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古城めぐり(栃木) ブログトップ
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戸田館(栃木県那須烏山市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN3827.JPG←郭跡のような段差
 戸田館は、歴史不詳の城館である。入江野城に近いことから、入江野城との関係を指摘する説もある。

 戸田館は、塙古館の南東にあったらしい。占地も同じで、荒川沿いの河岸段丘上にあるとされる。現地を確認してもよくわからないが、段丘辺縁部の畑が方形をしており、周囲に段差や堀っぽい溝があるので、これが郭跡であろうか。場所がはっきりしないので、遺構なのかどうか、ちょっと自信がない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.687117/140.070598/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:居館
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塙古館(栃木県那須烏山市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN3795.JPG←西側の堀跡
 塙古館は、歴史不詳の城館である。荒川を挟んで対岸には入江野城がある。『栃木県の中世城館跡』では「入江野城との関係が考えられる」とあるが、詳細は不明である。

 塙古館は、荒川北岸の段丘辺縁部に築かれている。水堀で囲んだ半月型の曲輪の内部にいくつかの曲輪があり、土塁囲みの「御屋敷」という曲輪もあったらしい。しかし郭内は民家になっているので、遺構の確認ができない。しかし東西の堀跡が水路となって残っている。また西の堀の外側に西外郭があり、そこに建つ民家の南西側に土塁と櫓台が確認でき、その外側に横堀が穿たれ、先端で折れ曲がって竪堀となって落ちている。この部分が現在踏査できる唯一の明確な現存遺構であろう。全体としてはかなり残念な状況である。
西外郭の櫓台→DSCN3803.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.688356/140.068088/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


歴史家の城歩き

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  • 出版社/メーカー: 高志書院
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タグ:中世平城
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入江野城(栃木県那須烏山市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN3753.JPG←主郭背後の2本目の堀切
 入江野城は、佐久山氏の一族入江氏の居城である。1563年5月、福原資孝は兄弟の大関高増・大田原綱清と共に謀略をもって佐久山義隆を殺害し、佐久山氏を滅亡させた。この時、佐久山泰秀も福原氏に追われてこの地に移って入江野城を築き、以後入江氏を称して本拠とした。1586年、入江泰清の時に那須資晴に滅ぼされ、廃城となったと言う。

 入江野城は、荒川南岸の標高160m、比高50m程の丘陵突端部に築かれている。城があるのは民家の裏山で、北の車道から竹林の平地に入り、そこから左手の斜面を登って尾根上に登れば、もう城域である。そこは城の北端部に当たり、細尾根上の曲輪の先端に小堀切が穿たれ、その先に小郭が置かれている。堀切は西側に竪堀となって落ち、登城路を兼ねていたようである。尾根上の2つの曲輪の東側には帯曲輪が築かれ、尾根に沿って南に長く伸びている。また北東下方には屋敷神と思われる神社が祀られた腰曲輪がある。尾根を南に向かって登っていくと、2段の曲輪がある。上段の曲輪の付け根はわずかに窪んでおり、堀であったらしい。その上に主郭がある。主郭は3段の平場で構成され、後部に三角形の高台(櫓台か?)を設けている。しかし郭内は薮に覆われていてあまり見栄えしない。主郭の背後の尾根には2本の堀切が穿たれている。中規模のもので形状ははっきりしているが、あまり鋭さがなく、自然地形に少々手を加えた程度のものだったようにも思われる。以上が入江野城の遺構で、詰城らしい小型の山城である。
先端の堀切と小郭→DSCN3715.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.685000/140.063667/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図解 戦国の城がいちばんよくわかる本

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  • 作者: 西股 総生
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  • 発売日: 2016/02/20
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猿山城(栃木県宇都宮市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2788.JPG←南西の外堀
 猿山城は、宇都宮氏の家臣猿山大学の居城であったと伝えられる。猿山では、宇都宮氏家中の内訌「大永の内訌」の契機となった猿山合戦が猿山城の東方で行われており、この戦いの後、猿山城は廃城になったと伝えられる。猿山合戦は、1523年に結城城主結城政朝が宇都宮城主宇都宮忠綱を攻撃した戦いである。忠綱の家中統制強化に反発した宇都宮氏の重臣芳賀高経が密かに結城氏の元に行き、支援を求めた。政朝と忠綱は、前々から中村12郷を巡る対立などで関係が悪化しており、高経の支援要請を受けた政朝が宇都宮氏家中の対立に介入して起こったのが猿山合戦であったとされる。忠綱はこの戦いに敗北し、しかも居城の宇都宮城を反忠綱派の芳賀氏らに占拠されたため帰城もできず、やむなく忠綱派であった壬生綱房を頼って鹿沼城に逃れた。高経ら宇都宮家臣団は忠綱の末弟興綱を擁立した。以後、高経が専権を振るうようになった。失脚した忠綱は1527年に失意のまま没し、この忠綱の死をもって大永の内訌は収束した。

