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田中館(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN6025.JPG←館跡の西円寺
 田中館は、室町中期にこの地の土豪であった田中又四郎市正の居館と伝えられる。田中氏は、田中五保と称して田中・熊野道・水谷・上高善寺・高善寺・館・本郷の7ヶ村を領したと言う。後に舘本郷館へ居館を移した。また市正の末女「茶々女」は富崎城主神保長職の正室となったと言う。しかし越後上杉氏(長尾氏?)が越中に侵攻すると、館は落ち、田中氏一族は自害したらしい。1493年頃のことと言う。以上が舘本郷館の南にある、田中市正墓所に建つ顕彰碑の内容であるが、どうも時代が合わない。越後守護代の長尾氏が越中に侵攻するようになったのは1506年以降であり、神保長職は上杉謙信時代の武将であるので、田中市正も戦国中期の武士であったと思われる。

 田中館は、現在の西円寺境内にあったらしい。遺構は全く残っておらず、館跡の雰囲気も感じられず、ただのお寺という感じである。しかし田中館とする伝承は地元には残っているらしく、たまたま西円寺でお話した地元のご老人は、田中館のことをご存知であった。その方が仰るには、田中氏は元々近江(滋賀県)から移住した一族で、近江にも同族田中氏の居城田中城がある、姉川の戦いの前に織田信長が泊まったのが近江田中城であるとのことであった。事実とすれば、ひょんな所からひょんな所に歴史が繋がるものである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.620238/137.139244/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


完全保存版 日本の城1055 都道府県別 城データ&地図完全網羅!

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タグ:居館
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鶴ヶ城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN6022.JPG←城址推定地の現況
 鶴ヶ城は、羽根城とも言い、神保氏の部将大間知(大町)民部頭浄安の子兵庫政近が築いたと伝えられる。1538年に富崎城と共に落城した。1559年に神保氏が再び富崎城を築いた際、政近の子兵庫安政も鶴ヶ城を再築して居城とした。しかし1566年に上杉謙信の将上杉弥五郎が富崎城を攻略した時、鶴ヶ城も再び落城し、安政は羽根村に隠れ住んで帰農したと言う。

 鶴ヶ城は、井田川と山田川の合流点西側に広がる平地に築かれていたらしい。しかし遺構は既に完全に失われていて、その所在地も確定されていない。解説板は国道359号線 下邑口交差点の北側の車道脇にあるが、解説板にはそこから北方約500mと推定されると書かれており、富山県遺跡地図では羽根ピースフル公園の広いグラウンドが城跡とされている。いずれにしても既に失われた城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.660785/137.143836/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


人生を豊かにしたい人のための日本の城 (マイナビ新書)

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  • 作者: 小和田哲男
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日宮城(富山県射水市) [古城めぐり(富山)]

DSCN6018.JPG←北東の曲輪群の遠望
 日宮城は、火宮城とも記載され、射水・婦負郡守護代神保氏の重要拠点である。1560年、椎名氏救援のために越後守護代長尾景虎(上杉謙信)が越中に侵攻した際、神保長職は富山城を放棄して増山城へ逃れ、長尾勢の追撃を受けて再び落ちのびて行方知れずとなった後、1562年には再び増山城を居城としているが、その間の一時期、長職の居城となったとも言われる。また神保源七郎が城主であったとも伝わっている。その後、神保氏家中は親上杉派、反上杉派に分裂して争い、神保父子も長職は上杉方に、子の長住は反上杉方にと分裂した。この家中の争いの中で実権は徐々に親上杉派の小島職鎮に奪われて上杉方への従属化が進み、長職の死後には家臣の大部分が上杉氏の家臣となり、流浪の身となった神保長住は後に織田信長を頼った。1572年、上杉勢の最前線となった日宮城の守将であった神保覚広・小島職鎮ら神保氏旧臣4将は、加賀越中の一向一揆勢の猛攻を受け、和睦して開城し、石動山に退去した。その後日宮城は歴史から姿を消した。

 日宮城は、旧北陸道の南にある比高20m程の丘陵上に築かれている。起伏のある丘陵地で、大きく3つの丘陵に分かれ、それぞれに曲輪が築かれている。西に日宮社が建つ最も小さい曲輪があり、その東に谷を挟んで薬勝寺の境内となっている曲輪、その北東に山林などになっている曲輪がある。どれが主郭に当たるのかには諸説あるが、最高所に当たるのは北東の丘陵で、これが主郭に当たると思われる。しかしこの丘陵は立入禁止となっていて、内部の探索はできない。遠目に平場があるのが確認できるだけである。スーパー地形や佐伯氏の縄張図によると、3段の平場に分かれている様である。薬勝寺がある曲輪は、中央に小高い平場があり、東に坂土橋の様な土壇が張り出している。この小高い平場の南や西は腰曲輪らしいが、墓地となって改変されている。また薬勝寺の北東にも櫓台の様な土壇がある。その北には北東の丘陵との間を区切る谷があり、小道が貫通している。この谷は往時の堀切跡の可能性がある。日宮社がある曲輪は面積も小さく、物見台的な曲輪である。以上が日宮城の現況で、最も遺構が残っていると思われる部分には入れず、その他の部分は改変が多いので、ちょっと物足りなさを感じる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.704924/137.085214/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

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  • 作者: 佐伯哲也
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/08/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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古国府城(富山県高岡市) [古城めぐり(富山)]

