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古城めぐり(岐阜) ブログトップ

一夜城(岐阜県恵那市) [古城めぐり(岐阜)]

DSCN4797.JPG←主郭
 一夜城は、1574年の武田勝頼の東濃侵攻の際、勝頼が本陣を置いた陣城と伝えられる。一夜城の名は、明知城攻めの際に武田方の将秋山伯耆守が戸障子を立てて白壁の城のように見せかけたという伝承から名付けられたと言う。

 一夜城は、標高720.4mの山上に築かれている。北東尾根の林道脇に昨年の山城サミットで設置された誘導標識と幟があり、そこから登道が整備されている。この道を進んでいくと、最初に現れるのが小ピーク上にある北出曲輪で、本城との間を堀切で区画している。しかしこの出曲輪が置かれている意味がよくわからない。かつての大手道がこの尾根にあったのであれば、城の前衛の曲輪と言うことになる。この南西の山上には主郭がある。主郭はほとんど地山に近く、あまり削平されていない。南側に一段低く腰曲輪が見られる他、主郭中央部が鞍部となっていて堀切のようにも見えるが、いずれも普請の痕跡はわずかである。また北斜面には明確な武者走りが築かれ、主郭外周下方を廻っている。遺構としてはこれだけで、織田信長が本陣を置いた諏訪ヶ峯砦よりも更に簡素な陣城である。
北出曲輪と堀切→DSCN4788.JPG
DSCN4791.JPG←北斜面の武者走り

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.323503/137.407207/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武田三代の城

武田三代の城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2020/06/15
  • メディア: 単行本


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明智陣屋敷(岐阜県恵那市) [古城めぐり(岐阜)]

DSCN4714.JPG←主城の腰曲輪と主郭
 明智陣屋敷は、陣屋敷砦とも言い、歴史不詳の城砦である。東2.1kmに武田勝頼本陣の一夜城、西南西1.7kmに織田信長本陣の諏訪ヶ峯砦があり、両者の中間地点にあることから、どちらかの勢力が他方の軍勢に備えて築いた可能性が指摘されている。

 明智陣屋敷は、野志地区にある比高40m程の低丘陵に築かれている。東西に並ぶ2つの細尾根に築かれた曲輪群で構成されている。主城は西尾根の方で、北側を貫通する車道脇から尾根を辿ると、最初に平場があり、その先に高台となった主郭がある。主郭は櫓台程度の小さな長円形の曲輪で、北に虎口郭と思われる一段低い平場を伴っている。主郭の周囲には腰曲輪が廻らされている。主郭の南側にも2段の腰曲輪があり、その先は土橋の架かった堀切で区画されている。他方、出曲輪に当たるのが東尾根で、細長い尾根と平行に土塁状の土盛りが続いている。先端には一騎駆土橋のような地形が見られるが、遺構かどうかは判然としない。西尾根の主城は、小規模とはいえ普請がしっかりしており、曲輪群が明瞭であるが、東尾根の出曲輪は遺構がやや判然としない。少人数しか置けない砦であるが、国道脇にあることから考えて、街道筋を押さえる目的で兵を置いた砦であったのかもしれない。
主城の堀切・土橋→DSCN4746.JPG
DSCN4757.JPG←出曲輪の土塁

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.327092/137.384527/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武田勝頼 (中世から近世へ)

武田勝頼 (中世から近世へ)

  • 作者: 丸島 和洋
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2017/09/20
  • メディア: Kindle版


タグ:中世平山城
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諏訪ヶ峯砦(岐阜県恵那市) [古城めぐり(岐阜)]

DSCN4655.JPG←山頂の主郭
 諏訪ヶ峯(すわがね)砦は、鶴岡山陣城とも言い、1574年に東濃に侵攻した武田勝頼が明知城を攻撃した際、後詰めとして出陣した織田信長が本陣を置いた場所と伝えられる。『明知年譜』によれば、信長が3万騎を引き具して鶴岡山に進出したが、武田氏の猛将山県昌景のの攻撃を受けて織田方の先陣が崩れ、信長はやむを得ず数里引き退いたと言う。しかし『信長公記』には信長の鶴岡山在陣の記載はないらしい。

 諏訪ヶ峯砦は、明知城の北西3kmの位置にある。標高732.1mの諏訪ヶ峯山頂に築かれており、山頂の西側を通る市道脇から登山道が整備されている。山頂の地山を中心にして、北北東・北・西の3方の尾根に出曲輪・堡塁を築いている。前述の山道を登っていくと最初に現れるのが北尾根の堡塁で、小高い峰の周囲に帯曲輪を廻らしている。そこから土塁が築かれた尾根を南に進むと山頂の主郭に至る。主郭はほとんど自然地形の地山であり、なだらかなお椀状の広い峰であるが、南以外の外周に切岸を設け、その外側に帯曲輪を築いている。ここから北北東に伸びる尾根はほとんど自然地形のまま伸び、先端に小高く堡塁を置いている。しかしこの堡塁は、前述の北尾根の堡塁と異なり、帯曲輪もなく、ほとんど普請の痕跡が見られない。主郭の西には堀切が穿たれ、その先に西の堡塁が築かれている。ここには小規模ながら土塁と腰曲輪が見られる。以上が諏訪ヶ峯砦の遺構で、いかにも急拵えの陣城という趣である。この砦からは眼下に明知城と周辺城砦群がよく見え、後詰めの陣所として適地であったことがわかる。
主郭周囲の帯曲輪→DSCN4699.JPG
DSCN4626.JPG←西側の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.319546/137.368498/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


