SSブログ
古城めぐり(山形) ブログトップ
前の30件 | -

大沢楯(山形県尾花沢市) [古城めぐり(山形)]

DSCN6075.JPG←三ノ郭の大切岸と空堀
(2020年11月訪城)
 大沢楯は、歴史不詳の城である。楯主は大類源内と伝えられる。位置的には牛房野楯森岡山楯の中間にあり、牛房野楯の前衛の砦であったと推測されている。

 大沢楯は、標高161m、比高40m程の丘陵上に築かれている。牛房野楯と同じ様に多数の曲輪群で構成されている。大きく主郭群・二ノ郭群・三ノ郭群と、西斜面に構築された西郭群から構成され、二ノ郭群・三ノ郭群はいずれも全体として凸字型をした形状となっている。城の南西尾根の先に給水施設が建っており、そこから山林内を北北東に進んでいくと、外周を空堀で囲まれた三ノ郭群が現れる。要塞の如く眼前にそびえ立つ大切岸で、空堀も比較的規模が大きい。三ノ郭群の西側には西郭群の塁線が張り出し、ダイナミックな横矢が掛けられている。三ノ郭群の北東に虎口があり、その先は堀底道となって上に通じている。その上の二ノ郭群・主郭群はいずれも、南西側に空堀を穿って防御している。また塁線が外に張り出して下方の曲輪に対する横矢掛けを強く意識している。主郭は南東側に虎口郭を設け、その間にも横堀を穿ち、虎口郭の下にも横堀が穿たれている。主郭は枡形虎口となっている。主郭の背後は蟻の戸渡り状の細尾根で、堀切は見られない。三ノ郭群の西斜面には多段式の西郭群が築かれている。最下方に土塁が築かれ、谷状に窪んだ部分に虎口が築かれている。この虎口の上には腰曲輪の段があり、上方正面から攻撃できるようになっている。また西郭群の南辺は竪土塁となって三ノ郭に繋がっている。以上が大沢楯の構造で、そびえ立つような大きな城塁と空堀は見応えがある。
主郭外周の空堀→DSCN6146.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.635930/140.421871/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


最上義光の城郭と合戦 (図説日本の城郭シリーズ14)

最上義光の城郭と合戦 (図説日本の城郭シリーズ14)

  • 作者: 里志, 保角
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2019/08/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平山城
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

荒楯(山形県尾花沢市) [古城めぐり(山形)]

DSCN6049.JPG←主郭背後の堀切
(2020年11月訪城)
 荒楯は、最上義光の家臣新館十郎の居城である。十郎は、1584年の義光による天童氏討滅後、尾花沢郡代として派遣され、荒楯を築いたと言う。

 荒楯は、尾花沢市街南方の標高178.6m、比高90m程の荒楯山に築かれている。『山形県中世城館遺跡調査報告書』の縄張図では肝心の主郭が抜けているが、三角点のある標高178.6mの峰に主郭が築かれている。主郭は背後に堀切を穿ち、主郭の北には南北に長い二ノ郭が置かれ、二ノ郭の北西に何段もの腰曲輪群を築いている。また西に張り出した尾根には三ノ郭を置いていたらしい。三ノ郭の北西にも腰曲輪群が築かれている。以上はスーパー地形(または傾斜量図)から追える城の構造である。ところが実際に行ってみると、西麓の荒楯不動尊の参道脇から城に至る山道があるものの、どの曲輪内も未整備の薮だらけで、ほとんどその形状を追うことができない。しかも基本的に平場群のみで構成された城なので、薮に埋もれた切岸以外に確認できるものがほとんどない。唯一、主郭背後の堀切だけ、形がはっきりしている。また主郭の後部には土塁が築かれているのも確認できた。それ以外は薮・薮・薮で、残念な状況である。

 尚、前述の荒楯不動尊は、新館十郎が朧気川を望む高台に城の守護神として不動明王を祀ったのが始まりとされる。
主郭後部の土塁→DSCN6053.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.591801/140.419983/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


最上義光 (人物叢書)

最上義光 (人物叢書)

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2016/03/11
  • メディア: 単行本


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

櫤山楯(山形県村山市) [古城めぐり(山形)]

DSCN5950.JPG←二ノ郭虎口の石積み
(2020年11月訪城)
 櫤山(たもやま)楯は、楯岡城の前身の城であったと言われている。鎌倉期の創築と言われるが詳細な歴史は不明である。

 櫤山楯は、楯岡城の北東1.6kmの位置にある、標高266m、比高160m程の山上に築かれている。明確な登道はないので、私は取り付きやすそうな西北西の尾根を直登した(国土地理院1/25000地形図には山の北側に道があるように描かれているが、道の存在は現認していない)。城は、西尾根の下段曲輪群と山頂部の上段曲輪群と大きく2つの曲輪群で構成されている。前述の尾根を登っていくと、最初に現れるのが下段曲輪群で、尾根に沿って何段かの曲輪で構成され、前面を取り巻く腰曲輪を伴っている。腰曲輪は北にやや突出し、先端は物見台の様になっており、下の尾根に通じる通路を見下ろしている。どうもこれが大手筋であったらしい。下段曲輪群の最上部は、側方に土塁を伴った長い大手道となっている。その先に小堀切があるが、堀切から北側斜面に落ちる竪堀の上に石積みが残っている。大手道の土留めであったらしい。堀切の上が上段曲輪群で、主城部に当たる。堀切の上に虎口郭を備えた四ノ郭があり、その上に前郭を伴った三ノ郭がある。更にその上に二ノ郭が置かれているが、三ノ郭から二ノ郭に登る大手の虎口にはやや大型の石による石積みが築かれている。二ノ郭は長円形に主郭を取り巻き、中心に主郭がある。主郭内は2段に分かれている。主郭の背後に当たる東尾根には二ノ郭を入れて5段の段曲輪が築かれている。また主郭の南尾根にも、9段以上の段曲輪群が築かれている。この南尾根曲輪群は、『山形県中世城館遺跡調査報告書』の縄張図には記載されていない。
 以上が櫤山楯の遺構で、上段曲輪群はいずれも曲輪の規模が大きく、切岸の段差も大きい。また虎口に石積みが構築されるなど、戦国期まで使われた城であった様に思われる。尚、下段曲輪群はやや薮が多いが、上段曲輪群は薮が少なく、遺構がよく確認できる。
側方に土塁を伴った大手道→DSCN5897.JPG
DSCN5902.JPG←堀切
竪堀の上の石積み→DSCN5898.JPG
DSCN5930.JPG←主郭
南尾根の段曲輪群→DSCN5969.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.496056/140.409726/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/08/21
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

河島山楯(山形県村山市) [古城めぐり(山形)]

DSCN5816.JPG←一の丸の空堀
(2020年11月訪城)
 河島山楯は、河島山遺跡の一部で、古代のチャシ跡と考えられている。河島山遺跡は、この楯跡のほか古墳や経塚があり、旧石器時代から室町時代にまで至る広範な山全体に及ぶ複合遺跡である。