DSCN5864.JPG←境内西側の空堀・土塁
 古国府城は、射水・婦負2郡の守護代であった神保氏が築いた城と伝えられる。元々この付近には越中国府があった。神保氏は初め放生津城を居城としたが、1519年に越後守護代長尾為景(上杉謙信の父)が越中に侵攻すると、神保慶宗は要害性の高い二上城に立て籠もって抗戦した。この時に二上城の出城として古国府城が機能したと考えられる。戦国後期には神保氏の庶流神保安芸守氏張は、守山城を居城とし、古国府城を出城とした。織田信長の部将佐々成政が越中に進出すると、氏張は成政の麾下に属して越中平定に活躍した。織田信長横死後の1584年、信長の後継者としての地歩を固めていた羽柴秀吉に対抗した成政は、隣国加賀・能登を支配した秀吉方の前田利家と交戦したが、その状況の中で越中一向宗衆を味方につけるため、坊舎を失っていた勝興寺の還住を許し、これを受けた氏張は古国府城を含む旧国府跡一帯を勝興寺に寄進した。これにより古国府城は廃城となったが、勝興寺時代にも戦国期城郭そのものの構造は改変を受けつつ維持されたらしい。

 古国府城は、前述の通り勝興寺の境内となっている。境内周囲には土塁・空堀が残る他、唐門の前には水堀があり、その傍には城の望楼を思わせる鼓楼が建っていて、城跡らしさを感じさせる。西側の土塁・空堀には横矢のクランクが設けられている。草木が茂っているので確認しづらい部分もあるが、西側外周には「椿の道」という林の中の散策路があり、そこを歩くと傍らには空堀と土塁をよく見ることができる。また城の遺構もさることながら、勝興寺の伽藍も凄い。昨年、新たに国宝に指定された本堂等の他にも重要文化財の建物が多数あり、寺巡りとしても十分楽しめる。いろいろな楽しみ方が出来る城である。
水堀と望楼風の鼓楼→DSCN5732.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.792610/137.052931/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集〈3〉西部(氷見市・高岡市・小矢部市・礪波市・南礪市)・補遺編

越中中世城郭図面集〈3〉西部(氷見市・高岡市・小矢部市・礪波市・南礪市)・補遺編

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2023/03/13
  • メディア: 大型本


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大峪城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN5721.JPG←主郭の切岸
 大峪城は、1585年に豊臣秀吉が越中の佐々成政を討伐した富山の役に築かれた城である。初め白鳥城に拠っていた前田利家の家臣片山伊賀守延高は、白鳥城が秀吉の本陣となったため、大峪城に移されて城を守った。同じく白鳥城にいた岡嶋一吉も安田城に移されており、両城ともこの時点で秀吉の本陣となった白鳥城の出城として機能したとみられる。片山氏の後は前田氏の旗本が入城したと伝えられる。

 大峪城は、かつては井田川北岸の段丘に築かれた城であったが、現在井田川の流路は変更されており、その名残の水路が流れている。周囲は住宅地などに変貌されているが、台形状の主郭が高台となって残っている。しかしその主郭も、以前は五福小学校が建てられ、現在は五福芝生スポーツ広場に変貌してしまっており、大きく改変されている。主郭周囲は往時の切岸と思われる急斜面で囲まれている。その外側には水堀や外郭が広がっていたらしいが、現在は改変しつくされており、わずかな段差が東側に残る以外は城の名残は全くない。しかも、以前はあった城の解説板が、スポーツ広場になったらなくなってしまっているではないか!各地で城跡を整備しているこのご時世に、富山市は一体何を考えているんだ!と思わず叫んでしまいそうになる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.697853/137.182835/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


秀吉の天下統一戦争 (戦争の日本史)

秀吉の天下統一戦争 (戦争の日本史)

  • 作者: 小和田 哲男
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2006/09/01
  • メディア: 単行本


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平榎城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN5688.JPG←比定地の現況
 平榎城は、1443年まで河内国枚方城主であった埜崎(野崎)政光の子、筑前守政彌が1504年8月に築いた城である。その後、天正年間(1573~92年)の初め頃に越中に侵攻した上杉謙信の攻撃を受けて落城したと伝えられる。しかし史料にわずかに出てくるだけで、実態が明らかでない幻の城とされている。また城がある常願寺川流域は、1580年から幕末にかけての約280年間に24回もの洪水などの土砂災害を受けており、平榎城は土砂災害によって消失したと考えられている。尚、この地は、新川郡守護代椎名氏、射水・婦負郡守護代神保氏の支配領域の中間地点に当たり、常願寺川河口の海岸線や常願寺川沿いの街道などを扼する交通の要所であった。発掘調査の結果、平榎城のものと思われる堀跡が検出されており、平榎城はこうした交通・軍事の要地を押さえた城館で、規模は不明ながら堀を巡らし、家臣の屋敷地が周囲を固めた城であったと推測されている。

 平榎城は、平榎亀田遺跡周辺に比定されている。前述の通り、表面観察できる遺構は全く無く、一面の水田地帯が広がっているだけである。解説板も何もなく、今でも幻の城のままである。農地整備事業の記念碑(解説板)を立てるぐらいなら、城についての標柱や解説板を立てても良さそうなものなのに、非常に残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.743037/137.284030/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


上杉謙信 人物叢書

上杉謙信 人物叢書

  • 作者: 山田邦明
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2021/11/01
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タグ:中世平城
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蓑輪城(富山県滑川市) [古城めぐり(富山)]

DSCN5652.JPG←主郭背後の堀切
 簑輪城は、護摩堂城とも呼ばれ、椎名氏の居城松倉城の出城と推測されている。城主には諸説あり、簑輪平左衛門尉、簑輪平太左衛門、簑輪五郎左衛門、三浦五郎左衛門などの名が伝わっている。この内、三浦五郎左衛門は椎名右衛門尉の家老であったと伝えられる。

