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坪井山砦(石川県宝達志水町) [古城めぐり(石川)]

IMG_5727.JPG←外周の横堀
 坪井山砦は、坪山砦とも呼ばれ、末森合戦の時に佐々成政が本陣を置いた陣城である。元々は七尾城を本拠とした能登畠山氏の勢力が築いた砦とされる。一説には、畠山七人衆と呼ばれる重臣層に追放されて近江に亡命していた畠山義綱が能登入国を図るのに備えて、1567年に七尾城方の温井・三宅一族が坪井山砦を築いたとも言うが、遺構を見る限りではこの所伝には少々疑問を感じる。1584年、加賀能登を領する前田利家の領国を分断するため、佐々成政は末森城攻略を図った。ここに名高い末森合戦が生起した。その詳しい経緯は末森城の項に記載する。成政は、坪井山に本陣を置いて末森城に猛攻を掛けた。しかし利家の迅速果敢な後詰め戦により、搦手を突破されて城兵との合流を許してしまった。勝機を失った成政は、敵地での長い補給線と退路の確保を考慮して、本陣を引き払い越中に撤退した。

 坪井山砦は、標高約50mの低丘陵に築かれている。丘陵東麓に白山神社があり、その脇から小道が付いているが、途中で道が消えるので、とにかく西に向かって進んでいけば砦に到達する。砦は長円形をしており、東端に大手虎口を設け、外周に帯曲輪または横堀で防御している。西端にも搦手虎口があり、堀切を穿ち土橋を架けている。また北側に出曲輪があり、基部は主郭外周の横堀と兼用した堀切で分断している。一応この様な遺構は見られるが、普請は非常にささやかなもので、臨時的な陣城と言う色彩が強い。同じ陣城でも、例えば韮山城付城群等に見られるような複雑な構造は見られず、普請は極めて小規模である。それは、末森合戦が短期決戦を主眼とした奇襲攻撃であり、長期滞陣をする意図が最初からなかったからなのだろう。越中から国境を越えて出撃してきている佐々勢にすれば、長期攻囲戦になった時点で兵站の問題から撤退を余儀なくされる乾坤一擲の作戦であったことがうかがわれる。
大手虎口→IMG_5696.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.793804/136.759894/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


佐々成政 (人物文庫)

佐々成政 (人物文庫)

  • 作者: 遠藤 和子
  • 出版社/メーカー: 学陽書房
  • 発売日: 2010/04/05
  • メディア: 文庫


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御舘館(石川県宝達志水町) [古城めぐり(石川)]

IMG_5681.JPG←外郭南東部の横矢の張出し
 御舘館は、歴史不詳の城館である。岡部六弥太忠澄の後裔を称する、口能登の岡部氏一族の居館との伝承もあるが、確証はない。発掘調査の結果では、御舘館の存続年代は、南北朝時代から室町時代及び戦国時代であり、14世紀後半~15世紀前半と16世紀後半の二時期に盛期を持つと推測されている。

 御舘館は、杓田川北岸の比高10m程の段丘の南の縁に面して築かれた城館である。基本的には方形館で、コの字型の二重の堀で囲まれた梯郭式の縄張りとなっている。内郭は土塁がなく、堀だけで囲まれているが、南西角のみ櫓台が築かれている。また外郭は帯曲輪状でコの字状に廻らされ、東側では広幅の曲輪となり幅のある土塁を築いて防御している。しかも南東部だけ横矢の張出しを設け、更にその南端部は堀が台地の縁に沿って内側に入り込んでいる。東側に向かって防御を固めているが、これは館の東側に加賀・能登を結ぶ街道が通っていたからだと思われる。この他、現在は遺構がないが、発掘調査の結果では東と北にも更に曲輪があったらしい。御舘集落に隣接した山林の中に、奇跡的に明確な遺構が残る謎の城館である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.802378/136.767683/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

  • 作者: 松岡 進
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/02/27
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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龍ヶ峰城(石川県津幡町) [古城めぐり(石川)]

