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古城めぐり(宮城) ブログトップ
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宮崎城(宮城県加美町) [古城めぐり(宮城)]

DSCN1844.JPG←高低差の大きい腰曲輪群
(2020年2月訪城)
 宮崎城は、葛西大崎一揆の時に激戦の地となった城である。大崎氏の重臣笠原氏歴代の居城であった。笠原氏は元々信州伊那郡笠原庄の出で、鎌倉幕府滅亡後に信濃守護小笠原貞宗、次いで足利一門の斯波高経の家臣となり、1336年には高経の弟家兼の家臣となった。家兼が1354年に将軍足利尊氏から奥州管領(後の奥州探題)に任ぜられて奥州に下向すると、笠原氏の祖近江守重広もこれに従って大崎に下向し、1359年に宮崎に封じられて宮崎城を築き、以後9代民部少輔隆親・10代隆重まで230年余りに渡ってこの地を支配した。笠原氏は宮崎城の他に、高根城に笠原内記、大楯城に笠原七郎など、周辺に城砦群を築き、一族を配してこの一帯に蟠踞していた。1536年の大崎氏の内訌の際には、笠原氏は古川氏方に付いて伊達稙宗に抵抗しており、反伊達勢力の一員であった。1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で大崎氏は葛西氏と共に改易となったが、その旧領を与えられた秀吉の家臣木村吉清・清久父子は、統治能力の欠如から圧政を敷き、同年10月、葛西・大崎両氏の旧臣たちは葛西大崎一揆と呼ばれる大規模な叛乱を起こした。しかしその裏には、失地回復を目論む伊達政宗の煽動があったとされる。それが露見しかかって秀吉への釈明に追われた政宗は、許されて秀吉の命で一揆鎮圧に向かった。翌91年旧暦6月24・25日、宮崎城に籠城した旧城主笠原民部少輔隆親を大将とした笠原党2000人余りと、攻め寄せる伊達軍24000人余りが激戦を展開した。この戦いで、伊達勢は智将浜田伊豆景隆ら20名ほどの武将が討死するなど大損害を受けたが、2日間の激戦の末に宮崎城を落城させた。隆親は一子隆元と数人の家来に守られて出羽に逃れたが、捕らえられた将兵200人余りは城の北側の「流れの沢」で斬首されたと言う。一揆鎮圧後、この地は伊達領となり、文禄より慶長の初め頃まで宮崎城は片平親綱・山岡志摩重長・石母田宗頼の3人が交代で管理していたと伝えられる。その後、牧野大蔵盛仲・茂仲が50年余り支配した後、1652年に石母田氏6代永頼が岩ヶ崎所から宮崎に移封となった。永頼は6年間宮崎城に在館したが手狭であったため、1658年に宮崎館を築いて移り住み、宮崎城は廃城となったと推測される。

 宮崎城は、標高140m、比高60m程の山稜南東端に築かれている。山麓には田川とその支流鳥川が流れて天然の外堀となり、山稜も傾斜のきつい要害性の高い地勢である。城址北側に車道が通っており、標柱・解説板が立っていて、そこから城内に入ることができる。中心に堀切で区画された主郭とニノ郭があり、その南北の斜面に腰曲輪を幾重にも築いている。主郭は背後に土塁を築き、この土塁はそのまま北に伸びて、北尾根東西の腰曲輪群を区画している。主郭は東側に前郭を置き、その先に浅い堀切があって、ニノ郭の切岸がそびえている。また主郭の南西角から南に伸びる尾根に段曲輪群が築かれている。下に行くほど末広がりに広くなり、最下段の西側には大手虎口がある。また南端は大堀切となっているが、嘉門坂と呼ばれる登路があったらしい。堀切の南は出曲輪で、角崎の名があるが、現在は牛が飼われている。この大手筋の西側の平地には堀跡と土塁が残っている。宮崎城の南斜面にはかなりの広さを持った腰曲輪が築かれているが、二筋の谷が深く入り込み、この谷を侵入してきた敵兵に対して両翼の腰曲輪群から攻撃できるようになっており、殺気を感じる緊張感のある縄張りである。二ノ郭の南側の腰曲輪群は切岸が大きく、かなりの高低差を持って段々に築かれている。この他、二ノ郭北の腰曲輪から北東には、絶壁上に細尾根が伸びて物見台が置かれ、主郭西側の腰曲輪から繋がる西尾根にも小堀切があり、その先は物見台となっていた様である。
城の中心になる曲輪はそれほど大きなものではないが、堅固な地勢に築かれた高低差の大きい縄張りで、多くの腰曲輪で防御され、かなり守りが固かったと推測される。中心部がコンパクトに纏められた、非常に求心性の高い縄張りで、さすがは伊達軍が苦戦しただけのことはある城である。
主郭背後の土塁→DSCN1917.JPG
DSCN1878.JPG←主郭~二ノ郭間の堀切
南尾根の腰曲輪群南端の大堀切→DSCN1755.JPG
DSCN1776.JPG←大手虎口

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.622772/140.760280/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


伊達氏と戦国争乱 (東北の中世史)

伊達氏と戦国争乱 (東北の中世史)

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/12/21
  • メディア: 単行本


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宮崎館(宮城県加美町) [古城めぐり(宮城)]

DSCN1657.JPG←西側に残る水堀
(2020年2月訪城)
 宮崎館は、藩政時代に伊達家の家臣石母田氏、後に古内氏の居館である。石母田氏・古内氏居館と言った方がわかりやすいかもしれない。伊達家の藩制で言う「宮崎所」(「所」は「要害」の下のランク)である。1590年に生起した葛西大崎一揆で激戦地となった宮崎城は、一揆鎮圧後は伊達領となり、文禄より慶長の初め頃まで宮崎城は片平親綱・山岡志摩重長・石母田宗頼の3人が交代で管理していたと伝えられる。その後、牧野大蔵盛仲・茂仲が50年余り支配した後、1652年に石母田氏6代永頼が岩ヶ崎所から宮崎に移封となった。永頼は6年間宮崎城に在館したが手狭であったため、1658年に宮崎館を築いて移り住んだ。以後、約100年間に渡って石母田氏歴代の居館であったが、1757年に9代興頼は高清水要害に転封となった。その後、古内氏5代義清が小野田所から宮崎所に移され、以後幕末まで古内氏の居館となった。

 宮崎館は、現在の加美町宮崎支所の北側一帯にあった。宮崎市所の敷地の北半分と、東隣りの宮崎小学校の校地の北西1/4もかつての屋敷地である。東西180m、南北160m程の規模で、周囲を完全な環濠で囲まれ、その内側に土塁を築いた堂々たる屋敷であったと言う。現在は、北辺と西辺それぞれ3/4程の土塁が残り、西側では堀跡(一部は水堀)も残っている。宮崎館は、宮城県の遺跡地図にも載っていないが、遺構は一部とはいえしっかりと残っている。また宮崎支所からまっすぐ南に伸びる道がかつての大手道であったらしく、南の小川を渡る橋には大手橋の名が付いている。尚、宮崎支所の敷地正面に「旧仙台藩士永代着座古内氏所屋敷内跡地」と刻まれた大きな石塔が立ち、その傍らには古内氏所縁という松が植わっている。しかし解説板などはなく、街中にもあまり伊達氏家臣の所縁を感じさせるものはない。宮崎城に立て籠もった将兵が伊達政宗に徹底して殲滅されているので、やはり反伊達の意識が根強く残っているのだろうか。
北辺の土塁→DSCN1639.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.615529/140.758853/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


仙台藩ものがたり

仙台藩ものがたり

  • 出版社/メーカー: 河北新報総合サービス
  • 発売日: 2020/06/18
  • メディア: 単行本


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高根城(宮城県色麻町) [古城めぐり(宮城)]

DSCN1472.JPG←主郭の切岸
(2020年2月訪城)
 高根城は、高根楯(高根館)とも呼ばれ、大崎氏の家臣笠原内記の居城と伝えられる。元々は南北朝時代或いは室町時代に大崎氏が、四家老の一人、仁木遠江守高家に高根城を築かせたと言う。築城時期には2説ある。一つは南北朝時代で、足利一門でも最高の家格を持つ斯波高経の弟家兼(大崎氏の祖)が、1354年に将軍足利尊氏から奥州管領(後の奥州探題)に任ぜられて奥州に下向し、中新田城に治府を置き、仁木高家を四家老の一人に任じた時とも、もう一つは室町中期の1441年頃であったとも伝えられる。戦国末期には、八木沢城主八木沢備前の弟笠原内記(近江守直康)の居城となり、1590年の奥州仕置による大崎氏改易まで居住したと言う。大崎氏改易後、内記は息子隆康と共に出羽の秋田城之介の元に去ったと言う。
 尚、仁木遠江守高家について詳細は伝えられていないが、仁木と言う姓からすると、同じ足利一門の仁木氏の一族であるかもしれない。仁木氏は一門中ではかなり低い家格で、鎌倉時代には足利宗家の家臣並みの扱いであったから、宗家に匹敵する家格を有した斯波氏(鎌倉時代には足利尾張守家と称し、足利の姓を名乗っていた)にも家臣として仕えた者がいても不思議はない。

