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古城めぐり(福井) ブログトップ

東郷槇山城(福井県福井市) [古城めぐり(福井)]

IMG_7554.JPG←道路脇の本丸石垣
(2005年3月訪城)
 東郷槇山城は、越前の大名朝倉氏が築いた山城である。朝倉氏は、南北朝時代に足利氏の一門斯波氏に従って越前に入部した豪族で、朝倉氏3代氏景の次男正景は15世紀の前半に一条家の荘園であった東郷荘を預けられて東郷下総守を称しており、この頃築城されたと考えられている。その後、応仁の乱の中で朝倉孝景が西軍で奮戦し、1471年に東軍への寝返りの見返りとして越前の守護権行使を認められた。そして朝倉氏が本拠を一乗谷に移すと、槇山城はその支城となった。1573年、織田信長が朝倉氏を滅ぼすと、越前北の庄城に重臣の柴田勝家を入れ、槇山城は勝家の持ち城となった。勝家滅亡後の1584年、豊臣秀吉の家臣長谷川秀一が槇山城主となり、15万石を領した。秀一が朝鮮(文禄の役)で陣没して家名が絶えると、北の庄城の丹羽長秀の次男長昌が城主となった。長昌は、関ヶ原の戦いの時に西軍に付いた為、戦後所領を没収され、槇山城も廃城となった。

 東郷槇山城は、標高122m、比高100mの城山に築かれており、現在、主城部が公園として整備されている。二ノ丸は駐車場となり、その南の三ノ丸に相当する千畳敷は広場に変貌しているが、本丸はほぼ往時の遺構を残している。周囲に腰曲輪が付属し、本丸下方の車道沿いには石垣も残っている。これは朝倉氏時代より後の改修によるものだろう。一方、千畳敷の南側には土塁が築かれているが、植栽で改変されてしまっている。その南側に小堀切があり、更にその南にも大堀切があるが、車道が通っていて破壊を受けている。この他に、更に北東側の小峰に出丸の曲輪群があるが、未踏査である。北麓の三社神社の脇に大手口があり、入ってすぐのところにも3段程の大手郭群がある。破壊を伴う整備のされ方の問題もあるが、城の縄張りとしてもややパッとしないオーソドックスな山城である。
大堀切跡→IMG_7572.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.011521/136.275818/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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三国湊城(福井県坂井市) [古城めぐり(福井)]

IMG_6894.JPG←城址碑の建つ城跡
(2005年2月訪城)
 三国湊城は、千手寺城、湊ノ城とも呼ばれ、南北朝時代の南朝方の古城である。新田義貞の重臣で新田四天王の一人、畑六郎左衛門時能が築いた城で、中世北国の重要な通商路であった三国湊を押さえる拠点として築いたものと考えられる。新田一族は、元々の本拠地上野から越後にまで分布しており、建武の新政下で越後守護でもあった義貞は、越後を後方支援の基地としていたらしい。三国湊を押さえれば、海路を通して直接越後の一族との連絡ができ、兵員や兵糧などの補充を受けることができたと考えられる。1338年の南朝方の総帥新田義貞の死後しばらくして、義貞の弟脇屋義助は福井平野に於いて一斉に反転攻勢に出た。畑六郎左衛門時能は三国湊城から、由良越前守光氏は西方寺城から、そして堀口氏政は亥山城から出立して諸城を落とし、多方面から一斉に越前黒丸城に拠る北朝方の斯波高経の軍勢に攻め掛かった。高経はこの攻勢に堪らず、黒丸城を放棄して加賀に落ち延びた。しかし高経はすぐに反転攻勢に出て越前府中を奪還し、畑時能は鷹之巣城に籠って抗戦を続けたと、太平記に記されている。戦国時代には越前の戦国大名朝倉氏の支城となり、家臣の桜井新左衛門の居城となっていたと伝えられている。

 三国湊城は、太平記には、「僅か23人で籠った平城」と書かれ、現在の観音堂付近に築かれていたと推測されている。勿論、23人というのは太平記によくある誇張で、実数ではあるまい。かつてここには天台宗の寺院千手寺があり、寺を城塞化したしたものと考えられる。しかし地勢としては背後に丘陵地を負っており、この丘陵上の方が城を築くには適地だったと思うが、どうであろうか。何れにしても市街化で遺構はなく、城址の標柱が観音堂前に建っているだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.210606/136.153983/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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鞍谷御所(福井県越前市) [古城めぐり(福井)]

IMG_6525.JPG←北辺に残る土塁と堀跡
 鞍谷御所は、越前守護で三管領家の一、斯波氏の庶流鞍谷氏の居館である。南北朝時代に足利尊氏・直義に従った足利一門の斯波高経は、武功によって越前守護となった。後に3代義満が武家の典礼を定めると、守護大名最高の三管領家に列し、大きな勢力を誇った。しかし斯波義敏・義廉の間で家督争いが生じて応仁の乱の一因となり、この戦乱の中で朝倉氏が越前を実効支配するようになり、守護大名斯波氏の権威は没落した。義廉の子斯波義俊は、朝倉氏によって名目上の守護に迎えられ、始め朝倉氏の本拠一乗谷に居を構えたが、1486年、鞍谷に居を移した。以後、代々鞍谷氏を称して朝倉氏と婚姻関係を結び、朝倉氏が織田信長に滅ぼされると、小丸城を築いて越前府中に入部した信長の家臣佐々成政と臣従関係を結んだと言う。
 鞍谷御所は、現在味真野神社となっている。遺構は部分的にではあるがよく残っており、土塁や堀跡が明瞭である。よくある方形居館であったようだ。尚、味真野神社の西方200mにある霊泉寺には、斯波氏の墓が残る。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.886929/136.235436/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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龍門寺城(福井県越前市) [古城めぐり(福井)]

IMG_6438.JPG←境内に残る土塁
(2004年9月訪城)
 龍門寺城は、1299年に悦巌崇禅が創建した龍門寺を利用した寺院城郭である。戦国末期に越前に侵攻した織田信長は、1573年の朝倉攻め、1575年の越前一向一揆討滅と、2度にわたって龍門寺に本陣を置いた。信長は越前を平定すると、北の庄を重臣の柴田勝家に与え、その与力として前田利家・佐々成政・不破光治の3人を越前に入部させた。いわゆる府中三人衆である。この時、不破光治が拠ったのが龍門寺城である。信長が本能寺で横死し、その後の後継者争いで柴田勝家が羽柴秀吉に滅ぼされた後の1585年、若狭の木村常陸介が越前府中を支配し、城内の南隅に龍門寺を再興した。この頃、龍門寺城は廃城になったのだろう。
 龍門寺城は、現在龍門寺の境内にわずかにその遺構を残している。本堂裏の墓地の中に堀跡の窪地と、土塁跡が残っている。日本城郭大系によれば、ほぼ方形の城で、周囲を土塁と堀に囲まれていた様である。寺の周囲は市街化が進み、往時の面影は殆ど無いが、わずかに残った遺構が城跡であることを現在に伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.898541/136.165098/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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新善光寺城(福井県越前市) [古城めぐり(福井)]

