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古城めぐり(長野) ブログトップ
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知久平城(長野県飯田市) [古城めぐり(長野)]

DSCN1853.JPG←三ノ郭の土塁跡
 知久平城は、諏訪氏の分流でこの地の豪族であった知久氏の神之峰城以前の居城である。知久氏は当初上伊那郡の上の平城を居城としていたが、鎌倉中期の正嘉年間(1257~59年)に地頭としてこの地に移り、知久平城を築いて居城とした。時代は下って戦国前期頃、神之峰城を築いて本拠を移したらしく、以後は出城として機能した。1554年の武田信玄による伊那制圧・知久氏没落後は知久平一帯は吉岡城主下條氏の支配下となった。1582年、武田氏滅亡・織田信長横死後は天正壬午の乱を経て伊那谷は徳川家康の支配下となり、1583年に菅沼小大膳定利が伊那郡司を任され、翌年にかけて知久平城を居城として改修した。しかし間もなく飯田城に居城を移し、1588年に知久平城は廃城となった。

 知久平城は、天竜川東岸の河岸段丘上に築かれている。かなり広い城域を有する城であったが、城内は宅地化・耕地化による改変が進み、散発的に堀跡や土塁が残るだけとなっている。北端から順に出丸(物見台)・主郭・二ノ郭・三ノ郭が空堀を挟んで並び、更に南と東に外郭を廻らした縄張りであったらしい。主郭は民家裏の畑・墓場等になっており、土塁跡の高まりが残る。以前は主郭内に標柱・解説板があったらしいが今は失われている。主郭の先にはつなぎの平場を挟んで高台になった出丸があり、標柱・解説板がある。二ノ郭もほとんど民家・果樹園となっているが、南側にわずかに堀跡らしい窪地が見られる。また保育園の西側には、三ノ郭の土塁跡がわずかに残っている。この他、主郭の北側下方に殿様井戸があるが、民家の庭先なので立入りのお断りが必要である。外郭に2ヶ所、解説板が立てられているが、遺構の残存状況が悪く、ちょっと残念な城である。
高台になった出丸→DSCN1914.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.478294/137.849793/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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虎岩城(長野県飯田市) [古城めぐり(長野)]

DSCN1842.JPG←堀跡とされる地形
 虎岩城は、神之峰城主知久氏の庶流虎岩氏の居城である。諏訪社との関係が深い氏族で、戦国中期には虎岩玄蕃が城主であったが、1554年の武田信玄による伊那制圧・知久氏没落後の動向は不明である。

 虎岩城は、宮の沢川の南にある河岸段丘に築かれた城である。城内は宅地と水田に変貌しており、遺構はほとんど湮滅している。段丘北端にある宅地に「城」の屋号があり、『信濃の山城と館』ではここを主郭と想定している。その基部にはわずかな窪地があり、堀跡とされるが、かなり埋まってしまっている。地勢以外に城跡を思わせるものは何もなく、残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.486157/137.858977/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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  • 発売日: 2013/08/01
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タグ:中世崖端城
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飯田城(長野県飯田市) [古城めぐり(長野)]

DSCN1691.JPG←三の丸の堀跡
 飯田城は、下伊那の拠点城郭で、幕末まで存続した下伊那で唯一の城である。室町時代に飯田郷を治めた愛宕城主坂西氏が、新たに飯田城を築いて居城を移したと伝えられる。 坂西氏は、信濃守護小笠原貞宗の3男宗満が貞和年間(1345~50年)に飯田郷の地頭職となって飯田郷三本杉に居館を構え、坂西孫六を称したことに始まるとも、或いは鎌倉初期に阿波国坂西の近藤周家が源頼朝の命により飯田の地頭となって坂西氏の祖となったとも言われる。いずれにしても坂西氏の事績が史書に現れるのは室町時代のことで、1400年の大塔合戦では坂西次郎長国が奮戦し、1440年の結城合戦では長国の子政忠が信濃守護小笠原政康に従って参陣している。1554年に甲斐の武田信玄が下伊那に侵攻すると、下伊那の多くの国人衆は武田氏に降り、飯田城主坂西政之も武田氏に服属して武田家重臣秋山伯耆守虎繁の組下となり、軍役60騎を勤めた。1562年、坂西長忠が松尾小笠原信貴の領地を侵して信玄に訴えられ、武田・松尾小笠原軍に討ち取られた。その後は秋山虎繁が城代として飯田城に入った。1573年、虎繁は信玄の命で、前年に武田方に寝返っていた東美濃の岩村城に移り、飯田城には坂西長忠の弟織部亮が入城した。1575年、武田勝頼が長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗すると、坂西氏は武田氏から離反して処刑された。1582年2月、織田軍が武田征伐を開始すると、下伊那の有力国衆であった松尾城主小笠原信嶺が早々に織田方に降り、動揺した飯田城の坂西織部亮・保科正直・小幡因幡守らは城を捨てて逃亡した。その後、織田方に制圧された飯田城には、織田軍の主将織田信忠や、本隊を率いる織田信長が一時的に本陣を置き、武田氏滅亡後は織田氏家臣毛利河内守長秀(秀頼)が飯田城に入って伊那統治を開始した。しかし間もなく本能寺の変で信長が横死したため、織田領国となって日の浅かった甲斐・信濃の織田勢力は瓦解し、長秀も飯田城から退去した。天正壬午の乱を経て徳川氏の支配下となると、菅沼小大膳定利が飯田城に入って伊那郡を統括した。1590年に徳川家康が関東に移封となると、菅沼氏も上野国吉井へ移り、毛利長秀が再度飯田城に入封した。1593年、肥前名護屋城下で毛利氏が病没すると、長秀の娘婿京極高知が飯田城を継承した。1600年の関ヶ原合戦の後、小笠原秀政が城主となり、1613年に小笠原氏が松本城へ移封となると、飯田藩は幕府直轄地となって小笠原氏の家老が在城した。1617年、脇坂安元が伊予大洲城から飯田城に移ったが、1672年に播磨龍野城に移った。その後は下野烏山城から堀氏が入り、幕末まで飯田藩を治めた。

 飯田城は、松川と谷川に挟まれた舌状の河岸段丘に築かれている。往時は先端から山伏丸・本丸・二の丸・三の丸が直線状に並んだ城であったが、山伏丸にはホテルが建ち、本丸は神社、二の丸は美術博物館と宅地、三の丸は小学校・図書館・庁舎となり、市街化で遺構はかなり失われている。それでも、神社背後には本丸の石積・土塁が残り、本丸・二の丸・三の丸の堀跡の一部は、わずかにその形を留めている。二の丸の堀跡には水の手御門跡の石垣が道の両側に残っている。井戸は全部で3つ表示されているが、発掘復元されているのは二の丸の1つだけで、その他は歩道への標示や形ばかりの復元だけである。外郭もあったが、昭和22年の飯田大火で町家はほとんど消失してしまっているので、古い城下町もほとんどその姿を留めていない。その代わり、移築現存門が市内各所に比較的多く残っており、わずかな救いとなっている。
本丸の堀跡→DSCN1763.JPG
DSCN1802.JPG←水の手御門跡の石垣

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.511819/137.832413/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1




タグ:近世崖端城
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原ノ城(長野県飯田市) [古城めぐり(長野)]

DSCN1619.JPG←主郭下の横堀
 原ノ城は、歴史不詳の城である。飯沼城とは指呼の間にあり、両城は親密な関係にあったことが想像される。このことから、室町中期に黒田氏の居城であったと推測されている。黒田氏は、1400年の大塔合戦では黒田孫次郎が飯沼六郎と並んで伊那衆として小笠原勢の中にあり、1440年の結城合戦の陣番帳には飯沼氏に次いで黒田氏の名が上がっている。黒田・飯沼両氏は坂西氏と並ぶ豪族であったが、やがて坂西氏の配下となり、その後この地が知久氏の支配下となると、知久氏に服属したらしい。しかしその後黒田氏の名は出てこなくなり、天正年間(1573~92年)には斎藤氏が原ノ城にいたらしい。

