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与川古典庵館(長野県南木曽町) [古城めぐり(長野)]

DSCN4404.JPG←眺望に優れた丸山
 与川古典庵館は、木曽氏の庶流三留野氏の家臣小川野氏の居館である。小川野氏の祖・次郎左衛門は三留野左京亮家範に仕え、三留野氏係累の俊範を迎えて住僧とした。1584年、妻籠城の戦いの際、軍学にも優れていた与川俊範は、与川村の郷民を率いて妻籠城に籠城する木曽勢の救援に赴き、徳川勢を撃退したと言う。尚、木曽左京大輔家方(家賢)の4子右馬之助家益が野路里(野尻)に分封され、その支裔が小川野氏であるとも言う。しかし木曽氏の歴史はよくわからないものが多く、三留野家範は戦国時代以前の武士であり、家範に仕えた次郎左衛門が迎えた俊範が戦国末期に活躍したというのは時代的に合わず、前述の所伝には疑問がある。

 与川古典庵館は、与川北岸の丘陵上に築かれている。丘陵上はグラウンドとなって削平され、その南端部に丸山という細長い小山がある。小山の上には古典庵の石碑や与川俊範の供養塔、良寛の歌碑などが建っている。この地は江戸時代、観月の名所で木曽八景に数えられており、眺望に優れた地勢である。古典庵が建っていたのは、グラウンドの北部であったらしいが、前述のようにグラウンドとなって削られ、往時の形態は失われている。
古典庵跡地の現況→DSCN4392.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.635020/137.642384/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲信の戦国史:武田氏と山の民の興亡 (地域から見た戦国150年)

甲信の戦国史:武田氏と山の民の興亡 (地域から見た戦国150年)

  • 作者: 笹本正治
  • 出版社/メーカー: ミネルヴァ書房
  • 発売日: 2016/05/30
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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和村城(長野県大桑村) [古城めぐり(長野)]

DSCN4320.JPG←主郭北側の堀切
 和村城は、歴史不詳の城である。木曽川北岸の段丘辺縁部にあるが、川を挟んで南には木曽氏の拠点須原城・定勝寺館があり、それらと関連する城であることが推測されている。

 和村城は、木曽川に大沢が流れ込む合流点の北東岸に築かれている。ほぼ単郭の城で、先端に主郭が置かれ、東に段状に腰曲輪群が築かれ、主郭の北には堀切を挟んで土塁が伸びている。主郭は、現在はただの空き地となっている。二ノ郭もあったとされるが、耕地化で改変され失われているようである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.698022/137.684602/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


城館調査ハンドブック

城館調査ハンドブック

  • 作者: 千田 嘉博
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA(新人物往来社)
  • 発売日: 1993/10/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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古畑伯耆守重家屋敷(長野県木曽町) [古城めぐり(長野)]

DSCN4298.JPG←大手の石垣
 古畑伯耆守重家屋敷は、木曽氏の庶流でその家臣であった古畑氏の居館である。古畑氏は木曽家村の3男黒川三郎家景の後裔で、代々黒川に住し、馬場氏と共に黒川口の守りに当たったと伝えられる。重家は戦国後期の当主で、木曽義康・義昌2代に仕えた。1560年、飛騨の三木氏が木曽に侵攻すると、重家は奈川口を守てこれを敗走させた。この戦功により「五貫文山」と呼ばれる山を賜り、江戸時代に木曽を統治した尾張藩が木曽住民に私有林を許さなかった中にあって、この山だけは古畑氏子孫に私有を認めていたと言う。

 古畑伯耆守重家屋敷は、木曽福島宿から開田高原に通じる街道沿いにある。現在は国道361号線が通っているが、かつては黒川沿いに飛騨街道の旧道があったらしく、屋敷はこの飛騨街道に面している。現在屋敷跡地は畑となっているが、飛騨街道に面して大手虎口が開かれ、その両側に石垣が残っている。また屋敷地の南北両辺にも段差が残っている。大手門には、門跡の礎石も残っている。どこまでが中世の遺構なのか、どこからが近世の遺構なのかははっきりしないが、石垣と門跡が残っているのは素晴らしい。
門跡の礎石→DSCN4312.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.876228/137.674870/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3)

宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3)

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2016/08/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
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女沼古戦場(埼玉県熊谷市) [その他の史跡巡り]

DSCN4053.JPG←古戦場の標柱付近
 女沼の戦いは、南北朝時代に第2次畿内遠征を敢行した鎮守府大将軍北畠顕家と、足利義詮を奉じた上杉憲顕・高重茂らの鎌倉府の軍勢の戦いである。『太平記』第19巻によれば、1337年8月、義良親王を奉じて霊山城を出立した顕家率いる奥州軍が下野国に入ると、この報を聞いた鎌倉府の上杉憲顕らは武蔵・相模の軍勢を率いて出陣し、利根川に防衛線を敷いた。両軍は12月13日に時雨で増水した利根川を挟んで対峙した。この時、源平合戦の加賀篠原の戦いで名高い斎藤別当実盛の後裔・斎藤別当実長は、「敵より先に渡河した方が勝つ」と顕家に進言して先陣を許された。しかし実長が打立つのを見た閉伊十郎・高木三郎はいつも先陣を争っていた者達だったので、実長を出し抜いて先に渡河しようと、利根川に馬を打ち入れた。これを見た実長は、「このままみすみす渡河させては、どうして高名を立てることができよう」と舎弟実季(太平記では実季は「豊後次郎」と記載される)と共に腹を立て、3町ほど上流を2騎で渡ろうとした。しかし実長・実季兄弟は、逆巻く激流に馬ごと飲まれて帰らぬ人となったと言う。これを見た武士達は、「さすがは鬢髭を染めて討死した実盛の末裔だ」と感嘆したと言う。これを機に両軍は川中に討ち入って戦い、結局顕家軍が勝利した。この後16日に、顕家軍は武蔵国安保原でも鎌倉府軍を撃破し、義詮を三浦半島へ追いやり、関東執事斯波家長を討ち取って23日に鎌倉を占領した。

 女沼の戦いは、『太平記』には「戸祢川(利根川のこと)」とだけ書かれていて、具体的な場所は書かれていない。標柱が立っているが民家近くの畑に標柱が立っているので、何か根拠があるのだろう。河川改修で周囲の景観は変わっているが、近くの妻沼聖天山やその周辺には斎藤塚など斎藤氏に所縁のある史跡がある。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.227286/139.387579/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


太平記(三) (岩波文庫)

太平記(三) (岩波文庫)

  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2015/04/17
  • メディア: 文庫


タグ:古戦場
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細谷館(群馬県邑楽町) [古城めぐり(群馬)]

DSCN4030.JPG←東の堀跡
 細谷館は、新田義貞の一族細谷右馬助秀国の居館である。新田氏5代政氏の長子国氏が新田荘細谷に分封されて細谷氏初代となり、その孫が秀国である。新田宗家は国氏の弟基氏が継ぎ、基氏の孫が南北朝史に名高い新田義貞である。1335年に足利尊氏が後醍醐天皇の建武政権から離反すると、義貞は尊氏に代わる武家の総帥として後醍醐から取り立てられて各地を転戦したが、秀国も義貞に従って転戦した。1336年の足利勢の京都制圧後、越前に逃れて足利方の部将斯波高経と越前で戦っていた義貞は、1338年に灯明寺畷で討死した。統領義貞の死で新田軍は劣勢となり、秀国は再起を図って海路西の丹後国府中に逃れ、籠神社の社家海部氏を頼った。1347年に上野国に戻り、旧知の佐貫氏の支配地、邑楽郡佐貫庄篠塚の坪谷に館を築いて寓居した。これが細谷館である。館の鬼門には丹後府中の籠神社から勧進した。これが現在残る籠宮稲荷神社である。秀国の子勝直が跡を継いだ。時代は下って戦国後期の1570年、小泉城主富岡氏の軍勢の中に細谷右馬助義重・同与一郎の名が見える。1575年に義重が没すると、その子義長が跡を継ぎ、富岡氏の客将となり、小田原の北条氏直に属した。1590年に北条氏が滅亡すると、義長はこの地で帰農した。

