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古城めぐり(茨城) ブログトップ
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小田野城(茨城県常陸大宮市) [古城めぐり(茨城)]

DSCN9050.JPG←主郭背後の二重堀切
 小田野城は、佐竹氏の一族山入氏の庶流小田野氏の居城である。室町初期に、佐竹貞義の7男山入師義の3男自義がこの地に分封されて小田野氏を称し、小田野城を築いた。1407年、佐竹氏12代義盛が嗣子なく没すると、鎌倉公方足利持氏の干渉による関東管領上杉氏からの入嗣を巡って、山入与義は同族の長倉氏・額田氏らと山入一揆を結成して反発し、翌年、長倉義景が長倉城で挙兵して、ついに佐竹家中を二分する武力抗争に発展した。「山入の乱」の始まりである。この時、小田野氏は、山入氏の庶家であるにも関わらず佐竹氏方に付いて戦った。山入の乱は100年に渡って続き、小田野氏は軍功により佐竹氏家中での地位を確立し、重臣となった。小田野義正は和田昭為と共に佐竹義昭の側近の筆頭となった。義正の弟義房は兄の跡を継いで、佐竹義昭・義重2代に仕えた。義房の子義忠の時の1590年、小田野氏は水戸へ移り、小田野城は廃城となった。1595年には、義忠は佐竹義宣から久慈郡深萩の蔵入地1173石余を預かった。豊臣秀吉の朝鮮出兵の時には、義宣に仕えて肥前名護屋に在陣した。1602年、佐竹氏が秋田へ転封となると、小田野義忠は子宣忠と共に秋田に移って常陸を離れた。

 小田野城は、比高60m程の山上に築かれている。東麓には地元の有志で活動している「森と地域の調和を考える会」が立てた解説板があり、そこから登城道が整備されている。城内も会によって薮払いされているので遺構をよく確認できる。山頂に主郭を置き、周囲に帯曲輪を数段廻らし、西側の背後の尾根に二重堀切とやや離れて堀切を穿っている。また南東の尾根に堀切で区画した舌状曲輪を置き、また北東の尾根にも基部に堀切を穿っている。基本的には小郭群と帯曲輪群で構成された小型の城で、主郭も狭小で居住性はほとんどない。堀切もいずれも規模が小さく、大した防御性を持っていたとは考えにくい。遺構はよく残っており、考える会のお陰で縄張りがわかりやすく整備されているが、城としては小規模で、あくまで有事の際の詰城の位置付けであった様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.678255/140.266378/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国佐竹氏研究の最前線

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  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2021/03/30
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笠間城 その2(茨城県笠間市) [古城めぐり(茨城)]

DSCN2903.JPG←天守曲輪の腰曲輪の一つ
(2020年2月訪城)
 2月に笠間市で城郭関係のシンポジウムがあり、そこで笠間城の広域の縄張図を手に入れることができたので、城の主要部を再訪するとともに、以前に踏査していなかった遺構を確認した。これらを見ると、笠間城は幕末まで使われた城でありながら、中世山城の姿を濃厚に留めた縄張りであったことがわかる。

<天守曲輪の腰曲輪群と二重竪堀>
腰曲輪から落ちる二重竪堀→DSCN2827.JPG
 本丸平場から堀切を挟んで東にそびえる佐白山には天守曲輪が築かれているが、佐白山の北斜面を中心に天守曲輪を防衛する腰曲輪群が何段も築かれている。中には、土塁で取り巻いた半月状の腰曲輪もある。また一部の腰曲輪では、下方に向かって二重竪堀が穿たれている。

<北西尾根遺構群>
DSCN2942.JPG←下段郭切岸と横堀
 二ノ丸腰曲輪の北から北西に向かって伸びる尾根上には、3段の曲輪群で構築された外郭がある。曲輪は下に行くほど広くなる末広がり形状で、付け根には物見台と堀切(現在は遊歩道が貫通)がある。広い下段郭の北東部には土塁が築かれ、西側には一段低く虎口郭が置かれている。下段郭の西面から北面にかけては横堀が構築されている。横堀の西側下方では更に堀切が穿たれている。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.385515/140.264887/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

<二ノ丸腰曲輪群 北西端の堀切>
先端の堀切→DSCN2985.JPG
 二ノ丸の外周には数段の腰曲輪群が築かれているが、北西端の曲輪の先に堀切が穿たれている。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.384410/140.265037/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

<正福寺郭遺構群>
DSCN3033.JPG←外周の大横堀
 入手した縄張図には「正福寺跡」と記載されているが、実質的に出城であるので、ここでは正福寺郭と呼称する。薮が多くて郭内の踏査は困難であるが、3段ほどの環郭式に配置された曲輪群で構成されている。この曲輪群の北側1/3周ほどを、大横堀と大土塁で取り巻いている。この横堀は、西端部で竪堀となって落ち、千人溜り(的場丸)に通じる車道を横断している。また横堀の土塁の外側にも北東と北西に腰曲輪が置かれている。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.385481/140.267156/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

<正福寺郭の東側遺構群>
塁線が内側に折れた切岸→DSCN3078.JPG
 正福寺郭の東側の尾根にも曲輪群が築かれている。中心となる曲輪は切岸で囲まれ、2ヶ所ほど塁線が内側に折れて横矢を掛けている。北東部にはL字に横堀を穿ち、東側下方に更に堀切を穿っている。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.384885/140.269248/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

<北東尾根の遠堀>
DSCN3153.JPG←大堀切
 城域からかなり離れた北東尾根の中腹に、大堀切が穿たれている。堀切の前面には大土塁が構築され、堀切の後ろには曲輪が築かれている。防衛陣地であったことがわかる。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.387372/140.270396/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


続 図説 茨城の城郭

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  • 作者: 茨城城郭研究会
  • 出版社/メーカー: 国書刊行会
  • 発売日: 2017/07/31
  • メディア: 単行本


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小野館(茨城県常陸太田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9192.JPG←堀跡の様な鉤型の道路
 小野館は、佐竹氏の一族が築いたとも、小野崎市の一族が築いたとも言われる。
 小野館は、小野崎城と同じ台地上にあり、縦長の台地の中程が東側に張り出した部分に築かれている。現在は常陸太田特別支援学校の校地に変貌している。遺構は完全に湮滅しており、どの様な館だったのかもはっきりしないが、校地は周囲よりやや高くなっている。造成時に土盛りされている可能性もあるが、校地北東部は外周の道路が鉤型に折れ曲がっており、堀跡だった可能性がある。また東側斜面には腰曲輪のような平場も見られる。改変が多いのではっきりしないが、館があった雰囲気は感じられる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.562428/140.532517/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


