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明智陣屋敷(岐阜県恵那市) [古城めぐり(岐阜)]

DSCN4714.JPG←主城の腰曲輪と主郭
 明智陣屋敷は、陣屋敷砦とも言い、歴史不詳の城砦である。東2.1kmに武田勝頼本陣の一夜城、西南西1.7kmに織田信長本陣の諏訪ヶ峯砦があり、両者の中間地点にあることから、どちらかの勢力が他方の軍勢に備えて築いた可能性が指摘されている。

 明智陣屋敷は、野志地区にある比高40m程の低丘陵に築かれている。東西に並ぶ2つの細尾根に築かれた曲輪群で構成されている。主城は西尾根の方で、北側を貫通する車道脇から尾根を辿ると、最初に平場があり、その先に高台となった主郭がある。主郭は櫓台程度の小さな長円形の曲輪で、北に虎口郭と思われる一段低い平場を伴っている。主郭の周囲には腰曲輪が廻らされている。主郭の南側にも2段の腰曲輪があり、その先は土橋の架かった堀切で区画されている。他方、出曲輪に当たるのが東尾根で、細長い尾根と平行に土塁状の土盛りが続いている。先端には一騎駆土橋のような地形が見られるが、遺構かどうかは判然としない。西尾根の主城は、小規模とはいえ普請がしっかりしており、曲輪群が明瞭であるが、東尾根の出曲輪は遺構がやや判然としない。少人数しか置けない砦であるが、国道脇にあることから考えて、街道筋を押さえる目的で兵を置いた砦であったのかもしれない。
主城の堀切・土橋→DSCN4746.JPG
DSCN4757.JPG←出曲輪の土塁

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.327092/137.384527/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武田勝頼 (中世から近世へ)

武田勝頼 (中世から近世へ)

  • 作者: 丸島 和洋
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2017/09/20
  • メディア: Kindle版


タグ:中世平山城
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諏訪ヶ峯砦(岐阜県恵那市) [古城めぐり(岐阜)]

DSCN4655.JPG←山頂の主郭
 諏訪ヶ峯(すわがね)砦は、鶴岡山陣城とも言い、1574年に東濃に侵攻した武田勝頼が明知城を攻撃した際、後詰めとして出陣した織田信長が本陣を置いた場所と伝えられる。『明知年譜』によれば、信長が3万騎を引き具して鶴岡山に進出したが、武田氏の猛将山県昌景のの攻撃を受けて織田方の先陣が崩れ、信長はやむを得ず数里引き退いたと言う。しかし『信長公記』には信長の鶴岡山在陣の記載はないらしい。

 諏訪ヶ峯砦は、明知城の北西3kmの位置にある。標高732.1mの諏訪ヶ峯山頂に築かれており、山頂の西側を通る市道脇から登山道が整備されている。山頂の地山を中心にして、北北東・北・西の3方の尾根に出曲輪・堡塁を築いている。前述の山道を登っていくと最初に現れるのが北尾根の堡塁で、小高い峰の周囲に帯曲輪を廻らしている。そこから土塁が築かれた尾根を南に進むと山頂の主郭に至る。主郭はほとんど自然地形の地山であり、なだらかなお椀状の広い峰であるが、南以外の外周に切岸を設け、その外側に帯曲輪を築いている。ここから北北東に伸びる尾根はほとんど自然地形のまま伸び、先端に小高く堡塁を置いている。しかしこの堡塁は、前述の北尾根の堡塁と異なり、帯曲輪もなく、ほとんど普請の痕跡が見られない。主郭の西には堀切が穿たれ、その先に西の堡塁が築かれている。ここには小規模ながら土塁と腰曲輪が見られる。以上が諏訪ヶ峯砦の遺構で、いかにも急拵えの陣城という趣である。この砦からは眼下に明知城と周辺城砦群がよく見え、後詰めの陣所として適地であったことがわかる。
主郭周囲の帯曲輪→DSCN4699.JPG
DSCN4626.JPG←西側の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.319546/137.368498/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