織豊系陣城事典 (図説日本の城郭シリーズ6)

織豊系陣城事典 (図説日本の城郭シリーズ6)

  • 作者: 高橋成計
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/11/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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釜屋大洞城(岐阜県恵那市) [古城めぐり(岐阜)]

DSCN4597.JPG←主郭南の堀切
 釜屋大洞城は、高田徹氏が2020年に発表した新発見の山城である。これを受けて恵那市教育委員会は『恵那市の新発見城館跡』として調査結果をまとめている。恵那市は新発見城館の調査に非常に積極的で、今後更なる新城の調査が待たれる。

 釜屋大洞城は、標高660mの山上に築かれている。城の南約250mの所に市道が通っており、その脇から城まで小道が通じている。小道の入り口には昨年の山城サミットで案内板がせっちされているので、わかりやすくてたいへん助かる。こんな新発見城郭にまで案内板を設置する恵那市の努力には頭が下がる思いである。案内板には「この先約800m」と書かれているが、実際には前述の通り250m程しかなく、背後の尾根から行く感じなので大した高低差もなく、気軽に行くことができる。主郭を中心に、北東の尾根に曲輪群を連ね、更に北西に伸びる尾根にも出曲輪を築かれている。主郭の南東部には枡形虎口が築かれ、下方の腰曲輪に繋がっている。この腰曲輪から主郭の南側にかけて堀切が穿たれているが、両端を曲げて竪堀を落としており、全体として開いたコの字型をしている。更に南尾根に腰曲輪数段を築き、先端を円弧状横堀を穿って防御している。主郭の西には張り出した小郭が築かれ、その周りにある城道に対する防衛陣地となっている。北東尾根の曲輪群の側方には腰曲輪が築かれている。かなり普請の痕跡がはっきりした城で、城跡であることは疑いない。位置的に信長本陣であった諏訪ヶ峯砦(鶴岡山陣城)の後方にあることから、東濃を巡る天正の騒乱期に織田軍の後方警備の陣城として築かれた可能性が考えられる。
主郭の枡形虎口→DSCN4519.JPG
DSCN4496.JPG←南の円弧状横堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.329893/137.372746/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


「城取り」の軍事学

「城取り」の軍事学

  • 作者: 西股総生
  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2013/08/29
  • メディア: Kindle版


タグ:中世山城
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釜屋城(岐阜県恵那市) [古城めぐり(岐阜)]

DSCN4383.JPG←西斜面の帯曲輪群
 釜屋城は、歴史不詳の城である。北東尾根の下部に「おやしき」の地名があり、上手向城主勝氏の一族が屋敷の主と伝えられていることから、勝氏の持ち城と考えられている。

 釜屋城は、標高600m、比高100m程の山上に築かれている。登り口は北東麓にあり、水田の奥の溜め池の右手に案内板と多数の幟が立っている。昨年の山城サミットで整備されているので、登り口がわかりやすくなっている。主郭はL字型をした曲輪で、後部に三角形の櫓台を築き、西に張り出した部分は3段に傾斜し、ここの南辺にだけ低土塁が築かれている。主郭の北西には、段差で区画された二ノ郭が張り出し、その東に帯曲輪が続いている。この城で特徴的なのは、主郭外周に築かれた帯曲輪群で、北面から西面にかけて幾重にも段が築かれ重厚な防御構造となっている。この内、西の帯曲輪群は谷地形に沿って内側に湾曲して構築され、浅い竪堀群を穿っている。この谷地形の斜面を竪堀で防御する構造は、規模は違うものの明知城と同じ構造と考えられる。城の大手は北東尾根にあったと考えられ、北東に舌状の大手曲輪が築かれ、その脇に腰曲輪を経由して登る虎口が築かれている。大手曲輪の周囲にも帯曲輪が数段築かれている。二ノ郭の下方の北尾根にも、帯曲輪群から降った先に堀切が穿たれ、前面に物見台が置かれている。この堀切は東半分だけ中間に土塁が築かれた変則的な二重堀切となっている。主郭の西の張出し部の先には、西尾根とその脇の北西尾根に段曲輪群が築かれている。主郭南斜面にも腰曲輪があり、西尾根段曲輪群から武者走りが繋がっていて、腰曲輪の西半分が横堀となっており、横堀の両脇は竪堀となって落ちている。主郭背後の南東の尾根には堀切があるが、ほとんど自然地形の尾根鞍部である。以上が釜屋城の遺構で、帯曲輪群による重厚な防御構造は、東濃地域の度々の戦乱の中で改修を受け続けてきたことが伺える。
大手虎口→DSCN4320.JPG
DSCN4362.JPG←北尾根の変則的な二重堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.334724/137.380182/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編

信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/11/13
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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山田城(岐阜県恵那市) [古城めぐり(岐阜)]

DSCN4252.JPG←東辺の櫓台と空堀
 山田城は、伝承では和田馬場という武士の居館と伝えられる。室町中期の室町幕府奉公衆に遠山馬場孫六の名があり、遠山一族の遠山馬場氏がここに居住したと考えられている。

 山田城は、小里川南岸の低丘陵先端部に築かれている。北西端は明知鉄道が通っていて破壊を受けているようだが、全体的な遺構はよく残っている。北から南に向かって2~3段の平場が階段状に構築され、東西に一直線の土塁が築かれている。これらの土塁は、いずれも櫓台状の張り出しが設けられており、東辺の土塁は外側に向かって2ヶ所、西側の土塁は中央部に1ヶ所の櫓台がある。特に東辺のものは外側に空堀も穿たれて、防御を固めている。西の土塁の外側にも2段の平場が構築されている。城内の平場群は、いずれも宅地の裏にあって畑などになっていたようなので、どこまで往時の形態を残しているかわかりにくい。また普通に考えれば南側には水堀などがあっても良さそうだが、宅地化されているので、現状からはわからない。いずれにしても簡素な構造の館城である。尚、直線型の土塁に張出し櫓台を設けた構造は、栃木にある飛山城の小型版といった趣である。
西側の土塁に築かれた櫓台→DSCN4275.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.353330/137.397680/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


完全保存版 日本の城1055 都道府県別 城データ&地図完全網羅!

