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古城めぐり(東京) ブログトップ
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宮城堀の内(東京都足立区) [古城めぐり(東京)]

DSC02572.JPG←堀之内の氷川神社
 荒川北岸には、現在でも「堀之内」と言う地名が残っている。ここは、日本城郭大系では「宮城堀の内」と呼ばれ、城館の推定地となっている。しかし城館の明確な存在は不明である。「北条氏所領役帳」では、吉原新兵衛という武士の知行地であった。それ以前の歴史としては、武蔵の名族豊島氏の本拠が近いことから、その庶流宮城氏の領地であったとも推測される。宮城氏の代官の館でもあったものであろうか。
 宮城堀の内は、その正確な所在も不明であるが、宮城氏の館と同じく氷川神社があることから、ここでは仮に氷川神社付近としておく。周囲一帯は一面の市街地で、遺構は残っていない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.773867/139.756511/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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梶原堀の内(東京都北区) [古城めぐり(東京)]

DSC02566.JPG←屋敷があったとされるポンプ所
 隅田川南岸の堀船には、かつて梶原堀の内と言う、城館があったらしい地名があった。しかし城館の明確な存在は不明である。伝承によれば、戦国時代末期に太田道灌の孫で、太田資正(三楽斎道誉)の子梶原政景が、東京都水道局王子ポンプ所辺りに屋敷を構えていたと言われている。梶原の姓は、1558年に古河公方足利義氏が葛西城で元服した際に太刀役を務め、梶原の姓を与えられたという説(異本小田原記)や、1561年に長尾景虎が、山内上杉憲政から上杉姓と関東管領を譲られた拝賀の時に、梶原姓を与えられたとする説(北条記)がある。いずれにしても政景は、小田原北条氏の傀儡と化していた古河公方義氏に近侍していたが、後に父資正と共に北条氏に叛して出奔し、常陸の佐竹義重を頼り、柿岡城主となった。一方、「北条氏所領役帳」では、梶原堀の内は太田新六郎の知行地となっており、室町時代後期に没落した豊島氏に代わって太田氏がこの地を領有し、その配下に梶原氏を称する人物がいたとも考えられる。
 梶原堀の内は、その存在すら地名以外に明確なものはないので、当然遺構は残っていない。一面の市街地が広がっているに過ぎない。尚、王子ポンプ所の南東にある福性寺の本堂前の茂みには「梶原塚」があり、梶原の地名の発祥と言う。
福性寺の梶原塚→DSC02561.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.756508/139.748315/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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小沢蔵屋敷(東京都稲城市) [古城めぐり(東京)]

DSC02556.JPG←破壊の最中の館跡
 小沢蔵屋敷は、小沢城主小沢小太郎の居館とも、蔵屋敷とも言われている。矢野口の谷戸の中にあって、明覚寺と八雲神社の間の東に向かって傾斜した地に館があった。遺構は既に湮滅しており、現在は民家や畑となっているが、訪問した時には畑地は造成工事で破壊の真っ最中であった。こうして今日も史跡が失われていくのだな、と実感した次第。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.631698/139.514147/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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百村館(東京都稲城市) [古城めぐり(東京)]

DSC02540.JPG←竪神社
 百村館は、歴史不詳の館である。記録はないが、江戸時代に関下・台山・六万台・館谷・館台など、城館を想起させる字名があったことから、館があったものと推測されている。館跡に比定されている地は、館台(現在の地名で言う「竪台」だろう)にあったとされている。この台地は多摩川南岸の河岸段丘の一部で、東側に三沢川に臨む比高25mの崖がある要害地形であるが、多摩ニュータウンの開発で往時の姿はかなり改変されていると考えられる。従って、はっきりした位置も不明であるが、ここでは小幡晋氏が「武蔵の古城址」で指摘している竪神社を、仮に館跡としておく。尚、百村館から指呼の距離には、東に長沼城、北に大丸城があるが、これらとの関係は不明である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.635134/139.487475/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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人見屋敷(東京都府中市) [古城めぐり(東京)]

