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才川城(富山県南砺市) [古城めぐり(富山)]

DSCN7916.JPG←二重堀切
 才川城は、歴史不詳の城である。『三州志』には近岡河内守が拠ったとあるが、近岡氏の伝承はなく、真偽不明である。また一説には明応年間(1492~1501年)に七郎左衛門(姓不明)という者が居住し、後に僧となって蓮如に従ったとも伝えられると言う。『となみ山城マップ』では、居住性が高いことから在地土豪が住み、佐々成政期に陣城として使用されたと推測している。

 才川城は、小矢部川西方の比高30m程の南西から北東に向かって伸びた細長い丘陵上に築かれている。明確な登城路はわからなくなっているが、比高わずか30m程なので南西の丘陵基部が縊れた部分(1/25000地形図で丘陵を貫通するトンネルがある部分のすぐ東側)の斜面を直登すれば、もうそこは城域である。丘陵は、細長い菱形を2つ連ねたような形をしており、その上に造られた城は大きく3つの曲輪で構成されている。2つの菱形が繋がった縊れ部分には二重堀切が穿たれ、北に主郭、南に二ノ郭がある。また主郭の北にも堀切があり、その先に舌状の北郭がある。前述の斜面を登ると最初に現れるのが二ノ郭であるが、二ノ郭はやや西寄りに浅い堀状溝が貫通している以外はただの平坦地で、薮に覆われている。主郭・二ノ郭間を穿つ二重堀切は、規模はこの手の城にしては大きく、しっかり普請されている。二重堀切の西端部に城内通路が通っていて、南の二ノ郭から主郭に通じている。主郭は、前述の二重堀切手前に土塁があるほかは、ただのだだっ広い平坦地である。主郭の北にある堀切は、前述の二重堀切より浅いが幅が広く、中央に土橋を架け、食違い堀切となっている。北郭もただの平場である。才川城は、簡素な構造の城であるが、曲輪は広くて居住性があり、在地土豪の館城の趣をよく残している。
主郭北の堀切→DSCN7966.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.515802/136.843783/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

  • 作者: 松岡 進
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/02/27
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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上見城(富山県南砺市) [古城めぐり(富山)]

DSCN7826.JPG←広い主郭
 上見城は、歴史不詳の城である。天正年間(1573~92年)に篠村(笹村)太左衛門という武士が城主だったと伝わるのみである。尚、戦国期の白川郷を支配したと伝えられる謎の一族、帰雲城主内ヶ島氏に関連して、その家老で荻町城主であった山下大和守の嫡子氏時の妻は、「越中川上郷上見城主篠村太左衛門娘」であったと伝わっていると言う。

 上見城は、南から北に向かって突き出た比高20m程の低丘陵先端部に築かれている。市の史跡に指定され、登道が整備されているので、簡単に訪城できる。城内も綺麗に整備されており、遺構がよく確認できる。南北2郭から構成され、北は広い曲輪で後部に幅広の土塁を築き、土塁の傍には井戸跡も残っている。居住性のある北郭が主郭であろう。主郭は西辺にも低土塁が築かれている。主郭の後方には前述の土塁を挟んで、幅広の土塁で四方を囲まれた南郭がある。伝承では蔵跡とされる。北と東の土塁に虎口が開かれ、北は主郭に、東は東斜面に築かれた帯曲輪に繋がっている。南郭の背後には幅広の堀切が穿たれて、後方の尾根筋を遮断している。以上が上見城の遺構で、小規模な館城であるが、遺構がよく残っている上に見やすく、見応えがある。
土塁囲郭の南郭→DSCN7831.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.499020/136.882621/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


『日本の城年表』古代から現代まで城の変遷や進化が劇的にわかる (朝日年表シリーズ)

『日本の城年表』古代から現代まで城の変遷や進化が劇的にわかる (朝日年表シリーズ)

