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古城めぐり(栃木) ブログトップ
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野上要害(栃木県那須烏山市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8238.JPG←主郭背後の土塁
 野上要害は、塙要害とも呼ばれ、歴史不詳の城砦である。那珂川と江川に挟まれた野上地区の台地の南の突端に築かれている。台地基部に土塁と堀切が築かれて背後を分断している。ほぼ単郭の簡素の城砦で、曲輪内は2段に分かれているが、全域耕作放棄地の薮となっている。遺構としてはそれだけで、他にあったとしても薮で確認は困難である。
 位置的には向田城と荒川を挟んで対峙する位置にあり、また南東には那珂川を挟んで稲積城があり、これらを攻撃するための陣城であった可能性もあるだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.629314/140.153790/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


下野の中世を旅する

下野の中世を旅する

  • 作者: 江田 郁夫
  • 出版社/メーカー: 随想舎
  • 発売日: 2022/02/25
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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森田城(栃木県那須烏山市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8115.JPG←背後の堀切
 森田城は、下野の名族那須氏の一族森田氏の居城である。1187年に、那須資隆の長男太郎光隆がこの地に分封されて森田城を築き、森田氏を称した。光隆は子に恵まれず、弟泰隆の子を養子に迎えたが、その養子にも嗣子がなく、森田氏は2代で断絶、城も一旦廃城となった。時代は降って戦国中期の1546年に、烏山城主那須高資は弟資胤を森田城主とし、森田氏を再興した。1551年、千本資俊が宇都宮氏重臣の芳賀高定と謀って高資を千本城で誘殺すると、資胤が那須宗家を継いで烏山城に入り、代わって弟の福原城主福原資安(後に資邦)が森田氏を継いだ。その後、資信が跡を継いだが、1590年に豊臣秀吉によって那須資晴が改易となると、森田氏も没落して森田城は廃城となった。

 森田城は、荒川南岸に突き出た比高60m程の丘陵上に築かれている。西麓にある芳朝寺の脇から登道が整備されている。この登道は城の背後の堀切から落ちる竪堀で、従ってこれを登っていくと堀切に至る。そこから腰曲輪を経由して主郭に至る道が付いている。中心に主郭を置き、その北側に段差で区画された舌状の二ノ郭を築いている。二ノ郭には土塁がないが、主郭には東辺から南辺にかけて土塁が築かれている。これらを全周取り巻くように腰曲輪が築かれ、その半分ほどは外周に土塁が築かれて横堀状となっている。西側では腰曲輪は2段築かれ、上段は更に食い違って上下に重なり、主郭西側に通じる虎口を構成している。この他、西の下段の腰曲輪の先端から西斜面に竪堀が落ちており、この竪堀は近世に森田を寮した森田大田原氏の墓所の裏に落ちてきている。南東には腰曲輪の張り出しがあり、その脇に竪堀が落ちている。北斜面にも竪堀があるとされるが、薮で確認できなかった。
 森田城は、小規模な城であるが遺構はよく残っている。ただ薮が多く、主郭にある解説板も四阿も薮に埋もれかかっている。今後の整備に期待したい。
東側の主郭切岸と腰曲輪→DSCN8166.JPG
DSCN8221.JPG←西側の竪堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.632172/140.127933/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

  • 作者: 塙 静夫
  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2015/02/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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八郎館(栃木県那須塩原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN4029.JPG←八郎ヶ原の丘陵
 八郎館は、塩原の領主であった塩原八郎家忠が、平安時代末期の1156年に築いたと言われている。家忠は、1178年に塩原城を築いて居城を移したと言う。

 八郎館は、「八郎ヶ原放牧場」の中にある。八郎ヶ原の名は、八郎館を築いた塩原八郎家忠に由来する。牧場内の木々がこんもり茂った丘が館跡らしく、他の方のHPによれば10年ほど前は牧場の管理人の許可をもらえば見学できたらしい。しかし私が牧場を所管している那須塩原市の農務畜産課に問い合わせたところ、「家畜衛生防疫上、及び有害獣駆除・捕獲のために敷地内で猟銃を使用している」ため、立入りはできないとのことであった。残念であるが、仕方のないところであろう。とりあえず牧場入口から八郎ヶ原の丘陵を遠望して終わりとした。