DSC02535.JPG←浅間山公園内の人見四郎の墓跡
 人見屋敷は、歴史不詳の館で、新編武蔵国風土記稿によれば、旧人見村には「上屋敷」・「下屋敷」と呼ばれる館跡があったと言う。付近には武蔵七党の一つ猪俣党の一流、人見氏の根拠地があったとも言われ、人見氏一族に関連する城館であったのかもしれない。但し、人見氏の本来の根拠地は深谷市にある人見氏館であり、それとの関係は手元に資料がなく不明である。
 人見屋敷は、現在の浅間山公園付近にあったようであるが、平地部は市街化が激しく、公園内は山林化しており、明確な遺構は確認できない。ただ、浅間山公園の南端部には、鎌倉末期から南北朝時代にかけて活躍した人見四郎の墓跡という石碑が建っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.678756/139.500886/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
    (人見四郎の墓跡の位置)
タグ:居館
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薬王寺館(東京都日野市) [古城めぐり(東京)]

DSC02509.JPG←寺の前の水路
 薬王寺館は、薬王寺の境内にあったとされる歴史不詳の館である。その存在も確定的ではなく、かつて寺の東側に土塁があり、北側には空堀状の溝や乱石積みの井戸があったことから、何らかの館があったと推測されている様である。薬王寺館から西にわずか200m程の所に、小田原北条氏の家臣竹間加賀入道の墓である加賀塚があるので、竹間氏との関連の可能性も考えられる。
 薬王寺館は、前述の通り現在薬王寺の境内となっており、明確な遺構は既に湮滅している。しかし寺の南側には水路が流れ、堀跡の名残を思わせる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.682363/139.394671/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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日奉氏館(東京都日野市) [古城めぐり(東京)]

DSC02505.JPG←日奉宗頼を祀った日野宮神社
 日奉氏は、武蔵七党の一つ西党の宗家である。日奉宗頼を祖とすると言われ、日野台地の一部に居館を構え、その鬼門の方向に東光寺を建立したと言われている。日奉氏からは、西・長沼・稲毛・平山・川口・由木・由井・田村・立河・狛江・二宮等の諸氏を輩出して繁栄した。しかし時代の流れとともに日奉氏嫡系は衰微し、支族の系譜の方が生き残って、小田原北条氏の元でも支族はその名が見られた。
 日奉氏館は、正確な場所は不明であるが、幾つかの推定地がある様で、日奉宗頼を祭神として子孫によって建立された日野宮神社付近とも、東光寺の地名の残る台地の上で、七ツ塚付近ともされる。この付近を巡ってみたが、周りには日野宮神社の他に、江戸時代に再興された東光寺薬師堂、東光寺の一子院だった成就院、日奉宗頼の妻を祀ったとも言われる姫宮権現など、日奉氏所縁の史跡が多い。遺構はなくても、時間を作ってゆっくり巡ってみるのも面白い。
姫宮権現→DSC06212.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:【日野宮神社】http://maps.gsi.go.jp/#16/35.684472/139.391817/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

    【姫宮権現】http://maps.gsi.go.jp/#16/35.680777/139.390508/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0


坂東武士団と鎌倉 (中世武士選書)

坂東武士団と鎌倉 (中世武士選書)

  • 作者: 野口 実
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/04/30
  • メディア: 単行本


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村山館(東京都瑞穂町) [古城めぐり(東京)]