 原ノ城は、天竜川西方の段丘上にある比高30m程の半島状丘陵先端部に築かれている。東端の見晴山と呼ばれる所に、台形状の主郭があり、現在は畑となっている。先端部が一段低くなっている。主郭後部には土塁が残り、その背後の車道が堀跡である。主郭の北東下には横堀が残っており、横堀先端部では竪堀が落ちている。主郭の北西には二ノ郭・三ノ郭等の外郭があったらしいが、一面の住宅地に変貌し、遺構はほとんど湮滅している。わずかに三ノ郭西方を区切る堀切跡が車道となって残っているだけである。昭和20年代前半の航空写真を見ると、この車道の東側には空堀に囲まれた方形の区画があり、西城と呼ばれている。遺構はわずかであるが、主郭周辺だけは旧状をよく残している。
主郭後部の土塁→DSCN1602.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.521216/137.839644/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


長野県の歴史散歩

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  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2006/11/01
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タグ:中世崖端城
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飯沼城(長野県飯田市) [古城めぐり(長野)]

DSCN1575.JPG←主郭背後の大土塁
 飯沼城は、伝承等はなくはっきりしたことはわからないが、この地の豪族飯沼氏の居城であったと考えられている。飯沼氏は、1400年に信濃の国人衆が信濃守護小笠原長秀に反発して挙兵した大塔合戦では、小笠原勢の中に飯沼六郎の名が見える。また1440年の結城合戦では、その陣番帳に飯沼氏2名の名が上がっている。その後、飯沼郷の地頭は坂西氏の時代を経て、知久氏の支配となった。1554年の武田氏の伊那侵攻の際、飯沼城の知久一族は城を焼いて去り、神之峰城の本隊に合流したと推測されている。

 飯沼城は、天竜川西方の段丘崖の上に築かれている。東端中央に長円形の主郭があり、現在は飯沼諏訪神社の境内となっている。神社背後には大土塁が残っている。主郭の西側には空堀があったらしいが、ほとんど埋まっている。さらに北西から南西にかけて、4つほどの曲輪があったらしいが、宅地と中学校校地となっており、ほとんどその痕跡は見られない。わずかに宅地内や中学校脇に、崖に繋がる堀跡と見られる谷地形が見られるだけである。もう少し遺構が残っていればと惜しまれる。
堀跡の谷地形→DSCN1595.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.522665/137.845427/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


隠れた名城 日本の山城を歩く

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  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2020/07/02
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タグ:中世崖端城
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坂牧城(長野県高森町) [古城めぐり(長野)]

DSCN1536.JPG←主郭背後の堀切
 坂牧城(坂巻城)は、松岡城主松岡氏の支城で、松岡八十騎の一人坂牧氏の居城とされる。

 坂牧城は、天竜川西岸の段丘先端部に築かれている。南に向かって半島状に突き出た段丘に位置し、城内は現在は果樹園や宅地に変貌しており、遺構の湮滅が進んでいる。南側は比高10m程の切岸で囲まれており、その周囲の低地は往時は湿地帯であったらしい。この南の低地から水路に架かった足場板を越えて小道を登っていくと、主郭背後を区画する堀切へ至る。しかしこの堀切も、北側では埋もれてしまっている。主郭の東端に神社があり、そこに城址碑と解説板が立っている。主郭の東には二ノ郭があったと思われるが、改変が進んでいてどこまで城域だったのか判然としない。立入りできそうなのはこれら堀切周辺だけで、その他は果樹園なので無断で入ることはできない。せっかく解説板があるのにそこに至る道がわかりにくく、遺構のわかりにくさやほとんど立入りできないことも相俟って、ちょっと残念な城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.534173/137.870586/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:中世崖端城
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洞頭城(長野県高森町) [古城めぐり(長野)]

DSCN1533.JPG←西側の切岸状の段差
 洞頭城は、松岡城主松岡氏の支城である。松岡氏は、武田氏支配時代に松岡八十騎と称する家臣団を従えた伊那谷屈指の大族で、その家臣牛牧氏の城であるらしい。現地解説板によれば、牛牧氏(牛牧殿)は松岡刑部大輔と呼ばれ、松岡氏(市田殿)の兄であった。最初は上平の次郎城に住んでいたが、大きな領地を与えられて洞頭城へ分家させられたと言う。

 洞頭城は、伊那南部広域農道の牛牧南交差点の西側にある。道路より一段高くなっており、方形単郭の城だったらしい。現在郭内は畑になっており、内部に遺構は残っていない。しかし道路沿いと畑西側に切岸らしい段差が見られる。周りの道路は堀跡であった様だ。遺構はほとんど失われているが、こういう小城にも標柱・解説板を立てており、町の文化財保護係の努力がうかがわれる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.547548/137.855480/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲信越の名城を歩く 長野編

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  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/12/21
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タグ:中世平城
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松岡古城(長野県高森町) [古城めぐり(長野)]

DSCN1521.JPG←西側に残る堀跡
 松岡古城は、市田郷を本拠とした豪族松岡氏の最初の居城である。松岡氏は、前九年の役で滅亡した俘囚の長安倍貞任の後裔仙千代が、平安末期に市田郷に移り、松岡平六郎貞則と名乗り松岡古城を築いて居城としたと伝えられる。東方の要害の地に松岡城を築いて居城を移す建武年間(1334~38年)まで、松岡氏歴代の居城となった。松岡氏のその後の事績については松岡城の項に記載する。

 松岡古城は、間ヶ沢西側の細長い段丘上に築かれている。この段丘の西側には新井堤という溜池があり、その南北に堀跡が残っている。コウジ(小路)・横大路など城下町に関連する地名も周囲に残っていると言う。城の中心は畑となっており、そこに立つ大杉(夫婦杉と呼ばれる)の元には、松岡右衛門大夫貞正夫人の供養塔とされる石碑が残っている。遺構はわずかであるが、城があっても不思議のない地形である。町史跡になっており、標柱と解説板も立っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.550812/137.858570/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃の山城と館〈第6巻〉諏訪・下伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

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  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
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タグ:中世崖端城
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市田陣屋(長野県高森町) [古城めぐり(長野)]

DSCN1502.JPG←民家横に残る石垣
 市田陣屋は、江戸時代末期の1846年に奥州白河藩阿部家が村替えにより伊那郡13874石を与えられた。これを支配するために陣屋を設け、幕末の23年間、代官を派遣した。

 市田陣屋は、大島川南の緩斜面に築かれている。現在陣屋跡は民家の敷地になり、車道が南北に貫通するなど、遺構の改変が進んでいる。しかし東辺の石垣が民家の横に残っているのが遠目に見える。また車道脇に標柱が建ち、その北にある民家のキワに陣屋井戸の標柱も建っている。西辺は土塁っぽい土盛りが南北に伸びているが、遺構かどうかは明確ではない。結局明確な遺構は前述の石垣だけで、ちょっと残念な状態である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.557097/137.860029/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


長野県の歴史 (県史)

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  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2011/01/01
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タグ:陣屋
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西条陣屋(長野県中野市) [古城めぐり(長野)]

DSCN8173.JPG←移築門と石碑・解説板
 西条陣屋は、1624~81年の期間に設置された江戸幕府の陣屋である。1615年に福島正則が死去すると、その所領は幕府の直轄領(天領)となり、1624年に中野地方南部を支配するために西条陣屋が置かれた。設楽長兵衛・孫兵衛らが代官を務めた。1681年に中野陣屋に統合され、西条陣屋は廃された。

 西条陣屋は、西条地区の平地にあり、現在は宅地と畑となっている。西側にある長屋門は、陣屋の裏門を移転したものと言われるが、改変が多く移築門としてはかなり微妙な感じである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.738205/138.364477/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


小藩大名の家臣団と陣屋町 3 南関東・中部(新装改訂版)

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タグ:陣屋
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中野陣屋(長野県中野市) [古城めぐり(長野)]