 お城評価(満点=五つ星):-(未訪城のため評価なし)
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.966275/139.781992/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図説・戦う城の科学 古代山城から近世城郭まで軍事要塞たる城の構造と攻防のすべて (サイエンス・アイ新書)

図説・戦う城の科学 古代山城から近世城郭まで軍事要塞たる城の構造と攻防のすべて (サイエンス・アイ新書)

  • 作者: 萩原さちこ
  • 出版社/メーカー: SBクリエイティブ
  • 発売日: 2015/04/16
  • メディア: 新書


タグ:居館
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今井館(栃木県那須塩原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN4021.JPG←館跡付近の現況
 今井館は、宇都宮氏の家臣小山氏(塩原氏)の出城である。小山氏は、1476年に君島氏を滅ぼし、狭間城を築いて塩原を治めた。1502年、3代小山出羽守の時に塩原城を修築して移り、後に出城として今井館を築いたと言う。

 今井館は、狭間城から箒川を挟んだ対岸にあったらしい。その所在地は明確ではなく、遺構も全く残っていないらしいが、『那須の戦国時代』の地図と写真を見ると、追沢川西岸付近にあったらしい。とりあえず推定地付近を撮影して、後究に待ちたい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.973973/139.815488/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の山城を極める 厳選22城

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  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2019/09/10
  • メディア: Kindle版


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高林館(栃木県那須塩原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN4017.JPG←館跡付近の遠望
 高林館は、高林太郎左馬守が居住していたと伝えられている。その事績は不明であるが、左馬守の妻は塩原氏の出と言われ、3代後に常陸国大子に移ったと言う。

 高林館は、高林地区の「くさんど地蔵堂」と言う所にあったらしい。くさんど地蔵堂がどこなのか、よくわからなかったが、会津中街道の北側に杉林がこんもり茂った一角があり、『那須の戦国時代』の写真と見比べると、どうもその付近であるらしい。周りが全て広大な畑で囲まれていて近づく術がなく、遺構は確認できていないが、何も残っていないらしい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.982012/139.950585/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東周辺歴史トレッキング 攻める山城 50城

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  • 出版社/メーカー: 山と溪谷社
  • 発売日: 2018/02/16
  • メディア: Kindle版


タグ:居館
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千人桝(栃木県那須塩原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN4015.JPG←館跡付近の現況
 千人桝は、歴史不詳の城館である。『那須の戦国時代』によれば、九尾の狐退治の際に人数を測ったという伝説があるらしい。伝説はともかく、中世城館の一つと推測されている様だ。

 千人桝は、槻沢地区の平地にあったらしい。かつては「四角に掘られた桝の如き所があった」とされ、『那須の戦国時代』(平成元年初版発行)の編纂時点でもわずかに形跡があったらしい。現在では一面の水田に変貌しており、遺構は完全に湮滅している。歴史ともども失われた城館である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.908082/139.995260/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


隠れた名城 日本の山城を歩く

隠れた名城 日本の山城を歩く

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2020/07/02
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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佐良土宮内館(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN3979.JPG←館跡付近の現況
 佐良土宮内館は、那須資胤の家臣佐良土宮内少輔の居館である。『那須記』によれば、宮内少輔は薄葉が原合戦や資胤が大金備後守重宣を広瀬に攻めた時に活躍したと言う。また資胤の子資晴は、豊臣秀吉によって小田原不参の故を以って改易されて佐良土館に閉居することとなったが、後に資晴が大坂に伺候した際、足軽佐良土久助を伴ったと伝えられ、この久助は宮内少輔の所縁の者と推測されている。

 佐良土宮内館は、佐良土館の南西100m程の位置にある。民家裏の方形の畑となっているのが館跡と思われるが、堀跡も土塁も湮滅してしまっている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.788091/140.123019/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世の下野那須氏 (岩田選書 地域の中世)

中世の下野那須氏 (岩田選書 地域の中世)

  • 作者: 義定, 那須
  • 出版社/メーカー: 岩田書院
  • 発売日: 2017/06/01
  • メディア: 単行本


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狭間田城(栃木県さくら市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN3968.JPG←東から見た城跡付近
 狭間田城は、宇都宮氏の家臣狭間田小四郎の居城と伝えられている。1464年に小四郎が狭間田に移住して狭間田城を築いたと言われる。1597年に宇都宮氏が改易となると、家臣の小野政信が一族を率いて狭間田城に入部して帰農したと言う。