DSC02418.JPG←水路部の屈曲する道路
 村山館は、武蔵七党の一つ村山党の惣領家村山氏の居館である。村山氏は、平忠常の孫頼任が村山に住して、村山貫主と呼ばれたことに始まる。金子山口仙波難波田等の庶家を輩出し、狭山丘陵を中心に勢力を張った豪族であった。殿ヶ谷の村山館の館主と言われる村山重信は、保元の乱で活躍した金子十郎家忠の8代の孫と言われ、元弘の乱の際に新田義貞の鎌倉攻めの軍勢に加わり討死した。戦国末期の天正年間(1573~92年)には村山土佐守義光が館主で、小田原北条氏に仕え、北条氏滅亡後は帰農したと言う。
 村山館は、福正禅寺の南側に広がる平地にあったとされる。宅地化が著しく明確な遺構はないが、館跡の東側には現在でも往時の水堀跡と考えられる水路が流れ、ちょうど水路の部分で道路がクランク状に屈曲しており、虎口の名残りを想起させる。館の背後の丘陵地に当たる福正禅寺境内は、居館に対する詰城であったと考えられており、ここにも明確な遺構はないが、眺望に優れた物見の適地であったことが今でもよく分かる。
詰城とされる福正禅寺境内→DSC02412.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.768139,139.361851&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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大石氏館(東京都羽村市) [古城めぐり(東京)]

DSC02392.JPG←館跡付近に残る遠江坂
 大石氏館は、武蔵の豪族大石氏の庶流大石遠江守の居館である。大石氏は、滝山城の項に記載した通り、小田原の北条氏康が山内・扇谷両上杉氏を関東から駆逐すると、その軍門に降って、氏康の子氏照を養子とした。以後、氏照麾下の滝山衆の中核となって各地を転戦し、北条氏の領国発展に貢献した。この居館の主は、氏照を養子とした大石定久の弟とされる、大石照仲と言われている。照仲は、1590年の小田原の役の際、八王子城で討死したと言われている。
 大石氏館は、羽村東小付近にあったとされるが、現在は市街化により、その痕跡は微塵も残っていない。しかし、羽村東小の脇を下る坂は「遠江坂」と呼ばれ、大石遠江守の館があったところから付いた名だと言う。この地は多摩川に面した河岸段丘の辺縁部に当たり、中世の居館を築く適地であったのだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.754122/139.313604/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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二宮城(東京都あきる野市) [古城めぐり(東京)]

DSC02373.JPG←かつて城址碑のあった付近
 二宮城は、武蔵七党の一つ西党に属する二宮氏の居館である。その事績は明瞭ではないが、「吾妻鏡」の中に二宮弥次郎時光らの名前が確認される。また、室町時代後期になると、関東管領山内上杉氏の家臣大石駿河守が二宮城にあって、河越城の扇谷上杉定正に攻め破られたことが、「鎌倉大草紙」の中に見える。ここで言う二宮城は、高月城の誤りではないかとの説もある様だ。
 二宮城は、正確な場所は現在でもわかっていないらしく、いくつかある候補地の一つとして、都道7号線沿いの段丘が挙げられている。この地もその有力な候補地で、多摩川とその支流の秋川の合流点近くの段丘上であり、台地先端に築かれた城であったらしい。東・南・西の三方を比高5m程の崖で囲まれた地形で、特に西側は小河川が入江の様にえぐっており、天然の堀地形となっていて、見るからに城地としての要件を満たしている。しかし、台地上もその周囲も一面の住宅地に変貌しており、既に往時の面影は失われている。7~8年ほど前までは、台地上に城址碑が建っていたらしいが、現在は残念ながら撤去されてしまっており、城の名残りを伝えるものはわずかな地形以外には残っていない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.720873/139.322144/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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川口館(東京都八王子市) [古城めぐり(東京)]

DSC02372.JPG←川口館跡の現況と石碑
 川口館は、川口兵庫介館とも言い、武蔵七党の一つ西党に属する川口氏の居館である。平安時代に西次郎宗貞3代の孫川口次郎大夫がこの地に入部し、川口氏の祖となった。鎌倉幕府が開幕すると、川口氏も参画して貢献し、室町時代の応永年間(1394~1428年)、川口兵庫介幸季の時代が、川口氏の全盛期だったとされる。その後、関東が戦乱で覆われると、扇谷上杉定正の幕下で勢威を振るい、関東管領山内上杉顕定と対峙した。戦国時代に入って小田原北条氏が勃興して武蔵を勢力下に置くと、川口氏は歴史の波に埋もれていったと言う。
 川口館は、秋川街道(都道32号線)沿いの調井台と呼ばれる、比高15m程の台地上にあったとされる。台地上に遺構はなく、広い畑地と民家となっているが、北側を流れる川口川に望んで街道筋を押さえる要地であったことは想像に難くない。民家の手前に立派な石碑が建ち、川口氏の歴史を今に伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.690468/139.282898/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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御屋敷(東京都八王子市) [古城めぐり(東京)]