  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2024/02/20
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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井波丸山城(富山県南砺市) [古城めぐり(富山)]

DSCN7813.JPG←大竪堀と竪土塁
 井波丸山城は、東城寺城とも言う。詳細な歴史は不明だが、城主の名として下田頼康という武士の名が伝わり、上杉氏の攻撃で落城したらしい。

 井波丸山城は、標高271mの丸山に築かれている。山の南東まで道が延びており、その脇から丸山の南東尾根を登る道がついているので、これを登っていけば城域に達する。最初に現れるのが障壁のような東西に長い大土塁であるが、自然地形を前面防御の土塁としたもののようである。この北側は、鞍部を利用した大きな窪地の曲輪となっているが、西端部に大竪堀・竪土塁が築かれている。これらの北側上方に主郭がある。丘の上に築かれた広い平坦地であるが、削平は甘く、元々の地山を多少平らにしただけのようである。主郭の南側は斜度が緩く、どこからでも登れそうな感じで、あまり防御を固めた感じではない。主郭の東端と西端は郭内より高くなっている。主郭の北西斜面には数本の竪堀群が見られる。主郭の西尾根を降っていくと、広い腰曲輪が1段築かれている。この腰曲輪の南東端は、前述の竪土塁に繋がっている。この腰曲輪から西には傾斜の緩い広尾根が繋がり、途中に2本の浅い堀切が穿たれている。縄張図ではこれらの堀切の前後は腰曲輪とされているが、ほとんど自然地形に近く、あまり明確に曲輪として普請された感じではない。それでも堀切は堀形が明瞭なので、城内の一部として機能したことは間違いないだろう。但し堀切も大した防御性を持っておらず、尾根筋を強固に遮断する意図は感じられない。以上が井波丸山城の遺構で、全体的にのっぺりした感じの城で、防御を固めた恒久的な城というより、作戦上築かれた一時的な陣城という趣きである。
主郭→DSCN7748.JPG
DSCN7779.JPG←西尾根の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.540010/136.955802/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集 3 西部(氷見市・高岡市・小矢部市・砺波

越中中世城郭図面集 3 西部(氷見市・高岡市・小矢部市・砺波

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2013/12/01
  • メディア: 大型本


タグ:中世平山城
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鉢伏山城(富山県砺波市) [古城めぐり(富山)]

DSCN7711.JPG←山頂付近の現況
 鉢伏山城は、隠尾城主南部次郎左衛門尉宗治が築いたとされる。隠尾城の詰城だったと推測され、以前開墾の際には土饅頭など無数の塚が発見されたと言う。

 鉢伏山城は、標高510.1mの鉢伏山山頂に築かれていたらしいが、遺構は全く残っていない。現在は夢の平スキー場の山頂リフトやアンテナ施設が建つほか、鉢伏山明神社が鎮座している。また「隠尾城主 南部源左衛門尉尚吉戦死之地」と刻まれた石碑も立っている。遺構はなく、かつて発見された塚も全く残っていないが、山頂からの眺望に優れた要地であったことは今でもうかがい知ることができる。
南部尚吉の石碑→DSCN7707.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.581013/137.015347/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


上杉謙信 (シリーズ・中世関東武士の研究 36巻)

上杉謙信 (シリーズ・中世関東武士の研究 36巻)

  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2024/02/22
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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隠尾城(富山県砺波市) [古城めぐり(富山)]

DSCN7688.JPG←段曲輪と主郭切岸
 隠尾城は、南部氏が逃れ住んだ城と伝えられている。城を築いたのは、南部遠江守宗継の舎弟南部次郎左衛門尉宗治で、宗治は足利尊氏の弟直義に仕えたが、観応の擾乱の最終決戦・薩埵山合戦で直義党が敗北し、直義が鎌倉で没すると、この地に逃れて鉢伏山に要害を構え、隠尾に小城を築いて居住したと言う。以後南部氏の居城となり、戦国後期には中興の源左衛門尚吉の時、上杉謙信に攻められて落城し、尚吉は討死した。その子源右衛門は家臣小原作蔵と共に飛騨に逃れたが、戦乱が収まるとこの地に戻り、故城の傍らに館を構え、江戸時代には代々隠尾村の肝煎を務めたと言う。尚、前述の通り、鉢伏山城が詰城であったと推測されている。

