SSブログ

三増峠古戦場(神奈川県愛川町・相模原市) [その他の史跡巡り]

DSC09532.JPG←古戦場碑
 三増峠古戦場は、小田原北条氏と甲斐武田氏の有名な古戦場である。全国有数の戦国大名同士の直接対決であり、しかも戦国史に数少ない大兵力による山岳機動戦として稀有なものである。事の起こりは、1568年。武田信玄は、桶狭間で今川義元が討たれた後、弱体化した今川家を併呑しようと駿河に侵攻した。これをきっかけに甲相駿三国同盟が崩壊し、今川氏を支援する北条氏と武田氏の間は極度の緊張状態となった。翌1569年10月、信玄は2万の大軍を率いて小田原遠征を行った。しかし北条氏康の居城小田原城の守りは固く、わずか数日の包囲で信玄は小田原を引き払い、相模川から北上して三増峠越えルートで甲斐へ引き揚げを始めた。氏康は、信玄の帰路を察知し、息子の滝山城主北条氏照や氏邦、猛将の北条綱成らに武田勢の前面を塞ぐよう指令した。そして氏康自身は、嫡男氏政と共に小田原の兵を直率して武田勢の後を追った。企図するところは挟撃戦であった。この時、武田勢は危地一歩手前だったと言ってよい。百戦錬磨の信玄は、自軍の置かれた危機的状況を知悉しており、背後から氏康の軍勢に追いつかれる前に、正面の氏照・氏邦らの軍勢の中央突破を決断した。そこで激戦が繰り広げられたのが三増峠合戦である。

 武田勢が三増峠に差し掛かる前に、既に氏照らの軍勢が三増峠に着陣して押さえていたが、武田勢が接近するに従って、氏照らは半原の台地上に移って迎撃体制を整えようとしたらしい。この時信玄は、桶尻の高地に自ら進出して本陣を構え、左右両翼に軍勢を展開した。一方で小幡信貞を先行させて、戦場の後背地で甲斐への帰路に当たる津久井城の北条勢の動きを封じ、山県昌景を三増峠西方の志田峠へ迂回進出させて遊撃部隊として温存した。氏照らの北条勢は武田勢に攻め掛かり、山麓一帯で激戦が展開された。その中で、信玄の部将浅利信種は、北条綱成の鉄砲隊に撃たれて戦死した。この激戦の最中、山県隊は北条勢の側背を急襲し、一気に北条勢は総崩れとなったと言う。信玄は、勝ち戦となるや直ちに兵をまとめて相模湖方面の反畑に引き揚げ、勝利を祝うとともに戦死者を弔い、甲府へ引き揚げた。一方の氏康・氏政の北条方本軍は、厚木まで進出していたが、自軍の敗北を知って追撃の無駄を悟って撤収した。

 以上が、主に甲陽軍鑑に基づく三増合戦の経緯であるが、よく知られている通り甲陽軍鑑は信頼性に疑問の余地の多い史書であり、三増合戦の経緯については諸説あることを付記しておく。いずれにしても武田勢の優勢で終わった合戦のようである。ただ、勝利した武田方でも有力武将が戦死するなど損害が大きく、一方的に北条方が大敗した合戦ではなかったと思われる。北条氏が、その勢威に比して今一つ現代に人気がないのは、この三増合戦の敗北と、小田原の役で撃って出ることなく消極的な籠城戦の末、みすみす自滅したことが大きいのだろう。

 三増峠古戦場には、古戦場碑の他に、永禄戦士供養塔、信玄本陣跡の旗立て松、首塚、胴塚、浅利明神などが点在し、案内板も多数あって親切である。またやや遠いが北東10kmの寸沢嵐には首洗池がある。尚、三増合戦は山岳戦とは言うものの、それほど山深い地勢ではなく、平地から山地に至る裾野を主戦場とした戦いだったようである。

<三増峠古戦場碑>
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.535090/139.294420/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<永禄戦士供養塔>
DSC09541.JPG
 畑の中に塚が三つあり、整地して塚を1ヶ所に集めて懇ろに弔ったもの。道端に塚石2つと石碑2枚が建っている。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.535055/139.294828/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<旗立て松>
DSC09551.JPG
 三増合戦の際に、信玄が大将旗を立てたと言われる高台。この高台を中心にして鶴翼の陣を張り、信玄自らは麓の桶尻に本陣を置いて北条軍を迎え撃ったという。東名厚木カントリー倶楽部というゴルフ場の中の小山の上にある。案内板が多数出ていて迷うことなく行ける。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.543314/139.287983/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<首塚>
DSC09593.JPG
 戦死者の首を葬った場所と伝えられている。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.533571/139.291245/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<胴塚>
DSC12247.JPG
 合戦で討ち取られた首級は首塚として祀られたが、首級を除いた遺骸は志田沢の右岸脇に埋葬され、胴塚が築かれた。道路脇に解説板があり、その奥を降って行った沢沿いに、円丘状の塚がある。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.533012/139.292446/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<浅利明神>
DSC01398.JPG
 浅利右馬助信胤は、甲斐源氏の後裔で、武田24将にも数えられる信玄の侍大将だった。信胤は丘の下で銃弾に当たって討死し、信玄は墓を作って篤く供養した。その後、1789年に村人が墓の脇を掘ったところ骨壷が出てきたので、信種の遺骨として浅利明神として祀ったという。私が訪れた時は、たまたま墓の周りの社の改築中だった。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.545392/139.296201/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<首洗池>
DSC01328.JPG
 三増合戦で勝利を収めた武田勢は、甲州に帰還する途中、反畑で軍団の立て直しと北条勢の首実検を行った。武田方が北条方の首を埋葬する前に洗った所と言われている。小さな公園の様になっていて、水の枯れた池が残っている。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.600491/139.222087/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:古戦場
nice!(7)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 7

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント