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栃木県内初の障子堀遺構 鹿沼城跡発掘調査説明会(栃木県鹿沼市) [城郭よもやま話]

DSCN9154.JPG←発掘された障子堀
(写真クリックで拡大)
 新型コロナによる規制がまだ続いている中であったが、昨日6月7日、鹿沼城址の一角で発掘調査説明会があった。今回発掘されたのは、鹿沼城東麓の鹿沼市役所敷地内の南西部で、新庁舎建設工事のため、緊急発掘調査が行われたものである。
 今回の調査区は鹿沼城東麓の、江戸時代の古絵図にある三ノ丸の外周部で、大きな沼(現在は消滅)から南に水堀が伸びた部分に相当すると考えられている。

 今回この場所で、栃木県内では初となる障子堀の遺構が確認された。今回確認された限りでは、堀幅約9m、深さ2m弱であるが、堀の上半が近代に削平されているため、元の規模は幅12m以上、深さ4m以上あったと推測されると言う。おそらく、戦国末期に壬生氏が小田原北条氏に従属し、客将板橋将監が派遣されるなど、宇都宮氏との対抗上、北条氏との紐帯を強めていた時期に築かれたものだろう。宇都宮氏のバックには常陸の佐竹氏がおり、佐竹・宇都宮連合を支援していたのは豊臣秀吉であり、このことが小田原の役の導火線となった。今回発見された障子堀は、まさにこうした歴史の生き証人であったと思われる。
 非常に貴重な遺構であるが、残念ながらこの後は新庁舎建設で破壊されてしまう。なんとも残念なことである。

 尚、今回の調査で、多くの漆塗り椀が発掘され、その中には壬生氏の家紋「三つ巴」が描かれた椀も何点も発掘されている。これも非常に貴重である。

 とにかく北条氏の勢力圏の最北に当たる鹿沼で、障子堀が発見された意義は大きい。戦国末期に同じく北条氏に従属した佐野氏や、北条氏に駆逐されて領国を奪われた小山氏などの勢力圏の城でも、今後障子堀の発見事例が出てくるかもしれない。
発掘された漆塗り椀→DSCN9157.JPG

タグ:発掘説明会
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城ノ内遺跡発掘調査説明会2019(栃木県上三川町) [城郭よもやま話]

IMG_9736.JPG←今回発掘された大溝
 昨夏の7月21日に、多功城に程近い城ノ内遺跡において、発掘調査説明会が開催された。説明をしていただいた調査員の方から発掘現場の写真をブログなどに載せないように話があったため(最近は調査現場から遺物の盗難等があるらしく、それを防ぐための処置らしいです)、これまで掲載を控えていたが、そろそろ時効になったと思うので、ここに掲載する。

 城ノ内遺跡は、2018年の発掘調査で奈良・平安時代の遺構の他に、多功城に関連すると推測される中世の堀状の溝3条が見つかっている。今回は前年の遺構の延長上に何があるかが確認された。奈良・平安時代の遺構では、3棟の掘立柱建物跡や柱穴列が見つかった。石帯と呼ばれる役人などの身分を示すベルト飾りも見つかっている。
 肝心の中世の遺構では、前年に見つかった3条の堀状遺構の内、最も規模の大きな真ん中の大溝の延長線が確認された。前年の溝は一直線に伸びていただけだったが、今回発掘された西側では、大溝は直角に南に曲がり、更に一直線ではなくわずかな折れ歪が設けられていた。今回の調査区域では、そのまま南南西に伸びて終わっており、大溝の全容はまだ確認できていない。溝の大きさは幅5m、深さ2m程で、中から発見された土器から15~6世紀の遺構と推測されている。ただ溝は、掘ったそばから水が湧き出して来るということで、堀底まで確認することはできていないとのこと。いずれにしても、溝が多功城の堀跡であるとすれば、江戸時代の古絵図のどの部分に当たるのか、今後の検討課題であるとのこと。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.428672/139.871342/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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宮城県の中世城郭の謎 [城郭よもやま話]

宮城県は、全国でも有数の中世城郭の密集地帯である。
それは、宮城県遺跡地図を眺めているとよくわかるが、
平地を取り巻く丘陵地や山地の至る所に城あるいは楯(館)が築かれている。
その中には、歴史不詳、城主不明のものも多い。
というか、不明のものがほとんどだろう。

先日、そうした城のいくつかに行ってみた。
ネットには勿論、『日本城郭大系』にも情報がほとんど無く、
従って縄張りの詳細も、実際に行ってみないとわからない。
ただ、国土地理院地形図の傾斜量図やアプリのスーパー地形で、
明確な遺構があるかどうかは事前に把握できるので、
遺構がしっかりしていそうなものを選んで行ったのである。
(事前に城郭遺構の良し悪しがわかるなんて、便利な時代になったものだ!)

踏査したところ、あまりにもしっかりした臨戦的な遺構が残っているのでビックリした。
各地の城でよくありがちなのは、
城があったという伝承はあるが、実際に行ってみるとほとんど遺構が確認できないとか、
あってもわずかな小城砦だったりする。
しかし私が行った宮城県の城は、遺構が良く残っているだけでなく、
二重堀切あり、横矢掛かりのクランクあり、しっかりした竪堀ありの、
立派な普請がされたバリバリの中世城郭だったりするのである。
しかもそれが狭い地域に密集して存在しているのである。

今回私が行った地域は大崎氏の勢力圏で、
一部の城には城主として大崎氏家臣の名も伝わっているが、
大崎氏に臣従しただけの「一土豪」が築くには城の規模が大き過ぎる。
かといって、戦国大名としては脆弱だった大崎氏に
これだけの数と規模の城を築く勢威があったのであろうか?
城の歴史が伝わっていないということは、
付近で行われた合戦時の臨時築城の可能性もあるが、
そんなに大軍勢が四六時中、戦闘を行っていた地域なのだろうか?

確かに大崎氏は、足利一門の中でも最高の家格とされた斯波氏の一族で、
「御所」と呼ばれるほどの権威を有した奥州探題の名家であった。
しかし戦国時代には伊達氏の風下に置かれたことからもわかる通り、
その権力構造はそれほど強固なものではなかったはずで、
このような密度と規模で城郭群を築けるようには思えない。

宮城県の中世城郭群は、行けば行くほど謎が深まるばかりである。
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【速報】山形で新たな山城を発見しました [城郭よもやま話]

つい先日、山形の山城巡りに行ってきました。
その中で、金山町で未発見だった山城を発見しました!

詳細は後日レポートしますが(記事の順番からすると多分半年ぐらい先ですが・・・)、
主郭背後には二重堀切があります。
それより驚いたのは、主郭の両翼(南北)の斜面に
おびただしい数の畝状竪堀がびっしりと築かれていたことです。
南面はざっと数えて24本もの竪堀が穿たれていました。
山形県内では、トップクラスの数です。

山形はもうすぐ雪で閉ざされてしまいますので、
興味のある方は早めに行ってみてご確認ください。

尚、登山道はありませんが、比高60m程の里山なので、
取り付きやすい南東の斜面から直登するのが手っ取り早いです。

(仮称)荒屋楯
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.882181/140.329292/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0

IMG_4875.JPG←荒屋楯の畝状竪堀
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城ノ内遺跡発掘調査説明会2018(栃木県上三川町) [城郭よもやま話]

IMG_9103.JPG←発掘された2条の溝(外堀か?)
 もう5ヶ月も前のことになるが、7月1日に上三川町多功地区の城ノ内遺跡で、発掘調査説明会があった。すっかりブログに書くのを忘れていたので、今更ながらだがここに記載しておく。城ノ内遺跡は、縄文時代~近世(江戸時代)に跨る複合遺跡で、多功城に関係する遺構も含まれる。ここは城をメインにしたブログなので、中世多功城に関係する遺構についてのみ取り上げる。

 城ノ内遺跡で発掘された中世の遺構は、溝(堀)3条・土坑・地下式坑(竪穴から横に掘り広げて地下室とした施設)・井戸・柱穴などである。溝は、一番内側(多功城に近い側)はごく一部が発掘されただけなので、はっきりとした形状がわからず、寺の墓地の区画溝の可能性もあるという説明だった。一方、残りの2条は平行に長く一直線に伸びた堀跡で、内側のものは上幅3m程、その外に幅3m程の帯曲輪らしい平坦面があり、更に外側に上幅わずか1m程の堀(というより溝)が確認された。多功城の古い絵図と照合すると、多功城の外堀南西部に当たるのではないかとのことであった。形状はおそらく箱薬研堀と思われるが、1mも掘ると水が湧き出してくる地質で、底まで掘れなかった為、深さは確認できていないとの説明であった。井戸跡は数ヶ所確認されており、今でも清水が湧き出してくるとのこと。この後、城ノ内遺跡は調整池となってしまう様なので、大きく土取りされて遺構は消滅してしまうらしい(今はもう工事が行われて無くなっているかも)。ただでさえ遺構がかなり少なくなっている多功城の、往時の姿を残す貴重な遺跡だが、失われてしまうのは残念である。
今でも水を湛える井戸跡→IMG_9083.JPG

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.428802/139.872007/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


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西山館が破壊されました [城郭よもやま話]

IMG_4230.JPG
↑禿山になった西山館

伊達政宗が本陣を敷いたと伝えられる冥護山館の隣にある、
伊達成実の陣城と伝えられる西山館。
昨日行ったところ、山林伐採で破壊を受けていた。

昨秋、冥護山館を訪城した時、隣の西山館にも行こうとしたところ、
館の南の車道の北側で大々的に重機を入れて材木伐採していたので、
西山館まで破壊を受けるのではないかと危惧していたが、
1年後にリベンジで再訪したところ、
案の定、城内まで重機が入って破壊を受けていた。

雑木や薮が根こそぎ伐採されたので、見晴らしは良くなったが、
主郭まで重機が入り、曲輪内は蹂躙されていた。
主郭は、南の土塁・堀切は原型を留めているが、
北の堀切は跡形もなく破壊されていた。
枡形虎口もあったらしいが、既に失われていた。
ただ、辛うじて主郭の腰曲輪は残っていた。

南のニノ郭は幸い伐採だけで済んでおり(かなり荒いやり方だが)、
曲輪の破壊は免れていたが、南の横堀などは重機に荒らされた後だった。
しかし土塁が僅かに残っていて、横堀の名残を残していた。

間伐など、山林を維持しながら材木伐採するのはいいが、
この様に地山を破壊し、樹木を根こそぎ切って禿山の様してしまうやり方は、
林業として正しいやり方なのだろうか?
金儲けのために、自然を乱雑に破壊しているだけに見えてならない。

山を守る林がなくなってしまったので、
豪雨などで土砂が流出し、辛うじて残った遺構も数年で失われてしまうだろう。
残念でならない。

丸森町にメールを入れようかとも思ったが、
宮城県の遺跡地図を見たら、西山館は埋蔵文化財と認識されておらず、
これでは破壊されるのも仕方ないと、諦めざるを得なかった。
重機で破壊された主郭↓
IMG_4258.JPG

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阿津賀志山防塁 発掘調査説明会 [城郭よもやま話]

IMG_5131.JPG←発掘された薬研堀(外堀)
今月3日に、宮城遠征での目的地、馬牛楯に行く途中、国道4号線でたまたま阿津賀志山防塁を通りかかったところ、人が集まっていて説明会をやっているようだったので、急遽予定を変更して説明会に参加した。今回は第19次の調査である。内容としては、奥州合戦という一戦の為だけに作られた防塁という性格上、ある短期間にだけ存在した土塁と堀に遺構が限定される。

今回の発掘現場は4号線のすぐ脇で、厚樫山の山麓に当たる。以下、解説員の方の話。発掘された二重堀では、外堀が深い薬研堀であったのに対して、内堀(平泉側)は箱堀形状であったことが確認されている。今回の調査でどちらの堀も岩盤まで掘られていることが確認され、相当な規模の動員をかけて構築された防塁であることが実証された。これほどはっきりと堀の構造が検出されたのは今回が初めてらしい。堀に溜まった土砂の状況によれば、自然に埋まった形跡が見られ、どうも頼朝は奥州合戦後も防塁はそのまま残していたらしいことが判明したと言う。また外堀には犬走りの段(解説員は「テラス」と称していた)があるが、柵列は検出されていないこと、またこれまで調査された他の箇所ではこのような犬走りが見られていないことから、はっきりとは判断できないものの後世の耕地化による改変の可能性があるということだった。土塁は、掘った土砂を盛って高さを増しているが、版築までは行われていないとのこと。急造の防塁だからであろうか?

これまでに数回、各地で行われたこのような発掘調査説明会に参加したが、首都圏から遠くはなれているせいもあるのか、参加者数が少なく閑散としていたのは少々残念だったが、貴重な説明会にたまたま参加できたのは、非常に幸運だった。
タグ:発掘説明会
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静岡の城 [城郭よもやま話]

 月日が経つのは早いもので、冬は瞬く間に過ぎ去り、関東では桜も咲き終わって、今は新緑が日に日にその色を深めている。

 この冬は、静岡の城を集中的に見て回った。昨冬の伊豆の城巡りに続いて、今季は駿河・遠江まで足を伸ばした。

 駿河・遠江の城を東から訪ねて行くと、最初は北条・武田の接壌地帯。その先は、今川の城を武田が改修した城が続き、更に西に行くと、武田が制圧し改修した城を徳川が西から順に攻略して行った城となる。まさに甲斐武田の勢力拡張から衰退・滅亡までの道のりを、地で見る城歩きであった。

 それにしても驚いたのは、静岡には武田が大改修した規模の大きな城がとても多い。国指定史跡にもなっている諏訪原城などは良い例であるが、それ以外にも山岳地帯から海岸線に至るまで、県内各地にその爪痕を残している。駿河・遠江を武田が支配したのはわずか14年間に過ぎない。その間にこれだけの城を普請するのは、並大抵の労役負担ではなく、いかに武田が領内に暴政を敷いていたかを城の遺構が如実に物語っている。城は素晴らしいが、それゆえに国内は疲弊し、民心は離反し、その領国は勝頼の代になって瞬く間に崩壊してしまったのである。世間では、戦に強く、領国を東西南北にと拡げていった武田信玄の人気が相変わらず高いが、私が信玄をあまり評価しない理由はその領国経営の稚劣さにあり、その点が民心を掴んで高度な統治体制を敷いていた北条とは一線を画しているのである。

 さて、静岡と言えば、海の県というイメージが強いが、県内の城を隅々まで訪ねると、実は山岳も多い県であることがよくわかる。何しろ南アルプスの一部が県内に掛かっているし、遠江の大河天竜川を遡っていけば、信濃に達するのである。かつて西上戦の折、武田信玄はまさにこのルートを使って遠江から三河へと進軍したのである。

 ところで静岡の城は、どんなマイナーな山城に行っても綺麗に登山道が整備され、案内標識や解説板・標柱が立っている。静岡には「静岡古城研究会」という老舗の研究会があって、その啓蒙活動が素晴らしく行き届いているのだろう。おかげで、標柱も何もない城の方が数が少ないほどである。この点は、私の住んでいる栃木県などは大いに見習うべきだろう。

 それにしても、静岡といえば茶どころであるが、こんな山上にまで茶畑があるの?と思うぐらい、山の上にまで茶畑を作っている。そして多くの山城が、今は茶畑に変貌している。茶畑の裏の尾根には、堀切が隠れていたりすることも多い。ただ、やはり後継者不足か、耕作放棄地が非常に多い。そのため茶の木が伸び放題となり、茶葉の薮に変貌している例にも少なからず遭遇した。このままでは国内で大量に消費されている茶葉も、いつまで安定的に確保できるものか、将来に不安を感じざるを得ない。政治の無策に心が暗くなる。

 そんな、いろんなことを感じながら、時には新鮮な海の幸に舌鼓を打ちながら巡った、楽しい城歩きであった。
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小田原城御用米曲輪 発掘調査説明会 [城郭よもやま話]

DSC07295.JPG←発掘された中世の石組み水路
2月16日に、かねてより進められている小田原城御用米曲輪の第4次調査の説明会があった。
肌寒く、時折小雨のぱらつく中で行われた説明会だが、さすが小田原北条氏の本城であり、有名な城の発掘調査だけあって、先日の滝の城現説とは比べものにならないくらい多くの人が来場していた。

今回発掘されたのは、中世の遺構で庭園と礎石建物跡。近世の遺構では蔵跡3棟である。
解説員の方の話では、発掘調査の結果、御用米曲輪は中世と近世でかなり構造が作り替えられていることが判明してきたそうだ。

中世の遺構として発見された庭園跡では、石組みの水路などが多数発見された。
石組みの一部は、黒い風祭石と黄色い鎌倉石の切石による石組み遺構で、特に鎌倉石を使った中世遺構は他に例がないそうだ。小田原北条氏2代氏綱は、伊勢氏を北条氏に改称し、鶴ヶ岡八幡宮を再興するなど、鎌倉執権北条氏の後を襲って関東に君臨する大義名分を整えていく中で、鎌倉石をも城に取り込んだものではないかと推測しているらしい。
また石の一部は、五輪塔の火輪のみを選択的に水路石に利用しているが理由は現時点では不明とのこと。
一部で中世の堀が見つかったが、江戸時代の土塁の下に潜っている。そのことから、土塁は江戸時代に入ってから新しく積まれたことが判明した。
石組み水路は離れた2箇所で検出されたが、繋がっていれば70mに及び、これまで発見された遺構としては最長となる。水路には、中央に溝を切った方形の石版も見つかったが、各所の研究者に照会してもあまり例がなく用途は不明と言う。
去年の発掘で戦国時代の畝堀から石垣が見つかったとしたが、今回の追加調査で畝堀を庭園水路に転用し、その時石垣を積んだらしいことが判明した。庭園近くにはそれを眺める建物遺構のある可能性があり、今後発掘を計画中と言う。

江戸時代の蔵遺構は全部で6棟。
その中で、最新の6号棟が最も残りが悪く、北側半分は湮滅していた様だ。
5号棟は、中央に仕切り石敷きがあり、間仕切り壁が入っていた構造と考えられる。5号棟は敷石がやや大きいが、4号棟はやや小さく、割石なども使用し雑な感じの造りと言う。土塁上に建てられていた3棟とも基礎施工方式が異なっているそうで、原因は不明とのこと。
この他、御用米曲輪は周囲を土塁で囲まれていたので、雨水を排出する経路があったはずだが、曲輪内の排水流路も現在では不明。今後の解明が待たれると言う。

以上の様な感じで、盛りだくさんの内容で素晴らしい説明会だった。今後、中世の書院跡でも見つかるかもと思うと、更なる期待に胸が踊る。
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滝の城発掘調査説明会 [城郭よもやま話]

DSC04951.JPG←三ノ郭の謎の大穴
こちらは以前の大穴部の状況→DSC01523.JPG
  (前回訪城時の2009年当時)

昨日(2/2)、滝の城の発掘調査説明会が開催された。滝の城といえば、小田原北条氏の滝山衆の頭領にして、下野・常陸方面軍の軍事指揮官北条氏照公の持ち城。これは、北条ファンとしてはなんとも見逃せない一大イベント!ということで、満を持して参加した。

以前に初めて滝の城を訪れたのは草木の生い茂る盛夏であったが、今回は真冬ということで、藪もなく遺構の状況が非常にわかりやすい。

参加したのは10時の回で、A・B2班に分かれて説明を聴く。

最初に滝の城の概要説明。
滝の城は、元々関東管領山内上杉氏の重臣大石氏が、敵対する扇谷上杉氏の重臣太田氏の3城(河越城江戸城岩付城)に備えて築いた境目の城を、河越夜戦を制した小田原北条氏が接収。外郭の外堀(現在は宅地部)からは北条氏に関連が深い畝堀が検出されているので、北条氏時代に外郭が新たに作られたと考えられている。北条氏時代は城主はなく、清戸の村衆(半農半武士)の輪番制だったらしい。

続いて本題の発掘調査結果。今回発掘されたのは、馬出しと三ノ郭である。

まず馬出しは、主郭との間に架けられていたはずの四脚門の馬出し側の橋脚部の発掘を狙ったが、人工的な加工の跡は検出されたものの、橋の存在は確定できなかったそうだ。馬出しから外殻部に繋がる土橋部分には、石敷きが検出され、虎口の存在が明確になった。この虎口からは炭化材(要するに「炭」)の破片も検出されており、戦闘によって門が焼け落ちた可能性が高い。

次の三ノ郭では、郭内北側に窪みがあったため掘り下げたところ、深さ4m以上の大穴の存在が判明したそうだ。どんどん掘り下げていったがまだ底まで到達しておらず、井戸跡かどうかの確証はまだないとのこと。三ノ郭は、周りを中堀で囲まれた独立区画になっているので、北条氏が得意とした籠城戦の際には水便が悪いなど不具合があって、新たに井戸を掘った可能性も考えられると言う。

この他では、以前の発掘調査結果の紹介があり、二ノ郭の北半分からは建物跡が検出されなかったとか、土塁の内側の造成がやや粗く、急拵えの印象が強いことから、ニノ郭は新たに造られた新しい曲輪であった可能性が出てきたらしい。主郭とニノ郭の間の内堀は、大石氏時代には一繋がりの傾斜した曲輪だったものを、北条氏時代に内堀を新たに掘って区画した可能性もある様だ。

また、馬出しからニノ郭を経ず、直接木橋で主郭に繋ぐ構造は、防御面上は不利となる。滝の城が北条氏の版図に完全に組み込まれ安定した時代に、北条氏照が北関東遠征の折の、軍の休憩所として使用した際に、主郭に行きやすいように改修したなどの可能性が考えられるそうだ。

発掘調査内容としては、県史跡という予算の制約のせいか、それほど大規模なものではなかったが、継続的に発掘が続けられ、遺構の全容が解明されていくことは素晴らしい。いずれは内堀も発掘するそうなので、更なる発見に期待したい。
DSC05006.JPG←馬出し虎口の石敷き遺構
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中世5大山城って? [城郭よもやま話]

昨夜、能登七尾城について書いたが、
この城、中世5大山城の一つとされている。

中世5大山城とは、
・春日山城(上杉謙信の居城)
七尾城
小谷城(近江浅井氏の居城)
観音寺城(近江六角氏の居城)
月山富田城(出雲尼子氏の居城)
とされている。(人によっては、小谷城を外して八王子城を入れるらしい)

だけど、このラインナップ、誰がどうゆう根拠で決めたんだろう?
それは中世5大山城に限らない。
だいたい城の場合、「◯大☓城」ってよく聞くが、
納得いく場合もあるけど、「え~っ?」って思うことも多い。

中世5大山城もそう。
多気山城だって唐沢山城だって金山城だって、全体の城域は相当にでかい。
なんでこれらが入らないのか、不思議に思うぐらいである。

やっぱりこういうのは、人や世間が言ってるのをそのまま鵜呑みにするんじゃなくて、
「自分の◯大☓城」っていうのを心のなかに持っていると、
とっても面白いと思う。

個人的に、苦労して登ったり、思いも掛けずに、壮大な遺構群に出くわしたときの、
感動の城に勝るものはないと思うなぁ・・・。
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石神井城 主郭特別公開 [城郭よもやま話]

DSC06173.JPG←主郭内から見た南側土塁
 今週、東京文化財ウィーク2010が開催されており、例年の通り石神井城の主郭が特別公開された。そして今日は、発掘成果の解説会があったので参加してきた。

 まず始めに石神井城の歴史の説明。一通りは知っている内容だったが、道灌が豊島氏の城で最初に攻めたのは、平塚城ではなく練馬城とする説もあるとのことであった。また、通説とされている経緯は、全て道灌側の資料に拠るらしい。豊島氏時代以降に再利用されなかった為、戦国期以前の城がそのまま残った貴重な遺構である。

 次に城の概要の説明。主郭のかなり東にあるふるさと文化館周辺でも溝などの遺構が発見されているそうで、外城に当たるらしい。道灌が「外城を攻め取った」と記録にあるのは、この辺の可能性があるとのこと。ここから推定すると、石神井城も他の大型中世城郭と同様、外城・中の城・主郭の3段階構造になっていたらしい。

 そしていよいよ遺構の説明。主郭西側に残る土塁は、現在は2.5mの高さしかないが、往時の推定高さは5m程と言う。版築で黒土と赤土を交互にして粘り気を出し強度を増した為、500年の風雪にも耐えて、これだけの高さが残っている。又、空堀は深さ6mの箱掘で、発掘調査前の想定は深さ3m程度だったが、想像以上に深かったそうだ。堀底から土塁の頂上までの高さは合計10m以上に及び、しかも調査の結果堀の塁壁角度は60~70度とかなり急で、とても登れなかったろうと思われる。そして堀幅は12mあったが、主郭土塁上から堀外まで約22mあり、中世の矢の殺傷距離が20mと言われるので、それを考えて堀幅を決めたらしいとのこと。

 空堀は発掘調査の結果、道灌が石神井城を破却した際、堀を3m程埋めたらしい。ただ差し引き3mの深さは残っていたわけで、堀の機能を全て殺したわけでなく、いざと言うときには使えるようにしたようだ。地表から2m程下は江戸時代に相当し(その深さから寛永通宝が発見されたことが根拠とのこと)、踏み固められているので、江戸時代には堀底は道路として使われていたらしい。

 最後に主郭であるが、江戸時代以降、牧場や大学の寮として使っていたらしい。周囲を土塁で囲われ、平坦地だったので好都合だった様だ。東隣の民家(この地の名主さん)が西に敷地を広げ、主郭東端を削ったそうである。そのため主郭東側の土塁や空堀は湮滅している。主郭内部には大型の建物は見つかっておらず、掘立建物しかなかった様だ。主郭内からは中国製の輸入陶磁器(青磁など)の破片が出てきたそうで、15世紀頃のものと考えられ、祭祀用のようなものが多かったと言う。高級製品を買えるだけの財力を持った豪族の城の証左の様だ。

 その他では、西の外郭の堀は、発掘調査できないのでレーダー探査で推定したが、年代までは確定できていないと言う。

 さて主郭の遺構であるが、主郭西側と南側に土塁が残り、三宝寺池に望む北側にも北西部にのみ土塁が残存している。元々は北側全てに土塁があり、後に湧水に侵食されて湮滅したのかもしれない。土塁の北西角は最も高くなっていて、櫓台が築かれていた様である。西側の土塁は高さ2~3mもある重厚なものであるが、南側の土塁は西側よりも低く幅も狭い。こちらの中央部付近は窪んでいて、虎口があったものと思われる。この南側はかつての堀底を改変した車道で、かつては木橋でこの堀を渡って二ノ郭に連結していたと考えられる。

 以上のような感じで、普段は公開されていない貴重な遺構が見れただけでなく、興味深い内容を聴くことができた貴重な機会が持てた。ただ全体に藪がひどく、南西側の空堀や土塁など、写真を撮ってもただの藪にしか見えない。特別公開期間だけでも、もう少し整備してもらえるとありがたい。
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岡本城第2次発掘説明会 [城郭よもやま話]

昨日(9/19)、宇都宮市北東の岡本城(市指定史跡)で発掘説明会があった。
今回は、新聞報道もされていたが、
「貼石」とされる石の遺構が主郭虎口内側に発見された。

2年前に来た岡本城であるが、
以前は冬でもがさ藪がひどくて遺構を見るのが大変だったが、
今回は見違えるように藪が取り払われていて、
遺構の状況が非常によくわかった。

まず最初に城の歴史と概要の説明があった。
もとは岡本氏の居城であったが、南北朝期までその事跡が見られるが、その後事跡は絶え、
いつの頃からか玉生氏が岡本郷を賜って入部した。
これが諸説あって確定できないが、1462年に玉生信濃守綱重が築いたとする説もある。
玉生氏は、元々玉生城が本拠であったが、
宇都野城など何度か本拠を移して岡本城に入ったらしい。
岡本城も、城のある台地下の低地(城の北側)の中に「元宿」という地域があり、
ここに岡本刑部館があったという伝承があるそうで、
初期には城がなく、平地に居館を築いていた可能性もあるらしい。
(なんとその地区には「お城稲荷」と言ういわくありげな社まであるとか)
したがって岡本城が築かれたのは、玉生氏入部後かもしれない。
岡本城入部後の玉生氏は、笠間城と岡本城の間を行ったり来たりしていたらしい。
ちなみに、合併前の旧河内町の2~3代前の町長の玉生さんは、御子孫であるそうだ。

肝心の城であるが、まず集合場所の公民館横の畑が、周囲より一段窪んでいる。
聞いたところドンピシャで、三ノ堀の跡だそうである。
DSC05231.JPG←三ノ堀跡

その後、二ノ堀の発掘現場を回ってから、主郭へ。
今回2班に別れて回ったが、城歩きの上級者向けグループはこちら、
と言う声に迷わずそっちのグループに付いたので、
「蛇が出るかもしれません」と言う主郭堀底などにも案内してもらえた。
藪や倒木が取り払われて、深さ5m程の薬研掘と横矢掛りが見事な姿を現していた。

次に虎口から主郭へ。
この虎口には土橋が架かっているが、これは後世のもので、
往時は木橋が架けられていたそうである。
虎口西側の土塁は、内側も傾斜がきつく切り立っているが、
これは土橋を作るときなどに後世切り崩されたものとのこと。

虎口東側に今回新たに発見された貼石遺構がある。
石垣・石積みの類ではなく、装飾目的と見られるというが、
ほかに類例がなく、はっきりした目的は分からないらしい。
こうした貼石遺構は、どうも全国で唯一この城だけで発見されているものらしい。
新発見の貼石遺構→DSC05275.JPG