 しかしこの所伝の内、南部次郎左衛門尉宗治を祖とする所伝には疑問がある。宗治の兄とされる南部遠江守宗継は、室町幕府執事・高師直の一族で足利尊氏の側近であった南遠江守宗継のこととされ、南宗継について甲斐の南部氏庶流・波木井南部氏の流れとする異説があるようだが、この異説は私が知る限り全く史実と異なる。宗継は終始尊氏に従った武将で、その墓所は足利氏の本領であった現・栃木県足利市の清源寺と光得寺にある。清源寺は宗継開基の寺で、高氏に関する諸系図の中で最も信頼性が高いとされる系図は、この清源寺に伝わったものである。また光得寺の墓所は、もともと樺崎寺跡(現・樺崎八幡宮)にあったものを明治期の神仏分離政策で移設したものだが、宗継の墓のほかに足利尊氏や高師直の墓も並んでいる。これらの事実からすれば、南氏が高氏の一族であったことは疑いがない。また『太平記』第26巻(西源院本)には南宗継の一族として南次郎左衛門尉の名が現れるが、次郎左衛門尉は四條畷の戦いで楠正行軍と戦って討死している(もちろん、太平記の話がそのまま史実であるとは言えない)。これらを踏まえると、隠尾城主南部氏の祖が南部次郎左衛門尉宗治であるとする所伝は、後世の仮託であろう。

 隠尾城は、鉢伏山の南中腹にある山深い廃村にある。小規模な城で、小高い円形の主郭と南西に築かれた3段程の段曲輪群で構成されている。いずれの曲輪にも土塁はないが、主郭の西には段があり、円弧状に土塁が築かれているので、枡形虎口を形成していたようである。虎口郭の北側には、かつての南部家居宅の跡がある。隠れ里のような山村に築かれた小城砦だが、往時のこの地は鉢伏山を越えて砺波郡と婦負郡を結ぶ間道があり、尾根伝いに五箇山と飛騨にも通じる要衝だったらしい。廃村となった今では、往時の姿はなかなか想像しにくい。
虎口郭の枡形→DSCN7673.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.575224/137.014682/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


高一族と南北朝内乱 (中世武士選書32)

高一族と南北朝内乱 (中世武士選書32)

  • 作者: 亀田俊和
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2016/03/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平山城
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千代ヶ様城(富山県砺波市) [古城めぐり(富山)]

DSCN7569.JPG←西郭前面の二重堀切
 千代ヶ様(ちよがためし)城は、南北朝期の軍忠状に現れる城である。1369年に桃井直常討伐のため、越中守護の斯波勢、能登守護の吉見勢が出陣し、吉見勢の得江季員・得田章房らは同年9月24日に井口城と千代ヶ様城を攻め落としたと言う。同時期に近傍に庄城(壇城)も存在しており、平時の居館が壇城で、千代ヶ様城が有事の際の詰城であったと考えられている。また戦国期には、壇城に拠った石黒氏が千代ヶ様城を詰城として改修したとも推測されている。