 高根城は、色麻町と加美町の境にある標高100m、比高50m程の丘陵上に築かれている。東中腹に墓地があり、その裏手に登るともう城域である。墓地も一郭であっただろう。ちなみにこの墓地は、現在は廃寺となっているが仁木高家が高根城の守護寺として開山した慶樹寺のもので、墓地に立つ記念碑にそのことが刻まれている。高根城の縄張りは、◇―の形をした主郭が中心にそびえ、主郭背後(西側)に低土塁を築き、城内通路を兼ねた堀切で分断している。堀切の西側には二ノ郭が置かれ、その前後に土塁を築き、西側背後を二重堀切で分断している。その先には細尾根上の西郭が築かれ、その先は自然の谷になって城域が終わっている。前述の二重堀切は、南側に長い二重竪堀となって落ちている。西郭の北側には二重横堀が構築されているが、前述の谷に繋がっており、虎口を兼ねていた可能性もある。一方、主郭・二ノ郭の周りには広い腰曲輪が幾重にも築かれている。特に北側は大きな腰曲輪が広がっており、二重竪堀状の城道などの構造が見られる。主郭の南では、主郭の張り出した塁線の先に土塁が突き出し、腰曲輪間を区切っている。この土塁から、西側下方の腰曲輪を見下ろせるようになっている。この他、主郭先端からは、北東と南の2方向に尾根上の曲輪が伸び、その周りにも腰曲輪群が築かれており、両翼に大きく羽を広げたような形になっている。前述の慶樹寺墓地は、この両翼の丁度真ん中の東中腹にある。主郭と南尾根の曲輪の間も、城内通路を兼ねた堀切で分断されている。
 以上が高根城の概要であるが、周囲に築かれた腰曲輪群がどこまで続いているのかはっきりせず、『日本城郭大系』に「かなり大きな館跡でどこまで(城の)範囲にするか判断するのが困難であった」と記す通りである。特に北側は斜度が緩いので、城域が判然としない。全体としては、梨崎楯に似ている印象で、築城主体が同じ大崎氏であった可能性を示唆しているかもしれない。
二重堀切から落ちる二重竪堀→DSCN1538.JPG
DSCN1568.JPG←北側腰曲輪の二重竪堀状の城道
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.561690/140.798110/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


太平記の群像  南北朝を駆け抜けた人々 (角川ソフィア文庫)

太平記の群像 南北朝を駆け抜けた人々 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 森 茂暁
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA/角川学芸出版
  • 発売日: 2013/12/25
  • メディア: 文庫


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津久毛橋城(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_7168.JPG←主郭
(2019年11月訪城)
 津久毛橋城は、南北朝時代に南朝の将北畠顕信が立て籠もった城である。古くは平安末期に、大軍を率いて奥州藤原氏を討伐した源頼朝が、松山道を経てこの地、津久毛橋に至ったと言う(『吾妻鏡』)。1189年8月21日のことである。この時、頼朝に付き従っていた梶原平二景高(梶原景時の次男)は、
  陸奥(みちのく)の 勢は御方に 津久毛橋 渡して懸けん 泰衡が頸
と詠み、頼朝に献じたと伝えられる。南北朝時代には、奥州南朝軍と北朝軍の決戦の地となった。『鬼柳文書』等の古文書によれば、1342年に北畠顕信率いる南朝勢は、「三迫・つくもはし(津久毛橋)・まひたの新山林、二迫のやハた(八幡)・とや(鳥谷)」の5ヶ所に「たて」(楯、城郭のこと)を築いて陣を張った。対する北朝方の奥州総大将石塔義房は、向城として鎌糠城(大原木楯か?)を築いたと言う。この地で対峙した両軍は、三迫合戦と呼ばれる大会戦を行った。北朝方は南朝の諸城を次々と攻略し、最後の拠点となった津久毛橋城を攻め落として南朝勢を討ち破り、敗れた顕信は出羽方面に逃れた。

 津久毛橋城は、比高わずか20m程の小丘に築かれている。登道が整備され、主郭は公園化されているので訪城は容易である。眼前の平地の向こうには、北朝方の本陣鎌糠城であった可能性のある大原木楯がそびえている。津久毛橋城の東の尾根は削られて湮滅しているので、縄張りの全容は不明であるが、上州松山城の様な、段々に曲輪群を築いた小型の平山城である。段は畑などになっているが、形状はよく残っている。頂部の主郭は東西に細長い曲輪で、あまり広くはないので、多数の兵を籠めることはできない。前述の通り東尾根は湮滅しているが、ここに堀切が穿たれていた可能性もある。
 南朝方の本陣としては随分と小規模であるが、それは周辺諸城と連携して「面」として戦線を構築していたからであろう。ちょうど越前で、北朝方の大将斯波高経が足羽七城の連環城砦群で新田義貞の猛攻に耐え凌いだのと同じである。しかし、周辺諸城が攻略されて孤立してしまうと、この小城ではひとたまりもなかった。
 尚、主郭には、源義経の北行伝説の立役者杉目太郎行信の供養碑が立っている。
南斜面の腰曲輪群→IMG_7149.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.822842/141.036741/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


日本の歴史〈9〉南北朝の動乱 (中公文庫)

日本の歴史〈9〉南北朝の動乱 (中公文庫)

  • 作者: 佐藤 進一
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2005/01/01
  • メディア: 文庫


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大原木楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_7088.JPG←主郭東側の横堀
(2019年11月訪城)
 大原木楯(大原木館)は、鈴木館とも言い、この地の土豪鈴木氏の居城である。元は源義経の重臣鈴木三郎重家の館であったとされ、鈴木氏はその後裔を称していた様だが、鈴木重家への仮託であろう。戦国末期には、鈴木高重、或いは鈴木三河守が城主で、1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で主家が改易されて没落、同年に生起した葛西大崎一揆において桃生郡深谷陣で討死したと言う。
 一方でこの地は、南北朝時代に行われた合戦の舞台ともなった。『鬼柳文書』等の古文書によれば、1342年に北畠顕信率いる南朝勢は、「三迫・つくもはし(津久毛橋)・まひたの新山林、二迫のやハた(八幡)・とや(鳥谷)」の5ヶ所に「たて」(楯、城郭のこと)を築いて陣を張った。対する北朝方の奥州総大将石塔義房は、向城として鎌糠城を築いたと言う。この北朝方の本陣鎌糠城が、大原木楯付近にあった様である。或いは大原木楯が鎌糠城そのものであった可能性もある。いずれにしてもこの地で対峙した両軍は、三迫合戦と呼ばれる大会戦を行い、北朝方が南朝勢を討ち破り、敗れた北畠顕信は出羽方面に逃れた。
 尚、沼舘愛三著『伊達諸城の研究』によれば、大原木は古代城柵が築かれた地ででもあり、木は即ち「城(き)」の意味であると言う。