 河島山楯は、河島山の山頂部に築かれている。150m程離れた長円形の2つの曲輪で構成されている。一の丸と呼称される曲輪は標高194mの山頂にあり、外周に土塁を築き、その外側に空堀を廻らしている。一方、二の丸と呼ばれる曲輪はそこから南東にある峰に築かれている。二の丸は二重の空堀を廻らし、北東に扇状に曲輪を付随させた構造の様である。一の丸、二の丸ともに横矢掛りなどは見られない、簡素な構造の城である。
 尚、河島山遺跡は県の指定史跡であり、散策路も整備されているので、河島山楯も整備されているかと思いきや、城までの道は整備されているものの曲輪の内部は全く未整備のガサ薮に覆われ、遺構の確認が非常に困難で空堀以外の構造をほとんど把握することができなかった。かなり残念な状況である。
一の丸の土塁→DSCN5820.JPG
DSCN5843.JPG←二の丸の二重空堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:【一の丸】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/38.486433/140.353400/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【二の丸】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/38.485526/140.354708/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


山形 ぶらり歴史探訪ルートガイド

山形 ぶらり歴史探訪ルートガイド

  • 作者: みちのく巡りん倶楽部
  • 出版社/メーカー: メイツ出版
  • 発売日: 2017/06/20
  • メディア: Kindle版


タグ:古代山城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

柴橋館(山形県寒河江市) [古城めぐり(山形)]

DSCN5798.JPG←城址の石碑
(2020年11月訪城)
 柴橋館は、寒河江大江氏の支城である。現地表柱では柴橋楯と称される。南北朝時代に大江氏6代元政の弟懐廣が築いたと伝えられる。1356年、足利氏の一門で奥州管領であった斯波家兼の次男兼頼(最上氏の祖)は出羽按察使(または羽州管領。諸説あり)として山形に入部すると、南朝方であった寒河江大江氏は北朝勢の進攻に備えなければならなくなった。そして大江氏7代時茂は、本拠の寒河江城を中心に白岩・柴橋・左沢溝延・小泉・高屋・荻袋・見附などに城塁を築かせたと言う。柴橋氏は、懐廣から室町末期の8代頼綱まで続いた。頼綱は大江氏18代高基の弟で橋間(羽柴)勘十郎と称し、豪勇の誉れが高く、兄高基の筆頭家老となった。1584年、白鳥氏を滅ぼしたばかりの最上義光は寒河江大江氏を攻撃した。この時、頼綱は谷地・寒河江連合軍を指揮して谷地城で戦ったが敗れ、その後積極果敢に最上勢に攻め込んだが、鉄砲隊の銃撃を受けて皿沼の地で絶命したと言う。

 柴橋館は、最上川北方の比高10mに満たない段丘上の南縁部に築かれていたらしい。遺構は完全に湮滅しており、アパート脇に城址標柱と石碑が残るだけである。昭和20年代の航空写真を見ても、既に遺構はわずかとなっていた様である。ただこの石碑の刻文、石の模様と表面光沢の反射で非常に見づらく、判読するのが大変である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.382171/140.257570/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


最上義光 (人物叢書)

最上義光 (人物叢書)

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2016/03/11
  • メディア: 単行本


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

安国寺館(山形県山辺町) [古城めぐり(山形)]

DSCN5783.JPG←安国寺の楼門
(2020年11月訪城)
 安国寺館は、南北朝時代の寺院城郭である。室町幕府を開幕した足利尊氏・直義兄弟は、南朝方の北畠顕家・新田義貞らを討ち滅ぼしてその抵抗を封じ込めて幕政を安定させると、元弘の乱以来の戦没者の霊を弔うため、全国に安国寺・利生塔の建立を計画した。出羽では出羽按察使(または羽州管領。諸説あり)として山形に入部した斯波兼頼(最上氏の祖)が、1359年に大寺の地を卜して選び、夢窓国師を開山として安国寺を開基したと伝えられる(実際にはこの時夢窓は既に入滅しており、夢窓を開山としたというのは後世の仮託であろう)。安国寺は民衆の信仰の中心でもあったが、南朝側に立つ寒河江大江氏に対する牽制の拠点でもあり、戦時体制を整えた寺院城郭であった。伽藍を庭園を備えた寺の周囲には武士団を居住させ、武力の強化を図るとともに、杉下・蓮台寺地区にも配置して備えを固めていたと言う。お壇の山・西光山館・新館といった塁砦は、安国寺館に関連したものとの説もある。

 安国寺館は、現在も安国寺の境内となっている。山を背後にした立地で、墓地の南側には土塁のような土壇も見られる。明確な遺構はないが、江戸後期に再建された立派な楼門を備えた寺で、歴史の深さを感じさせる。
南側の土塁状の土壇→DSCN5790.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.303661/140.255381/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山形県の歴史散歩

山形県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2011/10/01
  • メディア: 単行本


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

オカグラ山楯(山形県山形市) [古城めぐり(山形)]

DSCN5735.JPG←主郭
(2020年11月訪城)
 オカグラ山楯は、最上氏の支城である。『性山公治家記録』によると、1574年の最上義守・義光父子の争いの時、義守方に付いた長崎某が敵対する義光方の籠もるオカグラ山楯を攻撃したと伝えられている。その後の歴史は不明であるが、西部一帯の見張所として、また畑谷城との連絡用の要地として重要な役割を負っていたと推測される。尚、オカグラ山楯の近くには、1600年の慶長出羽合戦の際に撤退する上杉軍と追撃する最上軍の間で激戦が展開された女子林古戦場があり、この城の位置の重要性が推測される。

 オカグラ山楯は、七ッ松集落の北にそびえる標高360mのオカグラ山に築かれている。この城に登るには、七ッ松集落から北西に伸びる山道(国土地理院1/25000地形図に記載のある道)を歩いて進み、南沢川を渡って(但し渡河する部分の道は崩れているので、近くの渡りやすいところから適当に北側に渡る必要がある)東に100m程進むと、東の尾根伝いに登っていく道が分岐しているので、これを東に登っていけば城に到達できる。おそらくこの道が往時の大手道だったのだろう。
オカグラ山楯は、山頂に小規模な主郭を置き、西尾根と南東尾根に数段の段曲輪群を築いている。また北東にも腰曲輪があり、その先に小掘切が穿たれている。主郭と西尾根曲輪群は比較的薮が少ないが、南東と北東の尾根は草木が多くて遺構の確認が大変である。この城で出色なのは、大手に当たる西尾根曲輪群の先に穿たれた堀切と連携した畝状竪堀で、堀切から北側に落ちる竪堀の東側に7本、西側にも1本穿たれている。これは、南斜面は急峻だが北斜面はやや傾斜が緩いので、西の大手道から北斜面に敵兵が回り込むのを阻止する意図で構築されたものだろう。物見と連絡を主任務とした小規模な城砦であるが、大手に構築された畝状竪堀がこの城の重要性をうかがわせている。
西尾根の段曲輪群→DSCN5763.JPG
DSCN5765.JPG←畝状竪堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.240927/140.232443/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