 細谷館は、県道152号線の坪谷交差点の北西にある。現在館跡は民家の敷地となっているので内部探索はできないが、北・東・南の三方に堀跡が残っている。西の堀は耕地化で埋められてしまっている。遺構としてはそれだけであるが、中世土豪の屋敷の雰囲気を残している。
 尚、館跡の南方170mには、細谷秀国の墓所五位堂があり、その脇に細谷氏の墓所が残っている。五位堂の名は、秀国の位階によるものとも言われる。
五位堂と細谷氏墓所→DSCN4051.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.240561/139.442350/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


新田一族の中世 歴史文化ライブラリー

新田一族の中世 歴史文化ライブラリー

  • 作者: 田中大喜
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2021/11/01
  • メディア: Kindle版


タグ:居館
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早川田氏館(群馬県館林市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN3979.JPG←館跡の雲龍寺
 早川田氏は、佐川田氏、佐河田氏などとも呼ばれ、高階氏の一族であったとされるがその事績はよくわからない。

 早川田氏館は、現在の雲龍寺の位置にあった。渡良瀬川の北岸に当たるが、この付近だけ県境が渡良瀬川の北岸に張り出しており、明治以降に河川改修によって川の流路が変えられたものと推測される。寺の本堂背後に竹が生えた土盛りがあるが、遺構かどうかは判断できない。尚、雲龍寺は足尾鉱毒事件の闘士、田中正造にゆかり深い寺で、正造の墓があり、正造を祀った救現堂も建っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.278367/139.552717/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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青柳城(群馬県館林市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN3972.JPG←堀跡のような水路
 青柳城は、後に館林城を居城とした赤井氏の初期の居城であったとされる。館林周辺は佐貫庄と呼ばれ、室町時代には佐貫氏庶流の舞木氏が支配し、赤井氏はその被官であった。永享の乱の最中、舞木持広の寄騎の侍として赤井若狭守の名が見える。しかし室町後期には下剋上で赤井氏が佐貫庄を掌握したらしい。この頃の赤井氏居城が青柳城であったと伝えられる。赤井氏は後に館林城を築いて居城を移したが、その時期は明確ではない。以前は戦国中期頃に館林城に移ったとされていたが、それ以前の享徳の乱の最中の1471年に山内上杉氏の重臣長尾氏が赤井氏の拠る立林(館林)城を攻略したという記録が残っており、戦国時代より前に既に館林城があったことが判明している。また赤井氏の館林城以前の居城としては大袋城とも言われており、青柳城との関係は不明である。

 青柳城は、龍積寺付近の平地に築かれていたらしい。現在寺の北側を水路が流れているが、城のどこかの部分の堀跡である可能性がある。しかしそれ以外は宅地化などで改変されており、明確な遺構もなく、どのような縄張りの城だったのかも皆目わからない。残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.222370/139.517741/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


名将言行録 現代語訳 (講談社学術文庫)

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  • 出版社/メーカー: 講談社
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タグ:中世平城
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白旗城(群馬県館林市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN3817.JPG←薮の中に残る堀跡
 白旗城は、享徳の乱の激戦・羽継原合戦の際に、関東管領上杉房顕方の岩松氏が、古河公方足利成氏の羽附陣屋に対して布陣した城と伝えられる。

 白旗城は、鶴生田川南岸の微高地に築かれている。この微高地は白旗山と呼ばれ、付近には馬場、首洗堰等の地名が残るという。現在城跡は激しい薮の林となり、周囲は宅地や団地となっている。川沿いの道を進むと、微高地に北から伸びる1本の堀跡が残り、その東には土塁が築かれている。辛うじて確認できるのはここまでで、後は激しい薮に阻まれて確認できない。いずれにしても一時的な陣城と思われ、大規模な城ではなかっただろう。それにしても対峙した羽附陣屋とはわずか700m程しか離れておらず、川を挟んでいるとはいえ、あまりに近すぎるのがちょっと気になる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.236719/139.573874/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図説 享徳の乱

