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荒山城(石川県金沢市) [古城めぐり(石川)]

IMG_4802.JPG←城域西端の横堀
 荒山城は、加越国境城砦群の一である。天正年間(1573~92年)に越中を領した富山城主佐々成政が、加賀・能登を領した前田利家に対抗するために築いた城と考えられている。本能寺の変での織田信長滅亡後、その後継を巡って1584年3月、羽柴秀吉と織田信雄(信長の次男)・徳川家康連合軍が尾張の小牧・長久手で対峙した。前年の賤ヶ岳合戦の後、一旦は秀吉に降って越中に留まった佐々成政は、これを機に秀吉から離反し、秀吉方の前田利家と敵対し、両者の間に軍事的緊張が高まった。加越国境城砦群は、この時に新造または大改修を受けた城と考えられている。加賀と越中を繋ぐ主要街道は4つあり、成政は末森城攻撃に兵数を割くため、加越国境の城郭群を大改修して防御力を増強し、国境の守備兵不足を補強した。荒山城は二俣越(二俣道)を押さえ、前田方の高峠城と対峙する城として築かれたと推測されている(学研パブリッシング『軍事分析 戦国の城』より)。

 荒山城は、医王ダム北方の標高260mの東西に細長い丘陵上に築かれている。加越国境城砦群は、いずれも街道を取り込む形で築かれているが、荒山城も城のすぐ北側を二俣道が貫通しており、それを見下ろす様に築城されている。また街道を西から東進して来る敵勢を食い止めることを主眼として築かれている為、城域の西端に横堀・切岸・土塁による防御線を築き、切り通し状になった街道に対して両翼から迎撃できる様に、街道両側に腰曲輪群が築かれ、特に主城域である南側は腰曲輪群が幾重にも構築され、北西部には櫓台らしい土壇や竪土塁も確認できる。この街道南側の腰曲輪群には、数ヶ所に竪堀状の切れ込みがあるが、囮虎口であったか、或いは本物の虎口として機能していたか、どちらかではなかろうか。これら腰曲輪群の南東の頂部に主郭がある。主郭は櫓台と土塁を備え、北側に腰曲輪状の二ノ郭を置いている。また主郭の前後には堀切を穿ち、土橋で連結した馬出しが各々設けられている。東馬出しの先には細い尾根上を堀切で分断した曲輪群が続き、中規模の二重堀切も設けられている。敵に対して後方に当たることから、万一敵に背後に回り込まれても、主郭に容易に近づけない様にしたものだろう。城域東端には高圧鉄塔が建っているが、その東にも小堀切が見られるので、鉄塔建設の際に曲輪が削られたらしい。
 荒山城は、外郭まで遺構が良く残っており、季節を選べば比較的薮も少ない。城へのアクセスが容易なのもありがたい。
二重堀切の内堀と中間土塁→IMG_4696.JPG
IMG_4735.JPG←東馬出しから見た土橋・堀切
竪堀状の切れ込み→IMG_4826.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.564599/136.781008/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の城 (歴史群像シリーズ特別編集)

戦国の城 (歴史群像シリーズ特別編集)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 学習研究社
  • 発売日: 2011/04/21
  • メディア: ムック


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二曲城(石川県白山市) [古城めぐり(石川)]

IMG_4592.JPG←主郭前面の桝形虎口と石敷道
 二曲(ふとげ)城は、織田軍に徹底抗戦した加賀一向一揆が、鳥越城と共に最後の拠点とした城である。元々はこの地の土豪二曲右京進によって築かれた。二曲氏は、山麓の通称「殿様屋敷」に居館を置き、山上に二曲城を築いて詰城としていた。1570年以後、本願寺から派遣された鈴木出羽守が一向一揆山内衆(白山麓の門徒衆の総称)の大将となると、織田軍に対する防御を固めるため、二曲城の向かいの山に新たに鳥越城を築き、二曲城はその支城となった。1580年、織田信長は北の庄城主柴田勝家に加賀一向一揆の平定を命じ、勝家は同年4月に尾山御坊を攻略した。しかし白山麓の一向一揆山内衆は、鳥越城・二曲城を拠点に頑強に抵抗を続けた。鳥越城の固い守りに苦戦した勝家は和睦を持ちかけ、鈴木出羽守一族を松任城に呼び出して謀殺し、11月に鳥越城・二曲城共に落城した。鈴木出羽守を殺された後も山内衆は抵抗を続け、二度に渡って蜂起した。一度は鳥越・二曲両城を奪還したが、間もなく佐久間盛政に攻略された。1582年には信長から一揆残党の掃討の命を受けた盛政は、峻烈な一揆弾圧を行い、300余名の門徒衆が磔刑となった。ここに100年にわたって加賀を支配した一向一揆は壊滅した。