最上義光の城郭と合戦 (図説日本の城郭シリーズ14)

最上義光の城郭と合戦 (図説日本の城郭シリーズ14)

  • 作者: 里志, 保角
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2019/08/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

柏倉館(山形県山形市) [古城めぐり(山形)]

DSCN5684.JPG←主郭
(2020年11月訪城)
 柏倉館は、歴史不詳の城館である。この地は慶長出羽合戦の際に直江兼続率いる上杉勢の侵攻ルートに近く、館の北東にある柏倉八幡神社はこの時に兵火で焼失したと伝えられている。『山形県中世城館跡遺跡調査報告書』によれば、小滝街道から分岐して柏倉楯山楯の山麓を通り門伝館へ至るルートと、狐越街道から富神山南麓を通るルートが合流する地点に位置し、それを俯瞰する丘陵に築かれていると言う。

 柏倉館は、富神山を間近に望み、富神川の東岸にある比高20m程の細長い丘陵上に築かれている。明源寺の裏山に当たり、頂部の主郭と思われる平場は、墓地と畑になっている。主郭の東から南西にかけて、何段かの腰曲輪らしい平場があり、ここも墓地や耕作放棄地の薮となっているが、改変を受けているとのことで、どこまでが往時の遺構なのかよくわからない。堀や土塁は見られず、段々になった平場群だけで構成された城館であったらしい。尚、明源寺に館の簡単な解説板が立っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.232820/140.260037/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山形県の歴史散歩

山形県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2011/10/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

南館(山形県山形市) [古城めぐり(山形)]

DSCN5641.JPG←館跡に建つ神明神社
(2020年11月訪城)
 南館は、山形城の南方を防衛する城館である。最上氏の祖、斯波兼頼が1356年に山形に入部した頃は、弘法屋敷という館があったと伝えられる。最上氏5代義春は、1470年に鎮国安民と山形城南門守護のため神明神社を勧進した。この頃から南館という地名になったとされる。1571年、最上義守は家督を嫡男義光に譲ると、南館を隠居所としたと言われる。後には義光の重臣寒河江肥前守が館主になったと言う。また義光の妹義姫は、伊達輝宗に嫁いで政宗(貞山公)・小次郎を生んだが、1594年に伊達家を出奔して兄を頼って生家の最上家に戻った。この時安心して生活できる地として南館を選び、10数年間暮らしたとも言われる。肥前守が義姫に館を譲ったものだろう。1622年に最上氏が改易されると、義姫は伊達家に戻っているので、この時に南館は廃館になったと推測される。

 南館は、南館二丁目児童遊園を中心とする一帯にあった。ここは旧羽州街道と小滝街道が分岐する交通の要衝であり、両街道に囲まれた内側に水堀で区画された方形居館があっとされる。住宅地に変貌していて遺構は全く無いが、児童遊園内には神明神社が建ち、南館に関する解説板がある。西側の堀跡部で道路が屈曲しており、往時の虎口の跡を想起させる。
西側の道路の屈曲→DSCN5655.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.238871/140.313574/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


最上義光 (人物叢書)

最上義光 (人物叢書)

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2016/03/11
  • メディア: 単行本


nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

岩波楯(山形県山形市) [古城めぐり(山形)]

DSCN5605.JPG←主郭
(2020年11月訪城)
 岩波楯は、山形城主最上氏の支城である。詳細不明であるが、会田主計が3千石を領していたと言う。笹谷街道から分岐して妙見寺、八森を通って山形城下へ至る間道の出口に位置し、この間道を押さえるために築かれたと推測されている。

 岩波楯は、石行寺の西に張り出した比高70m程の小山の上に築かれている。石行寺裏の墓地から登路が付いている。城域東端の曲輪は、墓地に改変されている。登った先にある頂部の曲輪は東西に長く、西側では数段の平場に分かれて徐々に高くなり、一番上に物見台の様な高台がある。ここでは、西の高まりを主郭とし、東の平場を二ノ郭としておく。主郭・二ノ郭いずれも外周に数段の帯曲輪群を廻らしている。主郭から北西に張り出した尾根には小郭群があり、小堀切が2本穿たれている。また南に張り出した尾根にも南北に長い三ノ郭があり、二ノ郭南側の腰曲輪から繋がっている。以上が岩波楯の遺構で、あまり居住性のない小規模な城砦であり、山形城の南方と前述の間道を監視する物見的な役割の城だったと思われる。尚、城内はある程度薮払いされているものの笹薮がやや多いのが難。
二ノ郭の腰曲輪群→DSCN5572.JPG
DSCN5595.JPG←北尾根の小掘切
南に張り出した三ノ郭→DSCN5627.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.220465/140.353142/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


最上義光の城郭と合戦 (図説日本の城郭シリーズ14)

最上義光の城郭と合戦 (図説日本の城郭シリーズ14)

  • 作者: 里志, 保角
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2019/08/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

六田楯(山形県東根市) [古城めぐり(山形)]

DSCN3348.JPG←楯跡付近の現況
 六田楯は、小田島楯とも呼ばれ、最上八楯の一、六田氏の居城である。楯主は六田兵衛と伝えられる。最上八楯は、天童城主天童氏を盟主とした最上地方の有力武士団の連合体で、山形城主最上義光の時代には最上氏の北進に対して激しく抵抗した。しかし義光による切り崩しにあい、天正年間(1573~92年)の天童合戦で最上八楯は壊滅し、最上氏の支配下に組み込まれた。六田氏の事績は不明。

 六田楯は、現在国道13号線が貫通している。位置は蟹沢交差点の北らしいのだが、大きく改変されてしまっており、遺構は完全に湮滅している。『山形県中世城館遺跡調査報告書』には、「北と南にわずかに堀跡を残す」と記されているが、現況からではどこにあるのか、さっぱりわからない。戦後の古い航空写真を見ても、既に城跡の痕跡が不明瞭なので、どの様な縄張りの城だったのかも、今となってはわからない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.437472/140.379041/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


最上義光の城郭と合戦 (図説日本の城郭シリーズ14)

最上義光の城郭と合戦 (図説日本の城郭シリーズ14)

  • 作者: 里志, 保角
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2019/08/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

兵沢遺跡(山形県尾花沢市) [古城めぐり(山形)]

DSCN3322.JPG←東側の内堀と外側の土塁
 兵沢遺跡は、歴史不詳の城館的遺跡である。一説には『続日本紀』に出てくる古代の大室塞がここのことではないかとも、或いは延沢城北方防御のための武器・兵糧倉庫が置かれていたのでは?とも言われるが、確定的な説はない。

