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田手岡館(宮城県大和町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_5630.JPG←北西麓の水堀
 田手岡館は、伊達一門に列する宮床伊達家の居館である。宮床伊達家は伊達氏の庶流で、元は伊達崎氏を称し、伊達崎城を居城としていた。後に田手氏に改称した。宮床の初代領主伊達宗房(政宗の孫で、2代藩主忠宗の8男)は、4歳で田手高実に入嗣し、田手肥前宗房を名乗った。1659年、14歳の時に伊達姓を許され、一門に列せられた。翌年、在所を宮床に移し、田手岡館を築いて居所とした。宗房の長子村房は、1686年、父宗房の死により宮床伊達家を継いだが、1695年に伊達本家4代綱村の養嗣子に迎えられたため(村房は1703年に伊達本家5代藩主吉村となった)、村房の弟村興が宮床伊達家3代当主となった。1702年、川崎要害を領した砂金氏が無嗣断絶となると、村興は川崎要害に移されたが、1722年、兄吉村の命で再び宮床に戻された。以後、田手岡館が代々の居館となり、幕末まで存続した。

 田手岡館は、比高20m程の丘陵上に築かれている。北麓の民家脇から登道(大手道)が付いており、館内もある程度は薮払いされているが、冬でなければ訪城は難しいだろう。前述の登道を登ると虎口に至る。形状があまりはっきりしないが、内枡形になっていた様である。本丸内はいくつかの段差に分かれた広大な平場で、西辺部に土塁が残り、搦手虎口も確認でき、井戸跡も残っている。搦手の外は二ノ丸とされるが、一面の薮で形状が把握できない。また本丸の南端付近には、祠の建つ大土壇があり、その東側に堀のような低湿地がある。どうも庭園跡であるらしい。土壇も庭園の築山であったかもしれない。この他、丘陵の北西麓には水堀が残存している。北麓の大手には丸馬出もあった様だが、現在は湮滅している。
 田手岡館は、往時の構造はあまりはっきりわからなくなってしまっているが、部分的に遺構を残している。尚、石垣も残るとされ、大手道沿いの切岸にわずかに石が見られるが、石垣と言うほど立派なものではなく、これもはっきりしない。近世の城館だが、ちょっと残念な状況である。
本丸の土塁→IMG_5585.JPG
IMG_5611.JPG←井戸跡

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.402000/140.844716/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0
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戸根林楯(山形県長井市) [古城めぐり(山形)]

IMG_5309.JPG←主郭東に突出した櫓台
 戸根林楯は、歴史不詳の城である。草岡地区北西の標高334mの丘陵上に築かれている。この城に行くには、北西に伸びる尾根の先に車道が通っており、そこから国土地理院1/25000地形図にある点線の林道を100m程南に向かって歩き、林道が北東向きに曲がった辺りから南東の尾根方向に山林を歩いていけば、目の前に堀切が現れてくる。このルートであれば山登りする必要がないので、場所さえわかっていれば訪城はたやすい。ただ城内には草木が多く、しかも雪国特有の高反発の折れない灌木が立ち塞がっているので、踏査はなかなか大変である。

 戸根林楯は大型の単郭の城で、主郭の周囲には延々と横堀もしくは帯曲輪が廻らされている。横堀は、北東の基部の尾根では二重堀切となり、内堀の西端は折れて横堀となって主郭の西側に回り込んでいる。この横堀は短く途切れてしまうが、南端部に3本ほどの短い竪堀群が築かれている。これはちょっと意図が不明で、竪堀と言うよりも倉跡の様にも思われる。一方、北東の支尾根にも堀切が穿たれ、堀切前面には独立小郭がある。この堀切も主郭東側の横堀に繋がっている。東側の横堀は、一部で帯曲輪に姿を変えながら、延々と伸びている。主郭東側の塁線はかなり複雑に屈曲しており、下方の横堀・帯曲輪に対して多くの横矢が掛けられている。特に主郭東側に突出した櫓台があり、見事な横矢掛りとなっている。この城の大手は南東尾根にあったと思われ、この方面には複雑な虎口構造が見られる。主郭外周の横堀から降る竪堀状の城道はクランクしながら外に通じている。またこの付近だけもう一つ外側に横堀が穿たれ、この城道の横に繋がっている。横堀周囲の土塁はL字状となって上の土塁に接続し、更にこの上の土塁もL字状に折れて主郭に繋がっている。草木が多くてわかりにくいが、複雑な多重枡形を形成していた様である。また主郭の中央西側には堀切と独立堡塁があり、その上に内枡形虎口が形成されている。主郭内は、横堀・帯曲輪沿いに一段低く腰曲輪が取り巻いている。主郭の土塁は、北西部にのみ構築されている。この他、横堀の数ヶ所に竪堀状虎口が築かれて、城外に通じている。
 この様に、戸根林楯は主郭外周の約4/5程を横堀・帯曲輪で囲繞した構造で、防衛陣地のように守りを固めている。歴史が残っていないことからすると、軍事作戦上、一時的に取り立てた付城のようなものであったのかもしれない。伊達勢による構築であろうか?
南東部の横堀→IMG_5314.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.148716/140.009047/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