続 図説 茨城の城郭

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  • 作者: 茨城城郭研究会
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タグ:居館
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八百岐館(茨城県常陸太田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9179.JPG←大堀の堀跡
 八百岐館は、小野崎城を本拠とした小野崎氏の庶流石神小野崎氏の当初の居館である。南北朝期に小野崎城主小野崎通胤が櫛形城に本拠を移した際、その二男通房が旧地に留まり八百岐館を築いて居館としたとされる。後に石神城に居城を移したが、その時期には諸説あって明確ではない。いずれにしても石神城に本拠を移すと、八百岐館は廃館となったと言う。

 八百岐館は、小野崎城と同じ台地の西部に築かれている。館跡は現在、山林の他、北側が墓地に変貌している。あまりはっきりした遺構はなく、平場と腰曲輪らしい段が見られるだけである。墓地脇に土壇があり、ネットでは残存土塁の遺構とされているが、コンクリートブロックの塀が突き立っているなど、どうも遺構の様には見えない。館から若干東に離れて、大堀と呼ばれる堀跡があり、ここは形状が明瞭である。また館の東を谷戸に下る坂道の脇には井戸(小野七井の一つ、「前我井」と言う)が残っており、往時にも使われたものだったかもしれない。素朴な形態の台地上の居館だった様である。
 尚、館跡の北東の民家の庭先に「外城」と刻まれた大きな石があり、ここの字名であるらしく、城の痕跡を地名に残していることがわかる。ただその地名が、八百岐館に対する外城なのか、小野崎城に対する外城なのかはわからないのが実情である。
「外城」の碑→IMG_9170.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.559429/140.527089/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


続 図説 茨城の城郭

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  • 作者: 茨城城郭研究会
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タグ:中世崖端城
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小野崎城(茨城県常陸太田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9165.JPG←南斜面の腰曲輪
 小野崎城は、佐竹氏の重臣となった小野崎氏の発祥の地である。小野崎氏の事績は櫛形城の項に記載する。初め鎮守府将軍藤原秀郷の6世の孫・通延が常陸国太田郷に移住し太田大夫と称した。その子通成は佐都郡に移り、孫の通盛の時、小野崎の地に土着して小野崎氏を称し、小野崎城を築いて居城としたとされる。以後小野崎城は、10代約200年にわたる歴代の居城となった。その後、佐竹氏に服属してその重臣となり、南北朝期には北朝方の佐竹氏は、南朝方の菅股城主大塚氏の南下を阻止するため、小野崎通胤を櫛崎城に移封した。その後、山尾城に居城を移し、山尾小野崎氏を惣領とし、庶流として石神小野崎氏・額田小野崎氏を輩出した。

 小野崎城は、今宮館のすぐ北東に隣接し、同じ台地の南東端に築かれている。現在城跡は瑞竜中学校の校地となっており、遺構はほとんど湮滅している。西側にはわずかに堀跡らしい窪地が見られる。この他では、南面から西面にかけての斜面に腰曲輪が残っており、往時の姿をわずかに残している。面積は広いが、単郭の素朴な形の城だった様だ。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.554396/140.530736/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


戦国期権力佐竹氏の研究【オンデマンド版】

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  • 作者: 佐々木 倫朗
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タグ:中世崖端城
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今宮館(茨城県常陸太田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9132.JPG←櫓台の様な土壇
 今宮館は、古くより今宮大納言坊館跡と伝えられる館である。館主は佐竹氏16代佐竹義瞬の庶長子永義と言われ、修験となって佐竹氏領内の山伏を統率したと現地標柱に記載されている。一方、『日本城郭大系』には、南北朝時代に小野崎通秀の居館であったと記載されている。元々小野崎氏の居館であったものを、後に佐竹氏が再利用したものであろうか?すぐ北東には小野崎氏の初期の居城小野崎城があるので、その一族の居館があったとしても不思議はないが、詳細不明のため想像するしかない。

 今宮館は、比高20m程の台地南西端に築かれている。現在は白鷺神社の境内となっている。参道を登ると、すぐ左手に櫓台の様な土壇がある。平場の中央付近には、祠が祀られた塚もある。北側の畑との間には、堀跡らしい窪地や土塁らしき土盛りが見られるが、かなり不明瞭でもあり遺構かどうかははっきりしない。台地先端の基部を掘り切って区間しただけの城館だった様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.553172/140.528848/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


佐竹一族の中世

佐竹一族の中世

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 高志書院
  • 発売日: 2017/01/20
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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花ヶ崎城(茨城県神栖市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8491.JPG←主郭西側に残る土塁
 花ヶ崎城は、この地を領した花ヶ崎氏の居城である。花ヶ崎氏は、室町時代に鼻ヶ崎の津を知行した土豪で、一族に伝わる由緒書によれば光仁天皇の子孫とされる。光仁天皇は桓武天皇の父であることから、花ヶ崎氏は桓武平氏に連なる大掾氏の庶流であったと推測されているそうだ。花ヶ崎氏の事績は不明であるが、戦国期を通して生き残っていたらしく、1591年に佐竹氏の鹿行地方制圧(いわゆる南方三十三館の仕置)により花ヶ崎氏も滅ぼされたと言う。

 花ヶ崎城は、現在浄動院という寺の境内となっている。浮島の様な主郭で、主郭外周には低土塁が築かれ、周りを広い堀で囲んでいた様である。堀の西側半分は、砕石が敷き詰められた空き地(駐車場?)に変貌している。東側半分は薮に覆われてるが、窪地になっていて堀跡であることが明瞭である。この他、南の入口付近に左手に土塁で囲まれた桝形のような地形があるが、遺構であろうか?
 訪城した時に確認したのは以上であったが、帰ってから国土地理院の昭和20年代の航空写真を見たところ、どうも主郭の北から東にかけて二ノ郭が囲んでいたらしい。また二ノ郭の南端が、西に主郭の虎口前まで細長く伸びていて、主郭との間に木橋が架かっていた可能性がある。また主郭の南の虎口は、南にやや突出していた様である。二ノ郭の更に北西にも馬出しの様な独立区画があった様にも見える。浄動院の北に広がる薮を探索すれば、土塁ぐらいは確認できるかもしれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.865691/140.669138/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


続 図説 茨城の城郭

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  • 作者: 茨城城郭研究会
  • 出版社/メーカー: 国書刊行会
  • 発売日: 2017/07/31
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タグ:中世平城
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石神城(茨城県神栖市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8465.JPG←東側の水堀
 石神城は、大掾氏の流れを汲む石神氏の居城である。粟生城主粟生氏と同族とされ、石神八郎憲幹が粟生氏からこの地に配され、粟生城の出城として石神城を築いて備えを固めていたと言う。しかし1558年に粟生・石神両氏の間で争いが起き、両氏とも滅亡したと伝えられている。
 石神城は、現在花光院という寺の境内になっている。周囲には低土塁が残り、東側には水堀跡も残っている。塁線は基本的に直線状だが、東側だけ北東部が湾曲して張り出している。しかし横矢掛かりと言う程ではない。基本的には縦長の単郭の城だったと思われる。外郭があった可能性もあるが、古い航空写真を見ても推測も困難である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.868100/140.650856/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