 兵沢遺跡は、二重の堀と土塁を廻らした方形居館状の遺跡である。城館であるとは限らないので郭などと呼ぶのは正確性を欠くが、ここでは便宜上、城館的な呼称で各遺構を呼ぶこととする。内郭はほぼ正方形の曲輪で、南に土橋(遺構かどうかは不明)があり、土橋の西側に土塁が築かれている。曲輪内は畑となっている。内郭の周囲には内堀が明瞭に残り、特に東側では空堀の外側にも土塁が築かれていてその形状をよく残している。内堀の外周には外郭が廻らされているが、外周を取り巻いていたと思われる外堀の湮滅が進んでおり、その範囲は明確にできない。しかし北の山林内には外郭外周の外堀の北側部分が一直線に残っている。また北側の外郭内に大きな土盛りが見られ、遺構かと思ったが、古い航空写真には写っていないので、これは耕地化に伴ってできたもので遺構ではないらしい。謎の多い遺跡だが、形状はよく残っている。尚、内郭の南西隅に遺跡標柱が立っている。
北側に残る外堀→DSCN3335.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.603423/140.474603/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


あなたの知らない山形県の歴史 (歴史新書)

あなたの知らない山形県の歴史 (歴史新書)

  • 出版社/メーカー: 洋泉社
  • 発売日: 2013/12/06
  • メディア: 新書


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

尾花沢楯(山形県尾花沢市) [古城めぐり(山形)]

DSCN3302.JPG←神社周囲の堀跡
(2020年9月訪城)
 尾花沢楯は、最上八楯の一で、尾花沢氏の居城である。最上八楯は、天童城主天童氏を盟主とした最上地方の有力武士団の連合体で、山形城主最上義光の時代には最上氏の北進に対して激しく抵抗した。しかし義光による切り崩しにあい、天正年間(1573~92年)の天童合戦では、天童方の尾花沢氏は義光方に付いた延沢城主野辺沢氏に攻撃され、尾花沢楯は攻略されたと言う。江戸時代には尾花沢代官所陣屋が置かれ、幕府の直轄領を支配した。

 尾花沢楯は、丹生川南岸の比高10m程の河岸段丘の西縁部に築かれている。城跡は現在、尾花沢小学校の校地と民家に変貌している。遺構はほとんど残っていないが、西の車道脇に堀跡の地形が残り、南東端の稲荷愛宕両所神社の周囲にも堀跡が残っている。この堀は北側に伸びており、民家の裏に低地となって残っているが、かなりわかりにくくなっている。往時は南北に長い二ノ郭と、西側に突出した主郭で構成され、2郭の間を空堀で分断していたらしいが、この空堀は失われている。城跡の痕跡は部分的に残るが、解説板はおろか城址標柱もなく残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.608621/140.401003/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


最上義光 (織豊大名の研究6)

最上義光 (織豊大名の研究6)

  • 作者: 竹井英文
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/10/06
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世崖端城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

二階堂館(山形県天童市) [古城めぐり(山形)]

DSCN3051.JPG←北東角の塁線と空堀
(2020年9月訪城)
 二階堂館は、成生庄の地頭であった二階堂氏の館と推測されている。しかし確証はなく、時宗佛向寺跡との伝承もあり、現地解説板では「二階堂遺跡」と呼称されている。

 二階堂館は、乱川と押切川に挟まれた平地の中程に築かれている。方形居館であったらしく、郭内は畑となり、その周囲の空き地に館の北辺と東辺の塁線と空堀跡が残っている。しかし夏場に行ったので雑草が繁茂し、確認できた痕跡はわずかである。堀跡は明瞭なのだが、かなり埋もれている様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.389757/140.353721/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山形県の歴史散歩

山形県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2011/10/01
  • メディア: 単行本


タグ:居館
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

天童陣屋(山形県天童市) [古城めぐり(山形)]

DSCN3024.JPG←喜太郎神社の参道入口
(2020年9月訪城)
 天童陣屋は、天童藩織田家の陣屋である。織田信長直系の家で、信長の次男信雄の系統である。1615年、信雄に大和国宇陀郡3万石・上野国小幡2万石が与えられ、後に信雄の4男信良が小幡藩を立藩した。その支配は1世紀半に及んだが、1767年、山県大弐の明和事件に連座して藩主信邦は蟄居処分となり、その跡を継いだ養嗣子・信浮は5万石から2万石へ減封の上、出羽高畠藩へ移封となった。1830年、藩主織田信美は陣屋を天童に移し、天童藩を立藩した。その後、幕末まで存続した。結局、織田家が天童を直接治めていたのは、わずか40年程であった。

 天童陣屋は、天童城のある舞鶴山の北西の平地にあった。かつては二重の堀で囲まれた広い陣屋で、中心には内堀に囲まれた御殿があったらしい。しかし現在は、遺構は完全に湮滅し、市街地に埋没している。しかも陣屋の中心をJR山形線が南北に貫通している。喜太郎稲荷神社の参道入口に天童陣屋の絵図が掲示されている。御殿は神社の南西にあったらしい。参道入口の東60m程の小さな十字路付近に大手門があったらしく、御陣屋大手門跡の標柱が立っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.355472/140.368870/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


江戸三百藩の通知表 (TJMOOK)

江戸三百藩の通知表 (TJMOOK)

  • 出版社/メーカー: 宝島社
  • 発売日: 2020/10/10
  • メディア: 大型本


タグ:陣屋
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

漆山館・漆山陣屋(山形県山形市) [古城めぐり(山形)]

DSCN3004.JPG←陣屋の標柱
(2020年9月訪城)
 漆山館は、山形城の支城である。大久保古城を居城とした最上満頼(満直の子)が、一時期漆山館に居住して漆山殿と称せられたと言う。築館は1398年とされる。一方、江戸初期の『最上家分限帳』によれば、最上義光の死後、その家臣の鈴木備後守が居城し、500石を領したと言う。しかし『日本城郭大系』では漆山九郎兵衛が館主とされており、戦国時代から桃山時代・江戸時代と変遷する中で、最上家家臣団の再配置が行われたことによるのかもしれない。

 漆山陣屋は、江戸時代に漆山領を支配するために設営された。1668年に奥平昌能が山形藩に9万石で入封すると、漆山領3万石は幕府領となった。1677年に漆山村に陣屋が新築され、その後他藩の飛び地領や米沢藩の預り地の設置など、支配者が激しく入れ替わり、それに伴って陣屋の廃止と復活が繰り返された。1760年、漆山代官所が廃止され、長瀞陣屋付となり、漆山は出張陣屋となった。1770年に漆山村以下9か村1万5千石余が米沢藩の預り地となり、米沢藩は漆山に陣屋を設けた。1842年、漆山以下4か村が山形藩秋元家の所領となり、漆山陣屋は廃止された。1845年に秋元家は上野館林藩に移封となったが、村山郡に4万6千石余の飛び地を分領したため、その内、漆山以下36か村の支配のために翌46年に漆山陣屋が造営された。以後、館林藩士と家族が多い時で約300名、この陣屋で暮らしたと言う。そのまま幕末に至り、戊辰戦争では漆山陣屋兵は進撃してきた庄内藩兵と交戦して敗北した。明治3年に陣屋は廃された。

