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鉄砲池古戦場(岐阜県中津川市)

DSCN5978.JPG←鉄砲池と解説板
 鉄砲池古戦場は、1583年に苗木城主苗木遠山氏と金山(兼山)城主森氏との激戦地である。1582年の武田氏滅亡・織田信長横死後、織田氏配下の諸将による勢力争いが激しく行われた。翌83年、豊臣秀吉方に付いた金山城主森長可は東濃に勢力を伸ばそうと、配下の岩村城代各務兵庫を大将として遠山友忠・友政父子の拠る苗木城攻略を図った。これは法泉寺坂の戦いと呼ばれ、中でも「遠の巣」付近は両軍の最も激しい攻防が繰り広げられた。森勢はこの合戦で敗退したが、体制を整えて同年5月に再度侵攻した。この再戦で苗木城は落城したが、両軍ともに多数の戦死者が出て、多くの屍がこの池に沈められたと伝えられる。戦乱が収まった後、池の中から多数の鉄砲玉が出てきたことから、この池は「鉄砲池」と呼ばれるようになったと言う。城を攻略された友忠・友政父子は、徳川家康を頼って浜松に逃れた。

 鉄砲池古戦場は、苗木城西方の丘陵地帯の只中にある。現在は小さなため池しかないが、道路改良等で池の範囲が著しく狭められてしまったらしい。他の地域ではおそらく全く知られていない合戦だが、苗木遠山氏の命運に関わる重要な合戦であった。しかし苗木遠山氏は居城を奪われて没落したかに見えたが、徳川家康を頼ったことで運が開け、関ヶ原合戦の一連の動きの中で苗木城の奪還に成功して近世大名に返り咲き、そのうえ江戸時代を通して一度も移封とならずに若年寄まで務めるほど幕府の信任を受ける家柄となった。何がどう転ぶかわからない、歴史の不思議がここにはある。

場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.531502/137.431390/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関ヶ原合戦全史 1582-1615

関ヶ原合戦全史 1582-1615

  • 作者: 渡邊 大門
  • 出版社/メーカー: 草思社
  • 発売日: 2021/01/25
  • メディア: 単行本


タグ:古戦場
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苗木城(岐阜県中津川市) [古城めぐり(岐阜)]

DSCN5614.JPG←高森神社の砦から見た本丸
 苗木城は、岩村城主遠山氏の庶流苗木遠山氏の居城である。苗木北方の植苗木(うわなぎ)にあった広恵寺城を本拠としていた苗木遠山氏の一雲入道が、1526年に高森山頂に苗木城を築いて居城を移したと考えられている。これ以前、東濃の恵那中部は信濃の小笠原氏が占領しており、遠山一族は逼塞を余儀なくされていた。これは応仁の乱の余波であった。即ち、西軍の重鎮であった美濃守護土岐成頼の守護代斎藤妙椿が1473年3月に京都に入ると、東軍はこの美濃勢を牽制するため、信濃松尾城主小笠原家長に木曽福島の木曽家豊と共に東美濃へ出兵するよう催促した。同年11月中旬、小笠原・木曽両軍は大井城・荻之島城を攻略し、以後、天文年間(1532~55年)まで小笠原氏が恵那中部を占領していた。しかし大永~天分年間(1521~55年)頃に小笠原氏に内紛が起き、その勢力が弱わったため、遠山一族が旧領を回復する一端を担って苗木遠山氏は苗木城に本拠を移したと思われる。その後、岩村遠山氏を惣領として、明照・明知・飯羽・串原・苗木・安木の「遠山七家」が東濃の恵那郡一帯に勢力を張り、特に岩村遠山氏、明知遠山氏、苗木遠山氏は三人衆と呼ばれた。永禄年間(1558~70年)の当主直廉は織田信長の妹を娶り、信長が岐阜に入ると岩村城守護の一翼として中山道を押さえた。1570年に直廉が没すると、信長は飯羽間城主城右衛門佐友勝の子、久兵衛尉友忠に苗木城主を継がせた。友忠は、長子を飯羽間城に、次子を阿寺(明照)城に配して武田勢への押さえとした。武田信玄は、重臣で高遠城主であった秋山虎繁(信友)を東濃に侵攻させ、1572年に飯羽間城・岩村城は落城して武田方となったが、苗木城は織田方として持ちこたえた。1575年、長篠の戦いで武田勝頼が徳川・織田連合軍に大敗すると信長は反攻に転じ、信忠を大将とする2万の大軍で東濃奪還を図った。織田軍は武田軍に占拠されていた諸城を次々に奪回し、東濃一円は織田氏の支配下となった。1582年の武田氏滅亡・織田信長横死後、翌83年には友忠・友政父子は豊臣秀吉方の金山城主森長可と争った末、苗木城を放棄して徳川家康を頼って浜松に逃れた。以後、苗木城はしばらく森氏の支配下となった。1599年に森氏が信濃川中島に移封となると、苗木城は河尻直次が領有し、関治兵衛が城代となった。1600年の関ヶ原合戦の際、直次は西軍に付く気色を見せたため、家康は友政に苗木城奪還を命じ、友政は同年7月に苗木城を攻略し、そのまま家康から旧領を安堵され、10500余石を領して苗木藩を立藩した。以後、苗木遠山氏は12代に渡って苗木藩主として続き、幕末まで存続した。しかし江戸300藩中で最小の城持ち大名という小藩であったにもかかわらず、若年寄や大坂警備を任されたため、江戸時代を通して財政は常に破綻寸前であった。

 苗木城は、木曽川北岸にそびえる岩山に築かれている。同じ近世城郭として存続した岩村城と比べるとその規模は驚くほど小さいが、岩村城が県指定史跡なのに対して、こちらは国指定史跡である。そのため遺構はよく整備されている。城は、岩山の上に置かれた狭小な本丸、その周囲を巡る腰曲輪、西側下方の腰曲輪状の二の丸、北に突き出た三の丸から構成されている。いずれの曲輪も近世城郭としてはかなり小さいが、江戸時代の絵図によるとそこに所狭しと建物が建てられていたらしい。曲輪の面積が狭いため、石垣の外に柱を立てた懸造りの建物も多数あったらしい。現在でも礎石が多数残っている。北西にある駐車場から城に向かうと、まず石垣の枡形通路があり、これが竹御門跡である。そのすぐ南には足軽長屋跡の平場がある。その南の台地続きは龍王院跡で、井戸跡や石積みが残っている。その南には高森神社が祀られた小山があるが、腰曲輪を有する往時の砦跡である。ここから眺める苗木城本丸は素晴らしい。腰曲輪群の幾重もの石垣の上に本丸がそびえている。一方、前述の竹御門から散策路を進むと風吹門跡に至る。ここからが主城域である。風吹門の先が三の丸で、大矢倉の石垣がそびえている。三の丸内にも石積みが散見され、北端には北門跡、東側には駈門の枡形がある。三の丸の東には腰曲輪が張り出し、その脇を駈門から東に降る道があり、これが往時の大手道である。腰曲輪の石垣の角部にもう一つの竹門がある。三の丸の南に大門跡があり、それを抜けるとやや広めの腰曲輪があり、御朱印蔵の石垣がある。腰曲輪の西側には二の丸が奥まで広がっていて、ここに城内最多の礎石がある。ここからつづら折れに城道を登っていくと、やがて千石井戸を手前に置いた本丸石垣が眼前にそびえてくる。更に登った先がようやく本丸である。往時は大岩の上に天守があったが、現在は2階床面までの天守骨格の木組みが復元されている。この他、本丸周囲の腰曲輪にも石垣が各所に残っているが、通行禁止になっている腰曲輪もある。南端の不明門や清水門方面も立入禁止になっている。
 苗木城は小城とはいえ、多数の石垣の他、礎石も各所にあり、往時の雰囲気がそこはかとなく感じられる。
三の丸の大矢倉跡→DSCN5685.JPG
DSCN5709.JPG←駈門の枡形
二の丸の石垣→DSCN5920.JPG
DSCN5865.JPG←天守の復元木組み骨格

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.513147/137.485271/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)

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タグ:近世山城
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大井城(岐阜県恵那市) [古城めぐり(岐阜)]

DSCN5545.JPG←城趾の小学校
 大井城は、大井遠江守行秀が城主であったと推測されている。行秀は原蜂屋氏の祖定親の玄孫で、定親の弟頼貞の玄孫は美濃守護土岐持益に当たる。応仁の乱の際、西軍の重鎮であった美濃守護土岐成頼の守護代斎藤妙椿が1473年3月に京都に入ると、東軍はこの美濃勢を牽制するため、信濃松尾城主小笠原家長に木曽福島の木曽家豊と共に東美濃へ出兵するよう催促した。同年11月中旬、小笠原・木曽両軍は大井城・荻之島城を攻略したと言う。以後、天文年間(1532~55年)まで小笠原氏が恵那中部を占領したと伝えられる。但し、小笠原氏が攻略した大井城が、この城のことであったかどうかは明証はない。

 大井城は、中山道大井宿の東端にある台地上にあったらしい。現在は大井小学校の校地となり、地勢以外に明確な遺構は残っていない。ちなみに中山道は、この地から東が木曽路、西が美濃路と呼ばれ美濃・信濃両勢力の接点であったと言う。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.455191/137.416027/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編

信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/11/13
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世崖端城
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岩村城(岐阜県恵那市) [古城めぐり(岐阜)]

DSCN5003.JPG←岩村城のシンボル、六段壁の石垣
 岩村城は、東濃の有力国衆岩村遠山氏の歴代の居城である。遠山氏の祖は、源頼朝に伊豆の挙兵時より仕えてその重臣となった加藤景廉で、1185年に軍功によって遠山荘の地頭職を与えられ、その長子景朝がこの地に入部して遠山氏を称し、岩村城を築いた。以後、鎌倉・南北朝・室町時代を通して遠山氏は恵那郡全体に勢力を扶植し、東濃の一大豪族となった。戦国時代には、岩村遠山氏を惣領として、明照・明知・飯羽・串原・苗木・安木の「遠山七家」が恵那郡一帯に勢力を張り、特に岩村遠山氏、明知遠山氏、苗木遠山氏は三人衆と呼ばれた。弘治・永禄年間(1555~70年)になると、遠山氏は南信の伊那谷全域を制圧した武田信玄と、尾張から美濃へ大きく勢力を伸ばし始めた織田信長との間に挟まれることとなった。まずこの地に影響を及ぼし始めたのは東濃への進出を目論む武田氏で、岩村城主遠山景前は武田氏に誼を通じて勢力の安泰を図った。その子景任は武田・織田と両属関係となり、後には信長の叔母おつやの方を正室に迎えるなど徐々に織田方への傾斜を深めた。そして遂に遠山一族は武田氏から離反し、武田氏の攻撃を受けることとなった。1570年、高遠城主秋山虎繁(信友)が美濃に侵攻し、遠山一族と徳川氏傘下の三河衆の連合軍が恵那郡上村で迎え撃って大敗した。敗報を受けた信長は直ちに援軍を派遣し、虎繁は信濃へ撤退した。1572年8月、岩村遠山景任が嗣子なく没すると、信長は自身の5男御坊丸を遠山氏の養嗣子とし、おつやの方を後見人として東濃を支配下に置いた。同年10月、信玄は西上作戦を開始し、秋山虎繁は伊那衆を率いて岩村城を攻囲した。御坊丸の養育と城兵を助命するかわりにおつやの方が虎繁と再婚し、岩村城を開城させて虎繁が城主となった。信玄は翌73年4月、志半ばで陣没し、勝頼が後を継いだ。1574年1月、勝頼は代替わりの緒戦として東濃攻略を企図して岩村城に進出し、周辺の遠山一族の諸城を攻略しつつ明知城を囲んだ。信長は、嫡男信忠と共に鶴岡山に本陣を構えて武田勢と対峙したが、2月6日に飯羽間友信の裏切りによって明知城が落城したため、神篦城に河尻秀隆を、小里城に池田恒興を配置し、2月24日に岐阜に撤退した。1575年、長篠の戦いで武田勝頼が徳川・織田連合軍に大敗すると、信長は反攻に転じ、信忠を大将とする2万の大軍で東濃奪還を図った。織田軍は武田軍に占拠されていた諸城を次々に奪回し、半年の籠城戦の末に岩村城を攻略した。降伏した秋山虎繁以下の下伊那の将兵は、助命の約束を反故にされて惨殺され、城内にいた遠山氏の将兵も皆殺しにされ、岩村遠山氏は滅亡した。こうして東濃は完全に織田方の支配下に入り、岩村城には織田氏の部将河尻秀隆が入って、対武田の最前線の城となった。1582年3月、武田征伐を開始した信長は、明智光秀等錚々たる面々を引き連れて岩村城に着陣し、岩村城滞在中の13日頃に武田勝頼滅亡の一報を受けた。武田氏が滅亡すると、秀隆は甲斐一国を与えられて甲府に移り、岩村城は信長の寵臣森蘭丸に与えられた。しかし蘭丸は信長に近侍していたため、留守代として森氏の家老各務兵庫が在城した。同年6月に本能寺の変で織田信長と共に蘭丸も討死した後、東濃地域は羽柴秀吉に服属した美濃金山城主森長可(蘭丸の兄)の勢力下に入ることとなり、岩村城もその領国に組み込まれた。1584年、小牧・長久手の戦いで長可が討死すると、長可の末弟忠政がその後を継いだが、1599年に信濃川中島に転封となった。森氏3代の間は各務兵庫が継続して岩村城を預かった。森氏の跡には川中島から田丸具安が入ったが、翌年の関ヶ原合戦の際に石田三成の西軍に与し、戦後除封された。1601年大給松平家乗が2万石で入封し、近世岩村藩が成立した。以後、丹羽氏・松平(大給石川)氏が藩主となり、幕末まで存続した。

