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岡田氏館(栃木県足利市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2187.JPG←館跡付近の現況
 岡田氏館は、足利長尾氏の家臣で富士山城主であった岡田長親・秀親父子の居館である。富士山の西側の谷状に奥まった部分にあったと推測されており、かつては石垣も残存していたと言う。しかし現在は住宅地となっていて、遺構は完全に湮滅している。もし今でも石垣が残っていればと惜しまれる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.328913/139.440880/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


栃木県の歴史 (県史)

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  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2012/02/01
  • メディア: 単行本


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足利藩陣屋(栃木県足利市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2176.JPG←陣屋跡
 足利藩陣屋は、江戸中期の1705年、徳川譜代家臣の戸田忠利が1万1千石に加増を受け、大名として足利藩を立藩した。この時、陣屋が造営された。以後、戸田氏は幕末まで足利藩の藩主であった。最後の藩主戸田忠行は、幕末に陸軍奉行並に抜擢されたが、戊辰戦争では宗家の宇都宮藩戸田家が新政府軍に恭順したので、足利藩も新政府方に付いた。1869年(明治2年)に足利藩知事に任じられたが、2年後の廃藩置県で職を免ぜられ、忠行は東京に移住した。陣屋は1876年に火災で全焼した。

 足利藩陣屋は、現在の雪輪町一帯にあった。足利戸田家の馬印が「雪輪」だったことから、この町名が付いたと言う。現在は住宅地となっていて遺構はほとんど残っていない。陣屋の井戸が民家の脇にあったが、その民家は現在更地となっていて、足利市が整備中の様である。また北東にある栄富稲荷神社は、足利戸田家に所縁のある神社らしい。おそらく鬼門除けなのだろう。陣屋から南に真っ直ぐ伸びる陣屋大門通りは、かつての陣屋大手道がそのまま残っている。この他、足利市内の民有地に陣屋表門が移築されて残っているが、解説板はほとんど字が消え、門も傾いており、このままでは倒壊してしまいそうである。そうしたら、表門を探訪してから数ヶ月後に、陣屋門が倒壊の危機にあると言うニュースが取り上げられていた。早急な手当てを望みたい。
陣屋大門跡→DSCN2171.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.336761/139.448787/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


栃木県の歴史散歩

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  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2007/04/01
  • メディア: 単行本


タグ:陣屋
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助戸宮脇館(栃木県足利市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2159.JPG←館跡付近の現況
 助戸宮脇館は、歴史不詳の城館である。かつては付近に中妻・南小路・東小路・西小路、南側に東前田・西前田、西方に馬場の小字名があり、館跡であったことが推定されると言う。

 助戸宮脇館は、『足利市遺跡地図』によれば助戸公民館を中心とする一帯にあったらしい。現在は市街化で遺構は確認できない。しかし公民館の敷地には、「旧木村輸出織物工場」という明治に建てられた古い建物があり、県の文化財に指定されていて、そちらの方が見所がある。
旧木村輸出織物工場の事務所棟→DSCN2161.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.329950/139.466715/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


栃木県の歴史 (県史)

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  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2012/02/01
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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吉水陣屋(栃木県佐野市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2154.JPG←石碑の建つ公園
 吉水陣屋は、吉水城とも呼ばれ、1616年に徳川家康の側近本多正純によって築かれた陣屋である。正純は、駿府城の徳川家康に仕えていわゆる大御所政治を支えた重臣で、1608年に小山藩3万3千石(1616年に5万3千石に加増)、更に1619年に宇都宮藩15万5千石へと累進したが、1622年に失脚し、改易された。吉水陣屋は1619年の宇都宮藩転封の際に天領となり、廃されたと言う。

 吉水陣屋は、清水城(興聖寺城)の東方に築かれていたらしい。昭和時代まで遺構の一部が残っていたらしいが、吉水駅前区画整理事業で完全に湮滅したと言う。現在周囲一帯は住宅団地となり、新吉水第1公園の中に城址碑が立っているだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.348375/139.579368/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


栃木県謎解き散歩 (新人物往来社文庫)

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  • 出版社/メーカー: 新人物往来社
  • 発売日: 2012/08/07
  • メディア: 文庫


タグ:陣屋
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梅沢兵庫正勝館(栃木県栃木市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2126.JPG←宝蓮寺周囲の段差
 梅沢兵庫正勝館は、梅沢城主梅沢石見守義久の一族梅沢兵庫正勝の居館である。『栃木県の中世城館跡』の梅沢城の項では、宝蓮寺を梅沢兵庫正勝の居館跡と推測していることから、ここでは梅沢兵庫正勝館として記載する。