 漆山館は、JR漆山駅の北西にあった。漆山館の跡地に漆山陣屋が規模を縮小して造営されたらしく両者の位置は重なっている。現在は市街化で遺構は完全に湮滅しており、睦児童遊園という小さな公園の隅に漆山陣屋遺跡と描かれた標柱と、大正時代に旧主子爵秋元氏が建てた漆山営師碑が建っているだけである。
 尚、『山形県中世城館遺跡調査報告書』の遺跡地図では、JR漆山駅の西方(漆山陣屋より約400m南)に漆山館があった事になっているが、間違って記載されている様だ。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.317872/140.343529/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


最上義光 (人物叢書)

最上義光 (人物叢書)

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2016/03/11
  • メディア: 単行本


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

青柳城(山形県山形市) [古城めぐり(山形)]

DSCN2994.JPG←青柳城の看板がある溜池
(2020年9月訪城)
 青柳城は、山形城の支城である。慶長年間(1596~1615年)の『最上義光分限帳』によれば、最上義光の家臣長谷川長右衛門の居城で、2300石を領したと言う。

 青柳城は、村山高瀬川南岸の平地に築かれた城である。現在城内は宅地化されており、その縄張りすら明確ではない。ただ、民家の庭先の溜池(湧水池?)の脇に「青柳城」の看板が立っている。またそこと北側の民家の東側に、円弧状の土盛りが遠望でき、土塁らしく思える。主郭の土塁であろうか?もう少し城の情報が得られればよいのだが。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.299216/140.353507/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


最上義光の城郭と合戦 (図説日本の城郭シリーズ14)

最上義光の城郭と合戦 (図説日本の城郭シリーズ14)

  • 作者: 里志, 保角
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2019/08/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

前田慶次旧跡(山形県米沢市) [古城めぐり(山形)]

DSCN2906.JPG←無苦庵西側の土塁
(2020年9月訪城)
 前田慶次利益は、前田利家の甥である。利益については、小説や漫画などでも書かれていて有名なので、その事績についてはここで改めて記載はしない。上杉景勝の家臣となって慶長出羽合戦の長谷堂合戦にも従軍し、景勝の米沢移封に従って米沢に移り住んだ。晩年は、堂森の地に隠棲して悠々自適の生活を営んでここで没したと伝えられる。そのため、堂森付近には利益に所縁のある史跡が散在する。

<前田慶次屋敷>
 前田慶次屋敷は、無苦庵と称され、前田慶次利益の晩年の屋敷地である。2015年に発掘調査が行われた結果、屋敷の規模が確定され、それまではただの伝承地であったが、より確からしい「推測地」となった。県道1号線沿いにあり、南東の隅が車道建設で破壊され、屋敷地の大半は民家と畑に変貌している。しかし西から北にかけて土塁が残っており、矢竹も残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.910414/140.151848/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


<慶次清水>
DSCN2896.JPG
 慶次清水は、無苦庵から南東に300m弱の山林の中にある。無苦庵で過ごした利益が、飲料水にここで湧き出る清水を使用していたと言う。「里の名水・やまがた百選」に選ばれている。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.908975/140.154809/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


<堂森善光寺>
DSCN2916.JPG←前田慶次の供養塔
 堂森善光寺には、利益の供養塔が建てられている。しかし近年建てられたものなので、残念ながら文化財的価値はほとんどない。それよりもこの善光寺には、鎌倉幕府創業の功臣大江広元の次男長井時広(出羽長井氏の祖)とその妻の木造が残っている。武将の木造は各地に残っているが、妻の木造というのは極めて希少であり、夫妻の木像が揃って残る貴重な例である。堂森善光寺を訪れたら、利益の供養塔よりも長井時広夫妻の木像を拝観すべきである。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.907350/140.151654/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


前田利家・利長: 創られた「加賀百万石」伝説 (中世から近世へ)

前田利家・利長: 創られた「加賀百万石」伝説 (中世から近世へ)

  • 作者: 大西 泰正
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2019/04/12
  • メディア: 単行本


タグ:居館
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

北館(山形県米沢市) [古城めぐり(山形)]

DSCN2873.JPG←宅地裏に残る土塁
(2020年9月訪城)
 北館は、歴史不詳の城館である。館主は喜多伯耆守と伝承されているが、文献等の資料には現れない武士なので、実在したかどうかもわからない。

 北館は、普門院館の北北西わずか200mの位置にあり、ほとんど隣接するように築かれている。やや東西に長い方形単郭居館で、郭内は畑となり、周囲には土塁が残っているが、周りには宅地が並んでいるので、あまり近づいて確認することができない。土塁は高さ3m程で、南側には堀跡の痕跡も見られる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.865622/140.141333/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山形県の歴史散歩

山形県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2011/10/01
  • メディア: 単行本


タグ:居館
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

普門院館(山形県米沢市) [古城めぐり(山形)]

DSCN2849.JPG←庫裡前の土塁
(2020年9月訪城)
 普門院館は、歴史不詳の城館である。上杉治憲(鷹山)敬師郊迎跡として国指定史跡となっている普門院の境内が館跡である。普門院の本堂・庫裡周辺にほぼ方形の土塁の西側半分が残っているが、明確に土塁とは言いかねる部分もあり、残存状況はあまり良いとは言えない。『山形県中世城館遺跡調査報告書』では、西面と南面の土塁の一部が途切れていることから、これらが虎口であったと推定している。普門院は、1599年に中興第一生證詠法印が再興したつ伝わることから、荒廃していた普門院を館跡に再建したと推測している。

 尚、上杉治憲敬師郊迎跡とは、名君として名高い上杉鷹山が、若き日の恩師細井平洲を米沢藩に迎えた際、米沢城下から遠く離れたこの関根の地に出迎え、再会を果たしたことにちなむ。1796年9月6日、鷹山は高齢の師平洲の3度目の米沢来訪を、羽黒堂(羽黒神社)に迎え、新築間もない普門院に案内して旅の労をねぎらい、礼を尽くしたと言う。門前には敬師の像が建てられている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.863826/140.142106/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/08/21
  • メディア: 単行本


タグ:居館
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

戸根林楯(山形県長井市) [古城めぐり(山形)]

IMG_5309.JPG←主郭東に突出した櫓台
 戸根林楯は、歴史不詳の城である。草岡地区北西の標高334mの丘陵上に築かれている。この城に行くには、北西に伸びる尾根の先に車道が通っており、そこから国土地理院1/25000地形図にある点線の林道を100m程南に向かって歩き、林道が北東向きに曲がった辺りから南東の尾根方向に山林を歩いていけば、目の前に堀切が現れてくる。このルートであれば山登りする必要がないので、場所さえわかっていれば訪城はたやすい。ただ城内には草木が多く、しかも雪国特有の高反発の折れない灌木が立ち塞がっているので、踏査はなかなか大変である。