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  • 出版社/メーカー: 西東社
  • 発売日: 2022/11/07
  • メディア: Kindle版


タグ:居館
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下手向城(岐阜県恵那市) [古城めぐり(岐阜)]

DSCN4202.JPG←主郭西側の横堀
 下手向(しもとうげ)城は、串原遠山氏の御内衆・渡辺権七郎の居城と伝えられる。山岡町史では、椋実城の出城として1399年頃に築かれたと推測している。しかし現在残る遺構から考えて、武田・織田両勢力が激突した元亀天正の争乱の中で構えられた陣城の可能性が高いとされる。

 下手向城は、上手向城の西方約1.6kmに位置し、比高60m程の丘陵末端にある。南麓集落の最上段にある民家の右手に登道があり、普通ならわかりにくい登り口だが、昨秋恵那で山城サミットが開催された関係でたくさんの幟が立っているので、今なら全く迷うことなく行くことができる。小道を登っていくと、最初に井戸跡らしい窪みのある腰曲輪に至る。そこから登道は左手に折れ、大手の虎口郭に至る。この上に主郭の大手虎口が開かれ、虎口郭の西端は竪土塁で遮断している。虎口郭の下には腰曲輪があり、更にその下方に堀切がある。主郭は大きく平坦であるが、内部に段差がある。また主郭の北東部にL字型の土塁が築かれている。主郭の東側以外の三方には、延々と横堀が穿たれている。しかし横堀は比較的小さく、薮払いもされていない部分が多いので、少々見劣りする。しかし西の横堀の中間付近に築かれた竪堀・竪土塁は比較的大きい。また横堀と繋がって穿たれた北の堀切も比較的大きい。主郭南西角には小さな枡形虎口と虎口郭があり、横堀に通じる搦手虎口となっている。この他、主郭の東下方の支尾根先端には、下方を分断する円弧状横堀が穿たれている。また前述の横堀の南端には、大手虎口郭下の腰曲輪との間に二重竪堀もある。以上が下手向城の遺構で、ほとんど単郭の城であるが整った防御構造を有しており、築城思想は上手向城とは全く異なっている。元亀天正の争乱時の陣城という見解も首肯できる。
主郭北の堀切→DSCN4142.JPG
DSCN4147.JPG←東の円弧状横堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.352857/137.367296/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東海の名城を歩く 岐阜編

東海の名城を歩く 岐阜編

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2019/11/15
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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上手向城(岐阜県恵那市) [古城めぐり(岐阜)]

DSCN4001.JPG←二ノ郭の上にある主郭
 上手向(かみとうげ)城は、岩村城主遠山氏の家臣勝氏の居城である。1564年には、遠山左衛門尉景任の家臣勝内蔵助義重が城主であった。江戸時代初頭の中山道大井宿の有力者勝義実は、元は「峠城主」で木曽義昌・松平忠吉に仕え、辞して大井宿に住したと伝えられる。

 上手向城は、山岡農村環境改善センターの北東にある宅地背後の丘陵上に築かれている。2つの城域に分かれており、主城となる城ヶ峯と、出城となる隠居峯とがある。最初登り口が分からず西の山から登城したが、城ヶ峯南の宅地の奥に登道と解説板が立っているのが後でわかった。こちらから登るのが正しいルートである。
 城ヶ峯は、主郭・二ノ郭・三ノ郭と3段の平場が階段状に築かれている。最大の曲輪は三ノ郭で、その外周には帯曲輪が築かれている。主郭・二ノ郭は小さく、特に主郭は物見台に毛が生えた程度の広さしかない台形の高台である。二ノ郭は主郭の周りを腰曲輪状に全周している。主郭の北西尾根には四ノ郭が築かれ、曲輪頂部は傾斜し、周りに腰曲輪が付随している。城ヶ峯には堀切がなく、切岸・段差だけで区画されている。特に四ノ郭の形態は、私が見つけた石平新城と似ており、築城主体が同じであった可能性を示している。
 隠居峰は、城ヶ峯よりも面積が広く、居住性のある作りとなっているが、郭内は未整備で薮が多く、遺構の確認がし辛い。2段の平場に分かれており、北東の尾根上の曲輪は一段高くなっており、後部に土塁が築かれ、堀切で北東尾根の基部を遮断している。またこの上段曲輪の南東下方には横堀が構築されている。この横堀は途中で屈曲し、南端部も屈曲しながら降っている。下には帯曲輪があり、横堀道に通じる枡形虎口が構築されていた様である。
 以上が上手向城の遺構で、高台にある居館地の背後を防御する簡素な城砦であった様である。
三ノ郭→DSCN4006.JPG
DSCN4052.JPG←隠居峯の横堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:【城ヶ峯】https://maps.gsi.go.jp/#16/35.354835/137.384505/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
【隠居峯】
https://maps.gsi.go.jp/#16/35.354135/137.386179/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編