 二曲城は、鳥越城から大日川を隔てて南にそびえる標高260m、比高75mの山上に築かれている。北の峰に主郭を置き、鞍部を挟んで南の峰に、独立した曲輪である五ノ郭を置き、間の谷部の最上段には四ノ郭、主郭から西に下る尾根筋にニノ郭・三ノ郭を配置した縄張りとなっている。鳥越城と比べると、かなり規模の小さな小城砦である。三ノ郭の前面は両側を堀切で穿って小郭を置き、背後の二ノ郭との間も片堀切で分断し、側方に土橋を架けている。ニノ郭は小さい曲輪ではあるが、桝形虎口と設け、土塁で囲まれ、掘立柱建物跡も見つかっている(発掘調査結果に基づいた表示あり)。土塁などは復元整備されたものだが、史跡整備をした後に豪雨などで崩れており、二ノ郭北斜面も崩落している。二ノ郭から主郭まではやや離れているが、尾根にいくつもの段曲輪が築かれている。ニノ郭虎口や主郭虎口に石畳みをコンクリートで固めた道が付いているが、これは発掘調査で見つかった石敷路を復元したものらしい。主郭も前面に桝形虎口を築いた三角形の小さな曲輪であるが、掘立柱建物跡や井戸、櫓があったらしい。主郭の北側には2段の帯曲輪が築かれ、南隅にも小郭が築かれている。谷部にある四ノ郭は、倉跡が見つかっており、前面には石垣で補強された堰の様な土塁が築かれている。五ノ郭は、史跡整備された痕跡はあるが、辛うじて登り道が残るが薮でほとんど途絶しかかっており、現在はほとんど未整備で、曲輪内も猪にかなり荒らされている。辛うじて外周の土塁が確認できるだけの小さな曲輪で、物見程度のものである。
 二曲城は、鳥越城と共に国指定史跡になっているので、一旦は復元整備がされたが、現在はかなり荒れてきており、ちょっと残念な状態である。城の遺構面でもかなり見劣りする。
堀切と三ノ郭→IMG_4586.JPG
IMG_4621.JPG←四ノ郭前面の石垣

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.357198/136.600957/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国と宗教 (岩波新書)

戦国と宗教 (岩波新書)

  • 作者: 神田 千里
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2016/09/22
  • メディア: 新書


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岩倉城(石川県小松市) [古城めぐり(石川)]

IMG_4474.JPG←土塁で囲まれた主郭
 岩倉城は、加賀一向一揆が築き、後に織田軍の城砦となった。享禄年間(1528~32年)に一向一揆勢が越前朝倉氏の猛将朝倉宗滴の攻撃に対して城を築いたとされ、城主は沢米左衛門、家老は勘右衛門・惣左衛門と伝えられている。元亀年間(1570~73年)頃には、鈴木出羽守が守る鳥越城の出城として三坂峠を守った。1575年、織田軍の攻撃により落城したが、一揆勢によって再び奪還された。その後、両軍の最前線基地として攻防が繰り返されたが、1580年、織田信長は北の庄城主柴田勝家に加賀一向一揆の平定を命じ、11月に鳥越城が落城した。その後も一揆残党が蜂起して一時は鳥越城・二曲城を奪還するなどしたが、1582年に信長の命を受けた佐久間盛政は、一揆残党に対して峻烈な弾圧を行い、100年にわたって加賀を支配した一向一揆は壊滅した。加賀一向一揆が殲滅されると、岩倉城も対の城としての役割を終えたものと推測されている。