織豊系陣城事典 (図説日本の城郭シリーズ6)

織豊系陣城事典 (図説日本の城郭シリーズ6)

  • 作者: 高橋成計
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/11/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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釜屋大洞城(岐阜県恵那市) [古城めぐり(岐阜)]

DSCN4597.JPG←主郭南の堀切
 釜屋大洞城は、高田徹氏が2020年に発表した新発見の山城である。これを受けて恵那市教育委員会は『恵那市の新発見城館跡』として調査結果をまとめている。恵那市は新発見城館の調査に非常に積極的で、今後更なる新城の調査が待たれる。

 釜屋大洞城は、標高660mの山上に築かれている。城の南約250mの所に市道が通っており、その脇から城まで小道が通じている。小道の入り口には昨年の山城サミットで案内板がせっちされているので、わかりやすくてたいへん助かる。こんな新発見城郭にまで案内板を設置する恵那市の努力には頭が下がる思いである。案内板には「この先約800m」と書かれているが、実際には前述の通り250m程しかなく、背後の尾根から行く感じなので大した高低差もなく、気軽に行くことができる。主郭を中心に、北東の尾根に曲輪群を連ね、更に北西に伸びる尾根にも出曲輪を築かれている。主郭の南東部には枡形虎口が築かれ、下方の腰曲輪に繋がっている。この腰曲輪から主郭の南側にかけて堀切が穿たれているが、両端を曲げて竪堀を落としており、全体として開いたコの字型をしている。更に南尾根に腰曲輪数段を築き、先端を円弧状横堀を穿って防御している。主郭の西には張り出した小郭が築かれ、その周りにある城道に対する防衛陣地となっている。北東尾根の曲輪群の側方には腰曲輪が築かれている。かなり普請の痕跡がはっきりした城で、城跡であることは疑いない。位置的に信長本陣であった諏訪ヶ峯砦(鶴岡山陣城)の後方にあることから、東濃を巡る天正の騒乱期に織田軍の後方警備の陣城として築かれた可能性が考えられる。
主郭の枡形虎口→DSCN4519.JPG
DSCN4496.JPG←南の円弧状横堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.329893/137.372746/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


「城取り」の軍事学

「城取り」の軍事学

  • 作者: 西股総生
  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2013/08/29
  • メディア: Kindle版


タグ:中世山城
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釜屋城(岐阜県恵那市) [古城めぐり(岐阜)]

DSCN4383.JPG←西斜面の帯曲輪群
 釜屋城は、歴史不詳の城である。北東尾根の下部に「おやしき」の地名があり、上手向城主勝氏の一族が屋敷の主と伝えられていることから、勝氏の持ち城と考えられている。

 釜屋城は、標高600m、比高100m程の山上に築かれている。登り口は北東麓にあり、水田の奥の溜め池の右手に案内板と多数の幟が立っている。昨年の山城サミットで整備されているので、登り口がわかりやすくなっている。主郭はL字型をした曲輪で、後部に三角形の櫓台を築き、西に張り出した部分は3段に傾斜し、ここの南辺にだけ低土塁が築かれている。主郭の北西には、段差で区画された二ノ郭が張り出し、その東に帯曲輪が続いている。この城で特徴的なのは、主郭外周に築かれた帯曲輪群で、北面から西面にかけて幾重にも段が築かれ重厚な防御構造となっている。この内、西の帯曲輪群は谷地形に沿って内側に湾曲して構築され、浅い竪堀群を穿っている。この谷地形の斜面を竪堀で防御する構造は、規模は違うものの明知城と同じ構造と考えられる。城の大手は北東尾根にあったと考えられ、北東に舌状の大手曲輪が築かれ、その脇に腰曲輪を経由して登る虎口が築かれている。大手曲輪の周囲にも帯曲輪が数段築かれている。二ノ郭の下方の北尾根にも、帯曲輪群から降った先に堀切が穿たれ、前面に物見台が置かれている。この堀切は東半分だけ中間に土塁が築かれた変則的な二重堀切となっている。主郭の西の張出し部の先には、西尾根とその脇の北西尾根に段曲輪群が築かれている。主郭南斜面にも腰曲輪があり、西尾根段曲輪群から武者走りが繋がっていて、腰曲輪の西半分が横堀となっており、横堀の両脇は竪堀となって落ちている。主郭背後の南東の尾根には堀切があるが、ほとんど自然地形の尾根鞍部である。以上が釜屋城の遺構で、帯曲輪群による重厚な防御構造は、東濃地域の度々の戦乱の中で改修を受け続けてきたことが伺える。
大手虎口→DSCN4320.JPG
DSCN4362.JPG←北尾根の変則的な二重堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.334724/137.380182/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編