 狭間田城は、井沼川の西の微高地に築かれていたらしい。明治末期の耕地整理で遺構は完全に湮滅している。現在は宅地と水田となっている。今では正確な場所も不明であるが、東にわずかな段差がある微高地で、地勢は城の名残りを感じさせる。尚、城主狭間田小四郎の墓が、城の西側にある薬師堂の墓地内にお地蔵さんと並んで残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.678306/140.014701/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国大名宇都宮氏と家中 (岩田選書「地域の中世」 14)

戦国大名宇都宮氏と家中 (岩田選書「地域の中世」 14)

  • 作者: 江田 郁夫
  • 出版社/メーカー: 岩田書院
  • 発売日: 2021/11/18
  • メディア: 単行本


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桜野城(栃木県さくら市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN3961.JPG←城跡付近の現況
 桜野城は、宇都宮氏の家臣粕谷(糟谷)又左衛門の居城と伝えられている。那須氏の氏家侵略に対する前衛的な支城で、那須氏の侵攻に当たっては真っ先に攻撃対象となった。『氏家記録伝』によれば、五月女坂合戦の際に粕谷又左衛門は勝山城主氏家左衛門尉・飛山城主平石美濃守・子息能登守・嫡子佐渡守・馬場城主船生石茂四郎らと共に宇都宮勢の先陣を務めたが、那須勢と戦って敗退したとある。廃城は、勝山城と同じく1597年の宇都宮氏改易の時と推測されている。

 桜野城は、氏家市街地の東方の平地にあったらしい。江戸時代に水田となり、遺構は完全に湮滅している。その為城の規模も正確な位置も不明である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.681886/139.977665/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世宇都宮氏 (戎光祥中世史論集9)

中世宇都宮氏 (戎光祥中世史論集9)

  • 作者: 江田郁夫
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2020/01/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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堀の内城(栃木県宇都宮市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN3935.JPG←北側の堀跡らしき水路
 堀の内城は、歴史不詳の城である。詳細不明であるが、宇都宮氏の家臣の居城と言われ、主家滅亡と共に廃城になったと言う。

 堀の内城は、日光宇都宮道路のすぐ西側を南北に走る車道脇にある。この小道は、旧日光街道であるらしい。城跡は民家となっており、堀の内という地名が残っている。民家の東と北には水路が流れているが、往時の堀跡であろうか。また北側の一部にわずかに土塁跡らしいものも確認できる。
尚、堀の内城のすぐ南に隣接する民家の敷地内に、源義経の家臣亀井六郎のものと伝えられる墓があるが、敷地の少し奥にあるので、遠目に見ることしかできない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.656379/139.834757/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世宇都宮氏 (戎光祥中世史論集9)

中世宇都宮氏 (戎光祥中世史論集9)

  • 作者: 江田郁夫
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2020/01/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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藤本館(栃木県宇都宮市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN1557.JPG←南側の空堀跡
 藤本館は、高橋城とも言い、宇都宮氏の家臣高橋氏の居城である。伝承では、高橋氏は元々源頼朝の重臣で三河国を本拠としていたが、源氏滅亡に伴って三河を離れ、宇都宮氏9代貞綱に仕えたと言われる。その後、宇都宮氏13代持綱の時に帰農したと言う。

 藤本館は、姿川支流の小河川の東の段丘上に築かれている。現在、城主のご子孫の宅地となっている。南に空堀が穿たれ、門前には解説板が設置されている。宅地の東から北にかけて、南東部に横矢のクランクを設けた空堀が穿たれているらしく、傾斜量図で見ると規模が大きそうだが、夏場は薮に覆われていてほとんど確認できない。また宅地内には1376年の北朝年号のある宝篋印塔があり、城の古さを示すものと言う。尚、藤本館から少し南に離れたところに、高橋一族の大きな墓地がある。墓碑によれば、藤原南家流新里高橋家と称している。

【2023-6-15追記】
 その後、冬場に再訪して、ご主人の許可を頂いて東・北の空堀を確認した。薮がひどいが大きな空堀が穿たれていた。空堀の北西端部には、横矢掛かりの屈曲があり、櫓台が築かれている。またこれらの空堀の更に東にも外郭があり、その北と東に浅い空堀が巡らされている。木々に埋もれかけた宝篋印塔も、ようやくのことで見つけることができた。
北の空堀→DSCN1588.JPG
DSCN1663.JPG←宝篋印塔