 大原木楯は、標高60m、比高35m程の東西に長い丘陵上に築かれている。重家の妻が夫の討死後に尼僧となったという伝説の残る喜泉院の裏山で、喜泉院の墓地裏から山林に分け入れば、もうそこは城内である。大きく東西2郭で構成され、東が主郭、西が二ノ郭で、これらの間は堀切で分断されている。この堀切は、墓地からも見ることができる。二ノ郭の北斜面は段々に腰曲輪群が築かれており、現在墓地の段になっている部分も元々腰曲輪であったと思われる。主郭の北側は、腰曲輪1段の下は大切岸となっているが、その下方の墓地の部分はやはり腰曲輪群であったのだろう。主郭内は激しい薮となっているが、1m程の段差で区切られた東西に連なる3段の平場で構成されていることが辛うじて分かり、東北端には一段低く腰曲輪が築かれている。一方、二ノ郭は主郭より狭く、平場は1段だけで内部には墓石がいくつも投棄されている。この城で出色なのは、主郭・二ノ郭の南斜面に構築された、長大な二重横堀の防御線である。この構造は、姫松楯にも通じるもので、主郭の北東斜面から二ノ郭の西斜面までを延々と囲っている。途中には竪堀が数ヶ所落ち、塁線が屈曲して横矢が掛けられている。主郭北東では更に堀切を加えて三重横堀となっており、主郭東端の虎口から内堀・中堀へ連結した2つの土橋が架けられている。また二ノ郭西の二重横堀は、南側は二ノ郭南に回り込んでいるが、北側では外堀はそのまま尾根を堀切り、内堀は二ノ郭北に回り込んでいる。内堀・外堀の間の土塁は、内堀とともに二ノ郭北側に回り込み、少し東に伸びた先でL字に曲がって、二ノ郭切岸に繋がっている。前述の主郭・二ノ郭間の堀切は、南1/3程が主郭側に折れ、竪堀に変化して裏の二重横堀に繋がっている。
 室町時代にこの地域では大崎・葛西の両勢力が拮抗し、勢力拡大や自衛の為の防御施設として山城や居館が盛んに築城されたと言われている。大原木楯も、そうした状況を象徴するような緊張感のある縄張りである。ただ、一部を除いては全体に薮がひどく、横堀を辿っていくのも大変で、特に主郭南側では撤退を余儀なくされた。
主郭・二ノ郭間の堀切→IMG_6862.JPG
IMG_6957.JPG←二ノ郭南の横堀
主郭東端の土橋→IMG_7087.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.808881/141.027278/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


戦国の城の一生: つくる・壊す・蘇る (歴史文化ライブラリー)

戦国の城の一生: つくる・壊す・蘇る (歴史文化ライブラリー)

  • 作者: 英文, 竹井
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2018/09/18
  • メディア: 単行本


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沢辺楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_6718.JPG←主郭
(2019年11月訪城)
 沢辺楯(沢辺館)は、臥牛館とも呼ばれ、葛西氏の家臣沢辺氏の居城である。沢辺氏の祖は二階堂刑部常信と言い、葛西氏の祖葛西清重に仕え、正治年間(1199-1201年)に胆沢郡衣川からこの地に移り、沢辺楯を築いて居城とし、沢辺氏を称した。この地で4代続いたが、この地が大崎氏の支配下になるとこの地を離れ、岩井郡黒沢村の霞館に移り、1448年には同郡油田村の蒲沢館に所領を移された。12代肥前重光の時、1576年の葛西大崎合戦で葛西勢が大勝したことにより、この地は再び葛西領となり、重光は沢辺楯を再び居城とした。1590年、豊臣秀吉の奥州仕置によって葛西氏が改易・没落すると、沢辺新左衛門は伊達氏に召し出され、弟の藤兵衛はこの地で帰農したと言う。

 沢辺楯は、比高30m程の丘陵上に築かれている。眼下に三迫川を望む舌状台地で、現在は臥牛館公園となっている。主郭は南端にあり、ほぼ方形で5m程の切岸で囲まれ、愛宕神社の小祠が祀られている。主郭の西から北にかけて三ノ郭が広がり、三ノ郭東辺の土塁は主郭の北端に繋がっている。三ノ郭の北斜面にも腰曲輪群が3段程築かれている。また三ノ郭から少し離れた北東に、高台となった二ノ郭が築かれている。二ノ郭の中央には円形の塚がある。二ノ郭の西側や北東部にも何段も腰曲輪が築かれ、北西角は橫矢の張り出しとなっている。主郭東側から二ノ郭周囲にかけて広がる平場も腰曲輪で、更に東斜面や三ノ郭の西側にも腰曲輪が築かれている。往時は台地基部に2本の空堀があったとされるが、小学校敷地となった際に湮滅した。
 沢辺楯は、全体的に遺構はよく残っているが、あまり技巧性のない縄張りで、居館機能を優先した城であったと思われる。
二ノ郭西側の腰曲輪群→IMG_6816.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.795554/141.058542/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


戦国大名伊達氏 (中世関東武士の研究25)

戦国大名伊達氏 (中世関東武士の研究25)

  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2019/03/30
  • メディア: 大型本


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梨崎楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_6657.JPG←主郭の切岸
(2019年11月訪城)
 梨崎楯(梨崎館)は、『日本城郭大系』では梨崎城と記載される。城主は梨崎近江とも、清原隆久の裔孫三宮讃岐守重隆が有賀城から移ったとも言われる。

 梨崎楯は、比高30m程の低丘陵先端部に築かれている。東麓から住宅脇を抜けて山林内に登っていく道があるので、それを登って山に入り、後は適当に登っていけばよい。東側は腰曲輪群になっており、段々に平場が築かれている。中には、内枡形のような地形も見られる。山内は薮が多いので、少々見栄えしないが、遺構はよく残っている。城の中心に主郭があるが、高さ3~4mの切岸で囲まれており、ーOーという珍しい形状の主郭である。主郭には土塁はなく、主郭の周りは幅広のニノ郭で囲まれている。主郭の背後に当たる西側には堀切が穿たれ、南北の二ノ郭を繋ぐ城内通路を兼ねている。この堀切の南は二ノ郭から南斜面に落ちる竪堀となっている。またこの堀切の北側は、後述するクランクする堀に繋がっている。堀切の西には独立小郭を挟んで更に堀切が穿たれており、主郭の西側は二重の堀切で台地基部を分断していることになる。外側の堀切は、南は一直線であるが、北側では大きく東側にクランクして、最後は北斜面に竪堀に変化して落ちている。この竪堀に沿って、その東側に最下段の腰曲輪の西端部から落ちる竪堀があり、二重竪堀となっている。この北下方には溜め池があり、二重竪堀はそこに落ちている。往時も溜め池があったとすれば、船着き場との通路を兼ねていた可能性もある。この他、二ノ郭の北・東・南の三方には腰曲輪群が築かれている。草木が多くてわかりにくいが、南東に竪堀状虎口があり、それに直交する形で南腰曲輪へ通じる横堀状の切通し虎口が築かれている。また南東に張り出した尾根上の曲輪には、その付け根の両側に堀切が穿たれ、これも竪堀状虎口として機能していたらしく、北のものは住宅脇の登り道まで通じている。以上が遺構の概要である。
 室町時代にこの地域では大崎・葛西の両勢力が拮抗し、勢力拡大や自衛の為の防御施設として山城や居館が盛んに築城されたと言われている。梨崎楯も、大きくクランクした空堀や竪堀など、そうした状況を象徴するような実戦的な縄張りを垣間見せている。大崎氏勢力の城であった高根城と縄張り的に共通点が見られ、梨崎楯も大崎氏勢力が築いた可能性が考えられる。
クランクする空堀→IMG_6631.JPG
IMG_6609.JPG←西側の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.790051/141.066931/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

  • 作者: 松岡 進
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/02/27
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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姉歯下楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_6515.JPG←主郭~西郭間の堀切
(2019年11月訪城)
 姉歯下楯(姉歯下館)は、奥州藤原氏4代泰衡の家臣であった姉歯平次光景の後裔、姉歯右馬允の居城と伝えられる。姉歯氏は、室町時代には大崎氏の家臣となり、大崎氏最後の当主義隆の時代まで大崎氏に仕えた。1590年に姉歯下館は落城したとされる。その後、仙台伊達藩の支配下となると姉歯氏は伊達家家臣となったらしく、戊辰戦争の際に新政府軍参謀の世良修三を暗殺した仙台藩士姉歯武之進を輩出した。

 姉歯下楯は、標高56m、比高40m程の東西に長い丘陵上に築かれている。東端部近くの市道脇に解説板が立っており、その脇から登道が付いている。東端から西に登るとすぐに切通し状の大手道があり、クランクしながら台地上に登っていく。このクランクした大手道の脇には櫓台の様な土壇が見られ、登城道を防衛していたと見られる。その先は竹林となった東郭があり、西側に堀切が穿たれている。その先にやや起伏のある曲輪が続き、いくつかの腰曲輪の段の先に二ノ郭がある。二ノ郭前面には枡形の様な地形や虎口の様な溝地形があるが、形状があまりはっきりしない。二ノ郭は2~3m程度の切岸で区画され、その外周に広い腰曲輪群を伴っている。二ノ郭には、姉歯氏の末裔の郷土史家が立てた小さな石碑がある。二ノ郭の南西には大きな繋ぎの曲輪が続き、その先に三角形をした主郭がある。主郭も二ノ郭同様、切岸で囲まれ、外周に腰曲輪を伴っている。主郭内は薮がひどく、進入は困難である。主郭周囲の切岸はニノ郭より大きく、4~5m程ある。主郭の腰曲輪は幅が狭く、主郭の北から西にかけては横堀となっている。北尾根・西尾根ではこの横堀がそのまま堀切を兼ねている。主郭の西尾根には西郭が置かれ、先端に腰曲輪が2段築かれて城域が終わっている様だ。主郭南側の腰曲輪も一部が横堀状となり、竪堀状の城道が落ちている。以上の様に、姉歯下館は傾斜の緩い台地の上に、浮島の様に主郭・二ノ郭を間隔をおいて配置している。遺構はよく残っているが、薮が多い部分もあって、あまり見栄えしないのが残念である。
クランクする大手道→IMG_6386.JPG
IMG_6406.JPG←東郭西側の堀切
二ノ郭切岸と腰曲輪→IMG_6423.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.781170/141.062962/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