信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/11/13
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平山城
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和田城(岐阜県恵那市) [古城めぐり(岐阜)]

DSCN0662.JPG←東の段曲輪群
 和田城は、歴史不詳の城である。山田城の支城との説もあるが、確証はない。

 和田城は、国道363号線と国道418号線との交差点の北西にある、比高40mの丘陵上に築かれている。特に標柱などはないが、東麓から作業林道があり、城域のすぐ北まで林道で行くことができる。小規模な城砦で、中心に長円形の主郭を置き、6方向に派生する尾根に段曲輪・腰曲輪を配置している。この内、北西にあった二ノ郭と思われる曲輪は、前述の林道開削によって破壊を受けている。この二ノ郭と主郭切岸の間には、北に向かって穿たれた横堀(堀切?)がある。その北側下方に腰曲輪があるが、木が生い茂っている。この腰曲輪の先には武者走りが伸びていて、主郭の北から東まで通じている。主郭の南東には虎口が開かれ、その下方に東尾根の段曲輪3段が築かれている。この他の尾根にも、前述の通り腰曲輪があるが、いずれも小規模である。和田城は、街道が交差する要地にあって、物見や烽火台を主任務とした小城砦だったと推測される。
主郭の虎口→DSCN0661.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.355185/137.393861/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


オールカラー徹底図解 日本の城

オールカラー徹底図解 日本の城

  • 作者: 香川元太郎
  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2021/09/28
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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石平城〔仮称〕(岐阜県恵那市) [古城めぐり(岐阜)]

DSCN0549.JPG←二ノ郭から見た主郭群
 石平城は、私が発見した城である。岐阜県のCS立体図を見ていて城跡ではないかと思い、現地を踏査したところ、平場群の配置や切岸が城と考えるのが自然であり、その一方で背後の西尾根には全く平場の造作が見られないことから、おそらく城郭遺構と考えてよいと思う。

 東西2つの郭群から構成され、高所にある東の曲輪が主郭、西が二ノ郭と考えられる。二ノ郭は「く」の字形をした長い曲輪で、背後の尾根とは高さ1.5m程の切岸で明確に区画されているが、堀切は見られない。二ノ郭の東には腰曲輪群・段曲輪で囲まれた主郭がある。頂部の主郭は地山に近い自然地形で、面積も狭小で、物見程度の役割であったと考えられる。しかし周りに巡らされた腰曲輪群は明瞭で、頂部の小さな主郭の周りに1~2段の腰曲輪を廻らし、更に南東に4段(先端近くには祠と墓地がある)、南に3段ほどの段曲輪を配している。これらはいずれもしっかりした切岸で区画されている。また主郭群の北斜面にも、谷に向かって腰曲輪が2段築かれている。以上が石平城の遺構であるが、全体的に薮が多く、段曲輪群など全て踏査できてはいないと思う。

 石平城は、上手向城と和田城の間に位置しているが、城の造りは上手向城の西郭群と似ているので、上手向城主の勝氏が築いた出城であった可能性も考えられる。

 尚、この城については既に恵那市の生涯学習課に連絡済みで、2023年度の城館跡調査の日程に組み込んで現地確認していただけるとのことである。
主郭西側の腰曲輪群→DSCN0550.JPG
DSCN0609.JPG←主郭北側の腰曲輪群

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.354712/137.390792/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


城郭史研究 (41)

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  • 出版社/メーカー: 東京堂出版
  • 発売日: 2022/12/27
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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落合砦(岐阜県恵那市) [古城めぐり(岐阜)]

DSCN0428.JPG←三ノ郭井戸と主郭群
 落合砦は、明知遠山氏の一族串原遠山五郎経景が居城したと伝えられる。串原遠山氏は、その本拠地串原に串原城や大平城があるが、戦国後期の天正年間(1573~92年)に武田氏の勢力が強く及んでくると、明知遠山氏の本拠明知城周辺に移り、その防衛に当たっていたことが推測される。

 尚、三ノ郭に明智光秀産湯の井戸があるなど、光秀生誕地とされ、城砦の名も土岐明智城とか多羅砦などとも称されるが、明知城の項に記載した通り、全く史実に基づかないものと考えてよい。

 落合砦は、比高60m程の落合山に築かれている。鞍部の尾根によって隔てられた2つの曲輪が南北にあり、より高所にある南の曲輪が主郭、北の曲輪が二ノ郭、鞍部の西下にある平場が三ノ郭と考えられている。城跡一帯は千畳敷公園となって整備されており、かなり改変を受けている。その中では主郭とその周辺は最も旧状を残していると考えられる。主郭は東西2段で構成され、周囲に腰曲輪群を築いている。また大手道が南東に残る他、南斜面に竪堀も確認できる。二ノ郭は、完全に公園化されている上、腰曲輪と思われる平場には電波塔が建っており、かなり改変が進んでいる。しかしここからの眺望は素晴らしく、眼前に明知城が見えるだけでなく、織田信長が本陣を置いた鶴岡山や、武田勝頼が本陣を置いた一夜城などが一望でき、この地の当時の緊張状態をまざまざと見せつけている。三ノ郭は台地上の平場で、前述の通り明智光秀産湯の井戸が残るが、改変されているので、どこまで旧状を残しているのか判断し難い。いずれにしても、落合砦は遺構を見る限り、現地解説板の縄張図や宮坂先生の縄張図よりも腰曲輪の数が多いようで、簡素な城砦の割には主郭・二ノ郭共に広めで、単なる物見や烽火台以上の役割を負っていた様だ。
南斜面の竪堀→DSCN0513.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.298936/137.387713/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書

よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書

  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2020/10/27
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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仲深山砦(岐阜県恵那市) [古城めぐり(岐阜)]

DSCN0262.JPG←二ノ郭西側の曲輪群
 仲深山砦は、歴史不詳の城砦である。明知城との間にある万ヶ洞には信州からの街道が通り、関ヶ原合戦の後、近世明知遠山氏3代長景の庶兄遠山与惣左衛門が万ヶ洞に屋敷を構えたと伝えられるが、その屋敷というのがこの砦を指すのかは不明。ただ明知城とは縄張り面の共通点が多く、明知城の攻防に関連する城砦として、明知城を築いた勢力がこの砦を構築した可能性が考えられる。

 仲深山砦は、谷を挟んで南に隣接する丘陵西端部に築かれている。両者の間はわずか400m弱に過ぎない。恵那市は昨秋、山城サミットが開催されたばかりなので、各所の城砦は登道が整備され、薮払いもされている。おかげで仲深山砦も、南麓から登山道が整備され、城内も全域薮払いされているので見通しがよい。ただ伐採された幹や枝葉がそのまま散乱しているので、竪堀などの一部の遺構はやや確認しづらい状況である。砦は東西2郭で構成され、更にその周囲に腰曲輪・段曲輪・帯曲輪を築いて防御を固めている。東にあるのが主郭で、後部に低土塁を築き、郭内部は西に向かって傾斜している。背後の尾根には二重堀切を穿って分断している。主郭北東の帯曲輪には。等間隔で竪堀が3本穿たれている。主郭と二ノ郭の間は鞍部の堀切となっている。ここから南の斜面にも竪堀群が構築されているが、散乱した伐採木でややわかりにくい。二ノ郭の外周には腰曲輪が巡らされ、西と南西に段曲輪があり、小堀切が穿たれている。北側の帯曲輪にも竪堀が3本、間隔を空けて穿たれているが、城内最大の竪堀は薮に埋もれてしまっている。以上が仲深山砦の遺構で、竪堀群を活用した以外はそれほど技巧的な縄張りでもなく、あくまで補完的な城砦であったと考えられる。仮に武田氏による構築であると考えた場合、高遠城に対する的場城の縄張りと対比させると、この砦の性格を考える上で示唆されるものがあるだろう。
主郭北東の竪堀群→DSCN0347.JPG
DSCN0353.JPG←背後の二重堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.300197/137.394075/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:中世山城
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明知城(岐阜県恵那市) [古城めぐり(岐阜)]

DSCN0847.JPG←北東斜面の畝状竪堀
 明知城は、白鷹城とも言い、岩村城主遠山氏の庶流明知遠山氏の居城である。遠山氏の祖は、藤原利仁の後裔加藤氏とされる。加藤景廉は、源頼朝が伊豆石橋山で挙兵した時より仕えて、鎌倉幕府創業の功臣の一人となった。1185年、頼朝は景廉を美濃国遠山庄の地頭とし、景廉は嫡男左衛門尉景朝を遠山庄に入部させ、岩村城を築いた。この景朝が遠山氏を称し、美濃遠山氏となった。1247年、景朝の子三郎兵衛尉景重が明知城を築いて明知遠山氏の祖となったとされる。戦国時代には、岩村遠山氏を惣領として、明照・明知・飯羽・串原・苗木・安木の「遠山七家」が東濃の恵那郡一帯に勢力を張り、特に岩村遠山氏、明知遠山氏、苗木遠山氏は三人衆と呼ばれた。弘治・永禄年間(1555~70年)になると、遠山氏は南信の伊那谷全域を制圧した武田信玄と、尾張から美濃へ大きく勢力を伸ばし始めた織田信長との間に挟まれることとなった。まずこの地に影響を及ぼし始めたのは東濃への進出を目論む武田氏で、岩村城主遠山景前は武田氏に誼を通じて勢力の安泰を図った。その子景任は武田・織田と両属関係となり、後には信長の叔母おつやの方を正室に迎えるなど徐々に織田方への傾斜を深めた。そして遂に遠山一族は武田氏から離反し、武田氏の攻撃を受けることとなった。1570年、高遠城主秋山虎繁(信友)が美濃に侵攻し、遠山一族と徳川氏傘下の三河衆の連合軍が恵那郡上村で迎え撃って大敗した。この上村合戦で明知遠山景行は討死した。敗報を受けた信長は直ちに援軍を派遣し、虎繁は信濃へ撤退した。明知遠山氏は、景行の嫡男景玄も討死したため、孫の一行が継いだ。1572年8月、岩村遠山景任が嗣子なく没すると、信長は自身の5男御坊丸を遠山氏の養嗣子とし、おつやの方を後見人として東濃を支配下に置いた。同年10月、信玄は西上作戦を開始し、秋山虎繁は伊那衆を率いて岩村城を攻囲した。御坊丸の養育と城兵を助命するかわりにおつやの方が虎繁と再婚し、岩村城を開城させて虎繁が城主となった。信玄は翌73年4月、志半ばで陣没し、勝頼が後を継いだ。1574年1月、勝頼は代替わりの緒戦として東濃攻略を企図して岩村城に進出し、周辺の遠山一族の諸城を攻略しつつ明知城を囲んだ。この時、勝頼は一夜城に陣を構えたと伝えられる。信長は、嫡男信忠と共に鶴岡山に本陣を構えて武田勢と対峙したが、2月6日に飯羽間友信の裏切りによって明知城が落城したため、神篦城に河尻秀隆を、小里城に池田恒興を配置し、2月24日に岐阜に撤退した。明知城主遠山一行は城から脱出した。1575年、長篠の戦いで武田勝頼が徳川・織田連合軍に大敗すると、信長は反攻に転じ、信忠を大将とする2万の大軍で東濃奪還を図った。織田軍は武田軍に占拠されていた諸城を次々に奪回し、明知城も再び織田方の城となった。一行と叔父の遠山利景は、この戦いの中で武田軍が占拠していた小里城を攻め落とした。織田軍が明知城を奪回すると、一行・利景は明知城に帰還した。また半年の籠城戦の末に恵那郡の重要拠点・岩村城も陥落し、東濃は完全に織田方の支配下に入った。1582年の本能寺の変後、東濃地域は羽柴秀吉に服属した美濃金山城主森長可の勢力下に入ることとなり、1583年に一行・利景は徳川家康を頼って三河に落ち延びた。1584年3月、羽柴秀吉と徳川家康の間で小牧・長久手の戦いが起きると、一行は家康の命を受けて舅の延友佐渡守と共に緒戦で明知城を攻略した。しかし合戦後、東濃は森領とされ、明知城は森氏に明け渡された。1600年の関ヶ原合戦の際には、明知城は岩村城主田丸直昌の支城となっており、その家臣山川佐之助・原土佐守が守っていたが、家康の命を受けた遠山利景・方景父子は明知城を攻略し、更に岩村城も落城させた。この戦功により、利景は明知城主に復帰した。1615年の元和の一国一城令で明知城は廃城となり、新たな支配拠点として山麓に明知陣屋が造営された。