 猿山城は、江川と西方の小河川とで挟まれた低台地の上に築かれている。城跡は山林となっている。山林南西側に弧を描くように外堀が穿たれている。山林内には土塁と空堀がよく残っているが、明確に曲輪を形成した感じではなく、城内をいくつかに区画した様に構築されている。また山林内には古墳が点在し、土塁囲みの稲荷社(岩室稲荷)もある。どうも急造した城のような感じで、宇都宮城南方を押さえる規模の大きな陣城か、或いは猿山合戦前夜に臨時築城した陣城であったのかもしれない。それにしても城の位置は、宇都宮領全域から見ればかなり宇都宮城に近く、上三川城多功城など南方の要衝よりも領内深い位置にあり、猿山合戦が、宇都宮忠綱が完全に不意を衝かれた不本意な戦であったことを物語っている様である。
内部の空堀と土塁→DSCN2839.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.519061/139.912755/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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  • 作者: 郁夫, 江田
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  • 発売日: 2011/10/01
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上館(栃木県上三川町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2762.JPG←北側の堀と土塁
 上館は、上城とも呼ばれ、宇都宮氏の家臣篠崎主山の居館と伝えられている。上三川町域には中館下館があり、いずれも上三川城北東の鬼怒川西岸地区に北から順に配列しており、これら3つの館は何らかの関連があったのではないかと思う。

 上館は、上三川ホースパークという乗馬クラブの西側に隣接している。現在は民家となっているので、内部探索はできない。『栃木県の中世城館跡』の略測図や昭和20年代前半の航空写真を見ると、南北2郭または更に東の郭を合わせた3郭で構成されていたらしい。いずれも民家の敷地なので、遠目に確認できたのは主郭に当たると思われる北郭の北辺の堀と土塁だけである。堀は溝状でほとんど埋まってしまっている。尚、どこの部分か明確ではないが、以前は三重の堀があったらしい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.472348/139.942775/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書

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  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2020/10/27
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中館(栃木県上三川町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2747.JPG←北側の二重土塁と空堀
 中館は、中城とも呼ばれ、宇都宮氏の家臣黒須氏の居館である。上三川町域には上館下館があり、いずれも上三川城北東の鬼怒川西岸地区に北から順に配列しており、これら3つの館は何らかの関連があったのではないかと思う。

 中館は、鬼怒川西岸の微高地にあり、現在は宅地となっているが、Google Mapの航空写真で見ると、ほぼ方形の敷地が現存し西・北・東に土塁が残っている。民家の敷地なので内部からは確認できていないが、北側の車道から望むと、北側には二重土塁と空堀が確認できる。また北東角の土塁も見られる。しかしその他は近づく術がない上、土塁付近は未整備の薮で覆われていて、確認が困難である。以前は西辺中央に枡形虎口らしいL字型の土塁があったが、現在は湮滅しているらしい。それでもまだこれだけきれいに遺構が残っているのだから、何とか保存の手立てを講じてほしいものである。

 尚、中館の西に隣接する満福寺は、戊辰戦争の際に土方歳三率いる幕府軍の別働隊が本陣を置いた場所である。ここから宇都宮城攻略に向かったのである。
北東角の土塁→DSCN2751.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.459717/139.940114/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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下館(栃木県上三川町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2742.JPG←丘陵周囲の切岸状の土手
 下館は、歴史不詳の城館である。上郷地区にあったらしいということ以外は何もわかっていない、謎の城館である。上三川町域には上館中館があり、いずれも上三川城北東の鬼怒川西岸地区に北から順に配列しており、これら3つの館は何らかの関連があったのではないかと思う。

 下館は、江川西岸にあったらしい。その正確な位置も判明していないが、江川西岸には弓形になった独立丘陵があり、そこが館跡ではないかと考えられる。明確な遺構はないが、この丘陵周囲は高さ2m程の切岸状の土手が見られる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.445029/139.924750/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

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  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
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タグ:居館
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落合館(栃木県上三川町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2734.JPG←館跡の民家
 落合館は、宇都宮氏の一族落合四郎親綱が室町初期に築いたと言われる。親綱は、宇都宮氏の有力な支族横田氏3代親業の3男で、河内郡落合郷に分封されて和泉守四郎左衛門尉と名乗り、落合氏の祖となった。館は、宇都宮氏改易の1597年まで存続したと伝えられる。

 落合館は、田川東岸の平地に築かれている。現在は御子孫の居宅の敷地で、遺構はほとんど湮滅している。館の西側に水路が流れているが、外堀の一部を成していたのだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.447463/139.890697/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世の名門 宇都宮氏

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  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2018/06/14
  • メディア: 単行本


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石田館(栃木県上三川町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2724.JPG←南辺の土塁と堀跡
 石田館は、歴史不詳の城館である。『栃木県の中世城館跡』では戦国時代の小土豪の居館と推測している。

 石田館は、田川東方の平地に築かれている。感応寺の北東に当たり、現在は畑となっている。遺構はかなり断片的で、南辺の土塁と空堀の一部、北の土塁のごく一部などが残っているだけである。西の民家の東側にも土塁が見えるが、近づけないので形状はよくわからない。南辺の遺構は、薮がひどくてよくわからないが、二重の土塁の間に空堀があるようである。かなり残念な状態である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.465722/139.901447/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


栃木県の歴史 (県史)

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  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2012/02/01
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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大山城(栃木県上三川町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2710.JPG←西側の空堀と二重土塁
 大山城は、歴史不詳の城館である。一説には、多功城の重臣の居館と言われる。多功城や梁館に程近く、これらと連携して宇都宮氏領の南方を防衛していたのだろう。

 大山城は、大山集落の南端付近に位置している。民家の宅地・農地になっているが、北と西に土塁・空堀が残っている。特に西の遺構は、二重土塁と空堀が良好に残っている。また北は一重の土塁と空堀だけになっており、外側の土塁は削られてしまったのかもしれない。北西角部も見れればよかったのだが、民家の裏であり、周囲からも丸見えなので進入は憚られる。南にも堀跡らしい水路が残る。南西には隅櫓台のような土壇があるのだが、これは遺構とは認定されていないようである。集落内の城館にしては遺構がよく残っている方である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.437295/139.881256/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