仙台藩「留守居」役の世界―武士社会を支える裏方たち (よみがえるふるさとの歴史)

仙台藩「留守居」役の世界―武士社会を支える裏方たち (よみがえるふるさとの歴史)

  • 作者: J.F.モリス
  • 出版社/メーカー: 蕃山房
  • 発売日: 2015/06/01
  • メディア: 単行本


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若柳城(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_6369.JPG←主郭の給水施設
(2019年11月訪城)
 若柳城は、新井山館とも言い、葛西氏の家臣千葉豊後の居城であったと伝えられている。古くは八幡太郎源義家の陣所であったとも言われるが定かではない。室町時代には、この地は元々大崎氏の勢力下であったが、葛西晴信はこの地を攻め取り、若柳城を築いて千葉豊後に守らせたと言う。

 若柳城は、迫川南岸の標高39.1mの丘陵上に築かれている。東麓の車道脇に標柱が立っており、その近くから主郭にある給水施設までの登道が付いている。主郭は給水施設となっているので、破壊を受けているが、周りの切岸などは往時の姿を部分的に残しているように思われる。また周囲には腰曲輪状の段があり、曲輪の形態は残っている様だ。東の山林内にもいくつかの平場が見られ、切岸らしい段差も確認できる。『日本城郭大系』では北側に二重の空堀があると記載されているが、空堀については確認できなかった。全体的に城の雰囲気は残っているものの、改変により遺構が今ひとつ明確でないのが残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.775148/141.113580/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


鎌倉幕府と葛西氏―地域フォーラム・地域の歴史をもとめて

鎌倉幕府と葛西氏―地域フォーラム・地域の歴史をもとめて

  • 出版社/メーカー: 名著出版
  • 発売日: 2020/05/06
  • メディア: 単行本


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金鶏山楯(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_6339.JPG←主郭内の薮に埋もれた看板
(2019年11月訪城)
 金鶏山楯(金鶏山館)は、前九年の役の頃に安倍貞任・宗任の拠点として築かれたと言われ、1062年に源頼義が奪取し、陣所として使用したとされる。しかし明証はない。

 金鶏山楯は、標高71m、比高60m程の金鶏山に築かれている。山の南東の山腹に昌学寺の墓地が広がっており、墓地の西端から登山道が伸びている。しかし山頂近くで登山道が途切れてしまうので、そこからは斜面を登っていくしかない。頂部に築かれた主郭とその周囲の帯曲輪だけから成る単純な構造の城である。一応主郭内に城址看板が建っているが、主郭内は未整備の薮だらけで、標柱も薮で埋もれてしまっている。帯曲輪は北側のものは明瞭で、主郭内に入る虎口も確認できるが、それ以外は薮もあってはっきりしない。『日本城郭大系』では南東部に浅い空堀も穿たれていると言うが、薮でよくわからなかった。遺構から見る限り、かなり古い形態を留めた城と考えられ、前九年の役にまつわる城跡というのも、あながちただの伝説ではないのかもしれない。
帯曲輪から主郭に登る虎口→IMG_6342.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.771886/141.173340/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


前九年・後三年合戦と兵の時代 (東北の古代史)

前九年・後三年合戦と兵の時代 (東北の古代史)

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2016/03/29
  • メディア: 単行本


タグ:古代山城
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高森古楯(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_6307.JPG←主郭の切岸
(2019年11月訪城)
 高森古楯(高森古館)は、坂上田村麻呂が奥州征伐の際に陣城としたとも、前九年の役の際に安倍貞任が築いた陣城とも、或いは奥州藤原氏の要害であったとも言われる。しかしこれらの伝承は奥州各地の古城にあるので、どこまで史実を伝えているのかは不明である。

 高森古楯は、比高40m程の低丘陵に築かれており、現在主郭には五十瀬神社が鎮座している。東麓の県道脇から参道が整備されているので訪城は容易である。主郭は高台になっており、そこへ登る中腹の階段脇に五十瀬神社の由緒書と「高森古館跡」の城址看板が立っている。ここから北に広がる平場が二ノ郭とされるが、公園化されており明確な遺構はない。主郭は参道の階段を登った先の頂部にあり、東西に長い大きな平場になっているが、神社建設による改変もあるのか、あまり明確な遺構は見られず、主郭の南に一段低く腰曲輪らしい平場があるだけである。かつては大きな解説板もあったらしいが、現在は撤去済みで残っていない。
 高森古楯は、ある程度の眺望には優れるが、周囲には似たような丘陵地が広がっており、これらの丘陵地帯の中程に位置している。殊更な要害地形でもなく、なぜここに陣を構えたのか、少々不思議である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.758718/141.174928/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


田村麻呂と阿弖流為―古代国家と東北 (歴史文化セレクション)

田村麻呂と阿弖流為―古代国家と東北 (歴史文化セレクション)

  • 作者: 新野 直吉
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2007/10/01
  • メディア: 単行本


タグ:古代平山城
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大瓜城(宮城県大衡村) [古城めぐり(宮城)]

IMG_6248.JPG←枡形空間と空堀
(2019年11月訪城)
 大瓜城は、折口館とも言い、鎌倉時代以降この地を支配していた渋谷氏の一族、福田氏の居城である。沼舘愛三著『伊達諸城の研究』によれば、福田氏の先祖は相模の豪族渋谷庄司重国の次男武蔵権守実重と言われ、相模国渋谷荘内福田を領していた。戦国前期の天文年間(1532~55年)頃には黒川氏の家臣となっており、福田若狭広重・右近父子がこの地に居住したと言う。

 大瓜城は、比高30m程の丘陵東端部に築かれている。東の車道から林の中に腰曲輪の切岸が見えるので、そこを適当に登っていけば、もう城内である。南に向かって開いたコの字型の上部曲輪群とその間の谷部に展開する緩斜面の平場で構成された珍しい形態で、現地解説板によれば「枡形陣地」と言う形態とされる。コの字型の上部曲輪群は、外周に空堀が囲繞し、土塁や櫓台も築かれている。広い曲輪ではないが、小屋が置ける程度の幅があり、ここが主郭であったと考えられる。東と北の土塁の外側には腰曲輪群が築かれており、特に東側は麓まで何段も築かれている。また前述の空堀は、西側では横矢掛かりの折れが見られる。空堀の北東部には段差と土塁で囲まれた枡形空間があり、そこから外に向かって竪土塁で側方防御された虎口が築かれている。コの字の中央の谷部には、前述の通り南に向かって降る曲輪群があるが、よく考えるとこれは馳取城の主郭と同じ様な構造であることに気がつく。馳取城の主郭も、北に向かって開いたコの字型に土塁で囲み、その外には空堀を穿ち、主郭内部は北に向かって段々に降っているのである。
 大瓜城は、一部に薮が多いものの遺構がよく残っており、その特異な形態も含めて見どころが多い。
西側の空堀→IMG_6205.JPG
IMG_6141.JPG←コの字型の主郭に囲まれた中央曲輪

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.483779/140.825683/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/08/21
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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麓城(宮城県大和町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_5951.JPG←見晴台となっている二ノ郭
(2019年11月訪城)
 麓城は、麓館とも言い、戦国後期に鶴巣楯主黒川安芸守晴氏(月舟斎)の家臣、入生田右兵衛佐の居城である。現地解説板によれば、天正年間(1573~92年)の戦いで敗れ、以後は伊達氏に属し、文禄年間(1592~96年)まで居住したと言われる。後に涌谷伊達氏に仕え、涌谷に居地を移したと伝えられる。
 尚、時代は遡って南北朝期の話となるが、1353年に南朝方の中院大納言らの軍勢が立て籠もった城として「黒川郡吉田城」が『鬼柳文書』の中に出てくる。沼舘愛三著『伊達諸城の研究』では麓城を「吉田館」として記載しており、想像にはなるが、南朝が立て籠もった吉田城が、麓城の前身であった可能性もあるだろう。