伊達氏と戦国争乱 (東北の中世史)

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  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/12/21
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タグ:中世平山城
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御館山城(山形県大江町) [古城めぐり(山形)]

IMG_5221.JPG←山頂の大江高基と3家臣の墓
 御館山城は、寒河江城を本拠とした寒河江大江氏滅亡の地である。貫見では、「大江懐顕貫見楯に住す」「政顕要害楯に住す(1292年)」と大江氏系図にあるのを始めとし、大江一族が古くからこの地で勢力を養っていた。1584年、山形城主最上義光の攻撃によって寒河江大江氏18代高基は、寒河江城から甥の松田彦次郎の拠る貫見楯に逃れ、12家臣が防戦している間に高基は御館山城に登り、3家臣と共に自刃したと言う。

 御館山城は、標高438m、比高238mの御館山に築かれている。まともに山麓から登ったら大変だが、幸い西麓の貫見集落から御館山の南まで林道が伸びており、途中までは車で登ることができる。途中からは歩きとなり、30分程度で御館山に至る。肝心の遺構であるが、かなり不明瞭で、ほとんど普請されておらず自然地形にしか見えない。従って城郭遺構を期待して訪城するのはお勧めできない。しかし城跡とされる山頂の平場には、ここで自刃して果てた大江高基と3家臣の墓が建てられており、重要な歴史を刻んだ場であることは確かであろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.370766/140.109576/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


最上義光 (人物叢書)

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  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
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貫見要害城(山形県大江町) [古城めぐり(山形)]

IMG_5202.JPG←曲輪間の段差
 貫見要害城は、単に要害城と呼ばれ、御館山城に対する根古屋、または居館であったと推測されている。寒河江大江氏の系図によれば、1292年に大江政顕が要害楯に住したとある。1584年、山形城主最上義光の攻撃によって寒河江大江氏の18代当主高基は、寒河江城から甥の松田彦次郎の拠る貫見楯に逃れ、家臣たちが防戦している間に高基は御館山城に登って自刃したと言う。この貫見楯とは、要害城のことであった可能性が高いと思われる。

 貫見要害城は、小清川東岸の丘陵上の高台に築かれている。この高台は南北に長く、内部は3段程の平場に分かれている。明確な掘切はなく、段差のみで区画されているが、真ん中の曲輪は以前は宅地であったらしいので、改変で堀切が湮滅した可能性もある。いずれにしても遺構は僅かである上、それほどの要害地形とも思われず、寒河江氏家臣団が最後の防戦を行ったとするには少々物足りなさを感じる。
 尚近くには、大江高基を庇って最後の防戦をして討死した12人の家臣の墓がある。
大江氏12家臣の墓所→IMG_5189.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.370194/140.099105/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


最上義光の城郭と合戦 (図説日本の城郭シリーズ14)

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  • 発売日: 2019/08/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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貫見大城(山形県大江町) [古城めぐり(山形)]

IMG_5172.JPG←大空堀
 貫見大城は、単に大城(だいじょう)と呼ばれ、寒河江大江氏最後の当主大江高基の弟隆廣の城であったと伝わっている。築城時期は不明だが、『山形県中世城館遺跡調査報告書』では鎌倉時代の築城としている。1584年、山形城主最上義光の攻撃によって高基は寒河江城から貫見楯に逃れ、家臣たちが防戦している間に高基は御館山城に登って自刃したが、この時隆廣も貫見楯で戦い自刃したと言う。