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  • 作者: 塙 静夫
  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2015/02/16
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タグ:中世平城
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下石橋館(栃木県下野市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2699.JPG←館跡の現況
 下石橋館は、歴史不詳の城館である。位置関係から多功城の支城であったと推測されている。この館のすぐ脇には近世の日光街道(中世の奥大道)が通っており、宇都宮氏にとって南の小山氏の侵攻ルートに対する関門的な役割を持った城館であったことがうかがえる。実際に1380年の裳原合戦では、小山義政にこのルートから進撃されている。裳原合戦での侵攻を受けて、宇都宮氏がこの館を築いた可能性も考えられる。但し、必ずしも中世館跡とは断定できないらしい。

 下石橋館は、国道4号線西側の工場団地の中にある。2000年頃までは山林のまま残っていたようであるが、現在は完全に更地化されてしまい、遺構は完全に湮滅している。往時は、東辺が斜めになった台形状の曲輪があったらしく、四周に廻らされた空堀のみが残存していたと言う。しかし土塁がなかったことから、前述の通り中世館跡とは断定できなかったと言う。それにしても更地化するにあたって発掘調査も行わなかったのだろうか?もし全く発掘調査を行っていなかったとしたら、現代の行政対応としては怠慢の謗りは免れない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.418805/139.861021/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世宇都宮氏 (戎光祥中世史論集9)

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  • 作者: 江田郁夫
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2020/01/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
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上長田館(栃木県壬生町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2672.JPG←わずかに残る空堀
 上長田館は、歴史不詳の城館である。周囲には、古屋敷・内屋敷・前原・女夫塚などの地名が残っている。

 上長田館は、姿川西岸の低段丘の北辺部に築かれている。占地としては多功城とよく似ている。周辺は民家や水田となっており、現状からでは城域は確定できない。民家裏の林の中に段丘北辺に沿って空堀があるが、薮がひどくてわずかな痕跡しか確認できない。城館に関する伝承も残っていないようなので、早くに失われた城館であったらしい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.471934/139.843876/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


栃木県の歴史散歩

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  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2007/04/01
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タグ:居館
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石生山城(栃木県那珂川町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN7817.JPG←4郭背後の土橋と堀切
 石生山城は、近年発見された城である。従って歴史も何もわかっていない。
 石生山城は、標高350m、比高190m程の石生山に築かれている。富岡武蔵さんのブログを参考にして北西麓の御前岩の横からアプローチしたが、登山道は途絶で途絶してしまい、結局薮の斜面を直登することになってしまった。しかも城に到達しても、城内は薮がかなり多く、遺構の確認がし辛い部分が多かった。つい4年程前まではわりと薮が少なかったようなので、これも新型コロナの影響なのかもしれない。山頂に主郭を置き、北に堀切を挟んで二ノ郭があり、更に堀切を介して自然地形の3郭がある。この2本の堀切はいずれもささやかなもので、ほとんど薮に埋もれてわかりにくくなっている。3郭の北東に、土橋が架かった堀切があり、その先に4郭がある。また主郭の南西尾根にも段曲輪があり、その先に小規模な堀切が穿たれて城域が終わっている。主郭と4郭の内部には段差が見られるが、薮でわかりにくいため、形状がはっきりしない。全体に郭内の削平は甘く、堀切や腰曲輪もあるが普請はわずかである。佐竹氏が下郷要害城の大山田氏を攻撃した際に、臨時築城した付城であった可能性が考えられる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.763444/140.210191/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


杉山城問題と戦国期東国城郭 (戎光祥城郭叢書3)

杉山城問題と戦国期東国城郭 (戎光祥城郭叢書3)

  • 作者: 竹井英文
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2022/09/08
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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上郷要害城(栃木県那珂川町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN7765.JPG←円弧状堀切と竪堀
 上郷要害城は、下郷要害城を本拠とした大山田氏の支城と推測されている。下郷要害城から北北西約3kmの位置にあり、武茂川西岸の比高120m程の山上に築かれている。北麓の廃屋の脇から登道が付いており、ほとんど迷うことなく訪城できる。細長い主郭と、前面の前郭、西側の帯曲輪などから構成されている。前郭は東西に虎口があり、前面下方に穿たれた堀切に通じている。この堀切の下方の斜面にも数段の段曲輪が見られる。主郭の北東部にも段曲輪があり、その先の細尾根に竪堀も見られる。主郭は内部がいくつかの段に分かれているが、あまり段差がはっきりしない。また両側面が一段低くなっているが、これもあまり段差が明瞭ではなく、全体にのっぺりした構造である。主郭後部は円弧状となっており、その下に円弧状堀切が穿たれている。この堀切は、南西部は外側にもう1本堀切が穿たれて、二重堀切となっている。内堀に当たる円弧状堀切は、西端部と中央やや東寄り、それと東端部に合計3本の竪堀が落ちている。竪堀は主郭西側の腰曲輪からも落ちている。この他、南西の尾根の先にもう1本、堀切が穿たれて城域が終わっている。以上が上郷要害城の遺構で、大山田氏の本拠である下郷要害城などと比べると、より防備を固めた出城であったように思われる。
西帯曲輪と主郭切岸→DSCN7766.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.812609/140.207584/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書