DSC02352.JPG←御屋敷付近の谷戸と御屋敷川
 御屋敷は、小田原北条氏滝山衆麾下の家臣の居館とされている。その姓名は伝わっておらず、「新編武蔵国風土記稿」では八王子城主北条氏照の家臣とされ、「武蔵名勝図会」では浄福寺城大石遠江守の家臣とされており、詳らかにはできない。大石遠江守は御屋敷付近にある乾晨寺の開基とされているので、この付近を領し、代官として家臣を派遣して統治していたとも考えられる。
 御屋敷の場所は明確ではなく、「御屋敷」という地名が美山町に残っているだけである。この地を東流する小河川は「御屋敷川」といい、その護岸の銘版には「御屋敷」の名が付いている。「殿畑」という地名も残っているらしい。また、乾晨寺の西側を通る都道61号線のバス停は「御屋敷入口」と言い、現在でも御屋敷の地名は受け継がれており、バス停の西側に広がる谷戸の中のどこかに屋敷があったのだろう。谷戸内は宅地と畑になっており、遺構らしいものは確認できない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.685048/139.249123/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
     ※地図の位置は、推定地付近を示しているだけです。
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上平井館(東京都あきる野市) [古城めぐり(東京)]

DSC02347.JPG←館跡に建つ松岩寺
 上平井館は、当地の土豪平井氏の居館と言われている。平井氏の事績は不明であるが、現在の松岩寺の前身宗剣寺の開基で、1590年8月に没していることから、戦国末期に小田原北条氏に仕えていたと考えられている。尚、北条氏関連の同時代文書からは、上平井館のあった平井宿駅の統括者として平井半兵衛の名が知られており、上平井館の館主か関係者であったことが推測されている。
 上平井館は、現在松岩寺となっている。周囲より数mの高台となっており、日本城郭大系には「前面に郭(柵)跡が見られる」と記載されているが、現況からはよくわからない。尚、後背地の山上には伊奈城があり、上平井館はそれに対する根古屋であろうか?

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.735383/139.253651/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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幸神屋敷(東京都日の出町) [古城めぐり(東京)]

DSC02335.JPG←屋敷地の現況
 幸神屋敷は、単に御屋敷とも呼ばれ、一説には平山左衛門尉綱景の居館とも言われるが定かではない。平山氏は、鎌倉幕府創業の功臣平山季重の後裔で、戦国期には小田原北条氏に仕えて、平山伊賀守氏重が檜原城主となって甲斐武田氏の武蔵侵攻に備えていた。綱景は氏重の弟で、小田原の役の際、八王子城太鼓曲輪を守備して討死した。また幸神屋敷を、この地の土豪幸神氏の居館とする説もあるらしい。
 幸神屋敷は、勝峰川南岸の台地の先端に位置し、周囲を渓流で囲まれた険要の地である。現在民家となっている為、周囲から遠景のみ望んで退去した。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.743151/139.225885/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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新井屋敷(東京都日の出町) [古城めぐり(東京)]

DSC02327.JPG←屋敷地付近の現況
 新井屋敷は、小田原北条氏の家臣新井伊賀、同十郎兵衛の屋敷と伝えられている。新井氏の先祖は新井伊予守輝高と言い、1470年に没し、その孫十郎兵衛輝盛が小田原北条氏に仕えてこの地に住したとされている。新井氏は北条氏滅亡後、姓を佐久間に改め、八王子千人同心となった。
 新井屋敷は、現在宅地化により遺構は湮滅している様である。日本城郭大系に記載される図の位置には土塁がなく、それより北側の位置に土盛がある。遺構かどうかは不明であるが、大系もたまに間違っていることがあるので、もしかしたら土塁の位置が書き間違えているのであろうか?付近には御殿橋と言う名の橋があり、新井屋敷から南西400mに位置する幸神屋敷と共に、北条氏家臣団の居住区であったのかもしれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.745467/139.228739/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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御嶽城(東京都青梅市) [古城めぐり(東京)]