DSCN8156.JPG←陣屋遺構の石垣
 中野陣屋は、江戸幕府の北信濃の直轄領(天領)を支配した陣屋である。最初にこの地に陣屋が置かれたのは、織田信長死後の天正壬午の乱を経て川中島4郡を支配した上杉氏時代とされる。陣屋が置かれたことが確実となるのは、江戸初期の1616年の幕府代官陣屋の設営以後である。幕末には高井・水内両郡諸村約600石を支配し、明治維新を迎えた。

 中野陣屋は、中野県庁跡でもあり、現在は県の史跡に指定されている。陣屋跡地の西側にある石垣は往時の遺構であるらしい。この他、陣屋跡地の北方約90mの住宅地の中に、陣屋の井戸が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.744670/138.372481/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


江戸300藩の城・陣屋へのいざない (東日本版)

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  • 作者: 羽山 健治
  • 出版社/メーカー: 文芸社
  • 発売日: 2021/09/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:陣屋
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夜交氏本郷館(長野県山ノ内町) [古城めぐり(長野)]

DSCN8148.JPG←館跡西側の切岸
 夜交氏本郷館は、この地の豪族夜交氏の後期の居館である。夜交氏の事績については夜交氏山城の項に記載する。夜交氏は当初は横倉館に居住していたが、後に本郷館を築いて移ったと言う。

 夜交氏本郷館は、夜間瀬川東岸の段丘上に築かれている。館跡は宅地と果樹園に変貌しており、明確な遺構はほとんど残っておらず、構造や館の範囲など、明確にはわかっていない。ただ西側に段丘崖が切岸状に残っている程度である。尚、館跡とされる範囲の北には、市道が屈曲している部分があり、枡形とされる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.758992/138.399904/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


「城取り」の軍事学

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  • 作者: 西股総生
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タグ:居館
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夜交氏横倉館(長野県山ノ内町) [古城めぐり(長野)]

DSCN8124.JPG←館跡の表示石
 夜交氏横倉館は、この地の豪族夜交氏の初期の居館である。夜交氏の事績については夜交氏山城の項に記載する。夜交氏は後に本郷館に居館を移した。

 夜交氏横倉館は、横倉地区の「お屋敷」という地名が残る場所にある。一面の住宅地で、段差ぐらいしか残っていない。館跡推定地の北西隅に「夜交氏館跡地」と刻まれた石がある。尚、館跡の南方150m程の所に甲斐森と呼ばれる夜交氏の墳墓があり、町の史跡となっている。
夜交氏墳墓→DSCN8128.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.764974/138.413336/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


長野県の歴史 (県史)

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  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2011/01/01
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タグ:居館 墓所
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夜交氏山城(長野県山ノ内町) [古城めぐり(長野)]

DSCN7990.JPG←大城の主郭外周の石積み跡
 夜交氏山城は、横倉城とも言い、この地の豪族夜交(よませ)氏の詰城である。夜交氏は中野氏の一族で、夜間瀬地区にあった朝廷の御牧を管轄していた牧司の笠原氏が衰えると、南北朝期初め頃にこの地に進出してきたらしい。夜交氏は最初、横倉に居館を構え、後に本郷館に移っている。山城の構築時期は明確ではない。1489年に戦死した夜交高廣が初めて甲斐守を名乗った。夜交氏は、1513年に小島氏らと共に高梨氏に叛したが鎮圧され、その後は高梨氏の被官となった。後に上杉氏に属し、1598年に上杉景勝が豊臣秀吉の命で奥州会津に移封となると、それに従ってこの地を離れた。

 夜交氏山城は、横倉地区の南東にそびえる城山に築かれている。大城と小城と2つの城から成り、大城は標高805m、比高255mの峰にあり、小城はそれより奥の標高890mの峰にある。この城は町の史跡になっているが、登山道が崩れているとの情報だったので、他のルートから訪城した。そのルートは北西斜面の作業林道を使うもので、ジグザクに作られた道を登れば標高710m付近まで難なく登ることができる。この作業林道は、麓の動物除けの柵を越えて、墓を左手に見ながら通り過ぎて進めばよい。林道から西の尾根に取り付いて、そこから斜面を直登すれば、やがて小郭と堀切が現れ、大城の城域に入る。
大城の主郭堀切から落ちる竪堀→DSCN7976.JPG
 大城は、堀切で分断された頂部の主郭・二ノ郭を中心とし、二ノ郭の左手前面に当たる西斜面に多数の腰曲輪群を築いた縄張りとなっている。腰曲輪は全部で10段程にも及ぶが、上段の方は段差が小さく、二ノ郭の一部と見做せないこともない。この腰曲輪群の先には西尾根が続き、そこには小郭群と2本の堀切が穿たれている。2本の内、上の堀切は、土橋が堀切の中央ではなく右手(城内から見れば左手)に偏して築かれている。二ノ郭は広い平坦な曲輪で、建物があったと思われる。主郭との間の堀切は規模が大きく長く、南斜面に長い竪堀となって落ちている。この竪堀から主郭南側にある、L字型土塁で囲まれた腰曲輪に登れるようになっている。主郭には搦手にしか虎口が見られないが、この土塁囲みの腰曲輪から登るようになっていたように感じられる。主郭は、外周を石塁が全周する曲輪で、中央に楕円形の小丘がある。主郭の石塁はほとんど崩れてしまっているが、多数の石が散乱しており、総石垣の曲輪だったらしい。後部に搦手虎口があり、小郭を経て背後尾根の二重堀切に至る。その先に高台になった出曲輪があり、尾根の鞍部を経て登り尾根になった先に東端の堀切が穿たれている。

DSCN8073.JPG←小城の主郭塁線の石
 小城は、大城の南東の尾根を登っていった先にある。ほぼ単郭の小さな城で、円形の主郭を頂部に置き、前面の北尾根に堀切2本を穿っている。いずれも片堀切状で、土橋は側方に偏して築かれ、その側方には竪堀が落ちている。大城でも土橋が偏して築かれているが、夜交氏の築城法の特徴の様である。主郭は土塁で囲まれた小さな曲輪で、一部に塁線上に石が置かれているので、石積みがあった可能性もある。主郭の背後の尾根は東に伸びており、小郭・細尾根曲輪と堀切が交互に穿たれている。背後の堀切は全部で3本あるが、一番内側の堀切から落ちる竪堀の脇に、もう1本竪堀が落ちていて、二重竪堀となっている。小城の先にも遠見と呼ばれるピークがあるらしいが、未確認である。

 夜交氏山城は、かなりしっかりした普請がされており、見応えがある。薮も少ないので、遺構の確認がしやすい。
小城背後の尾根の二重竪堀→DSCN8090.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:【大城】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.759026/138.419656/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【小城】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.755794/138.423336/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


パーツから考える戦国期城郭論

パーツから考える戦国期城郭論

  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2021/02/26
  • メディア: Kindle版


タグ:中世山城
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沼ノ入城(長野県中野市・高山村) [古城めぐり(長野)]

DSCN7855.JPG←東尾根の堀切の一つ
 沼ノ入城は、歴史不詳の城である。『信濃の山城と館』では、北尾根にある小曽崖城を攻略した高梨氏が、小曽崖城の背面強化と山の南の勢力に備えて築いたもので、間山古峠の押さえも任務とした城砦だったと推測している。

