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頭川城(富山県高岡市) [古城めぐり(富山)]

DSCN8703.JPG←西端の堀切
 頭川城は、南北朝期に古文書に出てくる城である。『二宮円阿軍忠状』によれば、足利一族の名門斯波高経の重臣であった二宮円阿は、1362年に2代将軍足利義詮と主君高経の命を受け、観応の擾乱以来室町幕府に敵対していた元越中守護桃井直常を討伐する為越中国に出陣した。和田合戦などを転戦した後、約5ヶ月間、和田城(増山城か?)を警固した。1363年3月、和田城において「鴨城衆」を命じられて鴨城に入り、5月12日に鴨城衆と共に「頭高城」を攻略し、焼き払ったと言う。ここで言う「頭高城」が頭川城の事ではないかと考えられている。

 頭川城は、小矢部川西方の比高30m程の丘陵先端部に築かれている。この丘陵上には安居山古墳群があるが、頭川城は方墳をそのまま櫓台に転用するなど、城内にそのまま取り込んでいる。そのため主郭の普請はざっくりしている。主郭の前面には2段の腰曲輪が築かれ、また後部には浅い堀切を挟んで土壇が築かれている。土壇の背後には城域西端を画する深い堀切が穿たれている。城内には里山遊歩道が通っており、東麓から登ることができる。遺構は大したことはないが、南北朝期の城の形態をそのまま留めており、貴重である。
主郭内の古墳→DSCN8688.JPG
DSCN8698.JPG←主郭後部の堀切と土壇

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.765232/136.964192/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


北陸の名城を歩く 富山編

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  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2022/09/01
  • メディア: 単行本


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摩頂山城(富山県氷見市) [古城めぐり(富山)]

DSCN8560.JPG←西側の二重堀切の内堀
 摩頂山城は、歴史不詳の城である。谷を挟んで守山城と対峙する位置にある。また両城は尾根伝いに繋がっており、この尾根には二上山城、摩頂山南砦などが存在する。これらのことから、守山城の支城または付城など、守山城に関連する城であった可能性も考えられる。

 摩頂山城は、標高254mの摩頂山に築かれている。山頂の主城部の他に、周辺尾根の広い範囲に遺構が散在する広域の城であるが、佐伯哲也氏が指摘している通り求心性の乏しい縄張りである。南中腹には弘源寺があり、城のすぐ側まで車道が通っているので、訪城はたやすい。山頂部は東西に長い細尾根となっており、そこに城の中心部がある。細尾根は中間部を堀切で分断しており、そこから東側が主郭群である。主郭群は2~3段の平場で構成されているが、土塁は見られない。急峻な北側以外の三方を腰曲輪で囲んでいる。また堀切の西側は細尾根の曲輪で居住性はほとんどない。南側下方には主郭群の下から続く腰曲輪がある。その他にも平場群が周囲に見られるが、竹林になっているので改変の可能性が捨てきれない。これら主城部の西側は中規模の二重堀切で分断されている。またその北西下方には腰曲輪と二重竪堀が残っている。更に西の下方にも腰曲輪1段と竪堀があるようだが、未踏査である。
 一方、主城部から南に伸びる2本の尾根の先に遺構がある。この内、東の南尾根にある曲輪群だけ途中まで確認した。この南尾根曲輪群は2本の堀切を穿ちながら段曲輪群を展開している。ずっと降った先にもそこそこ大きな堀切があるようだが、結構竹薮が酷いのでパスした。
 主城部の東中腹にも車道脇に遺構がある。この東郭群は、墓地がある平場の先に幅広の土塁が築かれ、その下に幅広の空堀と土壇状の腰曲輪がある。畝状空堀はないが、摩頂山南砦とよく似た遺構である。
 車道を挟んで北東の小峰にも遺構がある。この北郭群は、細尾根の基部に土橋を削り残した竪堀を両側に穿ち、その上の小峰に大穴のある物見台が築かれている。この穴は櫓などの建物地下室の跡だろうか?周囲には猫の額ほどの小さな腰曲輪が築かれ、東尾根には二重堀切が穿たれている。この二重堀切の南側は竪土塁・竪堀が長く下っている。東尾根はその少し先にも堀切があって城域が終わっている。この最東部の堀切も南に長く下っている。
 以上が摩頂山城の遺構で、ほぼ全域が竹薮となっていて、少々遺構の確認がし辛いのが難である。おまけに遺構が散らばっているので、体力温存と時間の制約で踏査しなかった遺構もあることをお断りさせていただく。
主郭群の段差→DSCN8591.JPG
DSCN8624.JPG←南尾根曲輪群の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.796510/137.010455/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:中世山城
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守山城周辺遺構群(富山県高岡市) [古城めぐり(富山)]

 守山城の項で記載した通り、二上山塊の広範囲に守山城の関連遺構が散在している。その内のいくつかを踏査したので、ここに記載する。

<向山屋敷>
DSCN8124.JPG←A郭東端の竪土塁
 向山屋敷は、守山城の大手道「殿様道」が通る尾根の東向かいの尾根南端部に築かれている。2つの尾根に挟まれた谷は「内輪子」と呼ばれ、ここには中下級の家臣団屋敷があったのではないかと推測されている。それに対し向山屋敷は、前田利長期の重臣クラスの家臣団屋敷の一つと考えられている。

 登道はないので、南の斜面を直登した。但し、眼の前の県道は車の往来が多いので、不審者と間違われないようにタイミングは見計らう必要がある。『守山城跡詳細調査概報1』の測量図を参照すると、屋敷跡と見られる大きな平場Aがあり、その東端に土塁が築かれている。土塁の東には上下2段の平場で構成されたB郭があり、ここにも竪土塁が築かれている。B郭の下方には腰曲輪的なC郭があり、竪堀が落ちている。またA郭の北東の尾根の北筋には堀切が2本穿たれており、堀切に挟まれた小郭は物見台のように思われる。それ以外はほとんど自然地形の尾根である。向山屋敷の西側下方には向山西屋敷、北側下方には対馬屋敷という平場が残るが、時間の都合で未踏査である。尚、対馬屋敷は前田対馬守長種の屋敷跡であった可能性があると言う。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.778054/137.004297/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