DSC02238.JPG←北出丸の先の堀切
 御嶽城は、霊峰御嶽山に築かれた山城である。山頂に鎮座する武蔵御嶽神社の創建は古く、天平時代の736年に、僧行基が東国鎮護の為に蔵王権現を勧進したのが始まりと言われている。その後、兵乱により荒廃しつつも存続し、1191年には坂東武者の鑑と言われた畠山重忠が大鎧を奉納しており、それは現在国宝に指定されて宝物殿に大切に保存されている。1234年には大中臣国兼が社殿を再興し、同年四条天皇より国宝円文螺鈿鏡鞍が奉納されている。明治以前は御嶽山蔵王大権現と称していたが、明治時代の神仏分離と廃仏毀釈によって、御嶽神社と改称された。この様に、古代から永続している山岳信仰の聖地であり、御嶽城は戦国大名が築いたと言うよりも、武装化した僧兵によって山岳寺院が城塞化されたと見做すべきだろう。関東管領上杉氏や青梅を支配していた三田氏の庇護下で存続していた御嶽山蔵王大権現は、三田氏滅亡後は小田原北条氏の庇護を受けたと考えられる。従って、甲斐武田氏の秩父侵攻が始まった頃に、武田氏に備える為に城塞化されたと推測される。

 御嶽城は、現在都下でも有数の観光地であるらしく、奥深い山地の中にありながら、人出が多く辟易する程である。標高929mの山頂に行くには、標高830mまで一気に登るケーブルカーに乗り、その後は延々1km程の道のりを歩いていかなくてはならないので、思ったよりも大変である。山上には多くの集落があって、土産物さんが立ち並んでいる。御嶽山の北東の尾根の先、ビジターセンターの裏の高台には、腰曲輪と物見台、それに小堀切や動線遮断の竪堀がある。ビジターセンターも曲輪の一つだったと考えられ、出丸として機能していた区画だった様である。そこから御嶽神社の鎮座する主郭部までは、宅地化等によって改変されており、明確に遺構と断定できるものはない。主郭部も神社境内となっているので、遺構は湮滅しているが、主郭裏の北西の尾根に小堀切があり、その先に物見台らしい一段高くなった曲輪が残っている。明確な遺構としてはこの程度で、城があったことは間違いないが、遺構は物足りない。それよりも神社宝物館の国宝鎧等の方が、よほど素晴らしい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.782832/139.149517/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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長沼館(東京都八王子市) [古城めぐり(東京)]

DSC01428.JPG←殿ヶ谷に残る平場
 長沼館は、詳細不明の城で、東京都の遺跡地図に記載されている。手元に文献がなく不明であるが、おそらく武蔵七党西党の一流長沼氏の居館であろう。長沼氏関連の城館としては、ここより東方12kmの稲城市内に長沼城があったと伝えられるが、どちらも伝承地であろうか?両者の関係は不明である。
 長沼館は、現在長沼公園となっている丘陵地一帯にあったらしい。ここには殿ヶ谷の名が残る他は、特に城館の存在を示すものは残っていない。地勢としては近くに位置する平山城と同じく、南の丘陵地の辺縁部が尾根状に北に張り出した場所にあり、深い谷戸が切れ込んでいる。谷戸の中に削平された平場が数段見られるが、遺構かどうかは定かではない。住宅地の間近であるので後世の改変の可能性もあるだろう。尾根上も公園化されている為、遺構ははっきりせず、わずかに竪堀の様に見えるものが1ヶ所見受けられるが、遺構とは断定できない。尾根は細尾根で、ここに館を築いたとは考えにくく、全体の状況から推測すれば、丘陵部を背後に控えた谷戸に居館を置き、背後の尾根状に物見を構えた、鎌倉時代頃の古い城館であろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.638749/139.365889/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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野猿峠塁(東京都八王子市) [古城めぐり(東京)]