 尚、現在地元では明知城を明智光秀にまつわる城として紹介しているが、光秀は美濃守護土岐氏の庶流であり、明知遠山氏とは全く関係がない。従って、明智光秀がこの地で生まれて成長したとする伝承は、全く史実に基づかないものと考えてよい。

 明知城は、岩村城などとともに何度も争奪の場となった城だけあって、守りが極めて厳重な、屈指の縄張りを有している。本丸を中心にして周囲に腰曲輪を廻らし、南東に二ノ郭、西に三ノ郭を張り出させ、更に二ノ郭の南西に出丸を突出させている。これが城の中心部で、これらを取り巻く様に北~東~南の外周に横堀が穿たれている。この横堀の防御線には要所に竪堀が穿たれ、また外側には腰曲輪群も構築されている。竪堀は配置が巧妙で、いずれも竪堀を上った先には上の曲輪の塁線がそびえており、侵入してきた敵を迎撃できるように効果的に配置されている。殊に東の搦手駐車場からの登道は、横矢掛かりと正面櫓台による防御が厳重であり、大手から搦手まで寸分の隙もない。出色なのは、主郭北東から北西の斜面にかけて穿たれた畝状竪堀ある。ここの畝状竪堀は、他の城で見られるものと構造が異なり、竪堀間に構築された中間土塁は、単なる土塁ではなく物見台または独立堡塁として機能するように高く盛られている。一部の中間土塁には腰曲輪まで築かれていて、兵を置くことを前提として築かれている。ここの畝状竪堀は、傾斜の緩い斜面を防御するために集中配置されている。この畝状竪堀を上から見下ろす位置に主郭腰曲輪が配置され、より防御性を増している。出丸の南東側にも畝状竪堀が穿たれているが、二重横堀の間の土塁に竪堀を穿っていて、初めて見る特殊な形態をしている。三ノ郭の西側には、深い堀切で区画された独立堡塁が2つそびえて周囲を睥睨している。更にこの他にも北・東・西・北西に張り出した尾根に曲輪群を築き、基部を堀切で分断している。北の曲輪群では、先端近くにL字形土塁による坂土橋の通路が築かれている。二ノ郭の南下方の腰曲輪には、2槽構造の大きな貯水池もあり、これも非常に珍しい遺構である。明知城は、度重なる攻防の中で、武田氏による縄張りの改修増強を受けたものと思われ、必見の城である。
別角度から見た、同じ畝状竪堀→DSCN1015.JPG
DSCN0820.JPG←堀切と独立堡塁
貯水池跡→DSCN0917.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.303577/137.394633/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編

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明知陣屋(岐阜県恵那市) [古城めぐり(岐阜)]

DSCN9786.JPG←陣屋前面の水堀・切岸
 明知陣屋は、江戸時代に交代寄合の旗本であった明知遠山氏が築いた陣屋である。遠山利景は1600年の関ヶ原合戦で旧領の明知城を奪還し、1603年に恵那・土岐郡内で6531石を拝領した。1615年の元和の一国一城令で明知城は廃城となり、新たな支配拠点として明知陣屋が造営された。交代寄合となった遠山氏は、当初は領内と江戸の間を参勤交代していたが、1678年以降は江戸定府となった。これ以後、陣屋は代官村上氏によって管理されて、そのまま明治維新を迎えた。

 明知陣屋は、明知城の北西麓の台地上に築かれている。現在陣屋内には民家や大正ロマン館が建っている。しかし陣屋前面には切岸がそびえ、その前には水堀が往時の形を留めている。また陣屋内に通じる小道は往時の大手道で、通路が屈曲する枡形の形態を留めている。陣屋内の宅地の中には、代官村上家の現在の居宅があり、古い武家屋敷の面影を残し、古い形の土蔵も残っている。全体的に往時の面影を残しており、なかなか興味深い。
陣屋跡の全景→DSCN0798.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.304348/137.392144/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:陣屋
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大垣城(岐阜県大垣市) [古城めぐり(岐阜)]