続 図説 茨城の城郭

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タグ:中世平城
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手葉井山城(茨城県石岡市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8069.JPG←主郭背後の第1堀切
 手葉井山城は、茨城県の遺跡地図では長峰砦、或いは手葉井山砦と記載され、歴史不詳の城である。一説には、小田氏治が佐竹・太田・真壁連合軍と戦って敗れた、手這坂合戦に関わる城砦ではなかったかと推測されている。
 手這坂の戦いとは、1569年(1573年説もある)に小田城主小田氏治が、佐竹氏に奪われてその客将太田三楽斎資正・梶原政景父子が守っていた片野柿岡両城を攻撃するため、筑波山東麓の手這坂に出陣したことから生起した。資正は、常陸太田城主佐竹義重・真壁城主真壁氏幹に援軍を要請し、両軍は手這坂で激突した。激戦の末に小田勢は敗れ、更に太田・真壁両氏の別働隊によって小田城を奪われた為、敗れた氏治は居城に戻ることができず、土浦城へと敗走したと言う。

 手葉井山城は、筑波山の南東に広がる山地の中の、標高232mの支尾根に築かれた城である。南東の尾根筋にある山道が城跡まで通じているので、場所がわかればほとんど迷わずに訪城できる。多数の曲輪群で構成された、中々城域の広い城で、前述の山道を登っていくと最初に出くわすのが南東尾根の前衛郭群である。横堀が穿たれ、その前面に堡塁を築き、堡塁の周囲もV字状の横堀で防御し、V字横堀の北西端部には土橋が架かって城外に通じている。この前衛郭群の先に進むと、山道が切り通し状に尾根を貫通し、山腹を南方向に伸びる城道となっている。この城道の上の尾根上には、何段もの曲輪が連なっている。段差があるのはわかるが藪がかなり多く、全容が掴めない。前述の城道に対して、曲輪の南端部では横矢掛かりの櫓台が築かれている。この主尾根の曲輪群の最上段が主郭と思われ、背後にU字型に土塁を築いている。主郭の西尾根には、断続的に5つの堀切が穿たれ、いずれも土橋が架かっている。それぞれの堀切の間には小郭があり、特に第2堀切と第3堀切の間は大きな土壇を持ったやや広い曲輪となっている。5つの堀切の更に後部(西側)には詰丸の様な遺構があり、小ピークの周囲に横堀や竪堀を複雑に絡めている。一方、主郭群の北支尾根・南東支尾根・東尾根にもそれぞれ腰曲輪群が連なり、北支尾根は先端に小堀切、南東支尾根では先端部に横堀、東尾根では2つの横堀が穿たれて尾根筋を防御している。またこれらの支尾根の遺構には竪堀状の城道も散見される。手葉井山城は、どちらかと言うと曲輪群を連ねただけの素朴な縄張りであるが、それにしては規模が大きく、横堀など全体に遮断系構造を重視している。手這坂合戦との関係は何とも言えないが、片野・柿岡両城を落とされて領国防衛に迫られた小田氏が、敵勢監視と間道防衛の為に築いた城ではなかったかと想像される。
第2堀切の土橋→IMG_8058.JPG
IMG_8233.JPG←南東支尾根曲輪群の横堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.210979/140.133898/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


続 図説 茨城の城郭

続 図説 茨城の城郭

  • 作者: 茨城城郭研究会
  • 出版社/メーカー: 国書刊行会
  • 発売日: 2017/07/31
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タグ:中世山城
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片岡館(茨城県石岡市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_6404.JPG←主郭東側の空堀
 片岡館は、歴史不詳の城である。伝承では八代将監という武士の居館であったと言われているようだが、その事績は不明である。
 片岡館は、東筑波カントリークラブというゴルフ場の北側に突き出た、比高10mに満たない台地上に築かれている。現在は北端の主郭のみ残っているが、往時は南に外郭があったらしい。外郭はゴルフ場建設で失われている。主郭は、外周を土塁で囲繞しているが、一部土塁が切れている部分が散見される。土塁はほとんどが1m程の高さしかないが、背後の土塁は2m程で他より高くなっている。主郭の南には車道が通っており、明らかに外郭との間の堀切の跡であるが、幅などは改変されていると思われる。また主郭の東側と西側には、この手の小城砦にしては大きな空堀が穿たれている。最大で7m程の深さがありそうだが、藪が酷く確認が大変である。空堀の外側には土塁が廻らされている。主郭部分だけとは言え、遺構はよく残っているが、城内は全体に藪が多いのが難である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.244870/140.214450/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


東アジアの中世城郭: 女真の山城と平城 (城を極める)

東アジアの中世城郭: 女真の山城と平城 (城を極める)

  • 作者: 臼杵 勲
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/05/22
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タグ:中世崖端城
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二条山楯(茨城県石岡市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_6197a.JPG←主郭北側の三重横堀
                            (クリックで拡大)
 二条山楯(二条山館)は、宇治会館とも呼ばれ、路川氏の城であったと伝えられている。路川氏は、小田一門の宍戸氏の一族であったらしいが、城の歴史共々詳細は不明である。
 二条山楯は、恋瀬川東岸の比高30m程の丘陵上に築かれている。北に源照寺があり、その裏の墓地脇から小道が城跡まで通じている。方形の主郭と、南の二ノ郭から構成された城で、横堀が多用されている。特に主郭の北側では、山形の松ノ木楯で見たような、見事な三重横堀が構築されている。三重横堀は東側では内堀・中堀は腰曲輪に変化している。一方で外堀は主郭全周を囲繞しており、南側に主郭虎口があって土橋が架かっている。また二ノ郭の西側にも横堀があり、主郭西側中腹の横堀に繋がっている。また二ノ郭周囲は一段低く腰曲輪が取り巻き、西斜面には竪堀と竪堀状の城道がはっきりと残っている。南にも祠に通じる竪堀状の参道があるが、遺構かどうかはわからない。二ノ郭の東斜面にも竪堀・横堀が見られる。遺構としては以上で、基本的には方形居館から発展した城と思われるが、横堀群は見応えがある。一部は藪で確認しにくい部分もあるが、藪は全体に少なめである。
主郭南側の横堀と土橋→IMG_6233.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.272433/140.202198/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