DSC01399.JPG←切通し状の小道
 野猿峠塁は、詳細不明の城で、東京都の遺跡地図に記載されている。野猿峠の西に隣接する丘陵地であるので、殿丸城と同じく古道監視を主任務とした戦国時代の小規模な砦だったものと推測される。一説には、北条氏康に屈してその子氏照を養子とし、家を乗っ取られた大石定久が、憤懣に耐えず野猿峠で自刃したとも言うが、あくまで伝説に過ぎないだろう。
 野猿峠塁は、野猿街道の西側にある小丘陵の上にあったと思われるが、丘陵上の鉄塔は見えるが、登り口が全くわからない。藪の中に強行突入しようにも、周囲は住宅密集地で、不審者扱いされても困るので、攻城を断念した。丘陵の南側に切通し状の小道が通っており、堀切を兼ねた古道の跡かもしれない。いずれにしても、周辺地形もかなりの改変を受けているようで、満足な遺構は望めないだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.633172/139.362398/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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高乗寺城山(東京都八王子市) [古城めぐり(東京)]

DSC01346.JPG←尾根に見られる竪堀
 高乗寺城山は、詳細不明の城で、東京都の遺跡地図に記載されている。標高302m、比高102mの高乗寺の裏山に城郭遺構があるとされる。初沢川を挟んで初沢城と相対する位置にあるが、その関連性は不明である。
 高乗寺城山は、南北に伸びる尾根上に位置しているが、この尾根を南北に縦走するハイキングコースがあるらしく、尾根にいる間だけでも数人とすれ違うほど人気があるコースであるらしい。明確な曲輪はなくほとんど自然地形に近いが、山頂から三方に伸びる尾根上(東尾根・北尾根・南尾根)に3ヶ所明確な竪堀が確認できる。また虎口らしい地形も確認できる。城郭がここにあったことは間違いない様である。削平が明確ではない一方で、尾根に竪堀が存在する特徴は、北北東700mの至近距離にある金比羅山砦と共通するので、高乗寺城山も小田原北条氏の築いた砦であったのだろう。おそらく金比羅山砦や廿里砦等と連携して、滝山城八王子城の防衛線を敷いていたものであろう。
虎口状の地形→DSC01355.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.634288/139.273070/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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力石城(東京都八王子市) [古城めぐり(東京)]

DSC01272.JPG←平場と土塁状地形
 力石城は、詳細不明の城で、東京都の遺跡地図に記載されている。位置的には陣馬街道に沿って流れる北浅川の曲流部に、南から張り出した台地上に築かれていた様である。
 力石城があったとされる場所は、眼下に陣馬街道を望む要地であり、街道監視を主任務とする城だったと想像される。比高20m程の平坦な台地と、その東側に南北に細長い小峰がある。一面の畑となっている台地の中程には高台があり、腰曲輪状の平場が確認できるが、遺構かどうかは定かではない。また、東側の峰にも削平された平場があり、土塁状の地形があるので、物見の砦であったと考えられる。全体の構造から考えられることとしては、台地上に居住地を設けた物見の城ではないだろうか?ここを突破されると、浄福寺城まで敵の侵入を許してしまうことから想像すれば、小田原北条氏が甲斐武田氏の侵攻に備えて築いた物見の城だったと思う。
城跡?の台地→DSC01293.JPG
DSC01284.JPG←物見から望む陣馬街道
 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.672367/139.221143/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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長井館(東京都日の出町) [古城めぐり(東京)]

DSC01258.JPG←館跡とされる平場の遠景
 長井館は、滝山城主北条氏照の家臣長井六右衛門の居館と伝えられている。旧鎌倉街道北側の台地上に位置しており、街道を見下ろす地の利を得ており、小土豪の居館に相応しい地勢とされる。
 長井館は、民家裏の高台上にあったらしいが、現在は畑となっており、明確な遺構は確認できない様である。畑に入るには、麓の民家の敷地を通らなければならず、また畑自体も当然ながら民有地であるため、無断で入ることはできないので、遺構の確認はできない。わずかに背後の山に分け入って、平場の遠景だけ写真に収めて早々に退散した。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.761984/139.230198/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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下屋敷(東京都多摩市) [古城めぐり(東京)]