虎口周辺には小石が多数あり、
おそらく通路を石で敷き詰めていたと思われるとのこと。

この後、主郭内を巡ったが、主郭内にはわずかに溝状に窪んだ地形が巡っており、
発掘調査の結果、往時の溝であることが確認された。
溝は2本あり、内側の溝は城の改修の際に埋め戻されているようだ。
DSC05305.JPG

今回、主郭内も藪が整備されたおかげで、
主郭外縁部近くを曲輪を仕切るように溝が走っているのがわかり、
何の為のものか興味を引く。
同様な溝は、下野市の箕輪城にもあった。
建物の排水側溝だったのかもしれない。

また虎口東側の土塁のすぐ内側に柱穴が発見され、
ここに建物があったそうである。
土塁のすぐ際で場所が不自然であることから、
最初は土塁がもっと小さく、建物が建てられていたものを、
土塁を大型化したときに建物を取り払ったと見られるという。

主殿とされる建物跡はまだ発掘されていないそうなので、
これからの発掘調査が待たれるところである。

この後、帰り際に民家脇に四ノ堀跡も見つけることができた。
ちょうどこの位置で道が屈曲しており、
食違い虎口でもあったのだろう。
四ノ堀跡と道の屈曲→DSC05377.JPG


畑だったり家屋が建ったりしていて、
前回訪城した時は歩き回るのがはばかられた為にあまり確認することができなかった部分も、
今回は大手を振って歩くことができたので、
個人的に再発見した遺構もあり、なかなか興味深い説明会だった。
このように中世城郭跡を整備してくれるのは非常にうれしいことである。
宇都宮市、がんばれ!
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大鳥井柵の謎 [城郭よもやま話]

数日前の朝日新聞に
「山城の出現、200年遡る 11世紀の秋田・大鳥井山遺跡」という記事が出た。
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201003020150.html

後三年の役の際の山城跡から、本格的な防御構造が発見されたというのである。
発見された土器などの遺物からすると、城が使われたのは10世紀~11世紀と推定され、
室町・戦国期には使われた形跡は無いということである。

これは、いくつもの城を巡り歩いて城の発展の経緯に自分なりの見解を持ってきた自分にとって、
なかなかショッキングな話である。
横堀程度なら、南北朝期の山城でも見ることがあるので別段驚かないが、
畝状竪堀まであるというのはどう捉えたらいいのだろうか?

もしこれが本当に後三年の役の際の遺構というのならば、
その後、長く埋もれてしまった築城技術ということになる。
周辺地域に築かれた鎌倉時代以前の古い城の形態を調べれば、
その真偽は明らかになるのだろう。

同時期の城塞の内、この城だけに畝状竪堀が見られるとするならば、
極めて特異なことであり、後三年の役の頃の遺構とはにわかには信じ難いことである。

より多くの城での考究が待たれるところである。
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なぜ城巡りをするのか? ② [城郭よもやま話]

(昨夜のの続き。)

その後、転勤で北陸に行くことになった。
北陸といえば、そう!
新田義貞が斯波高経と戦った場所がいっぱいあるじゃん!

で、最初に行ったのは、越前金ヶ崎城
激しい籠城戦が行われ、兵糧が尽きて最後は馬を殺して食い、
死者の肉まで食って戦ったという凄惨な戦場。
それから、叡山から北陸に落ちた新田軍が多くの凍死者を出した木の芽峠
(実はここには、後世、一向宗によって城砦が築かれた。)

そういう場所に行くには、どんな道を通って行くかなど、
下調べがいる。
それでネットで調べてみると、
なんとまぁ、世の中には好きな人が多いんですねー。
城巡りしてる人のサイトがいっぱいヒットして・・・。

こんな感じで始まった城巡り。
今でも、「その場所に立つと、当時の人の考えてたことがわかるような気がする」
という考えは変わらない。
それどころか、ますます強くなっている。

だから、私は城自体が目的というよりも、
当時の歴史を追いかけて城に行っている。
城巡りをしている人の動機には色々あると思うけど、
私のはそんな感じなんです。
(別に、違う動機の人を排撃してるわけではないですよ。念のため。)


・・・。
なんで急にこんな話を書き出したかというと、
ちょっと過去の城巡りの記録も、月一ぐらいの頻度で書いてみようかなー、
なんて思ったりしたので、
最初に行った城はどこだったかなー、と写真を探して眺めていたら、
こんなことを書きたくなってしまったわけです。

というわけで、お約束はできませんが、
毎月1つずつぐらい、過去の城巡りを書いてみたいと思います。
(今行ってる城だって、UPが追いついてないのに、どうすんだー?
 と叫ぶもう一人の自分もいますが。)
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なぜ城巡りをするのか? ① [城郭よもやま話]

友人などとの話の中で、城が好きだというと、
「城の何がそんなに面白いの?」とよく訊かれる。
多分城好きの人には、そういう経験が多いだろう。

私は城が好きだが、元から城好きだったわけではない。
山城の存在すら10年前までは知らなかった。
城に行くようになったのには、大きなきっかけがあった。

確か2000年ぐらいのことだったと思うが、
クルマで京都方面まで一人で旅したことがある。
目的は、「南北朝史跡巡り」。
私は大の南北朝フリークなのだ。

なんでこんなマイナーな時代が好きかといえば、
歴史の動きが戦国期とは比べ物にならないぐらい
ダイナミックだからだ。
大軍勢が、鎌倉から京都、九州、東北と全国規模で大移動する時代!