IMG_5559.JPG←三ノ郭から見た主郭
 龍ヶ峰城は、加越国境城砦群の一である。北陸道を扼する要衝に位置しており、最初は加賀一向一揆が築いたと考えられている。1573年の上杉謙信の越中侵攻の際には、一向一揆に加担する土豪村上右衛門が在城していたが、上杉勢に攻略された。その後、織田信長の勢力が北陸に伸びると、越中を与えられた佐々成政の属城となった。本能寺の変での織田信長滅亡後、その後継を巡って1584年3月、羽柴秀吉と織田信雄(信長の次男)・徳川家康連合軍が尾張の小牧・長久手で対峙した。前年の賤ヶ岳合戦の後、一旦は秀吉に降って越中に留まった富山城主佐々成政は、これを機に秀吉から離反し、秀吉方の金沢城主前田利家と敵対し、両者の間に軍事的緊張が高まった。加越国境城砦群は、この時に使用された城である。成政は、龍ヶ峰城に佐々平左衛門を配置して前田勢に備えた。1585年、利家の弟前田秀継・利英父子の攻撃を受け、数度の戦いの後、前田勢によって攻略された。

 龍ヶ峰城は、標高194.5mの城ヶ峰に築かれている。城のすぐ直下には旧北陸道が通っており、城の役割がよく分かる。現在城跡は公園化されており、堅田城と同様に、ここもほぼ全ての遺構が見て回れる様に遊歩道が整備されている。山頂に狭小で細長い主郭を置き、その南斜面に三ノ郭などの腰曲輪群を段々に築いている。また主郭から北に細尾根(実質的な土橋)で繋がった小さな二ノ郭を配置し、二ノ郭の北東と北西に小郭を配置し、北尾根に2つの堀切と小郭群、北西尾根にも堀切と物見台を築いている。主郭・二ノ郭の東斜面にも腰曲輪群を配置し、眼下の北陸道を監視している。以上が遺構の全容で、大きな城ではなく、大した兵数も籠められそうにない。少数の兵で街道を押さえる任務を負った城だったのだろう。
北尾根の曲輪群→IMG_5585.JPG
IMG_5618.JPG←旧北陸道から見た龍ヶ峰城

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.662360/136.796908/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


加賀中世城郭図面集

加賀中世城郭図面集

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2017/05
  • メディア: 大型本


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鳥越弘願寺(石川県津幡町) [古城めぐり(石川)]

IMG_5537.JPG←北西角部の土塁
 鳥越弘願寺は、一向一揆が築いた寺院である。寺とは言うものの、一向宗の総本山であった石山本願寺(後の大坂城)がそうであった様に、鳥越弘願寺も実質的に「鳥越弘願寺城」と呼んで差し支えない規模の城郭寺院である。1350年に本願寺3世の法主覚如の弟子玄頓によって創建されたと言われる。北加賀における一向宗の最初の拠点と考えられており、1488年の加賀一向一揆の頃には城塞化されていたらしい。その後、1580年に織田勢が加賀に大軍で侵攻した際、織田信長の部将佐久間盛政は能登末森城攻略に向かう途上、弘願寺を陣営にしようとしたが断られた為、弘願寺を焼き払ったと伝えられている。江戸初期の1609年、弘願寺は津幡町加賀爪に移転したと言う。

 鳥越弘願寺は、前述の通り「鳥越弘願寺城」と言うべきもので、大国主神社の周囲に高さ5m以上もある大土塁が残っている。神社のある平場は御屋敷跡と言われ、大土塁は神社の北・西・南にコの字状に残っている。特に北側の土塁は一段高くなっており、また土塁の上部は平坦になっていて、塀や櫓などの構造物が建っていたと推測される。また神社の南東にも、東西60m以上の長さの大土塁が残っている。現在の形状から推察すると、往時は寺の四周を大土塁で囲んでいたのだろう。尚、南の土塁上には、町の天然記念物の巨木が2本あり、小さな墓地もある。鳥越弘願寺は、遺構としては土塁だけで、しかもそのほとんどが薮に埋もれてしまっている。不覚にもコンタクトレンズをまた無くしてしまい、私には因縁の城ともなってしまった。
南西角の土塁→IMG_5517.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.689293/136.776030/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