 貫見大城は、月布川曲流部に南から突き出た台地上に築かれている。県道27号線の南側が高台となっていて、そこが主郭であったらしい。以前は集合住宅か何かが建っていたらしいが、現在は何もなく雑草に覆われた空き地となっている。主郭内部は改変のせいと雑草で明確な遺構は不明であるが、主郭の南東から南にかけて台地基部を分断する大空堀がはっきりと残っており、県道側からも空堀跡を望むことができる。よく見ると、空堀が弧を描いて曲がる部分にのみ、主郭外周に帯曲輪が見られる。この他に土塁や井戸跡も残るとされるが、よくわからなかった。県道からの台地入口には「大城」の石柱が立っている。

 尚、城の名前であるが、「大城」ではどこのことかさっぱりわからないので、ここでは貫見大城と記載した。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.384913/140.120541/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

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  • 作者: 松岡 進
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/02/27
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慈恩寺城館群 その2(山形県寒河江市) [古城めぐり(山形)]

 慈恩寺城館群には2018年の秋に行っているが、まだ草枯していない初秋であったので、一番城跡らしい遺構を残している日和田楯に行くことができなかった。今回は日和田楯を踏査する為、草枯した晩秋に訪城した。

【日和田楯】
IMG_5141.JPG←主郭背後の大空堀
 日和田楯は、一説には日和田五郎と言う者が南北朝期頃に楯主であったとされる。楯腰稲荷神社背後の比高40m程の丘陵突出部に築かれているが、神社が建っているのもかつての楯の腰曲輪である。頂部に長方形に近い形状の主郭を置き、東と南に腰曲輪を廻らし、大切岸の東下に更に数段の腰曲輪を築いている。主郭内部は薮が多くてわかりにくいが、南東角部が一段低くなっており、内枡形の虎口であった様である。また主郭の北角には櫓台が築かれ、その背後はL字型の大空堀を穿って台地基部と分断している。この他に、大空堀の外側にも腰曲輪群がある様だが、薮がひどかったので未確認である。
 尚、この楯を中心に、日和田集落をコの字型に内堀・中堀・外堀の三重の堀で囲んだ総構えの構造を持っていたと言うが、現在は残っていない様だ。
主郭の腰曲輪→IMG_5131.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.409180/140.257291/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1&d=m

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


城のつくり方図典 改訂新版

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  • 作者: 三浦 正幸
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  • 発売日: 2016/02/26
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タグ:中世山城
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小山家城(山形県天童市) [古城めぐり(山形)]

IMG_5109.JPG←わずかに残る腰曲輪と切岸
 小山家城は、山家城主山家氏の一族、小山家師時が築いた城と伝えられる。師時は、山家師兼の弟で、山形城主最上義光によって、1583~4年頃に700石の所領でこの地に封じられたと言う。それは、庄内攻略の戦功によるものとも、或いは天童城落城後に不穏な動きのあった北部の土豪達に備えるためであったとも言われる。いずれにしても、20年程にわたってこの地を支配したが、師時の夫人は秋田増田城主土肥道近の姉であった縁で、1603年に増田に移住して帰農したと伝えられる。

 小山家城は、比高30m程の丘陵上に築かれている。この丘陵は、大半が果樹園に変貌しており、遺構はわずかしか残っていない。一応、果樹園内にも段々になった平場が見られるが、切岸と言うほど明瞭に区画されておらず、かなり改変されてしまっているように見受けられる。主郭があったと思われる頂部も、形状がはっきりしない。『山形県中世城館跡調査報告書』には、「13~14段の帯曲輪が配され、北側に空壕がのこっている」とされるが、これもはっきりしない。唯一明確なのは主郭北側の山林内で、腰曲輪らしい平場と切岸らしい地形が残っている。この他、南麓の山元沼は水濠跡だったと言うが、これも大きく地形が改変されていると思われる。南麓の車道脇には立派な城址石碑と解説板が立っているが、遺構はかなり残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.369706/140.396057/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


最上義光 (織豊大名の研究6)