 簑輪城は、早月川西岸にそびえる標高490mの山上に築かれている。城内に鉄塔があるので、西麓の護摩堂八幡社付近から鉄塔保守道が付いており、伊折30番鉄塔を目指して登れば良い。しかし城内は、鉄塔付近以外は未整備の藪に覆われており、それでも城域の北半分は踏査しやすいが、主郭の南半分から南はかなり踏査が難しい。山頂の主郭には鉄塔が立っているが、南東端に土壇があり櫓台であった様である。主郭の南西には3段程の腰曲輪があるが、藪であまりはっきりとはわからない。主郭の北西尾根に小さな城址碑があり、その先に物見台と小掘切があり、更に細尾根が伸びて、先端に三角点のある小さい平場があって、その下にも堀切があって城域が終わっている。一方、主郭背後には規模の大きな堀切が穿たれているが、藪に埋もれてしまっている。その南はひたすら藪の細尾根で、城域南端は出丸と二重堀切で終わっている。一応、富山城郭カードの配布対象になっている城なのだが、藪がひどいのには辟易した。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.720233/137.436347/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


北陸の名城を歩く 富山編

北陸の名城を歩く 富山編

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2022/09/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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水尾南城(富山県魚津市) [古城めぐり(富山)]

DSCN5591.JPG←神社本殿が建つ主郭
 水尾南城は、松倉城の支城群の一つである。『得田文書』によると、南北朝期の1346年7月に、北朝方の能登守護吉見頼隆の軍勢が、前越中守護普門(井上)俊清討伐のために水尾南山要害(水尾南城)と水尾城を攻めたと記載されている。その後の歴史は不明である。

 水尾南城は、水尾城の南東の尾根続きにあり、両城は700m程隔たっている。南北に並んだ主郭・二ノ郭から構成されているが、二ノ郭に松尾神社の拝殿があり、そこまで未舗装の車道が延びている。しかし道が荒れているので、最低地上高の高い車でないと途中までしか行けない状態である。二ノ郭は神社境内なので、平坦で広く、明確な遺構は確認できない。二ノ郭の南にはわずかな鞍部の先に高台となった主郭がある。主郭には神社本殿と鉄塔が建ち、改変を受けている上、ほとんど藪で埋もれている。主郭に登る途中には、模擬城門が建っていて、水尾南城門と書かれている。主郭の南尾根に小堀切があるようだが、藪がひどすぎて踏査できなかった。結局遺構の改変が多く、あまり城跡らしさを感じられなかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.746011/137.432721/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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焼山砦(富山県魚津市) [古城めぐり(富山)]

DSCN5557.JPG←南西尾根の堀切
 焼山砦は、松倉城の支城群の一つである。「寺屋敷」の地名が残ることから、寺院跡との推測もある。

 焼山砦は、松倉城北西にある比高90m程の半独立状の小山に築かれている。私は南の台地上の畑道の脇からアプローチした。南斜面にいくつかの平場があるが、これらは耕作地であった可能性が高い。そこから西上に登っていく小道があり、山上の平場に至る。広大な平坦地になっており、主郭と思われ、南西端に櫓台らしき土壇が築かれている。この土壇の東にも低地を挟んで土壇があり、櫓門形式の虎口が築かれていた可能性がある。主郭の東には小山が地山のまま残っており、そこから前述の土壇に向かって細尾根が降っている。小山にも細尾根にも、明確な遺構は確認できない。一方、主郭の南西に伸びる尾根には堀切が2本穿たれ、側方には横堀も構築されている。この辺りはいかにも城砦らしい雰囲気を残すが、2本目の堀切や横堀の一部には水路が通るなど、不自然な部分が見られる。また横堀に土橋が架かっているが、土橋の先には郭がなく、これも不自然である。結局、本当に城砦だったのか、寺跡だったのか、よくわからなかった。ただ1本目の堀切は明確であり、出城として城砦化された寺院だったのかもしれない。
主郭の平場→DSCN5537.JPG
DSCN5562.JPG←南西尾根の横堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.765541/137.430403/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世寺院社会と民衆

中世寺院社会と民衆

  • 作者: 下坂 守
  • 出版社/メーカー: 思文閣出版
  • 発売日: 2014/11/25
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タグ:中世山城
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北山城(富山県魚津市) [古城めぐり(富山)]

DSCN5415.JPG←北端の櫓台
 北山城は、松倉城を取り巻く支城群の一つである。『越中古城記』などによれば、椎名小八郎が城主であったと伝えられると言う。椎名小八郎の事績は不明であるが、魚津市の『松倉城郭群調査概要』では、永禄年間(1558~70年)に椎名康胤の養子として上杉謙信から送り込まれた長尾小四郎景直の誤伝ではないかと推測している。また北山城が上杉謙信に攻められて落城したとの伝承もあるらしい。いずれにしても、松倉城砦群の一という以外、詳細な歴史は不明である。

 北山城は、松倉城の北方約2.2kmの山上に築かれている。城内は公園化されており、車で直下の駐車場まで行くことができる。くの字になった幅の広い尾根上に主軸の曲輪を置き、東側の斜面に腰曲輪群を配している。ただいずれの曲輪もわずかな段差で区画されているだけで、堀切もなく、あまり明確な区分はない。曲輪の高さ関係から考えて。北半分が二ノ郭、南半分が主郭と考えられる。二ノ郭は北端に一段高い櫓台を置き、西に向かって緩やかに傾斜しており、そこに腰曲輪群がある。櫓台からは眺望がひらけ、富山湾が一望でき、遠くには能登半島が見える。櫓台の北側下方には堀切と土壇が置かれ、北の尾根筋を防御している。主郭はくの字に折れ曲がった曲輪で、削平が甘く、中央部の最高所から北と南西に向かって緩やかに傾斜している。くの字の主郭の内側(西側)に傾斜した平場群が配置されている。また主郭の南端にも堀切と土壇が築かれ、この防御構造は北端部と同じ形態となっている。主郭の東外周は防備が厳重で、しっかりした切岸の下に帯曲輪が構築され、間隔をおいて5本の竪堀が落ちている。主郭東には、やや形状がはっきりしないものの内枡形虎口が築かれており、帯曲輪に城道が通じ、その先では竪堀で動線遮断の処置をしている。北山城の遺構は以上で、佐伯氏が指摘している通り古いパターンの縄張りであるが、主郭東側だけ防備が厳重で、この辺りだけ戦国期に防備が増強されているように感じられた。
竪堀→DSCN5462.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.774032/137.442291/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集 2(東部編(下新川郡・黒部市・