<二上山城>
主郭→DSCN8390.JPG
 二上山城は、守山城の前身の城と推測されている。その存在が公にされたのは平成19年発行の『守山城跡範囲確認調査概報Ⅰ』の中である。そこでは、二上山城に大規模な曲輪や切岸がないことから、南北朝期から戦国前期にかけて構築・使用されたものと推測している。即ち、南北朝期の文献に出てくる「獅子頭」城とは、この二上山城のこととする説である。また神保慶宗期の史料には「二上城」「二上要害」と書かれ、天文年間(1532~55年)以降の神保長職期になって初めて「守山城」の名が現れることから、天文年間になって現在の守山城が新たに構築されたとの説を提示している。

 二上山城は、標高274mの二上山に築かれている。現在遊歩道が整備されている。山頂の主郭には日吉神社の祠がある。遊歩道設営による改変が多いため、主郭以外に見るべき遺構は少ない。主郭は南北に長い平場であるが、土塁等は見られない。北東と南西には段曲輪らしい小さい平場がある。南西の尾根には片堀切も含めて6本の堀切があるとされるが、自然地形とほとんど区別がつかない。また主郭から北西の遊歩道を下っていくと、下の方に小郭と堀切があるとされるが、薮のせいもあってこれも判然としない。その更に下には薮に覆われた広い平場があるが、遺構かどうかは明確ではないらしい。以上のような感じで、砦レベルのものはあったかもしれないが、同じ南北朝期創築の千代ヶ様城などと比べても、遺構面で見劣りする。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.789981/137.015433/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


<摩頂山南砦>
DSCN8486.JPG←畝状空堀の一つ
 摩頂山南砦は、二上山と摩頂山の中間にある標高240m程の峰に築かれている。守山城の関連遺構とも考えられるが、東方への備えを持った縄張りであることから、北西にある摩頂山城を守る拠点としての性格が強いのではないかとの説が提示されている。

 摩頂山南砦は、南北に走る細尾根上に主郭を含む2つの曲輪を置き、その南から西に伸びる尾根筋と、主郭の東下方に遺構を配置している。主郭もその北にある曲輪も、大した面積はなく居住性はない。西尾根は、尾根の付け根に両側にハの字に落ちる竪堀を穿っている。尾根途中は自然地形だが、先端近くに小堀切があり、その先には物見台、堀切の南側下方には腰曲輪を築いている。腰曲輪の両側から竪堀が落ちている。一方、主郭の東下方には複雑な遺構がある。主尾根の東直下に幅広の横堀が穿たれ、その脇に腰曲輪が置かれている。腰曲輪の東辺は一段高い土壇状の幅のある曲輪となっているが、ここを3本の空堀(畝状空堀)で刻んでいる。その東にも横堀が穿たれ、3本の畝状空堀はこの横堀に直交している。更にその東には帯曲輪があり、もう1本の横堀で東側を分断している。曲輪内部を刻む畝状空堀は、富山県内では升形城・中村山城・広瀬城などに類例があると言う。いずれも天正年間(1573~92年)の上杉氏・佐々氏の城であったことから、摩頂山南砦も戦国末期の遺構と推測されるようである。基本は細尾根城郭であるが、空堀群を組み合わせた遺構は特異である。
 尚、道はないので適当に斜面に取り付くしか砦に行く方法はない。しかも当然、内部は薮である。
畝状空堀の東にある横堀→DSCN8497.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.793555/137.014189/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集〈3〉西部(氷見市・高岡市・小矢部市・礪波市・南礪市)・補遺編

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  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2013/12/01
  • メディア: 大型本


タグ:中世山城
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守山城(富山県高岡市) [古城めぐり(富山)]

DSCN8204.JPG←三の丸門口の土塁と虎口
 守山城は、二上城とも言い、越中3大山城の一つである。守山は古くは「獅子頭」と呼ばれ、南北朝時代に能登守護吉見氏の軍勢が、幕府に敵対する桃井直信(元越中守護桃井直常の弟)らの拠点獅子頭などを攻めたことが軍忠状に見えており、これが後の守山城の史料上の初見である。室町時代に畠山氏が越中守護となると、守山城は射水・婦負郡守護代となった神保氏の拠点となった。神保氏は最初、放生津城を居城としたが、1519年、越前守慶宗の時には、越中守護畠山尚順の要請に応じた越後の長尾為景らの攻撃を受け、二上城に立て籠もっている。このことから当時守山城は、放生津城の詰城としての性格を有していたと推測されている。1554年には、神保長職の一族神保職広が守山城主であったことが知られる。1560年、上杉謙信が神保長職討伐のため越中に侵攻し、富山城増山城を次々に攻略して長職を駆逐すると、守山城は自落している。その後、長職が上杉氏に降ると、神保氏張が守山城主となった。1578年に謙信が急死すると、その動揺の隙を突いて織田信長は越中への侵攻を開始し、氏張は織田方に転じた。1581年、信長の部将佐々成政が越中に分封されると、氏張は成政に仕えてその有力部将となった。また成政は、越中入国当初は氏張の居城守山城に在城したとも言われており、守山城の高い軍事上の位置づけを示すものとされる。1584年、成政が加賀・能登を領有する前田利家と対立すると、能登との国境線上にある荒山砦には氏張の家臣袋井隼人が置かれ、守山城は氏張父子が4千余の兵で守ったという。翌85年8月、成政が豊臣秀吉の討伐を受けて降伏すると、新川郡を除く越中3郡が前田利家の子利長に与えられ、利長は加賀松任城より守山城に入って居城とした。1590年の小田原の役の際、前田氏も北国勢を率いて出陣すると、守山城には前田対馬守長種が留守将として入った。以後もしばらく利長は守山城を居城とした。1597年10月に利長が富山城に居城を移すと、再び長種が守山城を預かったが、翌年には廃城になったと考えられている。