信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/11/13
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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山田城(岐阜県恵那市) [古城めぐり(岐阜)]

DSCN4252.JPG←東辺の櫓台と空堀
 山田城は、伝承では和田馬場という武士の居館と伝えられる。室町中期の室町幕府奉公衆に遠山馬場孫六の名があり、遠山一族の遠山馬場氏がここに居住したと考えられている。

 山田城は、小里川南岸の低丘陵先端部に築かれている。北西端は明知鉄道が通っていて破壊を受けているようだが、全体的な遺構はよく残っている。北から南に向かって2~3段の平場が階段状に構築され、東西に一直線の土塁が築かれている。これらの土塁は、いずれも櫓台状の張り出しが設けられており、東辺の土塁は外側に向かって2ヶ所、西側の土塁は中央部に1ヶ所の櫓台がある。特に東辺のものは外側に空堀も穿たれて、防御を固めている。西の土塁の外側にも2段の平場が構築されている。城内の平場群は、いずれも宅地の裏にあって畑などになっていたようなので、どこまで往時の形態を残しているかわかりにくい。また普通に考えれば南側には水堀などがあっても良さそうだが、宅地化されているので、現状からはわからない。いずれにしても簡素な構造の館城である。尚、直線型の土塁に張出し櫓台を設けた構造は、栃木にある飛山城の小型版といった趣である。
西側の土塁に築かれた櫓台→DSCN4275.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.353330/137.397680/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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  • 出版社/メーカー: 西東社
  • 発売日: 2022/11/07
  • メディア: Kindle版


タグ:居館
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下手向城(岐阜県恵那市) [古城めぐり(岐阜)]

DSCN4202.JPG←主郭西側の横堀
 下手向(しもとうげ)城は、串原遠山氏の御内衆・渡辺権七郎の居城と伝えられる。山岡町史では、椋実城の出城として1399年頃に築かれたと推測している。しかし現在残る遺構から考えて、武田・織田両勢力が激突した元亀天正の争乱の中で構えられた陣城の可能性が高いとされる。

 下手向城は、上手向城の西方約1.6kmに位置し、比高60m程の丘陵末端にある。南麓集落の最上段にある民家の右手に登道があり、普通ならわかりにくい登り口だが、昨秋恵那で山城サミットが開催された関係でたくさんの幟が立っているので、今なら全く迷うことなく行くことができる。小道を登っていくと、最初に井戸跡らしい窪みのある腰曲輪に至る。そこから登道は左手に折れ、大手の虎口郭に至る。この上に主郭の大手虎口が開かれ、虎口郭の西端は竪土塁で遮断している。虎口郭の下には腰曲輪があり、更にその下方に堀切がある。主郭は大きく平坦であるが、内部に段差がある。また主郭の北東部にL字型の土塁が築かれている。主郭の東側以外の三方には、延々と横堀が穿たれている。しかし横堀は比較的小さく、薮払いもされていない部分が多いので、少々見劣りする。しかし西の横堀の中間付近に築かれた竪堀・竪土塁は比較的大きい。また横堀と繋がって穿たれた北の堀切も比較的大きい。主郭南西角には小さな枡形虎口と虎口郭があり、横堀に通じる搦手虎口となっている。この他、主郭の東下方の支尾根先端には、下方を分断する円弧状横堀が穿たれている。また前述の横堀の南端には、大手虎口郭下の腰曲輪との間に二重竪堀もある。以上が下手向城の遺構で、ほとんど単郭の城であるが整った防御構造を有しており、築城思想は上手向城とは全く異なっている。元亀天正の争乱時の陣城という見解も首肯できる。
主郭北の堀切→DSCN4142.JPG
DSCN4147.JPG←東の円弧状横堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.352857/137.367296/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東海の名城を歩く 岐阜編

東海の名城を歩く 岐阜編

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2019/11/15
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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上手向城(岐阜県恵那市) [古城めぐり(岐阜)]

DSCN4001.JPG←二ノ郭の上にある主郭
 上手向(かみとうげ)城は、岩村城主遠山氏の家臣勝氏の居城である。1564年には、遠山左衛門尉景任の家臣勝内蔵助義重が城主であった。江戸時代初頭の中山道大井宿の有力者勝義実は、元は「峠城主」で木曽義昌・松平忠吉に仕え、辞して大井宿に住したと伝えられる。

 上手向城は、山岡農村環境改善センターの北東にある宅地背後の丘陵上に築かれている。2つの城域に分かれており、主城となる城ヶ峯と、出城となる隠居峯とがある。最初登り口が分からず西の山から登城したが、城ヶ峯南の宅地の奥に登道と解説板が立っているのが後でわかった。こちらから登るのが正しいルートである。
 城ヶ峯は、主郭・二ノ郭・三ノ郭と3段の平場が階段状に築かれている。最大の曲輪は三ノ郭で、その外周には帯曲輪が築かれている。主郭・二ノ郭は小さく、特に主郭は物見台に毛が生えた程度の広さしかない台形の高台である。二ノ郭は主郭の周りを腰曲輪状に全周している。主郭の北西尾根には四ノ郭が築かれ、曲輪頂部は傾斜し、周りに腰曲輪が付随している。城ヶ峯には堀切がなく、切岸・段差だけで区画されている。特に四ノ郭の形態は、私が見つけた石平新城と似ており、築城主体が同じであった可能性を示している。
 隠居峰は、城ヶ峯よりも面積が広く、居住性のある作りとなっているが、郭内は未整備で薮が多く、遺構の確認がし辛い。2段の平場に分かれており、北東の尾根上の曲輪は一段高くなっており、後部に土塁が築かれ、堀切で北東尾根の基部を遮断している。またこの上段曲輪の南東下方には横堀が構築されている。この横堀は途中で屈曲し、南端部も屈曲しながら降っている。下には帯曲輪があり、横堀道に通じる枡形虎口が構築されていた様である。
 以上が上手向城の遺構で、高台にある居館地の背後を防御する簡素な城砦であった様である。
三ノ郭→DSCN4006.JPG
DSCN4052.JPG←隠居峯の横堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:【城ヶ峯】https://maps.gsi.go.jp/#16/35.354835/137.384505/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
【隠居峯】
https://maps.gsi.go.jp/#16/35.354135/137.386179/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編

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  • 作者: 宮坂武男
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タグ:中世平山城
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羽場城(長野県辰野町) [古城めぐり(長野)]

DSCN3931.JPG←主郭の空堀と土塁
 羽場城は、小笠原氏が築いた城である。伝承では天文年間(1532~55年)に小笠原十二郎が羽場城に居住したとされる。武田信玄が伊那に侵攻し、藤沢頼親が拠る福与城を攻撃した際、小笠原長時が家臣の草間肥前守時信を入れて守らせたと言う。武田氏支配時代には柴河内守がこの城に入ったが、1582年の織田信長による武田征伐の際に織田軍によって落城した。但し、別説では柴氏が拠ったのは沢を挟んで北にある古城原で、文禄年間(1592~96年)に新たに羽場城を築いて移ったとも言われる。いずれにしても江戸前期の1636年に高遠城主保科正之が出羽山形に加増転封となると、柴氏も保科氏に従ってこの地を離れたと言う。