 戸根林楯は大型の単郭の城で、主郭の周囲には延々と横堀もしくは帯曲輪が廻らされている。横堀は、北東の基部の尾根では二重堀切となり、内堀の西端は折れて横堀となって主郭の西側に回り込んでいる。この横堀は短く途切れてしまうが、南端部に3本ほどの短い竪堀群が築かれている。これはちょっと意図が不明で、竪堀と言うよりも倉跡の様にも思われる。一方、北東の支尾根にも堀切が穿たれ、堀切前面には独立小郭がある。この堀切も主郭東側の横堀に繋がっている。東側の横堀は、一部で帯曲輪に姿を変えながら、延々と伸びている。主郭東側の塁線はかなり複雑に屈曲しており、下方の横堀・帯曲輪に対して多くの横矢が掛けられている。特に主郭東側に突出した櫓台があり、見事な横矢掛りとなっている。この城の大手は南東尾根にあったと思われ、この方面には複雑な虎口構造が見られる。主郭外周の横堀から降る竪堀状の城道はクランクしながら外に通じている。またこの付近だけもう一つ外側に横堀が穿たれ、この城道の横に繋がっている。横堀周囲の土塁はL字状となって上の土塁に接続し、更にこの上の土塁もL字状に折れて主郭に繋がっている。草木が多くてわかりにくいが、複雑な多重枡形を形成していた様である。また主郭の中央西側には堀切と独立堡塁があり、その上に内枡形虎口が形成されている。主郭内は、横堀・帯曲輪沿いに一段低く腰曲輪が取り巻いている。主郭の土塁は、北西部にのみ構築されている。この他、横堀の数ヶ所に竪堀状虎口が築かれて、城外に通じている。
 この様に、戸根林楯は主郭外周の約4/5程を横堀・帯曲輪で囲繞した構造で、防衛陣地のように守りを固めている。歴史が残っていないことからすると、軍事作戦上、一時的に取り立てた付城のようなものであったのかもしれない。伊達勢による構築であろうか?
南東部の横堀→IMG_5314.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.148716/140.009047/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


伊達氏と戦国争乱 (東北の中世史)

伊達氏と戦国争乱 (東北の中世史)

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/12/21
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

御館山城(山形県大江町) [古城めぐり(山形)]

IMG_5221.JPG←山頂の大江高基と3家臣の墓
 御館山城は、寒河江城を本拠とした寒河江大江氏滅亡の地である。貫見では、「大江懐顕貫見楯に住す」「政顕要害楯に住す(1292年)」と大江氏系図にあるのを始めとし、大江一族が古くからこの地で勢力を養っていた。1584年、山形城主最上義光の攻撃によって寒河江大江氏18代高基は、寒河江城から甥の松田彦次郎の拠る貫見楯に逃れ、12家臣が防戦している間に高基は御館山城に登り、3家臣と共に自刃したと言う。

 御館山城は、標高438m、比高238mの御館山に築かれている。まともに山麓から登ったら大変だが、幸い西麓の貫見集落から御館山の南まで林道が伸びており、途中までは車で登ることができる。途中からは歩きとなり、30分程度で御館山に至る。肝心の遺構であるが、かなり不明瞭で、ほとんど普請されておらず自然地形にしか見えない。従って城郭遺構を期待して訪城するのはお勧めできない。しかし城跡とされる山頂の平場には、ここで自刃して果てた大江高基と3家臣の墓が建てられており、重要な歴史を刻んだ場であることは確かであろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.370766/140.109576/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


最上義光 (人物叢書)

最上義光 (人物叢書)

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2016/03/11
  • メディア: 単行本


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

貫見要害城(山形県大江町) [古城めぐり(山形)]

IMG_5202.JPG←曲輪間の段差
 貫見要害城は、単に要害城と呼ばれ、御館山城に対する根古屋、または居館であったと推測されている。寒河江大江氏の系図によれば、1292年に大江政顕が要害楯に住したとある。1584年、山形城主最上義光の攻撃によって寒河江大江氏の18代当主高基は、寒河江城から甥の松田彦次郎の拠る貫見楯に逃れ、家臣たちが防戦している間に高基は御館山城に登って自刃したと言う。この貫見楯とは、要害城のことであった可能性が高いと思われる。

 貫見要害城は、小清川東岸の丘陵上の高台に築かれている。この高台は南北に長く、内部は3段程の平場に分かれている。明確な掘切はなく、段差のみで区画されているが、真ん中の曲輪は以前は宅地であったらしいので、改変で堀切が湮滅した可能性もある。いずれにしても遺構は僅かである上、それほどの要害地形とも思われず、寒河江氏家臣団が最後の防戦を行ったとするには少々物足りなさを感じる。
 尚近くには、大江高基を庇って最後の防戦をして討死した12人の家臣の墓がある。
大江氏12家臣の墓所→IMG_5189.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.370194/140.099105/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


最上義光の城郭と合戦 (図説日本の城郭シリーズ14)

最上義光の城郭と合戦 (図説日本の城郭シリーズ14)

  • 作者: 里志, 保角
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2019/08/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

貫見大城(山形県大江町) [古城めぐり(山形)]

IMG_5172.JPG←大空堀
 貫見大城は、単に大城(だいじょう)と呼ばれ、寒河江大江氏最後の当主大江高基の弟隆廣の城であったと伝わっている。築城時期は不明だが、『山形県中世城館遺跡調査報告書』では鎌倉時代の築城としている。1584年、山形城主最上義光の攻撃によって高基は寒河江城から貫見楯に逃れ、家臣たちが防戦している間に高基は御館山城に登って自刃したが、この時隆廣も貫見楯で戦い自刃したと言う。

 貫見大城は、月布川曲流部に南から突き出た台地上に築かれている。県道27号線の南側が高台となっていて、そこが主郭であったらしい。以前は集合住宅か何かが建っていたらしいが、現在は何もなく雑草に覆われた空き地となっている。主郭内部は改変のせいと雑草で明確な遺構は不明であるが、主郭の南東から南にかけて台地基部を分断する大空堀がはっきりと残っており、県道側からも空堀跡を望むことができる。よく見ると、空堀が弧を描いて曲がる部分にのみ、主郭外周に帯曲輪が見られる。この他に土塁や井戸跡も残るとされるが、よくわからなかった。県道からの台地入口には「大城」の石柱が立っている。

 尚、城の名前であるが、「大城」ではどこのことかさっぱりわからないので、ここでは貫見大城と記載した。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.384913/140.120541/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

  • 作者: 松岡 進
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/02/27
  • メディア: 単行本


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

慈恩寺城館群 その2(山形県寒河江市) [古城めぐり(山形)]

 慈恩寺城館群には2018年の秋に行っているが、まだ草枯していない初秋であったので、一番城跡らしい遺構を残している日和田楯に行くことができなかった。今回は日和田楯を踏査する為、草枯した晩秋に訪城した。