 沼ノ入城は、間山峠の北西に連なる尾根上に築かれている。南麓に県道54号線の脇から間山峠に至る登山道があり、この登道から登城した。この道の入口には「間山峠→」の案内板があり、また鉄塔保守道も兼ねているため、No.11鉄塔の案内が出ている。途中の標高630m地点付近に分岐があるが、No.10鉄塔の方へ登っていけばよい。山道のルートは、下半分は1/25000地形図に記載されている道と概ね合っているが、上半分は地形図の道とかなりずれているので、ちょっと不安になる。しかし道形がしっかりしているので、迷わず登っていけば、やがて尾根上の間山峠に到達する。ここにはお地蔵さんがひっそりとたたずんでいる。ここから西に尾根を辿っていくと、すぐに城域に入る。典型的な細尾根城郭で、城内の居住性はほとんど無い。最高所にある主郭も小さな楕円形の曲輪で、物見台程度の広さしか無い。その一方、主郭から間山峠に繋がる東尾根には、小郭を挟みながら合計6本もの小堀切が穿たれている。これらの東には細長い曲輪があるが、自然地形に近い上、居住性もない。これらの曲輪の東、間山峠との間にも堀切が1本構築されている。主郭の西尾根にも堀切が3本穿たれているが、東尾根の堀切よりも小さく、東からの接近に備える縄張りであることが明確である。沼ノ入城は、峠道を押さえる物見の砦であったことがよく分かる。
小規模な主郭→DSCN7877.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.704236/138.367932/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の城 (学研新書)

戦国の城 (学研新書)

  • 作者: 小和田哲男
  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2012/01/12
  • メディア: Kindle版


タグ:中世山城
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滝ノ入城(長野県小布施町・中野市・高山村) [古城めぐり(長野)]

DSCN7728.JPG←主郭外周に残る石積み
 滝ノ入城は、高梨氏が築いた城砦群の一つと考えられている。雁田城二十端城・滝ノ入城が一つの山塊にあり、高梨氏の支配地域の南部における防衛線であったと推測されている。

 滝ノ入城は、3市町村にまたがる786.6mの峰に築かれている。城域は東西に長く、三角点のある峰に主郭を置き、細尾根を挟んで西の峰に千僧坊曲輪を置いている。主郭から北西に伸びる長い尾根には延々と二十端城の城砦群が築かれ、千僧坊曲輪の西に伸びる尾根の先には雁田城が築かれている。滝ノ入城はこれらの城郭群の詰城的な位置付けで、城の規模はささやかなものである。主郭は内部が3段程の平場に分かれ、外周の切岸には石積みが残っている。背後に当たる東尾根には小郭と2本の堀切が穿たれている。堀切沿いにも石積みが見られる。千僧坊曲輪はいかにも西の物見台という感じである。千僧坊曲輪にはハイキングコースがあるらしい。千僧坊曲輪の周囲には石材が多数散乱している。遺構としては以上で、詰城らしく小規模な城砦である。
東尾根の堀切→DSCN7793.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.696666/138.348191/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


47都道府県・城郭百科 (47都道府県百科シリーズ)

47都道府県・城郭百科 (47都道府県百科シリーズ)

  • 出版社/メーカー: 丸善出版
  • 発売日: 2022/07/28
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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二十端城(長野県小布施町・中野市) [古城めぐり(長野)]

DSCN7561.JPG←三ノ城の小郭群の石積み
 二十端(つつはた)城は、高梨氏が築いた城砦群の一つと考えられている。伝承では、この地の土豪荻野氏が築いたともされるが明確ではない。荻野氏は、戦国期の1559年に甲斐武田氏が北信に侵攻すると、奥州に逃れたと言われる。しかし別説では、桜沢郷の領主桜沢氏によって築かれたが、後に高梨氏がこの地を支配すると高梨氏によって改修増築され、現在の形になったとも言われる。雁田城・二十端城・滝ノ入城が一つの山塊にあり、高梨氏の支配地域の南部における防衛線であったと推測されている。

 二十端城は、頂部にある滝ノ入城の北西に伸びる、約1.8kmにも及ぶ長い尾根上に広範囲に展開する長大な山城である。城内は大きく5つの城域に分かれ(ここではお城巡りの先達余湖さんに倣って、麓から順に一ノ城・二ノ城・三ノ城・四ノ城・五ノ城と呼称する)、それぞれが独立性の高い一つの城砦として完結している。北西の尾根先端から登道が付いているが、すぐに薮に埋もれて道が消失しているので、適当に尾根上に登るしかない。

一ノ城後部の堀切→DSCN7403.JPG
 尾根先端部にあるのが一ノ城で、北西に一直線に伸びる尾根が西に向きを変え、この西向きの尾根上に築かれている。この尾根は幅が広く、平坦な平場群や腰曲輪が何段も築かれているが、西半分は草木が茂っていて遺構の確認がしづらい。ただ平場群主体であることから二十端城の中では居館地区的なものだったと考えられる。後部に浅い堀切が2本穿たれ、1本目はかなり埋もれていて痕跡はわずかだが、2本目は前面に土塁が築かれた長い堀切で、南に長い竪堀となって落ちている。この堀切辺りから普請が本格化している。

DSCN7443.JPG←二ノ城の石積みがある堀切
 二ノ城は、一ノ城の後部の尾根に築かれた城で、一ノ城を支える機能を持っていた様である。先端の舌状曲輪には石列(石積み?)が残っているが、どのような意図で構築したのかはよくわからない。この曲輪の南に堀切があり、細長い曲輪と段状の小郭の背後にやや大きい堀切が穿たれている。この堀切沿いには石積みや散乱した石材が残っている。この上は細長い平坦な尾根が続き、その上に物見台状の高台があり、その背後に浅いが幅広の堀切が穿たれている。

堀切と段曲輪の石積み→DSCN7522.JPG
 二ノ城からやや離れて三ノ城がある。1/25000地形図の標高544m地点にある。三ノ城は、最も本格的な普請がなされ、石積みも多数残り、最も防備が厳重である。二十端城の中心となる城砦と言ってよい。主郭は周囲を土塁・石積みで囲んだ曲輪で、前後に堀切を穿ち、それらの前方・後方に段曲輪群・小郭群を築いている。また主郭東側にも腰曲輪が築かれている。これらの曲輪にもあちこちに石積みが残っている。堀切は、主郭前後以外にも前方の段曲輪群に1本、後方の小郭群に2本穿たれている。

DSCN7631.JPG←四ノ城の石積み
四ノ城最後部の物見郭→DSCN7634.JPG
 四ノ城は、三ノ城のすぐ背後に築かれ、三ノ城を後方から防衛する城砦である。基本的に細尾根城郭で、2つのピークにそれぞれ物見郭を配置し、それらの間の尾根と前面の尾根に曲輪群を配置している。特に最前面の腰曲輪は円弧状に長く広がっており、城道はここを西の支尾根に進み、そこから上段の曲輪に登るようになっていそうである。西支尾根には小堀切と前面の小郭があり、この城道を防御している。四ノ城にも石積みが残っている。最後部の物見郭からは四ノ城全体が俯瞰できる。この物見郭からは背後の山上にある滝ノ入城が見えるが、まだまだ遠い。

DSCN7684.JPG←五ノ城西斜面の腰曲輪群
 五ノ城は、四ノ城から離れた位置に築かれており、滝ノ入城の前衛的な城である。これも細尾根城郭であるが、四ノ城よりも普請が雑である。その一方、西斜面に何段も腰曲輪群が築かれ、この中には水場や物見台もあり、構造的な違いが見られる。また堀切がないのもこの城の特徴である。五ノ城から滝ノ入城に登る尾根の途中には、急峻な岩塊が道を塞いでおり、登城路がどの様に敷設されていたのかはよくわからなかった。

 以上が二十端城の遺構である。長野では一つの尾根に複数の城を築く例が多いが、こうした連立式山城の中でも群を抜く遺構である。5つの城の性格の違いも明確で面白い。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:【一ノ城】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.707332/138.339758/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【二ノ城】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.705612/138.342075/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【三ノ城】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.703961/138.343599/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【四ノ城】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.701759/138.345315/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【五ノ城】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.698490/138.347890/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

  • 作者: 武男, 宮坂
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/01/10
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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浦野氏館(長野県上田市) [古城めぐり(長野)]

DSCN7336.JPG←わずかに残る南側の土塁
 浦野氏館は、浦野氏の居館と考えられている。浦野氏の事績については、浦野城の項に記載する。浦野城も形態としては山腹に築かれた館城であり、居住性を持っているので、浦野氏館とどのような関係だったのか、考究の余地がある。もしかしたら、浦野氏館は古い時代の居館で、室町・戦国期により要害性の高い浦野城を築いて移ったものかもしれない。