IMG_6623.JPG
(2004年9月訪城)
 大垣城は、美濃の守護大名土岐氏の一族宮川吉左衛門尉安定により、1535年に築城されたと言われている。しかしそれ以前の応仁年間(1467~68年)から、在地領主の大垣氏が東大寺城を築いていたらしい。戦国後期の1556年には、美濃の戦国大名斎藤道三配下の美濃三人衆の一人氏家卜全が改修を加えた。1585年、豊臣秀吉は一柳直末を大垣城主として、近世城郭に改修させた。大垣城は東海道を抑える交通の要衝であったため、1600年の関ケ原の戦いでは西軍を実質的に率いた石田三成が本拠とした。江戸時代に入ると、徳川家康は譜代大名の石川康通を城主とし、その後の変遷を経て、1635年から戸田氏が10万石の城主となって入封し、幕末まで存続した。

 大垣城は、関ヶ原合戦でも登場する重要な城で、かつては広大な水堀に囲まれた優美な城であったというが、現在はほとんど全ての水堀は埋め立てられて旧状を失い、国宝とされた天守も昭和20年に戦災で消失し、現在は戦後に復元された天守が建っている。本丸周辺の石垣は残っているが、市街化の只中にあってかつての名城の面影を失っていることでは、宇都宮城に匹敵する無残さと言える。(ちなみに近世宇都宮城の城主も同じ戸田氏。)国土変遷アーカイブにある昭和20年代の航空写真では、三ノ丸西側の水堀がかなり明瞭に残っており、今から思えば、余計にその後の乱開発が恨めしく思える。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.361896/136.616052/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:近世平城
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向牧戸城(岐阜県高山市) [古城めぐり(岐阜)]

IMG_6595.JPG←堀切とニノ郭
(2004年9月訪城)
 向牧戸城は、帰雲城主内ヶ島氏の支城である。内ヶ島上野介為氏が寛正・文明年間(1460~87年)頃に8代将軍義政の命で白川郷に入部し、最初に築いたのが向牧戸城であったと言われる。その後、為氏が帰雲城を築いて居城を移すと、その家臣川尻備中守氏信を城主として守らせたと言う。1585年、織田信長の天下統一事業を継いだ羽柴秀吉の命により飛騨に侵攻した越前大野城主金森長近は、向牧戸城を攻撃し、大きな損害を出しつつ落城させたと言う。その後の大地震で内ヶ島氏の一族郎党が帰雲城と共に埋没すると、向牧戸城も廃城になったと思われる。
 向牧戸城は、庄川と御手洗川の合流点に突き出した断崖上に築かれた城である。現在、城址は公園として整備されているが、遺構は比較的よく残っている。頂部には小さな主郭を置き、その周囲に腰曲輪や、堀切を挟んで二ノ郭と思われる曲輪を連ねている。素朴な作りで技巧性はあまり見られなかったと記憶している。全体的にはこじんまりした城であり、砦という方が相応しいように思う。支城を有するとは言え、内ヶ島氏の勢力がそれ程大きなものでなかったことが伺われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.049463/136.944977/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世崖端城
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帰雲城(岐阜県白川村) [古城めぐり(岐阜)]

IMG_Scan_005.JPG←城址碑と帰雲山の崩落跡
(2004年9月訪城)
 帰雲城は、謎の一族内ヶ島氏の居城である。何故謎かといえば、内ヶ島氏は1585年の大地震で、一族郎党がその居城もろとも山体崩壊した大量の土石流に巻き込まれ、全てが闇の中に埋もれてしまったからである。内ヶ島氏は、元々足利将軍に奉仕した奉公衆であったと言われ、内ヶ島上野介為氏が寛正・文明年間(1460~87年)頃に8代将軍義政の命で白川郷に入部したとされる。為氏は、帰雲山に帰雲城を築いて歴代の居城とした。為氏以後、雅氏・氏理と3代に渡って白川郷を支配した内ヶ島氏は、一向衆などとの抗争を生き抜いて戦国大名化し、向牧戸城・萩町城などの支城を築いた。しかし1585年、織田信長の天下統一事業を継いだ羽柴秀吉の命により、越前大野城主金森長近が飛騨に侵攻すると、内ヶ島氏理は抵抗を試みるが向牧戸城を落とされ、結局氏理は長近に降服し、辛くも本領を安堵された。氏理が居城に戻って本領安堵の祝宴を開いた11月29日の夜、北陸に大地震が起こった。帰雲山は山崩れを起こし、内ヶ島一族郎党数百人が城諸共飲み込まれ、埋没して地上から一瞬にして消え失せたと言う。

 帰雲城は、大量の土砂に埋没したとされる為、その正確な位置も判明していない。一般には帰雲山の中腹にあったと推測されている。現在はその庄川対岸の国道156号線沿いに「帰雲城埋没地」の大きな看板と、城址碑・菩薩像等が建てられている。その背後に見える帰雲山には、現在でもポッカリと大きな口を開けた崩落跡が不気味に残っている。不思議なのは、400年以上も経っているのにこの崩落跡にはほとんど草木が生えていないのである。埋蔵金伝説まで残る帰雲城は、すべてが謎に包まれている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.210052/136.892813/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世山城
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岐阜城(岐阜県岐阜市) [古城めぐり(岐阜)]