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.625525/139.826217/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世の名門 宇都宮氏

中世の名門 宇都宮氏

  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2018/06/14
  • メディア: 単行本


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田中城(栃木県宇都宮市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN3890.JPG←土塁と空堀
 田中城は、宇都宮氏の家臣田中氏の居城と伝えられている。半蔵山丘陵の南東端の峯地区にある。段丘上の城で、かつては土塁と堀が約70m四方に構築されていたと言うが、ゴルフ場造成のための土取りによって破壊されてしまっている。城の中心部の西部には高台となった墓地があり、周りはそこより5m程低くなっていて、これが土取りによって削られた平坦面なのだろう。しかしこの低地の東には、削り残された土塁状の土壇があり、その東は数mの切岸があり、その下に南北に走る空堀が残っている。空堀の東には土塁も伴っている。これらの東にある山林は平坦な平場で、構造から見てここも城の一郭であったと考えられる。そこから推測すると、東西に並ぶ複郭の城であった可能性がある。また前述の墓地の西の山林内には腰曲輪と思われる平場も確認できる。ゴルフ場造成などという公共性の全くない、極めてくだらない理由のために破壊されてしまったことが悔やまれる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.627471/139.815745/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国大名宇都宮氏と家中 (岩田選書「地域の中世」 14)

戦国大名宇都宮氏と家中 (岩田選書「地域の中世」 14)

  • 作者: 江田 郁夫
  • 出版社/メーカー: 岩田書院
  • 発売日: 2021/11/11
  • メディア: 単行本


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茂呂堀ノ内(栃木県鹿沼市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN3871.JPG←民家周囲の切岸・土塁
 茂呂堀ノ内は、上師城に当たると推測されている。『那須記』では、1586年に宇都宮国綱に従う者として「上師城主山崎丹波守」が見え、『宇都宮記』では「上茂呂の城主山崎丹波守」とあると言う。即ち、茂呂堀ノ内は山崎丹波守の居城に当たると考えられている。

 茂呂堀ノ内は、茂呂山東麓の平地にある。現在は民家となっているが、この家は山崎家で屋号を「ホンノチ(堀ノ内の転訛)」と称するらしいので、おそらく山崎丹波守のご子孫の居宅なのだろう。かつてあった土塁や堀は消滅していると言うが、実際に現地を訪れると、宅地は周囲より一段高くなっていて、わずかに切岸や土塁の痕跡を残している。またこの民家の前面には立派な長屋門があり、城の雰囲気を残している。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.546182/139.780276/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世宇都宮氏 (戎光祥中世史論集9)

中世宇都宮氏 (戎光祥中世史論集9)

  • 作者: 江田郁夫
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2020/01/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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北原城(栃木県宇都宮市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN3815.JPG←段丘縁にある民家
 北原城は、歴史不詳の城である。北原城の北方にある中城の伝承では、多気山城と北原城の間にあったことから、「中城」という名前が付いたと伝えられているので、北原城は宇都宮氏の支城であったと推測される。

 北原城の正確な位置はよくわからないが、『栃木県の中世城館跡』『宇都宮の旧跡』などの地図によれば、姿川と鎧川の合流点東側の段丘上に位置する民家付近であったと思われる。パチンコ店の南側で、付近を散策したが特に明確な遺構はなく、『栃木県の中世城館跡』でも「遺構なし」とされている。ただ、西側には段丘端部の切岸がある微高地であり、城があってもおかしくない地勢である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.575293/139.832568/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世の名門 宇都宮氏

中世の名門 宇都宮氏

  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2018/06/14
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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中城(栃木県宇都宮市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN3803.JPG←クランクする土塁跡
 中城は、歴史不詳の城である。多気山城と北原城の間にあったことから、「中城」という名前が付いたと伝えられる。名前の由来からも、また勢力圏から考えても、宇都宮氏の支城であったのだろう。

 中城は、姿川と鎧川に挟まれた平地に築かれており、東側は鎧川に接している。方形単郭居館で、北・西に堀があったらしいが既に湮滅している。ソーラーパネルが設置されている平地の北側にクランクした鍵型の土塁が残っているのが唯一の現存遺構である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.581599/139.828813/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