 岩倉城は、標高296m、比高230m程の山上に築かれている。南西麓から登山道が整備されており、国土地理院地形図にも道が記載されているので、GPSさえ持っていれば迷うことはないが、城までの道程は長い。山麓の国道脇に出ている道案内図は地元の有志が作ったらしい力作だが、あまりにザックリし過ぎているのと、距離感や実際のルート形状が合っていないので、ほとんど参考にならない。とにかく分岐が出てきたら真っ直ぐ進んで行けば城址に至る。城に近づくと、広い平坦な尾根があり、米左衛門屋敷(おそらく城主居館)とされている。その先では道が二又に分かれ、左が大手道で主郭に至り、右が岩倉観音のある帯曲輪に至る(以下、遺構の名称は現地縄張図の表記に従う)。岩倉城は全周を土塁で囲繞した大型の縦長の主郭を持ち、北西・北東・南西の3ヶ所に虎口を設けている。大手門は北西の虎口とされ、前述の大手道は堀底道となってここに至る。虎口の前には小郭が置かれ、城道はここで90度折れ、更に反対方向に90度折れていて、実質的な桝形虎口となっている。この城で素晴らしいのは搦手門とされる北東の虎口で、外に広い土塁で囲まれた角馬出しを設け、更にそこから南北2方向に虎口が開いている。南の虎口は平虎口で腰曲輪に通じているだけだが、北の虎口は土塁で囲まれた細い屈曲した枡形通路となり、主郭北側下方の攻撃用虎口郭に通じている。この攻撃用虎口郭というのも角馬出しで、全周を土塁で囲み、北東と南西の2ヶ所の虎口が開き、北東の虎口の外は更に横堀状通路となって北尾根に通じている。主郭の北側の土塁は周囲より一段高くなった櫓台となっていて、この攻撃用虎口郭を上方から見下ろせるようになっている。この様に主郭搦手は二重馬出しを設けた、巧妙な多重桝形虎口となっている。主郭南西の虎口は現地表記では東門とされ、西の帯曲輪から入る虎口で、わずかに土塁が食い違いとなっている。この他、主郭の外周には帯曲輪・腰曲輪が廻らされ、南東尾根の先は小ピークとなり出曲輪が設けられている。
 岩倉城は、大規模な城ではないが、二重馬出し・多重桝形虎口を設けるなど、縄張り的には加賀南部の城の中では鳥越城・舟岡山城に並ぶ出色の城で素晴らしい。こうした造りは織田氏勢力の築城法と推測され、織田勢が鳥越城攻撃の拠点として、この城を大きく改修したことを物語っていると考えられる。現地解説板でも玄蕃尾城との類似を指摘している。尚、この解説板、手書きの古いものではあるが、縄張図もかなり正確で、解説記述も細部にわたっており、見事な力作である。これほど遺構も見事で、整備もしっかりされているのに、県も市も史跡に指定していないのは不思議というほかはない。
馬出し間を繋ぐ桝形通路→IMG_4522.JPG
IMG_4526.JPG←角馬出し(攻撃用虎口郭)
米左衛門屋敷→IMG_4448.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.378536/136.562655/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


織豊系陣城事典 (図説日本の城郭シリーズ6)

織豊系陣城事典 (図説日本の城郭シリーズ6)

  • 作者: 高橋成計
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/11/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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日谷城(石川県加賀市) [古城めぐり(石川)]

IMG_4358.JPG←二ノ郭内側の横堀
 日谷城は、檜屋城とも記載され、加賀一向一揆・越前朝倉氏・織田氏がそれぞれ戦術拠点とした城である。応仁・文明の大乱(1467~77年)の頃、遠来の武将に対抗するため檜屋義久を中心に一向衆が日谷城を築城したと考えられている。1555年、越前朝倉氏の老練の猛将朝倉宗滴の加賀侵攻の際には、一揆衆は日谷城に立て籠もって抗戦したが落城した。以後、朝倉氏の持ち城となった。1567年、朝倉義景の家臣で北の庄城主堀江景忠が一向一揆に通じて謀反を起こすと、朝倉氏と一向一揆勢との抗争となったが、朝倉氏の元に身を寄せていた足利義昭の調停により和議を結び、その条件として一揆方の松山城及び朝倉方の大聖寺城・黒谷城・日谷城は焼却廃城となった。1575年、織田信長は3万6千の軍勢で越前一向一揆を殲滅し、更に加賀に乱入して江沼・能美2郡を制圧し、大聖寺城・日谷城を修復して戸次(別喜)右近広正・佐々長穐(ながあき)・堀江らの将を入れて、加賀一向一揆討伐の拠点とした。しかし広正らは加賀一向一揆の討伐に失敗した為、尾張に召還されたと言う。

