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大井城(岐阜県恵那市) [古城めぐり(岐阜)]

DSCN5545.JPG←城趾の小学校
 大井城は、大井遠江守行秀が城主であったと推測されている。行秀は原蜂屋氏の祖定親の玄孫で、定親の弟頼貞の玄孫は美濃守護土岐持益に当たる。応仁の乱の際、西軍の重鎮であった美濃守護土岐成頼の守護代斎藤妙椿が1473年3月に京都に入ると、東軍はこの美濃勢を牽制するため、信濃松尾城主小笠原家長に木曽福島の木曽家豊と共に東美濃へ出兵するよう催促した。同年11月中旬、小笠原・木曽両軍は大井城・荻之島城を攻略したと言う。以後、天文年間(1532~55年)まで小笠原氏が恵那中部を占領したと伝えられる。但し、小笠原氏が攻略した大井城が、この城のことであったかどうかは明証はない。

 大井城は、中山道大井宿の東端にある台地上にあったらしい。現在は大井小学校の校地となり、地勢以外に明確な遺構は残っていない。ちなみに中山道は、この地から東が木曽路、西が美濃路と呼ばれ美濃・信濃両勢力の接点であったと言う。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.455191/137.416027/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編

信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/11/13
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世崖端城
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岩村城(岐阜県恵那市) [古城めぐり(岐阜)]

DSCN5003.JPG←岩村城のシンボル、六段壁の石垣
 岩村城は、東濃の有力国衆岩村遠山氏の歴代の居城である。遠山氏の祖は、源頼朝に伊豆の挙兵時より仕えてその重臣となった加藤景廉で、1185年に軍功によって遠山荘の地頭職を与えられ、その長子景朝がこの地に入部して遠山氏を称し、岩村城を築いた。以後、鎌倉・南北朝・室町時代を通して遠山氏は恵那郡全体に勢力を扶植し、東濃の一大豪族となった。戦国時代には、岩村遠山氏を惣領として、明照・明知・飯羽・串原・苗木・安木の「遠山七家」が恵那郡一帯に勢力を張り、特に岩村遠山氏、明知遠山氏、苗木遠山氏は三人衆と呼ばれた。弘治・永禄年間(1555~70年)になると、遠山氏は南信の伊那谷全域を制圧した武田信玄と、尾張から美濃へ大きく勢力を伸ばし始めた織田信長との間に挟まれることとなった。まずこの地に影響を及ぼし始めたのは東濃への進出を目論む武田氏で、岩村城主遠山景前は武田氏に誼を通じて勢力の安泰を図った。その子景任は武田・織田と両属関係となり、後には信長の叔母おつやの方を正室に迎えるなど徐々に織田方への傾斜を深めた。そして遂に遠山一族は武田氏から離反し、武田氏の攻撃を受けることとなった。1570年、高遠城主秋山虎繁(信友)が美濃に侵攻し、遠山一族と徳川氏傘下の三河衆の連合軍が恵那郡上村で迎え撃って大敗した。敗報を受けた信長は直ちに援軍を派遣し、虎繁は信濃へ撤退した。1572年8月、岩村遠山景任が嗣子なく没すると、信長は自身の5男御坊丸を遠山氏の養嗣子とし、おつやの方を後見人として東濃を支配下に置いた。同年10月、信玄は西上作戦を開始し、秋山虎繁は伊那衆を率いて岩村城を攻囲した。御坊丸の養育と城兵を助命するかわりにおつやの方が虎繁と再婚し、岩村城を開城させて虎繁が城主となった。信玄は翌73年4月、志半ばで陣没し、勝頼が後を継いだ。1574年1月、勝頼は代替わりの緒戦として東濃攻略を企図して岩村城に進出し、周辺の遠山一族の諸城を攻略しつつ明知城を囲んだ。信長は、嫡男信忠と共に鶴岡山に本陣を構えて武田勢と対峙したが、2月6日に飯羽間友信の裏切りによって明知城が落城したため、神篦城に河尻秀隆を、小里城に池田恒興を配置し、2月24日に岐阜に撤退した。1575年、長篠の戦いで武田勝頼が徳川・織田連合軍に大敗すると、信長は反攻に転じ、信忠を大将とする2万の大軍で東濃奪還を図った。織田軍は武田軍に占拠されていた諸城を次々に奪回し、半年の籠城戦の末に岩村城を攻略した。降伏した秋山虎繁以下の下伊那の将兵は、助命の約束を反故にされて惨殺され、城内にいた遠山氏の将兵も皆殺しにされ、岩村遠山氏は滅亡した。こうして東濃は完全に織田方の支配下に入り、岩村城には織田氏の部将河尻秀隆が入って、対武田の最前線の城となった。1582年3月、武田征伐を開始した信長は、明智光秀等錚々たる面々を引き連れて岩村城に着陣し、岩村城滞在中の13日頃に武田勝頼滅亡の一報を受けた。武田氏が滅亡すると、秀隆は甲斐一国を与えられて甲府に移り、岩村城は信長の寵臣森蘭丸に与えられた。しかし蘭丸は信長に近侍していたため、留守代として森氏の家老各務兵庫が在城した。同年6月に本能寺の変で織田信長と共に蘭丸も討死した後、東濃地域は羽柴秀吉に服属した美濃金山城主森長可(蘭丸の兄)の勢力下に入ることとなり、岩村城もその領国に組み込まれた。1584年、小牧・長久手の戦いで長可が討死すると、長可の末弟忠政がその後を継いだが、1599年に信濃川中島に転封となった。森氏3代の間は各務兵庫が継続して岩村城を預かった。森氏の跡には川中島から田丸具安が入ったが、翌年の関ヶ原合戦の際に石田三成の西軍に与し、戦後除封された。1601年大給松平家乗が2万石で入封し、近世岩村藩が成立した。以後、丹羽氏・松平(大給石川)氏が藩主となり、幕末まで存続した。

