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宇部館(岩手県久慈市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN0149.JPG←西端の二重堀切の内堀・土塁
 宇部館は、元はこの地の土豪宇部氏(海辺氏)の居城であったと伝えられる。宇部氏は一時期野田氏を称したが、永正年間(1504~21年)に宇部氏15 代清政は一戸南部系野田氏に従属し、姓を宇部に復して宇部館を明け渡した。以後、一戸南部系野田氏の支城の一つとなった。野田氏11代源左衛門義親は大永年間(1521~28年)に宇部館を居城とした。後に野田古館を築いて居館としたとされる。戦国期の野田氏は、この地域では久慈氏と並ぶ豪族であった。1591年の九戸政実の乱では、南部薩摩守政義・掃部助直親(はじめ政親)父子は三戸城主南部信直方に付いて活躍した。この14 代直親から野田氏を名乗ったと言う。翌92年、南部氏が豊臣秀吉の命により領内諸城を破却した際、破却36城の一つとして野田城は廃城となった。廃城後については、宇部館へ移ったとする説や野田新館を築いて移ったとする説があるが、明確ではない。いずれにしても南部氏が盛岡城を築いて移ると、野田氏もその城下に移り住み、盛岡藩の重臣となった。館跡の南の裾部には、後年盛岡藩の野田通代官所が置かれた。
 尚、『宇部館跡・北ノ腰遺跡発掘調査報告書』(2016年)では、1592年に廃城となった野田城は宇部館のことで、野田氏の居城は、野田古館→宇部館→野田新館と変遷したのではないかと推測している。

 宇部館は、宇部川北岸の比高30m程の丘陵先端部に築かれている。東西に長い城で、主郭の一番奥には八幡神社があり、参道が整備されている。ほぼ単郭の城館で、東の登道を登ると薮払いされた主郭が広がっている。主郭内は東に向かって下り勾配になっていて、この勾配に沿って郭内は5段ほどの平場に分かれている。主郭の先端下方には小郭があるが、藪の中に虎口が見えるので、虎口郭であったらしい。一方、主郭の後部は西側に張出し、その張出し付け根の北側には搦手の食違い虎口が築かれ、張出しから横矢が掛けられている。主郭は後部と北辺の一部にだけ土塁が築かれている。主郭の後部下方には腰曲輪が築かれ、張出しの下方は横堀となって西の尾根まで掘り切っている。この西の堀切は二重堀切となっており、近年の三陸道建設の際に一部破壊を受けている。私はてっきり二重堀切は壊滅していると思ったが、実際に行ってみると、三陸道の際に土塁と堀切がそのまま残っていた!二重堀切の内、消滅したのはわずかな部分だけで、こういう開発の仕方もあるのかと感心した。ただ、中間土塁の一部は表土が現れてしまっているので、豪雨時に崩れてしまわないか心配である。二重堀切の外堀は自然の谷をそのまま利用したものの様である。この他、館の東側の住宅地は往時の居館地と推測されており、南辺に土塁が残存している。以上が宇部館の遺構で、破壊されたと思っていた二重堀切がきれいに残っていたのは嬉しい誤算であった。
搦手虎口→DSCN0159.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/40.131748/141.779058/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/10/25
  • メディア: 単行本


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野田古館(岩手県野田村) [古城めぐり(岩手)]

DSCN0076.JPG←急崖で囲まれた館跡の現況
 野田古館は、野田城とも呼ばれ、一戸氏の庶流野田氏の居城である。古くは十府ヶ森正吉の居城であったとも伝えられるが不明。野田氏は、一戸南部初代の南部彦太郎行朝を祖とし、南北朝初期に一戸実朝(野田氏4代)の跡を継いだ親継が野田に入部したらしい。戦国末期に野田氏を称するまでは代々南部氏を名乗った。大永年間(1521~28年)に南部源左衛門義親(野田氏11代)は宇部館を居館としたが、後に古館を築いて居館としたとされる。戦国期には、この地域では久慈氏と並ぶ豪族であった。1591年の九戸政実の乱では、南部薩摩守政義・掃部助直親(はじめ政親)父子は三戸城主南部信直方に付いて活躍した。この14 代直親から野田氏を名乗ったと言う。翌92年、南部氏が豊臣秀吉の命により領内諸城を破却した際、破却36城の一つとして野田城は廃城となった。廃城後については、宇部館へ移ったとする説や野田新館を築いて移ったとする説があるが、明確ではない。いずれにしても南部氏が盛岡城を築いて移ると、野田氏もその城下に移り住み、盛岡藩の重臣となった。
 尚、『宇部館跡・北ノ腰遺跡発掘調査報告書』(2016年)では、1592年に廃城となった野田城は宇部館のことで、野田氏の居城は、野田古館→宇部館→野田新館と変遷したのではないかと推測している。

 野田古館は、現在の野田小学校の地にあった。比高15m程の独立丘陵の西端に当たり、東側に空堀を穿って丘陵続きを分断していたらしい。現在は校地となって改変されており、明確な遺構は残っていない。校地北西に土塁らしい土盛りが見られるが、遺構かどうかは不明である。ただ周囲から見ると、急峻な斜面(切岸)でそびえ立った城館で、なかなかの要害地形であったことがうかがえる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/40.102720/141.817510/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


南部信直 (中世武士選書 第35巻)

南部信直 (中世武士選書 第35巻)

  • 作者: 森嘉兵衛
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2016/11/14
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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姉帯城(岩手県一戸町) [古城めぐり(岩手)]