 岩村城は、標高720mの城山に築かれている。中世の根古屋式山城の遺構をベースに、近世の石垣技術を上乗せしたような城となっている。県の史跡に指定されており、主要部の遺構は山麓から山頂までよく整備されている。北西麓の台地上には藩主邸(御殿)跡の広大な平場があり、現在は片隅に岩村歴史資料館が建っている他、太鼓櫓、表御門、平重門などが復元されている。そこから山上の本丸まで大手道が伸び、大手道沿いに主要な曲輪群と城門が構築されている。初門・一之門を抜けて進むと、両側に石垣のある平場群が現れる。これらの平場群の北西にも曲輪群が展開している。これらを登った先に枡形を形成する土岐門があり、ここで登城路は大きく右に旋回する。その先に大堀切があり、往時は畳橋というL字型の木橋が架かっていた。その先には石垣で囲まれた曲輪がそびえており、追手門と三重櫓の跡がある。更に進むと、緩傾斜地に広い屋敷地跡の曲輪群が登城路両側に広がっており、霧ヶ井などの井戸跡や、八幡神社が鎮座した八幡曲輪がある。それらの上にあるのが城の中心部である。城の中心部はほぼ総石垣となっており、長方形の本丸を山頂に置き、北に二ノ丸、東に東曲輪、またこれらの外周には帯曲輪を廻らしている。更に帯曲輪の外側には南に南曲輪、南西に出丸を築いている。本丸の北東部には、岩村城のシンボルでもある六段壁と呼ばれる石垣がある。二ノ丸は山林に覆われているが、内部に四角い大穴があり、穴の中心に石垣で囲まれた方形の壇がある。庭園か何かの跡であろうか?二ノ丸は東西2段に分かれていて、上段曲輪の東辺中央に石垣の虎口が形成されている。下段曲輪の北東部には菱櫓があったらしい。これらが中心的な遺構であるが、周囲に派生する尾根には中世山城そのままの段曲輪群が築かれ、堀切や物見曲輪も山林内に残っている。これらの支尾根曲輪群の中では、南曲輪と出丸の先の曲輪群は堀切まできれいに整備されている。
 さすがは有名な城だけあって、遺構群はいずれも素晴らしく、見応えがある。各所には解説板も設置されていて、往時の形態も想像しやすい。城だけでなく、城下町にも古い町並みの風情が残り、町家も含めて探訪すべき貴重な遺産である。
土岐門の枡形→DSCN4843.JPG
DSCN4907.JPG←中段の屋敷地曲輪群
南曲輪の支尾根の土橋・堀切→DSCN5029.JPG
DSCN5083.JPG←出丸の支尾根の堀切
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.359840/137.451292/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東海の名城を歩く 岐阜編

東海の名城を歩く 岐阜編

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2019/11/15
  • メディア: 単行本


タグ:近世山城
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馬籠城(岐阜県中津川市) [古城めぐり(岐阜)]

DSCN4663.JPG←城址の丘陵の現況
 馬籠城は、馬籠丸山城とも言い、木曽氏の支城として戦国末期の戦いの舞台となった。創築時期は不明だが、室町後期には東濃の国人領主岩村遠山氏の一族馬籠遠山氏の所領であり、遠山氏によって築かれていた。戦国中期に甲斐の武田信玄が信濃に侵攻して木曽義昌が武田氏に降ると、東濃にも武田氏の勢威が及ぶようになった。永禄・元亀年間(1558~73年)には岩村氏の勢力圏は、西から勢力を拡大した織田信長と、東の武田信玄との接壌地帯となった。遠山氏が織田方になると、1572年に信玄は重臣の秋山信友を東濃に侵攻させて岩村遠山氏を降し、1574年には武田勝頼が東濃に侵攻して遠山18支城を攻略したとされる。この時馬籠城も武田氏の支配下に入った。1582年に武田氏が滅亡し、その3ヶ月後に信長も本能寺で横死すると、北条・徳川・上杉による武田遺領争奪戦「天正壬午の乱」が生起し、信濃木曽谷を支配する木曽義昌は紆余曲折を経て徳川家康に与し、馬籠城は木曽氏の支配下となった。1584年3月、小牧・長久手の戦いが生起し、濃尾平野を挟んで豊臣秀吉と織田信雄・徳川家康連合軍が対峙した。この時義昌は徳川氏から離反して豊臣方に付き、秀吉は信濃の徳川勢の進路を塞ぐため、義昌に木曽路防衛を命じた。義昌は、妻籠城に重臣の山村良勝を、馬籠城に島崎重通(文豪島崎藤村の祖先)を入れて守らせた。同年9月、家康は飯田城将菅沼定利・高遠城将保科正直・諏訪高島城将諏訪頼忠らに木曽攻略を命じた。徳川勢は妻籠城を攻撃するとともに、一軍を割いて馬籠城攻撃に向かわせた。馬籠城攻撃の徳川勢は馬籠宿の北に陣所を構えた。重通は大軍襲来に恐れをなし、夜陰に紛れて妻籠城へと逃れた。結局徳川勢は妻籠城攻略に失敗して敗退し、小牧・長久手の戦いも秀吉の政治工作によって講和が成立した。後に家康が秀吉に服従すると、秀吉は信濃諸将の管轄を家康に一任し、木曽氏は再び徳川傘下となった。1590年、徳川氏が関東に移封となると、木曽氏は下総網戸に移された。1600年の関ヶ原の戦いで徳川氏が覇権を握ると、木曽は徳川氏の直轄領となった。1615年、木曽は尾張徳川藩の領地となり、馬籠城は廃城となった。