 岩村城は、標高720mの城山に築かれている。中世の根古屋式山城の遺構をベースに、近世の石垣技術を上乗せしたような城となっている。県の史跡に指定されており、主要部の遺構は山麓から山頂までよく整備されている。北西麓の台地上には藩主邸(御殿)跡の広大な平場があり、現在は片隅に岩村歴史資料館が建っている他、太鼓櫓、表御門、平重門などが復元されている。そこから山上の本丸まで大手道が伸び、大手道沿いに主要な曲輪群と城門が構築されている。初門・一之門を抜けて進むと、両側に石垣のある平場群が現れる。これらの平場群の北西にも曲輪群が展開している。これらを登った先に枡形を形成する土岐門があり、ここで登城路は大きく右に旋回する。その先に大堀切があり、往時は畳橋というL字型の木橋が架かっていた。その先には石垣で囲まれた曲輪がそびえており、追手門と三重櫓の跡がある。更に進むと、緩傾斜地に広い屋敷地跡の曲輪群が登城路両側に広がっており、霧ヶ井などの井戸跡や、八幡神社が鎮座した八幡曲輪がある。それらの上にあるのが城の中心部である。城の中心部はほぼ総石垣となっており、長方形の本丸を山頂に置き、北に二ノ丸、東に東曲輪、またこれらの外周には帯曲輪を廻らしている。更に帯曲輪の外側には南に南曲輪、南西に出丸を築いている。本丸の北東部には、岩村城のシンボルでもある六段壁と呼ばれる石垣がある。二ノ丸は山林に覆われているが、内部に四角い大穴があり、穴の中心に石垣で囲まれた方形の壇がある。庭園か何かの跡であろうか?二ノ丸は東西2段に分かれていて、上段曲輪の東辺中央に石垣の虎口が形成されている。下段曲輪の北東部には菱櫓があったらしい。これらが中心的な遺構であるが、周囲に派生する尾根には中世山城そのままの段曲輪群が築かれ、堀切や物見曲輪も山林内に残っている。これらの支尾根曲輪群の中では、南曲輪と出丸の先の曲輪群は堀切まできれいに整備されている。
 さすがは有名な城だけあって、遺構群はいずれも素晴らしく、見応えがある。各所には解説板も設置されていて、往時の形態も想像しやすい。城だけでなく、城下町にも古い町並みの風情が残り、町家も含めて探訪すべき貴重な遺産である。
土岐門の枡形→DSCN4843.JPG
DSCN4907.JPG←中段の屋敷地曲輪群
南曲輪の支尾根の土橋・堀切→DSCN5029.JPG
DSCN5083.JPG←出丸の支尾根の堀切
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.359840/137.451292/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東海の名城を歩く 岐阜編

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  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2019/11/15
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タグ:近世山城
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馬籠城(岐阜県中津川市) [古城めぐり(岐阜)]

DSCN4663.JPG←城址の丘陵の現況
 馬籠城は、馬籠丸山城とも言い、木曽氏の支城として戦国末期の戦いの舞台となった。創築時期は不明だが、室町後期には東濃の国人領主岩村遠山氏の一族馬籠遠山氏の所領であり、遠山氏によって築かれていた。戦国中期に甲斐の武田信玄が信濃に侵攻して木曽義昌が武田氏に降ると、東濃にも武田氏の勢威が及ぶようになった。永禄・元亀年間(1558~73年)には岩村氏の勢力圏は、西から勢力を拡大した織田信長と、東の武田信玄との接壌地帯となった。遠山氏が織田方になると、1572年に信玄は重臣の秋山信友を東濃に侵攻させて岩村遠山氏を降し、1574年には武田勝頼が東濃に侵攻して遠山18支城を攻略したとされる。この時馬籠城も武田氏の支配下に入った。1582年に武田氏が滅亡し、その3ヶ月後に信長も本能寺で横死すると、北条・徳川・上杉による武田遺領争奪戦「天正壬午の乱」が生起し、信濃木曽谷を支配する木曽義昌は紆余曲折を経て徳川家康に与し、馬籠城は木曽氏の支配下となった。1584年3月、小牧・長久手の戦いが生起し、濃尾平野を挟んで豊臣秀吉と織田信雄・徳川家康連合軍が対峙した。この時義昌は徳川氏から離反して豊臣方に付き、秀吉は信濃の徳川勢の進路を塞ぐため、義昌に木曽路防衛を命じた。義昌は、妻籠城に重臣の山村良勝を、馬籠城に島崎重通(文豪島崎藤村の祖先)を入れて守らせた。同年9月、家康は飯田城将菅沼定利・高遠城将保科正直・諏訪高島城将諏訪頼忠らに木曽攻略を命じた。徳川勢は妻籠城を攻撃するとともに、一軍を割いて馬籠城攻撃に向かわせた。馬籠城攻撃の徳川勢は馬籠宿の北に陣所を構えた。重通は大軍襲来に恐れをなし、夜陰に紛れて妻籠城へと逃れた。結局徳川勢は妻籠城攻略に失敗して敗退し、小牧・長久手の戦いも秀吉の政治工作によって講和が成立した。後に家康が秀吉に服従すると、秀吉は信濃諸将の管轄を家康に一任し、木曽氏は再び徳川傘下となった。1590年、徳川氏が関東に移封となると、木曽氏は下総網戸に移された。1600年の関ヶ原の戦いで徳川氏が覇権を握ると、木曽は徳川氏の直轄領となった。1615年、木曽は尾張徳川藩の領地となり、馬籠城は廃城となった。

 馬籠城は、馬籠宿南西の緩傾斜地にある小さな独立丘陵に築かれている。旧中山道沿いには城の解説板が立っている。主郭があったと思われる丘陵頂部は竹林になっているが、削平が甘く、ほとんど地山のままの様である。その南西には広い平場と堀切状の農道、また西側には腰曲輪らしい平場郡が見られるが、耕地化されているのでどこまで往時の形態を留めているのか、よくわからない。結局、遺構を見る限り大規模な普請は行われなかった模様で、小規模な砦であった様だ。この程度の城砦では、島崎氏が戦わずして脱出するのも無理からぬところである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.521932/137.561735/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東海の名城を歩く 岐阜編

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タグ:中世平山城
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三留野家範居館(長野県南木曽町) [古城めぐり(長野)]

DSCN4431.JPG←館跡伝承地の等覚寺
 三留野左京亮家範は、木曽氏14代左京大輔家方(家賢)の2子で、飛騨路を防ぐために家範を三留野の地に分封し、居館を置いたとされる。三留野の地名は「御殿(みどの)」に由来するとされ、家範の居館があったことからそう尊称されたと言う。

 三留野家範居館には、2つの伝承地があるが、『信濃の山城と館』では小林俊彦氏の説に従って等覚寺境内を居館跡としている。遺構は全く残っていないが、東の山上には三留野東山城があり、居館と詰城の関係を考えるともっともらしく思える。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.607025/137.613341/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


続日本100名城に行こう 公式スタンプ帳つき

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  • 作者: 公益財団法人 日本城郭協会
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タグ:居館
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与川古典庵館(長野県南木曽町) [古城めぐり(長野)]

DSCN4404.JPG←眺望に優れた丸山
 与川古典庵館は、木曽氏の庶流三留野氏の家臣小川野氏の居館である。小川野氏の祖・次郎左衛門は三留野左京亮家範に仕え、三留野氏係累の俊範を迎えて住僧とした。1584年、妻籠城の戦いの際、軍学にも優れていた与川俊範は、与川村の郷民を率いて妻籠城に籠城する木曽勢の救援に赴き、徳川勢を撃退したと言う。尚、木曽左京大輔家方(家賢)の4子右馬之助家益が野路里(野尻)に分封され、その支裔が小川野氏であるとも言う。しかし木曽氏の歴史はよくわからないものが多く、三留野家範は戦国時代以前の武士であり、家範に仕えた次郎左衛門が迎えた俊範が戦国末期に活躍したというのは時代的に合わず、前述の所伝には疑問がある。