DSCN0031.JPG←二重堀切の外堀
 姉帯城は、奥州南部氏の庶流姉帯氏の居城である。姉帯氏は、九戸連康の子兼実が糠部郡姉帯村を領して、姉帯氏を称したことに始まる。九戸氏との繋がりが深かった為、戦国末期の三戸城主南部信直と九戸城主九戸政実との南部家家督をめぐる内訌(九戸政実の乱)では、九戸方の有力豪族として戦った。1591年、信直は九戸討伐を進めたが苦戦し、自力討伐を諦めて豊臣秀吉に「九戸政実反逆」を訴えた。秀吉はこれに応じ、甥の豊臣秀次を総大将とした奥州仕置軍を再編成して九戸氏征伐のため派遣した。蒲生氏郷を主力とする奥州仕置軍は、九戸城攻略の前哨戦として九戸方の前線基地である姉帯・根反両城を攻撃した。これに対し姉帯城では、領主姉帯大学兼興・五郎兼信兄弟・兼興の妻で薙刀の名手小滝の前・棒術の名手小屋野など一族郎党が近隣諸豪と共に立て籠もり応戦した。しかし仕置軍約3000に対し、守備兵100 程度であり、衆寡敵せず大半が討死にして落城した。九戸の乱鎮圧後は南部氏の持城となり、家臣の野田甚五郎(直親か?)に与えられたらしい。翌92年、南部氏が豊臣秀吉の命により領内諸城を破却した際、破却36城の一つとして廃城となった。

 姉帯城は、馬淵川北岸の比高70m程の丘陵先端部に築かれている。東西2郭で構成された城で、いずれの曲輪も広さがある。西郭は綺麗に削平された平坦な曲輪で、現在公園化されており、西に腰曲輪があり、東端部に神社と姉帯兼興一族の供養塔が建てられている。神社の裏には東端の土塁があり、その背後に東郭との間を分断する幅広の大堀切が穿たれている。東郭は西郭より高所にある。未整備の雑木林で面積は西郭以上に広いが、郭内が大きく傾斜しており、建物はなかった可能性がある。東郭の東端には基部を分断する大型の二重堀切が穿たれている。この二重堀切の中間土塁は高く盛られ、西の丘陵地から内堀と郭内とが見えないように構築されている。姉帯城の主郭が西郭・東郭のどちらだったかやや判断に迷うが、削平状況からすると西郭が主郭だったと思われる。実際に戦闘が行われた城であるが、縄張りとしては簡素である。
西郭→DSCN9981.JPG
DSCN9991.JPG←西郭~東郭間の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/40.174865/141.322246/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


続・東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

続・東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2021/10/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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五月館(岩手県一戸町) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9891.JPG←主郭背後の二重堀切
 五月館は、小鳥谷(こずや)館とも言い、九戸政実の乱の際に九戸方として奥州仕置軍と戦った小鳥谷摂津守の居城である。伝承では、元は延暦~弘仁年間(782~824年)に蝦夷の酋長遠田公五月によって築かれたとされるが定かではない。1591年、九戸政実の乱が勃発すると、小鳥谷摂津守は九戸方に付いて姉帯城に立て籠もり、豊臣秀吉が派遣した奥州仕置軍と戦ったが、衆寡敵せず落城した。

 五月館は、平糠川西岸の丘陵地に築かれている。北西には旧奥州街道が通り、館の南西の古道脇には「五月舘の追分石」が残っている。館跡は、現在広い畑と笹薮となっている。北東に向かって傾斜した緩斜面上に曲輪群が展開している。主郭は傾斜した広い曲輪で、後部に方形の高台があるが、廃墟となった配水場が建っており改変を受けているので、どこまで往時の形態を留めているのかわからない。この高台の裏には二重堀切が穿たれているが、配水施設によって一部破壊を受けている。主郭内は、高台以外に段差で2段に分かれ、上段は笹薮、下段は畑となっている。主郭の前面には、切岸で区画された腰曲輪群が築かれ、北端に小郭群が見られる。遺構としてはこれだけで、簡素な構造の城館である。
広大な主郭下段の畑→DSCN9910.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/40.161140/141.306410/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/10/25
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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沼宮内城(岩手県岩手町) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9809.JPG←後部が高台となった主郭
 沼宮内城は、河村氏の一族沼宮内氏の歴代の居城と伝えられる。奥州河村氏は、1189年に河村四郎秀清が奥州合戦の戦功により源頼朝から岩手郡・斯波郡の北上川東岸一帯の地を賜ったことに始まる。その後、秀清の子孫が河村氏の分流として北上川東岸一帯に勢力を扶植し、大萱生・栃内・江柄・手代森・日戸・玉山・下田・渋民・川口・沼宮内の諸氏を分出した。沼宮内氏は、鎌倉時代から沼宮内城を居城としたと考えられている。沼宮内氏の系譜がわかるのは、戦国後期の沼宮内民部常利・治部春秀父子が南部氏に服属して以後である。この時、南部信直は沼宮内村400石を安堵したと言う。沼宮内氏は、1566年の鹿角長牛城攻撃や、1572年の斯波表の戦い、1586年の大館城攻撃などに参陣した。1591年の九戸の乱の際には、豊臣秀吉が派遣した奥州仕置軍5万3千余騎がこの地に駐留し、南部信直と沼宮内城で軍議を開いた。翌92年、南部氏が豊臣秀吉の命により領内諸城を破却した際、破却36城の一つとして廃城となった。その後も1601年には、春秀は南部氏に従い和賀岩崎一揆の討伐に出陣したと言う。

