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古城めぐり(島根) ブログトップ

松江城(島根県松江市) [古城めぐり(島根)]

DSC05544.JPG←南側の高石垣と櫓
 松江城は、豊臣大名の一人で三中老を勤めた堀尾吉晴が築いた近世城郭である。吉晴は、秀吉の古くからの功臣の一人で、小田原の役後には浜松城12万石を与えられた。秀吉没後は徳川家康に接近し、1600年の関ヶ原合戦の戦功により、出雲・隠岐24万石に加増移封され、月山富田城に入城した。しかし富田城は、向かいに京羅木山という高い山が聳え、大砲などを使う近代戦に不利であり、広い城下町形成に適さなかったため、新たに極楽寺山に松江城を築くこととなった。築城工事は1607~11年の足掛け5年にわたり、吉晴は完成直前に松江城内で没した。堀尾氏は3代にして無嗣断絶となり、その後松江城には京極忠高が入ったが、これも1代で断絶し、1638年から松平直政が信濃松本城から移封となり、幕末まで存続した。

 松江城は、現存12天守の一つで、山陰地方で唯一の現存天守を有している。天守は、さすがに外様大名が関ヶ原後の築城ブームの最中に築いただけあって、なかなか豪壮で見応えがある。天守の中に井戸や厠があり、天守入口の付櫓に対しても室内から銃眼が睨みを効かせるなど、堀尾吉晴の戦闘経験から生まれた独特の構造となっている。一方で全体的な縄張りについては、石垣は本丸周囲と表側だけに集中して築かれていて、桝形の数は少なく、裏側は土塁だけの防御となっている。大手門の南面だけは高石垣となっているが、その他の本丸周辺の石垣は3段程度のやや低い石垣に分かれていて、高石垣で敵を阻む構想ではなかったらしい。また城山は思ったより低く、城山北半分の護国神社周辺はだらだらと緩斜面が続いているだけで、本丸水の手門まで防御の手がガラ空きで、全体的には防御性のやや低い縄張りのように見受けられた。尚、現在県庁の置かれている三ノ丸は、往時は水堀で囲まれた独立方形郭であった様である。

 ところで、周辺の住宅地に家老有沢邸の石垣が残存しており、通り掛かった際、わざわざそこに住んでいるご婦人に説明していただける幸運に巡り会えた。この場を借りてお礼を申し上げたい。
水の手門→DSC05427.JPG
DSC05335.JPG←付櫓に向いた銃眼
有沢邸の石垣跡→DSC05499.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.474983/133.050431/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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山中幸盛屋敷(島根県安来市) [古城めぐり(島根)]

DSC05230.JPG←屋敷地の平場
 山中鹿介幸盛は、尼子氏の庶流山中氏の出で、幼少の頃より主家尼子氏に仕えた。武勇に優れ、尼子十勇士に数えられた武将で、尼子氏再興を願って「願わくは、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったという故事で有名である。16歳の初陣で山名方の菊池音八を討ち取り、1565年に毛利元就が月山富田城を攻めた折には、毛利方の益田越中守藤包の家臣品川大膳を一騎討ちで討ち取った。1566年に尼子義久が元就に降服した後は、新宮党の流れを汲む尼子勝久を担ぎ出して尼子氏再興運動を始めて、織田信長の力を借りて毛利攻めの戦陣に立つなど、毛利方を散々に悩ませた。しかし、信長の命で中国攻略の司令官羽柴秀吉が軍勢を引き上げると、幸盛らの軍勢は上月城で孤立し、尼子勝久は自害し、幸盛は捕らえられて護送途中、阿井の渡し場で謀殺された。これは吉川元春が幸盛の存在を危険視したからと言われている。

 山中鹿介幸盛の屋敷は、月山北支尾根の北麓にあり、現在民家裏に高台となって残っている。谷戸に築かれた屋敷で、奥まった部分は何段かの平場となっているが、遺構かどうかはわからない。平場以外のはっきりした遺構を持った屋敷跡ではないが、あの山中鹿介の屋敷地とあれば寄らない訳にはいかないだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.366831/133.187760/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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新宮党館(島根県安来市) [古城めぐり(島根)]