 与川古典庵館は、与川北岸の丘陵上に築かれている。丘陵上はグラウンドとなって削平され、その南端部に丸山という細長い小山がある。小山の上には古典庵の石碑や与川俊範の供養塔、良寛の歌碑などが建っている。この地は江戸時代、観月の名所で木曽八景に数えられており、眺望に優れた地勢である。古典庵が建っていたのは、グラウンドの北部であったらしいが、前述のようにグラウンドとなって削られ、往時の形態は失われている。
古典庵跡地の現況→DSCN4392.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.635020/137.642384/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲信の戦国史:武田氏と山の民の興亡 (地域から見た戦国150年)

甲信の戦国史:武田氏と山の民の興亡 (地域から見た戦国150年)

  • 作者: 笹本正治
  • 出版社/メーカー: ミネルヴァ書房
  • 発売日: 2016/05/30
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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和村城(長野県大桑村) [古城めぐり(長野)]

DSCN4320.JPG←主郭北側の堀切
 和村城は、歴史不詳の城である。木曽川北岸の段丘辺縁部にあるが、川を挟んで南には木曽氏の拠点須原城・定勝寺館があり、それらと関連する城であることが推測されている。

 和村城は、木曽川に大沢が流れ込む合流点の北東岸に築かれている。ほぼ単郭の城で、先端に主郭が置かれ、東に段状に腰曲輪群が築かれ、主郭の北には堀切を挟んで土塁が伸びている。主郭は、現在はただの空き地となっている。二ノ郭もあったとされるが、耕地化で改変され失われているようである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.698022/137.684602/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


城館調査ハンドブック

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  • 作者: 千田 嘉博
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA(新人物往来社)
  • 発売日: 1993/10/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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古畑伯耆守重家屋敷(長野県木曽町) [古城めぐり(長野)]

DSCN4298.JPG←大手の石垣
 古畑伯耆守重家屋敷は、木曽氏の庶流でその家臣であった古畑氏の居館である。古畑氏は木曽家村の3男黒川三郎家景の後裔で、代々黒川に住し、馬場氏と共に黒川口の守りに当たったと伝えられる。重家は戦国後期の当主で、木曽義康・義昌2代に仕えた。1560年、飛騨の三木氏が木曽に侵攻すると、重家は奈川口を守てこれを敗走させた。この戦功により「五貫文山」と呼ばれる山を賜り、江戸時代に木曽を統治した尾張藩が木曽住民に私有林を許さなかった中にあって、この山だけは古畑氏子孫に私有を認めていたと言う。

 古畑伯耆守重家屋敷は、木曽福島宿から開田高原に通じる街道沿いにある。現在は国道361号線が通っているが、かつては黒川沿いに飛騨街道の旧道があったらしく、屋敷はこの飛騨街道に面している。現在屋敷跡地は畑となっているが、飛騨街道に面して大手虎口が開かれ、その両側に石垣が残っている。また屋敷地の南北両辺にも段差が残っている。大手門には、門跡の礎石も残っている。どこまでが中世の遺構なのか、どこからが近世の遺構なのかははっきりしないが、石垣と門跡が残っているのは素晴らしい。
門跡の礎石→DSCN4312.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.876228/137.674870/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3)

宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3)

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2016/08/12
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タグ:居館
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女沼古戦場(埼玉県熊谷市) [その他の史跡巡り]