 麓城は、石神山精神社の裏山に築かれている。比高50m程で、現在は館山公園となっていて主要部だけは整備されている。神社横から登り道が整備されている。Mの字形になった尾根上に曲輪群を展開した城で、中央の尾根に縦長三角形状をした主郭がある。主郭は紫陽花がたくさん植えられており、西辺に低土塁が残っている。主郭の北東には段曲輪1段を挟んで二ノ郭がある。二ノ郭は公園の見晴台になっていて、城址解説板も立っている。公園として整備されているのはここまでである。主郭の西には尾根が張り出しているが、この尾根と主郭との間に2段に分かれた低地の平場があり、城主居館があった様に見受けられる。西尾根は、この平場の背後を防御する、削り残しの高土塁となっており、主郭との間には小堀切が穿たれている。また主郭南には堀切を挟んで馬蹄形の曲輪が築かれている。この曲輪の背後には巨石を利用した障壁があり、前述の堀切はこの巨石の裏側に穿たれている。主郭の西と東の斜面には帯曲輪が築かれ、この堀切が城内通路となって双方の帯曲輪を繋いでいる。また二ノ郭の南尾根にも曲輪群が築かれている。南尾根の北端は独立した高台になっていて、物見台となっていたらしい。その南は小堀切となっていて、神社からの登道はここに登ってくるようになっている。堀切の南に細尾根上の曲輪が南北に2つ連なり、それらの間も堀切で分断されている。南の曲輪の南端は空堀と腰曲輪が築かれ、そこから東に降る堀状の城道が見られる。また南の曲輪の東側にも何段かに分かれた曲輪群があり、北辺に坂土橋を兼ねた土塁が築かれている。ここから登った道は、細尾根上の南北の曲輪の間に穿たれた堀切に接続している。以上が麓城の概要で、大規模な城ではないが、遺構がよく残っている。
二ノ郭南尾根の堀切→IMG_6043.JPG
IMG_5993.JPG←主郭西下にある居館地

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.446615/140.837163/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


仙台藩ものがたり

仙台藩ものがたり

  • 出版社/メーカー: 河北新報総合サービス
  • 発売日: 2020/04/29
  • メディア: 単行本


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馳取城(宮城県富谷市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_5846.JPG←主郭西側の大空堀
(2019年11月訪城)
 馳取城は、鶴巣楯主黒川安芸守晴氏(月舟斎)の長男、長三郎春氏の居城と伝えられる。鶴巣楯の北西1.9kmと指呼の位置にあり、両城が相互に連携して防衛に当たっていたと推測される。

 馳取城は、標高50m、比高30m程の丘陵上に築かれている。この城へのアプローチは困難を極める。この城が築かれた丘陵は、広大な耕作放棄地で荒れ果てており、ほぼ全山、激薮に埋もれている。私は城址標柱の立つ南東麓から登ったが、途中では背丈を越える笹薮が密生しているので、ゴーグル・GPS・スーパー地形・(帰り道を辿るための)マーキングテープ・日没までの余裕のある時間、これらが揃ってないと踏査は無理である。遭難の可能性も十分あり、キャッスリング上級者向けであることを始めにお断りさせていただく。ちなみに1/25000国土地理院地形図に描かれている南東麓からの実線の山道は、田畑のすぐ先で密生した薮に阻まれ、実際に辿ることは困難である。
 しかし遺構の規模は大きい。薮がひどいので全容は確認できていないが、主郭周辺と南の尾根から派生する南東尾根の遺構が確認できた。田畑の西側から南東尾根に取り付くと、細尾根上の曲輪群の先端を小堀切で穿ち、尾根の西側には延々と横堀を築いて防御している。また南東尾根の東側にも帯曲輪と、更に下方に平場が見られ、田畑との間に水堀跡が残っている。南東尾根の付け根にも中規模の堀切が穿たれている。その先の、主郭南の尾根には堀切による障壁とクランク動線(桝形虎口?)がある。その先は薮が密生した耕作放棄地があり、それを越えると大空堀に囲まれた主郭に至る。主郭は北の断崖に臨む曲輪で、西側と南側に高土塁を築き、その外周には深さ5mを超える大空堀が廻らされている。主郭北西角は、塁線が内側に折れており、空堀もクランクして横矢が掛けられている。主郭内は3段程の平場に分かれ、北に向かって段々に降っている。主郭の東側には堀切を挟んで二ノ郭があり、ニノ郭にも南と西に土塁が築かれている。南に虎口があり、ここから南斜面を下ると、堀跡が残っている。ほとんど埋まっているが、その形状から推測して泥田堀だった様である。
 馳取城は、大空堀に高土塁と、さすがは鶴巣楯を築いた黒川氏の嫡子の城だけのことはある。いつの日か、薮が伐採されて遺構の全貌が現れる日を望みたい。
南東尾根の横堀→IMG_5828.JPG
IMG_5923.JPG←主郭の高土塁

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.427706/140.884584/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/08/21
  • メディア: 単行本


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門前城(宮城県富谷市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_5773.JPG←主郭に残る経塚
(2019年11月訪城)
 門前城は、二ノ関伊予守が天正年間(1573~92年)まで居住したとされる城である。伊予守は、伊達家家臣二ノ関傳之助の先祖と伝えられる。

 門前城は、二宮神社南西の比高30m程の館山と言う丘陵上に築かれている。山麓には獣除けの柵があるので、それを突破しないと山内には入れない。普請が不明瞭な城で、頂部には1797年に経筒が発見されたという経塚のある平場があり、それが主郭と思われる(経筒は東北歴史博物館に所蔵されているらしい)。塚は2つ並んでいて、東側のものには小祠が置かれている。主郭の前面には低土塁があり、虎口らしいものがあり、またその前面の平場との間に段差がある。平場はいくつか見られ、腰曲輪であったようである。一部に堀切状の溝や枡形らしい地形が見られるが、規模が小さく、形状もあまりはっきりしない。一応、東北東に伸びる尾根沿いに大手道らしいものもあり、竪堀もいくつか見られる。主郭背後は堀切も明確な切岸もなく、ダラダラと緩傾斜地が続き、その先には給水施設がある。給水施設の立つ場所が城域であったのかどうかははっきりしない。南麓にはしっかりとした解説板が立っているものの、城自体は期待外れである。
主郭前面の土塁→IMG_5756.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.416510/140.874864/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


仙台藩ものがたり

仙台藩ものがたり

  • 出版社/メーカー: 河北新報総合サービス
  • 発売日: 2020/04/07
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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宇和多手城(宮城県大和町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_5689.JPG←主郭背後の二重堀切
(2019年11月訪城)
 宇和多手城は、鴇田館とも呼ばれ、鶴巣楯主黒川氏の家臣鴇田信濃国近が天正年間(1573~92年)まで居住したと伝えられる。1591年、葛西大崎一揆が鎮圧された後、国近は伊達政宗に太刀と馬を献上し、伊達家に仕えるようになった。国近の子駿河周如(かねゆき)は仙台藩2代藩主忠宗に近侍して信頼が厚く、藩財政の立て直しに貢献した。1654年に周如が没すると、鴇田氏の旧臣達はその菩提を弔うため松巌寺を宇和多手城跡に建立した。

 宇和多手城は、比高40m程の丘陵先端部に築かれており、館跡は前述の通り松巌寺の境内となっている。主郭・二ノ郭・南郭の3郭から成っていたとされるが、実際の縄張りは少々異なるように思われる。最上段は広い平場で墓地になっており、これが主郭であったと思われる。主郭背後には二重堀切が穿たれて、背後の尾根筋を分断している。この二重堀切は、南半分は二重堀切の形態であるが、北半分では内堀が腰曲輪と土塁に変化している。二重堀切の背後に西郭があり、西側に土塁と堀切が築かれている。一方、主郭の東側下方には寺の本堂の建つ平場があり、二ノ郭であったと考えられる。二ノ郭の東には更に1段低く細尾根が張り出し、物見を兼ねた東郭と推測される。主郭の北西と南には腰曲輪が付随し、更に主郭から北に伸びる尾根にも小郭数個があり、小堀切が穿たれている。おそらく搦手であったのだろう。宇和多手城は、小規模な城で、改変もされているものの往時の形状をよく残している。
 尚、主郭跡の墓地には鴇田周如の供養墓碑が建っている。
北尾根の小堀切→IMG_5709.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.412509/140.847827/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


伊達政宗の研究(新装版)

伊達政宗の研究(新装版)