 羽場城は、天竜川曲流部南の段丘辺縁部に築かれている。主郭は手長神社の境内となっている。主郭は方形をしており、北の崖面以外の三方に、曲輪の規模とは不釣り合いなほど大きな土塁を築いている。その外周には空堀を穿っているが、南西角はJR飯田線が貫通しており、破壊を受けている。主郭の大手虎口は神社入り口に当たる南側であるが、神社建設によって改変されている。搦手虎口が北西にあり、土塁にわずかな切れ込みがあり、空堀に土橋が架かっている。主郭の周りには二ノ郭があるが、畑や宅地に変貌している。一部に外周の土塁が残り、堀跡らしい畑が残っている。基本的に方形プランで横矢掛りはほとんどないシンプルな縄張りであるが、大型の土塁と空堀は事前の予想以上の規模で見応えがある。
二ノ郭土塁と堀跡の畑→DSCN3940.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.956445/137.983947/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲信越の名城を歩く 長野編

甲信越の名城を歩く 長野編

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/12/21
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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王城(長野県辰野町) [古城めぐり(長野)]

DSCN3828.JPG←主郭切岸と北の帯曲輪
 王城は、歴史不詳の城である。上伊那の北端に屹立する山上にあって、上伊那盆地全域を眼下に収めるとともに、諏訪・府中の両方面に通じる街道を押さえる要衝であり、物見として重要な位置にあったことが現在でも分かる位置にある。『信濃の山城と館』では、小笠原氏系の砦や狼煙台であったと推測している。

 王城は、標高1027m、比高290m程の大城山に築かれている。まともに麓から登ったら大変だが、幸い車道が山上まで整備されており、苦労することなく登ることができる。しかし城内は公園化されている上、西尾根には電波塔があり、現在はないが主郭南東下には反射板が設置されていたので、遺構は改変を受けていて細部が失われてしまっている。現状から見る限り、東西に長い長円形の主郭と、周囲に廻らされた帯曲輪で構成された単郭に近い城である。主郭の南東には平場があり、曲輪があったらしい。この他、主郭の西尾根には堀切・竪堀がはっきりと残っている。尚、この城に行ったのは2月下旬であったが、山の北側の車道は残雪が多く、途中凍結もあり運転にはかなり緊迫感があった。
西尾根の堀切→DSCN3834.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.992930/137.994654/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃の山城と館〈第5巻〉上伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

信濃の山城と館〈第5巻〉上伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/06/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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龍ヶ崎城(長野県辰野町) [古城めぐり(長野)]

DSCN3738.JPG←堀切と二ノ郭
 龍ヶ崎城は、伊那谷から善知鳥峠を越えて府中・松本平へ抜ける交通の要衝に築かれた城である。築城者・築城時期は不明であるが、『神長官守矢満実書留』の1464年条に記載されているのが文献上の初見である。1487年には、高遠の諏訪継宗が龍ヶ崎城を取り立てて支配した。1544年から下伊那に侵攻を開始した武田信玄は、翌1545年4月、箕輪福与城の藤沢頼親を攻撃したが、頼親の義兄であった信濃守護・林城主小笠原長時は、福与城の援軍として龍ヶ崎城に陣を敷いた。信玄は、5月21日に小山田信有らにこれを攻撃させ、6月に至って武田氏の重臣板垣信方が龍ヶ崎城を攻め落とし、長時は府中へ逃げ帰った。この結果、頼親は和議を結んで福与城を開城して城を出、福与城は武田勢に放火破壊された。その後の龍ヶ崎城の消息は不明である。