 千代ヶ様城は、標高334.3mの三条山に築かれている。登山道が整備されているので迷うことなく登ることができる。南西中腹の車道脇から登れば、比高90m程で主郭に至る。山頂の主郭と、西と南東の尾根上に築かれた西郭・東郭から構成されており、それぞれの曲輪は斜度のある尾根で隔てられている。登山道を登っていくと最初に現れるのが、西郭前面に穿たれた二重堀切である。深さは浅いが、斜面に沿って南北に長く伸びている。この部分は尾根が広いので、堀切と言うよりは横堀に近い形態である。その上にある西郭は、平坦だが自然地形に近い平場で、東端にも浅い堀切が穿たれている。ここからやや急な尾根を登ると、三角点のある小丘があり、主郭との間に堀切が穿たれている。小丘は東の物見台だったと考えられる。また小丘の南の支尾根には腰曲輪群が築かれている。主郭には四阿と鉄塔があり、展望所となっている。東西に長い曲輪で、南東から東端にかけて土塁が築かれ、北東に東虎口が築かれている。東虎口の西側にはやや距離を置いて2本の竪堀が穿たれ、主郭内の動線を制約している。東虎口を出ると搦手の登城路は主郭の東塁線の直下を降っており、東の土塁上から登城路に対して横矢を掛ける構造となっている。この構造がわかると、前述の竪堀の意図も判明し、東虎口進入後に竪堀で枡形を形成するようになっている。南東に尾根を下ると、鞍部に堀切が穿たれている。この堀切は、南側だけ二重堀切となっている。堀切の先の小ピークに東郭がある。東郭も西郭同様、ほぼ自然地形の平場で、東斜面に数段の腰曲輪を築いている。以上が千代ヶ様城の遺構で、基本的には南北朝期の城らしい素朴な形態の城であるが、主郭東虎口の構造など部分的に戦国期のものと思われる遺構があり、戦国期まで部分的な改修を受けて使われたことがうかがえる。
主郭内の竪堀→DSCN7626.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.581410/136.998138/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


桃井直常とその一族 鬼神の如き堅忍不抜の勇将(中世武士選書49巻)

桃井直常とその一族 鬼神の如き堅忍不抜の勇将(中世武士選書49巻)

  • 作者: 松山充宏
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2023/10/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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壇城(富山県砺波市) [古城めぐり(富山)]

DSCN7500.JPG←主郭の現況
 壇城(壇ノ城)は、南北朝期の1369年に室町幕府方の越中守護斯波義将の軍勢の攻撃を受けた「庄城」のことと考えられている。庄城は、観応の擾乱以来幕府に敵対していた元越中守護桃井直常の軍事拠点の一つであった。『二宮円阿軍忠状』によれば、足利一族の名門斯波高経の重臣であった二宮円阿は、1362年に2代将軍足利義詮と主君高経の命を受け、観応の擾乱以来室町幕府に敵対していた元越中守護桃井直常を討伐する為越中国に出陣、松根御陣・和田合戦・庄城・野尻などに従軍した。次いで1369年には再び桃井直常討伐のため、越中守護の斯波勢、能登守護の吉見勢が出陣し、庄城は二宮円阿らの斯波勢に攻められ落城したと言う。戦国期には石黒与三右衛門が城主となったが、1576年頃に上杉謙信に攻められ城を明け退いたと伝えられる。

 壇城は、庄川東岸の比高40m程の段丘上に築かれている。南方の三条山には同じ南北朝期に千代ヶ様城があり、平時の居館が壇城で、千代ヶ様城が有事の際の詰城であったと考えられている。しかし居館とされる壇城自体も、居館跡の平坦地(主郭。通称、台所屋敷)の東の山上に詰城とされる砦遺構が存在する。主郭は現在、ほとんどが水田に、西端部分が弁天温泉となっている。たまたま温泉のご主人が外にいたので、遺構探索の許可を頂いた。主郭は改変されているので、平場以外に明確な遺構は見られない。一方、背後の山上の砦は遺構がよく残っている。北西の中腹部に腰曲輪状の平場が見られる。北西の尾根を登っていくと、途中に小堀切があり、その上に砦がある。砦は縦長の小規模な平場となってるが、後部にコの字型の土塁で囲まれた一段低い曲輪があり、小屋掛けがあったらしい。南の尾根には2本の小堀切が穿たれている。また尾根の東に腰曲輪があり、山上の曲輪から竪堀が落ちて東腰曲輪に繋がっている。またこの東腰曲輪からも竪堀が落ちている。以上が壇城の遺構で、小規模ながら居館と詰城がセットになった形態がよく残っている。
砦のコの字型土塁で囲まれた曲輪→DSCN7517.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.588974/136.994973/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