例えば、足利尊氏の足跡を追うだけでも途方もないことになる。
鎌倉から東海道を西上して京都に入り、京都から丹波、そこで旗揚げ。
また京都、それから東下して鎌倉、また京都、
兵庫から一気に九州へ落ち延び、福岡から再起して兵庫経由で京都。
・・・なんていう感じである。(しかもこれがたった3年間の話)

新田義貞だって、群馬の人なのに死んだのは福井だったり。
弟の脇屋義助なんか、死んだの四国だし。
それに較べれば戦国史なんてみんな局地戦ばっかりだもんね。

で、「南北朝史跡巡り」で周ったのは、
近江の蓮花寺とか、篠村八幡とか、岩清水八幡。
名和長年戦死地とか、四条畷古戦場。

そんな中で、城巡りのきっかけになったのが千早城だった。
吉川英治の私本太平記でも詳しく書かれる楠木正成の千早城攻防戦であるが、
実際に行ってみれば、なるほどとうなずける。
峻険な山上に築かれているうえ、麓の平地は山間部なので狭く、
大軍の展開はほとんどできない地形。
確かに鎌倉幕府が数万の軍勢を送っても、
ただ遊兵となるだけだったろう。

また正成の意図もよくわかる。
赤坂城は、かなり里に近い城だったが、
これは急遽挙兵した為、準備不足だったからだろう。
だからすぐに攻め落とされてしまった。
しかし千早城は違う。
最初から幕府の大軍を相手に長期の籠城戦を行うつもりで築いた城。
だから赤坂城よりはるかに奥地の狭隘な地形に作られた。

その場所に立てば、当時そこにいた人が何を考えていたのか、
わかる気がする。
それがこの時の旅でわかったのである。

    ・・・ちょっと長くなってしまったので、続きは後日
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塩沢城に登った理由 [城郭よもやま話]

昨日ブログアップした塩沢城。
登ったのは、3月中旬のことである。
遺構のはっきりしない城ということはあらかじめわかっていたので、
本来だったら登る手間を掛けるほどの城ではなかったのだが、
ある理由があって、この城に登った。

それは、昨年11月に長野の山城巡りで痛めた膝の具合を、
長野に行く前に確認するためであった。

この冬集中的に回った埼玉の城は、
山城といっても比高たかだか200m程度。
比高300~400m級の山城ひしめく長野とは
身体的負担がまったく異なる。
そこへいくと塩沢城は、比高300mを越え、
事前テストには申し分ない。

無事塩沢城を踏破でき膝の完治が確認できたので、
(ラオウ風にいえば「傷は癒えた!」)
いよいよ次は長野の山城である。(このあとアップ)

最初の目標は、武田が攻め落とした村上義清の狐落城。
この冬の目標3つの内の最後のものだ。

杉山城問題について [城郭よもやま話]

 杉山城のところでちょっと述べたが、歴史家の間では「杉山城問題」なるものが存在する。これはその緻密で高度な縄張から小田原北条氏による築城とされていたものが、城内から発見されたカワラケ等の遺物からするとそれ以前の関東管領山内上杉氏による築城であると推定され、しかもその後使われた形跡が見当たらないと言うものである。このギャップが縄張研究者と考古学者の間で論争の種になっているのである。

 しかしこの問題、私の見解ではそれほど困難な問題ではない様に思う。それは、小田原北条氏が新興勢力であったことを考慮すれば簡単に説明できるのではないかと考えるからである。

 北条氏勃興期の関東では何と言っても大勢力は鎌倉公方(後の古河公方)、関東管領山内上杉氏、そしてその同族扇谷上杉氏の三者である。この三者は足利尊氏が室町幕府を開いて以来、関東に君臨した屈指の勢力で、およそ200年にわたって関東の動乱の歴史を主導してきたのである。対する北条は、室町幕府の将軍に直属する奉公衆の一つとはいえ、関東に何らの地盤も持たない伊勢宗瑞(北条早雲)が、いきなり関東に殴りこんで築き上げたまったくの新参者であった。現代でたとえてみれば、片や旧財閥系大企業、片やベンチャー企業である。どちらに優秀な技術者が多いかといえば、旧勢力の方であるのは自明であろう。いつ潰れるかわからない新勢力に自ら志願する技術者は極めて少なかったろう。旧勢力には最先端技術を持つ技術者集団が備わっていたのである。北条氏は、その旧勢力を蚕食しつつ、それらの技術者集団を取り込んでいったのであろう。

 つまり北条氏は、杉山城はじめとする城郭を築いた優れた築城術を持った技術集団を、版図を広げると共に自らの勢力に取り込み、更に進んだ築城技術を創造していったのだろう。それは天神山城など、旧勢力の城を北条氏が改修した跡が明確な城を見るとよくわかるのである。従って、杉山城を山内上杉氏の築城とすることに何の矛盾も存在しないと考えている。

復元宇都宮城について [城郭よもやま話]

20090104160045.jpg
宇都宮城は、戊辰戦争で激しい戦闘のため灰燼に帰し、
その後の富国強兵と文明開化という名の乱開発政策によって遺構の大半は消滅、
さらに太平洋戦争後には、わずかに残った堀などの遺構もつぶされてしまい、
完全に遺構は消滅、幻の名城となってしまった。

その宇都宮城が、数年前に本丸の一部である土塁と水堀と櫓が復元されたのは、
御存知の方も多いと思う。

ところがその復元たるや、
櫓こそ形状は残された資料を基に検討され、木造で復元されたが、
なんと土塁は鉄筋コンクリートで構築した上に土をかぶせただけ。

したがって城好きの方の間ではすこぶる不評で、
私自身、宇都宮市民の恥だと思っていたほどである。

ところが、今月の宇都宮市の広報誌を見て、
自分の不明を思い知らされた。

というのは、どうも現在の建築基準法では、
新たに作った土塁上には櫓などの建築物を建てられないという事情があったらしいのだ。

たしかに復元土塁の上に櫓や天守を復元した事例は聞いたことがない。
(そんな事例を御存知の方がいればご教示を請う。
 でも建築確認申請なんて、その地域の所管土木事務所の見解で変わってしまうので、
 宇都宮で適用できるとは限らない。
 あっ今は土木事務所じゃなくて市役所か。)

またどうしても硬い安定した土塁の上に櫓を復元したいと思ったとしても、
かつての工法である版築で硬い土塁を築こうと思ったら、
かなりの時間とお金をかけざるを得ないだろうし、
できる職人はほとんどいないだろう。
職人がいないということは、工事を受注する業者がいないということである。
工事が受注してもらえなければ、復元もクソもない。
工事が全然始められないのである。