【日和田楯】
IMG_5141.JPG←主郭背後の大空堀
 日和田楯は、一説には日和田五郎と言う者が南北朝期頃に楯主であったとされる。楯腰稲荷神社背後の比高40m程の丘陵突出部に築かれているが、神社が建っているのもかつての楯の腰曲輪である。頂部に長方形に近い形状の主郭を置き、東と南に腰曲輪を廻らし、大切岸の東下に更に数段の腰曲輪を築いている。主郭内部は薮が多くてわかりにくいが、南東角部が一段低くなっており、内枡形の虎口であった様である。また主郭の北角には櫓台が築かれ、その背後はL字型の大空堀を穿って台地基部と分断している。この他に、大空堀の外側にも腰曲輪群がある様だが、薮がひどかったので未確認である。
 尚、この楯を中心に、日和田集落をコの字型に内堀・中堀・外堀の三重の堀で囲んだ総構えの構造を持っていたと言うが、現在は残っていない様だ。
主郭の腰曲輪→IMG_5131.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.409180/140.257291/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1&d=m

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


城のつくり方図典 改訂新版

城のつくり方図典 改訂新版

  • 作者: 三浦 正幸
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2016/02/26
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

小山家城(山形県天童市) [古城めぐり(山形)]

IMG_5109.JPG←わずかに残る腰曲輪と切岸
 小山家城は、山家城主山家氏の一族、小山家師時が築いた城と伝えられる。師時は、山家師兼の弟で、山形城主最上義光によって、1583~4年頃に700石の所領でこの地に封じられたと言う。それは、庄内攻略の戦功によるものとも、或いは天童城落城後に不穏な動きのあった北部の土豪達に備えるためであったとも言われる。いずれにしても、20年程にわたってこの地を支配したが、師時の夫人は秋田増田城主土肥道近の姉であった縁で、1603年に増田に移住して帰農したと伝えられる。

 小山家城は、比高30m程の丘陵上に築かれている。この丘陵は、大半が果樹園に変貌しており、遺構はわずかしか残っていない。一応、果樹園内にも段々になった平場が見られるが、切岸と言うほど明瞭に区画されておらず、かなり改変されてしまっているように見受けられる。主郭があったと思われる頂部も、形状がはっきりしない。『山形県中世城館跡調査報告書』には、「13~14段の帯曲輪が配され、北側に空壕がのこっている」とされるが、これもはっきりしない。唯一明確なのは主郭北側の山林内で、腰曲輪らしい平場と切岸らしい地形が残っている。この他、南麓の山元沼は水濠跡だったと言うが、これも大きく地形が改変されていると思われる。南麓の車道脇には立派な城址石碑と解説板が立っているが、遺構はかなり残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.369706/140.396057/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


最上義光 (織豊大名の研究6)

最上義光 (織豊大名の研究6)

  • 作者: 竹井英文
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/10/06
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

水の手楯(山形県最上町) [古城めぐり(山形)]

IMG_4987.JPG←腰曲輪の櫛歯状竪堀
 水の手楯は、歴史不詳の城である。志茂の手楯も、その別名を水の手楯と伝えられるが、水の手楯と志茂の手楯は位置が隣接しているので、両者を混同したものとも考えられる。また城の形態としては、志茂の手楯が巨大な二重空堀で一城別郭とした豪壮な造りであるのに対して、水の手楯は堀の少ない単純な縄張りであることから、志茂の手楯に伝わる「小国城主細川摂津守直元の弟帯刀直茂の居城」とは、実はこの水の手楯のことで、志茂の手楯は細川氏を滅ぼした最上氏の勢力が新たに築いた城ではなかったかと個人的に推測している。

 水の手楯は、標高283.6m、比高80m程の八森山に築かれている。その点では、八森山楯と呼ぶ様にした方がわかりやすいかもしれない。志茂の手楯の築かれた山の隣の峰で、直線でわずか600m程しか離れていない。明確な登り道はないので、農道が山裾まで伸びている南東麓から斜面を直登した。山頂に瓢箪型の主郭を置き、その北東に台形状の二ノ郭、また南西から南面を周って南東まで腰曲輪を廻らし、更にこれらの最外周に腰曲輪を築いた縄張りとなっている。主郭と二ノ郭には土塁も堀切もなく、切岸だけで区画されている。また主郭南西の腰曲輪の下にある腰曲輪には、先端に土塁が築かれ、左方に竪堀状の虎口が築かれている。また二ノ郭周囲の腰曲輪には、櫛歯状の竪堀群が刻まれている。これは志茂の手楯の二ノ郭腰曲輪にも同様の構造がある。この点では、水の手楯と志茂の手楯とで、築城主体が同一であった可能性も考えられる。細川氏滅亡後、最上氏は当初水の手楯を改修して使用しようとしたものの、地形面の制約から新たに志茂の手楯に移ったものであろうか?この他、二ノ郭周囲の腰曲輪には、竪堀の様な桝形虎口らしい構造も見られる。
 水の手楯は、普請は明確で、ある程度の広さを持った山城であるが、櫛歯状竪堀群以外に技巧的構造がなく、素朴な形態を残している。
腰曲輪と二ノ郭切岸→IMG_5001.JPG
IMG_5044.JPG←南西腰曲輪の土塁

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.774261/140.467705/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/08/21
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

荒屋楯〔仮称〕(山形県金山町) [古城めぐり(山形)]

IMG_4874a.jpg←南斜面の畝状竪堀
                            (青線が竪堀)
 荒屋楯は、私が2019年11月に新発見した山城である。速報は、その時に簡単に掲載したが、今回は詳報を記載する。
(写真・画像は、クリックで拡大します)

【縄張り】
 山頂部に東西に細長い主郭を配置する。郭内は後部で2段に分かれ、中央が高く両翼は一段低くなっている。その後部には土塁を築き、更に明確な二重堀切で背後の尾根を分断している。また主郭両翼に当たる南北の斜面には、びっしりと畝状竪堀が穿たれている。最上氏の勢力圏によく見られる畝状竪堀と同形状で、竪堀の長さは短く、畝のような竪土塁はコブ状(イモ虫状、或いはオムライス状とも言える)となっている。帯曲輪から竪堀が落ちる形態で、付近にある愛宕山楯と同種のものである。南側の畝状竪堀は薮が少ないので見易く、ざっと数えて24本もの竪堀が穿たれている。一方、北側のものは草木に覆われていて、非常に見辛い。辛うじて畝状竪堀のコブがいくつか確認できるだけである。しかし北側も主郭の長さ分だけの竪堀群があるらしく、こちらも20本程度は竪堀が穿たれていると推測される。これらはいずれも、山形県内の畝状竪堀としてはトップクラスの数である。これらの畝状竪堀は、主郭背後の二重堀切から落ちる竪堀と連続して構築されている。主郭の西側には二ノ郭があるが、削平は甘い。二ノ郭の西側に尾根を区画する小堀切が穿たれている。その先は自然地形の尾根であるが、謎のL字土塁が確認できる。土が硬いので、明らかに土塁として築かれたものであるが、役割は明確ではない。もしかしたら枡形虎口の土塁かもしれない。もしそうだとすると、二ノ郭の西側にも外郭があったことになる。遺構は以上である。
南斜面の畝状竪堀→IMG_4973a.jpg
IMG_4915.JPG←主郭背後の二重堀切
主郭背後の切岸→IMG_4918.JPG
IMG_4929.JPG←主郭後部の土塁
南斜面の畝状竪堀→IMG_4932a.jpg
IMG_4940a.jpg←北斜面の畝状竪堀
二ノ郭背後の小堀切→IMG_4911.JPG