  • 作者: 塙 静夫
  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2015/02/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
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高谷殿(栃木県鹿沼市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN3783.JPG←わずかに残る土塁跡
 高谷殿は、この地の豪族高谷隼人の居館と伝えられる。昭和5年に建立された高谷殿の石碑の碑文によれば、遠江の松崎備中守光成の後裔松崎親直は浪人となり、下野国上都賀郡上粕尾の地に移住した。親直は、宇都宮城主宇都宮公綱に仕えて戦功を挙げた。高谷隼人の子孫の娘と結婚し、親直は隼人を氏神として祀り、人々は隼人を高谷殿と称したと言う。但し、地誌類にはこれらの記述は見えないと言う。

 高谷殿は、武子川東側の段丘上にある。かつては二重の堀で囲まれていたらしいが、近年の採土で遺構のほとんどが消滅し、わずかに空き地の中に土塁の断片が残っているだけである。この土塁の上に、前述の高谷殿の石碑が立っている。非常に残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.590438/139.764462/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


栃木県の歴史散歩

栃木県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2007/04/01
  • メディア: 単行本


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板荷堀之内(栃木県鹿沼市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN3780.JPG←板荷堀之内付近
 板荷堀之内は、歴史不詳の城館である。『鹿沼の城と館』では、「城館跡と断定できるような遺構は現状ではみられないが、峠道を押さえる位置にあることや(堀之内という)地名などから、城館跡である可能性は高い」としている。またこの付近に代官所があったとの伝承もあるらしい。

 板荷堀之内は、県道149号線の北側の、北に山を背負った緩斜面にある。前述の通り、明確な遺構はないが、東の民家周囲に切岸と堀跡っぽい畑がある。また、堀之内から東にはずれたところにある民家は土塁で囲まれており、これも遺構なのであろうか?
 尚、南にそびえる山は、いかにも詰城があるのではないかと思わせるような地形にも見える。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.643123/139.693608/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


栃木県謎解き散歩 (新人物往来社文庫)

栃木県謎解き散歩 (新人物往来社文庫)

  • 出版社/メーカー: 新人物往来社
  • 発売日: 2012/08/07
  • メディア: 文庫


タグ:居館
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鳥居戸館(栃木県鹿沼市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN3763.JPG←土塁が残る鳥居戸館遠望
 鳥居戸館は、歴史不詳の城館である。北側から西にかけて土塁が残存しているが、『鹿沼の城と館』では、この周辺には土塁を廻らした民家が集中していたらしく、館跡と言うよりそうした民家の遺構と推測している。
 尚、鳥居戸館の北東にも土塁囲郭の民家があり、南東には「ホリノウチ」の屋号を持つ水路に囲まれた民家がある。しかしこれらもそのまま中世城館に遡るのは考えにくいようである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.596916/139.729228/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦乱でみるとちぎの歴史:「とちぎ」の源流を探る

戦乱でみるとちぎの歴史:「とちぎ」の源流を探る

  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2020/02/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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新城(栃木県鹿沼市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN3742.JPG←土塁
 新城は、歴史不詳の城館である。「新城」と言う地名が残り、城があったという伝承はあるらしい。現在は延蔵寺の境内となっているが、方形館の跡を寺に転用した可能性が指摘されている。寺の北から東には水路が流れ、南と西には土塁が残っている。但し、土塁の規模は小さく、城館の遺構として考えるには、少々無理があるように思う。謎が多く、後究を待ちたい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.593867/139.727554/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


パーツから考える戦国期城郭論

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  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2021/02/26
  • メディア: Kindle版


タグ:居館
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下沢館(栃木県鹿沼市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN3726.JPG←民家の脇に残る土塁
 下沢館は、下沢城の城主居館と推測されている。下沢館に建っている民家は、屋号を「ホンノウチ」と言い「堀の内」のことであるのは論を俟たない。この民家の南北両辺には土塁が残っている。館の前面に当たる東側には、以前は空堀跡があったらしいが、現在は耕地化で湮滅している。館の背後には、下沢城のある山がそびえており、城があった当時の姿が浮かんでくるようだ。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.581858/139.696333/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