DSC05199.JPG←館前面の切岸と帯曲輪
 新宮党館は、尼子経久の次男国久の一族衆新宮党の居館である。その名は、一族が新宮谷周辺に居住したことに由来する。新宮党は、尼子氏の軍事力の中核を担った強力な軍団であったが、毛利元就による謀略に掛かった主君尼子晴久によって、1554年に国久・誠久父子は殺害され、新宮党は族滅した。新宮党を失った尼子氏の軍事力は大きく損なわれ、1566年、ついに尼子氏は毛利方の軍門に降り、富田城を開城した。尚、新宮党が滅ぼされた際、ただ一人、誠久の3男孫四郎だけが落ちのび、後に尼子氏再興を目指す尼子氏遺臣の山中鹿介幸盛に奉ぜられて尼子勝久と名乗り、毛利氏に戦いを挑むものの衆寡敵せず、上月城で自害し、尼子氏は滅亡した。
 新宮党館は、後谷川北岸に連なる山地の麓の台地上に築かれた居館で、前面にきれいに切岸が築かれ、帯曲輪で前面を守っていたようである。居館内部に土塁はなく、ただの平坦地となっている。特に富田城の出城とか砦といった趣はなく、有事の際には居館を捨てて富田城に籠ったのであろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.367583/133.193811/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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月山富田城(島根県安来市) [古城めぐり(島根)]

DSC05065.JPG←三ノ丸の石垣
 月山富田城は、西国の戦国大名尼子氏の居城である。尼子氏は、南北朝の動乱を独自の才覚で駆け抜けた梟雄佐々木道誉に始まる京極家の庶流で、道誉の孫の高久が近江尼子郷に住んで尼子氏を称したのに始まる。その子持久が1392年に出雲守護を兼帯する京極高詮に守護代を命じられて出雲に下り、月山富田城を居城とした。以後、富田城は尼子氏歴代の居城となった。持久の子清定の時に応仁文明の大乱が生起し、出雲守護でもあった京極氏は京での戦闘に明け暮れた為、出雲の守護権力は空白となり、守護代の尼子氏が実質的に出雲の守護権力を掌握した。清定の子経久の代に、尼子氏は戦国大名化して最盛期を迎え、東は因幡・播磨から西は石見・備後まで11ヶ国を領有した。しかし経久の嫡子政久は戦場で討死し、3男興久は叛を謀って誅殺され、尼子氏には早くも衰退の影が忍び寄っていた。経久は孫の晴久に家督を譲ったが、晴久は大内義隆の権威を背景とした安芸の毛利元就を討伐するため、1540年に元就の居城郡山城を攻めたが敗北し、返って大内義隆に富田城を攻められた。しかし尼子方はこれを撃退し、大内氏は敗北した(第1次月山富田城の戦い)。晴久の跡を継いだ義久の時、西国の覇者に登り詰めつつあった毛利元就の3万5千の大軍に富田城を囲まれ、1年半の籠城戦の末、1566年に降伏開城した(第2次月山富田城の戦い)。1569年に尼子氏遺臣の山中鹿介幸盛は尼子勝久を奉じて富田城奪還を試みたが敗れ、上月城で尼子氏は滅亡した。尼子氏が去った後の富田城は毛利氏の持ち城となり、天野隆重・毛利元秋・元康・吉川広家らが相次いで城代として配されたが、関ヶ原の戦いで敗れた毛利氏は富田城を追われ、堀尾吉晴が代わって富田城に入部した。1611年、堀尾氏は新たに松江城を築いて居城を移し、以後富田城は廃城となった。

 月山富田城は、一部で中世5代山城の一つと謳われるだけあって、広大な山城である。比高154mの月山山上に連郭式の詰城を置き、本丸・二ノ丸・三ノ丸を配している。詰城といえどもそれぞれの曲輪は規模は大きく、二ノ丸・三ノ丸の周囲は石垣で囲まれ、本丸との間を大きな掘切で分断している。本丸の背後にも段曲輪と堀切が確認できる。詰城から急峻な七曲りを下った山麓部には、山中御殿平と呼ばれる城主居館のあった広大な曲輪を中心に、多数の曲輪群が配置されている。やはり各曲輪とも規模が大きく、殊に山中御殿は周囲に多数の石垣と虎口を配している。塩谷口の搦手虎口には、垂直石垣の切通し状の狭い虎口が造られており、有事の際には石を落として塞ぐことを想定していたのだろう。七曲りの山道の途中にも段曲輪や腰曲輪が見られ、千畳敷から山中御殿までの間にも多数の段曲輪や腰曲輪がある。本丸の東尾根や城安寺背後の尾根にもまだ多数の曲輪群があるようだが、時間の制約上とてもではないがそこまでは見きれなかった。整備された主要部だけでも見応えがあり、城の周辺にも多くの史跡があり、山陰では必見の城である。
本丸手前の堀切→DSC05113.JPG
DSC05015.JPG←山中御殿塩谷口の虎口
元就が本陣を置いた京羅木山→DSC05083.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.360899/133.184928/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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