 守山城は、二上山南西の尾根続きにある標高258.9mの城山に築かれている。本丸からは東に向かっては富山平野と富山湾の全域が、北に向かっては氷見地域全域が一望でき、この城の重要性と城を築いた理由がよくわかる。本丸周辺は公園化されて大きく改変されているが、大まかな遺構は確認できる。本丸の西と南には腰曲輪が数段あり、本丸南西部の切岸にはわずかに石垣が残っている。南下方には舌状の二の丸、二の丸の南西尾根には長い三の丸とその先には段状に曲輪群が展開している。三の丸の付け根には門口の土塁が残り、中央に虎口が開いている。門口の裏は堀切状の城道となっていて、二の丸西側の帯曲輪に通じている。またここから南西に向かって、三の丸の尾根に沿った帯曲輪が伸びている。その先は車道が貫通している。
 一方、城の中心部から少々離れた西尾根にも曲輪群がある。薮だらけだが平場群と切岸が確認でき、西の先端には堀切が穿たれ、その先は物見台となっている。
 南東尾根の車道から下の尾根には、殿様道の曲輪群がある。尾根に沿って段曲輪群があり、下方には竹林になった広い曲輪がある。この曲輪の西端部には竪土塁で区画された大きな竪堀状の通路があり、かつての大手道ではないかと想像される。
 本丸の後方には高台に鉄塔が建っているが、この後部には堀切らしい地形が残る。
 以上が守山城の遺構であるが、高岡市教育委員会の調査報告書によれば、二上山塊の広範囲に遺構が散在している。本項で記載したのは広大な遺構群の中心部分だけであり、その他の遺構については項を改めて記載することにする。
本丸南西に残る石垣→DSCN8168.JPG
DSCN8263.JPG←西尾根の堀切
殿様道の竪堀状通路→DSCN8283.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.787180/137.009350/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

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  • 作者: 佐伯哲也
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/08/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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太田本郷城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN8075.JPG←屈曲する堀跡らしき水路
 太田本郷城は、上杉氏によって築かれた城である。1572年、上杉謙信の部将河田長親が一向一揆に備えてこの地に陣を張ったのが初見で、翌年謙信が富山城に拠る一揆勢を包囲した際に築いた向城群の一つであったとされる。これが実質的な城の始まりと考えられている。1578年に謙信が急死すると、その動揺の隙を突いて織田方が飛騨方面から越中に侵攻を開始した。9月24日、織田方の部将斎藤利治が尾張・美濃の織田軍を率いて侵攻すると、津毛城の上杉方城将椎名小四郎(長尾景直)・河田長親は戦わずして津毛城を退去し、今泉城に撤退した。上杉勢が退去した津毛城には織田方の部将神保長住が入城し、利治は太田本郷城に陣を敷いた。そして利治は、今泉城にいる河田・椎名ら上杉勢を攻め、10月4日に月岡野で上杉勢を破った。

 太田本郷城は、円光寺を含む一帯にあったとされる平城で、車道脇に城址碑と解説板が立っている。平成3年と平成12年に実施された発掘調査の結果、2本の堀跡が確認され、南北2郭以上で構成されていたと推測されている。現在残っているのは外堀跡だったと思われる屈曲した水路だけで、その他は畑・駐車場、円光寺の境内となって遺構は湮滅している。早くに失われた城で、残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.660062/137.243335/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国革命

戦国革命

  • 作者: 吉村正夫
  • 出版社/メーカー: 北國新聞社出版局
  • 発売日: 2016/10/05
  • メディア: 単行本


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月岡野古戦場(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN8065.JPG←古戦場跡の祠
 月岡野古戦場は、1578年10月4日に織田方の部将斎藤利治が上杉勢方の椎名小四郎(長尾景直)・河田長親と戦って大勝した古戦場である。その経緯は津毛城の項に記載する。尾張・美濃の織田軍を率いた斎藤勢が来攻すると、津毛城の上杉方城将椎名小四郎(長尾景直)・河田長親は、戦わずして津毛城を退去し、今泉城に撤退した。今泉城の守りは固く、攻めあぐねた利治は一計を案じ、夜半になって撤退を開始して上杉勢を城からおびき出した。この罠にかかって城から出た上杉勢は、複雑な地形の月岡野で逆襲に転じ、首級360を上げる大勝をあげた。この勝利によって越中の勢力図は塗り替えられ、上杉勢は一気に後退し、越中に織田方の勢力が扶植される画期となった。

 月岡野古戦場は、「月刊グッドラックとやま」の記事によれば、月岡野で討ち取られた首級は首塚に埋められ、その塚から出土した石仏が開発駅近くの県道43号線脇に祠として安置されているという。解説板も標柱もないが、祠だけが人知れず戦いの歴史を伝えている。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.636356/137.242262/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