IMG_6410.JPG←正覚寺に残る土塁
(2004年9月訪城)
 新善光寺城は、南北朝動乱の際、北朝方の越前守護斯波高経が南朝方の総帥新田義貞と対峙した城である。1336年、後醍醐天皇は足利尊氏と和睦し、左中将新田義貞は後醍醐天皇の命を帯びて皇太子恒良親王を奉じて越前に下った。当初義貞は金ヶ崎城に拠ったがこれを落とされ、杣山城に移った。足利尊氏より越前守護に任じられた足利一門の斯波高経は、義貞討伐のため越前に下り、新善光寺城を築いて義貞率いる南朝方と対峙した。1338年、義貞は越前府中を攻め落とし、高経は新善光寺城を放棄して足羽七城へ移った。その後間もなく義貞が燈明寺畷で戦死し、反攻を企図した義貞の弟脇屋義助は、一時足羽七城を制圧したが、結局頽勢覆いがたく美濃を経由して吉野に戻った。
 新善光寺城は、現在正覚寺となっている。遺構はほとんど湮滅しているが、わずかに往時の土塁の一部が残っている。また山門は、越前府中城の表門を移築したものと伝わっている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.902504/136.163489/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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越前府中城(福井県越前市) [古城めぐり(福井)]

IMG_6393.JPG←府中城址の市役所
(2004年9月訪城)
 越前府中城は、前田利家が越前入部時に築いた城である。元々の創築は、文明年間(1469~87年)に越前の戦国大名朝倉氏が府中奉行所を構築したことに始まると言われる。戦国後期に、織田信長が朝倉氏を滅ぼし、越前一向一揆も殲滅して越前一国を完全に支配下に置くと、重臣の柴田勝家に北の庄を与えて北国経営の拠点とし、勝家の与力として前田利家・佐々成政・不破光治の3人を越前府中に入らせた。いわゆる府中三人衆で、これは信長が、かつて自分に敵対したこともある勝家を子飼いの武将に監視させる為だったとも言われる。この時、前田利家は府中城を築いて居城とした。以後、能登に転封となるまでの6年間、府中城に在城したと考えられる。1581年に利家が能登に移ると、その嫡長子利長が府中城に入った。1583年には賤ヶ岳の戦いで敗走する柴田勝家を追った羽柴秀吉を、利家は府中城で迎えたと言う。その後、丹羽・木村・堀尾の諸氏が相継いで城主となり、関ヶ原合戦の後の1601年、徳川家康の次男結城秀康が福井城に入封すると、付家老本多富正は府中城を居館とし、以後歴代の居館となって幕末まで存続した。

 越前府中城は、現在の越前市役所一帯にあったと言われる。東には日野川が流れて天然の堀となり、平城を築くには格好の場所だったと思われるが、遺構は市街化で完全に湮滅している。わずかに市役所正面玄関の脇に、石碑が建てられているだけである。尚、正覚寺には府中城の表門が移築されて残っている。この門だけが府中城の名残りを今に伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.903495/136.168767/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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木ノ芽峠城塞群(福井県南越前町) [古城めぐり(福井)]

IMG_4951.JPG←木ノ芽城の堀切
(2004年4月訪城)
 木ノ芽峠城塞群は、越前の戦国大名朝倉氏が築いた城である。北国街道の難所木ノ芽峠を挟んで、北西から南東に伸びる尾根上に連なる、鉢伏城・観音丸城・木ノ芽城・西光寺丸城の4城から成っている。1569年、朝倉氏5代義景は、織田信長の越前侵攻に備えてこの城塞群を築き、木ノ芽城に家臣の堀二郎三郎を置いて守らせた。朝倉氏が信長によって滅ぼされると織田方の持ち城となったが、1574年に越前一向一揆衆がこれらの城塞群を奪取して、信長に対する前衛の城とし、和田本覚寺、石田西光寺らに守らせた。織田信長は、朝倉氏を滅ぼして一旦平定したかに見えた越前が、一向衆によって再び叛軍の手に落ちたため、大軍による越前一向衆の徹底殲滅を決断した。1575年8月、信長は一揆殲滅の為、大軍を敦賀に集結させた。木ノ芽峠城塞群からは遥かに敦賀市街が一望でき、奥山秀範氏のHP「越前若狭歴史回廊」では、敦賀に溢れかえる織田勢の大軍を遥かに望み見て、一揆軍の士気は急速に萎えていったのではないかと推測している。事実そうであったろう。そしていよいよ始まった信長の越前再侵攻では、大軍に攻められて各所の一揆勢は僅かの間に壊滅してゆき、木ノ芽峠城塞群も落城した。この後、信長は徹底した弾圧・殺戮を一揆残党に加えたことが、信長の部将前田利家の書状に記載されている。一向一揆壊滅後の越前は織田家重臣の柴田勝家に与えられ、勝家は北の庄城を築いて北国経営の拠点とし、新たに栃ノ木峠を抜ける街道を整備した。以後、木ノ芽峠の重要性は薄れ、木ノ芽峠城塞群も廃城になったと思われる。

 木ノ芽峠城塞群には、栃ノ木峠から伸びる狭い車道をしばらく北上し、木ノ芽峠茶屋の場所から簡単に訪城することができる。いずれの城も頂部に主郭を置き、主郭周囲には土塁を築き、その外周を横掘・堀切・竪堀・腰曲輪で防御した構造で、比較的簡単な縄張りで眼を見張るような技巧性には乏しいが、遺構はよく残っている。木ノ芽城と観音丸城は、この城塞群の中核であったと思われる城で、木ノ芽峠を通る北国街道旧道を2つの城で挟んで、古道を押さえていたことがその配置からよくわかる。それに対して鉢伏城は、最高所の鉢伏山に位置し、詰城的存在もしくは物見であったと考えられる。西光寺丸城は出城の位置付けであろう。遺構は良好でハイキングルートも整備されているが、中春でも既に薮が多く、遺構の確認が困難な部分もある。特に竪堀については確認が難しい。今から思えばこれらの城も見落とした遺構が数多く、機会があれば再度確認してみたい。尚、城塞群の内、鉢伏城については場所がやや離れているため、この時はパスした。
西光寺丸城の横堀→IMG_4972.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.717186/136.139778/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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村岡山城(福井県勝山市) [古城めぐり(福井)]