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タグ:中世山城
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下郷要害古城出城(栃木県那珂川町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN7530.JPG←出城の遠景、2本の堀切が見える
 下郷要害古城出城は、下郷要害古城の西の尾根に築かれた城である。城名は、お城巡りの先達余湖さんのHPでの記載に従った。下郷要害古城が武茂川から1本奥まった尾根に築かれているのに対して、この出城は武茂川沿いの尾根にあるため、西岸の石井館から出城の堀切がよく見える。このことから、佐竹氏勢力が築いたとされる石井館に関連して、物見または烽火台の砦として築かれた可能性も考えられる。

 下郷要害古城出城は、前述の通り下郷要害古城の西の尾根にある。城の南半分は木が皆伐されているので、南麓から伸びる作業用林道を古城に向かって登っていくと、途中で西にある尾根にその遺構を見ることができる。この出城はいわゆる細尾根城郭で、山頂部の主郭には中央で曲輪を南北に分断する堀切が穿たれている。この堀切は深さ2.5m程で、鋭い薬研堀となっている。この手の小城では大きい堀切で、しかも両側が切り立った急斜面となっているので、捕まる木もなく、堀切を越えるのには結構緊張感がある。主郭の少し北から東に突き出た支尾根にも、根元に堀切が穿たれている。主郭から北に尾根を下っていくと、東西2本の尾根に分岐する。この尾根の間の谷部には若干の平場が見られるが、ほとんど自然地形である。分岐した2本の尾根の内、東の尾根は細尾根が続くだけである。一方、西の尾根は分岐部から少し先に小堀切が穿たれ、その先で尾根が西に向かって折れた部分の北斜面に、2段に分かれた曲輪とその下方に腰曲輪1段が確認できる。更にその先の尾根には2つのピークがあって、物見台のようにも見受けられる。以上が下郷要害古城出城の遺構で、ほとんどまとまった広さの曲輪がない一方、下郷要害城や古城よりも堀切の普請がしっかりしており、物見または烽火台の砦として築かれた可能性を示唆している様に感じられた。
主郭の鋭い堀切→DSCN7609.JPG
DSCN7649.JPG←西尾根途中にある曲輪

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.783073/140.220459/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 戦国の城

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タグ:中世山城
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下郷要害古城(栃木県那珂川町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN7569.JPG←主郭の尾根の曲輪群
 下郷要害古城は、武茂氏の庶流大山田氏が築いた城とされる。その仔細は下郷要害城の項に記載する。『栃木県の中世城館跡』によれば、下郷要害城は深い谷を挟んだ南北2ヶ所に遺構があると言う。一方、お城巡りの先達余湖さんのHPによれば、北の城を「新地の城」、南の城を「古城」と呼んでいるとのことで、ここでは余湖さんの記載に倣って、北の城を下郷要害城、南の城を下郷要害古城とし、本項では下郷要害古城について述べる。

 下郷要害古城は、前述の通り下郷要害城から深い谷を挟んだ南の山稜上に築かれている。武茂川の東の山稜であるが、直接武茂川に臨む尾根上には出城を配し、古城自体はそれより一つ東に奥まった尾根に築かれている。城へは、南麓の市道(馬頭ゴルフクラブの北側を通る道)脇から谷筋を登る作業林道が切り開かれており、これを登っていけば城跡まで達する。この林道は城内まで入っているので遺構は破壊を受けているが、おおよその遺構は確認できる。また城域内の木が皆伐されており、2022年2月時点では全く薮がない状態だったので、細尾根の段郭群がよく分かる状況だった。遺構は、北に向かってU字型に張り出した2つの細尾根に曲輪群を段々に配し、その2つの尾根の間の広い谷地形にも段々に平場群を置いている。2つの尾根の内、東の尾根の最上段が主郭と考えられ、祠が祀られている。その前面に2~3段の段曲輪が築かれ、小堀切も穿たれている。細尾根先端の下方にも腰曲輪が見られる。一方、U字尾根の後部の最高所には櫓台らしい土壇があり、背後に堀切が穿たれている。但し、林道が貫通して破壊を受けている。その少し南にも土壇が残っているが、かなり削られており、往時の形状がよくわからなくなっている。尾根の間の平場群は、かなり破壊を受けていて、これも往時の形状がわかりにくくなっている。下郷要害城とは縄張り上の共通点が多く、どちらの方が防備が厳重という感じでもないので、下郷要害城と下郷要害古城とが並立して機能していたのではないかと推測される。
西尾根の曲輪群→DSCN7581.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.785049/140.222089/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

  • 作者: 塙 静夫
  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2015/02/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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石井館(栃木県那珂川町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN7526.JPG←西の堀跡の田んぼ
 石井館は、佐竹氏家臣の石井氏の居館と伝えられている。佐竹氏が1570年に大山田氏を滅ぼした後、近辺の鉱山支配のために石井氏が派遣され、この居館に拠ったとされている。

 石井館は、武茂川西岸の台地に築かれている。郭内は民家になっているので、内部は確認できないが、民家の南と西に明確な堀跡の田んぼが残っている。北側の山林内にも堀跡が残っているが、民家の真裏なのでほとんど踏査していない。小規模な単郭方形居館であったと思われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.784499/140.214128/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


47都道府県・城郭百科

47都道府県・城郭百科

  • 出版社/メーカー: 丸善出版
  • 発売日: 2022/07/31
  • メディア: 単行本


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下郷要害城(栃木県那珂川町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN7436.JPG←主郭後部の櫓台
 下郷要害城は、武茂氏の庶流大山田氏が築いたと伝えられる。武茂氏初代泰宗の子孫泰景が大山田左京亮を称し、永禄年間(1558~70年)に築城したと言われる。大山田氏は那須氏に属しており、1570年に佐竹氏が攻め滅ぼした大山田城はこの城のことと推測されている。この後廃城になったと言う。