 日谷城は、大聖寺温泉背後の標高110m、比高100m程の山上に築かれている。城跡は現在、日谷城址里山自然苑となっており、散策路が整備されてる。山頂に瓢箪型の主郭を置き、周囲に二ノ郭、三ノ郭を廻らし、北尾根には北郭を設けている。二ノ郭・三ノ郭は内側に浅い横堀を穿ち、北郭も外周を横堀で防御している。特に北郭の横堀は、北郭の南側の腰曲輪から見下ろせる位置に構築されており、上方の北郭と側方の腰曲輪と、両方から攻撃を受けるように設定されている。またこれらの曲輪はいずれも切岸が大きく、曲輪間の高低差が大きい。また北郭の尾根の基部には浅い堀切が穿たれている。更に北西尾根の薮をかき分けて段曲輪群を降っていくと、薮が途切れた先に綺麗に薮払いされた西出曲輪が、まるで隠れ里のように広がっており、その基部にはやはり堀切が穿たれている。日谷城は、それほど技巧的ではないが、高低差の大きい縄張りで、見応えがある。横堀の多用という点では、松山城と同一の築城思想が感じられる。
堀切と西出曲輪→IMG_4410.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.277631/136.335461/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


織豊系城郭とは何か: その成果と課題

織豊系城郭とは何か: その成果と課題

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: サンライズ出版
  • 発売日: 2017/04/08
  • メディア: 単行本


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松山城(石川県加賀市) [古城めぐり(石川)]

IMG_4217.JPG←主郭外周の横堀
 松山城は、加賀一向一揆が築き、後に織田軍の城砦となった。史料上の初見は1555年の朝倉宗滴による加賀進攻の際、一向衆の篝火が置かれたとされる。この頃、一向衆によって朝倉氏の攻撃に備えて築かれたと推測される。1567年には、越前朝倉氏の元に身を寄せていた足利義昭が朝倉氏と一向宗の和睦を周旋し、松山城は一旦は焼却廃城となった。1580年の柴田勝家率いる織田軍による加賀一向一揆制圧戦の際には、松山城には徳田小次郎・坪坂新五郎らの一揆勢5~600人が立て籠もったが、柴田勝政・拝郷・溝口の諸将の山手からの攻撃により落城した。織田勢による加賀制圧の後は佐久間盛政の家臣徳山則秀が松山城主となったと言われる。1600年の関が原の戦いの際には、金沢城主前田利長が松山城を陣城として大聖寺城を攻撃した。

 松山城は、標高45mの丘陵上に築かれている。この丘陵を本城とし、西に伸びた尾根の先の小山に出丸を置いている。本城と出丸の間の平坦な平場は寺屋敷の地名が残っている。本城の前に西の出丸に登るとそこはタケノコ山で、訪城時はまだ4月末だったので、タケノコ狩りをしていた地元の人に許可をもらって入山した。西の出丸には「物見櫓」の看板が設置されており、輪郭式の縄張りとなっている。頂部の平場の周囲に2段の腰曲輪が廻らされ、下段の腰曲輪の南側は横堀状になっている。出丸と東の寺屋敷の平場や尾根との間には長い空堀が穿たれている。この空堀は、南部で「く」の字に曲がって尾根まで掘り切っている。出丸側には土塁が築かれ、城道が残り、土塁の西側には曲輪が広がっている。空堀を越えて東に進むと、本城への登道の前に「大臣泊館跡地」のプレートが現れる。どういう由来か、また寺屋敷との関連はどうだったのか気になるが、解説が何もないので不明である。その先には本城西尾根の曲輪群が現れる。北に2段の腰曲輪を伴った尾根上の細長い曲輪である。主郭は中央の小山にあり、塚のような土壇が曲輪内にある。主郭の外周には南面以外を横堀が穿たれている。この横堀は東西両端とも南端に土橋を設けて東西の尾根に繋がり、土橋付近では堀も深いが、北に行くに従って堀は浅くなっている。堀の外側には北西尾根・北尾根に曲輪群が築かれている。北尾根の付け根には松山古墳があり、往時は物見台として機能したのだろう。主郭の東には前述の通り土橋が架かっているが、この部分は二重横堀となっていて、土橋は直角に曲がって横堀外周の土塁に繋がり、その先で東へ曲がるルートとなる。更に東に土橋の架かった堀切が穿たれ、その先は東尾根の曲輪になっている。この曲輪は削平が甘く、土塁が築かれているもののほとんど自然地形に近い。以上が松山城の遺構で、織田軍が使用したにしては城の規模は小さく、主郭東の複雑な動線構造以外には見るべきものが少ない。一向衆殲滅後はあまり重要視されなかった城の様に思われる。
 尚、城内には一応の散策路はあるが、あまり整備はされておらず、特に主郭東側は薮が多くて、せっかくの複雑な動線構造が薮に埋もれており、少々残念である。
主郭西側の土橋→IMG_4177.JPG
IMG_4113.JPG←東の出丸の空堀
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.312134/136.392410/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