IMG_6206.JPG←主郭空堀の横矢
(2004年9月訪城)
 村岡山城は、勝山盆地を望む独立峰、標高301m、比高141mの御立山山上に築かれた山城である。1574年、平泉寺と対立していた七山家を中心とする一向一揆勢は、村岡山に一夜で城を築き上げた。これが村岡山城である。平泉寺はすぐに村岡山城を攻めたが、逆に攻撃されて平泉寺全山を焼き払われた。この勝利によって、村岡山は「勝山」と名付けられ、今の勝山の地名につながっていると言う。1575年に織田信長が越前一向一揆を殲滅すると、重臣の柴田勝家に越前を与え、勝家は柴田義宜を村岡山城に入れて勝山地方を統治させた。しかし義宜は一揆の残党に敗れて討ち死にし、勝家は養子の柴田勝安を村岡山城へ入れた。勝安は一揆残党を鎮圧に成功すると、1580年に新たに勝山城を築いて移り、村岡山城は廃城となった。

 村岡山城には、西麓の村岡神社脇から登山道が整備されていて、夏場でも容易に登ることができる。山頂にほぼ方形の主郭を置き、その周囲を土塁と空堀で囲繞して防御し、その回りに広いニノ郭が配置されている。主郭の空堀には一部に横矢が掛かり、ニノ郭と主郭は土橋で連結している。ニノ郭にも東西に土塁が築かれ、東側は更に虎口と馬出しが設けられており、その先の斜面には畝状竪堀もあるようだが、この時は確認しなかった。またニノ郭の西側にも堀切を介して数段の曲輪が連なっているようである。明らかに専門の軍事集団が築いた遺構であり、柴田氏が入城してからかなり手を加えて仕立て直したものであろう。とにかく、この城に行ったときは戌山城でのすさまじいクモ軍団との格闘で気力が萎えており、村岡山城ではあまり奥まで探索できなかった。結構遺構を見逃してしまっている部分も多く、今から思えば残念である。
村岡山城遠望→IMG_6196.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.075708/136.507884/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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越前勝山城(福井県勝山市) [古城めぐり(福井)]

IMG_6189.JPG←城址碑の建つ市民会館
(2004年9月訪城)
 越前勝山城は、江戸時代中期に小笠原氏がこの地に入封して新たに築いた近世城郭である。元々は、戦国時代末期の1580年に、織田信長の重臣柴田勝家の一族柴田勝安によって築かれた。賤ヶ岳合戦で柴田氏が敗北して滅亡すると、勝山城には成田重政・長谷川秀一が入部したが、1601年に徳川家康の次男結城秀康が越前に入り福井城を築くと、勝山は越前松平藩の支配下に入った。その後、元和の一国一城令に廃城となって以降、この地に城はなく代官陣屋があっただけであった。1691年、小笠原貞信が2万3千石で勝山に入封すると、必死で幕府に築城許可を求め、ようやく1709年に旧城の再建という名目で築城が許可された。しかし藩財政の状況は厳しく、築城は遅々として進まず、1826年、7代信貴の代に至ってようやく一応の完成を見たという。ただ、天守は建てられず天守台が積まれただけであった。幕末まで存続し、そのまま廃城になった。

 勝山城は、現在は完全に市街化し、遺構は全て湮滅している。外堀として利用された大蓮寺川がその流れを残すのみである。現在の市民会館と西方寺が本丸に当たり、教育会館や中央公園が二ノ丸に相当する。市民会館前に建つ城址碑だけが往時を物語る、悲しい運命の城である。尚、ここから南東約2kmの位置にある勝山城博物館は、その威容(異様?)を誇っているが、城址に建てられた模擬天守ですらない、全く架空の城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.061260/136.500245/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:近世平城
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戌山城(福井県大野市) [古城めぐり(福井)]

IMG_6114.JPG←大堀切の一部
(2004年9月訪城)
 戌山城は、越前守護を歴任した三管領家の一、斯波氏の一族の居城である。斯波氏は足利一門でも最高の家格を持つ家柄で、鎌倉時代には足利尾張守家と呼ばれ、宗家同様足利を姓としていたほどであった。南北朝時代に斯波高経は、足利尊氏・直義に従って新田義貞を討ち取るなどの戦功を挙げて越前守護となり、また室町2代将軍足利義詮の時、高経は管領となった幼い息子義将の後見として幕政を主導した。この頃に高経は三男義種を大野郡司に任じ、義種は戌山城を築いて居城としたと言う。その後、応仁の乱で斯波氏が没落し、代わって朝倉孝景が越前守護代となって越前の実権を握ると、孝景は弟経景を戌山城に配し、以後戦国末期に景鏡が亥山城に居城を移すまで、朝倉大野郡司家の歴代の居城となった。1573年に織田信長が朝倉氏を滅ぼし、その後更に越前一向一揆を殲滅すると、金森長近を大野に封じた。長近は当初戌山城に入ったが、間もなく越前大野城を築城して移り、戌山城は廃城となった。

 戌山城は、大野盆地の西端、標高324.6m、比高140m程の犬山山頂に築かれた山城である。山頂に主郭を置き、三方の尾根に曲輪群を配した縄張りで、各尾根筋は大規模な複数の堀切で遮断している。この大堀切はいずれも豪壮なもので、はっきりとは覚えていないが深さ10mはあったと思う。主郭は大した規模ではなく、管領家の一族の城としては小さいという印象である。また主郭周囲には畝状竪堀が敷設されて、防御性を高めている。南尾根の先には出丸もあるが、訪城時は行かなかった。

 尚、この城を訪れた時は、晩夏で巨大なジョロウグモが薮の至る所に巣を張り巡らしており、夏の山城の恐怖を身に染みて味わった城でもある。クモの巣を振り払いながら主郭まで辿り着くのが精一杯で、あまりのクモの多さに畝状竪堀の確認なども満足に出来ず、這々の体で城を降ることとなった。この城以来、真夏の山城には行かないことに決めている。

 とにかく、あまりまともに遺構の確認が出来なかった城なので、機会があればぜひ再訪したい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.983702/136.472973/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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亥山城(福井県大野市) [古城めぐり(福井)]

