏は山内首藤氏を撃ち破って没落させているので、元々牛田典膳の居城であったものを、葛西氏による山内首藤氏攻略後に、葛西氏が入城した可能性も考えられる。1511~90年まで、葛西氏一族の城であったと言う。

 如来山城は、旧北上川東岸の比高わずか10m程の台地上に築かれている。台地の南を通る県道61号線と堤防の交差部付近に城址解説板があり、そこから堤防上の小道を北へ向かうと、五十鈴神社と大日堂があり、その東側がもう城域である。この辺りは主郭の西側に当たり、久しぶりの倒竹地獄である。しかし倒竹が酷いのは主郭西側だけで、少し東に向かえば普通程度の薮になる。主郭は横長の台形状の形状で、台地の南端に位置している。主郭の外周の三方(東・北・西)は堀が廻らされている。この堀は、東と北では三重横堀となっており、しかも丘の上であるにも関わらず湧水があるらしく、内堀は半分以上が水堀となっている。中間土塁は、南東部では幅広に広がって、先端が物見台となっている。一方西側では、外堀はそのまま掘り切って終わりとなっており、中堀は腰曲輪に変化している。主郭内は耕作放棄地の薮となっている。おそらく主郭の北に広がる丘陵にも外郭が広がっていたと思われるが、現在は宅地化されているので、遺構はよくわからない。
 如来山城は、単純な構造の城であるが、三重横堀は見応えがある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.588967/141.270694/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


一度は行くべき 行きにくい城 (双葉社スーパームック)

一度は行くべき 行きにくい城 (双葉社スーパームック)

  • 作者: 双葉社
  • 出版社/メーカー: 双葉社
  • 発売日: 2019/03/23
  • メディア: ムック


タグ:中世平山城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

永井城 その2(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN2218.JPG←東郭外周の二重横堀
(2020年2月訪城)
 2年前に永井城を訪れたが、西側からアプローチした結果、途中で激薮に阻まれ、城の中心部まで到達することができなかった。その後の調査で、八雲神社の境内も城域の東端に当たり、神社境内は整備されているようなので、再訪した。

 八雲神社への参道は、南の尾根にほぼ一直線に伸びており、国土地理院地形図に描かれている通りである。参道途中の東側に、耕作放棄地になった3段の平場があり、これも曲輪であったと思われる。『ふるさとの文化財』によれば永井城の中心部は、西から順に三ノ郭・二ノ郭・主郭・第一控丸・第二控丸(八雲神社)の5郭が並んで構成されていたとされているが、実際の状況を見ると、西から順に西郭・三ノ郭・主郭・二ノ郭・東郭としておきたい。八雲神社境内の曲輪が東郭で、その外周には二重横堀の防御線が構築されている。この二重横堀は、参道のすぐ右手まで伸びている。東郭の西側には、堀切を挟んでニノ郭がある。ニノ郭は耕作放棄地で、雑草が背丈まで生い茂り、進入は困難であるが、ニノ郭東端には堀切沿いに土塁が築かれているのがわかる。二ノ郭の西が主郭で、段差だけで区切られている。主郭も耕作放棄地であるが、北辺に土塁があるのが確認できる。主郭・二ノ郭の北側には腰曲輪が築かれ、主郭の北西部には浅い堀切を挟んで北に張り出した半円形の曲輪が置かれている。この曲輪は前述の腰曲輪よりも一段高くなっている。主郭前面にも浅い堀切が穿たれ、その西側が三ノ郭である。三ノ郭内も段差で区画されて2段に分かれている。この他、主郭・二ノ郭の南側にも段々に腰曲輪群が築かれているが、薮だらけで踏査は困難である。
 以上が再訪した結果、確認できた永井城の主要部で、八雲神社から周った方が遺構が良好に確認できるので、こちらからの訪城をお勧めする。
主郭北側の切岸→DSCN2166.JPG
DSCN2196.JPG←主郭先端の堀切


大きな縄張図で歩く!楽しむ! 完全詳解 山城ガイド (学研ムック)

大きな縄張図で歩く!楽しむ! 完全詳解 山城ガイド (学研ムック)

  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2018/01/15
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

北境館(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN2103.JPG←段々になった腰曲輪群
(2020年2月訪城)
 北境館は、賤ヶ岳七本槍の一人、脇坂安治の弟脇坂外記安景の居館と言われる。元々は七尾城主山内首藤氏の南の防衛拠点であったとされ、永正年間(1504~21年)に山内首藤氏と葛西氏が争った際には、葛西勢は北境館の下を通る街道を避け、海上を迂回して本吉郡に上陸し、大森城を囲んだと伝えられる。1591年、葛西氏改易後にこの地は伊達領となった。1613年、脇坂外記安景は伊達家に召し抱えられ、北境館を居館としたと言う。しかし2年後の1615年、伊達政宗に従って大坂夏の陣に出陣し、道明寺口表で奮戦し、敵騎2騎を討ち取ったが、自身も討死した。安景の遺骸は、この館へ運ばれて埋葬されたと伝えられる。

 北境館は、旧北上川の河道にほど近い、標高30m程の丘陵上に築かれている。丘の東側に小道が通っており、その脇から館域に入ることができる。館内はほとんどが未整備の薮で覆われており、遺構もささやかなので遺構確認が少々難しい。東西に二つの郭を配した輪郭式の城館とされる様だが、丘の上には主郭しかない。主郭の周囲には切岸が築かれ、腰曲輪もはっきりしているが、肝心の主郭の削平が甘く、自然地形に近い。この主郭の南東部に脇坂一族の墓地があり、その一角に安景の墓碑が立っている。この他、丘の北東部に土塁で囲まれた低い方形区画が複数あるので、ここに居館があり、丘上は砦であったのではないかと思う(後世の改変の可能性もある)。いずれにしても、明瞭な遺構は少なく、役割がはっきりしない城館である。尚、以前は北麓に城址標柱があったらしいが、現在は無くなっている。
脇坂外記安景の墓碑→DSCN2057.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.474103/141.308888/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/08/21
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

孫沢城(宮城県加美町) [古城めぐり(宮城)]

DSCN1984.JPG←主郭外周の空堀
(2020年2月訪城)
 孫沢城は、大崎義隆の家臣笠原九郎左衛門の居城と伝えられる。宮崎城主笠原氏の一族で、1590年に生起した葛西大崎一揆の際、九郎左衛門も宮崎城に立て籠もり、討死したと言う。

 孫沢城は、標高65m、比高25m程の丘陵南東端に築かれている。小さな方形の主郭を置き、西と北には台地と分断する空堀を穿ち、主郭の南斜面には2~3段の腰曲輪を築いている。腰曲輪は全て民家の敷地であり、主郭も民家の真裏の民有地なので、進入できない。そのため、東斜面から取り付いて、主郭外周の空堀だけ確認するに留めた。この空堀は、東斜面まで降っている。『日本城郭大系』には、主郭の西側に「西館」があったと書かれているが、自然地形でよくわからなかった。尚、数年前まで南の民家に城址標柱があったようだが、現在は無くなっている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.593613/140.816048/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


世界の城塞都市

世界の城塞都市

  • 出版社/メーカー: 開発社
  • 発売日: 2014/11/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー
前の30件 | 次の30件 古城めぐり(宮城) ブログトップ