  • 作者: 清治, 小林
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/06/14
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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田手岡館(宮城県大和町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_5630.JPG←北西麓の水堀
(2019年11月訪城)
 田手岡館は、伊達一門に列する宮床伊達家の居館である。宮床伊達家は伊達氏の庶流で、元は伊達崎氏を称し、伊達崎城を居城としていた。後に田手氏に改称した。宮床の初代領主伊達宗房(政宗の孫で、2代藩主忠宗の8男)は、4歳で田手高実に入嗣し、田手肥前宗房を名乗った。1659年、14歳の時に伊達姓を許され、一門に列せられた。翌年、在所を宮床に移し、田手岡館を築いて居所とした。宗房の長子村房は、1686年、父宗房の死により宮床伊達家を継いだが、1695年に伊達本家4代綱村の養嗣子に迎えられたため(村房は1703年に伊達本家5代藩主吉村となった)、村房の弟村興が宮床伊達家3代当主となった。1702年、川崎要害を領した砂金氏が無嗣断絶となると、村興は川崎要害に移されたが、1722年、兄吉村の命で再び宮床に戻された。以後、田手岡館が代々の居館となり、幕末まで存続した。

 田手岡館は、比高20m程の丘陵上に築かれている。北麓の民家脇から登道(大手道)が付いており、館内もある程度は薮払いされているが、冬でなければ訪城は難しいだろう。前述の登道を登ると虎口に至る。形状があまりはっきりしないが、内枡形になっていた様である。本丸内はいくつかの段差に分かれた広大な平場で、西辺部に土塁が残り、搦手虎口も確認でき、井戸跡も残っている。搦手の外は二ノ丸とされるが、一面の薮で形状が把握できない。また本丸の南端付近には、祠の建つ大土壇があり、その東側に堀のような低湿地がある。どうも庭園跡であるらしい。土壇も庭園の築山であったかもしれない。この他、丘陵の北西麓には水堀が残存している。北麓の大手には丸馬出もあった様だが、現在は湮滅している。
 田手岡館は、往時の構造はあまりはっきりわからなくなってしまっているが、部分的に遺構を残している。尚、石垣も残るとされ、大手道沿いの切岸にわずかに石が見られるが、石垣と言うほど立派なものではなく、これもはっきりしない。近世の城館だが、ちょっと残念な状況である。
本丸の土塁→IMG_5585.JPG
IMG_5611.JPG←井戸跡

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.402000/140.844716/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0
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村田氏居館(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2301.JPG←民家の周囲の石垣
 村田氏居館は、村田城主であった村田氏の移転後の居館である。村田氏の事績は村田城の項に記載する。1591年に村田万好斎宗殖(実は伊達稙宗の9男)が、故あって村田3万石を没収され、この地に移されて幕末まで存続したと言う。尚、村田氏は仙台伊達家の御一家の格式であった。

 村田氏居館は、永井城のある永井丘陵の南麓、高さ20m程の丘の上に築かれている。河北地区の『ふるさとの文化財』に、「一部石垣を廻らし,永井城の1郭をなしている」とある。場所は非常にわかりにくく、以前に一度探索したが、近所のお婆さんに聞いてもわからず、その時は断念した。今回、おそらくここ、という場所を見つけたのでリベンジしたところ、ようやく場所が特定できた。現在は民家の敷地になっているので、内部の探索はできない。民家への登道を登ると、『ふるさとの文化財』に掲載されている写真の石垣が確認できる。しかし石垣の積み方から考えると、ほとんど近代に積み直されているように思える。東日本大震災の後なので、地震で崩れたのかもしれないが・・・。『ふるさとの文化財』の写真では、張り出しの隅部に算木積みの様な石垣も見えるが、訪問したのが9月だったので、薮でちょっとだけしか見えなかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.579155/141.280457/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


仙台藩ものがたり

仙台藩ものがたり

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 河北新報総合サービス
  • 発売日: 2002/06
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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上野館(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2219.JPG←神社裏に残る土塁
 上野館は、仙台伊達藩で松山を領した重臣茂庭家の屋敷地である。1603年に茂庭周防良元は松山を与えられ、千石城(松山城)の三ノ丸に屋敷を築いて居住した。1631年、千石城三ノ丸が手狭であったため、新たに下屋敷として上野館を築いた。1651年に隠居すると、良元は上野館に移り住んだ。その後1657年、良元の子定元は作事の完成を待って正式に居館として移住し、以後幕末までの約200年間、茂庭氏は代々上野館を居館とし、松山統治の中心となった。

 上野館は、標高40m弱、比高25m程の丘陵上に築かれている。現在は県立松山高校の校地に変貌している。大型の方形単郭居館であったらしく、現在の校地の形状は、概ね往時の形を残している様である(但し、南部だけ校舎拡張で屋敷地外まで突出している)。古絵図によれば、東に表門、西に裏門が構えられており、表門は現在の高校正門にあったらしい。正門の道は、校地の中で左に折れており、往時の枡形の名残である可能性がある。校舎の北西に稲荷神社があり、その側方に西下からの登道が付いているが、これが裏門跡であろうか?また神社の裏には土塁が残っている。また校地の周囲は切岸地形をそのまま残している。館周囲には家臣団の屋敷が立ち並んでいたが、現在はおそらくその末裔の方の宅地となっている。館の南東には、御坂という登城道が車道となって残り、その下に駒池が復元されている。上野館は、遺構はかなり失われているが、往時の雰囲気は町割りの中に色濃く残っている様だ。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.512445/141.049529/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


仙台城下の町名由来と町割―辻標八十八箇所を訪ねて

仙台城下の町名由来と町割―辻標八十八箇所を訪ねて

  • 作者: 古田義弘
  • 出版社/メーカー: 本の森(仙台)
  • 発売日: 2013/06/01
  • メディア: 単行本


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兵庫館(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2175.JPG←櫓台らしい土壇
 兵庫館は、中ノ目館とも言い、奥州探題大崎氏の重臣中目兵庫頭隆政の居城と伝えられる。中目氏はこの地の豪族で、大崎氏が奥州探題として下向すると、大崎氏に臣従したらしい。戦国末期の中目氏当主の隆政は、仁木遠江守隆家・里見紀伊守隆成・渋谷備前守隆時らと共に大崎四家老に名を連ねる重臣であった。その活躍は、1588年、大崎氏の内乱に伊達政宗が軍事介入した大崎合戦でも見られ、桑折城に立て籠もった大崎勢の侍大将の一人とされる。1590年の葛西大崎一揆では、中目相模が兵庫館に立て籠もったと伝えてられている。伊達政宗の家臣で松山城主遠藤出羽高康の父遠藤心休斎の軍勢によって兵庫館は攻め落とされ、中目氏は没落した。

 兵庫館は、鳴瀬川北方の平野部の独立低丘陵に築かれている。大きく2~3段の曲輪で構成されていたらしく、北東の一番高いところが主郭で、その西から南にかけて平場が広がっている。主郭は西辺に低土塁があり、北西角には櫓台らしい土壇がある。ここに小さな神社が建ち、館跡の標柱が立っている。それ以外は草薮で覆われている。主郭の西から南に広がる曲輪は畑に変貌している。この他、館跡の外周には腰曲輪らしい平場も見られ、東と南の裾を流れる水路は堀の名残りであるらしい。往時は、西方2.5kmの位置にある師山城と同様、低湿地帯に囲まれた浮島の様な城館だったと思われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.544037/141.005520/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


戦国時代の南奥羽社会: 大崎・伊達・最上氏

戦国時代の南奥羽社会: 大崎・伊達・最上氏

  • 作者: 遠藤 ゆり子
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2016/02/24
  • メディア: 単行本


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朴沢新城(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2129.JPG←土塁と堀跡
 朴沢新城は、国分氏の家臣朴沢蔵人の居城と伝えられている。朴沢蔵人は、この地域に入部した地頭大江戸氏の一族で、根白石朴沢を分知された大江戸経家が朴沢蔵人を名乗った。最初は朴沢古城(所在地不明)に居たが、朴沢新城を築いて居城を移したと言う。
 朴沢新城は、興禅院とその北にある早坂市之進家の屋敷地一帯に築かれていた。現在は遺構はほとんど湮滅しているが、民家の裏にわずかに北西隅の土塁と堀跡が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.366005/140.789505/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/08/21
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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内館館(宮城県多賀城市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2002.JPG←この水田の下に堀があるはず
 内館館は、南宮館とも言い、戦国時代に留守氏17代顕宗が隠居後に暮らした居館であったと伝えられている。顕宗は伊達晴宗と対立し、その圧迫を受けて1567年に晴宗の3男政景の入嗣を受け入れ、隠居を強いられた。この時、政景に居城の岩切城を譲り渡し、自身は内館館に移ったらしい。