※東北地方や茨城では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

  • 作者: 松岡 進
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/02/27
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タグ:中世平山城
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湯崎城(茨城県笠間市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_6102.JPG←空堀と北出曲輪
 湯崎城は、宍戸城主宍戸氏の支城である。南北朝期の1344年に、宍戸安芸守朝里 (朝重)によって築かれたと言われるが、別説では鎌倉初期の1203年に築かれたともされる。どちらが正かは不明であるが、いずれにしも宍戸城防衛のために築かれた城だということは共通している。1481年、水戸城主江戸通長は、涸沼川南岸の小幡地方への進出を企て、小幡氏を攻撃した。小幡城の小幡氏は、宍戸氏・笠間氏・大掾氏らに援軍を要請し、同年5月5日、小幡・宍戸・笠間等の連合軍は江戸軍と、小鶴原で激突した。この時、連合軍三千余騎は、湯崎城に集結したと言う。この小鶴原合戦で、小幡・宍戸等の連合軍は江戸氏の攻撃を凌ぎきり、江戸勢は水戸城に退却した。戦国後期になると佐竹氏の勢力が伸長し、宍戸氏は一定の独立性を保ちつつ佐竹氏に従った。1590年、豊臣秀吉から常陸一国を安堵された佐竹義宣は、豊臣政権の権威を背景に常陸南部諸豪を武力で制圧する一方、佐竹氏に従っていた宍戸氏ら諸豪は佐竹氏の家臣と見做され、その後の佐竹氏領内の領地替えで、宍戸氏は海老ヶ島城に移された。1602年に、佐竹氏が出羽秋田に移封となると、湯崎城は廃城となった。

 湯崎城は、涸沼川北岸の比高15m程の段丘辺縁部に築かれている。市道から東に小道を入って行くと城の入口に至る。往時の大手虎口であったと思われ、土橋が架かり、その両側には土塁と空堀が築かれている。ここは主郭の北辺部に当たる。この虎口の東側にやや離れて、土塁囲郭の北出曲輪が築かれている。虎口防衛の堡塁であったのだろう。土塁で囲まれた小さな曲輪なので、窪地の様に見える。統治拠点の政庁的城だったらしく、主郭は極めて広く、東に伸びている。現在は主郭の東半分は果樹園と民家になっており、遺構の湮滅が進んでいて、明確な城域は確定できないが、おそらく東の市道までが城域だったのだろう。基本的にはただだだっ広い主郭だけの単郭の城で、その西面と南面に一段低く帯曲輪を延々と廻らしている。主郭側に低土塁も散見される。数年前までは比較的よく整備されていたようだが、現在はかなり放置されていて薮が多く、虎口近くにある城址碑も藪に埋もれていて、最初どこにあるかわからなかったほどである。藪が酷い上、遺構面でも特筆すべき物が少なく、少々物足りない城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.303825/140.323477/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0



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竹原城(茨城県小美玉市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_6072.JPG←外郭の堀切
 竹原城は、府中城主大掾氏の支城である。大掾貞国の弟義国が、1559年に竹原城を築いて居城とし、竹原氏を称した。1590年、豊臣秀吉から常陸一国を安堵された佐竹義宣は、豊臣政権の権威を背景に常陸南部諸豪の制圧に乗り出し、同年12月に佐竹勢によって府中城は攻略され、大掾清幹は自刃して平安以来の名族大掾氏は滅亡した。この時、義国も討死にし、竹原城も廃されたと言う。

 竹原城は、園部川東岸に張り出したD字型をした低段丘に築かれている。この低段丘の中心に7~8m程の切岸で囲まれた主郭がある。主郭内は竹林となっているが進入できないほどではない。主郭北辺には祠が祀られた櫓台が築かれている。主郭の中央部はやや盛り上がっており、主殿が建っていたと推測される。この他、主郭外周には土塁が散見される。主郭の南東から城道が伸びており、下の腰曲輪に通じている。一方、主郭の北東には外郭が広がり、台地基部を分断する堀切と土塁が残っている。遺構としては以上で、居館機能を主体とした簡素な城砦である。
主郭の櫓台→IMG_6057.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.203049/140.315087/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1



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山田城の北出城(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_6011.JPG←主郭東側の堀切
 北出城は、山田城の尾根続きで、且つ山田城との間に谷戸を挟んだ丘陵上に築かれた出城である。山田城周辺には、この他にも山田氏の支城である小規模城館群が築かれていた。
 北出城は、ノースショアカントリークラブというゴルフ場のすぐ南に隣接する小丘上にある。西を通る県道2号線から車道が伸びているので、訪城は容易である。西から近づくと、出城本体から100m程離れた位置の道の脇に、明確な竪堀が落ちている。かなりはっきりした遺構で、竪堀だけでなく側方の竪土塁も明瞭である。出城自体は、小さな単郭の城で、東西に長い主郭があり、西と東に土塁を築き、その下に各々堀切を穿っただけの極めて簡素な構造である。西の堀切は藪が酷くて形状がわかりにくいが、東のものは深さ4m程ではっきりと形状が捉えられる。主郭内は藪が酷くて進入できない。北出城は大した遺構ではないが、形状が明瞭で行きやすい場所にあるので、山田城に行ったついでに寄るとよいだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.078422/140.525286/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:中世平山城
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山田城(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_5941.JPG←主郭の土橋
 山田城は、この地の土豪山田氏の居城である。山田氏の出自は不明であるが、14~ 15世紀頃に山田郷に土着した武士と推定されている。城主としては、山田太郎左衛門の名が伝わっている。山田氏の事績は不明であるが、1591年に、佐竹義宣による「南方三十三館の仕置」によって鹿行諸将が謀殺され城が悉く制圧されると、山田城も開城して山田氏は滅亡したと推定されている。

 山田城は、北浦西岸の比高35m程の丘陵上に築かれている。南麓から登り道が付いており、主郭付近にある神社まで通じているので、苦労せずに登城できる。登り道は切り通し状となっていて、側方上部には腰曲輪の塁線に見下されており、往時の大手道であったと考えられる。登り切ると、主郭東側の二ノ郭に至る。二ノ郭は主郭の南面から東面にかけて広がるL字状の曲輪である。その上に主郭が数mの切岸でそびえている。主郭の南東隅には大型の櫓台があり、御嶽神社が祀られている。主郭は櫓台の北から西にかけて大きく広がっており、かなりの面積がある。櫓台周りを中心に、主郭全面積の半分ほどは藪が伐採されて開けているが、それ以外は大藪に埋もれている。主郭の西側から北側には1本目の横堀(横堀1)が延々と穿たれている。横堀の外周には土塁が延々と続き、北側まで来た所で、幅のある帯曲輪に変化している。この帯曲輪外周に2本目の横堀(横堀2)が穿たれている。この横堀2は、途中に土橋が架かり、外周土塁に竪堀状虎口が築かれ、横堀先端は北東尾根を掘り切っている。更に横堀2の北東部で3本目の横堀が派生しており、北東尾根に平行に、尾根の先端近くまで掘り切り、その先は腰曲輪となっている。この様に三重横堀で防御した、厳重な普請を施している。一方、主郭の北東角には横堀1に土橋が架かり、帯曲輪から主郭の虎口に通じている。この土橋の部分で、横堀はT字に分岐しており、南側に伸びる横堀は二ノ郭途中で堀がなくなっている。二ノ郭の北端は、横堀1で帯曲輪と分断されており、堀に沿って土塁を築いて防御している。この他、城の南西には搦手と思われる堀状通路などが見られ、また北東尾根には穴が縦に並んだ、意図不明の謎の畝堀状地形が見られる。山田城は、豪快な三重横堀が特徴的で、中々見応えがある。しかし藪のひどい部分もあり、近年部分的に整備が進められているものの、更なる整備が望まれる。
主郭の櫓台→IMG_5795.JPG
IMG_5831.JPG←横堀2