そんな事情も知らず、「宇都宮市民の恥」とは誠に失礼しました。
復元に携わった宇都宮市役所の関係者の方にお詫びします。

そんなわけで、城好きの皆さんも復元宇都宮城のコンクリート土塁は
大目に見てくださいね。

↓宇都宮市の広報誌、36ページに記載があります。
http://www.city.utsunomiya.tochigi.jp/koho/kohoutsunomiya/011260.html

小田城発掘説明会 [城郭よもやま話]

DSC09064.JPG←発掘された障子堀(上端部のみ)
12月6日(土)に小田城の現地発掘説明会があるというので、行ってきた。
城跡の現地説明会に出るのは今回がはじめてである。
参加者は、若い人は意外に少なく年配の方が多かった。
さて肝心の発掘報告であるが、興味深い内容が多い。

まず、ほとんどまっ平らに近い小田城だが、
かつてあった土塁がかなり削平されて崩されていることがわかった。
特に調査対象となった本丸は全周を土塁が囲み、
南西の虎口には石垣まであったという。
土塁を削った土砂は堀を埋めるのに使われたのだろう。
堀は深いところで4mほどと推定されるとのこと。かなり深い。

次に、本丸はおよそ4回にもわたって、整備拡充されてきたらしいこと。
南北朝の頃はただの真四角な曲輪だったのが、
周囲を防御する土塁が作られ、更に堀に張り出す櫓台が構築され、
戦国末期にはかなりの防御性を持っていたようだ。

最後にこれが一番の話題であるが、
本丸北側の堀から、見事な障子掘が発見されたこと。
予備調査の時点で、どうもあるらしいとは言われていたが、
今回初めてその威容の一端を現したという。
今回の発掘では畝の上端部までしか掘っておらず、
そこから下の部分は掘り下げていない。
四角く掘られた中で畝が見つかった部分を白いテープで表示していた。(冒頭写真)

障子掘と言えば、小田原北条氏の高度な築城技術として有名だが、
小田城は一時期小田原北条氏の勢力下に入っていたことがあるので、
その時期に整備されたものかもしれない。
騎西城といい小田城といい、縄張りの技術顧問のような人物が北条氏の中にいて、
小田原から派遣されたのだろうか?

今後、10年をかけて立派な城址公園にする計画らしいが、
山中城の様に見事な障子掘の見られる素晴らしい城址公園にしてもらえるとうれしいのだが、
現説の話だと損傷や破壊を防ぐため、これ以上深く堀を掘ることはしないという。

多気山城の破壊について [城郭よもやま話]

 宇都宮の多気山城の項で書いたが、非常に貴重な山城遺構の中に無造作に重機を乗り入れて、森林を乱伐採した大バカがいる。貴重な虎口遺構などが損壊を受けていて許せないことである。その状況があまりにひどいので(本当に涙が出そうなぐらい・・・)、宇都宮市の教育委員会事務局 文化課に遺構破壊を知らせ、対処をお願いするメールを出した。
 数日すると、市の文化課から返信が来た。以下、全文を掲載する。

**************************************************************************************************************
 時下ますますご清栄のこととお慶び申し上げます。
 多気城の件につきましては,お知らせいただき厚く御礼申し上げます。
 お知らせを受けて現地を踏査いたしましたところ,ご指摘のとおり,林業用作
業路と思われる土木工事が多気山の南斜面から西斜面にかけて確認されました。

 本件工事を実施した事業者に対しては,埋蔵文化財保護制度に関する指導を行
うとともに,今回の工事の経緯・内容に関して聴取し,その結果に基づき改めて
指導を行う予定です。
 また,当課職員が再度現地に赴き,工事範囲内に所在する遺構がどの程度影響
を受けたかについて確認いたします。
 今後とも本市文化財保護について,ご理解ご協力を賜りますようお願い申し上
げます。
                                    
    宇都宮市文化課文化財保護グループ

*************************************************************************************************************
 さんざん宇都宮城の遺構を破壊した挙句、最近になってコンクリート製の訳のわからない土塁を作ったりしている宇都宮市なので、反応が無いのではないかとあまり期待していなかったが、とりあえず優等生的回答が来たのでちょっとホッとした。多気山は私有地もあるようだし、市の行政指導がどこまで実効性を持つかわからないところもあるが、とりあえずは善しとするべきだろう。
 皆さんも、城歩きで乱開発による遺構破壊を見つけたら、とりあえず行政当局に連絡しましょう。但し、市町村の文化財として認識されている城でないと対応は期待できないと思いますが。
 それにしても、日本人の郷土意識の喪失が叫ばれて既に久しいが、もっとみんな郷土の文化財を大切にしよう。それは道路建設などより遥かに重要なことである。いったん失ったものは二度と取り戻せないのだから・・・。

  破壊の状況→DSC00447.JPG
DSC00503.JPG

能登沖地震発生。七尾城は大丈夫かなぁ・・・。 [城郭よもやま話]

 今朝、能登半島で大きい地震があったようだ。石川県は地震が少ないので、皆さぞかしびっくりしただろう。以前に2年ほど金沢に住んでいたことがあったが、ホントに地震は少なかった。関東とはえらい違いだった。北陸3県の中でも、石川が最も過去の大型地震が少なく、しかも能登や富山の方と金沢の方とは、どうも地盤が違うようだ。それというのも新潟地震の際には、富山・能登方面は結構揺れたのに、金沢の方はほとんど影響がなかったからだ。今回も、地震波が金沢に到達するまでに、だいぶ減衰しているように思える。震度4だからね。
 ところで能登といえば、能登の入口の七尾に中世切っての名城がある。いわずと知れた(?)七尾城である。中世5大山城の一つとして知られるこの城は、以前行った時、麓から山頂まで小一時間かかったと思うが、山頂間近まできて山道の視界が開けると、目の前に飛び込んできたのは数々の石垣群だった。堀切・竪堀などの防御施設はほとんどないが、重厚な石垣群によってかなりの防御性能を持っていたと思われる。あの石垣群が今回の地震で崩れていなければ良いが・・・。
  かつての七尾城…


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