 内館館は、現在は一面の水田地帯となっており、表面観察できる遺構は残っていない。しかし、水田の中に現れたクロップマークによって、堀跡の全容が確認されている。クロップマークとは、地下の堀状遺構の部分にだけ水分が多く溜まっている事により、地上の稲の生育に影響して、そこの稲だけ成長して遺構の状況が現れる現象である。2018年に猛暑に見舞われたイギリスで、クロップマークが各地の畑の中に浮かび上がり、多数の古代遺跡が新発見されている。内館館では、クロップマークに基づいて2016年に発掘調査が行われ、実際に堀があったことが確認されている。またクロップマークとして現れた堀の形状は、昭和20年代前半の航空写真でも水田の形として確認できる。しかし現在は跡形もなく埋め戻され、調査以前の水田に戻っている。せっかく発掘調査を行ったのに、解説板はおろか館跡を示す標注すら立っていない。いつの日か、解説板が立つ日を期待したい。
 尚、前述の航空写真では、内館館のすぐ西側にも方形の堀跡の様な水田が見られるので、こちらも中世の城館遺構ではないかと思う。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.304318/140.972636/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


伊達政宗 謎解き散歩 (新人物文庫)

伊達政宗 謎解き散歩 (新人物文庫)

  • 作者: 佐藤 憲一
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA/中経出版
  • 発売日: 2014/03/11
  • メディア: 文庫


タグ:居館
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化粧坂城(宮城県利府町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1997.JPG←羽黒神社跡
 化粧坂城は、留守氏18代政景が築いた城と伝えられる。政景は伊達晴宗の3男で、貞山公政宗の叔父に当たり、伊達一門の重鎮として活躍した。伊達上野介とも称している。化粧坂城の詳細な歴史は不明であるが、留守氏の居城であった岩切城の目と鼻の先にあり、岩切城防衛の為の出城として築かれたのではないかと思う。

 化粧坂城は、比高わずか5m程の低丘陵に築かれている。現在は市街化で遺構は完全に湮滅し、往時の縄張りを想像することも難しい。賃貸マンションが建っている場所が最高所なので、主郭はここにあったものと推測される。また住宅地の片隅に、ひっそりと羽黒神社跡があり、解説板によれば化粧坂城の2段目の郭内にあったものらしい。従ってこの付近が二ノ郭だったのだろう。羽黒神社は、元々1190年に留守氏の祖伊沢家景が勧進したものと伝えられ、留守氏にとって所縁のある地であった様である。昭和20年代前半の航空写真を見ると、化粧坂城があったのは南北に長い低丘陵で、主郭と思われる平場の西側に2段の腰曲輪状地形が見られ、また主郭南側に切岸で区切られた二ノ郭があった模様である。尚、城跡付近には「館の内」の地名が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.309167/140.952766/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国大名伊達氏 (中世関東武士の研究25)

戦国大名伊達氏 (中世関東武士の研究25)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2019/03/30
  • メディア: 大型本


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松森城(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1945.JPG←主郭北西の堀切
 松森城は、戦国時代に仙台平野の中央部から北部を支配した国分氏の居城である。戦国時代に国分盛顕がこの地に移って居城としたとされるが、盛顕については歴史に混乱があり、事績が明確ではない。松森城の最後の城主は、国分氏17代の盛重である。盛重は、伊達晴宗の5男で、貞山公政宗の叔父に当たり、国分氏の家老堀江掃部允の支持を受けて国分氏に入嗣した。しかし国分氏家中の反発を受けながら強行された入嗣であったため、当主となってからも家中の反乱が度々起き、政宗の不興を買って、国分氏家臣は伊達氏に編入された。盛重は伊達氏の家臣として活動したが、1596年に佐竹氏の元に出奔し没落した。その後松森城は、伊達氏の重要な城の一つとなり、江戸時代には仙台藩の正月行事である「野始」(狩猟、軍事訓練)の舞台となったと言う。

 松森城は、七北田川の北側の比高65m程の山上に築かれている。東方1.8kmには、かつて国分氏と敵対した留守氏の居城岩切城がそびえている。城跡は現在、鶴ヶ城公園となっているが、夏場は雑草が伸び放題で、遺構の確認が大変である。山頂の主郭を中心に、四方に舌状曲輪を配したX字状の曲輪配置となっている。主郭と各曲輪の間には堀切が穿たれ、これらの堀切を繋ぐ様に主郭外周に武者走りが築かれている。主郭に次いで大きいのが南東の曲輪で、これが二ノ郭であったらしい。二ノ郭の先にも尾根が伸び、曲輪がある可能性があるが、雑草がひどくて確認できなかった。岩切城と比べるとかなり小規模な城で、歴史に名を刻む国分氏の最後の居城にしては、随分とささやかな城という印象である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.317602/140.919678/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


伊達氏と戦国争乱 (東北の中世史)

伊達氏と戦国争乱 (東北の中世史)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/12/21
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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茂庭周防屋敷(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1920.JPG←屋敷跡に建つ仙台大神宮
 茂庭氏は、伊達氏の歴世の功臣である。元は鬼庭姓で、鬼庭左月斎良直が伊達輝宗の評定役に抜擢されて以来、伊達氏の重臣となった。良直の子綱元は、伊達政宗(貞山公)に仕え、朝鮮出兵の際にも政宗に従い、豊臣秀吉に謁して寵遇を得た。この時、秀吉の命により姓を茂庭と改めたと言われる。藩政時代に茂庭氏は、代々志田郡松山城(千石城)を領し、伊達騒動などでも重要な役割を果たした。

 茂庭周防屋敷は、仙台城下にある茂庭氏本家の屋敷である。現在は仙台大神宮となっている。市街化が激しく、遺構はおろか往時の雰囲気も望むべくもないが、仙台城の大手筋にも近く、仙台藩内での高い地位が伺われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.258124/140.865412/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


仙台藩ものがたり

仙台藩ものがたり

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 河北新報総合サービス
  • 発売日: 2002/06
  • メディア: 単行本


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葛岡城(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1909.JPG←西側の堀と土塁
 葛岡城は、国分能登守盛氏の家臣で一族衆の馬場筑前入道清説(きよもり)の居城と伝えられる。
 葛岡城は、広瀬川に臨む段丘の南西辺に築かれている。現在は民家となっているが、周囲に土塁や堀跡が明瞭に残っている。東側の土塁はわずかだが、城址標柱が立っている。ここから北側を回って西側まで、低い水田がコの字型に廻っており、堀跡であることが明らかである。最もよく残る遺構は西側のもので、土塁と堀が往時の姿を残している。仙台という大都市の中で、奇跡的に残る良好な城跡である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.263507/140.817969/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/08/21
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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鶴ヶ城(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_6113.JPG←主郭
 鶴ヶ城は、御田鳥城とも呼ばれる。『日本城郭大系』によれば、1549年に大崎氏の家臣菅原太郎明長が田子屋楯から移り住んだが(明長は田子屋楯の前は斐ノ城に在城)、その孫・掃部助長国は1573年の大崎・葛西の合戦で討死した。この合戦で大崎氏は大敗を喫し、この地域は葛西氏の支配下に入り、鶴ヶ城には葛西氏の家臣尾形新右衛門が入って1590年まで在城したと言う。

 鶴ヶ城は、標高60m、比高40~50m程の丘陵上に築かれている。頂部に主郭を置き、南に伸びる緩やかな尾根上に曲輪群を連ねている。主郭は、珍しい三角形の曲輪で、周囲に腰曲輪を廻らしている。南尾根の曲輪群は、段々に並んだ長い平場群で、一部に小堀切や側方の竪堀が見られる。主郭の北東にも広い曲輪があるが、現在は田畑に変貌している。その北に土塁状の遺構らしきものが見られるが、物見台だったのか何なのか意図は謎である。鶴ヶ城は、主郭以外のほとんど全域が薮に覆われ、特に南端の曲輪群は耕作放棄地で深い薮に埋もれており、進入は困難である。一応、市の史跡に指定されており、登り口には標柱も立っているのだが、その標柱も薮に埋もれており、かなり残念な状況である。尚、主郭付近までの登道は南麓から辛うじて残っている。
主郭周囲の腰曲輪→IMG_6116.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.811256/141.092219/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