越中中世城郭図面集 2(東部編(下新川郡・黒部市・

  • 作者: 佐伯哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2012/05/01
  • メディア: 単行本


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坪野城(富山県魚津市) [古城めぐり(富山)]

DSCN5308.JPG←堀切から落ちる竪堀
 坪野城は、松倉城を取り囲む支城群の一つと推測される城である。城主は松倉城主椎名氏の家老、あるいは家臣であったとも、上杉氏の家臣が在城したとも言われる。また上杉謙信が松倉城攻めの際に本陣を置いたという伝承もあるようだ。

 坪野城は、松倉城の北東3kmの位置にある、標高460mの小山に築かれている。城の東中腹に鉄塔があり、北東麓から鉄塔保守道が整備されているので、これを利用すれば城に登ることができる。登り口は北東にある大菅沼集落の奥、溜池沿いの車道の脇にある。ここから柳河原線72番鉄塔を目指せばよい。この鉄塔は、百間馬場と呼ばれる平場にあり、謙信の本陣であったとか馬揃えをしたとの伝承がある。鉄塔の奥にあたる南に小道が伸びており、この道から城に登れるが、この道は藪に埋もれつつあり、数年後には消失している可能性がある。というのも、以前は主郭にも鉄塔があったのだが、現在は鉄塔が撤去されてしまっているのである。従って今は主郭も未整備となってしまい、藪に覆われてしまっている。前述の小道を進むと、湧水がある谷地形に至り、その右手に竪堀が落ちてきている。これが南の堀切から落ちている竪堀で、登城路を兼ねていたことが想定される。この竪堀道を登っていけば本城域に入る。山の頂部に主郭を置き、東西に腰曲輪を配置している。主郭の北側には土塁が築かれているようだが、藪がひどくて形状がよくわからない。主郭の北端近くの土塁上には小さな城址石碑があるが、藪に埋もれてしまっている。また主郭の南西北の三方に堀切を穿っている。南の堀切は小郭を挟んで2本穿たれ、北のものは細尾根にやや離れて2本穿たれている。南の1本目の堀切は、東側が東腰曲輪に通じており、同様に西の堀切も西腰曲輪に繋がっている。北尾根は、2本の堀切の先に鞍部があり、虎口とされている。その東側には横堀が伸びている。辛うじて縄張図を元にして踏査できたが、全体に藪がひどくて踏査が大変である。主郭の鉄塔がなくなった今、このまま藪に埋もれる運命なのであろうか。
主郭の現況→DSCN5322.JPG
DSCN5328.JPG←西の堀切
城址碑→DSCN5338.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.772399/137.462279/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図説 上杉謙信

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  • 作者: 今福 匡
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2022/03/18
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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嘉例沢城(富山県黒部市) [古城めぐり(富山)]

DSCN5297.JPG←駒洗い池
 嘉例沢城は、歴史不明の城である。現地にある駒洗い池の解説板では、胸ヶ平城と記載され、南北朝時代の城とある。また近江源氏の佐々木四郎高綱が城を築いたとあるが、高綱は鎌倉幕府草創の功臣であり、時代が合わない。そもそもこの解説板、近江源氏を間違って「近衛」源氏と書いてあり、少々信頼性に難がある。いずれにしても、その歴史はよく伝わっていない様である。

 嘉例沢城は、『日本城郭大系』によれば嘉例沢森林公園の管理棟付近にあったとされる。鋲ヶ岳の西の中腹で、車道が通るなど改変を受けており、明確な遺構は見られない。しかし『三州志』にもある「駒冷し場」(馬洗池)が、駐車場跡下方の窪地の中に残っている。城に関係する遺構とされ、現地解説板では前述の通り「駒洗い池」と書かれている。佐々木高綱がこの城を築いた時に自らの馬を池に引き入れて洗った池と伝えられていると言う。嘉例沢城にまつわる唯一の遺構であり、貴重である。
 尚、嘉例沢城の東の山上には鋲ヶ岳城があり、この城との関係が注目される。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.828034/137.545674/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


「城取り」の軍事学

「城取り」の軍事学

  • 作者: 西股総生
  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2013/08/29
  • メディア: Kindle版


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鋲ヶ岳城(富山県黒部市) [古城めぐり(富山)]

DSCN5263.JPG←北端の堀切
 鋲ヶ岳城は、歴史不明の城である。位置的に嘉例沢城の東にそびえる山上にあることから、嘉例沢城の詰城か物見の砦ではなかったかと思われる。

 鋲ヶ岳城は、標高861.0mの鋲ヶ岳山頂に築かれている。西の中腹に嘉例沢森林公園があり、そこまで車で登ってくることができる。また公園から鋲ヶ岳まで登山道が整備されており、迷うことなく登ることができる。南北に細長い尾根上に築かれており、山頂の四阿のある平場が主郭であろう。しかしそれ以外に明確な曲輪は見られない。一方、主郭の北端にある三角点の北に浅い堀切が穿たれ、更にその北にももう1本堀切が穿たれている。この堀切は、小さいが鋭い薬研堀で、一番はっきりした遺構である。主郭の南の尾根にも堀切が1本穿たれているが、かなり浅いものである。遺構としては以上で、城郭遺構としては大したことないが、頂上からの眺望に優れ、富山平野・日本海・宇奈月温泉などを一望できる。物見としては好適な城砦であったことがよく分かる。
主郭→DSCN5281.JPG
DSCN5282.JPG←南の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.827450/137.549386/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集 2(東部編(下新川郡・黒部市・

越中中世城郭図面集 2(東部編(下新川郡・黒部市・

  • 作者: 佐伯哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2012/05/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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城二の峯物見(長野県筑北村) [古城めぐり(長野)]

DSCN5206.JPG←1020mの丘の二重堀切
 城二の峯物見は、歴史不詳の物見台で、『信濃の山城と館』に記載がある。物見の伝承があるのは三角点のある1070.4m峰であるが、今回そこまでは行っておらず、立峠の西160m程の所にある1020mの丘を探索した。この丘自体は自然地形で削平されていないが、その東側に浅い二重堀切が穿たれており、城二の峯物見の関連施設だった可能性がある。また立峠を挟んで唐鳥屋城の尾根続きにあり、唐鳥屋城の関連施設と考えた方が適切かもしれない。
 元々ここを踏査したのは、長野県のCS立体図(1mメッシュ)の地形図で遺構がありそうに見えたからで、『信濃の山城と館』に書かれていたことを知らずに行ったのだが、結局この二重堀切以外に遺構らしいものは確認できなかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.371047/137.999965/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃の山城と館 第4巻(松本・塩尻・筑摩編)―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

信濃の山城と館 第4巻(松本・塩尻・筑摩編)―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/04/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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唐鳥屋城(長野県筑北村) [古城めぐり(長野)]

DSCN5084.JPG←主郭周囲の石積み
 唐鳥屋城は、会田氏の居城虚空蔵山城砦群の一つである。詳細不明であるが、寛正年間(1460~66年)に海野氏の一族藤沢帯刀が築いたと伝えられる。天正年間(1573~92年)に小笠原貞慶に攻め滅ぼされたと言う。一説には青柳氏の支城ともされるが、虚空蔵山城の眼前の指呼の間にあり、会田氏と同族の藤沢氏が守っていることから、会田氏の虚空蔵山城砦群の一つと考えるべきであろう。

 唐鳥屋城は、立峠の東方にある標高1079mの山上に築かれている。立峠を通る古道はかつての善光寺街道で、この峠道を監視しつつ、虚空蔵山城北方の防衛を担っていたことが推測される。この城への登り口は2つあり、花河原峠から登る南東尾根ルートと、古道を立峠まで登り、そこから西尾根を登る西尾根ルートである。手っ取り早いのは南東尾根ルートで、登り口には入口の標柱がある。小ピークと鞍部の平場を越えて山頂へ登っていくが、山頂近くでは明確な道が消失し、最後のところでほとんど斜面直登になる。これを登り切ると主郭に至るが、その前に眼前に石積みが現れる。これが主郭切岸の石積みで、東から南にかけて残っている。主郭は2段の平場で構成されているが、規模は小さく、いかにも物見の砦という趣である。主郭の北尾根と北西尾根には曲輪群が連なっている。北尾根の曲輪群は、自然地形に若干手を加えた程度で、堀切もあるにはあるがあまり大きな普請はされていない。しかし北西尾根の曲輪群は、曲輪の規模が比較的大きく、西側に段曲輪群を貫く登道もある。また最下段の曲輪の周囲のみ石積みも見られるほか、竪堀もあり、この方面の防御を重視していたことがうかがえる。一方、立峠に至る西尾根は、小ピークを挟みながら散発的に小堀切が穿たれ、立峠手前の1050m峰の西の堀切では、北に竪堀が長く伸びている。1050m峰の西に鉄塔が立っているが、この鉄塔付近も曲輪跡かもしれない。遺構としては以上で、大きな城ではないが立峠を押さえる要害として重視されていたことがわかる。
北西尾根の段曲輪群→DSCN5166.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.371772/138.006724/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3)

宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3)

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2016/08/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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虚空蔵山城(長野県松本市) [古城めぐり(長野)]

DSCN4921.JPG←峯の城の堀切と主郭切岸
 虚空蔵山城は、会田城とも言い、海野氏の庶流会田氏・会田岩下氏の居城である。会田氏は、海野幸継の次男幸持が会田郷に分封されて会田次郎を称したのに始まる。築城時期は不明であるが、幸持の後裔会田小次郎広政(広正)が虚空蔵山城に居住したと伝えられる。会田氏は室町時代に信濃守護小笠原氏の幕下となったが、応永年間(1394~1428年)頃に同族の会田岩下氏(以下会田氏と称する)に領主が変わったらしい。戦国時代に入って甲斐の武田信玄が信濃に侵攻するようになると、会田氏は度々抗戦した。1553年に武田信玄が小笠原長時を駆逐して北筑地方に侵攻し、虚空蔵山城に放火すると、会田氏は武田氏に降ってその配下となった。1582年に武田氏が滅亡し、その3ヶ月後に本能寺で織田信長が横死すると、信濃府中を制圧した小笠原貞慶がこの地に侵攻し、かつて父の小笠原長時に反旗を翻し、甲斐武田氏に鞍替えした諸豪を相次いで討伐し、会田氏もその標的となった。会田氏は、本城の虚空蔵山城を捨て、覆盆子城に立て籠もって最後まで抵抗した。当主会田小次郎広忠が幼少だったため、家老の堀内越前守が戦ったが、間もなく越前守は討死して城は攻め落とされた。広忠は逃れて青木村の十観山で自害し、会田氏は滅亡した。

 虚空蔵山城は、標高1139mの峻険な虚空蔵山一帯に築かれた城砦群の総称で、山頂の峯ノ城、山腹の秋吉砦・中の陣城などで構成された複合城郭である。南西麓からだと比高400mを超える山だが、幸い南中腹に車道が通っており、そこからであれば山頂までの比高は200m強で済む。また登山道も整備されている。城は、①山頂の東西に伸びる尾根上に展開する、詰城に当たる峯の城、②主尾根の西端部に築かれた現(うつつ)城、③南西の支尾根に築かれた、本城に当たる中の陣城、④南中央の支尾根に築かれた秋吉砦、⑤秋吉砦の西側に展開する十二原沢上流曲輪群、⑥岩屋神社がある支尾根の曲輪群、⑦岩屋神社尾根の西隣の支尾根の曲輪群、等で構成されている。

【峯の城】
峯の城主郭の石積み跡→DSCN4983.JPG
 まず峯の城は、典型的な細尾根城郭で、いくつかの曲輪を築き、要所を堀切で分断しただけの簡素な城砦である。明確な平場は主郭とその西の二ノ郭ぐらいで、東尾根は岩場が多くほとんど曲輪の体をなしていない。しかし主郭の北面にはかなり崩れているが、石垣跡が残る。堀切も大きくはないものの形が明瞭で、二ノ郭の西に1本、主郭の東に3本の堀切が穿たれている。3本目では、堀底から北尾根に道が通じ、段曲輪群に繋がっている。更にその東に続く細尾根の先にも3本の堀切がある。また西の細尾根を降っていくと、途中に段曲輪群があり、その下方に四阿屋社の祠が祀られた平場があり、その背後に小さな堀切が穿たれている。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.367591/138.009803/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

【現城】
DSCN4886.JPG←現城前面の堀切
 現城は、頂部に2段の平場を置いた小規模な砦で、前面に堀切を穿ち、主郭背後にも片堀切を穿っている。前面の堀切からは、斜面に竪堀が長く落ちている。いかにも物見を主体とした砦であったことがわかる簡素な構造である。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.364429/137.999010/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

【中の陣城】
中の陣城主郭の石垣→DSCN4586.JPG
 中の陣城は、前述の通り虚空蔵山城砦群の本城に当たる。城砦群の中で最も大きな曲輪(主郭)を持ち、主郭前面と西側の切岸には石垣が残り、後部には土塁と堀切が築かれている。後部の土塁は、東側で坂土橋状に伸びてL字型となっている。主郭の前面には前郭があり、その下に虎口が構築されている。南尾根の途中に数段の段曲輪があり、主郭の西下方にやや大きな馬蹄形曲輪があり、二ノ郭であったと思われる。二ノ郭の下方の南西尾根にも曲輪群があり、帯曲輪の他、堀切・竪堀などが残っている。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.364464/138.006070/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

【秋吉砦】
DSCN4743.JPG←秋吉砦から落ちる長い竪堀
 秋吉砦は、中の陣城より一回り小さな曲輪群で構成された砦で、一部に石積み跡が見られ、前面下方には竪堀群がある。これらの竪堀はいずれも長く伸び、特に西側のものは後述する十二原沢上流曲輪群の側方を貫通している。また上方の尾根筋には、小堀切の先にも多段式の小郭群が築かれ、かなり上方の段曲輪にも石垣が見られる。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.364827/138.008097/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

【二原沢上流曲輪群】
大手虎口の大石→DSCN4741.JPG
 十二原沢上流曲輪群(谷間の平場群)は、現在は中の陣城への散策路の途中にある。10段程にも及ぶ平場群があり、多数の石垣が見られる。上方の曲輪には水の手がある他、大手虎口と思われる箇所には鏡石の様な大石が置かれている。平場群の側方には、秋吉砦から落ちてきた竪堀が貫通し、その脇に石が散乱していて竪石積みがあった様である。発掘調査の結果では、この平場群は当初寺などの宗教施設であったものを、戦国期に城砦化したものと推測されている。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.364706/138.007550/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

【支尾根の曲輪群】
DSCN5016.JPG←帯曲輪に残る石積み
 岩屋神社がある支尾根の曲輪群は、峯の城の真南に築かれた曲輪群で、多数の帯曲輪群で構成されている。現在の虚空蔵山への登道は、この曲輪群を経由して登っている。帯曲輪の中には、石積みが残っているものもある。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.366071/138.010447/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

曲輪後部の物見台→DSCN5036.JPG
 岩屋神社尾根の西隣の支尾根の曲輪群は、今回は時間の関係で先端部しか確認していないが、背後に小堀切と物見台のある砦的な曲輪が残っている。この曲輪の前面には堀切があるとされるが、実際に見た限りでは堀切とは認識できなかった。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.363997/138.010114/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

 以上が虚空蔵山城の遺構で、遺構が広範囲に散在しており、求心性のない縄張りとなっている。しかもそれぞれが独立性の強い配置となっていて、戦国時代にこれらの城砦群が実際にどのように連携・運用されていたのか、なんとも謎が多い。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆


信濃の山城と館 第4巻(松本・塩尻・筑摩編)―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

信濃の山城と館 第4巻(松本・塩尻・筑摩編)―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/04/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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上之段城(長野県木曽町) [古城めぐり(長野)]

DSCN4262.JPG←主郭東の堀切跡
 上之段城は、1509年に木曽氏17代義在が築いて新たな居城とした城である。木曽氏のそれ以前の居城は小丸山城であった。以後、義康・義昌と3代の居城となった。1555年8月に武田信玄が木曽に侵攻すると、時の当主義康は上之段城に、その子義昌が小丸山城に立て籠もったが、抗しきれずに降伏し、城は戦火から免れた。1582年、義昌は武田勝頼から離反して織田信長に寝返り、武田氏滅亡の直接の契機となった。その後、武田氏滅亡、本能寺の変、天正壬午の乱を経て、義昌は徳川家康に服属した。1584年に羽柴秀吉と徳川家康が小牧長久手の戦いで対陣すると、義昌は秀吉に通じ、徳川方の深志城主小笠原貞慶に攻撃され、上之段城は焼き払われた。

 上之段城は、木曽福島宿・上之段地区の東方にある丘陵上に築かれている。この丘陵は、木曽義仲と四天王を祀った五霊社があったことから五霊の山と呼ばれていたらしい。現在は木曽青峰高校のグラウンドとなり、大きく改変されている。グラウンドの南東に小山があるが、これが往時の主郭の一部であったらしいが、グラウンド造成で西側が大きく削られてしまったらしく、往時の形状は残っていない。東側の尾根との間に鞍部があるが、これが往時の堀切跡であるということで、唯一の現存遺構である。また二ノ郭はグラウンドとなってしまっていて、往時の姿を留めていない。結局、小丸山城と同様、解説板があるものの残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.848318/137.701993/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


いざ登る信濃の山城 絵地図で案内する戦国の舞台

いざ登る信濃の山城 絵地図で案内する戦国の舞台

  • 作者: 中嶋豊
  • 出版社/メーカー: 信濃毎日新聞社
  • 発売日: 2020/12/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平山城
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小丸山城(長野県木曽町) [古城めぐり(長野)]

DSCN4250.JPG←主郭の現況
 小丸山城は、応永年間(1394~1428年)に木曽氏11代親豊が築いた城である。木曽氏は当初は須原に館を構えていたが、木曽谷の中心部で飛騨・伊那に通じる交通の要衝である福島に小丸山城を築き、親豊の長子信道を置いて小笠原氏や飛騨勢の侵攻に備えたと言われている。後に親豊は居城を小丸山城に移した。1509年には木曽氏17代義在が上之段城を築いて居城を移したが、小丸山城は支城としてそのまま存続していたらしい。1555年8月に武田信玄が木曽に侵攻すると、当主義康は上之段城に、その子義昌が小丸山城に立て籠もったが、抗しきれずに降伏し、城は戦火から免れた。その後の小丸山城の消息は不明である。

 小丸山城は、木曽川と八沢川に臨む段丘上に築かれている。現在NHKの基地局が立っている小高い丘が主郭で、その南東の木曽青峰高校の校地が二ノ郭であったらしい。また現在のJR木曽福島駅の場所が三ノ郭で、居館があったと言われる。現在は改変が進んでいて、地勢以外に城跡の痕跡は見られない。しかも主郭は柵で閉ざされていて入ることができず、それ以外の場所も民家があって内部探索はできない。解説板があるものの残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.846665/137.696296/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲信の戦国史:武田氏と山の民の興亡 (地域から見た戦国150年)

甲信の戦国史:武田氏と山の民の興亡 (地域から見た戦国150年)

  • 作者: 笹本正治
  • 出版社/メーカー: ミネルヴァ書房
  • 発売日: 2016/05/30
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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木曽氏居館(長野県木曽町) [古城めぐり(長野)]

DSCN4218.JPG←大通寺の山門
 木曽氏は、木曽義仲の後裔を称する豪族であるが、当初は藤原氏を称していた。南北朝期に木曽家村が足利尊氏に従って戦功をあげ、信濃国、近江国などに所領を与えられ、木曽に入部して須原に本拠を置き、妻籠城など木曽の各所に城砦を築いた。また家村は子供達を木曽谷の各地に分封し、黒川氏・千村氏・馬場氏らを輩出して木曽谷に勢力を扶植した。応永年間(1394~1428年)に木曽親豊が小丸山城を築いて木曽福島に本拠地を移し、更に1509年に木曽義在が上之段城を築いて居城とした。その子義康の時、武田信玄の侵攻を受けるようになり、詰城として福島城を築いて防備を固めた。しかし1555年に武田氏の木曽攻撃が本格化すると、義康は抗しきれず武田氏に服属した。義康は娘の岩姫を人質として甲府に送り、代わりに信玄の三女真理姫を嫡男義昌の正室に迎え、以後木曽氏は武田氏の親族衆として厚遇された。義昌も上之段城を居城とした。1582年、新府城築城などの賦役増大に不満を募らせた義昌は、武田勝頼から離反して織田信長に寝返った。これが直接の契機となって信長による武田征伐が開始され、伊那谷から侵攻した織田信忠率いる織田氏の大軍の前に、武田領国は瞬く間に崩壊し、同年3月勝頼は追い詰められて自刃し、武田氏は滅亡した。その後、本能寺の変、徳川・北条・上杉の3勢力による武田遺領争奪戦「天正壬午の乱」を経て、義昌は徳川家康に服属した。1584年に羽柴秀吉と徳川家康が小牧長久手の戦いで対陣すると、義昌は秀吉に通じ、徳川方の深志城主小笠原貞慶に攻撃され、上之段城は焼き払われた。羽柴・徳川両氏の和睦後、秀吉の命で信濃諸将の管轄は徳川氏に一任され、義昌は再び徳川氏に服属した。1590年に徳川氏が関東に移封となると、義昌は下総国海上郡阿知戸(網戸)1万石に移封となった。5年後に義昌は網戸城で没し、1600年頃、その子義利の時に改易となった。以上が木曽氏の歴史の概観であるが、木曽福島にある木曽氏居館は上之段城当時の居館があった地とされる。しかし福島城南麓にも居館地とされる場所があり(江戸時代の山村代官屋敷の場所)、それとの関係は不明である。