 下郷要害城は、『栃木県の中世城館跡』によれば、深い谷を挟んだ南北2ヶ所に城があると言う。一方、お城巡りの先達余湖さんのHPによれば、北の城を「新地の城」、南の城を「古城」と呼んでいるとのことで、ここでは余湖さんの記載に倣って、北の城を下郷要害城、南の城を下郷要害古城とし、本項では下郷要害城について述べる。

 下郷要害城は、武茂川東岸の比高90mの山上に築かれている。北西麓に武茂川を渡る橋があり、その先を東に向かって進み、道なりに南に入っていくと、城の東の谷筋を登っていくことになる。そのまま山道を進むと右手の尾根に登っていき、北尾根の堀切に至る。堀切の東側には腰曲輪が1段築かれている。北尾根には堀切の先に細長い4郭があり、その先端は物見台となって急崖に臨んでいる。前述の堀切には土橋が架かっており、その南に登ると二ノ郭に至る。ここからが城の中心部である。城の中心部は3段の曲輪で構成され、上から順に主郭・二ノ郭・三ノ郭とひな壇状に並んでいる。主郭は三角形の曲輪で、後部に櫓台らしい土壇があり、背後の尾根に小堀切を穿っている。二ノ郭は最も広やかな曲輪で、主郭とは明確な切岸で区画され、二ノ郭南辺には主郭から続く土塁が築かれている。おそらく坂土橋を兼ねていたと思われる。二ノ郭の西には、一段低くT字型の三ノ郭が広がっている。三ノ郭の西端から北西に細尾根が伸び、先端には祠が祀られているが、これも往時の物見台であったと思われる。以上が下郷要害城の遺構で、あまり防御の固い城とは思えないが、急崖に臨んだ地勢ゆえに、あまり硬い防御を必要としなかったからかもしれない。
主郭背後の堀切→DSCN7442.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.788709/140.222669/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東・甲信越戦国の名城・古城歩いて巡るベスト100

関東・甲信越戦国の名城・古城歩いて巡るベスト100

  • 作者: 清水克悦
  • 出版社/メーカー: メイツ出版
  • 発売日: 2014/10/17
  • メディア: Kindle版


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武茂東城(栃木県那珂川町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN7355.JPG←主郭背後の円弧状堀切
 武茂東城は、武茂城の出城である。武茂氏の菩提寺である乾徳寺のある谷を挟んで、武茂城と相対するように築かれている。だいぶ前に訪城しようとしたが、既に夕暮れだったのと、まだ薮漕ぎに慣れていない頃だったので、途中で撤退していた。今回、15年ぶりの再訪である。
 武茂東城は、北東から南西に向かって伸びる細長い尾根上に5つの曲輪を連ねている。最上段に主郭があり、わずかな段差で南の二ノ郭と分かれている。二ノ郭は南西に細長く伸び、南端に一段低い段曲輪があり、その前面に堀切を挟んで物見台とされる土壇を置いている。但し、二ノ郭に至る明確な虎口がなかったので、この土壇はもしかしたら二ノ郭前面の虎口郭に繋がる木橋の入口であったかもしれない。二ノ郭の南には逆L字型をした三ノ郭が伸び、三ノ郭南端には枡形虎口が築かれている。三ノ郭の先には、更に四ノ郭・五ノ郭が細長く伸び、両曲輪の間は段差だけで区画され、段差の手前の脇に南斜面に通じる虎口が開かれている。一方、二ノ郭・主郭の両側には腰曲輪が延々と築かれ、主郭背後は円弧状の堀切が穿たれている。堀切は西端で折れて、竪堀となって落ちている。堀切の北東には自然地形の平場(北郭か?)があり、その先にも堀切が穿たれている。またこの平場の南西端には片堀切が穿たれ土橋で連結された小郭がある。
 武茂東城は、技巧的な縄張りは持たないが、武茂西城と共に武茂城の両翼を防衛する城砦として機能していたことがうかがわれる。
三ノ郭の枡形虎口→DSCN7311.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.742160/140.173509/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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武茂西城(栃木県那珂川町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN7278.JPG←主郭背後の堀切
 武茂西城は、武茂城の出城である。武茂東城は古くから知られていたが、西城は近年発見されたものである(地元では城があることは知られていたらしい)。馬頭小学校の裏山にあり、尾根の南西端から遊歩道が整備されている。ほぼ単郭の城で、主郭内は4段の平場に分かれている。主郭の前後は円弧状の堀切で分断され、西側にはこれらの堀切と繋がる形で横堀が穿たれている。横堀は途中でわずかに折れ曲がっており、横矢を意識している。前述の遊歩道は、この横堀を通っている。主郭には、この横堀に沿って土塁が築かれ、主郭後部まで包み込むように土塁が伸びている。また主郭の南東には前面の堀切に繋がるように虎口も築かれている。城の南端は、お堂の建つ平場となって削られているので、南端部の往時の形状はわからなくなってしまっている。
 武茂西城は、小規模な城砦であるが、武茂東城と共に武茂城の両翼を防衛する城砦として機能していたことがうかがわれる。
主郭西側の横堀→DSCN7283.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.740165/140.168059/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