【位置関係からの城の役割の考察】
 荒屋楯は、金山川西岸にそびえる標高230m、比高60m程の山上に築かれている。
 荒屋楯と金山城愛宕山楯との位置関係を地形図に落とし込むと、下図の様になる。(国土地理院発行1/25000地形図と傾斜量図を重ねたものに加筆)
金山城周辺図1.jpg
 金山城の南西の平地に広がっていたと推測される城下集落を囲むように、ほぼ正三角形に各城が配置されている。その為、城下集落にはこれら3城による挟撃ゾーンが形成される。(下図)
金山城周辺図2.jpg

 この地の主城は、最上氏家臣の丹与惣左衛門が居城とした金山城であるから、荒屋楯は愛宕山楯と共に、金山城下に侵攻する敵勢を、側面から牽制・攻撃する役目を負っていたと考えられる。最上氏の山城では、比較的小規模な城に畝状竪堀が構築されていることが多い。これは少数の兵しか置けない出城で、効果的に敵勢を撃退するための工夫と考えられるから、荒屋楯と愛宕山楯は、まさに少数の兵で側面から敵を牽制する目的で築かれたと推測できる。
金山城周辺図3.jpg

 これらの状況から、荒屋楯は仙北小野寺氏に備えたものか、或いは関ヶ原前夜の緊張状態の中で庄内の上杉勢に備えたものと推測できる。

【城へのアクセス】
 登山道はない。私は取り付きやすい南東の斜面を直登した。それほどきつい斜面ではないので、山城に慣れたキャッスラーなら登攀できる。またこの山は間伐や植林がされているので、適度に薮払いされている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.882181/140.329292/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


最上義光の城郭と合戦 (図説日本の城郭シリーズ14)

最上義光の城郭と合戦 (図説日本の城郭シリーズ14)

  • 作者: 里志, 保角
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2019/08/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
nice!(5)  コメント(2) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

平岡館(山形県真室川町) [古城めぐり(山形)]

IMG_4865.JPG←主郭背後の三重堀切
 平岡館は、鮭延氏の家臣柿崎馬乃丞が永禄年間(1558~70年)に居住したと伝えられる。但し館主については、『日本城郭大系』では姉崎能登守、或いは姉崎右馬丞としており、柿崎と姉崎とどちらが正か、よくわからない。いずれにしても、平岡館主は鮭延越前守秀綱と行動を共にしたらしく、1581年に山形城主最上義光によって鮭延城が攻略されると、行方不明になったと言う。

 平岡館は、金山川と西の沢川に挟まれた台地の南西端に築かれている。台地上は「まむろ川温泉 梅里苑」となっており、そこから散策路が館跡まで伸びているので、楽に訪城できる。三角形に張り出した台地の突端を、堀切で分断しただけの簡素な城館で、規模も小さい。主郭は背後に土塁を築き、その裏に三重堀切を穿って防御している。山形に多い中間阻塞型の多重堀切であるが、この三重堀切は普請が中途半端で、3つの堀が階段状に並んでおり、中堀と外堀は非常に浅く、ちょっとした畝程度にしかなっていない。三角形をした主郭の先端には、側方に腰曲輪、尾根の先には段曲輪が築かれているが、いずれも規模は小さい。この他、三重堀切の東側は二ノ郭であったらしく、西側に浅い堀と低土塁があり、土橋らしいものも見られる。以上が平岡館の遺構で、居館と言うよりも物見を主任務とした簡素な小城砦であった様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.866929/140.278362/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


最上義光の城郭と合戦 (図説日本の城郭シリーズ14)

最上義光の城郭と合戦 (図説日本の城郭シリーズ14)

  • 作者: 里志, 保角
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2019/08/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世崖端城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

野崎楯(山形県真室川町) [古城めぐり(山形)]

IMG_4785.JPG←主郭北端の堀切
 野崎楯は、この地の土豪佐藤氏の居城と伝えられる。佐藤次郎勝信の子孫がこの地に移住して大沢村一帯を支配したが、佐藤大和守信基の時に、鮭延城主鮭延越前守秀綱を助けたことから、その家臣になったと言われている。1581年の山形城主最上義光による鮭延城攻撃の際には、弟下野守信包・嫡子右京信稚・2男美濃信秀・3男備中義次・家老沓沢(玄蕃?)・差首鍋楯主鳥海十郎信道らと共に応戦したが、力尽きて館に火を放って自刃したと伝えられる。その後、最上氏に臣従した秀綱が鮭延城に復帰すると、信基の子である信秀と義次は秀綱の家臣となり、再び大沢の地を支配した。1622年に最上氏が改易になると、帰農したと言う。

 野崎楯は、鮭川と小又川に挟まれた比高30m程の台地南端部に築かれている。三角形、もしくはイチョウの葉形をした広大な主郭を台地上に置き、その周囲に帯曲輪を廻らした縄張りとなっている。主郭の東側に1段の帯曲輪が延々と築かれ、南東辺ではその下に横堀が穿たれている。主郭は東側に突出しており(イチョウの葉形の根元の部分)、下方の帯曲輪に対して張り出した櫓台となっている。この部分の帯曲輪には、東尾根に降っていく城道があり、横堀が堀切を兼ねて穿たれ、その先の尾根には物見台がある。また主郭の南端には3段ほどの段曲輪が築かれ、その内2つには神社・祠が建っている。主郭内の北部にも神社が建っている。主郭の北端には堀切が穿たれ、その先には小郭が置かれている。その先の尾根は長泉寺の墓地に改変されているので、遺構は明確ではないが、墓地の北側に切通しの小道があり、これも堀切の跡ではないかと推測される。この他、主郭の西斜面にも帯曲輪があるようだが、草木が多くてあまり明確にはわからない。
 遺構は以上で、主郭が広い城であるが、縄張りとしては比較的単純である。城へ登るのは、南端の神社からがわかりやすい。以前は神社の近くに楯跡の標柱があったらしいが、現在はなくなっている。
南東山腹の横堀→IMG_4756.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.888594/140.218538/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


最上義光 (人物叢書)

最上義光 (人物叢書)

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2016/03/11
  • メディア: 単行本


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー
前の30件 | - 古城めぐり(山形) ブログトップ