 沼宮内城は、北上川とその支流大坊川の合流点の東にある、比高60m程の丘陵先端部に築かれている。主郭を中心に、三方に伸びる尾根に曲輪を配した縄張りとなっており、現在城山公園となっている。主郭は南北に長い曲輪で後部が一段高くなっており、土塁も見られる。主郭の南には、浅い堀切を介して二ノ郭があり、北西には三ノ郭が張り出している。三ノ郭の外周には低土塁が残っている。主郭の東には堀切を挟んで小さな東郭が置かれ、その先は二重堀切で尾根筋を分断している。これらの曲輪の周囲には腰曲輪が築かれている。『岩手県中世城館跡分布調査報告書』では二ノ郭・三ノ郭の西斜面に二重横堀・三重横堀があると記載しているが、見た限り横堀ではなく腰曲輪にしか見えなかった。腰曲輪の誤認であろうか?いずれにしても、奥州仕置軍が軍議を開くほど重要な拠点であった様だが、今残る遺構からは規模も縄張りも特筆する程のものはなく、パッとしない印象の城である。
主郭~二ノ郭間の堀切→DSCN9814.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.976273/141.229892/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の北奥羽南部氏

戦国の北奥羽南部氏

  • 作者: 熊谷 隆次
  • 出版社/メーカー: デーリー東北新聞社
  • 発売日: 2021/06/16
  • メディア: 単行本


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川口城(岩手県岩手町) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9765.JPG←北西の大空堀
 川口城は、河村氏の一族川口氏の歴代の居城と伝えられる。奥州河村氏は、1189年に河村四郎秀清が奥州合戦の戦功により源頼朝から岩手郡・斯波郡の北上川東岸一帯の地を賜ったことに始まる。その後、秀清の子孫が河村氏の分流として北上川東岸一帯に勢力を扶植し、大萱生・栃内・江柄・手代森・日戸・玉山・下田・渋民・川口・沼宮内の諸氏を分出した。川口氏は、玉山氏から分かれて川口の領主となった。1411年に与十郎秀利は三戸城主南部守行に服属し、領地安堵を得て、領地名の川口氏を名乗るよう命じられた。また南部信直の時代には、川口村を領した川口左近秀長は川口村400石を安堵され、その子正家は南部利直に従って大坂の陣に家臣8名を率いて参陣した。1615年、元和の一国一城令によって川口城は破却され、川口氏は盛岡城下に移住した。1657年に正家の子正康が亡くなると、継嗣利景はまだ2歳だったため、奉公できないからと取り潰された。しかし正家の娘孝は初代八戸藩主南部直房の夫人(霊松院)であり、利景は霊松院に引き取られた。後に八戸藩士となり家老まで務め、以後川口家は八戸藩士として幕末まで命脈を保った。

 川口城は、北上川と古館川の合流点に突き出た段丘上に築かれている。城跡には現在線路や町道(旧国道4号線)が貫通する他、城域西半には工場が建っており、遺構はかなり破壊されてしまっている。従って現況からでは往時の縄張りを想像するのは難しいが、『岩手県中世城館跡分布調査報告書』によれば、東西2郭から成り、西郭を大館、東郭を小館と呼ぶらしい(現地解説板では誤って逆の呼称となっている)。西郭はほとんど破壊しつくされており、東郭も塁線が残っていないのでどの範囲が曲輪だったのかよくわからない。しかし西郭と東郭を分断する最大深さ10mもの大空堀が台地上に残っている。また大空堀の東に東郭南端の櫓台が残っている。櫓台の東にも空堀の一部が残っているが、少ししか残っていないので、往時の構造はよくわからない。全く期待していなかったが、規模の大きな空堀が残っているのには驚いた。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.926926/141.201632/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


八戸藩 (シリーズ藩物語)

八戸藩 (シリーズ藩物語)

  • 作者: 伸, 本田
  • 出版社/メーカー: 現代書館
  • 発売日: 2018/02/21
  • メディア: 単行本


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一方井城(岩手県岩手町) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9653.JPG←主郭後部の大土塁
 一方井城は、輪台城とも言い、南部氏の家臣一方井氏の居城である。一方井氏は、前九年合戦で滅ぼされた安倍貞任庶流の後裔を称する秋田安東氏の一族がこの地に入部し、一方井氏を称したとされる。三戸城主南部氏が岩手・紫波方面に勢力を伸ばした際、南進策の足がかりとして手を結んだ北岩手郡の諸氏の中でも最有力の豪族で、南部氏に従った際には700石を賜った。前進拠点として重要な役割を果たしていたが、南部氏が1592年に豊臣秀吉の命により領内諸城を破却した際、破却36城の一つとして廃城となった。後に盛岡城が築城されると、一方井氏は盛岡に移住した。尚、一方井城主一方井安正の娘は、南部氏23代安信の弟石川高信の側室となり、庶長子信直を一方井城で生んだ。信直は後に田子信直となり、1582年に南部氏25代晴継が若くして死ぬと、南部氏一門の北信愛(のぶちか)の推挙を受けて信直が26代当主となった。従って一方井城は、南部氏中興の祖信直の出生の地でもある。

 一方井城は、高山から南西に伸びる丘陵先端部に築かれている。城は公園化されており、南西麓から散策路が整備されているので、簡単に登ることができる。南北に3つの曲輪を並べた連郭式の縄張りとなっているが、曲輪の順番は普通の城と逆で、南端から順に主郭・二ノ郭・三ノ郭と配置されている。主郭は後部にL字型の大土塁を築いており、土塁上に八幡宮が建っている。大土塁の裏には規模の大きな堀切が穿たれて、二ノ郭との間を分断している。この堀切は、西側でL字に曲がり、主郭西側に回り込んで横堀となっている。また堀切東側は、主郭東側の腰曲輪に通じる虎口が築かれ、更にその下方にも虎口が築かれている。二ノ郭と三ノ郭との間の堀切は浅く、切岸の鋭さもない。三ノ郭背後の堀切は、季節柄薮でわかりにくかったが、ほとんど自然の谷をそのまま利用したようである。この他、主郭の北西角には土塁を伴った腰曲輪があり、また南西斜面にも腰曲輪群が築かれている。城の東斜面にも腰曲輪らしい平場が何段も見られるが、耕地化による改変の可能性もあり、遺構かどうかはっきりしない。以上が一方井城の遺構で、比較的単純な構造の城であるが、主郭の土塁と堀切は規模が大きく、見応えがある。
主郭背後の堀切→DSCN9681.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.969712/141.164746/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