  • 作者: 塙 静夫
  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2015/02/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平山城
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大木須城(栃木県那須烏山市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8970.JPG←主郭の湯殿神社
 大木須城は、木須大膳館とも言い、下野の名族那須氏の庶流木須氏の居城である。那須資実の次男頼実が、明応年間(1492~1501年)頃に大木須・小木須・横枕の地を与えられ、木須民部大輔を名乗り、大木須城を築いて居城としたと言う。頼実の子康実は1551年に主君那須高資と共に千本城に赴いて主君とともに謀殺された。康実には与九郎・与八郎という子があったが、二人は母方の羽田氏に引き取られて藤形輪館に移ったため、大木須城は廃城となったと伝えられる。

 大木須城は、比高70m程の山上に築かれている。明確な登山道が見当たらないので、西麓から斜面を直登した。ほぼ単郭の小規模な城砦で、山頂部に主郭を置き、その周囲に1~2段の腰曲輪を廻らしただけの簡単な構造である。東側の腰曲輪には竪堀が穿たれている。主郭の中央には土壇があり、湯殿神社の小祠が祀られている。主郭の北側は緩斜面となっていて、その先に二重堀切があるが、痕跡はわずかでほとんどわからない。更に少し降ったところに城域の北限を区切る堀切が穿たれている。以上が大木須城の遺構で、有事の際の詰城であったと思われる。
北端の堀切→DSCN8991.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.632224/140.220662/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

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  • 作者: 塙 静夫
  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2015/02/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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興野城(栃木県那須烏山市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8928.JPG←西斜面の堀と帯曲輪
 興野城は、下野の名族那須氏の庶流興野氏の居城である。那須氏が室町時代に上那須・下那須両家に分裂した際、下那須家の当主となった那須資重の子資持の次男持隆が、興野・大沢村に領地を与えられ、1472年に興野氏を称し、7人の家来と共に興野城を築いて移ったと言う。築城当時は味城館と称し、後に「内曲輪・外城」と合わせて3館を構えていたとされる。1590年の那須氏改易によって廃城となった。

 興野城は、下那須氏の居城烏山城から那珂川を挟んだ対岸の河岸段丘上に築かれている。ちょうど興野大橋が架かっている場所にあり、そのため県道が城内を貫通して破壊を受けている。『那須の戦国時代』の縄張図によれば、南北に細長い三角形をした城であったらしく、現在は畑や宅地に変貌している。城の北端に堀切を兼ねたと思われる谷があり、その南側の小道脇に土塁と腰曲輪が残っている。あとは平場だけなので遺構は明確でないが、西斜面に堀を穿った帯曲輪があり、これも城の遺構と思われる。ただ堀と言うより溝に近い形状なので、本当に遺構なのかどうか、少々悩ましい。また城の南端部は宅地化で大きく様変わりしているので、どこまで城域だったのか、はっきりしない。かなり残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.667240/140.164196/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世の下野那須氏 (岩田選書 地域の中世)

中世の下野那須氏 (岩田選書 地域の中世)

  • 作者: 義定, 那須
  • 出版社/メーカー: 岩田書院
  • 発売日: 2017/06/01
  • メディア: 単行本


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森田高館城(栃木県那須烏山市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8845.JPG←主郭背後の堀切
 森田高館城は、歴史不詳の城である。加登べ城の南に隣接するように築かれており、また森田城から平地を挟んで西方1.2kmの位置にあることから、森田氏に関係する城と推測されている。城郭関連書籍では単に高館城と記載されるが、同じ那須烏山市内に同名の高館城があり紛らわしいので、ここでは森田高館城と記載する。

 森田高館城は、北に向かって突き出た比高70m程の丘陵上に築かれている。一応北麓から登道が残っているのだが、城内はどこも激薮で、遺構の確認が大変である。南北に2つの曲輪を連ねた連郭式の縄張りとなっている。『栃木県の中世城館跡』によれば、南が主郭、北が二ノ郭とされる。いずれの曲輪も外周に土塁が築かれている。二ノ郭の前面には小郭が置かれ、小郭の前面に堀切が穿たれている。この堀切は、西側で横堀となってクランクしながら二ノ郭の西側に回り込み、そのまま主郭の西側を掘り切っている。二ノ郭の後部には主郭との間に虎口が築かれ、虎口の西には櫓台、東にはL字型の堀切が構築されている。主郭背後には深い堀切が穿たれている。主郭の南西にはゴルフ場があって遺構の一部が破壊されているが、堀切の南にも2つの曲輪が確認できる。これらの曲輪の東側には横堀があり、2郭の間の堀切も確認できる。以上が確認できた森田高館城の遺構であるが、あまりに薮がひどく、遺構の全容がよくわからない。もう少し整備されるとありがたいのだが。
 なお、かつて二ノ郭前面の小郭にあったという鉄塔は、今はなくなっていた。
二ノ郭西側の横堀→DSCN8815.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆(薮がひどいので星1つ減点)
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.632034/140.115134/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1




タグ:中世山城
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加登べ城(栃木県那須烏山市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8722.JPG←堀切
 加登べ城は、根小屋城とも言い、歴史不詳の城である。森田城から平地を挟んで西北西1.2kmの位置にあり、森田氏に関係する城と推測されている。