加賀中世城郭図面集

加賀中世城郭図面集

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2017/05
  • メディア: 大型本


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波佐谷城(石川県小松市) [古城めぐり(石川)]

IMG_4027.JPG←土塁で囲まれた主郭
 波佐谷城は、一向一揆の部将、宇津呂丹波が築いたと言われる。元々この地には、山田光教寺・若松本泉寺と並んで「加州三ヵ寺」「三山の大坊主」と呼ばれた波佐谷松岡寺があり、1531年の享禄の錯乱で松岡寺が焼亡した後に築城されたと考えられている。前述の三ヵ寺は、本願寺の法主蓮如の血をひく一家衆寺院で、加賀一向一揆を率いる大坊であった。波佐谷松岡寺は蓮如の3男蓮綱の創建で、その子蓮慶が当地に移したと言われる。1531年、一向宗徒の内紛によって越前の和田本覚寺・藤島超勝寺らの大一揆(それに対して松岡寺ら一家衆方は小一揆と称される)に夜討ちされ、道慶とその子実慶らは自害し、実慶の子顕慶は乳母に抱かれて能登の松波へ 逃れた。これが享禄の錯乱である。その後に築かれた波佐谷城は、加賀一向一揆の城砦の一として機能したが、1580年、織田信長の家臣柴田勝家の攻撃で陥落し、字津呂丹波・藤六父子は討死した。その後信長は、家臣村上頼勝を小松城に6万6千石で封じ、頼勝は一族の村上勝左衛門を波佐谷城に置いたとされる。頼勝は1598年に越後本庄城へ転封となっており、この頃までに波佐谷城も廃されていたと推測されている。

 波佐谷城は、大杉谷川東岸の標高90m、比高55mの丘陵上に築かれている。いくつもの谷が深く入り込んだ丘陵地で、北西端の平地に松岡寺があったらしい。ここは広い平場が広がっているだけで、明確な遺構はない。松岡寺跡の東に、磯前神社から登ってくる切り通し道(谷)を挟んで出砦がある。西辺に土塁や櫓台らしい土盛りが見られるが、遺構はそれだけである。ここから小道を東に向かうと大きな谷を渡って東側の丘陵地に至り、ここを南東に登っていくと本城に至る。本城は、1/4円形状の主郭と周囲の腰曲輪1段で構成されている。主郭は外周に土塁を廻らし、南西角に櫓台を築き、櫓台は横矢の張り出しとなっている。櫓台の内側には井戸跡らしい窪みがある。主郭の北と西面は腰曲輪との間に横堀が穿たれている。腰曲輪の北部には桝形虎口が設けられ、そこに至る尾根筋の登城道の脇には竪堀が長く穿たれ、枡形の脇まで穿たれている。また本城の西側にも大きな竪堀が穿たれ、竪堀の最上部は土橋が架かり、西の丘陵と区画している。本城から北西に下った丘陵先端部には出丸が設けられている。東の上段郭と西の下段郭と2郭で構成され、北面以外には土塁が設けられている。また北側斜面には腰曲輪が設けられ、背後の尾根には二重堀切を穿っている。波佐谷城は、松岡寺を含めた広大な城であるが、独立した曲輪群が散在しており、あまり求心性のない縄張りとなっている。
 尚、城への正規の登り口は非常にわかりにくく、磯前神社脇から登る迂回ルートの方がわかりやすい。また丘陵内には一応の散策路が整備されており、本城の主郭だけは整備されている。
本城の桝形虎口→IMG_3982.JPG
IMG_4003.JPG←本城西の竪堀
出丸の二重堀切の内堀→IMG_4066.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:【本城】https://maps.gsi.go.jp/#16/36.340848/136.484764/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【出丸】https://maps.gsi.go.jp/#16/36.342508/136.483562/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【出砦】https://maps.gsi.go.jp/#16/36.341955/136.482146/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【松岡寺跡】https://maps.gsi.go.jp/#16/36.341453/136.481459/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国と宗教 (岩波新書)