DSC01261.JPG←下屋敷の現況
 下屋敷は、詳細不明の城館である。下屋敷という字名から、中世の土豪的人物の屋敷跡と推測されているが定かではない。
 下屋敷のあった地は、多摩川とその支流の大栗川を北側に見下ろす台地の先端に当たり、「向ノ岡」と呼ばれている。台地上は一面の住宅地となり、隣接する東側はゴルフ場となり、遺構は残っていない。尚、「新編武蔵国風土記稿」によれば、下屋敷のあった台地上には古墳が多数あった様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.645771/139.460052/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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佐伯屋敷(東京都多摩市) [古城めぐり(東京)]

DSC01257.JPG←延命寺の境内
 佐伯屋敷は、小田原北条氏の家臣でこの地の土豪佐伯一助道永の居館である。佐伯氏は、関戸城を守備した重臣で、この地に常時居住し、1569年に道永は奥州で討死したと言う。
 佐伯屋敷は、東に鎌倉街道が通り、北には多摩川の関戸の渡河点があり、西には関戸城が築かれた丘陵地を背負う要衝の地にあった。現在の延命寺も居館の一部であったと言う。位置的にも地勢的にも、屋敷を構えるに好適であったことが伺われるが、現在は市街化が激しく、その痕跡はほとんど見い出せない。尚、延命寺の東下には、関戸古戦場の碑が建っている。そういえば、以前に関戸古戦場を訪れた時に延命寺にも来ていたことを、行ってから思い出した。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.646486/139.450203/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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有山屋敷(東京都多摩市) [古城めぐり(東京)]

DSC01253.JPG←有山屋敷の現況
 有山屋敷は、天文~天正期(1532~92年)の武士、有山源右衛門の居館である。源右衛門は、小田原北条氏の重臣松田盛秀の元で、関戸宿の管理者を務めた。その子新右衛門の代に、故あって家名が絶えたと言う。その他の事績は不明である。
 有山屋敷は、大栗川北岸に位置し、現在の観蔵院の西側にあったと言う。国土変遷アーカイブの昭和20年代前半の航空写真では、一面の水田地帯の中に数件の屋敷があるだけの小さな集落だったようだが、現在は完全に市街化しており、全くその痕跡を残していない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.647881/139.444817/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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寺方大屋敷(東京都多摩市) [古城めぐり(東京)]

DSC01242.JPG←屋敷地付近に当たる寿徳寺
 寺方大屋敷は、歴史不明の城館である。現在、寿徳寺・山神社・観音堂が建っている丘陵地脇の谷戸には、大屋敷の地名が残っており、中世初期の土豪屋敷があったと伝えられている。
 寺方大屋敷は、この周辺の湮滅した城館には珍しく標柱が立っており、その痕跡を今に伝えている。そして標柱に記されている通り、山神社の周辺だけ丘陵が山林のまま残り、昔の多摩の景観をよく残している。尚、この丘陵地の東側には「とりで公園」という名前の小さな公園があるが、何か関係があるのだろうか?いずれにしても寺方大屋敷は、多摩ニュータウンに飲まれて消えた城館の中では、往時の雰囲気をわずかに残す数少ない城館跡である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.641516/139.441448/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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諏訪坂館(東京都多摩市) [古城めぐり(東京)]

DSC01224.JPG←諏訪坂館付近の現況
 諏訪坂館は、歴史不明の城館である。出土品から鎌倉時代の居館跡と推定されていると言う。出土しているのは大陸からの渡来物の磁器類が多く、中国銭も出土していることから、それなりの財力を持った在地豪族の居館であったことが推測される。
 諏訪坂館は、西に乞田川を控えた丘陵地西側の斜面に築かれていたが、現在は多摩ニュータウン建設による市街化で完全に破壊され、往時とはその様相は一変している。しかし乞田川沿いには鎌倉街道が通り、関戸の多摩川渡河点にも近く、かつては交通の要地であったことが伺われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.636546/139.450461/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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永島八兵衛屋敷(東京都多摩市) [古城めぐり(東京)]