 加登べ城は、比高40m程の丘陵上に築かれている。東麓の民家の脇から登道が付いているので、民家のおばあさんに立入りのお願いをしたところ、「加登べ城」では話が通じず、「根小屋城」と言ったらわかってくれたので、地元では根小屋城の名で通っているらしい。登道を登っていくと、まず城の東外周に巡らされている帯曲輪に至る。帯曲輪はきれいに手入れされた竹林の中を、山形に沿って屈曲しながら城の北端まで伸びている。帯曲輪の上にあるのが城の中心となる曲輪で、現在は1つの曲輪にしか見えないが、『栃木県の中世城館跡』によれば、往時は土塁と空堀で東西2郭に分かれており、東が主郭、西が二ノ郭であったらしい。また主郭・二ノ郭の周囲には土塁も巡らされていたが、明治時代に畑の拡張で土塁は壊されたらしい。現在は主郭に当たる部分の北辺に土塁が残っているだけである。二ノ郭には、以前は民家が建っていたらしく近代の井戸跡などが放置されている。二ノ郭の西側には、台地基部を分断する堀切が穿たれている。この堀切の裏にも、北端部と南端部に空堀があり、端部だけ堀が二重となっている。堀切の北側は、そのまま二ノ郭北西の腰曲輪に繋がっており、物見台のような土壇や竪堀が見られ、腰曲輪の東端には外側に土塁が築かれている。以上が加登べ城の遺構で、『栃木県の中世城館跡』では「保存度不良」とされているが、堀切も含めて外周部の遺構はよく残っており、往時の雰囲気はよく感じられる。
腰曲輪の土塁→DSCN8743.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.635857/140.115144/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1




タグ:中世平山城
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放下僧館(栃木県那須烏山市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8688.JPG←館跡に立つ祠
 放下僧館は、大里館とも言い、この地の豪族牧野左衛門勝重の居城と伝えられている。勝重は、上州伊香保温泉へ湯治に出向いた際、相模の住人利根大膳信俊と遊女のことで喧嘩となり、殺されたと言う。勝重の子、次郎丸と小次郎は出家し、禅僧の姿で踊りや雑芸をしながら物乞いに歩く放下僧となり、父の仇信俊を捜して諸国を巡った。やがて二人は武州金沢にある瀬戸明神社で信俊を見つけてこれを討ち取り、父の墓前に首級を供えて弔った。時の烏山城主那須之隆は兄弟の忠義を称え、次郎丸に永楽100貫の地を与え、牧野家を再興させたと伝わる。異説もあり、烏山城主那須資胤の子牧野顕高が刃傷沙汰で落命し、顕高の子が放下僧となり、やがて父の仇を討ったとも伝えられている。

 放下僧館は、荒川と沢で挟まれた台地突端に築かれている。西側を走る市道脇に「放下僧館跡」の案内表示が建っており、そこから東に向かって畑の中の畦道を歩いていくと、館跡に至る。しかし遺構が明瞭でないため、どこから館跡なのか判断しにくいが、畑の中にわずかな段差が残っており、そこから東側が館跡と考えられる。畑の先は薮になっているが、そこに館の解説板が立ち、その奥に小さな祠が祀られている。祠の先の薮の中にも平場が続き、先端近くで一段低くなっている。確認できるものとしてはそれだけで、要害地形ではあるが台地基部に堀切も残っていないので、往時はどの様な城館だったのか、現状からだけでは推測が難しい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.643054/140.112988/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


栃木県の歴史 (県史)

栃木県の歴史 (県史)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2012/02/01
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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高瀬館(栃木県那須烏山市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8679.JPG←土塁の残欠らしき土盛り
 高瀬館は、歴史不詳の城である。その位置から、森田城主森田氏に関連した城と推測されている。

 高瀬館は、荒川と支流の沢によって半島状に区画された台地の先端部に築かれている。『栃木県の中世城館跡』によれば、台地の北東端に土塁、また台地の基部には土塁と堀切があったらしいが、大正時代頃に塁濠はほとんど埋められたとされる。また郭内には民家が2軒建っていて、その周りは薮に覆われているので、遺構の踏査はほとんどできない状況である。わずかに民家手前の小道の脇に、土塁の残欠らしき土盛りが薮の中に確認できただけである。今となってはほとんど失われた城館である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.653349/140.102302/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


あなたの知らない栃木県の歴史 (歴史新書)

あなたの知らない栃木県の歴史 (歴史新書)

  • 出版社/メーカー: 洋泉社
  • 発売日: 2013/01/11
  • メディア: 新書


タグ:中世崖端城
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小塙館(栃木県那須烏山市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8522.JPG←西側の水堀・土塁
 小塙館は、小塙陣屋・森田陣屋とも呼ばれ、大田原城主大田原綱清の次男出雲守増清が築いた陣屋である。1600年の関ヶ原合戦の際、大田原晴清・増清兄弟は上杉景勝軍の南下に備えるために徳川家康が派遣した諸将の指揮下で大田原城の防衛に当たった。戦後の論功行賞で増清は森田氏の旧領1500石を与えられ小塙館を築いた。以後、森田大田原氏(交代寄合旗本)10代の居館となって幕末まで存続した。

 小塙館は、荒川曲流部の南岸に築かれている。近世の陣屋なので、方形の縄張りを想像するところだが、小塙館は西側に向かってすぼまった、不整形な外形となっている。『栃木県の中世城館跡』の縄張図と、昭和20年代前半の航空写真を見ると、西側に二重の土塁を築き、北辺と西辺にも土塁を設け、東西と南に水堀を巡らしていたらしい。しかし昭和50年代に館跡を東西に貫通する市道が建設され、それに伴って遺構の一部が破壊を受けた。その後、主郭跡に集会所が建てられ、また耕地化に伴って西の内側の土塁が湮滅してしまっている。しかし辛うじて、西の外側の土塁と水堀が残り、また北辺と東辺にも土塁が残っている。東側の水堀は、元々天然の沢を利用したものであったらしく、今でも薮の中に深い沢がある。館の南辺は、耕地化による改変で塁線が追えなくなってしまっている。全体の半分ほどの遺構が湮滅してしまったのは残念だが、残った遺構だけでも後世に残してほしいものである。
北辺の土塁→DSCN8537.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.643553/140.120766/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