 馬籠城は、馬籠宿南西の緩傾斜地にある小さな独立丘陵に築かれている。旧中山道沿いには城の解説板が立っている。主郭があったと思われる丘陵頂部は竹林になっているが、削平が甘く、ほとんど地山のままの様である。その南西には広い平場と堀切状の農道、また西側には腰曲輪らしい平場郡が見られるが、耕地化されているのでどこまで往時の形態を留めているのか、よくわからない。結局、遺構を見る限り大規模な普請は行われなかった模様で、小規模な砦であった様だ。この程度の城砦では、島崎氏が戦わずして脱出するのも無理からぬところである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.521932/137.561735/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東海の名城を歩く 岐阜編

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  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2019/11/15
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タグ:中世平山城
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三留野家範居館(長野県南木曽町) [古城めぐり(長野)]

DSCN4431.JPG←館跡伝承地の等覚寺
 三留野左京亮家範は、木曽氏14代左京大輔家方(家賢)の2子で、飛騨路を防ぐために家範を三留野の地に分封し、居館を置いたとされる。三留野の地名は「御殿(みどの)」に由来するとされ、家範の居館があったことからそう尊称されたと言う。

 三留野家範居館には、2つの伝承地があるが、『信濃の山城と館』では小林俊彦氏の説に従って等覚寺境内を居館跡としている。遺構は全く残っていないが、東の山上には三留野東山城があり、居館と詰城の関係を考えるともっともらしく思える。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.607025/137.613341/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


続日本100名城に行こう 公式スタンプ帳つき

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  • 作者: 公益財団法人 日本城郭協会
  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
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タグ:居館
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与川古典庵館(長野県南木曽町) [古城めぐり(長野)]

DSCN4404.JPG←眺望に優れた丸山
 与川古典庵館は、木曽氏の庶流三留野氏の家臣小川野氏の居館である。小川野氏の祖・次郎左衛門は三留野左京亮家範に仕え、三留野氏係累の俊範を迎えて住僧とした。1584年、妻籠城の戦いの際、軍学にも優れていた与川俊範は、与川村の郷民を率いて妻籠城に籠城する木曽勢の救援に赴き、徳川勢を撃退したと言う。尚、木曽左京大輔家方(家賢)の4子右馬之助家益が野路里(野尻)に分封され、その支裔が小川野氏であるとも言う。しかし木曽氏の歴史はよくわからないものが多く、三留野家範は戦国時代以前の武士であり、家範に仕えた次郎左衛門が迎えた俊範が戦国末期に活躍したというのは時代的に合わず、前述の所伝には疑問がある。

 与川古典庵館は、与川北岸の丘陵上に築かれている。丘陵上はグラウンドとなって削平され、その南端部に丸山という細長い小山がある。小山の上には古典庵の石碑や与川俊範の供養塔、良寛の歌碑などが建っている。この地は江戸時代、観月の名所で木曽八景に数えられており、眺望に優れた地勢である。古典庵が建っていたのは、グラウンドの北部であったらしいが、前述のようにグラウンドとなって削られ、往時の形態は失われている。
古典庵跡地の現況→DSCN4392.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.635020/137.642384/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲信の戦国史:武田氏と山の民の興亡 (地域から見た戦国150年)

甲信の戦国史:武田氏と山の民の興亡 (地域から見た戦国150年)

  • 作者: 笹本正治
  • 出版社/メーカー: ミネルヴァ書房
  • 発売日: 2016/05/30
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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和村城(長野県大桑村) [古城めぐり(長野)]