栃木ゆかりの歴史群像―日本史上の人物と地域との関わり

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  • 作者: 松本 一夫
  • 出版社/メーカー: 随想舎
  • 発売日: 2021/11/03
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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村井城(栃木県鹿沼市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN3715.JPG←主郭の現況
 村井城は、鹿沼城主壬生綱重の3男資長が築いて居城としたと言われ、資長は大門氏を称した。資長の後は、その子図書助弥七郎資忠が継いで城主になったと言う。但し確証はないらしい。また、八幡太郎源義家が奥羽遠征の際に一夜にして築いたとの伝説があるが、もとよりただの伝説に過ぎないだろう。

 村井城は、小藪川西岸の低段丘の端に築かれている。大きく南北2つの曲輪で構成されており、南が主郭、北が二ノ郭と考えられる。古い航空写真を見ると、主郭・二ノ郭の間には一直線の空堀が穿たれていたが、現在は埋められてしまい、湮滅している。地籍図によれば、主郭の周囲には土塁があり、南辺部に横矢の折れがあり、その前面に馬出し状の方形区画があったらしい。しかしいずれの遺構も現在は耕地化・宅地化で湮滅している。結局、微高地周囲に残る段差だけが、城の名残を残すに過ぎない状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.546751/139.741555/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


シリーズ旅する日本百選1 名城を訪ねる旅 東日本編 (シリーズ旅する日本百選 1)

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  • 出版社/メーカー: 東京ニュース通信社
  • 発売日: 2021/08/18
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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武内館(栃木県下野市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN3704.JPG←館跡付近の現況
 武内館は、歴史不詳の城館である。多功城を中心とする城館群の一つと推測されている。
 武内館は、下大領地区にあったらしい。姿川東岸の平地で、一部が民家となっているほかは一面の水田地帯である。田圃整理で遺構は完全に湮滅しており、旧状を推し量ることは不可能であり、その正確な位置もわかっていない。尚、武内(たけのうち)とは「館内(たてのうち)」の転訛と推測されている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:(推定地)
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.411846/139.841645/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


城郭考古学の冒険 (幻冬舎新書)

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  • 作者: 千田 嘉博
  • 出版社/メーカー: 幻冬舎
  • 発売日: 2021/01/27
  • メディア: 新書


タグ:居館
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郭内館(栃木県下野市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN3694.JPG←車道沿いに残る土塁と空堀
 郭内館は、歴史不詳の城館である。その位置関係から多功城の支城と推測されている。
 郭内館は、国道352号線と県道65号線が交わる第3工業団地入口交差点付近にあったらしい。古い地籍図によれば、「郭内」の地名は交差点の南東脇のコンビニ付近らしく、ここが館の中心であった可能性がある。一方、現在残る遺構は、このコンビニから東北東約400mの所にあり、車道沿いに土塁と空堀跡がはっきりと残っている。土塁は空堀の西側にあるので、普通に考えれば主郭は東側の日光街道沿いにあったとも考えられ、位置に謎の多い城館である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.424969/139.861193/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


下野の中世を旅する

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  • 作者: 江田 郁夫
  • 出版社/メーカー: 随想舎
  • 発売日: 2021/11/02
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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天神館(栃木県上三川町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN3677.JPG←館跡の天満宮
 天神館は、歴史不詳の城である。JR石橋駅東側約400mのところを南北に走る街道筋にある天満宮付近にあったらしい。かつては北側に二重の堀・土塁があったと言うが、現在周囲は住宅街になっており、遺構は完全に湮滅している。しかし天満宮の境内は周囲よりやや高い微高地となっている。特に西側は段差が大きいが、昭和20年代の航空写真を見ると、石橋駅との間を流れる小河川沿いの段丘辺縁部に館があり、この段差は段丘崖の名残らしい。いずれにしても失われた城館である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.436035/139.870398/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

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  • 作者: 塙 静夫
  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2015/02/16
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タグ:居館
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篠井城(栃木県宇都宮市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2850.JPG←虎口と土塁
 篠井城は、大橋館とも言い、宇都宮氏の家臣大橋氏の居城と伝えられる。現在は、大橋氏の子孫と言われる方の宅地となっている。宅地の前にある通路は、往時からの城道と思われ、虎口があり、その両側には土塁(というより切岸)が残る。その手前には堀跡らしい地形があるが、『栃木県の中世城館跡』によれば近年の開削とされる。しかし往時に堀があったとしても不思議ではない。山裾に築かれた豪族屋敷の雰囲気をよく残している。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.704374/139.819661/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国大名宇都宮氏と家中 (岩田選書「地域の中世」 14)