栃木県の歴史散歩

栃木県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2007/04/01
  • メディア: 単行本


タグ:陣屋
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大将古家要害(栃木県那須烏山市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8499.JPG←山頂の主郭
 大将古家要害は、歴史不詳の城である。那須氏が佐竹氏の侵攻に備えて臨時的に築いた城砦と推測されている。尚、大将古家の名は、文治年間(1185~90年)に源頼朝が奥州合戦に出陣した際にここに陣を構えたという伝承によるらしいが、もとよりただの伝説である。

 大将古家要害は、標高303.2mの山上に築かれている。国土地理院の1/25000地形図には西麓からの登道が記載されており、車道脇の登り口にはちゃんと「大将古家」という表示も出ているが、このルートは途中から倒木がひどく、完全なジャングルジム状態になる上、尾根近くになると道が消失してしまうので、踏査は困難である。こんな荒れた道を帰りに使いたくなかったので、帰りは北西尾根を降って高館城を経由するルートで降ったが、このルートも途中に急峻な岩塊があり、一筋縄では行かないルートだった。そんなわけで、大将古家要害を目指す人は、十分な装備と時間と覚悟を持って臨んだ方が良い。

 大将古家要害は、三角点のある山頂部に主郭を置いていたと見られるが、曲輪の加工度が低く、ほとんど自然地形に近い。ただ元からなのか、かなり平坦な地形である。一方で、西側斜面の下方には明瞭な腰曲輪が確認できる。確認できる遺構はこの程度である。
 大将古屋要害は、遺構は大したものではないが、高館城・高館上の城を北西に展開している配置から考えて、これらの城砦群の司令塔として、佐竹勢の侵攻に備えた陣城であったものと推測される。
西斜面の腰曲輪→DSCN8512.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.616173/140.186512/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世の下野那須氏 (岩田選書 地域の中世)

中世の下野那須氏 (岩田選書 地域の中世)

  • 作者: 義定, 那須
  • 出版社/メーカー: 岩田書院
  • 発売日: 2017/06/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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高館上の城(栃木県那須烏山市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8402.JPG←南尾根の堀切
 高館上の城は、城巡りの先達ヤブレンジャーの方々が発見した城である。位置的には高館城の尾根続きにあり、また上方の峰には大将古家要害があり、これらと密接な関連があった城と推測される。

 高館上の城は、高館城のすぐ東隣の峰にある。高館城から堀切を越えて東に進むと間の尾根鞍部に広い平場があり、ここには土塁も確認できる。おそらく軍団駐屯地の小屋掛けや倉が置かれた場所なのだろう。そこから更に尾根を登っていくと、小さい腰曲輪群がいくつか見られ、その上に城の中心部がある。頂部の主郭はきれいに削平された曲輪で、西には一段低い舌状の二ノ郭が置かれている。主郭の北側にも傾斜した腰曲輪群がある。主郭周囲の切岸はあまり明瞭ではないが、唯一南側だけは明確な切岸で区画されている。その先にある背後の尾根には土橋が架かった堀切がある。遺構は以上で、簡素な陣城ではあるが、高館城の後背部を固める外郭であったのだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.619222/140.183895/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:中世山城
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高館城(栃木県那須烏山市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8324.JPG←腰曲輪から見た主郭
 高館城は、歴史不詳の城である。戦国後期に常陸太田城主佐竹義重は、頻繁に那須氏の領国に攻め込んでおり、この頃に佐竹勢の侵入路に沿ったところに那須氏側が築いた城と考えられている。

 高館城は、那珂川東岸に連なる山地の一峰に築かれている。明確な登道はないが、北西麓から沢を越えて登っていくと、城からかなり離れた下方に虎口脇の曲輪や腰曲輪が尾根筋に散在している。これらを越えて登ると、山頂付近にきれいに削平された曲輪群が現れる。小さい城だと思っていたが、主郭も腰曲輪も予想以上に広く、それなりの兵を置けるスペースがある。頂部に主郭があり、北から西にかけて階段状に広い腰曲輪群が配置され、その中には坂土橋の虎口や虎口郭が見られる。主郭は奥側がやや高く、全体に傾斜している。主郭の南と東に帯曲輪があり、東の帯曲輪には竪堀が穿たれている。また主郭南東に段曲輪が築かれ、その先は背後の尾根との間に円弧状の堀切が穿たれている。この堀切の西端は90度折れて、竪堀となって落ちている。堀切の先の尾根にも平場が見られる。
 高館城は、思った以上にきれいに普請された城で、那須氏がある程度恒常的に兵を置いて間道を押さえていたと推測される。また南東背後にそびえる峰には大将古家要害があり、高館城の峰続きには高館上の城もあるので、大将古家要害を司令塔として、高館城・高館上の城を間道南側に扇形に展開し、佐竹勢の侵攻に備えた重厚な陣地構成としていた可能性がある。中でも普請の規模の大きな高館城がもっとも佐竹勢の侵攻想定路に近く、重要な防衛拠点としていたことが想像される。
円弧状の堀切→DSCN8354.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.618860/140.181642/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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