 浦野氏館は、現在の浦里小学校の耕地にあったと考えられている。校地の南西にL字型に土塁が残っている。しかし残念ながら、土塁はかなり低くなってしまっている。また周囲には水路があり、往時の堀の名残と思われる。あまり残存状態が良くないのが残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.377595/138.161230/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武者から武士へ: 兵乱が生んだ新社会集団

武者から武士へ: 兵乱が生んだ新社会集団

  • 作者: 森 公章
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2022/08/22
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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浦野城(長野県上田市) [古城めぐり(長野)]

DSCN7213.JPG←馬場から見た二ノ郭と腰曲輪
 浦野城は、この地の豪族浦野氏の居城である。浦野氏は、平安末期の1150年頃に祢津氏から分かれたとされる。1190年の源頼朝の上洛に随行した武士の中に、祢津次郎と共に浦野太郎の名が見える。室町期の1400年、大塔合戦には浦野式部丞の名があり、寛正年間(1460~65年)・文明年間(1469~87年)には田中・祢津代官として浦野氏の名が見え、祢津氏の庶流浦野氏がその代官としてこの地を領したらしい。1553年、浦野民部允は北信の雄村上義清に従って、甲斐の武田信玄と上田原で戦っている。義清は勇将で、信玄を2度まで破ったが、調略などで徐々に領国を蚕食され、結局居城の葛尾城から落ちて、越後の上杉謙信を頼って逃れた。村上氏敗北後、浦野氏は武田氏に服属し、1557年の第3次川中島合戦などで活躍した。1582年3月に武田氏が織田信長に滅ぼされ、そのわずか3ヶ月後に信長が本能寺で横死すると、浦野氏は上杉景勝に属したが、後に真田氏の家臣となり、1622年に真田信之が松代城に移封となると、これに従って松代に移った。

 浦野城は、飯縄山から南東に伸びる尾根の南中腹に本城が築かれている。またその東にある本城より高い峰に物見松砦が築かれている。本城は、南に突き出た舌状の二ノ郭、その上に一段高く方形の主郭が築かれている。その背後の斜面や周囲には何段もの腰曲輪が築かれている。東下方には広い曲輪があり、馬場跡とされる。ここは御射山祭広庭(みさいやまさいひろば)とも呼ばれ、諏訪上社の神氏であった浦野氏が、諏訪大社の神事である御射山祭を寺領でも行っていたと考えられている。往時は武士達が小笠懸や相撲などを披露したり宴を行ったりしたとされ、周囲の土壇は桟敷であったと見られている。この馬場の周囲にも腰曲輪が築かれている。但し、近世にはかなり広範囲に耕作されていたようなので、どこまでが遺構か、あまりはっきりしない。塁線にはところどころ石積みが見られるが、これも往時のものかどうかはかなり微妙である。
 一方、主郭から上の斜面を登っていくと、南東に突き出た尾根の付け根に堀切が穿たれ、東の谷に向かって長い竪堀となって落ちている。この南東尾根の先に物見松砦がある。砦までの途中の尾根は、倒木が多数あってかなり荒れている。物見松砦は、後部に土塁を築いた主郭の背後に四重の堀切を穿っている。主郭の外周には腰曲輪が一段取り巻き、その東に堀切が穿たれている。その先の尾根にも小郭群が置かれ、小堀切も穿たれている。
 浦野城は、一般的な山城とは構造が異なる城で、祭祀の場として特殊な使われ方をした城だった可能性がある。
広大な馬場跡→DSCN7222.JPG
DSCN7295.JPG←物見松砦の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:【本城】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.382587/138.161895/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【物見松砦】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.382864/138.164481/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


難攻不落の城郭に迫る! 『山城』の不思議と謎 (じっぴコンパクト新書)

難攻不落の城郭に迫る! 『山城』の不思議と謎 (じっぴコンパクト新書)

  • 出版社/メーカー: 実業之日本社
  • 発売日: 2017/03/01
  • メディア: 新書


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黒丸城(長野県青木村) [古城めぐり(長野)]

DSCN7108.JPG←北尾根の堀切群
 黒丸城は、歴史不詳の城である。朝倉但馬守の城との伝承もあるが、朝倉氏についての事績も伝わっていない。

 黒丸城は、飯縄山から南に派生する標高738mの支尾根に築かれている。南麓から登山道が付いているので、迷うことなく登ることができる。山頂に、縦長の主郭と二ノ郭を南北に並べ、二ノ郭前面の南斜面に多数の腰曲輪群を築いた縄張りとなっている。登山道は往時の大手道で、この腰曲輪群の中をジグザグに縫うように登っていく。腰曲輪群の左右には3本ほどの竪堀が穿たれ、腰曲輪群最上段の小郭の前面と後面にも両側に竪堀が落ちている。その上が二ノ郭で、主郭との間は切岸だけで区画されている。主郭は後部に土塁を築き、その背後に堀切を穿って分断している。この堀切の北には小郭・堀切・小郭・堀切と連なって城域が終わっている。一方、主郭・二ノ郭の接続部から西に伸びる支尾根にも堀切が穿たれ、その下方には竪土塁が構築されている。竪土塁の両側も竪堀っぽくなっているが薮で遺構がよくわからない。また、この西尾根の堀切から落ちる竪堀から、腰曲輪群最上段の小郭後部から落ちる竪堀との間の斜面にも竪堀群が穿たれ、畝状竪堀が形成されている。この畝状竪堀は形は明瞭だが、草木が多く見栄えしない。以上が黒丸城の遺構で、堀切・竪堀を効果的に配置した縄張りの城である。
西斜面の竪堀→DSCN7132.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.389532/138.144515/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲信越の名城を歩く 長野編

甲信越の名城を歩く 長野編

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/12/21
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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東城(長野県青木村) [古城めぐり(長野)]

DSCN6935.JPG←主郭と堀切
 東城は、歴史不詳の城である。『信濃の山城と館』では、その位置関係と構造から、在地土豪が西城の支城として築いたのではないかと推測している。

 東城は、西城から谷を挟んだ東隣りの尾根の標高790mの峰に築かれている。明確な登道はないので、長野の山城を数多く踏破しているらんまるさんの記述に従い、西の谷筋を登っていく山道が大きくUターンする部分から斜面を直答して尾根に登り、そこから尾根筋を南下していくルートを採用した。尾根を降っていくと途中に楕円形の小平場があり、更にその先を降っていくと、小さな堀切が現れる。ここからが本城域である。小堀切の南に小郭があり、その南に主郭との間を分断する堀切が穿たれている。これら後部の堀切から落ちる竪堀以外に、西側では間にもう1本竪堀が落ちていて、西側のみ三重竪堀となっている。また主郭背後の堀切付近から主郭の西斜面には、多数の石が散乱している。石積みが築かれていたと思われるが、ほとんど全て崩れてしまっている。主郭は後部に土塁を築いた長円形の曲輪で、西側に帯曲輪を伴っている。また南側前面には数段の小郭群を置いている。少し尾根を下った所には見張台とされる小郭がある。遺構としては以上で、西城と比べると随分とシンプルで、全体の普請の規模もひと回り小さくなっている。
西斜面の三重堀切→DSCN6982.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.381257/138.121190/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


北信濃の古城をゆく ぶらり名城と史跡の歴史散歩

北信濃の古城をゆく ぶらり名城と史跡の歴史散歩

  • 作者: 徳植勉
  • 出版社/メーカー: 文芸社
  • 発売日: 2017/08/01
  • メディア: ペーパーバック


タグ:中世山城
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村松殿館(長野県青木村) [古城めぐり(長野)]

DSCN6901.JPG←館跡の現況
 村松殿館は、真田安房守昌幸の長女で小山田壱岐守茂誠の夫人村松殿の居館跡である。真田信之・信繁(幸村)兄弟の長姉に当たる。夫の茂誠は1585年の「第一次上田合戦」の後、子檀嶺城を守備しているので、子檀嶺岳南麓の丘陵地に夫人の居館を置いたものらしい。