戦国と宗教 (岩波新書)

  • 作者: 神田 千里
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2016/09/22
  • メディア: 新書


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蓮台寺城(石川県小松市) [古城めぐり(石川)]

IMG_3878.JPG←主郭跡
 蓮台寺城は、加賀守護富樫氏の内訌の舞台となった城であり、また加賀一向一揆の誕生の地となった城である。応仁の乱が勃発すると南加賀の半国守護富樫政親は、細川勝元方の東軍に与した。しかし北加賀の半国守護となっていた赤松政則も東軍方で、赤松氏の支配に抵抗する富樫氏家臣団は、政親の弟幸千代を擁して西軍に属し、ここに富樫氏の家督を巡って政親と弟幸千代との争いが発生した。幸千代は浄土真宗高田派を支援していたため、劣勢であった政親は浄土真宗本願寺派の蓮如に支援を求め、蓮如は仏敵である高田派を一掃するため、富樫氏の内訌に武力介入する決断をした。1474年、本願寺派門徒を味方に付けた政親は、山川・本折・槻橋ら加賀の武士団の支持を得て、幸千代の立て籠もる蓮台寺城を攻囲した。数ヶ月に及ぶ攻防戦の末に蓮台寺城は陥落し、幸千代は虚空蔵山城に逃れて立て籠もった。しかし虚空蔵山城も攻撃を受けて支えきれず、幸千代は越中に亡命したと言う。蓮台寺城の戦いでは本願寺派門徒衆の力が勝因であり、この戦いが加賀一向一揆と称される本願寺派門徒による武装蜂起の始まりとなった。その後、時代は下って1600年、前田利長と丹羽長重が戦った北陸の関ヶ原と言われる浅井畷の戦いの際、長重方の武将江口三郎右衛門は蓮台寺城跡に陣を構え、前田軍を追撃しようとしたと言う。

 蓮台寺城は、蓮代寺町の南方の比高40m程の丘陵先端部に築かれている。但し、地元の有志が城跡として整備しているだけで、実際にここが蓮台寺城であったのかどうかは、公式には認められていないらしい。国道8号線のガード下をくぐって南側にある民家の脇から登道がある。登っていくと、堀切跡と思われる切り通しがあり、その左手に登っていくと主郭に至る。途中、曲輪状の平場や堀切の様な窪地も見られる。山頂の主郭には穴蔵跡があり、現地解説板では往時の遺構のような微妙な書き方をしているが、実際は近世の改変ではないかと思う。そのせいもあって、主郭の削平は甘くデコボコしている。主郭の北東尾根を下っていくと、ここにも曲輪状の平場が数段見受けられる。遺構としては以上で、一応城郭遺構らしいものは見られるが、一時的な陣城レベルのもので、長期籠城戦に耐えられるような城ではない。それとも追い詰められて急遽籠城したものであろうか。今後の考究に待つところが多い城である。
堀切状の窪地→IMG_3879.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.370243/136.467361/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


宗教で読む戦国時代 (講談社選書メチエ)

宗教で読む戦国時代 (講談社選書メチエ)

  • 作者: 神田 千里
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2010/02/11
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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鳥越城(石川県白山市) [古城めぐり(石川)]