地図と読む 現代語訳 信長公記

地図と読む 現代語訳 信長公記

  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
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タグ:古戦場
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津毛城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN8057.JPG←城址の現況
 津毛城は、越中に進出していた上杉氏が、飛騨方面からの織田勢の富山侵攻を食い止める前線拠点となった城である。確証はないが、元々の創築は南北朝期の武将桃井播磨守直常によると言われる。桃井氏の事績は桃井城の項に記載する。江戸時代の文書によれば「ツケノ城」「附之城」などと記されており、これが津毛城の本来の城名であったらしい。それによれば、飛騨の三木良頼の部将で戸川(栂尾)城主塩屋筑前守秋貞が、樫ノ木城を攻撃するために築いた付城であったとされている。その時期は、永禄・元亀年間(1558~73年)頃と推測されている。その後、越後の上杉謙信が越中に進出すると、上杉氏の家臣村田修理(縫殿助)が城将となり、上熊野城主二宮氏と頻りに交戦したと伝えられる。1578年に謙信が急死すると、その動揺の隙を突いて織田方の神保長住が飛騨から侵攻した。更に9月24日、織田方の部将斎藤利治が尾張・美濃の織田軍を率いて来援すると、津毛城の上杉方城将椎名小四郎(長尾景直)・河田長親は、戦わずして津毛城を退去し、今泉城に撤退した。上杉勢が退去した津毛城には、神保長住が入城した。10月4日、利治は月岡野で河田・椎名らの上杉勢と戦って大勝し、首級360を上げた。その後、織田方が富山城付近を確保するまでの間、津毛城も織田方の拠点として守られていたと推測されている。

 津毛城は、熊野川とその支流黒川の合流点に東から突き出た段丘先端部に築かれている。残念ながら1960年代後半に城跡は大規模な土砂採取によって消滅し、その後は福沢小学校などの校地に変貌している。従って遺構は全く残っていない。しかし昭和30年代後半の航空写真を見ると、東側を区画するクランクした空堀が畑地の中にはっきりと見え、クランク部に虎口の存在も確認できる。現在は、崖に囲まれた丘陵の地勢だけが城の名残を伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.603169/137.257605/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図説 上杉謙信

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  • 作者: 今福 匡
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  • 発売日: 2022/03/18
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新宮山城(富山県立山町) [古城めぐり(富山)]

DSCN8000.JPG←参道側方の竪堀状の堀底道
 新宮山城は、1579年に長連龍が岩倉薩摩が籠城する岩倉城を攻め落としているが、この岩倉城のことと推測されている。

 新宮山城は、岩峅寺駅南東にある比高わずか35m程の丘陵先端部に築かれている。主郭には熊野神社が建っているので、参道が整備されており、何の苦もなく登ることができる。そんな城なので、全く期待せずに登っていたら、参道横に突然L字型の堀底道(竪堀)が現れた。完全に油断してたので、立派な遺構にびっくりした。この脇には2段の腰曲輪が築かれている。堀底道の横を抜けて登ると、上の腰曲輪には両側に土塁が築かれた虎口が開かれ、段を経由して登城路は屈曲していくので、枡形虎口を形成していたと考えられる。その上には主郭の切岸が立ちはだかっており、この部分の虎口構造は技巧的で、織豊系山城の先駆け的な様相を呈している。主郭には神社が建っているが、脇に土塁が残り、東に高台が張り出している。南斜面には小堀切と土壇が築かれている。以上が新宮山城の遺構で、小さい城であるが前面の虎口構造が特徴であり、織田武将である長連龍による攻略後の使用・改修が推測されるという佐伯哲也氏の説は首肯できる。
虎口→DSCN8023.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.605081/137.326645/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集 1(中央部編(富山市・中新川郡

越中中世城郭図面集 1(中央部編(富山市・中新川郡

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2023/11/12
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タグ:中世平山城
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池田城(富山県立山町) [古城めぐり(富山)]

DSCN7880.JPG←5郭から見た竪堀と4郭
 池田城は、1569~70年に越中有数の国人であった寺島職定の居城であったと伝えられる。寺島氏は、越中の射水・婦負郡守護代神保氏の重臣であった。この時期、上杉謙信が越中に侵攻して松倉城の椎名氏を攻撃しており、寺島氏は反上杉方として芦峅寺衆徒らの力を借りて城の守りを固めている。寺島氏は、1577年には上杉氏に属した。1583年、佐々成政が弓庄城を攻撃した際には、池田城も戦場となったと言う。成政入国後は佐々氏に仕え、佐々氏が肥後へ移ると前田氏に仕えたとされる。また別説では金森中務が城主であったとも言われるが、判然としない。

 池田城は、池田集落の南にある標高375mの城山に築かれている。北麓の林道脇に解説板があり、ここから登道が整備されている。登道は、釜池の東の尾根に至り、尾根沿いに登っていく。城域までは結構距離があり、山間にある山奥の城である。10分ほど登ると「櫓」と標柱がある高台に至る。高台上には「のろし台跡」と手書きの標柱があり、その後部には長い一騎駆けの土橋がある。これらの遺構は、現地解説板にある佐伯氏の縄張図には描かれていない。その先は堀底状通路があり、土橋が架かった幅広の堀切が穿たれ、その上に前衛の物見台が築かれている。その先も再び堀底状通路があり、その先に堀切が穿たれ、その上に主城部がある。堀切の上は大きな段差の切岸になっていて、アルミ梯子が設置されている。その上に5段の曲輪群が連郭式に築かれている。現地標柱では、下から順に5郭・4郭・3郭・2郭とあり、最上段が主郭で最も広い。5・4・3・2郭の間は比較的大きな段差で区画されているが、2郭と主郭の間の段差は小さく、2郭は主郭に付随する性格が強い曲輪であった様である。これらの内、5郭・4郭の側方にL字に湾曲した竪堀が穿たれている。主郭は中央に土壇があり、その南東部は低くなって腰曲輪状を呈している。主郭は縦長だが南西側に大きく張り出した形状で、南西尾根に腰曲輪2段を築き、その先に幅広の堀切を穿ち、更に尾根の先にもう1本土橋が架かった堀切を穿って背後を遮断している。また主郭の東側には腰曲輪が築かれ、3郭との間に大竪堀を穿って導線を遮断している。往時はここに木橋を架けて曲輪間を連絡していたのだろう。この他、5郭手前の堀切から西側に進むと千畳敷と呼ばれる区画に出る。最上段は普通の腰曲輪であるが、下方に大きな平場がある。しかし薮だらけなので、踏査はしていない。千畳敷最上段の腰曲輪の先には大竪堀が穿たれ、その先に物見台の土壇と堀切状の通路があり、その先にも腰曲輪が続いている。以上が池田城の遺構で、幅広の堀切・竪堀を使って各部を防御した城である。
5郭切岸と堀切→DSCN7858.JPG
DSCN7933.JPG←南西尾根の幅広の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.609163/137.360280/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


