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引田城(香川県東かがわ市) [古城めぐり(香川)]

DSC00377.JPG←東の郭に残存する石垣
 引田城は、引田港の北岸に瀬戸内海へ半島状に突き出た城山山頂に築かれた山城である。城の起源は古く、天智天皇の時代667年に古代山城である屋島城築城の際に阿倍比羅夫率いる引田氏によって築かれたとも、また屋島城との連絡の為に出来た狼煙台が起源とも言われている。戦国期の引田城主は初め寒川元家の麾下四宮右近で、阿波三好氏が数十艘の兵船で引田浦に押し寄せた際、引田城に拠ってこれを押し返した。その後三好氏の勢力が伸びると、引田城もその支配下に入った。戦国末期になって土佐の長宗我部元親が四国全土の併呑を企図して讃岐に侵攻すると、勝瑞城を逐われて虎丸城に入った十河存保は豊臣秀吉に援軍を求めた。秀吉は仙石秀久を引田城に入れたが、1584年、秀久は長宗我部軍に引田表で敗れ、引田城は落城した。しかし秀吉が柴田勝家を破って天下の権を握ると元親もこれに屈し、本領の土佐以外を没収され、讃岐には秀久が入部し、引田城は再び十河存保のものとなった。その後、九州征伐で存保は戦死し、秀久は咎めを受けて除封された。1587年に生駒親正が讃岐に入封して引田城に入ったが、東に偏するということで聖通寺城に移り、最終的には元和の一国一城令によって引田城は廃城となった。

 引田城は、瀬戸内海の海原を望む標高86mの山上に築かれている。麓の登城口から長いハイキングコースが伸びていて、狼煙台跡と言われる小さな平坦地を経由して、美しい紺碧の海を眼下に望みながら進むと、西の郭に達する。ここには石垣が残るが、後年改変されているらしい。西の郭以外には南の郭・北の郭・東の郭があるが、曲輪間を分断する堀切などの明確な遺構は確認できない。また北の郭の裏に高石垣が残るが、それ以外は石垣が一部残るもののほとんど崩壊している。何でも引田港の護岸工事にかなりの石材が搬出されたようである。また南の郭と東の郭の間の谷間には、水の手を兼ねたと思われる化粧池跡が残り、築堤や石塁が散見される。引田城跡には灯台なども建設されているので、どこまで旧状を残しているのか不明な点もあるが、堀切・竪堀などの防御構造がほとんどなく、中心的な曲輪もはっきりせず求心性の乏しい縄張りに感じられる。四国の戦国時代の終わりを告げる戦国末期の山城として考えると、ちょっと残念な遺構である。
北の郭裏の高石垣→DSC00409.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.234370/134.410568/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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丸亀城(香川県丸亀市) [古城めぐり(香川)]

DSC00285.JPG←幾重にも重なる石垣の塁線
 丸亀城は、丸亀市街中心部に程近い標高約70mの亀山に築かれた平山城である。1597年に生駒親正によって築城された。この頃の丸亀城は生駒氏の居城高松城の支城であり、嫡子一正が主として丸亀城に在城して、西讃岐の統治に当たったようである。その後、元和の一国一城令で一旦は廃城となったが、1640年に生駒氏が改易になり、翌年山崎家治が西讃岐に転封となって丸亀城を再興した。現在残る壮大な石垣は、この時に名築城家として知られた家治によって築かれたものとされている。1657年に城が完成を見ないまま山崎家が無嗣断絶になると、翌年京極高和が入部し、以後京極家代々の居城となって幕末まで存続した。尚、京極家とは、南北朝動乱期に北近江の守護を務めた婆沙羅大名佐々木道誉の後裔で、室町幕府で三管四職に名を連ねた名家である。

 丸亀城は、現存12天守の一つで、山上の本丸に小さな天守が残る名城である。山上には本丸・二ノ丸・三ノ丸が置かれ、全体としては渦郭式の縄張りとなっている。各曲輪の隅には櫓台が設けられ、周囲を幾重にも取り巻く石垣は巧みに横矢を掛けて防御を固めている。丸亀城は、なんといっても山上を幾重にも取り巻く石垣が素晴らしく、石垣はどこを見ても惚れ惚れするような「扇の勾配」と呼ばれる反りを持った美しいものである。しかもいずれもが高石垣で、反りを持ちながら幾重にも重なる塁線は見事である。一方、亀山の麓の平地も御殿などが置かれた曲輪として取り込まれており、その周囲を内堀が囲んでいる。大手は北側に開かれ、近世城郭らしい見事な内枡形の石垣が残っている。大手門の狭間には太平の世の城らしく、戸袋付きの引き戸が付いている。丸亀城の石垣は、笑い積みと呼ばれる珍しい積み方がされていて、大きな石の周囲を小さな石で取り囲んだ形になっている。

 丸亀城と言うと、どうしても壮大な石垣群に目が行きがちであるが、南面の搦め手の内堀は土塁で構築されており、東国出身者にはややホッとできる空間でもある。その他に、1ヶ所だけ古風な野面積みの石垣が南東麓に残っている。いずれにしても現存天守・石垣群など見所が多く、素晴らしい城である。仕事をリタイヤしたら丸亀に住みたいと思ったほどだ。
扇の勾配→DSC00287.JPG
DSC00329.JPG←南東麓に残る野面積み石垣
南面の土塁→DSC00327.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.286173/133.800462/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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高松城(香川県高松市) [古城めぐり(香川)]

DSC00133.JPG←開かれた水手門
 高松城は、日本3大水城に数えられる近世城郭である。四国・九州を相次いで平定し、全国統一まであと一歩に迫っていた豊臣秀吉は、1587年に生駒親正を讃岐に封じた。親正は初め引田城に入ったが、東に偏するということで聖通寺城に移り、更に翌88年に新たに高松城を築城し始め、1590年に完成させた。縄張りは黒田如水(孝高)が行ったと言われるが、その他の説もあり定かではない。江戸時代に入って生駒氏が改易になると、高松城には松平氏が入り、そのまま幕末まで高松松平氏11代228年の居城となった。明治時代に入るまで天守の残っていた城であったが、1884年(明治17年)に取り壊された。

 高松城は、全国的にも珍しい海に面した城で、堀には直接海水を引き入れている。その為、潮位の変化によって水堀の水位が変わる、珍しい城でもある。朝、夜行で高松に到着し、高松駅を出て東にちょっと歩くと、道路を挟んで目の前にいきなり石垣が出現する。これは二ノ丸西面の石垣である。市街化によりかつての城域の約半分が破壊されて失われているが、本丸・二ノ丸・北ノ丸・桜の馬場という主要部はほとんど無傷で残っている。特に、艮櫓(移築)・月見櫓・水手御門・渡櫓が現存し、往時の面影を残している。この城で特筆すべきは、水手御門でかつては直接海に面した門であった。訪城当日は、たまたま清掃中で門が開いているところが見られた。また大手に掛かる筋違橋は、これまた珍しい斜めに掛かる橋で、横矢による側面攻撃を意識した形状である。天守台は残念ながら現在石垣修復中で、本丸内に入ることもできなかった。天守再建計画が動いているようなので、再建後に改めて訪城したい。それ以外では、県民ホールなどが建っている裏にひっそりと東ノ丸の石垣が大切に保存されている。

 これだけ珍しい構成の高松城であるが、平坦な平城なので縄張りの変化がなく、やや面白みは乏しいと感じた。山城中毒であろうか。
市街化の狭間に残る東ノ丸石垣→DSC00178.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.350416/134.051646/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:近世水城
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