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.074832/140.526917/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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戸崎城の山崎出城(茨城県かすみがうら市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_5736.JPG←主郭~二ノ郭間の堀切
 山崎出城は、戸崎城の外郭東端に張り出した、独立性の高い出城である。戸崎城外郭からは堀切で分断されており、幅広の土橋が架かり、出城側には櫓台が築かれて虎口を防御している。出城自体は南北に2つの曲輪を連ねた比較的小規模な城で、南が主郭で方形の曲輪となり、北が二ノ郭で舌状曲輪となっている。これら2郭の間には深さ4m程のしっかりした堀切が穿たれている。この堀切の東側には坂土橋が繋がっており、東側の腰曲輪群に通じている。従ってこの堀切は、堀底道を兼ねていたことがわかる。また坂土橋の南側には横堀が穿たれている。また二ノ郭の周囲には、腰曲輪が1~2段取り巻き、東側には前述の通り坂戸橋に繋がる形で腰曲輪群が伸びている。遺構としては以上で、簡素な構造の城砦ではあるが、普請はしっかりしており、出城として有効に機能していたことが想像される。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.075872/140.276420/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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菅生城(茨城県常総市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_5724.JPG←主郭周囲の切岸
 菅生城は、伝承では菅生越前守胤貞が城主であったと伝えられる。菅生氏の系譜は不明であるが、名前に「胤」の字があるところを見ると千葉氏に連なる家系であることが推測され、位置関係からすると守谷城主下総相馬氏の一族であったかも知れない。『東国戦記実録』という真偽不明の軍記物では、1560年、弓田城の染谷氏を攻撃中に、逆に馬洗城の横瀬能登守永氏に菅生城を攻め落とされ、胤貞は討死したと言う。1577年には、多賀谷氏の侵攻を受けたとされる。尚、発掘調査の結果、堀跡から小田原北条氏の城に多く見られる畝堀が検出されており、北条氏やその傘下に属していた下総相馬氏との結び付きが推測されている。

 菅生城は、谷戸に面した比高10m程の段丘先端に築かれている。先端に「城山」の地名の残る主郭があるが、内部はひどい藪が密生しており、内部への進入はできない。辛うじて主郭南端に低土塁が確認できる程度である。主郭の西側は堀跡の低地となっており、そこでは障子堀が発掘で見つかっている。その西に外郭があるが、ごく一部が山林のままであるものの、土地改良事業で大きく改変されて一面の畑となっている。ここでも堀跡が検出され、前述の通り畝堀が見つかっている。遺構は主郭以外に見る影もないが、解説板が立っているだけ良しとしたい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.994848/139.948847/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世崖端城
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大生郷城・天神城(茨城県常総市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_5698.JPG←大生郷城北辺の空堀らしい跡
 大生郷城・天神城は、伝承では一時期、小田原北条氏の城砦となっていたとされる。『東国戦記実録』という真偽不明の軍記物では、大生郷城は関宿合戦で勝利した北条氏の部将江戸氏が城主であったと言う。天正年間(1573~92年)に多賀谷氏の攻撃を受けたことで、江戸氏に変わって北条氏堯が水海道地域の経略を担った。こうして北条氏・多賀谷氏の攻防が繰り広げられ、結局多賀谷氏が勝利を収め、大生郷城・天神城はこの時焼失したと言う。また天神城には、北条氏政が天満宮を焼き払って城を築いたと言う伝承もある様だ。天満宮の社伝には、1576年に北条・多賀谷両氏の戦いにより、社殿が炎上・焼失したことが伝えられている。尚、『日本城郭大系』には、大生郷城は「赤松家祐の居城」とあるが、どの様な履歴なのか詳細は不明である。

 大生郷城・天神城は、東仁連川東岸の段丘上に築かれている。台地先端部に位置している大生郷城に対して、天神城は独立丘陵となっている。いずれもかなり改変を受けているのか、遺構はかなり不明瞭である。
 大生郷城は比高10m程の台地の南端にあるが、主郭と思われる南端の曲輪は宅地と畑になっており、周囲の切岸以外に城跡を思わせるものはない。主郭の北側は堀のような窪地になっているが、古い航空写真を見ると近代に改変されている可能性があり、遺構かどうか不明である。また北の外郭の北辺には堀状地形が見られる。しかしこれも「遺構かなぁ?」というレベルのものである。
 天神城は、現在大生郷天満宮の境内となっており、これも周囲の切岸以外に城跡を思わせるものは皆無である。
 縄張り的にも城の規模としても、北条氏が境目の橋頭堡として築いたにしては、あまりに北条らしくなく、遺構面でも結局のところ、「???」(疑問符)という感想しか感じられない状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:【大生郷城】http://maps.gsi.go.jp/#16/36.061554/139.955413/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

    【天神城】http://maps.gsi.go.jp/#16/36.060462/139.952624/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


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  • 作者: 茨城城郭研究会
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タグ:中世平山城
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館宿城・大祥寺城・笠根城(茨城県つくば市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_5616.JPG←笠根城の竪堀
 館宿城・大祥寺城・笠根城と隣接するように築かれた3城の内、大祥寺城は下総の豪族で豊田城主豊田氏の支城である。大祥寺の寺伝によれば、1504年に豊田氏の家臣藤原清知が大祥寺城を築いて居城としたと伝えられている。1533年に、栗崎城主原外記が祥庵寺を大祥寺城の地に移して名を大祥寺と改め、その開基となった。この時には藤原氏は既に居城を移していたらしく、それが笠根城だったのではないかとする説もある。
 館宿城は、1535年に栗崎城を攻略した下妻城主多賀谷重政が、家臣の渡辺道金に命じて築いたと言われる。
 笠根城は、歴史不詳である。
 これら3城のその後の歴史は不明であるが、1590年2月には大祥寺が多賀谷修理大夫(重経)より寄進を受けていることから、館宿城の築城以降は多賀谷氏の支配下に入っていたことは確実であろう。