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  • 作者: 江田 郁夫
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  • 発売日: 2021/10/11
  • メディア: 単行本


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柄倉城(栃木県日光市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2832.JPG←城跡付近の現況
 柄倉(からくら)城は、伝承では柏木縫之助と言う者が築城したと言われる城である。しかしその他については不明である。

 柄倉城は、鬼怒川西岸の山裾の平地にあったらしい。国土地理院の1/25000地形図を見ると、城の内の地名が残っている。『栃木県の中世城館跡』によれば、方200m程の規模で、往時は周囲に空堀が廻っていたらしいが、KK日本鉱業の廃棄物沈殿池となり、その後埋め立てられて消滅したという。この場所は、昭和20年代前半の航空写真を見ても、既に大規模に改変されている。現在は日光江戸村となっていて、もはや城の面影は微塵もない。城の名残を残すのは、地名のみである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.793040/139.696398/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:中世平城
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高徳藩陣屋(栃木県日光市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2825.JPG←陣屋跡
 高徳藩陣屋は、宇都宮藩戸田家の分家が立藩して築いた陣屋である。幕末の動乱の中、公武合体策を推し進めた老中安藤信正を襲撃した坂下門外の変と、天狗党の乱に藩士が参加していた宇都宮藩主戸田忠恕は、藩士の管理責任を問われ、幕府から藩主忠恕の隠居と、減封の上陸奥国棚倉への転封を命じられるなど、宇都宮藩は絶体絶命の窮地に追い込まれた。この時、藩の一門で重臣の戸田大和守忠至は、山陵奉行として100以上の山稜修補(荒れ果てていた歴代天皇の陵墓を修復する事業)を完了させた。これが朝廷から評価され、朝廷から幕府への働きかけがあり、処分の撤回に成功した。その功績により、忠至は1866年に本家から1万石余を分与されて大名となり、高徳藩を立藩した。忠至は陣屋を造営し、高徳領主星半三郎を陣代家老とした。しかしわずか2年後、戊辰戦争で高徳は新政府軍と旧幕府軍の戦場となり、陣屋は大鳥圭介・新選組の土方歳三率いる旧幕府軍によって焼亡した。明治維新後、忠至は新政府に出仕したため、1869年に家督を子の忠綱に譲り、翌70年に忠綱は下総国曽我野に移封された。

 高徳藩陣屋は、鬼怒川沿いにあったらしい。場所がわかりにくいが、鬼怒川ライン下りの降船場に通じる小道の途中にある。崖に面した平場となっており、入口に解説板が立っている。すぐ上には東武鉄道鬼怒川線が通っている。陣屋跡地には、星半三郎が藩主を偲んで戸田大和神社を建てたと言うが、現在は小さな石祠が置かれているだけである。休日に行くと、ライン下りから降りた乗客がたくさん登ってくるので、怪しまれないように注意が必要である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.791682/139.704466/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


江戸三百藩大全 全藩藩主変遷表付 (廣済堂ベストムック287号)

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  • 出版社/メーカー: 廣済堂出版
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  • メディア: ムック


タグ:陣屋
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朝鮮通信使今市客館(栃木県日光市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2814.JPG←公園内の石碑
 朝鮮通信使今市客館は、江戸時代に朝鮮国王より12回派遣された朝鮮通信使の日光参詣のために徳川幕府が築いた客館である。朝鮮通信使の日光参詣は、幕府の強い要請によって初期の3回行われており、第1回目は1636年、第2回目は1643年、第3回目は1655年であった。この時、通信使は東照宮・大猷院に国王からの進物を贈り、公式行事を行った。幕府は自らの権威を示すためもあって、将軍社参並みの扱いをし、盛大な行列立てをしており、通信使のためだけに1万余両をかけて豪華な迎賓館を新築して持て成したと言う。

 朝鮮通信使今市客館は、上今市駅前にある杉並木公園の中に石碑が立っている。遺構は全く無いが、高台の縁に位置している。遺構はなくとも、日本と朝鮮王国との国交の歴史を今に伝える貴重な遺跡である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.727577/139.681077/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