一向一揆と石山合戦 (戦争の日本史 14)

一向一揆と石山合戦 (戦争の日本史 14)

  • 作者: 神田 千里
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2007/09/15
  • メディア: 単行本


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堅田城(石川県金沢市) [古城めぐり(石川)]

IMG_5425.JPG←北西斜面の畝状竪堀
 堅田城は、歴史不詳の城である。木曽義仲の砦との伝承があるが、元より当てにはならない。発掘調査の結果では、山麓居館らしい堅田B遺跡は鎌倉時代のものと推測され、堅田城はその縄張りから戦国後期の姿を留めるとされる。加賀一向一揆が築いたとの説もあるが、この城には畝状竪堀が構築されており、加賀の城で畝状竪堀というのは極めて特異であり類例もない。一方で能登にある畝状竪堀の城は越後上杉氏勢力による改修とされていることから、堅田城も何らかの形で上杉氏勢力が介在した城ではないかと個人的に推測している。

 堅田城は、標高113.1m、比高100m程の山上に築かれている。南麓に小原越、西に北陸道が通る交通の要地にある。現在、市の史跡に指定されており、主要部は公園化され、遊歩道も整備されているので訪城はたやすい。山頂に不定形で横長の主郭を置き、その西から南に向かって張り出した舌状部に二ノ郭・三ノ郭を築いている。主郭西端には櫓台があり、ニノ郭を見下ろしている。主郭内部は北側に大きくえぐれた低地部分があるなど、起伏がある。ニノ郭は上下2段の平場に分かれている。また主郭の東には東郭があり、南には南郭が築かれている。これが城の中心部で、この中の曲輪はいずれも段差だけで区切られている。この中心部を取り巻くように腰曲輪と武者走りが外周を廻り、西・南・南東・北に派生する尾根に堀切を穿ち、西尾根以外ではそれぞれ尾根上の曲輪の先に更に堀切を穿って分断している。南東の外側の堀切のみ、中央に土橋が架かっている。主郭背後に当たる北側だけは、鋭い大堀切となっている。3つの尾根の内側の堀切は、前述の腰曲輪や武者走りに通じており、城内通路としても機能していたことがわかる。この城で出色なのは、前述の通り畝状竪堀が穿たれていることで、北西斜面と北斜面に大型の畝状竪堀が刻まれている。この他、南西の尾根を登ったところには虎口が築かれ、両翼にそびえる平場から攻撃を受けるようになっている。遺構は以上の通りで、遺構は完存し、薮払いもされ、しかもほぼ全ての遺構が見て回れる遊歩道が整備されていて、素晴らしい。
主郭の櫓台→IMG_5383.JPG
IMG_5447.JPG←主郭背後の大堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.612496/136.706636/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

  • 作者: 佐伯哲也
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/08/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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朝日山城(石川県金沢市) [古城めぐり(石川)]

IMG_5324.JPG←主郭~二ノ郭間の堀切
 朝日山城は、加越国境城砦群の一である。一説には、1573年に上杉謙信が加賀一向一揆の拠る朝日山を攻めたとも言われるが、確証はない。朝日山城がはっきりと姿を表すのは1584年のこととされる。本能寺の変での織田信長滅亡後、その後継を巡って1584年3月、羽柴秀吉と織田信雄(信長の次男)・徳川家康連合軍が尾張の小牧・長久手で対峙した。前年の賤ヶ岳合戦の後、一旦は秀吉に降って越中に留まった富山城主佐々成政は、これを機に秀吉から離反し、秀吉方の金沢城主前田利家と敵対し、両者の間に軍事的緊張が高まった。加越国境城砦群は、この時に新造または大改修を受けた城と考えられている。加賀と越中を繋ぐ主要街道は4つあり、成政は末森城攻撃に兵数を割くため、加越国境の城郭群を大改修して防御力を増強し、国境の守備兵不足を補強した。一方の前田利家は、秀吉から「成政が山を取ったからといって軽率な行動は慎め。軽率に動いて失敗したら厳罰に処す」との厳命が下されている。そのためか、佐々方の城砦は規模が大きく、縄張りも高度な技術を駆使しているが、前田方の城砦は小規模で、シンプルな縄張りのものが多い(学研パブリッシング『軍事分析 戦国の城』より)。朝日山城は、田近越(田近道)を押さえて、佐々方の一乗寺城と対峙する前田方の城であったと推測されている。利家が成政の攻撃に備えるため、家臣の村井長頼に築城させたと言うのが一般的であるが、築城中に佐々勢の攻撃を受けて一時占拠されたとも、或いは佐々勢が築城したものを村井勢が奪って改修したとも伝えられ、築城の経緯には不明点が多い。