IMG_3729.JPG←本丸の土塁と櫓台
 鳥越城は、織田軍に徹底抗戦した加賀一向一揆の最後の拠点となった城である。1570年に石山本願寺と織田信長の間で石山合戦が始まり、鳥越城もその軍事的緊張の余波で1573年頃に築かれたとされる。城主は、紀伊雑賀衆の首領鈴木孫一重秀の一族とも言われる鈴木出羽守で、出羽守は本願寺から派遣された武将とされる。1580年、織田信長は北の庄城主柴田勝家に加賀一向一揆の平定を命じ、勝家は同年4月に尾山御坊を攻略した。しかし白山麓の一向一揆山内衆は、鳥越城・二曲城を拠点に頑強に抵抗を続けた。鳥越城の固い守りに苦戦した勝家は和睦を持ちかけ、鈴木出羽守一族を松任城に呼び出して謀殺し、11月に鳥越城・二曲城共に落城した。鈴木出羽守を殺された後も山内衆は抵抗を続け、二度に渡って蜂起した。一度は鳥越・二曲両城を奪還したが、間もなく佐久間盛政に攻略された。1582年には信長から一揆残党の掃討の命を受けた盛政は、峻烈な一揆弾圧を行い、300余名の門徒衆が磔刑となった。ここに100年にわたって加賀を支配した一向一揆は壊滅した。

 鳥越城は、手取川と大日川に挟まれた、標高310m、比高120mの城山に築かれている。現在国指定史跡となっており、城内は綺麗に復元整備されている。しかも山上まで車で行けるので、訪城は容易である。山上に北から順に後三の丸・後二の丸・本丸・中の丸・二の丸・三の丸を連ねた連郭式の縄張りとなっている。後三の丸は、後二の丸との間に大堀切を穿って分断した独立性の高い曲輪で、外周に横堀を廻らしている。南側には一段の小郭を置き、また南東には水の手を兼ねたと思われる「あやめが池」がある。後二の丸と本丸は小山となって後三の丸の南にそびえ、東側には腰曲輪を置き、後二の丸の北から西には横堀を穿っている。ここには小さな土橋が架かり、土橋の側面は石積みで補強されている。後二の丸と本丸との間は堀切で分断されている。本丸は長方形の曲輪で、内部に建物跡が復元表示されている。外周に低土塁を伴い、南東に櫓台を設け、南に桝形虎口を築いている。桝形虎口は石垣が綺麗に復元され、高麗門と櫓門も復元されている。しかしいくら何でも、天正年間(1573~92年)の山城に高麗門というのは実態に合わないように思うが、国指定史跡だから根拠もなく復元するわけがないので、判断に迷う。桝形虎口の東側は堀切となって東の腰曲輪に繋がっている。本丸の西には腰曲輪があり、登城道を兼ねている。本丸の南は中の丸で、土塁や柵列があり、南西に門が復元されている。中の丸の南に一段高く二の丸があり、ここにも土塁と櫓台が復元されている。二の丸の南に土橋の架かった堀切を介して三の丸が広がり、三の丸の南にも土橋の架かった堀切を介して段曲輪があり、その下方に広大な外郭(現地解説板ではマゴジクボと表示されている)があり、外周に大土塁を廻らしている。前述の三の丸南の堀切の東側には、堀切から落ちる竪堀につながる形で、コの字型の横堀・竪堀が築かれている。
 遺構は以上の通りで、鳥越城は織田氏による改修の可能性を残すものの、石垣の石は小さく、穴太積みのような近世的なものではないので、一向一揆時代の遺構を多く残していると思われる。それを考えると、一向一揆は戦国大名と同じレベルの高度な軍事集団で、城普請も戦国大名の一級城郭と変わらないレベルである。とても農民が単に武装化したレベルではない。そういう考証ができる点でも、鳥越城は貴重である。
本丸の桝形虎口→IMG_3713.JPG
IMG_3775.JPG←三の丸南の土橋と堀切
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.366045/136.601129/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


一向一揆と石山合戦 (戦争の日本史 14)

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  • 作者: 神田 千里
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2007/09/15
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台風19号による豪雨災害 [日記]

この度の台風19号による豪雨災害では、東日本の広範な地域に甚大な被害が出ました。
被災地の皆様には、心よりお見舞い申し上げます。

私の住んでいる栃木県内でも佐野市を始めとして大きな被害が出ています。
私の住んでいるところも、あとわずかで洪水被害にもあったかもしれないという、
本当に紙一重の状態でしたが、幸いにも被害を免れることができました。
昨日の夜には、1階の床上浸水を覚悟して、
家族と一緒に1階にあった重要品を2階に運んで避難させたほど、
事態は緊迫していました。