IMG_6067.JPG←本丸土塁跡らしい土壇
(2004年9月訪城)
 亥山城は、土橋城とも言い、越前の戦国大名朝倉氏の大野郡司の歴代の居城である。元々は、南北朝時代に新田義貞麾下の猛将堀口貞満の一族堀口兵部大輔氏政によって築かれた。1338年に南朝方の総帥新田義貞が越前の灯明寺畷で討死し、翌39年、後醍醐天皇も吉野の行宮で崩御して、南朝方の先行きに暗雲が立ち込めることとなった。しかしそれを振り払うかの様に、義貞の弟脇屋義助は福井平野に於いて一斉に反転攻勢に出た。新田四天王の一人、畑六郎左衛門時能は三国湊城から、由良越前守光氏は西方寺城から、そして堀口氏政は亥山城から出立して諸城を落とし、多方面から一斉に越前黒丸城に拠る北朝方の斯波高経の軍勢に攻め掛かった。高経はこの攻勢に堪らず、黒丸城を放棄して加賀に落ち延びた。しかし高経はすぐに反転攻勢に出て越前府中を奪還し、堀口氏政は、畑時能の拠る鷹之巣城に籠って抗戦を続けたと、太平記に記されている。

 室町時代に入ると、越前守護斯波氏の庶流斯波義種が大野郡司となり、その家臣二宮氏が亥山城を居城とした。応仁の乱で東軍への寝返りによって越前守護代の地位に就いた朝倉孝景は、守護斯波義敏の籠る亥山城を攻囲し、義敏と二宮氏を越前から追放して実力で越前一国を切り取った。戦国朝倉氏は、一族を大野郡司として亥山城に置き、大野の経営を行った。朝倉氏最後の当主5代義景の時には、従兄弟の朝倉景鏡が大野郡司となって亥山城を居城としたが、1573年、義景が刀禰坂で織田信長に大敗すると、景鏡は義景を裏切って大野で自刃に追い込み、自身は信長から郡司職を安堵されて土橋に改姓し、引き続き亥山城を居城としたが、翌年一向一揆に滅ぼされた。その後、杉浦壱岐、原彦次郎長頼が亥山城に入ったが、1575年に金森長近が大野に入部して越前大野城を築くと、亥山城は廃城となった。

 亥山城は、東を流れる善導寺川を外堀とした平城だったと思われるが、現在は遺構の大半は市街化によって湮滅し、城跡には日吉神社が建てられて改変を受けており、往時の縄張りをはっきりと知ることはできない。ただ、境内西側には水堀跡が溜池となって残り、神社本殿のある高台は、かつての本丸土塁だったと思われる。また神社入口には「史跡 亥山城跡」の標柱が建ち、ここが紛れもない城跡であったことを現在に伝えている。遺構はわずかであるが、越前の歴史を語る上で外すことのできない重要な城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.983528/136.493551/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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越前大野城(福井県大野市) [古城めぐり(福井)]

IMG_6036.JPG←本丸背後の堀切と土橋
(2004年9月訪城)
 越前大野城は、織田信長の家臣金森長近が築いた近世城郭である。越前の戦国大名朝倉氏を滅ぼした後の1575年、越前一向一揆を殲滅して越前を平定した織田信長は、大野郡の2/3を金森長近に与えた。大野に入部した長近は、当初朝倉氏の山城戌山城に入ったが、峻険な山城で城下町の整備に不便であった為、翌年大野盆地を見渡せる亀山に、新たに越前大野城を築城した。長近は1586年に飛騨高山に移封となり、その後は城主が度々交代し、江戸初期には松平氏、1682年からは土井氏が大野城に入り、以後幕末まで土井氏が城主を務めた。
 越前大野城は、比高75m程の独立丘陵上に築かれた城で、近世城郭らしく山上には石垣が聳え、本丸天守台の上には復興天守が建っている。比較的こじんまりした城で、大きな枡形門等はなく、縄張りは比較的平易である。天守南側には堀切があり、石垣で補強された土橋が架かっている。東側山麓には二ノ丸・三ノ丸があったが、市街化で遺構の湮滅が進んでいる。私が訪れた当時は、二ノ丸は古い団地が解体中で、その他は茫々たる空き地であったが、現在は小学校が建てられた様である。二ノ丸周囲の水堀は、一部のみ残っているだけだった。今から考えるとちょっと印象の薄い城であった。
越前大野城全景→IMG_6127.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.986618/136.483079/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:近世平山城
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一乗谷朝倉氏遺跡(福井県福井市) [古城めぐり(福井)]

IMG_7505.JPG←居館跡の水堀と土塁
(2004年8月、2005年3月訪城)
 一乗谷朝倉氏遺跡は、日本城郭大系等では一乗谷城と表記される、越前の戦国大名朝倉氏の本拠地である。朝倉氏は、南北朝動乱の際に足利氏の一族斯波高経に従って越前に入部した豪族で、代々越前守護斯波氏の被官であった。戦国朝倉氏の初代孝景は、応仁の乱の際に当初西軍に於いて斯波義廉麾下で縦横無尽の活躍をしたが、1471年、東軍の主将細川勝元の誘いを受け、越前守護に匹敵する地位と引換えに東軍に寝返った。それ以後、同じ斯波氏麾下であった越前守護代甲斐氏らと激しい敵対関係となったが、次第にこれを圧して反朝倉勢力や主家斯波氏までも追放し、越前一国を実質的に掌握した。以後、越前一向一揆などと激しい抗争を繰り返しながら5代100余年にわたって戦国大名として越前に君臨した。朝倉氏は一乗谷を本拠として城下町を整備し、戦乱の京都から避難してきた多くの文化人達を保護し、京都に劣らぬ文化の花をこの地に咲かせた。1566年、5代義景の時、将軍への野望に燃えた足利義昭は、難を逃れて朝倉氏を頼って越前に来たが、義景は起つことなく遊興に耽る日々を送ったため、義昭は義景を見限って織田信長の元に去った。1568年、信長は義昭を奉じて上洛し、天下の権を手中に収めた。義景は、同じ斯波氏被官であった織田氏に対する対抗心が強かったと考えられ、信長と敵対関係となった。1570年、信長は越前に侵攻したが、敦賀金ヶ崎城で近江浅井氏の裏切りを知り、急遽全軍撤退した。同年6月、姉川で朝倉・浅井連合軍対織田・徳川連合軍が激突し、織田方が勝利を収めた。1573年、信長が近江に大挙侵攻して浅井氏の居城小谷城を攻めると、朝倉義景は援軍として近江に着陣したが、出城を落とされて撤退を始めると信長に追撃され、刀禰坂で大敗した。義景は疋檀城を経由して一族の朝倉景鏡の本拠越前大野に敗走したが、景鏡の裏切りにあって自刃して果てた。信長は、柴田勝家を先鋒として一乗谷に攻め込み、朝倉氏の栄華を焼き尽くしたと言う。