 龍ヶ崎城は、比高120m程の山上に築かれている。公園化されており、南東麓から登山道が整備されている。登ってすぐに平場があり、龍ヶ崎公園となっているが、後部には土塁と堀切が残り、大手の曲輪であったと考えられる。そこから急な尾根を登っていくと、やがて傾斜が緩くなり、小郭や堀切が現れる。更に登ると前衛の三ノ郭があり、背後を堀切で遮断している。その上に二ノ郭がある。二ノ郭は後部に物見台の土壇を築き、背後を堀切で遮断している。この堀切は西側で三重竪堀となっている。堀切の上には主郭がそびえている。主郭は小さく、周囲に土塁を築いてすり鉢状になっている。主郭の背後には深い堀切が穿たれ、主郭の西側下方には、この堀切と連携して畝状竪堀が穿たれており、形がよく残っている。主郭背後の堀切は小堀切と組み合わせた三重堀切となっており、東斜面には更に竪堀1本が足されている。その先は細尾根が続くが、散発的に小堀切と竪堀が数本穿たれている。この内、宮坂氏の描いた縄張図で言うと、「ク」の竪堀は下方に長く落ちている。城域北端は小平場と浅い堀切で区画されているが、あまり防御が固いようには見えない。龍ヶ崎城は、信濃守護が本陣を置いたにしては小さい城で、中枢部だけ集中的に堀切や畝状竪堀で守りを固めている。
主郭西側の畝状竪堀→DSCN3721.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.989405/137.976941/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


新装改訂版 信州の城と古戦場

新装改訂版 信州の城と古戦場

  • 作者: 南原公平
  • 出版社/メーカー: しなのき書房
  • 発売日: 2009/06/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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高尾山城(長野県岡谷市) [古城めぐり(長野)]

DSCN3644.JPG←大きく傾斜した主郭
 高尾山城は、諏訪大社下社大祝であった金刺氏の庶流で、この地の地頭三沢対馬守が築いたと伝えられ、築城は鎌倉期または室町前期頃と推測されている。

 高尾山城は、標高1016mの高尾山に築かれている。この山は独立丘で、いかにも城山という感じの山である。南東麓から登山道が整備されており、迷うことなく登ることができる。登り口からの比高は150m程である。城は南北2郭から構成されており、南の主郭は三角形をした曲輪で、内部は東に向かって大きく傾斜し、南東に腰曲輪を伴っている。主郭は展望台となっていて、諏訪湖まで一望できる。主郭の北側には、横矢の屈曲のある土塁・堀切が築かれているが、屈曲はわずかで、強く防御を意識したような感じではない。北側には二ノ郭が広がるが、ほとんど自然地形の地山である。見た限りでは古い形態の城で、戦国期には物見や狼煙台として機能した城砦と考えられる。
主郭北側の堀切・土塁→DSCN3656.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.055023/138.017871/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


「東国の城」の進化と歴史

「東国の城」の進化と歴史

  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2016/04/26
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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小坂城(長野県岡谷市) [古城めぐり(長野)]

DSCN3602.JPG←わずかに残る堀切跡
 小坂城は、諏訪氏(神氏)の庶流有賀氏の分流小坂氏の居城であったと伝えられる。伝承では、平安後期の1154年に甲斐源氏の源信義が初めて築城したとも言われるが詳細は不明。小坂氏は、上社大祝敦光の子敦忠を祖とする一族で、小坂郷に入部して小坂殿と呼ばれた。小坂城は有賀城の支城で、1483年に前宮神殿(こうどの)で大祝継満が惣領家諏訪政満一族を忙殺した「文明の内訌」の時には、小坂氏は惣領家に与した。武田信玄が諏訪を攻略すると、小坂氏は一旦は武田氏に降ったが、1548年に信玄が上田原の戦いで村上義清に敗北すると、諏訪西方衆の反乱に与し、鎮圧後に追放された。その後、小坂城は武田氏の支配下となったが、1582年に武田氏が滅亡すると廃城となったと推測されている。