 朝日山城は、標高190mの丘陵上に築かれている。西から順に主郭・二ノ郭・三ノ郭を一直線に連ねた連郭式の縄張りで、主郭と二ノ郭の間は堀切で分断し、周囲には腰曲輪を一段廻らしているだけの簡素な縄張りである。昭和50年代から、城の周囲では採土が進められ、現在でも城の間近まで荒涼とした景色が広がってしまっている。採土は主郭のすぐ西側まで迫っていたものを、金沢市教育委員会の行政指導によって危うく破壊を免れたと言うが、見る限りでは主郭・二ノ郭の南面も削られて、地山の断面が見えている。一応、主要な遺構は残っており、主郭~二ノ郭間の堀切や、北側の腰曲輪ははっきりと残っている。しかし主郭も二ノ郭も耕作放棄地らしく、低い薮で覆われていて酷い有様だが、幸い見通しが効くので、一応の遺構の確認は可能である。『日本城郭大系』の縄張図を見ると二ノ郭と三ノ郭の間にも堀切がある様だが、現在は切岸だけで区画され、堀切は確認できなかった。これは、三ノ郭上面が削られた可能性もあるだろう。遺構が残っているとは言え、とにかく無残な姿を晒しており、残念と言う他はない。
主郭北側の腰曲輪→IMG_5340.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.628478/136.763091/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


織豊系城郭とは何か: その成果と課題

織豊系城郭とは何か: その成果と課題

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: サンライズ出版
  • 発売日: 2017/04/08
  • メディア: 単行本


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切山城(石川県金沢市) [古城めぐり(石川)]

IMG_5089.JPG←主郭西側の出枡形
 切山城は、加越国境城砦群の一である。金沢城主前田利家の支城の一つであったと考えられている。また一説には不破彦三が城主であったと伝えられるが、それが前田家家臣の不破直光のことなのか、それともその父光治のことなのか、よくわかっていない。
 本能寺の変での織田信長滅亡後、その後継を巡って1584年3月、羽柴秀吉と織田信雄(信長の次男)・徳川家康連合軍が尾張の小牧・長久手で対峙した。前年の賤ヶ岳合戦の後、一旦は秀吉に降って越中に留まった富山城主佐々成政は、これを機に秀吉から離反し、秀吉方の前田利家と敵対し、両者の間に軍事的緊張が高まった。加越国境城砦群は、この時に新造または大改修を受けた城と考えられている。加賀と越中を繋ぐ主要街道は4つあり、成政は末森城攻撃に兵数を割くため、加越国境の城郭群を大改修して防御力を増強し、国境の守備兵不足を補強した。一方の前田利家は、秀吉から「成政が山を取ったからといって軽率な行動は慎め。軽率に動いて失敗したら厳罰に処す」との厳命が下されている。そのためか、佐々方の城砦は規模が大きく、縄張りも高度な技術を駆使しているが、前田方の城砦は小規模で、シンプルな縄張りのものが多い(学研パブリッシング『軍事分析 戦国の城』より)。切山城は、越中側に大きな堀を設けていることから、小原越(小原道)を押さえ、佐々方の松根城と対峙する城であったと推測されている。また発掘調査の結果、城域北東端の堀によって小原越が切断されていることが判明しており、城が街道を戦時封鎖していることを遺構で確認できた初めての事例とのことである。