 一乗谷朝倉氏遺跡は、中心部の朝倉氏居館を始め、多くの遺構群からなる。朝倉氏居館には、土塁と水堀が巡らされ、櫓台跡が残るほか、発掘された建物礎石や庭園跡(湯殿跡庭園)が残る。また周辺にも諏訪館跡庭園や朝倉景鏡を始めとする家臣団屋敷、町家の遺構が発掘復元されている。谷の北側入口には水堀と土塁と石積みで構成された下木戸があり、枡形を形成している。南側にも上木戸の土塁と空堀が残っている。上木戸の南には、朝倉義景が足利義昭のために建てた御所跡も残る。

 私が最初にここを訪れた時は、福井豪雨から1ヶ月しかたっておらず、一乗谷周辺には豪雨の傷跡が生々しく残っていた。越美北線の鉄橋は足羽川に無残な姿を晒し、一乗谷遺跡も洪水の傷跡の修復が開始されたばかりだった。完全復旧はされていないものの、とりあえず復旧された部分だけ無料で公開されていた。また、居館の背後の一乗城山には詰城の一乗城があるが、英林塚裏の登山道は途中で豪雨によって崩落していた為登城を断念した。今から思えば、装備も丸腰に近く、地形図さえ持たない状態で比高400mの峻険な山城に登らなかったのは、幸いだったと言うほかはない。まだ山城の怖さを知らない頃だったので、登っていたら大変なことになっていたかもしれない。

 それはともかく、国の史跡に指定されているだけあって、大々的に発掘復元されており、また戦国時代の城下町がほとんど当時のままの姿で復元されている稀有な例であり、興味は尽きない。信長に焼き払われて歴史の中に埋もれたことが、かえって中世そのままの遺構を現代まで残すことになったとは、歴史の皮肉としか言いようがない。
下木戸の枡形→IMG_7453.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.999431/136.295432/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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燧ヶ城(福井県南越前町) [古城めぐり(福井)]

IMG_4907.JPG←枡形虎口の石垣
(2004年4月訪城)
 燧ヶ城は、源平合戦の頃から知られる古い山城である。木の芽峠へ通じる北陸道を扼する要衝で、杣山城金ヶ崎城と共に北陸の関門を制する要地であった。その為、歴史上幾度も合戦の舞台となった。1183年、挙兵後に越後の国府にいた木曽義仲が、平維盛率いる平家の義仲追討軍を迎え撃つために仁科太郎守弘・平泉寺長吏斎明威儀師を大将として城を築いて立て籠もらせ、日野川を堰き止めて周囲一帯を水浸しにした。しかし「北陸道第一の城郭」と源平盛衰記に謳われた燧ヶ城も、斎明威儀師が敵方に内通するに及んで陥落し、義仲軍は敗走した。倶利伽羅峠で平家方に大勝するのはこの後である。南北朝期の1336年、今庄入道浄慶が足利方の将としてこの城に立て籠もり、南朝の新田義貞に味方して挙兵した杣山城主瓜生保と対峙し、杣山城と金ヶ崎城の連絡を断つ作戦に出た。戦国時代には越前守護斯波氏の家臣赤座但馬守、その後魚住景固、そして一向一揆の際には本願寺坊官の下間頼照・藤島超勝寺・荒川興行寺等が立て籠もったが、1575年、織田軍に攻略され落城した。越前を平定した信長は、越前北の庄城に柴田勝家を入部させ、以後燧ヶ城は勝家の属城となった。その後の歴史は定かではない。

 燧ヶ城は、今庄宿の南に聳える山上にある。東西に伸びる尾根上に築かれている為、東西に長い縄張となっている。一直線に曲輪を連ね、曲輪間を堀切で分断しつつ土橋で連結している。堀切は小さく、城の規模も大したものではない。しかしこの城で出色なのは、虎口や枡形に石垣が使われていることである。大きなものではないが、この城のトレードマークと言ってもいい。しかも、土橋の一部には両側を石積みで補強しているものもある。この規模の中世城郭でここまで石積みを念入りに取り入れている例は珍しいと思われる。城跡は全体的に整備され、登城道も備わっているので、遺構は見やすい。

 なお、今庄は古い宿場町で、特に今庄宿の道筋には、往時の風情を感じさせる古い町並みが残っている。北陸にはそうした古い町並みが多く残っているが、中でも今庄は出色のものである。
石積みで補強された土橋→IMG_4919.JPG
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.768992/136.196694/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:中世山城
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杣山城(福井県南越前町) [古城めぐり(福井)]

IMG_4827.JPG←山麓居館跡と杣山城
(2004年4月訪城)
 杣山城は、太平記に名高い峻険な山城である。金ヶ崎城を落ち延びた新田義貞が拠点としたことで有名である。杣山は昔は北の比叡山と呼ばれ、山頂から麓まで3千の坊があったと言われる。杣山城を築いた瓜生氏は、金ヶ崎城の攻防の際、南朝方に味方して杣山城から後方支援を行ったが、救援の為軍勢を率いて敦賀へ進軍した際、斯波高経率いる北朝方の軍勢に迎撃され、当主瓜生保、弟の義鑑らは討死した。落城前に金ヶ崎城から脱出した新田義貞・脇屋義助は、瓜生一族に迎えられて杣山城に入り、南朝方の残軍を立て直した。その後、越前守護斯波高経と福井平野で足羽七城の戦いと呼ばれる激戦を展開し、高経の拠点、越前府中城を攻略するに至った。しかしその戦いの最中で義貞は討死し、その後は義助が孤軍奮闘するが、衆寡敵せず次第に北朝方に圧迫されて、結局北陸を放棄して美濃を経由して吉野に戻った。以後、南朝軍は北陸から一掃されて、守護の斯波高経の越前支配が成立した。
 室町2代将軍足利義詮の時、高経は管領となった幼い息子義将の後見として幕政を主導した。しかし1366年、貞治の政変で失脚し、京を逃れて杣山城に籠もった。幕府方はこれを包囲したが、そのまま落とすことなく、1年後に高経は杣山城で没した。その後、応仁の乱の最中の1474年には、斯波氏の家老増沢甲斐守祐徳が杣山城に拠って、東軍に寝返った朝倉孝景と戦い、日野川原で敗れた。朝倉氏は河合安芸守宗清を杣山城に入れたが、1574年に織田信長と戦った刀根坂の戦いで宗清は討死し、杣山城は廃城となった。翌年には越前一向一揆が杣山城に拠ったとされるが、詳細は不明のようである。