 館宿城・大祥寺城・笠根城の3城は、小貝川東岸の比高10m程の低台地上に築かれている。谷戸を挟んで3つの城が寄り添うように密集している。いずれも宅地化などで改変が進んでおり、往時の縄張りを推測することは難しい。
 館宿城は、3城の中で最も残存状況が悪く、ほとんど遺構を留めていない。南北に伸びる舌状台地を東西に貫通する車道が、往時の堀切の名残だろうか?とか、車道脇にある神社の高台が往時の櫓台跡か?などと推量するだけである。また東側には腰曲輪らしい畑地が見られる。
 大祥寺城には、大祥寺の北側の竹林の中に堀らしき溝や土塁らしい土盛りが確認できる。しかし本当に遺構かどうかははっきりしない。おまけに現在、売地になっている様で、遺構の運命は風前の灯である。
 笠根城は、館宿城同様に宅地化が進んでいるが、最も遺構をよく残している。西斜面に竪堀が残り、北側の山林内に虎口か船着場の様な窪地状の地形が確認できる。
 いずれにしても3城ともあまり大した遺構ではなく、残念な状況である。
館宿城の腰曲輪っぽい畑→IMG_5560.JPG
IMG_5566.JPG←大祥寺城の溝状地形

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:【館宿城】http://maps.gsi.go.jp/#16/36.141522/140.008543/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

    【大祥寺城】http://maps.gsi.go.jp/#16/36.141418/140.010817/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

    【笠根城】http://maps.gsi.go.jp/#16/36.139616/140.007191/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


続 図説 茨城の城郭

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栗崎城(茨城県つくば市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_5540.JPG←主郭周囲の土塁と横堀
 栗崎城は、下総の豪族で豊田城主豊田氏の支城である。1504年に豊田氏の家臣原外記が、小田城の支城として栗崎城を築いたと言われている。ということは、豊田氏自体は小田氏から独立した小大名であったが、既にこの頃に小田氏の影響下に置かれていたのであろうか。その後、1535年に下妻城主多賀谷重政に攻撃され、外記は討死し、栗崎城は落城した。1544年、重政の子多賀谷政経が栗崎城の故地に正福寺を建立して今に伝わっているとされる。
 栗崎城は、低湿地帯に突き出た舌状台地の先端に築かれている。前述の通り正福寺の境内となっており、本堂の周囲に主郭の土塁が残っている。また主郭の周囲には腰曲輪が廻らされ、西側では横堀となり、主郭南西部には横矢の折れも確認できる。南の台地続きにも外郭があったと想定されるが、遺構は湮滅しており、実際どうだったかは確認できない。栗崎城は、居館機能を主とした小規模な城砦だった様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.149701/140.009937/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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太田城(茨城県八千代町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_5457.JPG←主郭周囲の土塁と空堀
 太田城は、下妻城主多賀谷氏の支城である。戦国末期の多賀谷氏当主重経は、1590年の小田原の役の時、結城晴朝、水谷勝俊らと小田原に参陣して秀吉に拝謁し、役後、下妻6万国を安堵された。重経は、長男三経を差し置いて、佐竹義宣の弟宣家を養嗣子として迎え、下妻多賀谷氏の当主とした。一方、三経は和歌城に仮住まいした後、太田城を築いて居城とし、結城晴朝の家臣となった。この結果、多賀谷氏は二系統に分裂することとなった。関ケ原合戦の際、重経は上杉景勝に通じた為、徳川家康によって改易された。戦後の論功行賞で、多賀谷三経は主君結城秀康(徳川家康の次男)に従って家臣団を引き連れて越前に移り、太田・和歌両城は廃城となった。後、三経に始まる太田多賀谷氏の系統は、越前松平氏の重臣として続いた。

 太田城は、低湿地帯に突き出た比高5m程の台地上に築かれている。宅地化で遺構の湮滅がかなり進んでいる。主郭は民家が建っているが、周囲の土塁や空堀など、比較的よく遺構が残っている。しかしその他は民家が立ち並び、断片的に土塁跡らしきものは民家の庭先に残っているが、不審者と間違えられるおそれもあり、写真撮るのも憚られる雰囲気が濃厚である。主郭の南を東西に貫通する車道は、城内のメインストリートだったと思われ、東側には鉤の手の屈曲も見られ、その脇に土塁らしき残欠もある。往時の虎口であった可能性がある。この他、南の愛宕神社も城内の一角であったと言われ、境内周囲に土塁が残っている。存続期間が少ない城だったためか、かなり遺構が失われているのは残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.177644/139.907584/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:中世平城
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磯辺館(茨城県古河市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_5349.JPG←北辺の土塁と空堀
 磯辺館は、古河公方家の重臣で水海城主簗田氏の家臣岩瀬豊前の居館である。小田原北条氏滅亡後、簗田氏は関東に入部した徳川家康に召し出され、徳川家旗本となった。簗田氏は1615年の大阪夏の陣に出陣し、当主簗田貞助が討死すると、岩瀬豊前はこの地で帰農したと言う。
 磯辺館は、国道354号線のすぐ南に隣接している。単郭方形居館であったと考えられ、北辺と西辺の土塁・空堀が、L字状に残っているのが車道からでもよく見える。国道なので、それなりに交通量が多いのだが、民有地であるためか(現在でも岩瀬氏の後裔の方の住居である)史跡指定されておらず、解説板もないので、ここを通る人の多くが城館遺構だとは知らないであろう。遺構が立派なだけに何となく残念である。
 尚、磯辺館から南南東500m弱の位置に簗田氏の歴代墓所(安禅寺)があり、簗田氏に所縁深い地であったことが窺われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.168082/139.738970/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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小堤城(茨城県古河市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_5324.JPG←水堀と土塁
 小堤城は、円満寺城とも呼ばれ、古河公方足利氏の家臣諏訪三河守頼方が築いたと言われる。頼方は、元々は信濃の諏訪氏の一族であったらしい。足利成氏に従って関東に下向した様である。その後、大永年間(1521~27年)に廃城となったと言う。

 小堤城は、現在の円満寺の地を中心に築かれていた。現在は寺の周囲、北側と西側に土塁と空堀が良好に残っている。空堀の北西部分では水堀となっており、湧水があるらしい。かつては三重堀を擁する平城だったと推測されている様だが、はっきりと分かるのは内堀部分のみである。

 三重堀の外堀は、円満寺から北に400m程離れており、県道190号線の東西に土塁と空堀が一直線状に残っている。しかしこれは、城の一部と言うより街道閉塞施設か野馬除けの様な遺構である。昭和20年代前半の航空写真を見ると、2つの小河川に挟まれた台地を、この空堀・土塁で南北に仕切っていたらしい。ちょうど結城長塁と同様のものであろう。
県道脇の外堀→IMG_5337.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.208520/139.766736/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


改訂版 図説 茨城の城郭

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権現山城(茨城県かすみがうら市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_5255.JPG←珍しいL字型の坂土橋
 権現山城は、この地の豪族下河辺氏が築いた志筑城の詰城と言われている。別説では、天正年間(1573~92年)に小田氏の一族志筑左近が築いたとも言われる。いずれにしても詳細は不明である。