DSCN4320.JPG←主郭北側の堀切
 和村城は、歴史不詳の城である。木曽川北岸の段丘辺縁部にあるが、川を挟んで南には木曽氏の拠点須原城・定勝寺館があり、それらと関連する城であることが推測されている。

 和村城は、木曽川に大沢が流れ込む合流点の北東岸に築かれている。ほぼ単郭の城で、先端に主郭が置かれ、東に段状に腰曲輪群が築かれ、主郭の北には堀切を挟んで土塁が伸びている。主郭は、現在はただの空き地となっている。二ノ郭もあったとされるが、耕地化で改変され失われているようである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.698022/137.684602/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


城館調査ハンドブック

城館調査ハンドブック

  • 作者: 千田 嘉博
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA(新人物往来社)
  • 発売日: 1993/10/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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古畑伯耆守重家屋敷(長野県木曽町) [古城めぐり(長野)]

DSCN4298.JPG←大手の石垣
 古畑伯耆守重家屋敷は、木曽氏の庶流でその家臣であった古畑氏の居館である。古畑氏は木曽家村の3男黒川三郎家景の後裔で、代々黒川に住し、馬場氏と共に黒川口の守りに当たったと伝えられる。重家は戦国後期の当主で、木曽義康・義昌2代に仕えた。1560年、飛騨の三木氏が木曽に侵攻すると、重家は奈川口を守てこれを敗走させた。この戦功により「五貫文山」と呼ばれる山を賜り、江戸時代に木曽を統治した尾張藩が木曽住民に私有林を許さなかった中にあって、この山だけは古畑氏子孫に私有を認めていたと言う。

 古畑伯耆守重家屋敷は、木曽福島宿から開田高原に通じる街道沿いにある。現在は国道361号線が通っているが、かつては黒川沿いに飛騨街道の旧道があったらしく、屋敷はこの飛騨街道に面している。現在屋敷跡地は畑となっているが、飛騨街道に面して大手虎口が開かれ、その両側に石垣が残っている。また屋敷地の南北両辺にも段差が残っている。大手門には、門跡の礎石も残っている。どこまでが中世の遺構なのか、どこからが近世の遺構なのかははっきりしないが、石垣と門跡が残っているのは素晴らしい。
門跡の礎石→DSCN4312.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.876228/137.674870/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3)

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  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2016/08/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
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女沼古戦場(埼玉県熊谷市) [その他の史跡巡り]

DSCN4053.JPG←古戦場の標柱付近
 女沼の戦いは、南北朝時代に第2次畿内遠征を敢行した鎮守府大将軍北畠顕家と、足利義詮を奉じた上杉憲顕・高重茂らの鎌倉府の軍勢の戦いである。『太平記』第19巻によれば、1337年8月、義良親王を奉じて霊山城を出立した顕家率いる奥州軍が下野国に入ると、この報を聞いた鎌倉府の上杉憲顕らは武蔵・相模の軍勢を率いて出陣し、利根川に防衛線を敷いた。両軍は12月13日に時雨で増水した利根川を挟んで対峙した。この時、源平合戦の加賀篠原の戦いで名高い斎藤別当実盛の後裔・斎藤別当実長は、「敵より先に渡河した方が勝つ」と顕家に進言して先陣を許された。しかし実長が打立つのを見た閉伊十郎・高木三郎はいつも先陣を争っていた者達だったので、実長を出し抜いて先に渡河しようと、利根川に馬を打ち入れた。これを見た実長は、「このままみすみす渡河させては、どうして高名を立てることができよう」と舎弟実季(太平記では実季は「豊後次郎」と記載される)と共に腹を立て、3町ほど上流を2騎で渡ろうとした。しかし実長・実季兄弟は、逆巻く激流に馬ごと飲まれて帰らぬ人となったと言う。これを見た武士達は、「さすがは鬢髭を染めて討死した実盛の末裔だ」と感嘆したと言う。これを機に両軍は川中に討ち入って戦い、結局顕家軍が勝利した。この後16日に、顕家軍は武蔵国安保原でも鎌倉府軍を撃破し、義詮を三浦半島へ追いやり、関東執事斯波家長を討ち取って23日に鎌倉を占領した。

 女沼の戦いは、『太平記』には「戸祢川(利根川のこと)」とだけ書かれていて、具体的な場所は書かれていない。標柱が立っているが民家近くの畑に標柱が立っているので、何か根拠があるのだろう。河川改修で周囲の景観は変わっているが、近くの妻沼聖天山やその周辺には斎藤塚など斎藤氏に所縁のある史跡がある。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.227286/139.387579/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


太平記(三) (岩波文庫)