南部信直 (中世武士選書 第35巻)

南部信直 (中世武士選書 第35巻)

  • 作者: 森嘉兵衛
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2016/11/14
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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寺田城(岩手県八幡平市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9588.JPG←西の二重横堀
 寺田城は、南部氏の一門北氏の居城である。元々は天文年間(1532~55年)に三戸城主南部氏23代安信の弟糠部(石川)高信による築城と言われ、秋田の鹿角郡を保持する重要拠点であったとされる。また高信は、一方井城主一方井安正の娘を側室として庶長子信直をもうけた。信直は後に田子信直となり、1582年に南部氏25代晴継が若くして死ぬと、南部氏一門の北信愛(のぶちか)の推挙を受けて信直が26代当主となった。同年、信愛は寺田城450石他、計1100石を賜り、信愛の長男愛一(ちかかず)が父から独立した形で寺田城主となった。1634年に愛一が没すると、直愛・愛時と続いたが、4代岩松は幼童で1655年に早世し、北氏嫡流は断絶した。

 寺田城は、涼川西岸の比高30m程の丘陵上に築かれており、公園として整備されている。比較的大型の館城で、北と西を空堀で分断しており、空堀で区画された丘陵内部を3段の曲輪に整形している。最上段の本丸は南西端にあり、その北に二ノ丸、本丸・二ノ丸の東に広大な三ノ丸を配置している。三ノ丸は広いが、内部が本丸に向かって登り勾配となって傾斜している。西の空堀は二重横堀となっており、南の丘陵端部まで掘り切っている。縄張りに技巧性はないが、西方への防衛と統治拠点として重視されたことがうかがえる。尚、城の北の丘陵上に、最後の城主北岩松と殉死した家臣佐々木六助の墓が立っている。
本丸→DSCN9593.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.981551/141.105609/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国大名南部氏の一族・城館 (戎光祥中世織豊期論叢3)

戦国大名南部氏の一族・城館 (戎光祥中世織豊期論叢3)

  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2021/03/18
  • メディア: 単行本


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野駄館(岩手県八幡平市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9539.JPG←北西斜面の帯曲輪群
 野駄館は、南部氏の庶流中野氏が藩政時代に領内統治のために築いた館と推測されている。中野氏は、九戸城主九戸政実の弟弥五郎康実を祖とする一族で、康実は当初、高水寺城主斯波詮元の女婿で高田吉兵衛と称した。1587年、詮元と不和になった吉兵衛は、身の危険を察して高水寺城から脱出し、三戸城主南部信直の元に逃れた。信直は吉兵衛に中野館を与え、吉兵衛は中野修理と名を改めて信直に仕えた。1588年8月、高水寺斯波氏は南部氏に高水寺城を攻め落とされて没落した。高水寺城を占領した信直は、城名を郡山城と改称して城代を配した。中野氏は、慶長年間(1596~1615年)に片寄城を居城としたが、1615年から郡山城代となった。1629年、郡山城が南部氏の直轄地となると、中野氏は換地替えを命ぜられた。その換地の中に岩手郡寄木村・北森村があり、領内統治のために野駄館を築き、代理の家臣を居住させたと考えられている。

 野駄館は、比高30m程の丘陵上にあり、現在野駄舘公園として整備されている。主郭は平場だけで土塁は見られない。主郭周囲には帯曲輪が廻らされており、北東部は帯曲輪に土塁が作られて横堀状となっている。また北西斜面には数段の帯曲輪軍が築かれている。遺構としてはこの程度の簡素なものだが、江戸時代に新造された平山城形式の居館であり、貴重である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.944481/141.070418/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


盛岡藩 (シリーズ藩物語)

盛岡藩 (シリーズ藩物語)

  • 作者: 佐藤 竜一
  • 出版社/メーカー: 現代書館
  • 発売日: 2006/11/01
  • メディア: 単行本


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平館城(岩手県八幡平市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9484.JPG←主郭、奥は櫓台らしい土壇
 平館城は、一戸氏の庶流平館氏の居城である。平館氏の天正年間(1573~92年)以前の事績は不明だが、後に一戸城主一戸政連の弟信濃守政包が平館氏を継ぎ、1000石を領して平館城を居城としたと伝えられる。1981年7月、政包は南部宗家に叛意を持った九戸城主九戸政実に唆され、一戸城において一戸兵部大輔政連・出羽父子を刺殺した。しかし九戸政実の乱が鎮圧されると、平館氏は南部信直によって知行取上げとなり、その後、津軽石行重の子が平館彦六と称して平館氏を再興した。

 平館城は、比高40m程の大泉院の裏山に築かれている。主城部は舘山から伸びる北尾根の先端部に築かれているが、もう一つ東の支尾根にも出丸が築かれている。登道はいくつかあるらしいが、東出丸の東麓の登口がわかりやすい。ここには「平舘信濃守政包城跡」と刻まれた石碑が立っている。ここを登っていくと、何段かの平場に分かれた公園があり、ここが東出丸である。しかし公園化による改変多く、遺構は不明瞭なものが多い。唯一、西の基部に穿たれた堀切だけがはっきりしており、一点豪華主義の砦である。ここから西に少し進むと標高300mの峰があり、この峰も砦であったらしく、頂部の平場の周りに腰曲輪が見られる。この峰から北に進んだ先に主城部がある。基部の尾根に小規模な二重堀切を穿っており、その先に腰曲輪に囲まれた主郭がある。主郭は南北に長く、後部に櫓台らしい土壇を築いている。腰曲輪は南東部と南西部には突出しているが、その他は帯曲輪状に廻らされている。また主郭の北東に伸びる尾根にも小郭や腰曲輪が確認できる。東斜面の下方は大泉院の墓域があるが、一部の平場は腰曲輪の遺構であった可能性がある。この他、舘山山頂部にも物見砦の遺構があるようだが、時間の関係で踏査しなかった。平館城は小規模な遺構であり、あくまで有事の際の詰城で、平時の城は麓にあったものと推測される。
東出丸の堀切→DSCN9428.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.946258/141.090159/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