 梅沢兵庫正勝館は、前述の通り宝蓮寺となっている。境内に掲げられた宝蓮寺の寺伝には、梅沢氏のことは何も書かれておらず、日光を開山した勝道上人が創建した寺とのことで、梅沢氏よりも遥かに歴史のある寺であるらしい。『栃木県の中世城館跡』が何を根拠に梅沢兵庫正勝の居館と推測したのかは不明だが、境内は確かに周囲の平地より一段高い高台となっていて、館跡らしい雰囲気を残しているのは事実である。
 尚、宝蓮寺から永野川を挟んで対面には藤沢城があり、北西600mの山上には不摩城があって、これらと連携していたことをうかがわせる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.446755/139.642174/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦乱でみるとちぎの歴史:「とちぎ」の源流を探る

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皆川城外郭(栃木県栃木市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2085.JPG←墓地裏の空堀
 あまり知られていないかもしれないが、皆川城には外郭遺構がある。『栃木県の中世城館跡』の縄張図によれば、本城の置かれている城山の東に台地となった高台が2段あり、外周に切岸・土塁の防御線が構築されている。2段の内、下段の南東部には白山台と呼ばれる高台があり、古墳時代の祭祀遺構でもあるが、ここに最初に皆川庄を与えられて入部した長沼宗員系のいわゆる第一次皆川氏の居館があったと考えられている。この外郭から更に300~400m東に離れて皆川氏の氏神である東宮神社があるが、ここも切岸・土塁で囲まれた高台となっていて、出丸となっていたらしい。

 5月下旬にコロナ下で遠出もできなかったので、これらの遺構を探索した。最初に一番東にある東宮神社からスタートした。東宮神社の境内は、比高7~8mの高台となり、南側に明確な切岸がある。また神社の北側は運動公園となって変貌しているが、東西と南の神社との境に土塁が築かれており、西側にはわずかに空堀も残っている。また城山東の2段の外郭にも、民有地の脇に土塁と切岸が残っている。旧居館跡とされる白山台は、民有地の奥にある山林なので、踏査していないが遠目にも高台になっていることがわかる。東の外郭を、上段の切岸を通過して城山に近づいていくと、城山東南東の裾野に墓地があるが、その裏に大きくクランクする空堀が穿たれている。この空堀は、本城外周の防衛線を成す空堀の一部で、空堀内側の土塁は土橋を兼ねて空堀外側に繋がっており、この土橋の両側で、南の空堀と東の墓地裏の空堀が食い違いの形となっている。墓地裏の空堀は、90度折れて南東に降った後、更に南側に折れている。空堀の外側には墓地から民家まで取り巻くように、クランクする土塁が築かれている。
 栃木県内で、これほど外郭遺構がよく残る城は他に例がなく、見逃し難い遺構群である。

出丸西側の土塁と空堀→DSCN2061.JPG
DSCN2072.JPG←外郭下段の土塁
外郭奥の白山台(奥の杉林)→DSCN2076.JPG
DSCN2077.JPG←外郭上段の切岸
墓地裏から伸びる空堀・土塁→DSCN2116.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:【東宮神社・運動公園の出丸】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.396493/139.691226/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【白山台】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.395284/139.687461/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【墓地裏の空堀】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.395974/139.684896/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

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  • 作者: 塙 静夫
  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2015/02/16
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小泉館(栃木県益子町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN1917.JPG←畑の北辺に残る土塁
 小泉館は、田野城主羽石内蔵介の幕下であった小泉小三郎の居館であったと伝えられる。1585年に久下田城主で結城氏麾下の勇将として名高い水谷蟠龍斎正村が田野城を攻略した田野合戦の際、羽石方の武将として小泉小吉左衛門秀兼・小泉次郎兵衛秀行・小泉七郎等の名が見える。しかし羽石氏滅亡と共に小泉氏も滅亡した。また、祖母井の平石家文書によれば、祖母井信濃守九郎兵衛定久(国胤)が小泉に居を構え、後に祖母井に移ったとも伝えられる。