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  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2015/04/17
  • メディア: 文庫


タグ:古戦場
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細谷館(群馬県邑楽町) [古城めぐり(群馬)]

DSCN4030.JPG←東の堀跡
 細谷館は、新田義貞の一族細谷右馬助秀国の居館である。新田氏5代政氏の長子国氏が新田荘細谷に分封されて細谷氏初代となり、その孫が秀国である。新田宗家は国氏の弟基氏が継ぎ、基氏の孫が南北朝史に名高い新田義貞である。1335年に足利尊氏が後醍醐天皇の建武政権から離反すると、義貞は尊氏に代わる武家の総帥として後醍醐から取り立てられて各地を転戦したが、秀国も義貞に従って転戦した。1336年の足利勢の京都制圧後、越前に逃れて足利方の部将斯波高経と越前で戦っていた義貞は、1338年に灯明寺畷で討死した。統領義貞の死で新田軍は劣勢となり、秀国は再起を図って海路西の丹後国府中に逃れ、籠神社の社家海部氏を頼った。1347年に上野国に戻り、旧知の佐貫氏の支配地、邑楽郡佐貫庄篠塚の坪谷に館を築いて寓居した。これが細谷館である。館の鬼門には丹後府中の籠神社から勧進した。これが現在残る籠宮稲荷神社である。秀国の子勝直が跡を継いだ。時代は下って戦国後期の1570年、小泉城主富岡氏の軍勢の中に細谷右馬助義重・同与一郎の名が見える。1575年に義重が没すると、その子義長が跡を継ぎ、富岡氏の客将となり、小田原の北条氏直に属した。1590年に北条氏が滅亡すると、義長はこの地で帰農した。

 細谷館は、県道152号線の坪谷交差点の北西にある。現在館跡は民家の敷地となっているので内部探索はできないが、北・東・南の三方に堀跡が残っている。西の堀は耕地化で埋められてしまっている。遺構としてはそれだけであるが、中世土豪の屋敷の雰囲気を残している。
 尚、館跡の南方170mには、細谷秀国の墓所五位堂があり、その脇に細谷氏の墓所が残っている。五位堂の名は、秀国の位階によるものとも言われる。
五位堂と細谷氏墓所→DSCN4051.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.240561/139.442350/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


新田一族の中世 歴史文化ライブラリー

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  • 作者: 田中大喜
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2021/11/01
  • メディア: Kindle版


タグ:居館
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早川田氏館(群馬県館林市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN3979.JPG←館跡の雲龍寺
 早川田氏は、佐川田氏、佐河田氏などとも呼ばれ、高階氏の一族であったとされるがその事績はよくわからない。

 早川田氏館は、現在の雲龍寺の位置にあった。渡良瀬川の北岸に当たるが、この付近だけ県境が渡良瀬川の北岸に張り出しており、明治以降に河川改修によって川の流路が変えられたものと推測される。寺の本堂背後に竹が生えた土盛りがあるが、遺構かどうかは判断できない。尚、雲龍寺は足尾鉱毒事件の闘士、田中正造にゆかり深い寺で、正造の墓があり、正造を祀った救現堂も建っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.278367/139.552717/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

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タグ:居館
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青柳城(群馬県館林市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN3972.JPG←堀跡のような水路
 青柳城は、後に館林城を居城とした赤井氏の初期の居城であったとされる。館林周辺は佐貫庄と呼ばれ、室町時代には佐貫氏庶流の舞木氏が支配し、赤井氏はその被官であった。永享の乱の最中、舞木持広の寄騎の侍として赤井若狭守の名が見える。しかし室町後期には下剋上で赤井氏が佐貫庄を掌握したらしい。この頃の赤井氏居城が青柳城であったと伝えられる。赤井氏は後に館林城を築いて居城を移したが、その時期は明確ではない。以前は戦国中期頃に館林城に移ったとされていたが、それ以前の享徳の乱の最中の1471年に山内上杉氏の重臣長尾氏が赤井氏の拠る立林(館林)城を攻略したという記録が残っており、戦国時代より前に既に館林城があったことが判明している。また赤井氏の館林城以前の居城としては大袋城とも言われており、青柳城との関係は不明である。

 青柳城は、龍積寺付近の平地に築かれていたらしい。現在寺の北側を水路が流れているが、城のどこかの部分の堀跡である可能性がある。しかしそれ以外は宅地化などで改変されており、明確な遺構もなく、どのような縄張りの城だったのかも皆目わからない。残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.222370/139.517741/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


名将言行録 現代語訳 (講談社学術文庫)