天を衝く 秀吉に喧嘩を売った男九戸政実(1) (講談社文庫)

天を衝く 秀吉に喧嘩を売った男九戸政実(1) (講談社文庫)

  • 作者: 高橋克彦
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2013/10/25
  • メディア: Kindle版


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田頭城(岩手県八幡平市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9325.JPG←主郭~二ノ郭間の堀切
 田頭(でんどう)城は、南部氏の家臣田頭氏の居城である。田頭氏は工藤氏の末流で、葛巻河内信祐の2男直祐が、この地に分封されて田頭右衛門佐直祐を称した。天正年間(1573~92年)1千石を領していたと言う。直祐の田頭氏は第二次田頭氏で、それ以前に第一次田頭氏が居たらしいが詳細は不明という。1591年、九戸城主九戸政実が三戸城主南部信直に反逆して挙兵した際(九戸政実の乱)、平館城主平館(一戸)信濃守政包は九戸氏に加担して信直方の周辺各氏の城を攻め落とし、田頭城へ押し寄せた。田頭勢は激しく抵抗したが、平舘勢の再三に渡る夜討を受け、ついに落城した。直祐は搦手から脱出して大更の夏間木まで逃げたが、執拗な追撃を受けて自刃したと言う。

 田頭城は、標高335m、比高60m程の館山という独立丘陵に築かれている。城内は館山公園として整備されており、簡単に登ることができる。山頂に、堀切で区画された主郭・二ノ郭を南北に並べ、北から南東にかけて1~2段の腰曲輪を廻らし、更に南東斜面に数段の腰曲輪を連ねた縄張りとなっている。主郭の西辺部は岩山の高台となっており、物見台として機能したと思われる。二ノ郭も西辺に土塁・物見台が築かれている。また二ノ郭の西には張出した尾根があり、薮の中にクランクした堀切が確認できる。二ノ郭の北には2段の緩斜面が広がっており、ここも曲輪だったと考えてよいと思う。この他、周囲の腰曲輪はいずれも切岸が大きく、それなりの防御力を備えている。田頭城は、東方以外の眺望がひらけた交通の要衝であり、重要な城であったことがうかがわれる。
二ノ郭西尾根の堀切→DSCN9348.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.916739/141.084044/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国大名南部氏の一族・城館 (戎光祥中世織豊期論叢3)

戦国大名南部氏の一族・城館 (戎光祥中世織豊期論叢3)

  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2021/03/18
  • メディア: 単行本


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石坂柵(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9219.JPG←交差点脇の標柱
 石坂柵は、俘囚の長安倍氏が築いた城柵で、安倍氏12柵の一つである。1057年11月に黄海の戦いで大敗した源頼義が自軍の勢力回復に努める間、安倍貞任は強勢を誇っていた。安倍氏打倒に燃える頼義は、出羽の豪族清原氏に援軍を請うこと再三に及び、1062年、族長清原光頼は遂にこれを容れて弟武則を総大将とする大軍を派遣した。源頼義・清原武則連合軍は最初に小松柵を攻撃した。大兵を擁する源氏・清原氏連合軍は優勢で、安倍軍は大敗を喫し、小松柵を放棄して石坂柵に逃げ延びた。しかし清原勢の激しい追撃により、遂に石坂柵も放棄して衣河柵へと敗走したと言う。

 石坂柵は、擬定地の標柱が赤荻地区西部の交差点脇に立っている。擬定地なので、当然ながら遺構はない。一方、岩手県の文化財地図では、標柱の位置から北方750m程の丘陵上の一角を石坂柵としている。しかし国土地理院地形図の傾斜量図で見る限り、丘陵上にも明確な遺構はなさそうである。ここでは標柱の位置を記載しておくに留める。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.941128/141.082585/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東北の争乱と奥州合戦―「日本国」の成立 (戦争の日本史)

東北の争乱と奥州合戦―「日本国」の成立 (戦争の日本史)

  • 作者: 関 幸彦
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2006/10/16
  • メディア: 単行本


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小松柵(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9217.JPG←川に囲まれた擬定地の地勢
 小松柵は、俘囚の長安倍氏が築いた城柵で、安倍氏12柵の一つである。1057年11月に黄海の戦いで大敗した源頼義が自軍の勢力回復に努める間、安倍貞任は強勢を誇っていた。安倍氏打倒に燃える頼義は、出羽の豪族清原氏に援軍を請うこと再三に及び、1062年、族長清原光頼は遂にこれを容れて弟武則を総大将とする大軍を派遣した。源頼義・清原武則連合軍が最初に攻撃したのが小松柵で、柵を守る安倍宗任とその叔父良照の軍と戦闘になった。大兵を擁する源氏・清原氏連合軍は優勢で、激戦の末に小松柵は炎上し、宗任は敗走したと言う。

 小松柵は、磐井川と久保川に囲まれた谷起島と呼ばれる半島状台地に築かれていたらしい。この台地の東端部に「小松柵擬定地」の標柱が立っている。遺構はないが、柵を築く適地であったことは、現在の地勢からもうかがえる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.923718/141.098549/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


蝦夷の末裔―前九年・後三年の役の実像 (中公新書)

蝦夷の末裔―前九年・後三年の役の実像 (中公新書)

  • 作者: 高橋 崇
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 1991/09/01
  • メディア: 新書