 小泉館は、小泉集落南方の高台に位置しているが、現在は麦畑や果樹園に変貌しており、遺構はかなり失われている。しかし北辺に土塁が残存しており、土塁の北面は切岸による段差となっている。土塁は西端部が一番高くなっていて、櫓台が置かれていたと思われる。夏場で雑草が繁茂していたので土塁上の踏査はしなかったが、櫓台の所には祠が祀られているらしく、地元の方の話では水神さんと呼ばれているらしい。昭和20年代前半の航空写真を見ると、畑の中に明確に方形の区画が確認できるが、現在残っているのは北辺部の塁線だけである。外周には空堀も廻らされていたようだが、これも現在は失われている。
 尚、この館の場所の特定に当たっては、益子町中央公民館の生涯学習課の方に情報を教えていただいた。この場を借りて御礼申し上げます。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.414160/140.084481/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

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  • 作者: 松岡 進
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/02/27
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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坪山城(栃木県下野市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN1897.JPG←城址付近の現況
 坪山城は、1289年に下条民部太夫重慶が築城した城である。下条氏の事績については不明だが、勢力圏としては小山氏の領域になるので、小山氏の家臣であったものだろうか?1441年に結城合戦により結城城と共に落城し、廃城となったと伝えられる。

 坪山城は、田川東岸の平地に築かれた平城で、現在は一面の水田地帯に変貌し、遺構は残っていない。ただ、城址の北東にある東権現神社(廃工場の東に隣接)の碑の裏面に坪山城の事が書かれている。碑文によれば、神社より西南方約300mの位置にあり、東権現神社は城の守護社であったと言う。神社の南西ということは、逆に言うと城の北東、即ち鬼門の方角に神社があったことになるので、城の鬼門除けとして神社が祀られたのだろう。昭和30年代の航空写真を見ると、神社の南西に方形に近い形状の水田の区画が見えるので、これが城跡と思われる。現在は田圃整理で完全に痕跡は失われている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.370978/139.903722/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

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  • 作者: 塙 静夫
  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2015/02/16
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タグ:中世平城
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朝比奈館(栃木県壬生町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN1788.JPG←朝比奈の五輪塔
 朝比奈館は、歴史不詳の城館である。実際に城館があったのかどうかも不明であるが、地勢としては恵川東岸の比高5m程の低台地の突端に当たり、城館が置かれても不思議のない場所である。その伝承も、伝説の色彩が濃厚で、鎌倉幕府の初代侍所別当の和田義盛の3男朝比奈三郎義秀にまつわるものであるらしい。館跡とされる丘には、「朝比奈の五輪塔」として町の史跡に指定されている大型の五輪塔があり、これが朝比奈義秀の墓と伝えられている。和田合戦で義盛が滅亡した際、義秀はこの地まで逃れ、追手の目をくらませるために自分の墓に見せかけてこの五輪塔を建て、その後いずこともなく去っていたと言う。しかし朝比奈義秀に関係する伝説的な史跡は東日本の各地にあるので、ここもその一つであり、俄には信じ難い。

 また朝比奈館から南東約500mの水田の中には、御熊野塚・尼恋塚という朝比奈義秀伝説に関連する塚も残っている。
水田の中に残る御熊野塚→DSCN1794.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:【朝比奈の五輪塔】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.490533/139.819629/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【御熊野塚】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.486496/139.821882/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【尼恋塚】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.486789/139.822011/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:墓所 居館
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沼野井館(栃木県那須町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN1769.JPG←館跡の高台
 沼野井館は、伊王野城主伊王野氏の家臣沼野井氏の居館である。文献上では永正年間(1504~21年)の上那須氏内紛の頃から現れ、簗瀬氏らと共に伊王野氏の家臣として活躍した。近世の初めには度々現れ、豊臣時代に水戸藩に出仕や帰農するような事情があり、館は廃されたらしい。沼野井氏の出自には二説あり、一つは1155年に鹿子畑から移り住んだという説、もう一つは鎌倉初期に那須氏の庶流須藤源蔵が沼野井に入部して沼野井氏の祖となったという説である。二説の内、どちらが正かは判然としないと言う。

 沼野井館は、余笹川西岸の丘陵の一突端上に築かれている。西だけが丘陵続きとなった高台で、現在は宅地や耕地となっている。高台という地勢以外は、明確な遺構は残っていない様である。民家の庭先のような畑なので入ることもできず、遠景を眺めたのみであった。
 尚、南方にある堂山はこの館の砦と言われる他、付近には「じんしろ」と呼ばれている所があり、一種の砦(陣城)と考えられると言う。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.951341/140.125980/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦乱でみるとちぎの歴史:「とちぎ」の源流を探る

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  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2020/02/01
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