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水の手楯(山形県最上町) [古城めぐり(山形)]

IMG_4987.JPG←腰曲輪の櫛歯状竪堀
 水の手楯は、歴史不詳の城である。志茂の手楯も、その別名を水の手楯と伝えられるが、水の手楯と志茂の手楯は位置が隣接しているので、両者を混同したものとも考えられる。また城の形態としては、志茂の手楯が巨大な二重空堀で一城別郭とした豪壮な造りであるのに対して、水の手楯は堀の少ない単純な縄張りであることから、志茂の手楯に伝わる「小国城主細川摂津守直元の弟帯刀直茂の居城」とは、実はこの水の手楯のことで、志茂の手楯は細川氏を滅ぼした最上氏の勢力が新たに築いた城ではなかったかと個人的に推測している。

 水の手楯は、標高283.6m、比高80m程の八森山に築かれている。その点では、八森山楯と呼ぶ様にした方がわかりやすいかもしれない。志茂の手楯の築かれた山の隣の峰で、直線でわずか600m程しか離れていない。明確な登り道はないので、農道が山裾まで伸びている南東麓から斜面を直登した。山頂に瓢箪型の主郭を置き、その北東に台形状の二ノ郭、また南西から南面を周って南東まで腰曲輪を廻らし、更にこれらの最外周に腰曲輪を築いた縄張りとなっている。主郭と二ノ郭には土塁も堀切もなく、切岸だけで区画されている。また主郭南西の腰曲輪の下にある腰曲輪には、先端に土塁が築かれ、左方に竪堀状の虎口が築かれている。また二ノ郭周囲の腰曲輪には、櫛歯状の竪堀群が刻まれている。これは志茂の手楯の二ノ郭腰曲輪にも同様の構造がある。この点では、水の手楯と志茂の手楯とで、築城主体が同一であった可能性も考えられる。細川氏滅亡後、最上氏は当初水の手楯を改修して使用しようとしたものの、地形面の制約から新たに志茂の手楯に移ったものであろうか?この他、二ノ郭周囲の腰曲輪には、竪堀の様な桝形虎口らしい構造も見られる。
 水の手楯は、普請は明確で、ある程度の広さを持った山城であるが、櫛歯状竪堀群以外に技巧的構造がなく、素朴な形態を残している。
腰曲輪と二ノ郭切岸→IMG_5001.JPG
IMG_5044.JPG←南西腰曲輪の土塁

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.774261/140.467705/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

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  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/08/21
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タグ:中世山城
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荒屋楯〔仮称〕(山形県金山町) [古城めぐり(山形)]

IMG_4874a.jpg←南斜面の畝状竪堀
                            (青線が竪堀)
 荒屋楯は、私が2019年11月に新発見した山城である。速報は、その時に簡単に掲載したが、今回は詳報を記載する。
(写真・画像は、クリックで拡大します)

【縄張り】
 山頂部に東西に細長い主郭を配置する。郭内は後部で2段に分かれ、中央が高く両翼は一段低くなっている。その後部には土塁を築き、更に明確な二重堀切で背後の尾根を分断している。また主郭両翼に当たる南北の斜面には、びっしりと畝状竪堀が穿たれている。最上氏の勢力圏によく見られる畝状竪堀と同形状で、竪堀の長さは短く、畝のような竪土塁はコブ状(イモ虫状、或いはオムライス状とも言える)となっている。帯曲輪から竪堀が落ちる形態で、付近にある愛宕山楯と同種のものである。南側の畝状竪堀は薮が少ないので見易く、ざっと数えて24本もの竪堀が穿たれている。一方、北側のものは草木に覆われていて、非常に見辛い。辛うじて畝状竪堀のコブがいくつか確認できるだけである。しかし北側も主郭の長さ分だけの竪堀群があるらしく、こちらも20本程度は竪堀が穿たれていると推測される。これらはいずれも、山形県内の畝状竪堀としてはトップクラスの数である。これらの畝状竪堀は、主郭背後の二重堀切から落ちる竪堀と連続して構築されている。主郭の西側には二ノ郭があるが、削平は甘い。二ノ郭の西側に尾根を区画する小堀切が穿たれている。その先は自然地形の尾根であるが、謎のL字土塁が確認できる。土が硬いので、明らかに土塁として築かれたものであるが、役割は明確ではない。もしかしたら枡形虎口の土塁かもしれない。もしそうだとすると、二ノ郭の西側にも外郭があったことになる。遺構は以上である。
南斜面の畝状竪堀→IMG_4973a.jpg
IMG_4915.JPG←主郭背後の二重堀切
主郭背後の切岸→IMG_4918.JPG
IMG_4929.JPG←主郭後部の土塁
南斜面の畝状竪堀→IMG_4932a.jpg
IMG_4940a.jpg←北斜面の畝状竪堀
二ノ郭背後の小堀切→IMG_4911.JPG