南北朝武将列伝 北朝編

南北朝武将列伝 北朝編

  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2021/05/28
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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木舟城(富山県高岡市) [古城めぐり(富山)]

DSCN7439.JPG←本丸跡の小丘
 木舟城は、1585年の天正大地震で崩壊した城である。元々は、越中の有力国人であった石黒氏の居城であった。伝承では1183年に木曽義仲に従って倶利伽羅合戦等で活躍した石黒太郎光弘が、1184年に築城したと言われるが確証はない。近年の研究では、小矢部川流域の石黒荘を本拠とした石黒氏が、南北朝期以前に木舟に進出して木舟城を築いて居城とし、木舟石黒氏となったと考えられている。南北朝中期には、石黒四郎右衛門政家が越中守護となった斯波高経に属して「貴布祢城」に居城したとされる。石黒氏には、惣領で福光城を本拠とした福光石黒氏と庶家の木舟石黒氏の2流があったが、福光石黒氏は1481年に一向一揆と戦って滅亡した。一方、木舟石黒氏は、1576年頃に石黒左近蔵人成綱が越中を制圧した上杉謙信に服属している。1578年に謙信が急死すると、織田信長は旧守護代家の神保長住を飛騨経由で越中に入国させ、上杉方国人衆の切り崩しを図った。成綱はこれに素早く反応し、上杉方の瑞泉寺や勝興寺を攻撃して織田方に服属した。1581年5月には上杉勢の攻撃を受けて木舟城を奪われた。城を追われた成綱は、信長からの呼出しを受けて安土城に向かったが、同年7月6日に途中の長浜で丹羽長秀の手勢に討ち果たされ、木舟石黒氏は滅亡した。木舟城は上杉景勝の部将吉江宗信が守っていたが、同年7月、織田勢の攻撃を受けて落城し、宗信は船で越後に逃れた。この後木舟城には佐々成政の家臣佐々平左衛門政元が入り、以後佐々方の有力支城の一つとなった。1582年に織田信長が本能寺で横死すると、越中は一時上杉氏の反転攻勢に晒されたが、翌83年8月、成政は上杉勢を駆逐し、ほぼ越中一国を平定した。その後、成政は信長の後継者に躍り出た羽柴秀吉に敵対し、隣国加賀・能登を領する前田利家と激しく対立したため、木舟城は越中西部の守りとして重要な拠点となった。1585年8月、秀吉が大軍を率いて佐々征伐に出陣すると、成政は衆寡敵せず降伏し、砺波郡など3郡が前田氏に与えられ、木舟城には利家の弟前田秀継が今石動城から移ったが、同年11月29日の天正大地震により城は崩壊し、秀継夫妻は圧死した。翌86年には応急的に復興され、城主前田利秀(秀継の子)は同年5月上洛途上の上杉景勝一行を木舟城で歓待したが、同年の内に利秀は今石動城に居城を移し、木舟城は廃城となった。

 木舟城は、城の北側に城下町を形成した水陸交通の要衝であったが、現在は水田地帯の只中にわずかに本丸の残欠の小丘が残るだけとなっている。その重要性から県の史跡に指定され、城跡は公園化されているが、近代早くに田圃整理で遺構の湮滅が進み、その城域・曲輪の輪郭の確定すら困難な状況である。発掘調査の結果などから、北から順に北郭・本丸・南郭を浮島のように並べ、東にある貴布祢神社のある微高地も東の曲輪であったらしい。しかしもはや曲輪の輪郭すら残っておらず、縄張りを思い描くことさえ困難である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.688373/136.913960/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望: 天正壬午の乱から小田原合戦まで