ユネスコ世界記憶遺産と朝鮮通信使

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  • 出版社/メーカー: 明石書店
  • 発売日: 2017/12/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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石井城(栃木県宇都宮市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2531.JPG←古城内集落の遠望
 石井城は、石井館とも言い、弘安年間(1278~88年)に横田五郎業澄によって築城されたと伝えられる。横田氏は後に石井氏を称した。南北朝後期の1368年には、鎌倉府が河越直重と宇都宮氏綱を討伐した際、石井城が攻撃を受けた。これより時代を遡った1351年、足利尊氏は薩埵山合戦での軍功により、畠山国清・宇都宮氏綱・河越直重を主軸として鎌倉府を刷新した薩埵山体制を構築した。しかし尊氏の子で初代鎌倉公方となった足利基氏は1362年、長ずるに及んで父尊氏が追放した上杉憲顕を越後守護に任じて復権させた。それまで越後守護は宇都宮氏綱であり、守護代にはその重臣芳賀禅可が就いていたため、宇都宮氏は基氏と苦林野で合戦するなど、激しく抵抗した。しかし結局憲顕の復権が成ったことで薩埵山体制は崩壊し、河越・宇都宮両氏は鎌倉府に対して遺恨を持つこととなった。鎌倉府による河越・宇都宮両氏の討伐戦は、この薩埵山体制崩壊を遠因としたものであった。1368年6月に河越氏を降した鎌倉府勢は、一旦武蔵府中まで戻った後、足利経由で宇都宮に向かい、宇都宮氏綱を攻撃した。まず8月19日に横田要害を攻撃して宇都宮勢との合戦が始まり、同月29日には贄木城を攻略、9月6日に宇都宮城と石井城を攻撃したと言う。その後の石井城の歴史は不明であるが、最後の城主は慶長年間(1596~1615年)に石井主計であったと言う。1597年の宇都宮氏改易によって廃城になったのだろう。

 石井城は、国道新4号バイパスと久部街道との交差点の北東にあったらしい。現在、辺り一帯は一面の水田の中に民家が点在している。城跡付近には古城内、蔵ノ内、馬場先、堀ノ内などの字名が残っていると言う。城の正確な位置はよくわからなかったが、古城内(こじろうち)という集落があり、昭和20年代前半の航空写真を見ると、古い河道の曲流部に突き出た部分にこの集落があった様なので、この集落も城の一部ではないかと思われる。しかし付近にいた数人の人に聞いたが、誰も石井城のことを知らず、堀ノ内の字名の場所もご存知ではなかった。ただ集落北東の大きな民家の中に茂みが見え、土塁が残る可能性があるが、高塀に遮られて確認できなかった。
 その後情報を得て、2023年2月に堀ノ内を再訪した。宇都宮市の都市基盤保全センターの南にある民家が堀ノ内で、遠目に見ると居宅の北側に屋敷林があり、土塁らしいものがある。その更に北方には周囲との段差があり、堀状水路と土塁っぽい土盛りも車道脇に確認できる。堀ノ内が主郭なのであろうか?いずれにしても遺構の湮滅が進んでいて、往時の縄張りを想像することも困難である。
西側から見た堀ノ内→DSCN1907.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.539614/139.942045/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


下野の中世を旅する

下野の中世を旅する

  • 作者: 江田 郁夫
  • 出版社/メーカー: 随想舎
  • 発売日: 2021/10/06
  • メディア: 単行本


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桑島城(栃木県宇都宮市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2530.JPG←土塁跡
 桑島城は、宇都宮氏の家臣桑島氏の居城である。文明年間(1469~87年)に宇都宮氏の庶流横田綱親の子辰業が、桑島城を築城し、桑島氏を称したと言う。

 桑島城は、鬼怒川西岸の平地にあったが、現在は民家と水田に変貌している。わずかに主郭と思われる民家の北側に土塁が残っている。土塁の北には堀があったらしいが、現在は埋められてしまっている。城の東には鬼怒川西岸の堤防があるが、往時は鬼怒川の河原に接して築かれた城であった。昭和20年代前半の航空写真を見ると、なんとなく城の輪郭が想像できるが、現在は耕地整理で輪郭を追うことも難しい。尚、中城・政所・東の門・西の門・南の門などの小字名が残っていると言う。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.513853/139.944298/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

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  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


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