城館調査の手引き

城館調査の手引き

  • 作者: 中井 均
  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2016/08/27
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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郷田砦(富山県上市町) [古城めぐり(富山)]

DSCN7785.JPG←土橋
 郷田砦は、弓庄城の至近にある城砦である。築城については3つの説があり、(1)上杉謙信との合戦の際に弓庄城主土肥美作守政繁が出城として築いた(家老の桂田善左衛門が守将)、(2)上杉謙信が弓庄城攻撃の際に向城として築いた、(3)1583年に佐々成政が弓庄土肥氏を攻撃した際の陣城、などである。『日本城郭大系』では、初め土肥氏の出城であったものを、佐々成政が奪って向城として利用したのではないかと推測している。

 郷田砦は、弓庄城の東方600mにある、比高30mの丘陵先端部に築かれている。丘陵基部は鞍部となっており、なかば独立丘陵の体をなしている。鞍部に小道が通り、その脇に墓地があるが、これも往時の曲輪跡と考えられている。城はその北に遺構が残っているが、全域劇薮で踏査は困難を極める。それでも薮をかき分けて進むと、南の主郭虎口には土橋と堀切があるのが辛うじて確認できる。主郭は西辺以外を土塁で囲んでいるようだが、薮が酷すぎてほとんど確認できない。また薮がやや少ない西の腰曲輪を経由して北側に回り込むと、主郭北に坂虎口があるのが確認できた。主郭周囲は、2~3段の腰曲輪で取り巻いている。簡素で小規模な城砦で、いかにも戦時に一時的に築かれた砦という趣である。
主郭切岸と腰曲輪→DSCN7802.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.675570/137.368991/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


北陸の名城を歩く 富山編

北陸の名城を歩く 富山編

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2022/09/01
  • メディア: 単行本


タグ:陣城
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柿沢城(富山県上市町) [古城めぐり(富山)]

DSCN7722.JPG←二ノ郭腰曲輪の三重竪堀
 柿沢城は、弓庄城主土肥氏の支城である。弓庄系土肥氏は、白岩川・大岩川流域に高原城-弓庄城-柿沢城-茗荷谷山城という城館群を築いており、これらは弓庄城を本拠とし、その支城群と捉えられる。柿沢城主は弓庄城主土肥美作守の兼帯、または美作守の家老桂田善左衛門と伝えられている。位置関係から本城の弓庄城と詰城の茗荷谷山城とを結ぶ繋ぎの城であったと推測されている。

 柿沢城は、大岩川東方の標高169.5m、比高110mの山上に築かれている。明確な登道はなく、尾根への取り付き方もよく分からず、結局北西の谷地に入り込み、尾根を目指して直登した。縄張図によれば、山頂の主郭までの間の尾根上に5つの曲輪を連ねた連郭式の城としているが、一部の曲輪を除いて普請は大雑把で塁線がはっきりせず、そのため縄張図のどこを歩いているのか分かりづらかった。遺構がはっきりしてくるのは、北西から3つ目の曲輪で、三ノ郭に当たると思われる。後部に櫓台を築き、その背後に堀切を穿っている。堀切の上には二ノ郭が築かれている。二ノ郭自体は単なる平場であるが、西側に腰曲輪を築き、そこには三重竪堀が穿たれている。二ノ郭の東には繋ぎの曲輪があり、その東に四角形の主郭がある。主郭はL字型の土塁を築いて後方を防御し、土塁のない切岸には浅い畝状竪堀が穿たれている。柿沢城は、全体的に大雑把な普請の城であるが、畝状竪堀や三重竪堀で防御を固めているのは特徴的である。能登・越中の城で畝状竪堀と言うと上杉氏勢力が介在した城の代名詞であるので、この城も弓庄系土肥氏が上杉氏に属していた時期に、上杉氏勢力の改修を受けたのかもしれない。
二ノ郭手前の堀切→DSCN7702.JPG
DSCN7753.JPG←主郭切岸の畝状竪堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.678495/137.376920/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


パーツから考える戦国期城郭論

パーツから考える戦国期城郭論

  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2021/02/26
  • メディア: Kindle版


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茗荷谷山城(富山県上市町) [古城めぐり(富山)]

DSCN7618.JPG←主郭
 茗荷谷山城は、弓庄城主土肥氏の支城である。弓庄系土肥氏は、白岩川・大岩川流域に高原城-弓庄城-柿沢城-茗荷谷山城という城館群を築いており、これらは弓庄城を本拠とし、その支城群と捉えられる。茗荷谷山城は弓庄城主土肥美作守政繁の「奥城」で、城主は政繁が兼帯していたとも言われる。或いは土肥左衛門の名も伝わっている。弓庄城系統の城館群では最奥の最高所に築かれており、最終的に籠城するべく築かれた城と推測される。しかし弓庄系土肥氏は、1582~3年に佐々成政の攻撃を受けた際、平地の弓庄城に籠城し、遂に茗荷谷山の奥城に拠ることなく、成政と和を結んで越後へ退去した。