IMG_3732.JPG←山上の復興天守
(2003年10月訪城)
 岐阜城は、元の名を稲葉山城と言い、美濃のマムシと恐れられた戦国大名斎藤道三の居城であり、後には織田信長が安土城を築いて移るまで、信長の居城となった。標高328.9m、比高310mの金華山上に築かれた峻険な山城で、元々は鎌倉時代に鎌倉幕府政所執事の二階堂行政が築いたと伝わっている。そのころはおそらく小規模な砦程度のものであったろう。室町時代に入り守護領国制が確立すると、稲葉山城は美濃の守護である土岐氏の守護代斎藤氏が整備した。本格的に居城として整備されたのは斎藤道三の時で、斎藤家を謀略によって乗っ取った道三は、主家土岐氏を排して美濃を押さえた。後に道三の女婿織田信長は、斎藤龍興を攻め下して稲葉山城を掌中に収めると、居城を稲葉山城に移し、城の名も岐阜城と改めた。周の文王(西伯昌)が岐山より興った故事に倣ったという有名な話である。信長以降も幾多の変遷を経て使われた城であったが、関ヶ原の戦いの後、廃城となった。

 岐阜城を訪れた頃は城巡り初心者の頃だったので、まだ山城の何たるかもわからずに見て回ったので、今から考えると、結構見落とした遺構が多かったと思われる。しかも時間節約の為、ロープウェイで登ったので、当然ながら金華山中腹の遺構群は全く見ていない状況だった為、あまり城巡りする方の参考になるような情報は、ここには記載できない。
 ただ言える事は、その勇名とは裏腹に山上の曲輪群は非常に狭く、詰城としての性格が強かったように記憶している。本郭など、ほとんど天守台で占められていたと思う。そういう意味では、斎藤氏の時代から平時の居館を麓に置いた根古屋式の山城であったのだろうと考えられる。現に、織田信長の時代には麓に居館が築かれており、現在でも発掘調査が続いている。峻険な山上に築かれた城の為、有力な戦国大名の城郭にもかかわらず、城の規模・遺構の充実度はやや見劣りする感があった。信長以降は、山上の城は権威の象徴としての意味しか持たなかったものなのであろう。また廃城となった時に、石垣も他に移されたこともあり、余計見劣りするのであろう。

 麓の信長居館跡は、石垣などが一部発掘復元されているが、2003年当時はまだささやかな規模でしかなく、まだ往時の姿が思い浮かべられるような規模の復元ではなかった。今はだいぶ復元も進んだことだろう。いずれ再訪してみたい城である。

 なお岐阜城でもらったパンフレットに、「信長の野望燃え立つ、金華山」というキャッチコピーが書かれていたが、山上にそびえる岐阜城の峻険さと、戦国の世を制覇しようとする信長の壮大な野望が重なり合った、見事なコピーだと思う。6年前に一目見ただけでいまだに岐阜城と聞いて思い出す、忘れがたい名コピーである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.433925/136.782017/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

郡上八幡城(岐阜県郡上市) [古城めぐり(岐阜)]


 今回は、過去に訪れた城の中から印象の強かった城の一つ、郡上八幡城を取り上げてみたいと思う。
 郡上八幡城は、郡上市八幡町を見下ろす山上に築かれた山城である。もともと長良川沿いにこの周辺一帯を支配していた東氏(関東の名門、千葉氏の庶流)に成り代わろうとした遠藤氏が、東氏の居城である東殿山城の向かいに築いた砦が出発点だったといわれる。その後、首尾よく東氏に替わった遠藤氏が居城として整備した。そして天下一統の時代に入り城主の変遷を迎えたが、城はそのまま近世城郭に変貌して生き残った。
 時間がなかったので車で山上まで上がったが、まずこの城で驚かされるのは、山上に築かれた石垣の重厚で見事なことである。それほど広い訳ではない山上のスペースに所狭しと何段にもわたって石垣が築かれており、見るものを圧倒させる。縄張りとしては、基本的に石垣での防御に特化しており、当時(2004年の夏)見た限りでは、特に堀切や竪堀、大規模な土塁などの防御施設はなかったと思う。「当時」というのは、今ほど城郭の知識がなかったのと、名古屋から金沢に戻る帰り道で寄ったため時間がなく、あまり良く見て回れなかったからである。

 天守閣が木造で作られているが、これはまったくの架空のもの。実際の八幡城には天守は築かれなかったのである。しかし昭和に入ってから木造で作られた全国で最初の城であり、この後全国で木造による天守の復興が多くなっていく走りとなった。天守閣は築かれなかったが天守台はあったようで、現在の模擬天守は、一部石の積み直しをしたものの元々の石垣を使用している。模擬とは言うものの、山上に築かれた天守は非常に趣がある。主郭周りには大した広さはなく、御殿などを立てることはできなかったようだ。そのため近世に入ってからは、山上の城とは別に山麓に本丸御殿が築かれた。現在は広場となっており、井戸跡と山内一豊夫妻の像が建っている。主郭裏の山上の駐車場の隅には「首洗い井戸」が残っており、この駐車場も曲輪の一つだったことがわかる。
 この城は現存する建物はないのが残念だが、街中には城主下御殿跡や大手門跡の表柱が建っている。
 ところでこの郡上八幡という町は、町並みの中に昔の面影を色濃く残し、非常に趣がある。以前CMでも流れていたが、宗祇水という天然の清水が街中を流れ、今でも町の人々は水を清浄度から三段に分けて、飲料用や手洗い、洗濯用などに使い分けて有効利用しているそうである。いずれ泊まりでこの町に行って、夕暮れの街中を練り歩きたいものだ。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.753095/136.961467/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0
タグ:近世山城
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