【位置関係からの城の役割の考察】
 荒屋楯は、金山川西岸にそびえる標高230m、比高60m程の山上に築かれている。
 荒屋楯と金山城愛宕山楯との位置関係を地形図に落とし込むと、下図の様になる。(国土地理院発行1/25000地形図と傾斜量図を重ねたものに加筆)
金山城周辺図1.jpg
 金山城の南西の平地に広がっていたと推測される城下集落を囲むように、ほぼ正三角形に各城が配置されている。その為、城下集落にはこれら3城による挟撃ゾーンが形成される。(下図)
金山城周辺図2.jpg

 この地の主城は、最上氏家臣の丹与惣左衛門が居城とした金山城であるから、荒屋楯は愛宕山楯と共に、金山城下に侵攻する敵勢を、側面から牽制・攻撃する役目を負っていたと考えられる。最上氏の山城では、比較的小規模な城に畝状竪堀が構築されていることが多い。これは少数の兵しか置けない出城で、効果的に敵勢を撃退するための工夫と考えられるから、荒屋楯と愛宕山楯は、まさに少数の兵で側面から敵を牽制する目的で築かれたと推測できる。
金山城周辺図3.jpg

 これらの状況から、荒屋楯は仙北小野寺氏に備えたものか、或いは関ヶ原前夜の緊張状態の中で庄内の上杉勢に備えたものと推測できる。

【城へのアクセス】
 登山道はない。私は取り付きやすい南東の斜面を直登した。それほどきつい斜面ではないので、山城に慣れたキャッスラーなら登攀できる。またこの山は間伐や植林がされているので、適度に薮払いされている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.882181/140.329292/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


最上義光の城郭と合戦 (図説日本の城郭シリーズ14)

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  • 作者: 里志, 保角
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
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タグ:中世山城
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平岡館(山形県真室川町) [古城めぐり(山形)]

IMG_4865.JPG←主郭背後の三重堀切
 平岡館は、鮭延氏の家臣柿崎馬乃丞が永禄年間(1558~70年)に居住したと伝えられる。但し館主については、『日本城郭大系』では姉崎能登守、或いは姉崎右馬丞としており、柿崎と姉崎とどちらが正か、よくわからない。いずれにしても、平岡館主は鮭延越前守秀綱と行動を共にしたらしく、1581年に山形城主最上義光によって鮭延城が攻略されると、行方不明になったと言う。

 平岡館は、金山川と西の沢川に挟まれた台地の南西端に築かれている。台地上は「まむろ川温泉 梅里苑」となっており、そこから散策路が館跡まで伸びているので、楽に訪城できる。三角形に張り出した台地の突端を、堀切で分断しただけの簡素な城館で、規模も小さい。主郭は背後に土塁を築き、その裏に三重堀切を穿って防御している。山形に多い中間阻塞型の多重堀切であるが、この三重堀切は普請が中途半端で、3つの堀が階段状に並んでおり、中堀と外堀は非常に浅く、ちょっとした畝程度にしかなっていない。三角形をした主郭の先端には、側方に腰曲輪、尾根の先には段曲輪が築かれているが、いずれも規模は小さい。この他、三重堀切の東側は二ノ郭であったらしく、西側に浅い堀と低土塁があり、土橋らしいものも見られる。以上が平岡館の遺構で、居館と言うよりも物見を主任務とした簡素な小城砦であった様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.866929/140.278362/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


最上義光の城郭と合戦 (図説日本の城郭シリーズ14)

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  • 作者: 里志, 保角
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タグ:中世崖端城
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