 木曽氏居館は、現在の大通寺敷地にあったと言われる。木曽川左岸の上之段と呼ばれる段丘上にあり、上の段の福島宿から狭い路地を東に入った奥にある。上之段城の西麓に当たる。遺構はないが、南の八沢川を挟んだ丘の上には小丸山城が見える。尚、大通寺境内には木曽義昌の正室で武田信玄の娘であった真理姫の供養塔が建てられている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.848787/137.697669/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


天正壬午の乱 増補改訂版

天正壬午の乱 増補改訂版

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/07/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
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山村代官屋敷(長野県木曽町) [古城めぐり(長野)]

DSCN4162.JPG←東門跡の石垣
 山村代官屋敷は、木曽谷の徳川直轄領の支配を任される木曽代官を世襲した山村氏の屋敷である。元々この地には、木曽福島城を築いていた木曽氏の居館があった。山村氏は、鎌倉幕府の大学頭大江匡衡一族の流れを祖とし、木曽義元の食客となったことに始まり、木曽氏の重臣となった。1600年の関ヶ原の戦いでは、徳川本軍を率いて中山道を西上した徳川秀忠の先陣を承って活躍し、戦後に木曽代官を任された。また4大関所の一つ福島関所を預かり、5700石を領した大身旗本であった。大阪夏の陣後は尾張藩に属した。名古屋にも屋敷を持ち、強大な権力を持っていたと言う。明治2年に至る274年間、木曽谷を支配する代官として続いた。

 山村代官屋敷は、豪壮な屋敷であったらしい。現在代官屋敷として公開されている部分は、かつての屋敷地の一部、下屋敷の一部に過ぎず、かつては東隣りの福島小学校校地まで含んだ広大な敷地内に大小30棟余りの建造物が軒を連ね、庭園が20もあったと言う。現在残っているのは、下屋敷「城陽亭」の一部と庭園、東門跡の石垣だけであり、往時の壮麗さはほとんど失われている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.851866/137.698839/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


江戸の旗本事典 (角川ソフィア文庫)

江戸の旗本事典 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 小川 恭一
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA/角川学芸出版
  • 発売日: 2016/01/23
  • メディア: 文庫


タグ:陣屋
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中原兼遠屋敷(長野県木曽町) [古城めぐり(長野)]

DSCN4042.JPG←屋敷跡に残る義仲元服の松
 中原兼遠は、木曽義仲の養父である。この地を本拠とした豪族で(一説には目代として信濃に下向したとも言われる)、中原氏の3男であったことから木曽中三権守と称したと言う。義仲の父源帯刀先生義賢が、大蔵館で甥の悪源太義平に討たれた時、まだ2歳の幼子であった義仲(幼名、駒王丸)を抱いた母は信濃に降って兼遠を頼った。兼遠はこれを匿い、義仲が13歳で元服するまで自身の屋敷で養育した。兼遠の子、樋口次郎兼光・今井四郎兼平はいずれも義仲の重臣となり、四天王に数えられた。また実在が明確ではないが、巴御前も兼遠の娘であったと言われる。また義仲の嫡子義高の母も、兼遠の娘と推測されている。

 中原兼遠屋敷は、正沢川と天神川が木曽川に流れ込む場所にある、段丘先端部に築かれている。しかし現在は全域が水田や畑(一部宅地あり)となっており、遺構は全く残っていない。しかしこの台地内には義仲元服の松や兼遠塚などがあり、義仲伝説を色濃く残す地である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.864613/137.725682/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


木曽義仲論

木曽義仲論

  • 作者: 芥川 竜之介
  • 出版社/メーカー:
  • 発売日: 2012/09/28
  • メディア: Kindle版


タグ:居館
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木曽義仲館(長野県木曽町) [古城めぐり(長野)]

DSCN3950.JPG←館跡の現況
 木曽義仲館は、源平争乱の時代を疾風のように駆け抜けた英雄木曽義仲の、居館伝承地である。義仲の父源義賢は帯刀先生と呼ばれ、武蔵国大蔵館を本拠として勢力を張り、鎌形の下屋敷で1154年に義仲が生まれたと伝えられる。幼名を駒王丸と言った。義賢が兄義朝との勢力争いで討たれると、幼い義仲は信濃国木曽の中原兼遠に匿われたと伝えられる。1166年に元服して木曽次郎義仲と名乗り、この地に居館を築いた。1180年、以仁王の令旨を受けた義仲はこの地で平家打倒に挙兵した。時に27歳であった。

 木曽義仲館は、宮ノ越宿北方の段丘上にあり、宮ノ越宿を眼下に一望できる要地である。館跡には旗挙八幡宮が建ち、西の崖下にはJR中央本線が通っているが、かつては西側に参道があったらしい。館跡とされる場所には明確な遺構はなく、その範囲も確定できない。尚伝承では、この館から宮ノ腰方面にかけての一帯に根井行親・樋口次郎兼光・今井四郎兼平ら四天王の屋敷が建っていたと伝えられる。遺構はないが、義仲伝説を色濃く残す土地である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.894187/137.766538/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


源頼政と木曽義仲 - 勝者になれなかった源氏 (中公新書)

源頼政と木曽義仲 - 勝者になれなかった源氏 (中公新書)

  • 作者: 永井 晋
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2015/08/24
  • メディア: 新書


タグ:居館
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