 切山城は、標高139m、比高100m程の丘陵上に築かれている。現在、松根城とともに「加越国境城跡群及び道」として国の指定史跡となっている。しかし国指定なのに城まで至る道には誘導標識や看板が全くなく、ちょっと不安になってしまった。一応、城の北東に駐車スペースと史跡石碑・解説板が設置されているが、特に散策路はなく、遺構の標柱も設置されていない。中世城郭の城歩きに慣れていない人には、ちょっと難易度が高い。
 城は、不等辺五角形の主郭を中心に、周りに腰曲輪状のニノ郭を廻らし、西尾根に2本の堀切と数個の曲輪を配置し、北東には小原道を監視する外郭が築かれている。この城で出色なのは主郭周囲の構造で、全周を低土塁で囲んだ主郭に対し、西側の大手虎口は出枡形を設けた二重枡形虎口を構築し、北東には主郭と堀切で分断し土橋で連結した角馬出しを築いている。また主郭南角にはニノ郭に突出した櫓台を設けている。櫓台の下方は薮だらけなのでわかりにくいが、ニノ郭に侵入した敵に対する攻撃点であると同時に、下方を通る小原道をも攻撃できる絶好の位置にある。ニノ郭の北東は緩斜面となっていて、そのまま外郭に至る。外郭は笹薮に覆われているので構造がわかりにくいが、土塁や櫓台らしい高まりが確認できる。コンパクトでシンプルな縄張りの城であるが、桝形虎口や角馬出しなど見応えがある。但し、二ノ郭の南・東と外郭は薮がひどい。今後の整備に期待したい。
主郭南角に突出した櫓台→IMG_5075.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.600542/136.745131/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


織豊系陣城事典 (図説日本の城郭シリーズ6)

織豊系陣城事典 (図説日本の城郭シリーズ6)

  • 作者: 高橋成計
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/11/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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柚木城(石川県金沢市) [古城めぐり(石川)]

IMG_4973.JPG←主郭~二ノ郭間の土橋・堀切
 柚木城は、歴史不詳の城である。現地解説板によれば、尾山御坊と越中を結ぶ最短経路(三の坂道)の途中に位置しており、16世紀後半に築かれた城と推測されている様だ。

 柚木城は、標高200m、比高80mの山上に築かれている。城跡は現在、直江谷健康の森の一部となり歴史広場として整備されているので、迷うことなく訪城できる。多数の曲輪群で構成された城で、頂部に縦長の長方形の主郭を置き、北東の斜面に二ノ郭群を築いている。主郭は南西隅に櫓台を設け、西辺に低土塁を築いている。二ノ郭群は3段の平場で構成され、主郭との間に堀切を穿ち、南端に土橋を架けている。二ノ郭群の両側には腰曲輪が築かれ、主郭との間の堀切は北側の腰曲輪に繋がっている。二ノ郭群の下には横堀が廻らされ、防御線を築いている。この横堀は二ノ郭群の右側面まで伸びている。横堀の外周にも緩斜面の曲輪があり、北東の尾根には小堀切も見られる。二ノ郭群右側面の横堀の外には、登城道を兼ねた帯曲輪があり、その先に虎口が築かれて、主郭・二ノ郭間の土橋脇の虎口郭に至る。この虎口郭は主郭東側の腰曲輪にも繋がり、最上段には南と東に低土塁を築いた東郭がある。ここから南東に伸びる尾根に小郭群が連ねられ、尾根先端に物見のような平場が築かれている。以上が遺構の概要で、柚木城は薮も少なく、遺構が明瞭で見応えがある。遺構を見る限り、織田氏勢力の介在はなかったらしく、織田勢の加賀制圧以前に機能していた城と考えられる。
二ノ郭群下方の横堀→IMG_4982.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.569166/136.758800/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