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  • 作者: 黒田基樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2021/03/11
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:陣城
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山鹿城(福岡県芦屋町) [古城めぐり(福岡)]

DSCN3646.JPG←三ノ郭から見た主郭
 山鹿城は、当初は藤原秀郷流山鹿氏、鎌倉時代以降は宇都宮氏流の山鹿麻生氏の歴代の居城であった。伝承では、天慶年間(938~47年)に鎮西奉行となった藤原秀郷の弟藤原藤次によって築城され、藤次は山鹿氏を称したと伝えられる。以後山鹿氏代々の居城となり、平安末期の城主山鹿兵藤次秀遠は、治承・寿永の内乱(いわゆる源平合戦)の際に平家方に付き、1183年に幼帝安徳天皇を奉じて西国に落ちてきた平氏一門を城に迎えた。しかし源氏方の緒方三郎惟義の軍勢が迫ると聞き、平氏一門は城を離れた。結局秀遠は平家と運命をともにし、滅亡した。鎌倉時代になると、下野宇都宮氏の一族宇都宮左衛門尉家政(宇都宮氏3代朝綱の子)が山鹿秀遠の旧領を与えられて入部し、山鹿氏、後に麻生氏を称した。室町・戦国期には、大友氏・大内氏・毛利氏らに従った。1587年、豊臣秀吉の九州平定により、麻生上総介元重は筑後の小早川隆景の配下とされ、筑後に移り、山鹿城は廃城となった。

 山鹿城は、遠賀川の河口に近い標高40mの城山に築かれている。城山は公園化されているので盛夏でも遺構が確認できるが、改変が見られるのは仕方のないところである。中央に主郭を置き、南北に曲輪を配置している。北に長く伸びるのが三ノ郭で、南の腰曲輪状のものが二ノ郭である。江戸時代の絵図を見ると、二ノ郭は南から主郭西までL字型に主郭を囲んでいた様だが、西の平場は現在では崩落等によって小道ぐらいの幅しか残っていない。三ノ郭の北西と東には腰曲輪がある他、先端部下方にも段状に曲輪群が置かれている。この他、南の尾根鞍部を挟んだ南の高台に出丸が築かれていて、2つの神社の祠が祀られている。以上が山鹿城の遺構で、簡素な構造の小城砦であり、戦国末期にどれほど重視されていたのかは疑問に感じる。
出丸→DSCN3630.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/33.897073/130.669649/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


九州の名城を歩く 福岡編

九州の名城を歩く 福岡編

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2023/03/20
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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本城城(福岡県北九州市) [古城めぐり(福岡)]

DSCN3611.JPG←高台にある蛭子神社
 本城城は、蛭子谷(えびすだに)城とも言い、治承・寿永の内乱(いわゆる源平合戦)の際、源頼朝の命で東国武士団を率いて平家追討のため九州まで下向した源範頼は、ここに城郭を構えて本陣を置き、平家方の原田種直と戦ったと伝えられる。また範頼は、壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した後、敗戦処理のためしばらくこの城に滞在したと伝えられる。

 本城城は、鵜巣池の南西にある丘陵上に築かれていた。現在丘陵上は、本城霊園という広大な墓地に変貌し、明確な遺構は残っていない。霊園の中心付近の十字路脇に城の解説板が立ち、その脇の高台には蛭子神社が祀られている。もしかしたら、城の櫓台だったかもしれないが、周囲は改変され尽くしており、どのような城だったのか、想像することも難しい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/33.881523/130.721372/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


治承・寿永の内乱と平氏 (敗者の日本史 5)

治承・寿永の内乱と平氏 (敗者の日本史 5)

  • 作者: 元木 泰雄
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2013/03/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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