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  • 出版社/メーカー: 講談社
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タグ:中世平城
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白旗城(群馬県館林市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN3817.JPG←薮の中に残る堀跡
 白旗城は、享徳の乱の激戦・羽継原合戦の際に、関東管領上杉房顕方の岩松氏が、古河公方足利成氏の羽附陣屋に対して布陣した城と伝えられる。

 白旗城は、鶴生田川南岸の微高地に築かれている。この微高地は白旗山と呼ばれ、付近には馬場、首洗堰等の地名が残るという。現在城跡は激しい薮の林となり、周囲は宅地や団地となっている。川沿いの道を進むと、微高地に北から伸びる1本の堀跡が残り、その東には土塁が築かれている。辛うじて確認できるのはここまでで、後は激しい薮に阻まれて確認できない。いずれにしても一時的な陣城と思われ、大規模な城ではなかっただろう。それにしても対峙した羽附陣屋とはわずか700m程しか離れておらず、川を挟んでいるとはいえ、あまりに近すぎるのがちょっと気になる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.236719/139.573874/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図説 享徳の乱

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  • 作者: 黒田基樹
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  • 発売日: 2021/03/11
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タグ:陣城
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山鹿城(福岡県芦屋町) [古城めぐり(福岡)]

DSCN3646.JPG←三ノ郭から見た主郭
 山鹿城は、当初は藤原秀郷流山鹿氏、鎌倉時代以降は宇都宮氏流の山鹿麻生氏の歴代の居城であった。伝承では、天慶年間(938~47年)に鎮西奉行となった藤原秀郷の弟藤原藤次によって築城され、藤次は山鹿氏を称したと伝えられる。以後山鹿氏代々の居城となり、平安末期の城主山鹿兵藤次秀遠は、治承・寿永の内乱(いわゆる源平合戦)の際に平家方に付き、1183年に幼帝安徳天皇を奉じて西国に落ちてきた平氏一門を城に迎えた。しかし源氏方の緒方三郎惟義の軍勢が迫ると聞き、平氏一門は城を離れた。結局秀遠は平家と運命をともにし、滅亡した。鎌倉時代になると、下野宇都宮氏の一族宇都宮左衛門尉家政(宇都宮氏3代朝綱の子)が山鹿秀遠の旧領を与えられて入部し、山鹿氏、後に麻生氏を称した。室町・戦国期には、大友氏・大内氏・毛利氏らに従った。1587年、豊臣秀吉の九州平定により、麻生上総介元重は筑後の小早川隆景の配下とされ、筑後に移り、山鹿城は廃城となった。

 山鹿城は、遠賀川の河口に近い標高40mの城山に築かれている。城山は公園化されているので盛夏でも遺構が確認できるが、改変が見られるのは仕方のないところである。中央に主郭を置き、南北に曲輪を配置している。北に長く伸びるのが三ノ郭で、南の腰曲輪状のものが二ノ郭である。江戸時代の絵図を見ると、二ノ郭は南から主郭西までL字型に主郭を囲んでいた様だが、西の平場は現在では崩落等によって小道ぐらいの幅しか残っていない。三ノ郭の北西と東には腰曲輪がある他、先端部下方にも段状に曲輪群が置かれている。この他、南の尾根鞍部を挟んだ南の高台に出丸が築かれていて、2つの神社の祠が祀られている。以上が山鹿城の遺構で、簡素な構造の小城砦であり、戦国末期にどれほど重視されていたのかは疑問に感じる。
出丸→DSCN3630.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/33.897073/130.669649/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


九州の名城を歩く 福岡編

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  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2023/03/20
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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本城城(福岡県北九州市) [古城めぐり(福岡)]

DSCN3611.JPG←高台にある蛭子神社
 本城城は、蛭子谷(えびすだに)城とも言い、治承・寿永の内乱(いわゆる源平合戦)の際、源頼朝の命で東国武士団を率いて平家追討のため九州まで下向した源範頼は、ここに城郭を構えて本陣を置き、平家方の原田種直と戦ったと伝えられる。また範頼は、壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した後、敗戦処理のためしばらくこの城に滞在したと伝えられる。

 本城城は、鵜巣池の南西にある丘陵上に築かれていた。現在丘陵上は、本城霊園という広大な墓地に変貌し、明確な遺構は残っていない。霊園の中心付近の十字路脇に城の解説板が立ち、その脇の高台には蛭子神社が祀られている。もしかしたら、城の櫓台だったかもしれないが、周囲は改変され尽くしており、どのような城だったのか、想像することも難しい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/33.881523/130.721372/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


治承・寿永の内乱と平氏 (敗者の日本史 5)

治承・寿永の内乱と平氏 (敗者の日本史 5)

  • 作者: 元木 泰雄
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2013/03/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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