 杣山城は、比高は380mを超え、非常に厳しい登山を要求される。当時は山城=トレッキングとわかっていなかったので、軽装でろくに飲み物も持たずに登城したので、非常に大変だった。しかしこの山を義貞も登ったのかと思うと、感慨深くもあった。山上の城は古い形態の山城で、要所に堀切や土橋を設けているものの、本格的で大規模な防御構造はほとんどない。一つには、山の峻険さ自体が最大の防御機能だったからだろう。城域は広く、山頂の本丸の他、西御殿・東御殿と呼ばれる曲輪があり、その間にも腰曲輪が連なっている。登城途中には姫穴・殿池・袿掛岩など、城の悲話にまつわる史跡が残っている。一方、山麓には居館跡が残り、数段の広大な平坦地が広がっている。その手前には、往時は百間馬場と家臣団屋敷が広がっていたようである。その入口には二ノ木戸跡があり、その横に水堀が残っている。奥山秀範氏はそのHP「新越前若狭城跡考」の中で、山麓居館のことを「その大きさから守護級クラスのものと想定される」と記載しているが、おそらくその通りであろう。とすれば、越前守護斯波高経の居館があった可能性が高い。それにしても、城自体の遺構は大したものではないが、麓から山上まで遺構が広範囲に残り、その歴史と合わせて、総合的に見て第一級の山城である。
西御殿の櫓台?→IMG_4851.JPG
IMG_4883.JPG←礎石の残る東御殿
二ノ木戸の水堀→IMG_4821.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.802222/136.219697/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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小丸城(福井県越前市) [古城めぐり(福井)]

IMG_4679.JPG←本丸周囲の堀跡
(2004年4月訪城)
 小丸城は、佐々成政が築いた平城である。1573年に越前の戦国大名朝倉義景を滅ぼした織田信長は、1575年、越前に再侵攻して越前一向一揆を弾圧・平定した。そして重臣柴田勝家に越前を与えて、勝家は北の庄城を築城し、勝家に与力として付けられた前田利家・不破光治・佐々成政は府中三人衆と呼ばれた。この3人を勝家に付けたのは、おそらく当初反信長派であった勝家の謀反を恐れて監視役として付けたものであったろう。越前に入った佐々成政は、小丸城を築城して居城としたが、僅か4年で越中富山城に移り、小丸城は廃城となった。

 小丸城は越前府中(現在の武生市街)東方の、山地が間近に迫った味真野の扇状台地の末端に築かれた平城で、現在は本丸部分が公園化されて残っている。本丸は丘のように盛り上がっており、周囲からの高さは7m程であるという。本丸には石造りの虎口の他、石垣が散見され、周囲には堀跡が明瞭に残っている。国土変遷アーカイブで1960年代の写真を見ると、小山のような本丸周囲に堀跡が見られ、更にその周囲を二ノ丸が囲み、二ノ丸の周りも大きな堀が囲んでいた環郭式の縄張りだったようである。二ノ丸はほぼ方形であったが、現在は民家や工場が建って、大半が破壊されている。いずれにしても出世途中の家臣の城であるため、まだ規模が小さい城だったようだ。
本丸に残る石垣→IMG_6457.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.897985/136.230093/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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三峯城(福井県鯖江市) [古城めぐり(福井)]

IMG_4611.JPG←堀切と主郭
(2004年4月訪城)
 三峯城は、南北朝期に築かれた山城である。南北朝動乱の初期の1337年、北朝方に付いていた平泉寺宗徒が、新田義貞の南朝方に加わった際に構えた城であった。叡山を落ちて北陸に逃れた義貞は、まず敦賀の金ヶ崎城に拠ったが、半年の苦しい籠城戦の末に城を落とされ、義貞は落城前に杣山城に逃れた。その後、義貞は、杣山城を拠点に体勢の立て直しを図り、越前守護斯波高経率いる北朝方との激しい攻防を開始した。平泉寺が南朝方に付いたのも、こうした状況の中で、退勢挽回を図る義貞の必死の工作があったものと考えられる。そして義貞は、弟の脇屋義助を三峯城に城将として派遣し、越前府中争奪戦や足羽七城の戦いにおいて、北朝方と激戦を展開する義貞を後方から支援したものと考えられる。1338年に義貞が灯明寺畷で戦死すると、脇屋義助は兄に代わって北陸南朝軍を率いて攻防を続けた。一旦は、斯波高経を加賀に追い落としたものの反撃にあい、結局北陸を捨てて美濃経由で吉野に戻った。この戦いの最中の1340年、三峯城は北朝方の三山重行によって攻め落とされた。その後の歴史は定かではないが、戦国大名朝倉氏の本拠一乗谷を俯瞰することの出来る絶好の陣場であるので、戦国期には一乗谷に急を知らせる物見兼出城として機能したと考えられる。

 三峯城は、標高404.5mの城山に築かれており、山頂に築かれた主郭を中心に、三方に分かれた峯に沿って堀切で仕切られた小曲輪が階段状に連続した縄張りとなっている。曲輪はいずれも規模が小さく、多人数を籠める事は出来ない。主郭が最も広く、「脇屋義助卿守戦之地」と記された大きな石碑が建っている。周囲の曲輪を仕切る堀切はしっかりしたものだが、いずれも規模は小さい。また主郭周辺には竪堀が数条見られる。また大手虎口の両側にはしっかりとした土塁が構えられ、傾斜のきつい坂虎口の防備を固めている。城へは廃村となった三峯集落跡から登って、尾根伝いに数百m歩いていくが、途中には細い尾根道をS字状に曲げた土橋とされる遺構が残る。

 城の規模は小さいが、縄張りは明確でなかなか面白い。また歴史的にも重要な城であるので、太平記ファンならば必須の城であろう。思えば三峯城は、私が城歩きを始めてから初めて訪れた本格的な山城で、土橋・虎口・竪堀などの城郭構造を初めて目の当たりにした城でもあった。
主郭から見た堀切・土橋と段曲輪→IMG_4617.JPG
IMG_4600.JPG←尾根道のS字状土橋

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.972085/136.274811/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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北の庄城(福井県福井市) [古城めぐり(福井)]