鎌倉幕府と葛西氏―地域フォーラム・地域の歴史をもとめて

鎌倉幕府と葛西氏―地域フォーラム・地域の歴史をもとめて

  • 作者: 葛飾区郷土と天文の博物館
  • 出版社/メーカー: 名著出版
  • 発売日: 2004/08
  • メディア: 単行本


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斐ノ城(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_6030.JPG←主郭
 斐ノ城は、有賀城とも呼ばれ、葛西氏の家臣渋谷氏の居城と伝えられる。現地標柱の解説によれば、1063年に八幡太郎源義家がこの地で越年したと言われる。しかし同じ様な伝承は東北各地にあり俄には信じ難い。建暦年間(1211~13年)には八幡神社の別当清原氏が居住した。戦国後期の天正の頃には、葛西氏の家臣渋谷備前の居城となったが、渋谷氏の戦死により廃城となったとされる。
 一方、沼舘愛三著『伊達諸城の研究』によれば、古くは延喜年間(901~23年)に鎮守府将軍藤原利仁の陣城であったとの伝承が残る。明応年間(1492~1501年)に大崎氏の家臣菅原兼長が斐ノ城に居城し、1533年に兼長の子明長が田子屋城に移ると、同じく大崎氏家臣の高玉茂兵衛の居城となり、1556年に高玉氏が福岡城に移ると大崎氏家臣田野崎玄蕃照道が城主となった。元亀年間(1570~73年)以来、大崎・葛西両氏は度々交戦し、1573年に大崎氏が大敗するとこの地域は葛西氏の支配下に入り、葛西氏の家臣渋谷式部が居城したとされる。廃城は、1590年の奥州仕置による葛西氏改易の時とされる。

 斐ノ城は、官庭寺裏山に当たる標高45.6m、比高30m程の丘陵上に築かれている。官庭寺の墓地から主郭に登ることができ、主郭南西辺に標柱が立っている。土塁はなく、切岸だけで囲まれた曲輪で、外周に腰曲輪を伴っている。切岸に厳しさはなく、簡単に登れてしまう感じである。主郭の北側に城内通路を兼ねた堀切があり、その北に二ノ郭が築かれている。この堀切も鋭さに欠けるが、主郭側には櫓台が築かれている様である(薮でわかりにくい)。ニノ郭の周りには低土塁が築かれ、外周には腰曲輪群が築かれている。前述の堀切から東に下る小道があり、鞍部の平場(現在は畑地)の東に、御賀八幡神社が祀られた小丘がある。ここにも腰曲輪があり、堡塁であったことがわかる。この堡塁となった神社境内には矢立の杉・弓立の杉がある他、多くの祠と共に斐ノ城跡と刻まれた小さい石碑と八幡神社の由来が刻まれた大きな石碑が立っている。大きな石碑の刻文には、斐ノ城のことも書かれている。矢立の杉・弓立の杉の標柱には由来が書かれていないが、おそらく源義家にまつわるものだろう。神社堡塁の北に宮司家の建つ低地があり、その北にもう一つ小丘があり、ここも腰曲輪が見られ、堡塁であったと思われる。その北東に数段の畑があり、切り通し状に車道が貫通している。これも往時の堀切であった可能性がある。この他、斐ノ城には、武鑓城と同じく西に続く尾根に曲輪群が築かれている。一部は官庭寺の墓地となって改変されているが、薮の中には途中堀切が2本穿たれている。また尾根上には土塁が築かれ、その側方両側に腰曲輪が築かれており、普請は明瞭である。物見台らしいピークも見られる。斐ノ城は、ネットに全く情報がないのであまり期待していなかったが、遺構は比較的良く残っている。しかし主郭と神社境内以外は全体に薮が多く、遺構の確認に少々苦労するのが残念である。
 尚、宮城県遺跡地図では、遺跡範囲から肝心の主郭と神社の堡塁が外れてしまっている。
神社の建つ堡塁→IMG_5987.JPG
IMG_6044.JPG←西尾根曲輪群の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.803965/141.104236/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/08/21
  • メディア: 単行本


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武鎗城(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_5838.JPG←主郭の切岸
 武鎗城は、葛西氏の家臣武鎗氏の歴代の居城と伝えられている。最初は平安末期の1189年頃に築かれたとされる。最後の城主武鎗典膳重信は、天文年間(1532~55年)以来、葛西晴胤・親信・晴信と葛西氏3代に仕えた勇将で、1579年に鶴丸城主富沢直綱が葛西氏に叛して磐井郡流庄へと侵攻した富沢兵乱において、主家の防壁として奮戦した。しかし1590年の豊臣秀吉の奥州仕置で葛西氏が改易された後、同年に生起した葛西大崎一揆に武鎗典膳も参陣し、一揆鎮圧後に伊達政宗が一揆の主だった者達を桃生郡須江山において謀略によって惨殺した「須江山の惨劇」で典膳も殺害された。

 武鎗城は、東館と西館で構成されたとされる。東館が主城で、標高59.6m、比高50m程の丘陵上に築かれている。城内を東西に通る車道の北側の段丘上が主郭で、一部が畑、大半が山林となっている。大きな切岸で囲まれ、南西部には横矢掛かりの塁線が内側に折れており、外周に腰曲輪を廻らしている。腰曲輪は西面では2段確認できる。主郭の北側は切岸が不明瞭な緩斜面となって、腰曲輪と繋がっている。主郭東の腰曲輪には給水施設があり、そこに標柱が立っており登道が付いている。また主郭の西側の民家の建つ高台や、その南の広場(小学校跡地)、主郭の南下方に広がる畑地も曲輪跡であったと考えられる。一方西館は、東館の西に連なる尾根に築かれた堡塁群で、3つのピークの内2つは安養寺の墓地となり改変されているが、周囲の山林内に腰曲輪が数段確認でき、城郭遺構であることは確実である。しかし一番西の3つ目のピークは薮がひどく進入不能である。同じ様な尾根が東館の北西にも連なっているので探索したが、こちらにはあまり明確な普請の形跡は見られず、城砦はなかった様である。武鎗城は、部分的に改変が進んでいるものの主郭部が健在で、往時の姿をよく残している。但しあまり技巧性はなく、曲輪群を連ねただけの縄張りだった様である。尚、『日本城郭大系』には、主郭北側に空堀があると記載されているが、実際には空堀は見られなかった。
主郭周囲の腰曲輪群→IMG_5837.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.803848/141.122925/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


伊達政宗の研究(新装版)

伊達政宗の研究(新装版)

  • 作者: 小林 清治
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/06/14
  • メディア: 単行本


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有壁楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_5754.JPG←主郭背後の大堀切
 有壁楯(有壁館)は、当初は大崎氏家臣後藤美作・菅原帯刀の居城、後に葛西氏家臣有壁尾張・有壁安芸・有壁摂津の3代にわたっての居城であったとされる。有壁摂津は、西館(鶴頭城)城主としてもその名が見える。東方350m程の所には奥州街道有壁宿があり、街道を押さえる要害であったことがわかる。

 有壁楯は、有馬川北岸の比高30m程の丘陵南端部に築かれている。地勢は国土地理院地形図の等高線で見えるのとは違い、大きく抉れた東斜面より西側斜面の方が傾斜が緩いため、防御構造は西側に集中して築かれている。登り口は東麓にあり、標柱が立っているが、明確な道はあまりなく、わずかな踏み跡を辿って東尾根を登って行くと、2段程の段曲輪が確認でき、その上に主郭の虎口が築かれている。直接主郭に至ることから、この南東尾根は搦手であったことがわかる。主郭はほぼ長方形の曲輪で、西側のみに低土塁が築かれている。北西には大手虎口があり、大堀切と横堀に挟まれた土橋で二ノ郭に連結している。ニノ郭は、主郭の北西に一段低く築かれ、主郭との間には前述の通り横堀が穿たれ、北西辺に一段低く腰曲輪を築いている。その下方には横堀の塹壕線が築かれ、しっかりした土塁で横堀外側を防御している。土塁の南端は櫓台となっている。この様に西側には射撃戦を想定した重厚な防御構造が見られる。一方、主郭背後には大堀切が穿たれ、その北側に三ノ郭が築かれている。大堀切からは長い竪堀が落ち、前述のニノ郭外の横堀と交差して繋がっている。三ノ郭の北に更に堀切が穿たれて城域が終わっているが、この堀切からも竪堀が西に長く落ちている。三ノ郭は、背後に土塁が築かれているが、西側は腰曲輪等のない只の緩斜面で、不思議な普請である。相方は、敵兵をおびき寄せる罠じゃないかと推測していたが、竪堀による誘導を考えるとなるほど、そういう考え方もあるかと、その発想に感心した。有壁楯はこの様に遺構が良く残り、西側に重厚な防御構造を有しているが、残念ながら未整備で薮が多く、見映えしないのが残念である。
ニノ郭北西側の横堀→IMG_5769.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.870353/141.122067/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/08/21
  • メディア: 単行本


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