 小坂城は、諏訪湖西岸の山地の先端部に築かれている。中央自動車道の建設に伴って、城跡の主要部分は発掘調査の後、破壊消滅している。かつては土塁で囲まれた方形の主郭を持ち、西に堀切を挟んで、二ノ郭を配し、これらの外周に腰曲輪群を廻らしていたらしい。城へは南東麓から伸びる小道を登って行ける。主郭は完全に消滅しているが、二ノ郭は西側部分が残存し、間の堀切も南端部分がわずかに残っている。主郭と二ノ郭の周囲に段々に廻らされた腰曲輪群は明瞭に残っているが、昭和20年代の航空写真を見ると、全山耕地化されているので、どこまでが往時の曲輪跡で、どこからが畑の跡なのか、明確には判別できない。城から西の谷を挟んで西の丘陵地に方形の平場と段々の平場群があるが、これも城跡だったのかどうかはわからない。以上が小坂城の遺構で、残っているのはわずかだが、二ノ郭には標柱も立ち、城の雰囲気は残っている。尚、登り口である南の畑地には往時は城主居館があったらしく、近くには「御頭屋敷」の地名も残り、小坂氏が上社の社務を務めた両頭奉行であったことを示している。
西の腰曲輪群→DSCN3581.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.034776/138.063844/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:中世平山城
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大和城(長野県諏訪市) [古城めぐり(長野)]

DSCN3421.JPG←虎口脇の石積み
 大和(おわ)城は、1469~1555年の86年間、金刺氏の庶流大和(大輪)監物の居城であったと伝えられる。諏訪大社上社・下社の抗争の時代に、下社勢力の東の境目を守る要地であったことが推測される。大和氏は、武田氏支配時代にも諏訪五拾騎の一人であり、下社勢の有力社人であったことが伺われる。

 大和城は、諏訪市と下諏訪町の境界線上にある標高940mの山上に築かれている。『信濃の山城と館』では南の雨明沢の脇の尾根筋が大手とされるが、登道はあまり明確ではなく途中で消滅している。しかも結構斜度が急で滑りやすいところを直登するように登っていかなければならない。城が近づくと祠が現れ、その上には帯曲輪らしい平場群が多数確認できる。主郭手前の虎口や主郭周囲には、石積みが残っている。主郭は長円形の曲輪で、後部に土塁が築かれている。北側の帯曲輪には竪堀も確認できる。主郭背後は堀切が穿たれ、その先の短い尾根の曲輪は畝状阻塞となっていて、北斜面に二重竪堀が落ちている。それらの後部にもう1本堀切が穿たれている。ここまでが本城域であるが、ここから西に登る尾根筋に、物見の遺構がある。物見の峰の手前に堀切が穿たれ、物見小郭の背後にも堀切が穿たれている。以上が大和城の遺構で、高木城よりは防御が固められているが、遺構を見る限りは物見の砦として機能していたと考えられる。
背後の二重竪堀→DSCN3472.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.064564/138.113744/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:中世山城
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高木城(長野県下諏訪町) [古城めぐり(長野)]

DSCN3346.JPG←二ノ郭から見た主郭
 高木城は、金刺氏の庶流で諏訪大社下社の東の守りを果たした高木氏の居城と伝えられる。武田氏支配時代にも、狼煙台や物見の砦として機能したものと推測されている。

 高木城は、諏訪湖北東岸に突き出た小さな峰に築かれている。東側に住宅地背後まで登る車道があり、城内には送電鉄塔があるので、車道の先から登道が整備されている。5分も登れば城域に至るので、お手軽に訪城できる。峰状に円形の主郭を置き、東の鞍部に二ノ郭を配した小規模な城である。主郭外周には帯曲輪が廻らされ、竪堀が3本程穿たれているが、いずれも痕跡はわずかで、縄張図に書いてなければ気付かない程度のものである。主郭と二ノ郭は、切岸だけで区画され、大した高低差もない。二ノ郭の北と南の斜面には腰曲輪があるが、ニノ郭の先には何らの防御構造もなく、山の斜面がそのまま続いているだけである。麓からの比高差も小さく、物見を主任務とした小城砦であったと思われる。城内をくまなく歩いても大した時間がかからず、登り口から登るのも大した時間がかからないので、最短登城記録の山城となった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.069351/138.101631/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃の山城と館〈第6巻〉諏訪・下伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

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タグ:中世山城
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