 村松殿館は、現在は民家と畑に変貌しており、遺構は残っていない。館跡の南東には「村松の宝篋印塔」があるが、これはもっと古い南北朝期の造立で、館とは関係ないものである。往時、村松殿もこの宝篋印塔を眺めていたかもしれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.375763/138.124902/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


真田丸 前編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)

真田丸 前編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)

  • 出版社/メーカー: NHK出版
  • 発売日: 2015/12/19
  • メディア: ムック


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西城・寺山砦(長野県青木村) [古城めぐり(長野)]

DSCN6713.JPG←西城主郭背後の二重堀切
 西城は、歴史不詳の城である。子檀嶺岳から南に伸びる支尾根の標高796mの峰に築かれている。この城に登るには、南東麓の車道脇から登道がある。入口がわかりにくいが、動物除けの柵を入って50mぐらい先に左手に入っていく小道がある。ここから東尾根に建つ弥勒堂の参道があり、この尾根筋を登っていけばよい。尚、この東尾根は、『信濃の山城と館』では大手筋と推測している。弥勒堂付近は岩塊が多いが、これを越えると堀切があり、その上に明確な段曲輪群が現れる。段曲輪群の上には主郭がそびえている。主郭はやや縦長の曲輪で、外周には部分的に石積みが残っている。主郭の前面には前衛の2郭があり、主郭背後には大堀切が穿たれて防御を固めている。この大堀切は二重堀切の内堀で、二重堀切の北には小さな3郭を挟んで更に堀切があり、その北に細長い4郭がある。4郭は南北2段の平場に分かれ、中間部の側方両側には竪堀が落ちている。4郭の北にも堀切があり、ほぼ自然地形に近い5郭があって、城域を画する北端の堀切がある。これら5本の堀切によって、背後の尾根筋を厳重に防御している。一方、南西と南東の尾根にも段曲輪群があり、南東尾根では竪堀や小堀切も穿たれている。この尾根を降っていくと、出砦の寺山砦がある。

 寺山砦は、2つの尾根の合流点にある峰に築かれている。西城との間の尾根には小郭がある。主郭は三角形の平場で、背後の尾根に堀切を穿っている。南東尾根には二重堀切が穿たれているが、二重堀切の横には竪堀がもう1本あって、南斜面は三重竪堀になっている。その先には段曲輪群があるが、『信濃の山城と館』の縄張図にあるTVアンテナは既に無くなっていた。南西尾根には堀切がなく、段曲輪群だけが築かれている。

 以上が、西城・寺山砦の遺構で、西城は石積みが残る主郭と多重堀切が特徴的な城、寺山砦はいかにも出砦らしく小規模かつ単純な構造の砦である。
西城主郭に残る石積み→DSCN6788.JPG
DSCN6856.JPG←寺山砦南東の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:【西城】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.378977/138.118594/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【寺山砦】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.375971/138.121104/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃の山城と館〈3〉上田・小県編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

信濃の山城と館〈3〉上田・小県編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/03/10
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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子檀嶺城(長野県青木村) [古城めぐり(長野)]

DSCN6577.JPG←長大な伏勢堀
 子檀嶺(こまゆみ)城は、1585年の「第一次上田合戦」で真田安房守昌幸が上田城で徳川軍と戦った際、杉原四郎兵衛を筆頭とする塩田衆が真田氏に謀反を起こして籠城した城と伝えられる。昌幸は嫡男信之に命じて子檀嶺城を攻略させ、その後は真田氏の家臣小山田壱岐守茂誠が入城した。1600年の「第二次上田合戦」では中山道から徳川本軍を率いて進軍した徳川秀忠が、日根野吉重や石川三長の軍勢に攻めさせたが、茂誠が撃退したと言う。また別説では、古くは冠者智武が拠った城とも、或いはその後、岡村権左衛門平清氏が拠ったとも言われる。真田氏時代には、池田出雲守が守ったとの説もある。

 子檀嶺城は、標高1223.2m、比高700mの峻険な子檀嶺岳に築かれている。岩山がそびえ立つ独特の山容を持つ山で、登山道が整備されている。コースは3つあるが、城の遺構を見るには東麓から登る当郷管社コースが最適である。標高680m地点まで車で登れるが、そこからでも登頂比高は543mもある。見るからに登るのが大変そうな山なので、なかなか登る決心がつかずに来てしまったが、最近は加齢による身体能力低下が心配されるので、体力が十分ある内に制覇しておこうと、意を決して5月連休に登城した。
 東の尾根伝いに登山道を登っていくと、標高900m付近の東尾根から城の遺構らしきものが現れる。強清水という水場の上の尾根で、強清水に至る手前に登山道を貫通するように竪堀らしい地形が見られ、上の尾根には段曲輪群らしき平場が見られる。この尾根を登りきると、山腹に広大な緩斜面が広がっている。ここは御座敷平と呼ばれ、城兵の居住区であったのだろう。しかしここまで登っても、まだ山頂は遠くに見えるだけである。この御座敷平を西に登りきると、山上から北に伸びた尾根脇を登る登山道がようやく始まる。ここから山上まではまだ比高250mもあり、やっと半分登ったところである。
 この北尾根脇の登山道を登っていくと、標高1025m付近に伏勢堀と呼ばれる大規模な空堀が現れる。あまりネット上に情報がなかったので、どの程度の規模の遺構かわからずに来たが、山腹をうねるように堀が走っている。この城の出色の遺構で、総長250m程に及ぶ横堀であり、山の北側に広がる比較的傾斜の緩い斜面全域を横断して掘り切っている。伏勢堀は途中で東西の堀が直交しており、ここに大手虎口を構えていたらしい。この直交部の上には櫓台が構築されている。また延々と伸びる堀に沿って、防衛陣地の腰曲輪群も確認できる。この構造は下野多気山城と同じものである。
 更に登ってようやく山上の尾根に至ると、東端に物見台が築かれている。ここからの眺望は最高で、上田平、葛尾城虚空蔵山城砦群まで見える。物見台の西側には堀切が穿たれ、登山道はこの堀切に通じている。山上の主城部は、基本的に居住性がほとんどない細尾根城郭で、まとまった平場は主郭ぐらいしかない。主郭は土塁も何もない長円形の平場で、3基の祠が置かれている。ここも眺望が素晴らしい。北側に腰曲輪があり、東西の尾根に堀切が穿たれている。西の尾根には若干の平場と堀切が穿たれ、1155m峰にも小堀切が穿たれており、ここまでが城域だったようである。
 子檀嶺城は、何と言っても山上からの眺望と、伏勢堀が見事な城である。
伏勢堀の直交部→DSCN6638.JPG
DSCN6433.JPG←堀切と東物見台
主郭→DSCN6537.JPG
DSCN6535.JPG←北側の腰曲輪
西尾根の堀切→DSCN6519.JPG
CS.jpg←遺構の配置
(出典:長野県林業総合センター提供CS立体図)

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.392278/138.116405/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃の山城と館〈3〉上田・小県編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

信濃の山城と館〈3〉上田・小県編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/03/10
  • メディア: 単行本


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小原城(長野県伊那市) [古城めぐり(長野)]

DSCN6358.JPG←南の堀跡
 小原城は、明徳年間(1390~94年)にこの地の豪族小原太輔が築いたと伝えられる。戦国時代になると、小原下総守は武田信玄に属し、20騎の将となったが、1566年に上野国和田城で上杉勢と戦って討死した。その弟小原丹後守正継は、高遠城主諏訪(武田)四郎勝頼の家臣であった。1582年に織田信長が武田氏を討伐した際、正継は伊那大島城の守備に就いていたが、大島城が自落すると甲斐に退いて勝頼に従い、天目山にて主君に従い自刃したと言う。江戸時代になると、小原庄右衛門光俊は高遠城主保科氏に仕えていたが、保科正之(実は3代将軍家光の弟)が1636年に出羽山形藩に移封となると、この地を離れた。1643年に保科氏が会津若松23万石に転封となると、小原氏一族も会津に移住した。民謡で有名な小原庄助は、この小原氏の後裔と言われる。