 権現山城は、標高99.3mの山上に築かれている。広くなだらかな山容を利用して、大きな曲輪の城砦が築かれている。山の東端は高くそびえ、御野立所の大きな石碑が建っている。これは昭和4年の陸軍特別大演習の時に、明治憲法下で軍の大元帥であった昭和天皇が全軍を統監した場所である。位置的には城外に当たるが、物見として絶好の位置にあり、往時も物見台として使われたと推測される。権現山城自体は、外周に横堀を廻らした曲輪面積の大きな城で、ほぼ単郭に近い形だが郭内は2段に分かれている。特に曲輪後部に当たる西側は、2つの平場の段差が大きく明確であり、郭内は実質的に主郭と二ノ郭に分かれていたと考えられる。郭内の北半は未整備の薮に覆われていて踏査できていないが、南半はハイキングコースも通っており、遺構がよく確認できる。曲輪面積が広いので、虎口は数ヶ所に確認でき、御野立所方面からの登り道の他に、南面に1つ、西面に3つ、北面に1つの計6ヶ所が想定される。この内、最も良く形状を残しているのは北面の虎口で、虎口の前に坂土橋を築いているが、一直線ではなくL字型に屈曲した珍しい坂土橋となっている。またこの北面の横堀は、途中で土塁がなくなって腰曲輪に変化している。土塁は、二ノ郭の周辺に築かれているが、全周ではなく西面と南面に多く築かれている。技巧性はないものの、ある程度の兵数が立て籠もることのできる、比較的大型の城である。居住性もあることから、有事の際の詰城と言うよりも、もっと積極的な使われ方をした城だった様に見受けられる。
南面の横堀→IMG_5198.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.192590/140.218120/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:中世山城
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今泉城(茨城県土浦市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_5157.JPG←山林に残る空堀
 今泉城は、常陸の名族小田氏の支城である。信太氏の一族今泉氏が築いたもので、信太氏は小田氏の重臣として知られる。今泉城主は今泉五郎左衛門であったと伝えられるが、その事績は不明である。
 今泉城は、天の川南岸の段丘上に築かれている。法泉寺の付近に主郭があったとされる。城内は現在宅地や畑となっており、遺構はほとんど残っていない。昭和20年代の航空写真を見ても現在と大きくは変わらないので、早くに遺構が失われてしまったらしい。辛うじて外郭の空堀の一部が、北西の山林内と南西の畑地に残っているだけである。既に往時の縄張りを追うことができない状況で、かなり残念な状況となってしまっている。法泉寺の門前と、台地外周の北東に城に関する石碑が建っているのが、唯一の救いである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.139894/140.189109/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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永井城(茨城県土浦市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_5040.JPG←主郭周囲の土塁と横堀
 永井城は、常陸の名族小田氏の支城である。南北朝期には、小田治久は北畠親房を擁して小田城に立て籠もり、幕将高師冬の攻撃を受けたが、永井城も師冬軍に攻撃されたと言う。

 永井城は、標高70m、比高40m程の丘陵上に築かれている。城の選地としては甲山城に似ている。甲山城と同様、ほぼ単郭の城で、主郭の外周を土塁で囲み、外周には横堀を廻らしている。主郭の北西には腰曲輪を設けているが、南と北に主郭土塁から突き出した土塁を築いて防御し、主郭の横堀はこの土塁に突き当たった所で横に折れて、竪堀となって掘り切っている。この突き出し土塁の内、北のものは根本が堀切兼用の虎口となっており、横堀に通じている。また主郭の東側には、土橋の架かった虎口が見られる。主郭の横堀外周も低土塁が築かれ、特に南東角は物見台状となっている。甲山城と比べると横矢掛かりが少なく、築城思想の違いがわかりやすい。この他、藪の多い主郭内には、円形の塚が見られる。祭祀用の施設であろうか?主郭の周囲は緩斜面が広がり、いくつかの塚が見られるのも甲山城と共通している。南西に向かって竪堀状に、山麓から通じる城道が残っているが、中程に櫓門跡と思われる土塁が道の両側に残っている。以上が永井城の遺構で、主郭の広さは甲山城の倍ほどもあるが、横矢掛かりがあまり意識されておらず、居館的機能を重視した城と考えられる。
城道中程の櫓門跡→IMG_5116.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.154951/140.189924/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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甲山城(茨城県土浦市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4947.JPG←南東部の主郭張出し部
 甲山城は、常陸の名族小田氏の支城である。小田氏4代時知の3男時義が、小神野氏を称して甲山城を築いて居城したと言われる。戦国後期の10代経憲の時、佐竹氏の攻撃を受けて落城し、経憲は土浦城に逃れたと伝えられる。

 甲山城は、標高98.3m、比高60m程の比較的なだらかな丘陵上に築かれている。城内に三十番神社があり、南麓からの参道(と言ってもただの山道)を使って城まで登ることができる。ほぼ単郭に近い小規模な城であるが、それには不釣り合いなぐらいしっかりした横矢掛かりを設けた縄張りとなっている。主郭は、三角形に近い縦長の台形状の曲輪で、西側は直接斜面に面しているが、北・東・南の三方に土塁と空堀を巡らして防御している。南東部には横矢の張り出しがあり、東辺へも南辺へも両方に張り出している。この主郭の姿は、規模は異なるが田渡城に似た印象である。周囲の空堀は、そのまま西斜面まで掘り切っている。主郭の周りは、斜面となった西面以外は緩斜面が広がっているが、塚がある他はあまり明確な普請の跡は見られない。一方、西斜面には腰曲輪が築かれている。この他、参道を登った中腹に曲輪があり、大手の曲輪だったと考えられる。小さい城だが、見事な横矢掛かりが印象に残る。
東面の土塁と空堀→IMG_4965.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.157376/140.167823/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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宝篋城(茨城県つくば市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4904.JPG←南斜面の大堀切
 宝篋城は、南北朝時代に鎌倉府執事として関東に下向し、常陸南朝方を征討した高師冬が、小田城攻めの際に本陣を置いた城である。1338年、関東の南朝勢力再建の為に下向した南朝の重臣北畠親房は、神宮寺城阿波崎城を経て、小田治久を頼って小田城に立て籠もっていた。将軍足利尊氏の執事高師直の従兄弟・高師冬は関東に下向し、各地を転戦して常陸南朝方を討伐した。親房は、小田城において有名な神皇正統記を著すなど、各地の有力武士を味方につけるための必死の工作を続けたが、師冬率いる北朝方の軍勢の攻囲の前に、治久は降伏し、親房は小田城を脱出して関宗祐を頼って関城に逃れた。この小田城攻めの本陣となったのが宝篋城である。