武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望: 天正壬午の乱から小田原合戦まで

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2011/05/01
  • メディア: 単行本


タグ:近世平城
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川合田館(富山県南砺市) [古城めぐり(富山)]

DSCN7401.JPG←敷地南の水路
 川合田館は、戦国時代に雑賀安芸守の居館であったと伝えられる。伝承では、元亀年間(1570~73年)に上杉謙信に攻められ落城したと言うが明証はない。尚、雑賀氏は、遊部屋敷高峠城も合わせ持っていたと伝えられ、安芸守が佐久間盛政と合戦して討死し、その後子孫は加賀前田家に仕えた。

 川合田館は、現在石黒交流センターの敷地となっている。それ以前は石黒小学校(廃校)があったため、遺構は改変されて湮滅している。敷地は周囲より一段高い微高地で、南側には水路が走っている。もしかしたら堀の名残かもしれない。いずれにしても失われた城館であり、解説板があるだけマシであるが、その解説板も地がほとんど消えかかっている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.570657/136.866152/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


完全保存版 日本の城1055 都道府県別 城データ&地図完全網羅!

完全保存版 日本の城1055 都道府県別 城データ&地図完全網羅!

  • 出版社/メーカー: 西東社
  • 発売日: 2022/11/07
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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広瀬城(富山県南砺市) [古城めぐり(富山)]

DSCN7297.JPG←主郭後部の櫓台
 広瀬城は、鎌倉時代にこの地の地頭藤原氏によって築かれた砦と伝えられ、加藤右衛門佐、上田作兵衛、山口新左衛門、清水将監が在城したと言われる。その後、天正年間(1573~92年)には、越中国を制圧した佐々成政が、加賀・能登を領した前田利家と争った際、前田氏と戦うための国境の基地として修築されたと思われる。

 広瀬城は、標高344mの峰に築かれている。幸い東中腹に車道が通っており、その脇から登道が付いている。登城路は、一部消滅しているもののほとんどは残存しているので、ほとんど迷わずに城に登ることができる。道を登っていくと若干の平場群を越えた先に最初に現れるのが東出郭で前面と背面に堀切を穿って独立性を高め、曲輪後部に物見台を置いている。その上には二ノ郭がある。前面に2段の腰曲輪を配した広い曲輪で、側方に竪堀数本を穿ち、後部に土塁・堀切を設けている。その上に主郭がある。主郭も前面に2段の腰曲輪を配している。腰曲輪から主郭への進入路は枡形虎口になっているらしいが、薮が酷くて形状がほとんどわからない。主郭後部には大きな櫓台が築かれている。櫓台の背後の尾根には二重堀切が穿たれているが、ここも薮が酷くてほとんど形状がわからない。ここから南にある350m峰にも西出郭群がある。西出郭群は頂部に物見の平場があり、東尾根は堀切で穿ち、西尾根に段状に曲輪群を連ねている。途中に竪堀や横堀があり、先端の尾根には二重堀切が穿たれて城域が終わっている。このほか、二ノ郭の北東にも曲輪群があり、竪堀や背後に堀切を穿った物見台が見られる。その下の腰曲輪には畝状竪堀があるのだが、ここも薮で全くわからなくなっている。ほかにも北東尾根を降った先にも出郭群があるらしいが、時間の都合でパスした。広瀬城は、遺構はよく残っているのだが、重要遺構が劇薮に埋もれてしまっており、残念な状況である。
二ノ郭背後の堀切→DSCN7270.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.545699/136.828333/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


『日本の城年表』古代から現代まで城の変遷や進化が劇的にわかる (朝日年表シリーズ)

『日本の城年表』古代から現代まで城の変遷や進化が劇的にわかる (朝日年表シリーズ)

  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2024/02/20
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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