IMG_4569.JPG←発掘された堀と石垣跡
(2004年4月訪城)
 北の庄城は、織田信長の重臣で北陸方面軍総司令官であった柴田勝家が築いた城である。元々この地には、黒丸城主朝倉貞景の次男頼景が北庄遠江守と称して居館を築き、一乗谷に拠る越前朝倉氏の庶流北庄朝倉氏の居館として、重要な拠点であったようである。1573年、織田信長は敵対する宿敵朝倉氏を滅ぼし、その後蜂起した越前一向一揆を弾圧平定し、1575年に柴田勝家に越前を与えて北陸経略を統括させた。勝家は朝倉氏の一乗谷城を捨て、新たに平城の北の庄城を築いた。北の庄城は9層の壮大な天守を持った立派な城郭であったと小早川隆景などの書簡に記録されている。しかし、1582年に信長が本能寺の変で横死し、後継の座を巡って羽柴秀吉と対立すると、翌年の賤ヶ岳の戦いで敗れた。そして越前に侵攻した秀吉に居城の北の庄城を攻められて、夫人となって幾ばくもないお市の方(信長の妹)と共に自刃し、北の庄城は落城した。その後、丹羽氏などが短期間在城したが、1600年に徳川家康の次男結城秀康が越前に入部し福井城を新たに築城すると、北の庄城は消滅した。

 北の庄城は、前述の通り福井城築城によって姿を消し、その遺構はほとんど見ることが出来ない。またその縄張りもほとんど不明である。しかし近年地下からその遺構が発見された。私が訪城した時は、ちょうど城址公園がオープンしたてで、本丸付近に当たる柴田神社境内に地下の石垣が発掘展示されている。また現在では資料館も整備されている様である。わずか8年で姿を消した、幻の名城である。
城址公園→IMG_4557.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.060245/136.219536/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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福井城(福井県福井市) [古城めぐり(福井)]

IMG_4544.JPG←歪んだ天守台石垣
(2004年4月訪城)
 福井城は、徳川家康の次男結城秀康が築いた近世城郭である。元々この地には、織田信長の重臣で北陸方面軍の総司令官であった柴田勝家が築いた北の庄城があったが、1583年に信長死後の後継者争いで羽柴(豊臣)秀吉に滅ぼされ、北の庄城は落城した。1600年に関ヶ原合戦を制した徳川家康は天下の権を握り、秀康を北の庄に封じた。秀康は父家康に愛されず、関東の名族結城氏の養子となり、名跡を継いで結城の姓を名乗っていた。北の庄に入部した秀康は北の庄城を解体し、やや北にずれた位置に新城を築いた。これが福井城である。後、松平姓に復し、以後福井城は越前松平藩の歴代の居城となって幕末まで存続した。幕末に四賢侯と称された松平春嶽は、越前松平藩16代藩主であった。
 福井城はかつては壮大な規模の平城であったが、残念ながら本丸以外は市街化で湮滅している。本丸周囲には見事な石垣が残り、北西隅には天守台石垣も残っている。この天守台は、1948年の福井大地震で一部の石垣が大きく歪んでいる。本丸には現在福井県庁が建てられているので、内部は改変を受けている部分も多いと考えられる。本丸周囲には広い幅の内堀が全周に渡って残り、広い水面に浮かぶ要塞の如き石垣は、なかなか壮観な眺めである。往時の建築物は全て失われてしまっているが、最近になって、天守台脇に掛かる御廊下橋が復元されたそうである。もっと周囲の曲輪の遺構や建築物が現存していれば、さぞ見事であったろう。惜しいことである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.065561/136.220909/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:近世平城
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小黒丸城(福井県福井市) [古城めぐり(福井)]

IMG_4496.JPG←小黒丸城の城址碑
(2004年4月訪城)
 小黒丸城は、単に黒丸城と呼ばれることもあるが、南北朝動乱の初期に北朝方の越前守護斯波高経と南朝方の総帥新田義貞の間で繰り広げられた「足羽七城」の戦いの舞台の一つである。1336年、叡山から北陸に落ち延びたものの、最初の拠点金ヶ崎城を陥とされた義貞は、弟脇屋義助と共に杣山城に逃れ、しばらく雌伏した後、福井平野で体勢を立て直して反撃を開始した。この激しい攻防戦が太平記に名高い足羽七城の戦いである。中でも黒丸城は、足羽七城の中心的な城で、本城である大黒丸城と出城である小黒丸城から成っていた。1338年閏7月、義貞は平泉寺宗徒の立て籠もった藤島城に苦戦する味方の加勢の為、少数の兵を率いて行軍の最中、小黒丸城を発した斯波勢と灯明寺畷で遭遇し合戦となった。この局地戦のさ中、義貞は矢に当たってあっけない最期を遂げてしまった。その為、義貞の手勢は一旦は四散したが、弟の脇屋義助が体勢を立て直し、1339年、三方より攻撃を加えて小黒丸城を陥とし、高経を加賀に追い落とすことに成功した。しかし後に再び逼塞を余儀なくされ、結局義助は越前を放棄して美濃を経由して吉野に戻り、最後は四国の伊予国府で終焉を迎えることとなった。

 小黒丸城は、九頭竜川と日野川の合流点にあり、唯一開けた東南は深田となっていて、平城ながら非常に堅固な城であったと伝えられている。しかし現在は圃場整備によって遺構は完全に湮滅し、往時の姿を知ることはできない。また現在ある城址碑も、元は現在地より北方約50mの水田の台地上に建てられていたものを現在の位置に移転したとのことである。遺構は無いが、太平記ファンならば行かねばならない城の一つである。今思い返せば、私はこの城あたりから本格的に中世城郭巡りを始めたのであった・・・。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.103625/136.189903/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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藤島城(福井県福井市) [古城めぐり(福井)]

IMG_4506.JPG
(2003年10月訪城)
 藤島城は、福井平野をめぐる南北朝の戦いで登場する重要な城である。1336年に九州から再挙東上してきた足利尊氏が京都を制圧し、一旦は叡山に逃れた後醍醐天皇が尊氏との和議に応じて下山すると、南朝軍の総帥であった新田義貞は、恒良親王と尊良親王を戴いて軍勢を率いて北陸に落ち延びた。しかし最初に拠った金ヶ崎城を苦戦の末に落とされ、義貞は舎弟脇屋義助と共に杣山城に逃れ、しばらくして福井平野で体勢を立て直した。ここに、足利方の越前守護で足利一門でも最高の家格を持つ斯波高経と、頽勢を盛り返した新田義貞の間に激しい攻防戦が繰り広げられた。太平記に名高い足羽七城の戦いである。その攻防のさ中の1338年閏7月、平泉寺宗徒の立て籠もった藤島城を攻め切れない味方の加勢の為、少数の兵を率いて行軍の最中、黒丸城を発した斯波勢と灯明寺畷で遭遇し合戦となった。太平記では、この時撤退を勧める部下の進言を退けて義貞は果敢に突進したが、猛烈な矢戦で馬を射られて深田に倒れ、馬の下から這い上がろうとしたところを眉間の真ん中に矢が当たってあっけない最期を遂げたと伝えている。藤島城は、南北朝の帰趨を左右する重要な舞台となったのである。
 藤島城は現在、一向宗の西超勝寺となっている。遺構はほとんど湮滅していて城の姿を思い起こせるよすがもないが、わずかに境内に土塁の跡が残っている。(残念ながら土塁の写真は失念しました)おそらく藤島城は、平地に築かれた単郭方形居館のようなものだったのだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.090222/136.271453/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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丸岡城(福井県坂井市) [古城めぐり(福井)]