 茗荷谷山城は、標高446.5mの峻険な城ヶ平山に築かれている。トレッキングで有名な山らしく、登山者が多数おり、西麓の日石寺付近にある駐車場は車が入り切らず路肩駐車している車が多数あった。山頂の主郭までの比高は312mもあるが、登山道が整備されているので、時間は掛かるが迷わず登ることができる。登り始めてしばらくすると、西向きの緩斜面に段々の平場が残っている。石積みもあり、昔の畑跡と思われるが、木戸口の様な部分や平場手前の横堀の様な地形があり、往時の遺構である可能性も捨てきれない。登り始めて25分ほどすると、南西尾根に穿たれた最初の堀切に行き当たる。中規模で、しっかりした普請がされている。その先には散発的に堀切や曲輪らしい平場が現れるが、やや不明瞭である。主郭手前は急登の連続となり、数段の段曲輪を経てようやく主郭に至る。主郭はトレッキングの山らしく、全周の眺望がひらけ、富山湾が一望できる他、剱岳もよく見える。しかし曲輪としては削平が甘く、塁線もはっきりせず、ほとんど自然地形に近い。主郭の北には堀切を挟んで平場があり、その先で尾根は東と北に分かれる。登山道は東尾根に続いており、これを降っていくと、2本の堀切が間隔を空けて穿たれている。ここの堀切も中規模でしっかり穿たれている。一方、北尾根の方は未整備の劇薮で、堀切はかろうじて分かる程度であるが北端に物見台があるのが確認できる。以上が、茗荷谷山城の遺構で、堀切などが広範囲に散在し、求心性のない縄張りであるが、それは山の地形自体を最大の武器としているからだろう。眺望が素晴らしいので、天気の良い日に登りたい城である。
南西尾根の堀切→DSCN7567.JPG
DSCN7635.JPG←東尾根の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.666156/137.402637/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

  • 作者: 佐伯哲也
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/08/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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千石山城(富山県上市町) [古城めぐり(富山)]

DSCN7457.JPG←南東尾根の2本目の堀切
 千石山城は、堀江城主土肥氏の支城である。堀江系土肥氏は、上市川流域に有金館-堀江城-郷柿沢館稲村城-千石山城という城館群を築いており、これらは堀江城を本拠とし、その支城群と捉えられる。千石山城は堀江城の「奥城」と伝えられ、上市川流域の城館群では最奥の最高所に築かれており、最終的に籠城するべく築かれた城と推測される。1583年に土肥氏が佐々成政との抗争に備えて構築した可能性が指摘されている。

 千石山城は、標高757.6mの千石城山に築かれている。まともに麓から登ったら大変な山だが、幸い南東の尾根まで車道があり、大した苦労をせずに登ることができる。車道のヘアピンカーブの脇から登山道が整備されている。登り口から城域到達までは思ったより遠く、最初の堀切まで15分ほど掛かる。この南東尾根には合計3本の堀切が距離を隔てて穿たれている。その先に主郭がある。主郭は広いが、やや起伏のある曲輪で、西から北にかけて腰曲輪を伴っている。主郭は整備されており、ベンチや解説板があるが、周りに木々があって眺望は良くない。腰曲輪は薮が酷いが、竪堀が穿たれているのが確認できる。また北西の尾根を降っていくと、二重堀切が穿たれている。堀切は、この北西尾根のものも前述の南東尾根のものも、中規模でしっかりした普請がされている。この他、縄張図には描かれていないが、南東尾根で城域から離れた所に幅広の横堀(堀切)状地形があり、これも遺構であった可能性があるが、薮が多くて判然としない。以上が千石山城の遺構で、峻険な地形に更に多重堀切で防御を固めた、いかにも最後の砦らしい城である。
主郭→DSCN7473.JPG
DSCN7501.JPG←北西尾根の二重堀切の外堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.669185/137.453288/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集 1(中央部編(富山市・中新川郡

越中中世城郭図面集 1(中央部編(富山市・中新川郡

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2023/10/25
  • メディア: 大型本


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稲村城(富山県上市町) [古城めぐり(富山)]

DSCN7403.JPG←主郭の物見台
 稲村城は、堀江城主土肥氏の支城である。城主は土肥源七郎、土肥左衛門等と伝えられる。堀江の奥城であったと言われることから、堀江城の詰城として機能していたと推測される。

 稲村城は、上市川ダムの北にそびえる標高348mの城山に築かれている。東麓の車道に登り口の案内板が出ているが、肝心の登り口には表示がないので、少々面食らう。しかし墓地脇から奥の林に入ればよい。山頂までは尾根筋を上がっていく登道が整備されているが、斜度のきつい尾根道である。山頂近くになると、東郭が現れる。先端が櫓台状となり、その背後に小堀切が穿たれている。その後ろに尾根上の曲輪があり、その後部にもう1本の堀切、曲輪の側方には腰曲輪を築いている。ここからさらに登ると、山頂の主郭に至る。綺麗に削平された広い曲輪で、北西端には物見台が築かれている。主郭の内部には穴が開いているが、『日本城郭大系』によると立山寺に通じていたとの伝承がある抜け穴の跡とされる。現存する抜け穴遺構は極めて珍しい。主郭の西尾根には小さな二ノ郭があり、3段程の平場に分かれている。この他、主郭の北東の尾根にも小郭と堀切がある。以上が稲村城の遺構で、比較的小規模な詰城である。
主郭の抜け穴→DSCN7418.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.681800/137.417164/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


北陸の名城を歩く 富山編

北陸の名城を歩く 富山編

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2022/09/01
  • メディア: 単行本


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城の上砦(長野県松本市) [古城めぐり(長野)]

DSCN7346.JPG←堀跡
 城の上砦は、西牧城主西牧氏が於田屋館を中心とする本拠地防衛のために築いた城砦群の一つである。西牧台地東の段丘崖に本神沢川の浸食谷が入り込み、その北側の段丘角部に築かれている。ほぼ単郭の砦であったようで、現在は西側の堀の一部が残っているだけである。この堀も北に登った所で耕地化で消滅してしまっている。主郭は畑になっている。遺構はわずかだが、砦を築くにふさわしい地勢である事はわかる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.229294/137.864406/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