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覚鱉城・河崎柵(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9202.JPG←城・柵跡の石碑や看板
 覚鱉(かくべつ)城は、大和政権が蝦夷侵略のため胆沢侵攻の前進基地として築いた城である。『続日本紀』によれば780年のこととされ、覚鱉城造営中に「伊治公呰麻呂の乱」で築城は中断され、そのまま歴史から姿を消した。

 河崎柵は、前九年の役の際に俘囚の長安倍貞任が黄海の戦いの際に拠点とした城柵で、安倍氏12柵の一つである。衣川柵に進撃した源頼義率いる国府軍に対して、安倍貞任は部下の金為行が守る河崎柵に精兵4千人を集め、これを率いて国府軍を撃ち破った。大敗した頼義は、息子の義家を含む供回り6騎で命からがら落ち延びたと伝えられる。

 覚鱉城・河崎の柵は、同じ地にあった時代の異なる二重遺跡とされる。県道168号線沿いに石碑と解説板などが建っている。河崎の柵は擬定地であるが、発掘調査の結果では柵跡である可能性が高いとされる。現在遺構は何も残っておらず、石碑や解説板が歴史を伝えているだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.904702/141.252851/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


前九年・後三年合戦と兵の時代 (東北の古代史)

前九年・後三年合戦と兵の時代 (東北の古代史)

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2016/03/29
  • メディア: 単行本


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楊生新城(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9189.JPG←腰曲輪と主郭切岸
 楊生新城は、戦国時代に千葉山城守持家の居城であったと伝えられている。持家の系譜は明確ではないが、『楊生新城館跡発掘調査報告書』では各種の所伝から、鎌倉後期の正応年間(1288~93年)に葛西氏の家臣千葉山城守持高が楊生古城の城主となり、永正年間(1504~21年)には桃生郡より寺崎刑部大輔常清が峠城に移封となった際に常清の舎弟明清が楊生古城の城主となって寺崎系千葉氏となり、明清は千葉持高後裔の持家を楊生新城に置いたのではないかと推測している。そして持家が城主の時、1590年の奥州仕置で楊生新城は落城したと伝えられる。また寺崎系千葉氏は同年に生起した葛西大崎一揆に加担し、2代五郎左衛門清泰らが桃生郡深谷にて伊達勢の謀略で誅殺されたと言う。

 楊生新城は、北上川曲流部にほど近い比高50m程の山上に築かれている。主郭には現在熊野神社が建っているので、南麓から参道が整備されており、簡単に登ることができる。山頂に主郭を置き、その周囲に腰曲輪を廻らしただけの簡素な構造である。西麓に堀切があるようだが、薮がひどく確認できていない。また東麓から東中腹まで車道が延びているので、東側は一部改変を受けている。いずれにしても小規模な城砦である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.897521/141.252787/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


岩手県の歴史 (県史)

岩手県の歴史 (県史)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2009/12/01
  • メディア: 単行本


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紫館(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9071.JPG←腰曲輪から見た二ノ郭
 紫館は、涌津城とも言い、涌津岩渕氏の歴代の居城である。涌津岩渕氏は、東山の藤沢城主藤沢岩渕氏の支流で、岩渕清経の子正経が徳治年間(1306~08年)にこの地に城館を築いたと伝えられる(別説では1342年築城とも)。1485年に南部政盛が気仙郡有住に侵入した際、葛西勢の軍監として涌津城主岩渕経定が出動している。豊臣秀吉の奥州仕置による葛西氏没落後は木村吉清の支配期を経て伊達領となり、伊達氏家臣瀬上宗時・宗敦の居城となったと言う。

 紫館は、南北2つの城域からなり、北の本城域は紫館公園として整備され、南の出丸は八幡神社の境内となっている。主郭は舘明神神社が立っており、周囲に土塁が見られるが小さな平場で、主郭というより櫓台という趣である。主郭の北東には広い平場の二ノ郭が広がっており、前述の通り公園となっている。周囲は切岸で囲まれ、北端には物見台の様な土塁囲郭がある。二ノ郭周囲の斜面には腰曲輪群が築かれている。一方、南の出丸は、八幡神社がある頂部の平場の他に、周りの斜面の下に北から東にかけて、しっかりした横堀が穿たれている。この他、主城部の東麓には水堀跡が貯水池となって残っている。
出丸の横堀→DSCN9143.JPG
DSCN9150.JPG←東麓の水堀跡

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.819272/141.189702/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


続・東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

続・東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2021/10/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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朝日館(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN8990.JPG←要害部の舌状斜面南端の物見台
 朝日館は、金沢城とも言い、葛西氏の家臣で奥州千葉氏の一族金沢千葉氏の居城である。伝承では、奥州藤原氏3代秀衡の郎従九郎なる者がこの館に居住し、金沢伊豆と称したと言われる。1340年、薄衣城主千葉清澄の3男清胤は葛西高清の命でこの地に入部し、金沢千葉氏となった。1507年、朝日館主千葉伊豆守冬胤は峠城主寺崎時胤と戦ってこれを降し、1510年には本家の薄衣氏を敗退させるほどの勢力を有した。葛西氏にとって金沢の地は有壁方面からの大崎氏の侵攻に対する交通上の要地で、この地を支配した金沢氏は流郷の盟主であった。1590年、金沢千葉氏10代伊豆守信胤は葛西大崎一揆に加わり、桃生郡深谷の陣で伊達勢に敗れ、糠塚で伊達勢の謀略により討死した(須江山の惨劇)。

