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木舟城(富山県高岡市) [古城めぐり(富山)]

DSCN7439.JPG←本丸跡の小丘
 木舟城は、1585年の天正大地震で崩壊した城である。元々は、越中の有力国人であった石黒氏の居城であった。伝承では1183年に木曽義仲に従って倶利伽羅合戦等で活躍した石黒太郎光弘が、1184年に築城したと言われるが確証はない。近年の研究では、小矢部川流域の石黒荘を本拠とした石黒氏が、南北朝期以前に木舟に進出して木舟城を築いて居城とし、木舟石黒氏となったと考えられている。南北朝中期には、石黒四郎右衛門政家が越中守護となった斯波高経に属して「貴布祢城」に居城したとされる。石黒氏には、惣領で福光城を本拠とした福光石黒氏と庶家の木舟石黒氏の2流があったが、福光石黒氏は1481年に一向一揆と戦って滅亡した。一方、木舟石黒氏は、1576年頃に石黒左近蔵人成綱が越中を制圧した上杉謙信に服属している。1578年に謙信が急死すると、織田信長は旧守護代家の神保長住を飛騨経由で越中に入国させ、上杉方国人衆の切り崩しを図った。成綱はこれに素早く反応し、上杉方の瑞泉寺や勝興寺を攻撃して織田方に服属した。1581年5月には上杉勢の攻撃を受けて木舟城を奪われた。城を追われた成綱は、信長からの呼出しを受けて安土城に向かったが、同年7月6日に途中の長浜で丹羽長秀の手勢に討ち果たされ、木舟石黒氏は滅亡した。木舟城は上杉景勝の部将吉江宗信が守っていたが、同年7月、織田勢の攻撃を受けて落城し、宗信は船で越後に逃れた。この後木舟城には佐々成政の家臣佐々平左衛門政元が入り、以後佐々方の有力支城の一つとなった。1582年に織田信長が本能寺で横死すると、越中は一時上杉氏の反転攻勢に晒されたが、翌83年8月、成政は上杉勢を駆逐し、ほぼ越中一国を平定した。その後、成政は信長の後継者に躍り出た羽柴秀吉に敵対し、隣国加賀・能登を領する前田利家と激しく対立したため、木舟城は越中西部の守りとして重要な拠点となった。1585年8月、秀吉が大軍を率いて佐々征伐に出陣すると、成政は衆寡敵せず降伏し、砺波郡など3郡が前田氏に与えられ、木舟城には利家の弟前田秀継が今石動城から移ったが、同年11月29日の天正大地震により城は崩壊し、秀継夫妻は圧死した。翌86年には応急的に復興され、城主前田利秀(秀継の子)は同年5月上洛途上の上杉景勝一行を木舟城で歓待したが、同年の内に利秀は今石動城に居城を移し、木舟城は廃城となった。

 木舟城は、城の北側に城下町を形成した水陸交通の要衝であったが、現在は水田地帯の只中にわずかに本丸の残欠の小丘が残るだけとなっている。その重要性から県の史跡に指定され、城跡は公園化されているが、近代早くに田圃整理で遺構の湮滅が進み、その城域・曲輪の輪郭の確定すら困難な状況である。発掘調査の結果などから、北から順に北郭・本丸・南郭を浮島のように並べ、東にある貴布祢神社のある微高地も東の曲輪であったらしい。しかしもはや曲輪の輪郭すら残っておらず、縄張りを思い描くことさえ困難である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.688373/136.913960/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望: 天正壬午の乱から小田原合戦まで

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  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2011/05/01
  • メディア: 単行本


タグ:近世平城
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