DSC01218.JPG←屋敷跡付近の八幡神社
 永島八兵衛は、小田原北条氏の家臣で天正年間(1573~92年)の頃の人と言われている。「新編武蔵国風土記稿」によれば、その屋敷は落合村の字基畝にあり、付近には馬場跡もあったと言う。旧落合村の白山神社の棟札には、1618年の年号で大檀那小宮山八兵衛助為の名があるが、永島八兵衛と同一人物であろうと推測されているらしい。
 永島八兵衛屋敷は、かつては乞田川とその支流の小河川の合流点内側にあって、三方を川で囲まれた台地の先端に位置していた。しかし今では市街化によって地形も含めて変貌を遂げ、往時の面影は微塵もない。現在の乞田八幡神社付近が屋敷跡と思われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.627512/139.430012/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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中島屋敷(東京都多摩市) [古城めぐり(東京)]

DSC01182.JPG←屋敷地付近の現況
 中島屋敷は、小田原北条氏の家臣中島源右衛門某の居館である。島崎屋敷の島崎二郎と同様、1590年の小田原の役の際に八王子城で討死したと言うことのみが伝わっている。名前も伝わっていない程なので、北条氏家中でも中級の武士だったのだろう。
 中島屋敷は、島崎屋敷の東側に隣接して構えられていた様である。地勢も島崎屋敷同様、北側にゆるやかな傾斜で下る丘陵地の先端に築かれていた様だが、現在は開発によって全てが一変し、総合福祉センターが建っている。この景観を見ていると、もはや溜息しか出てこない。それにしても、島崎屋敷と並ぶように屋敷が構えられていたというのは、この辺に北条氏の中級武士の屋敷街でもあったのだろうか。ちょっと興味深い話である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.612476/139.413017/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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島崎屋敷(東京都多摩市) [古城めぐり(東京)]

DSC01190.JPG←屋敷神だったという唐木田稲荷
 島崎屋敷は、小田原北条氏の家臣島崎二郎某の居館である。島崎二郎について伝えられているのはただ一つ、1590年の小田原の役の際に八王子城に籠って戦い、討死したことだけである。名前も伝わっていない程なので、北条氏家中でも中級の武士だったのだろう。
 島崎屋敷は、北に向かってなだらかに傾斜して下る丘陵地の先端に築かれていた様だが、現在は多摩清掃工場が建てられてしまい、地形も含めて一変している。あまりの変わり果てた姿に言葉も出ないほどだ。尚、屋敷地の西方に鎮座する唐木田稲荷神社は、島崎屋敷の屋敷神であったと言う。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.612511/139.410399/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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大石信濃守屋敷(東京都八王子市) [古城めぐり(東京)]

DSC01173.JPG←空堀跡のような溝
 大石信濃守は、かつて関東管領山内上杉氏の下で武蔵守護代を務めた雄族大石氏の一族である。系図がはっきりしないが、滝山城主であった大石定久の弟宗虎と推測されているらしい。現地解説板によれば、永禄年間(1558~69年)の頃に大石信濃守宗虎が居館を構えていたと伝えられていると言う。大石氏は、両上杉氏を関東から駆逐した小田原の北条氏康に降り、氏康の次男氏照を養子として、その下に組織された滝山衆の中核となった。1590年の北条氏滅亡によって大石氏も野に下った為、その歴史には不明点が多い。
 大石信濃守屋敷は、現在の大石やかた公園背後の丘陵上にあり、かつては城山と呼ばれ、以前は土塁と空堀の跡が確認できたと言う。しかし現在は公園化と、民家の畑になっていて、遺構ははっきりしない。居館跡付近にはサルスベリと墓地があり、古い五輪塔も数基残っている。その手前に溝状のものがあるが、空堀の名残であろうか?

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.627076/139.387740/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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