 朝日館は、標高約75m、比高50m程の緩やかな丘陵地に築かれている。城域は大きく2つに分かれ、愛宕神社が建つ愛宕山山頂部の遺構群と東北東に伸びる尾根の先端部に築かれた遺構群に分かれる。山頂部のものが要害部(詰城)で、東北東のものが居館部と考えられている。
 要害部は現在あたご山公園となっており、主郭のすぐ下まで車で行くことができる。要害部の主郭は東西に長い長円形の曲輪で、南に舌状の緩斜面が続いている。この緩斜面の先には物見台が築かれ、下方に堀切が穿たれている。この主郭と舌状斜面は切岸で囲まれ、外周に腰曲輪を廻らしている。北には広大な広場があるが、公園化で整備されたものだろう。
 居館部は、尾根の基部に堀切を穿って分断し、L字型の土塁を後部に築いた主郭が広がっている。この平場には小さな廃屋があり、以前は畑であったらしいが現在は竹薮となっている。この主郭の東に高台となった二ノ郭があり、その南と東に腰曲輪が築かれている。主郭・二ノ郭の接続部には虎口らしい構造があって、北斜面に通じている。北斜面はほとんど自然地形の傾斜地となっている。
 以上が朝日館の遺構で、遺構はよく残っているが、居館部は薮が多く少々探索しづらい。それほど要害性の高い地形とも思われず、やや中途半端な印象の城館である。
居館部基部の堀切→DSCN9010.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.853971/141.178372/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


千葉氏の研究 (関東武士研究叢書)

千葉氏の研究 (関東武士研究叢書)

  • 作者: 野口実
  • 出版社/メーカー: 名著出版
  • 発売日: 2000/05/01
  • メディア: 単行本


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二桜城(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN8923.JPG←二ノ郭と花立泉
 二桜(にろう)城(二桜館)は、清水城とも言い、葛西氏の一族清水氏の居城である。伝承では、古くは坂上田村麻呂や文室綿麻呂の陣所で、1058年には熊谷次郎直秀の居城となり、更に文治年間(1185~90年)頃には奥州藤原氏の家臣照井高春の居城となったと伝えられるが、確証はない。特に田村麻呂伝説は奥州各地にある他、熊谷氏の奥州入部は1189年の源頼朝による奥州合戦後であるので、これらの伝承は信ずるに足らない。歴史がはっきりしてくるのは鎌倉後期からで、1309年に葛西式部大輔清秀が二桜城を居城として清水氏を称した。以後、清水氏の歴代の居城となった。1590年に主家葛西氏が豊臣秀吉の奥州仕置で改易となり、同年葛西大崎一揆が生起すると、二桜城主清水刑部少輔信晴もこれに参加し、桃生郡糠塚で伊達政宗の謀略にはまり自刃した。1593年には伊達一門の重鎮留守政景(政宗の叔父)が黄海城より移って二桜城主となったが、政景は1604年に一関城に移封された。その後留守氏は政景の子宗利の代に金ケ崎城水沢城と移封され、水沢伊達氏となった。二桜城の廃城時期は不明。

 二桜城は、比高30m程の丘陵先端部に築かれている。城は現在清水公園として整備されている。中程がえぐれたオバQ型の主郭と周囲に築かれた腰曲輪状の二ノ郭・三ノ郭で構成された、小規模な城である。主郭には八幡神社が建ち、主郭背後には土塁と基部を分断する堀切が穿たれている。主郭切岸下の二ノ郭北東部には、坂上田村麻呂に由来するという井戸が残り、花立泉と呼ばれ、花泉の町名の由来となっている。また主郭の南側にも大土塁が築かれている。三ノ郭の東辺には短い横堀と土塁が残っている。尚、ここは公園なのに専用の駐車場がなく、中腹にある特養老人ホームの駐車場に駐めさせていただいた。
主郭背後の堀切→DSCN8937.JPG


 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.848607/141.158760/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


岩手県の歴史散歩

岩手県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2006/12/01
  • メディア: 単行本


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山名氏館(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN8595.JPG←館跡との説がある光台寺
 山名氏館は、後に室町幕府の四職に名を連ねた守護大名山名氏の、草創期の居館である。山名氏は清和源氏新田氏の一族で、新田義重の子義範が上野国多胡郡山名に分封され、山名氏を称したことに始まる。義範は治承・寿永の乱(いわゆる源平合戦)の際、源頼朝の御家人として平家追討の搦手大将軍源義経に従って活躍し、「平氏追討源氏受領六人」の一人として伊豆守に任じられた。以後、8代にわたってこの地に居住したと言う。時氏の時に元弘の乱となり、当初は新田義貞に、後には足利尊氏に従って戦功を挙げ、室町幕府が成立すると重臣となった。伯耆など西国の守護職に任じられたため西国を本拠とし、時氏の子師義の代では山名一族で西国11ヶ国の守護となり、日本66ヶ国の1/6を領したことから「六分の一殿」と呼ばれる程の強豪の守護大名になった。

 山名氏館の所在地は諸説あるが、一説には現在の光台寺の地にあったとされる。遺構は全くないが、門前に館の解説板が立っている。尚、西の山上には山名城があり、これも山名氏が築城したとの伝承が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.276550/139.043548/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山陰山名氏 (シリーズ・中世西国武士の研究5)

山陰山名氏 (シリーズ・中世西国武士の研究5)

  • 作者: 市川裕士
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2018/06/05
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
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禰津陣屋(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN8583.JPG←堀跡を思わせる道路
 禰津陣屋は、豊岡藩1万石に封ぜられた徳川氏の家臣禰津甚平信直の陣屋である。信直は、信濃小県郡禰津を本拠としていた禰津宮内大輔覚直の子で、1582年に真田昌幸の攻撃を受け、逃れて徳川家康に服属した。1590年の小田原の役後に徳川氏が関東に移封となると、信直は豊岡に封ぜられた。1606年に三ノ倉に移封されるまで、15年間ここにいたと言う。

 禰津陣屋は、現在は常安寺の境内となっている。遺構は残っていないが、境内周囲の道路は緩いカーブを描いていて、いかにも堀跡を思わせる。尚、境内には禰津氏の墓が立っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.335723/138.973939/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