今後、地球温暖化の影響で、こうしたスーパー台風の猛威は、
更に勢いを増していくことでしょう。
なんとかこれ以上の災害が襲ってこないようにできないものか、
祈るばかりです。
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舟岡山城(石川県白山市) [古城めぐり(石川)]

IMG_3454.JPG←本丸南斜面の石垣
 舟岡山城は、剣城、白山城とも呼ばれ、一向一揆の城を織田勢力が改修した城である。長享年間(1487~89年)に一向一揆の将であった坪坂平九郎が居城し、その後若林長門がこの城に拠ったと言われる。1573年に織田信長が越前朝倉氏を滅ぼすと、加賀一向一揆は直接織田勢の攻撃に晒されることになった。この頃から加賀の要所要所に一向一揆勢により城砦が整備されたと言われ、舟岡山城もこの頃に金沢御堂の指導の下に修築されたと推測されている。1580年、金沢御堂の陥落後も鈴木出羽守に率いられた一向一揆山内衆は、鳥越城を本拠にして織田勢に徹底抗戦を続けていたが、晩秋の織田勢による大規模な加賀一向一揆平定作戦によって一揆勢の拠点は次々に奪われ、舟岡山城も信長の部将佐久間盛政によって攻略された。1583年、賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に付いた丹羽長秀は、柴田勝家滅亡後に越前と加賀2郡を与えられ、丹羽氏の家臣早谷五左衛門が舟岡山城に在城した。1585年に長秀が没し、加賀2郡が金沢城主前田利家の所領となると、その家臣高畠石見守が城将として配置されたと言う。

 舟岡山城は、船岡山と呼ばれる大きな独立丘陵全体を城砦化した城である。この丘陵の南側は東西に細長い高台になっており、ここに城の中枢部が構築されている。高台の中央やや東寄りに本丸を置き、東西に堀切を穿ち、東に土橋で連結した二ノ丸と、その北に土塁で区画された三ノ丸を置いている。本丸の西には東と同様に土橋で連結したⅤ郭を置き、その西に細長いⅥ郭を配置している。主郭は南辺以外の三方に土塁を築き、北西には隅櫓台、東西の虎口には櫓門跡らしき土塁・櫓台を築いている。三ノ丸の南東の虎口から二ノ丸・三ノ丸の仕切り土塁の虎口を抜け、主郭への土橋に繋がるルートはすべて屈曲して設定されている。二ノ丸の南端には堀切と小郭が築かれている。Ⅴ郭は北側に横堀が穿たれ、南には桝形虎口が築かれてⅥ郭へと通じている。Ⅵ郭の西端には腰曲輪が数段築かれて、北に広がる外郭へと城道が通じている。本丸と三ノ丸の北側には土塁と空堀で囲まれた広いⅣ郭があり、土塁・空堀の屈曲部に北虎口の土橋を架け、Ⅳ郭南西端には主郭切岸や土塁・空堀で囲まれた枡形空間を伴った虎口が築かれ、ここも北に向けて土橋が架かっている。Ⅳ郭の北西はだだっ広いだけの外郭が広がっている。この城で素晴らしいのは、随所に石垣が見られることで、本丸では外周や虎口櫓台に石垣が見られ、特に南斜面の石垣は石も大きく、角部には算木積みまで見られる。二ノ丸・三ノ丸・Ⅴ郭にも石垣が随所に見られる。土塁も空堀もいずれも規模が大きく、桝形虎口も多用され、完全に近世城郭の作りである。中世城郭のつもりで行ったが、実際は天正年間(1573~92年)頃に大改修を受けた近世城郭であった。少々薮が多いが、予想外の好城郭で素晴らしい。鷹巣城とよく似た構造も多く、舟岡山城も織田氏勢力の築城法の典型と考えて良さそうだ。
本丸の西虎口と土橋→IMG_3561.JPG
IMG_3403.JPG←三ノ丸南東の虎口
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.439117/136.634216/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:近世平山城
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