DSCN4053.JPG←古戦場の標柱付近
 女沼の戦いは、南北朝時代に第2次畿内遠征を敢行した鎮守府大将軍北畠顕家と、足利義詮を奉じた上杉憲顕・高重茂らの鎌倉府の軍勢の戦いである。『太平記』第19巻によれば、1337年8月、義良親王を奉じて霊山城を出立した顕家率いる奥州軍が下野国に入ると、この報を聞いた鎌倉府の上杉憲顕らは武蔵・相模の軍勢を率いて出陣し、利根川に防衛線を敷いた。両軍は12月13日に時雨で増水した利根川を挟んで対峙した。この時、源平合戦の加賀篠原の戦いで名高い斎藤別当実盛の後裔・斎藤別当実長は、「敵より先に渡河した方が勝つ」と顕家に進言して先陣を許された。しかし実長が打立つのを見た閉伊十郎・高木三郎はいつも先陣を争っていた者達だったので、実長を出し抜いて先に渡河しようと、利根川に馬を打ち入れた。これを見た実長は、「このままみすみす渡河させては、どうして高名を立てることができよう」と舎弟実季(太平記では実季は「豊後次郎」と記載される)と共に腹を立て、3町ほど上流を2騎で渡ろうとした。しかし実長・実季兄弟は、逆巻く激流に馬ごと飲まれて帰らぬ人となったと言う。これを見た武士達は、「さすがは鬢髭を染めて討死した実盛の末裔だ」と感嘆したと言う。これを機に両軍は川中に討ち入って戦い、結局顕家軍が勝利した。この後16日に、顕家軍は武蔵国安保原でも鎌倉府軍を撃破し、義詮を三浦半島へ追いやり、関東執事斯波家長を討ち取って23日に鎌倉を占領した。

 女沼の戦いは、『太平記』には「戸祢川(利根川のこと)」とだけ書かれていて、具体的な場所は書かれていない。標柱が立っているが民家近くの畑に標柱が立っているので、何か根拠があるのだろう。河川改修で周囲の景観は変わっているが、近くの妻沼聖天山やその周辺には斎藤塚など斎藤氏に所縁のある史跡がある。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.227286/139.387579/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


太平記(三) (岩波文庫)

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  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2015/04/17
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タグ:古戦場
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細谷館(群馬県邑楽町) [古城めぐり(群馬)]

DSCN4030.JPG←東の堀跡
 細谷館は、新田義貞の一族細谷右馬助秀国の居館である。新田氏5代政氏の長子国氏が新田荘細谷に分封されて細谷氏初代となり、その孫が秀国である。新田宗家は国氏の弟基氏が継ぎ、基氏の孫が南北朝史に名高い新田義貞である。1335年に足利尊氏が後醍醐天皇の建武政権から離反すると、義貞は尊氏に代わる武家の総帥として後醍醐から取り立てられて各地を転戦したが、秀国も義貞に従って転戦した。1336年の足利勢の京都制圧後、越前に逃れて足利方の部将斯波高経と越前で戦っていた義貞は、1338年に灯明寺畷で討死した。統領義貞の死で新田軍は劣勢となり、秀国は再起を図って海路西の丹後国府中に逃れ、籠神社の社家海部氏を頼った。1347年に上野国に戻り、旧知の佐貫氏の支配地、邑楽郡佐貫庄篠塚の坪谷に館を築いて寓居した。これが細谷館である。館の鬼門には丹後府中の籠神社から勧進した。これが現在残る籠宮稲荷神社である。秀国の子勝直が跡を継いだ。時代は下って戦国後期の1570年、小泉城主富岡氏の軍勢の中に細谷右馬助義重・同与一郎の名が見える。1575年に義重が没すると、その子義長が跡を継ぎ、富岡氏の客将となり、小田原の北条氏直に属した。1590年に北条氏が滅亡すると、義長はこの地で帰農した。

 細谷館は、県道152号線の坪谷交差点の北西にある。現在館跡は民家の敷地となっているので内部探索はできないが、北・東・南の三方に堀跡が残っている。西の堀は耕地化で埋められてしまっている。遺構としてはそれだけであるが、中世土豪の屋敷の雰囲気を残している。
 尚、館跡の南方170mには、細谷秀国の墓所五位堂があり、その脇に細谷氏の墓所が残っている。五位堂の名は、秀国の位階によるものとも言われる。
五位堂と細谷氏墓所→DSCN4051.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.240561/139.442350/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


新田一族の中世 歴史文化ライブラリー

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  • 作者: 田中大喜
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
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タグ:居館
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早川田氏館(群馬県館林市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN3979.JPG←館跡の雲龍寺
 早川田氏は、佐川田氏、佐河田氏などとも呼ばれ、高階氏の一族であったとされるがその事績はよくわからない。

 早川田氏館は、現在の雲龍寺の位置にあった。渡良瀬川の北岸に当たるが、この付近だけ県境が渡良瀬川の北岸に張り出しており、明治以降に河川改修によって川の流路が変えられたものと推測される。寺の本堂背後に竹が生えた土盛りがあるが、遺構かどうかは判断できない。尚、雲龍寺は足尾鉱毒事件の闘士、田中正造にゆかり深い寺で、正造の墓があり、正造を祀った救現堂も建っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.278367/139.552717/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

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  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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