 宝篋城は、ハイキングコースとして有名な宝篋山(標高460.7m)に築かれている。宝篋山城とも呼ばれるが、現地では宝篋城と書かれている。山頂には山名の由来となった大きな宝篋印塔が立つ他、テレビの電波塔が建っており、山頂付近はかなり改変を受けている。しかしいくつかの平場らしい跡が見られ、北東尾根には堀切も確認できる。山頂から尾根を南に降った先に平坦な第2ピークがあるが、こちらが宝篋城の中心で、主郭があったらしい。一部に土塁が見られる他、南側に段曲輪が数段築かれている。その南斜面下方に円弧状に大堀切が穿たれている。更にその南は広大な緩斜面の平坦地が広がっており、いかにも高師冬の率いる大兵力が駐屯可能な地形である。城の中心が、山頂ではなく、南寄りに置かれているのは、宝篋印塔を憚ったからであろうか。城内はハイキングコースとして綺麗に整備されているので、遺構がよく確認できる。想像していたよりしっかりとした遺構が残っており、特に大堀切は外側の土塁の規模も大きく見応えがある。
主郭南側の段曲輪→IMG_4880.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.166090/140.130594/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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小田前山城・舟ヶ城(茨城県つくば市) [古城めぐり(茨城)]

 小田前山城・舟ヶ城は、常陸の名族小田氏の居城小田城の、外郭の一部を形成する山城である。小田城では、平地の小田城を大きく包み込むように惣構の堀が伸び、小田城の北にそびえる前山の稜線まで包み込んで外郭線を形成していたと考えられている。前山城と舟ヶ城はこの外郭線上に築かれた山城である。

 小田前山城・舟ヶ城は、標高110m、比高90mの前山に築かれている。前山城と舟ヶ城は稜線続きにあって、峠道の西のピークである富岡山を中心に築かれているのが前山城、東の広い平坦な尾根に築かれているのが舟ヶ城である。ネット上では前山城の名だけが記載されているが、現地案内板には舟ヶ城の名があるので、ここでは分けて記載している。両城は、以前は未整備のガサ藪に覆われていたらしいが、現在は宝篋山に通じるトレッキングコースが整備されていて、多くのハイカーで賑わっているので、遺構の確認がし易くなっている。

IMG_4743.JPG←主郭東側の段曲輪
 まず前山城であるが、こちらは小振りながらしっかりと曲輪群が築かれ、はっきりと城であることがわかる。中腹の愛宕神社脇から登ると稜線の峠に至る。おそらくこの峠自体が堀切を兼ねていたと思われる。その西側に2段の段曲輪があり、主郭である富岡山展望所に至る。主郭は削平が不徹底で、ほとんど居住性はない。主郭から西に土塁道が伸び、その南側に2段の曲輪が築かれ、その先に城道を兼ねた堀切を挟んで、西端の曲輪が築かれている。西端の曲輪には、物見台と思われる小さな高台が見られる。また堀切から南に幅広の竪堀状の通路が下り、その下方で通路がクランクした空間があり、枡形虎口であったと思われる。前山城では、主郭は単なる物見程度であるが、周辺の段曲輪がしっかりと普請されている。
枡形虎口→IMG_4783.JPG


IMG_8329.JPG←108mのピーク
 次に舟ヶ城は、前述の峠道から東に広く広がっている。山の一部が採石で削られており、一部遺構が失われていると思われる。東の108mのピークが最高所で、展望櫓が建ち、南端に「要害展望所」がある。この山には「要害」の地名が残っているらしい。しかしこの辺りはほとんど自然地形で、平場があることはあるが明確な普請の跡は確認できない。このピークの北西に緩斜面の広幅の尾根が広がり、一部に段差が見られ、曲輪の跡の様である。その先にやはり峠道があり、堀切を兼ねていた様だ。この峠道の北西はかなり広大な平場となっており、その形から舟ヶ城の名が付いたのだろうか。この平場は、前山城の東側を画する堀切(峠道)まで続いている。舟ヶ城は、前山城と比べると城の造りは雑然として、言われなければ城とは気づかないレベルである。
堀切状の峠道→IMG_8372.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:【前山城】http://maps.gsi.go.jp/#16/36.158832/140.113449/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

    【舟ヶ城】http://maps.gsi.go.jp/#16/36.156649/140.116131/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


ポンコツ武将列伝

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  • 作者: 長谷川 ヨシテル
  • 出版社/メーカー: 柏書房
  • 発売日: 2017/12/13
  • メディア: 単行本


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若森城(茨城県つくば市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4641.JPG←主郭外周の土塁
 若森城は、下妻城主多賀谷氏が築いた城である。元亀年間(1570~73年)に多賀谷政経が築城し、その家臣白井対馬守を城主としたと言われる。以後、小田城攻略の前進拠点として機能した。佐竹氏が小田城を攻略した後の若森城の動向は不明である。江戸時代になると、徳川家旗本の堀田氏がこの地に若森陣屋を置いたが、幕末の1863年に撤去された。明治時代に入ると、1869年(明治2年)に若森県庁が陣屋跡に置かれた。しかし、設立からわずか2年9ヶ月で若森県は新治県と茨城県に統合され消滅した。

 若森城は、桜川西岸に南から突き出た舌状台地の上に築かれている。史跡としては、「若森県庁跡」として市指定史跡となっているが、遺構を見る限り中世城郭そのものである。北端に主郭を置き、その南に二ノ郭が置かれている。二ノ郭は民家があって無断進入はできないので、北端の斜面から登って主郭周りだけ見て回った。主郭は斜面に面した外周に低土塁を築き、北西斜面と東斜面に腰曲輪を築いている。特に東腰曲輪には土塁が外周に築かれ、その下方には横堀が穿たれている。主郭と二ノ郭の間は、西半分は土塁で仕切られ、東半分は幅の広い堀切で分断されている。仕切り土塁と堀切の間は幅広の通路となっている。堀切の東側には土橋が架かって主郭南東部と二ノ郭北東部を繋いでいる。土橋の東側にも堀切が続き、円弧状に北に伸びている。その先は前述の東斜面の横堀に繋がっているが、ここにも土橋が掛けられ、主郭東の腰曲輪と二ノ郭東の腰曲輪を連結している。また横堀は、この土橋部分で東に屈曲して東山腹に伸びており、そこでは湧水があるらしく水堀となっている。二ノ郭の周りにも土塁が築かれ、西側には横堀状の腰曲輪が築かれている。二ノ郭東の腰曲輪は、前述の通り円弧状になった堀切に沿って北にツノ状に突き出しており、横矢掛かりを意識した配置となっている(土橋はこの先端から斜めに架かっている)。若森城は中々技巧的で、人知れず、素晴らしい遺構が山林の中に眠っている。
主郭~二ノ郭間の土橋→IMG_4661.JPG
IMG_4665.JPG←腰曲輪間の土橋と堀切・横堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.151590/140.086842/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:中世平山城
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