群馬県の歴史 (県史)

群馬県の歴史 (県史)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2014/01/01
  • メディア: 単行本


タグ:陣屋
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鼻高砦(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN8565.JPG←一段高くなった砦跡
 鼻高砦は、永禄年間(1558~70年)に6回にわたって行われた武田信玄による箕輪城攻撃の際、信玄が本陣を置いた砦と伝えられる。

 鼻高砦は、福泉寺とその周辺にあった。碓氷川南岸の河岸段丘辺縁部にあり、地勢は見るからに本陣を置く適地である。福泉寺境内は周囲より一段高くなっていて、これが主郭と思われる。境内には土塁らしいものもあるが、改変が激しいので往時の遺構かどうかは不明。尚、境内に上杉武田両軍戦没者供養塔が建てられている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.329241/138.947268/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


歴史家と噺家の城歩き (戦国大名武田氏を訪ねて)

歴史家と噺家の城歩き (戦国大名武田氏を訪ねて)

  • 出版社/メーカー: 高志書院
  • 発売日: 2018/12/05
  • メディア: 単行本


タグ:陣城
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里見氏館(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN8561.JPG←民家裏の土塁の残欠
 里見氏館は、新田氏の一族であった里見氏の発祥の地と言われている。新田義重の子義俊が新田氏の所領である里見郷に分封されて里見氏を称した。この地は義俊の所領であったが、義俊がここに居住したかは不明で、その居館地は確認されていないと言う。ただ北西に隣接する光明寺には里見氏の供養塔が残り、里見氏に所縁の深い地であったことを物語っている。

 里見氏館は、前述の通り光明寺に隣接した地にあり、現在は民家となっている。字名を堀之内と言い、西と北に土塁の残欠が見られる。また西側に水路があるが、これはかつての堀跡であるらしい。尚、ここから南方1.3kmには里見城があるが、これとの関係も不明である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.370529/138.908987/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図説 戦国里見氏

図説 戦国里見氏

  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2022/06/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
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遠北の陣城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN8531.JPG←竪堀とされる堀状地形
 遠北の陣城は、武田氏が築いた陣城と伝わる。1566年に武田信玄は長野氏の拠る箕輪城攻撃に当たって箕輪城と鷹留城の連絡を断つため高浜の砦、次いで白岩の砦を攻略した。遠北の陣城も箕輪・鷹留両城を分断する要地であり、箕輪城攻囲の際にこの方面を担当した小山田・穴山・土屋・諸星・曽根の内のいずれかの陣城であろうと推測されている。

 遠北の陣城は、高浜川東岸の段丘上に築かれている。現在は宅地・畑地となっていて遺構はほとんど残っていないが、西側に竪堀とされる堀状地形が残っている。たまたま訪城した際、宅地のご主人と話をすることができたが、ここが遠北の陣城とされているのをGoogleMapで初めて知ったとのことで、城の伝承についてはご存知ない様だった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.374468/138.928020/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


長野業政と箕輪城 (シリーズ・実像に迫る3)

長野業政と箕輪城 (シリーズ・実像に迫る3)

  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2016/12/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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白岩の砦(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN8524.JPG←砦跡の現況
 白岩の砦は、箕輪城主長野氏の支城である。1566年の武田信玄の上州攻めの際、高浜砦に次いで落とされた砦と伝わっている。

 白岩の砦は、小堀川沿いの窪地にある。この地は旧水沢街道に接し、箕輪城と鷹留城を結ぶ交通路の中間点に当たる。かつては長谷寺六坊の一つであった入野坊の旧地であり、『信濃をめぐる境目の山城と館 上野編』では白岩の砦を、院坊の施設を利用した街道の中継所で、宿駅的なものではなかったかと推測している。現在は民家と田畑に変貌しており明確な遺構は見られない。この窪地の東側には一段高い平場があるが、砦の一郭であった可能性は考えられる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.386854/138.932955/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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白川陣屋(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN8519.JPG←陣屋跡の現況
 白川陣屋は、安房勝山藩が築いた陣屋である。1668年、若狭小浜藩主酒井忠直の甥酒井大和守忠国は、1万石を分与されて安房勝山藩を立藩した。1682年に白川・和田山・西明屋・富岡・上高浜・下高浜・本郷の七か村が勝山藩の所領となったため、居城から遠く離れた飛び地を治めるために白川陣屋が設置された。代官は、西明屋の下田理太夫政広が務め、以後下田家当主により代々世襲され、幕末まで存続した。

 白川陣屋は、現在畑となっている。遺構は完全に湮滅しているが、車道脇に標柱と解説板が立っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.370148/138.953898/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


群馬県の歴史散歩 (歴史散歩 10)

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  • 発売日: 2005/12/01
  • メディア: 単行本


タグ:陣屋
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和田館(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN8506.JPG←解説板が立つ館跡付近の現況
 和田館は、和田山館とも言い、鎌倉時代前期に和田合戦で敗れて滅亡した鎌倉幕府の重鎮和田義盛の一族がこの地に逃れて居館を構えたとされる。九死に一生を得て和田山の地に潜居したのは、義盛の6男義信、同8男義国、或いは義信嫡子正信など諸説あって明確ではない。いずれにしても上州和田氏は、和田義盛の裔を称した。そして1230年または1243年に赤坂荘へ移って上州和田氏の祖となり、室町時代に和田城(高崎城の前身)を築いて居城とした。

 和田館は、榛名白川西岸の丘陵に三方を囲まれた窪地に築かれていたらしい。現在は民家となっており、市道脇の現地解説板には「濠跡が認められる」とあるが、民家裏の段差ぐらいしか認められない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.381361/138.952632/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


相模のもののふたち―中世史を歩く (有隣新書10)

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  • 発売日: 2022/11/15
  • メディア: 新書


タグ:居館
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