歩いて楽しむ信州 善光寺 松本

歩いて楽しむ信州 善光寺 松本

  • 出版社/メーカー: JTBパブリッシング
  • 発売日: 2020/07/29
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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伊藤坂上砦(長野県松本市) [古城めぐり(長野)]

DSCN7326.JPG←わずかに残る主郭堀切
 伊藤坂上砦は、西牧城主西牧氏が於田屋館を中心とする本拠地防衛のために築いた城砦群の一つである。西牧台地東の段丘崖に谷が入り込み、その南側に北東に向かって突き出た台地上に築かれている。現在残っているのは、先端の主郭と、その南西の二ノ郭だけであるが、往時はもっと南にも外郭があったらしい。主郭・二ノ郭は林に、外郭は畑に変貌している。車道脇の薮の中に二ノ郭背後の堀切がわずかに残る他、二ノ郭と主郭の間の堀切もわずかに窪地となって残っている。北側の切岸ははっきりしており、砦があったことが明瞭である。尚、超マイナーな城砦であるが、近くの果樹園で作業中だった方は砦のことをご存知だった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.225520/137.861874/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


新装改訂版 信州の城と古戦場

新装改訂版 信州の城と古戦場

  • 作者: 南原公平
  • 出版社/メーカー: しなのき書房
  • 発売日: 2009/06/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世崖端城
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桜坂上砦(長野県松本市) [古城めぐり(長野)]

DSCN7315.JPG←崖下から見た堀跡
 桜坂上砦は、西牧城主西牧氏が於田屋館を中心とする本拠地防衛のために築いた城砦群の一つである。梓川北方の段丘崖上に築かれている。空堀で区画された3つの曲輪を東西に並べていた様だが、現在は住宅の裏になっていて、ほとんど入れない。西の畑裏や崖下から薮をかき分けて、ようやく一部の堀跡が確認できた程度である。残存遺構がわずかで、少々残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.214978/137.850759/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


日本100名城公式ガイドブック スタンプ帳つき(歴史群像シリーズ)

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  • 作者: 日本城郭協会
  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2020/09/14
  • メディア: ムック


タグ:中世崖端城
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波田山城(長野県松本市) [古城めぐり(長野)]

DSCN7146.JPG←主郭の虎口郭
 波田山城は、最初は信濃守護小笠原氏の一族櫛木氏、後には小笠原氏家臣の波田氏が城主であった。1462年頃、櫛木市正(いちのかみ)一俊が波田郷の地頭となり、西光寺内城と波田山城を築いた。飛騨・木曽方面の境を固めるとともに対岸の西牧城主西牧氏に備えた。子の紀伊守政盛まで2代在城したと言う。戦国期には信濃守護小笠原長時の旗本波田数馬が城主となった。長時が甲斐の武田信玄に駆逐されると、深志城代日向大和守により1552年に西光寺内城と波田山城は破却された。

 波田山城は、梓川の南方にある標高977m、比高210m程の峰に築かれている。城の南側に遊歩道があり、そこから城への登道が整備されている。中央に長円形の主郭(本城)を置き、北に二ノ郭(北城)、南に三ノ郭(南城)、更に南に四ノ郭を配し、それぞれ堀切で分断しており、連郭式の縄張りを基本としている。そしてそれらの周囲に幾重にも腰曲輪群を築き、堀切から落ちる長い竪堀は、これらを貫通して落ちている。遺構はしっかりと残り、堀切などの普請もしっかりなされているが、如何せん至る所に入山禁止の看板があり、主郭周り以外はあまり自由に見て回ることができない。主郭は低土塁で囲まれ、西側中央に築かれた虎口の外には、腰曲輪より一段高い虎口郭が置かれている。縄張図を見ると、腰曲輪群の中にいくつも竪堀が穿たれているようである。遺構はよく残っているが、入山禁止エリアが多く消化不良気味になる城である。
主郭~三ノ郭間の堀切→DSCN7157.JPG
DSCN7217.JPG←堀切から長く落ちる竪堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.183654/137.837155/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃の山城と館 第4巻(松本・塩尻・筑摩編)―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

信濃の山城と館 第4巻(松本・塩尻・筑摩編)―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/04/01
  • メディア: 単行本


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日岐氏館(長野県生坂村) [古城めぐり(長野)]

DSCN7078.JPG←館跡の現況
 日岐氏館は、日岐殿屋敷とも言い、日岐氏の歴代の居館があった場所である。日岐氏の事績については日岐城の項に記載する。

 日岐氏館は、日岐城北東麓の犀川に面した平地にある。裏日岐と呼ばれる地域で、現在は宅地と畑・果樹園に変貌している。表示板裏の解説文によると、往時は土塁が築かれ、建物礎石も残っていたらしい。この平地の南端近くには、番所屋敷があったらしく、表示板が立っている。遺構はないが、西上段の正福寺跡には日岐氏一族の墓が残っている。
日岐氏の墓→DSCN6963.JPG


 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.423967/137.941976/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望―天正壬午の乱から小田原合戦まで

武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望―天正壬午の乱から小田原合戦まで

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2011/06/01
  • メディア: 単行本


タグ:墓所 居館
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日岐城(長野県生坂村) [古城めぐり(長野)]