IMG_3779.JPG
(2003年10月訪城)
 丸岡城は、国内の現存12天守の内、最古の天守を戴く城である。かつては国宝であったが、1948年の福井大地震で倒壊したため、再建後は一段低い重文指定になっている。
 1575年、越前一向一揆を平定した織田信長は、麾下の猛将柴田勝家に越前を与え、勝家は甥の勝豊を豊原城に入部させた。翌76年勝豊は山城の豊原城から平地の丸岡に新たに城を築いて拠点を移した。これが丸岡城である。以後、何度かの城主の変遷を受けつつも江戸時代を通して丸岡藩として存続し、幕末に至った。
 丸岡城は、比高15m程の小山に築かれた平山城で、かつては連郭式と環郭式を組み合わせた縄張で、外郭外周は国内では珍しい五角形をしていた。現在は本丸以外は市街化で湮滅しているが、五角形の形状は道路にその名残を残す。周囲の遺構が湮滅している為、見所は本丸部分以外にはないが、注目の本丸天守は小さいながらも古風な風格のある建物で、かつて中世戦国の時代に各地の城に見られた櫓は、このようなものだったのだろうと想起させられる。天守台を含め石垣は野面積みで積まれ、荒々しい戦国の世の風格を残している。
 この城に行った頃は、まだ城巡り駆け出しの頃だったので、当時の写真を今になって見返してみると、本丸虎口の石垣など、多くの遺構を見逃してしまっていることがわかり、悔いが残る城である。
ライトアップされた天守→IMG_3944.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.152395/136.272204/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

(2019年8月再訪)
 加賀南部の城に行った際、時間に余裕があったので、16年振りに丸岡城を再訪した。以前は見逃した遺構も全て見て回り、町中に立つ門跡や曲輪跡の標柱も見て回った。天守にいたボランティアのおじさんに話を伺ったところ、現在残る本丸の石垣は、枡形も含めて大部分が近代に積み直されているらしい。往時のまま残っている石垣は、八幡神社裏手の石垣だけだろうとのことであった。貴重な情報をいただき、この場を借りてお礼を申し上げます。
IMG_0093.JPG←往時のまま残る石垣


越前中世城郭図面集〈1〉越前北部編(あわら市・坂井市・勝山市・大野市・永平寺町)

越前中世城郭図面集〈1〉越前北部編(あわら市・坂井市・勝山市・大野市・永平寺町)

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2019/08/01
  • メディア: 大型本


金ヶ崎城(福井県敦賀市) [古城めぐり(福井)]

IMG_3693.JPG←金ヶ崎城の断崖
(2003年9月訪城)
 金ヶ崎城は、敦賀湾に望む断崖上の岬に築かれた山城である。この城は2度にわたる歴史上名高い戦場として知られる。
 一つは、南北朝動乱の初期の1336年。足利尊氏と和睦した後醍醐天皇は叡山を下って京に戻ったが、一方で左中将新田義貞に二人の皇子、皇太子恒良、尊良親王を預けて北陸に下らせた。この時後醍醐天皇は恒良親王に帝位を譲ったという。足利方の目をかいくぐって、苦労して敦賀に入って気比氏に迎えられた義貞は、難攻不落の堅城金ヶ崎城に拠った。一方、足利方はこれにすばやく対応し、斯波高経に金ヶ崎城を攻めさせた。しかし城は頑として落ちず、年が明けると尊氏は執事高師直の弟、師泰らを総大将とした援軍を派遣して激しく攻め立てさせた。そして半年の過酷な籠城戦の末、1337年3月に金ヶ崎城は落ち、新田義貞は辛くも杣山城に落ち延びたものの、嫡子義顕と尊良親王は自刃、恒良親王は捕らえられて京に送られた。太平記によれば、落城寸前の時、城兵達は馬を殺してその肉を食い、戦死者の肉まで食うという地獄図絵さながらの状況だったと言う。
 もう一つは、戦国末期の1570年、越前の朝倉氏を攻める織田信長が金ヶ崎城に入った時、小谷城主浅井長政が突如裏切って後方から攻め寄せようとした。これを知った信長は直ちに総退却を決断。この時部将木下藤吉郎が全軍の殿として退却戦を行った。いわゆる「金ヶ崎の退き口」である。

 金ヶ崎城は、麓には金ヶ崎宮が置かれ、そこから遊歩道が整備されている。三方を海に囲まれたほぼ垂直に近い断崖上に築かれており、現在でもその堅城ぶりがわかる。主郭を中心にいくつかの平坦地が見られ、曲輪跡であったのだろう。しかし公園化の中で改変を受けている可能性もあり、はっきりしない。最高所の主郭は月見御殿と呼ばれ、かつてはここで月見がされたと伝わっている。ここからは敦賀湾を一望でき、見晴らしは素晴らしくよい。主郭内は2段ほどに分かれていて、高い方は物見であったのだろう。主郭の東側に下っていくと、3つの木戸口跡が残り、それぞれ堀切で明確に分断防御している。また城内には、尊良親王自刃地や焼米石出土跡も残る。

 金ヶ崎城周辺は、港湾施設や火力発電所が建設されて往時の面影は全くない。また金ヶ崎宮は縁結びの神様として知られているらしい。かつての激戦は夢のようで、今ではゆったりと平和な時を刻んでいる風光明媚な古城である。
主郭(月見御殿)跡→IMG_3681.JPG
IMG_3690.JPG←ニノ木戸跡

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.666118/136.074278/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0

※金ヶ崎城は、城巡りを目的として行った最初の城だった。
 ちなみにこの日は、金ヶ崎城のすぐ真横に、知る人ぞ知る深田サルベージの巨大サルベージ船「武蔵」が停泊していた。なかなかお目にかかることのできない貴重な船だ。
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