 小原城は、三峰川氾濫原に臨む比高30mの河岸段丘西端部に築かれている。現在は一部が宅地、大半が畑に変貌しており、遺構はあまり明確ではない。しかし西斜面に竪堀らしい地形がある他、畑地の南側に堀跡が残る。尚、北西下の車道脇に小原丹後守正継の墓が立てられている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.834628/138.045874/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3)

宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3)

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2016/08/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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山田城(長野県伊那市) [古城めぐり(長野)]

DSCN6222.JPG←東斜面の竪堀
 山田城は、明徳・応永年間(1390~1428年)頃に山田新左衛門尉の居城であったと伝えられる。『神長守矢満実書留』によれば、1482年8月に高遠氏による保科氏討伐に関連して、藤沢氏の城が保科氏に奪われたため、府中の小笠原長朝が藤沢氏支援のため出陣した。小笠原勢は高遠氏側にあった山田城を攻撃したが失敗し、多数の戦死者を出したと言う。その後1549年に、山田新左衛門が甲斐武田氏と金沢峠で戦って討死した。新左衛門の子弥介は武田氏に属し、二十騎の将となったと言う。

 山田城は、三峰川南方にある山田集落背後の標高850m、比高80m程の小山に築かれている。登道はいくつもあるようだが、私は谷筋から登る西北西の登山道から訪城した。山頂の主郭を中心に、四方に伸びる尾根に曲輪群を配した縄張りとなっている。主郭は公園になっているが、南側に土塁が残っている。南東には堀切が穿たれ、その先に二ノ郭が構築されている。二ノ郭の先端も堀切が穿たれ、その先には舌状曲輪、帯曲輪。段曲輪が築かれている。南尾根には、堀切と小郭が交互に築かれているが、この尾根の堀切には鋭さがなくのっぺりしている。小郭も削平が甘く、塁線がはっきりしない。北東尾根は、主郭腰曲輪の下方に広い舌状曲輪があり、その外周と下方に腰曲輪が幾重にも築かれている。北西尾根は、前述の3つの尾根の曲輪群と構造が異なり、小さな段曲輪群を多数連ねただけで、広い曲輪もなく堀切も作られていない。この城では、主郭の北から西にかけての斜面に竪堀群が穿たれている。一応、ピンクのテーピングで竪堀群を廻る小道が表示されているが、草木が多いのであまり見栄えしない。山田城は、竪堀群があるというので期待して行ったが、普請がやや大雑把で、山田城の前に行った守屋山城と比べると随分と見劣りする。虎口も平易であり、通説とは異なり甲斐武田氏による改修の痕跡があまり感じられない城である。的場城と比べると、その違いは歴然としている。
主郭の土塁→DSCN6272.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.826904/138.048813/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


歴史家の城歩き

歴史家の城歩き

  • 出版社/メーカー: 高志書院
  • 発売日: 2018/05/22
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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守屋山城(長野県伊那市) [古城めぐり(長野)]

DSCN6165.JPG←北尾根の二重堀切
 守屋山城は、蟻塚城を本拠としたこの地の豪族笠原氏が築いた詰城である。笠原氏の事績については蟻塚城の項に記載する。

 守屋山城は、蟻塚城の背後にそびえる標高960mの山上に築かれている。蟻塚城との比高差は120mで、登道は蟻塚城の主郭背後から谷戸を登るように道が整備され、案内表示もあるので迷わずに登ることができる。主郭を中心に、北・南・東の三方に伸びる尾根に多数の曲輪群と堀切を配し、更に西に降る2つの支尾根にも曲輪群を配した縄張りとなっている。まず主郭は西側以外の三方を土塁で囲んだ不等辺四角形の曲輪で、北尾根・東尾根には堀切を穿ち、南には前衛の6郭を置いてから堀切を穿っている。北尾根には、堀切の前に2郭を置き、2郭の先にも堀切を穿ち、更に段々に曲輪群を長く連ねている。北尾根曲輪群の先端付近には二重堀切を穿っている。二重堀切手前にある5郭の西の支尾根には段曲輪群が築かれており、前述の登道はこの曲輪群を通るように敷設されている。また2郭先端の堀切は西側に竪堀となって長く伸び、もう一つの西の支尾根にある曲輪群に繋がっている。従ってこの竪堀は、城内通路を兼ねていた様である。この西尾根の先には細長い7郭があり、更に3段の小郭を置いて、先端を堀切で区画している。これらの曲輪群の側方には帯曲輪も築かれている。主郭の南には6郭と堀切の先に、北尾根同様に階段状に曲輪群が築かれている。先端近くでは四重堀切となっており、側方にも竪堀が長く落ちていて、尾根上も横もウネウネになっている。6郭下の堀切の脇から主郭の東斜面に帯曲輪が伸び、ここから4本の竪堀が連続して落ちている。南尾根の堀切・東尾根の堀切それぞれから落ちる竪堀と合わせると、東斜面には合計6本の竪堀が落ちており、この斜面の防御を特に重視していたことがうかがわれる。東尾根も、主郭直下のものを合わせて合計4本の堀切が穿たれている。以上が守屋山城の遺構で、堀の規模はそれほど大きくはないが、多重堀切・竪堀群で尾根筋を固めた要害である。武者走り・帯曲輪などもよく残っている。執拗に穿たれた堀切群・竪堀群は、武田氏による改修の可能性を感じさせる。
堀切と主郭切岸→DSCN6035.JPG
DSCN6067.JPG←四重堀切から落ちる竪堀群
主郭東斜面の竪堀→DSCN6098.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.847274/138.040059/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲信越の名城を歩く 長野編

甲信越の名城を歩く 長野編

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/12/21
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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蟻塚城(長野県伊那市) [古城めぐり(長野)]

DSCN5977.JPG←物見台状の最後部の曲輪
 蟻塚城は、諏訪氏の一族と推測される豪族笠原氏の居城である。『吾妻鏡』には、平氏に仕えていた笠原平五頼尚が、1180年9月7日に大田切城主菅冠者友則と共に木曽義仲配下の村山義直・栗田範覺(のりさと)の軍勢と信濃国市原で戦って敗れ、越後に逃れたとある。但し、この笠原頼尚については高井郡笠原(現在の中野市)の人で合戦もそちらであったとの説もあり、蟻塚城主笠原氏との関係は不明。建武年間(1334~38年)には笠原平五の7世の孫・中務少輔正直が天神山城に居城していたが、義仲6世の孫・木曽又太郎家村に攻撃され、戦わずして蟻塚城に退いたと伝えられる。1400年の大塔合戦では笠原中務丞の名が見え、『神長守矢満実書留』の1467年正月の条には笠原美濃守貞政の名がある。その後の歴史は不明である。尚、背後の山上には笠原氏が詰城として築いた守屋山城がある。

 蟻塚城は、標高840mの丘陵地に築かれている。城内には御射山社が建てられ、綺麗に整備されているので遺構がわかりやすい。斜面の傾斜に沿って、曲輪群を階段状に連ねている。主郭は最も広い曲輪で前面以外の三方に土塁を築き、特に後部の土塁は規模が大きく、背後を水路を兼ねた堀切で分断している。この堀切は記者斜面で北西に伸びて降っている。主郭の南には腰曲輪が築かれ、前面にも小郭が置かれている。その西には堀切を挟んで二ノ郭がある。二ノ郭には御射山社が建ち、南北に土塁を築いている。二ノ郭の南には腰曲輪、北側には背後の堀切から分岐した横堀が北西に降っている。二ノ郭の前面には3郭があり、その前にも浅い堀切が穿たれている。3郭南にも横堀があり、この堀切とT字にクロスしている。更に西にはひな壇状に3つの曲輪群が並んでいる。最上段の曲輪には前述の堀切に沿って土塁が築かれている。この他、主郭の後部にはコの字型に土塁を築いた物見台状の小郭があり、その背後も堀切で区画している。蟻塚城は、平時の居住性と統治機能を持った館城の性格をよく残している。
ひな壇状曲輪の堀切と土塁→DSCN5919.JPG
DSCN5960.JPG←主郭後部の大土塁