加賀中世城郭図面集

加賀中世城郭図面集

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2017/05
  • メディア: 大型本


タグ:中世山城
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首里城炎上のショック [日記]

今朝、いつもの通りに起きて髭剃りながら6時のNHKニュースを見たら、
目に飛び込んできたのは、暗闇の中、真っ赤に燃え上がる首里城の映像。
最初、状況が理解できず、沖縄戦のときの映像でも流しているのかと思った。
まさか本物の火災で炎上しているとは・・・。
嫁も寝室で呆然としながら画面に釘付けになっていた。

何ということだ。
せっかく30年かけて復元整備されてきたものが、焼け落ちてしまった。
しかも、沖縄戦の戦火をくぐり抜けた貴重な文化財も焼けてしまった可能性が高いという。

昔、落雷や失火で各地の天守が焼け落ちているが、
その時も当時の人々は、今回と同じ様な燃え上がる悲しい姿を見てきたのだろう。
悲しみで何ともやりきれない思いだ。
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高峠城(石川県金沢市) [古城めぐり(石川)]

IMG_4942.JPG←南尾根曲輪群の堀切
 高峠城は、加越国境城砦群の一である。元々は、越中川上の雑賀(坂井)日向守の居城であったとの伝承がある。その後は加賀一向一揆の城となり、1580年の織田勢による加賀制圧・尾山御坊の攻略の際、この城でも戦いがあったらしく、一揆方戦死者の供養の碑が城の東側に建てられている。1583年には金沢城主前田利家の支城の一つとして、家臣不破彦三直光が城主であったと伝えられる。本能寺の変での織田信長滅亡後、その後継を巡って1584年3月、羽柴秀吉と織田信雄(信長の次男)・徳川家康連合軍が尾張の小牧・長久手で対峙した。前年の賤ヶ岳合戦の後、一旦は秀吉に降って越中に留まった富山城主佐々成政は、これを機に秀吉から離反し、秀吉方の前田利家と敵対し、両者の間に軍事的緊張が高まった。加越国境城砦群は、この時に新造または大改修を受けた城と考えられている。加賀と越中を繋ぐ主要街道は4つあり、成政は末森城攻撃に兵数を割くため、加越国境の城郭群を大改修して防御力を増強し、国境の守備兵不足を補強した。一方の前田利家は、秀吉から「成政が山を取ったからといって軽率な行動は慎め。軽率に動いて失敗したら厳罰に処す」との厳命が下されている。そのためか、佐々方の城砦は規模が大きく、縄張りも高度な技術を駆使しているが、前田方の城砦は小規模で、シンプルな縄張りのものが多い。高峠城は、二俣越(二俣道)を押さえ、佐々方の荒山城と対峙する城であったと推測されている(学研パブリッシング『軍事分析 戦国の城』より)。

 高峠城は、標高220mの山上に築かれている。山頂の主郭を中心に、東・西・南の三方に伸びる尾根上に舌状曲輪群を連ねただけの古風な縄張りである。東尾根は林道建設で一部破壊されたようで、あまり大した遺構は確認できない。南尾根には細長い曲輪が2段確認でき、その間には中規模の堀切が穿たれている。西尾根の曲輪群は尾根に沿って延々と伸びており、確認できただけでも5~6段の曲輪があるようだ。西尾根にも2本の堀切が確認でき、主郭の直下に小さいのが一つと4~5段目の間に中規模のものが一つ見られる。4段目の曲輪は北側に土塁を築いており、現在でも城の北側を通る道(これが二俣道なのだろう)に対する防備を意識していたことがわかる。
 只この高峠城、遺構はよく残っているが、全山笹薮に埋もれてしまっており、縄張りの細かい部分は確認できないのが残念である。
主郭の現況→IMG_4922.JPG
IMG_4935.JPG←西尾根の堀切と上段曲輪の土塁
 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.559446/136.748157/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の城 (歴史群像シリーズ特別編集)

戦国の城 (歴史群像シリーズ特別編集)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 学習研究社
  • 発売日: 2011/04/21
  • メディア: ムック


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