DSCN7026.JPG←わずかに残る主郭石積み
 日岐城は、信濃の名族仁科氏の一族日岐氏(日岐丸山氏)の居城である。1492年頃に生坂谷に進出して裏日岐に居館を構え、日岐城を築いたと言われる。仁科明盛の2男盛慶は、生坂の丸山氏に入婿して丸山氏を嗣ぎ、、肥後守を称したと言う。盛慶以後、盛高・盛次・盛武など約100年に渡る居城となった。その間、甲斐武田氏が信濃に侵攻すると、武田氏に降り、北信濃の川中島進出の際には道筋の守りを担当した。1582年、武田氏滅亡、織田信長横死後に生起した天正壬午の乱の際、深志城を回復した小笠原貞慶は、筑摩・安曇郡の旧領回復を目指して軍事行動を開始し、8月初旬、日岐氏の拠る日岐城を攻撃した。激しい攻防の末、9月上旬に日岐城は攻略されたが、日岐盛直・耳塚作左衛門尉は日岐大城に立て籠もって抵抗を続けた。翌83年8月、貞慶は、籠城衆を調略してようやく日岐大城を攻略した。日岐盛直・盛武兄弟、耳塚作左衛門尉、穂高盛棟らは一族を引き連れて城を脱出し、上杉氏のもとに逃れたと言う。また別説では盛武は小笠原氏に降って許され、小笠原氏に従って各地を転戦し、1590年に小笠原氏が関東に転封となるとそれに従ってこの地を離れたとも言われる。

 日岐城は、犀川曲流部に西から突き出た標高620mの山上に築かれている。北麓から登道が整備されている。これを登っていくと左手に広い高台が広がっており、『信濃の山城と館』によると大手曲輪とされている。水の手もあるらしいが、薮が多くよくわからない。更に登っていくと、東尾根の鞍部に至る。ここから東に進むと、小ピークの高台(物見曲輪)があり、見張台跡の表示板がある。後部に高台を築いた曲輪の北に、2段の腰曲輪を築いている。逆に西に進むと三ノ郭に至る。途中には2~3段の腰曲輪がある。三ノ郭は楔形をした平坦な曲輪で、後部の細尾根の鞍部には堀切が穿たれている。その上に二ノ郭がある。二ノ郭は先端に土塁が築かれ、後部が1段低くなり、主郭との間には堀切が穿たれている。その上が城内最高所で主郭が築かれている。主郭は西側が1段高く櫓台のようになっている。主郭東辺には石積みがわずかに残っている。主郭の南尾根には段曲輪が3段あり、上段の段曲輪の側方に虎口が開かれ、下の段曲輪に通じている。中段の段曲輪の西辺には石積みのある土塁が築かれている。また主郭の西尾根には、堀切が穿たれ、その先の細尾根脇に竪堀2本が穿たれ、その先に小堀切、更に先の尾根に一番規模の大きな堀切が穿たれて、城域が終わっている。基本は連郭式の縄張りであるが、途中の繋ぎの尾根が細いため、二ノ郭・三ノ郭・物見曲輪は離れて配置されている。曲輪はいずれも小さく、居住性はほとんどなかったと思われ、有事の際の詰城であったものだろう。
二ノ郭後部の堀切→DSCN7014.JPG
DSCN7068.JPG←城域最西端の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.420618/137.937512/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲信越の名城を歩く 長野編

甲信越の名城を歩く 長野編

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/12/21
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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日岐大城(長野県生坂村) [古城めぐり(長野)]

DSCN6880.JPG←主郭
 日岐大城は、日岐城主日岐氏(日岐丸山氏)の支城である。1582年の天正壬午の乱の際、深志城を回復した小笠原貞慶は、筑摩・安曇郡の旧領回復を目指して軍事行動を開始し、8月初旬、日岐氏の拠る日岐城を攻撃した。激しい攻防の末、9月上旬に日岐城は攻略されたが、日岐盛直・耳塚作左衛門尉は日岐大城に立て籠もって抵抗を続けた。翌83年8月、貞慶は、籠城衆を調略してようやく日岐大城を攻略した。日岐盛直・盛武兄弟、耳塚作左衛門尉、穂高盛棟らは一族を引き連れて城を脱出し、上杉氏のもとに逃れたと言う。

 日岐大城は、峻険な京ヶ倉の北の峰にある。京ヶ倉・大城トレッキングコースが整備されており、迷うことなく登ることができるが、道程は長く、岩場の道もあるので、城歩きというより完全なトレッキングである。小屋城の東にある京ヶ倉登山口から登って京ヶ倉までジャスト1時間、更に15分でようやく大城に到達する。京ヶ倉までの稜線はアップダウンが激しく、ロープに捕まらないと登り降りできない。また途中には馬の背道という岩場もあり、訪城当日は穏やかな天候で風もなく絶景が楽しめたが、強風時は恐怖だろう。最高峰の京ヶ倉は頂部が平坦な平場になっており、往時の物見台、兼狼煙台である。京ヶ倉物見から大城までの尾根には堀切はなく、自然地形の稜線だけである。大城は、東が高台となった三角形の主郭を頂部に置き、南の尾根に舌状の腰曲輪、北の尾根に二ノ郭、三ノ郭を配置している。いずれも平坦ではあるが、普請はささやかなものである。また主郭の北側下方の谷地には、腰曲輪群が築かれている。城から北にやや離れて物見岩があり、往時に番兵が見張りをしていた場所と伝わる。主郭から物見岩までは10分程掛かる。この途中にも小ピークの小郭が見られる。最低限の普請しかしていない小城砦で、稜線が急峻なので堀切がないのも道理である。1年もの間籠城戦ができたのも、ひとえにその峻険な地形によるものと言える。片道1時間半、往復約3時間の行程であったが、シジュウカラなどの小鳥を見ながらの、楽しい春の登山となった。遺構は小規模なので、城には期待しない方が良い。
谷地の腰曲輪→DSCN6888.JPG
DSCN6943.JPG←京ヶ倉物見

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.436346/137.952061/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃の山城と館 第4巻(松本・塩尻・筑摩編)―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

信濃の山城と館 第4巻(松本・塩尻・筑摩編)―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/04/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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