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.847587/138.036025/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃の山城と館〈第5巻〉上伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

信濃の山城と館〈第5巻〉上伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/06/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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鈴岡城(長野県飯田市) [古城めぐり(長野)]

DSCN5805.JPG←主郭外周の空堀
 鈴岡城は、信濃守護小笠原氏の一流、鈴岡小笠原氏の居城である。南北朝期に小笠原貞宗の子宗政によって築かれたとされる。小笠原氏は一時期、信濃守護職から外されていたが、1399年に長秀が信濃守護に任命され、1400年に京都から信濃に入国したが、高圧的な態度などから国人衆の反発を買い、大塔合戦で長秀は敗北し、再び守護職を罷免された。しかし長秀の弟政康は上杉禅秀の乱鎮圧や足利持氏追討で軍功を挙げ、信濃守護職を取り戻し、小笠原氏を中興した。政康の死後、小笠原氏は深志(府中)小笠原氏・松尾小笠原氏・鈴岡小笠原氏が分立し、惣領職をめぐって抗争を繰り広げた。この内、政康の次男光康が松尾城を本拠に伊賀良庄全体を統括し、松尾小笠原氏となった。政康の長男宗康は信濃守護に補任されたが、1446年に深志の小笠原持長(政康の長兄長将の子、深志小笠原氏)と善光寺表の漆田原で戦って討死した。その結果、弟光康が守護職と小笠原氏惣領職を引き継いだ。幼少であった宗康の子政秀は伊那に逃れて叔父光康を頼り、後に松尾城と毛賀沢川を挟んで南の鈴岡城に居城し、鈴岡小笠原氏となった。将軍足利義尚が、政秀を小笠原氏嫡系と認めて信濃守護職に補任したため、これに反発した松尾小笠原氏と対立するようになった。1493年、松尾の小笠原家長の嫡男定基が陰謀を企て、守護政秀・長貞父子を松尾城に誘い出して殺害し、鈴岡小笠原氏は滅亡した。1534年、深志の小笠原長棟は松尾城の定基を攻め、定基父子は降伏して松尾城を明渡した。長棟は松尾城を破却し、定基の子貞忠とその子信貴は甲斐へ逃れた。長棟は分裂していた信濃の小笠原氏を統一し、その子信定が鈴岡城に入り、伊賀良庄を治めた。1554年、甲斐の武田信玄が下伊那に侵攻すると、下伊那の多くの国人衆は武田氏に降ったが、鈴岡城の信定と神之峰城主知久頼元は頑強に抵抗した。しかし先に甲斐に逃れていた松尾小笠原家の信貴・信嶺父子は、武田氏の先鋒となって鈴岡城を攻撃し、落城させた。敗れた信定は京に逃れ、鈴岡小笠原氏は滅亡した。その後鈴岡城は松尾城の支城として使用され、1590年の小田原の役後に徳川家康が関東に移封となると、徳川氏に属していた松尾城主小笠原信嶺も武蔵本庄城に移り、松尾城と共に鈴岡城も廃城となった。

 鈴岡城は、天竜川西方の比高40m程の河岸段丘先端部に築かれている。現在城の中心部は城址公園となり、西部は耕地に変貌しているが、遺構はよく残っている。東端に主郭と堀切で分断された北の出丸が置かれ、主郭の西から南にかけて大きな空堀を介してL字型の二ノ郭が置かれている。二ノ郭の東下方には帯曲輪が築かれている。二ノ郭外周にも空堀が穿たれ、この空堀は東の帯曲輪下まで伸びており、全体をコの字型に囲んでいる。二ノ郭の西には横長の外郭(的場)、その外側にも空堀を挟んで本城の地名が残る外郭がある。この本城は広大な緩斜面となっていて、西の最上部に遠見原と呼ばれる高台がある。この高台付近からの眺望は最高で、城内の他、神之峰城を始めとする山々が一望できる。遠見原の西にも城域を画すると思われる堀跡が見られる。一方、本城の北東に空堀を挟んで三角形の荒小屋(新小屋の意味か?)という曲輪がある。荒小屋は未整備の竹林になっていて、近くにいた農家の方にお断りして入らせていただいた。荒小屋と本城を隔てる空堀には土橋が架かり、荒小屋の北端角の下方には段曲輪群が築かれている。この他、二ノ郭東の帯曲輪の東斜面や出丸の北西斜面には竪土塁群が見られる。公園化・耕地化による改変もあるが、思った以上に遺構がよく残り、特に空堀は規模が大きく見応えがある。
二ノ郭外周の空堀→DSCN5797.JPG
DSCN5793.JPG←荒小屋と本城を隔てる空堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.483728/137.826469/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信州の城と古戦場

信州の城と古戦場

  • 作者: 南原公平
  • 出版社/メーカー: 株式会社しなのき書房
  • 発売日: 2021/06/18
  • メディア: Kindle版


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神之峰城(長野県飯田市) [古城めぐり(長野)]

DSCN5661.JPG←主郭東側の堀切
 神之峰城は、諏訪氏の分流でこの地の豪族であった知久氏の居城である。知久氏は知久平に居館を置いていたが、戦国前期頃に神之峰城を築いて本拠を移したらしい。1533年には京都醍醐寺理性院の厳助僧正が信州に下向した際、神之峰城を訪れた記録が残っている。1554年に武田信玄が伊那を攻略した際、下伊那地方で最も抵抗したのは神之峰城の知久氏であった。この年に神之峰城は落城したらしく、知久頼元父子3人は生け捕られ、甲斐国大原の島へ流罪となり、知久氏宗家は没落した。その後の知久領は、武田氏に従属した知久氏一族が支配したらしい。一方、頼元の子七郎頼氏らは京都に逃れて牢人となっていたが、1582年に織田信長が武田氏を滅ぼすと、頼氏は28年ぶりに神之峰城への帰還を果たした。おそらく織田氏の後援によるものと考えられている。本能寺の変後に徳川・北条両氏による武田遺領争奪戦「天正壬午の乱」が生起すると、頼氏は徳川家康に従って甲斐に出陣して北条勢と戦った。頼氏の子則直は、関ヶ原の戦い後に旗本信濃衆として3千石を与えられ、阿島陣屋を設けて本拠を移し、交代寄合衆として幕末まで存続した。

 神之峰城は、標高772mの神之峰に築かれている。城内には民家が点在する他、久堅神社やNHK等複数の放送施設が建っており、かなり改変を受けている。基本的な骨格は、h型の尾根に沿って曲輪を配した連郭式で、NHK放送施設が建っている丘が主郭である。その西には堀切状の平場を挟んだ高台に出郭が築かれている。二ノ郭は南北に長い曲輪で、南端の高台に久堅神社が建っている。出郭の南北には腰曲輪が築かれている。また主郭の南側に腰曲輪が築かれ、そこを東に進むと堀切が穿たれている。。この主郭東側の堀切のみ往時の姿を残している。堀切の東は尾根上に平場があり、その東に高台となった二ノ郭がある。二ノ郭には熊野社が建ち、南の腰曲輪には防災無線基地が建っている。この他、北東には北東から東にかけての緩斜面にも曲輪らしい平場が散見されるが、改変のためによくわからない。東にやや外れて、蔵屋敷と呼ばれる高台があり、これも出郭であった様だ。以上のように神之峰城は往時の形状はのこっているものの改変が多く、あまりパッとしない城である。
高台状の出郭→DSCN5590.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.459036/137.872174/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


天正壬午の乱 増補改訂版

天正壬午の乱 増補改訂版

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/07/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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