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古城めぐり(岡山) ブログトップ

三石城(岡山県備前市) [古城めぐり(岡山)]

DSC03904.JPG←大手門の石垣
 三石城は、太平記にも出てくる古くからある山城である。1333年に地頭の伊東大和次郎が、後醍醐天皇の倒幕戦に呼応して、三石城を築いて挙兵したと言われている。その後、建武の新政から離反した足利尊氏が京都争奪戦に敗れ、九州に落ち延びた際、尊氏は赤松円心の勢力圏の播磨室ノ津で軍議を行い、九州から再挙東上するまでの武家方の備えを固めた。備前には足利一族の石橋和義を大将に、守護の松田盛朝ら国人衆を組織して、攻め寄せる新田義貞の軍に抵抗した。円心の拠る白旗城やこの三石城で足利方の頑強な抵抗に合って、義貞軍は釘付けとなって貴重な時日を浪費し、その間に態勢を立て直した尊氏は、大軍を率いて京都目指して進軍を始め、後に北朝を擁立した。つまり三石城は、白旗城や感状山城と並んで南北朝動乱の画期となった重要な城であった。その後、尊氏を助けて大功のあった赤松氏が備前の守護職をも兼帯すると、その重臣の浦上宗隆が守護代となって三石城に入り、歴代の居城とした。主家の赤松氏は嘉吉の乱で没落したが、遺臣団の再興運動が実を結んで、赤松氏は再興された。この時、再興に功のあった浦上氏は増長して主家赤松氏と不和となり、1521年、浦上村宗が主君赤松義村を播磨室ノ津で弑逆するなど下克上の趨勢となった。村宗が1531年の三好長基と細川高国の合戦で細川方に付いて討死すると、遺領はその子政宗・宗景によって二分され、宗景は天神山城に居城を移し、三石城は廃城となった。

 三石城は、標高297m、比高207mの城山に築かれた山城で、守護代の居城とは言うものの、戦国期前半で役目を終えたせいか、平易な縄張りでコンパクトにまとまった比較的小規模な城となっている。主郭の南西にニノ郭・三ノ郭を連ね、その西側下方には大手虎口を備えている。主郭は三段ほどの平場に分かれており、郭内に石が多数転がっているので、もしかしたら主殿には石垣が築かれていたかも知れない。三ノ郭は、不整形な細長い曲輪で内部の削平も甘く、全体が傾斜している。三石城は石垣の少ない城であるが、大手門には石垣がしっかりと積まれており素晴らしい。大手門以外は割と平易な虎口となっている。主郭背後には腰曲輪と大堀切を挟んで鶯丸という出丸がある。鶯丸には腰曲輪が付随しており、腰曲輪には土塁も備わっている。大堀切は、幅は狭いが深く、鉄砲のない時代には防御性を発揮したことが想像される。井戸跡は多数あり、水便はよかった様だ。城としての規模は大したものではないが、太平記や赤松氏の歴史に深く関与している城で、歴史的に重要である。
大堀切→DSC03880.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.807525/134.270806/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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石山城(岡山県岡山市) [古城めぐり(岡山)]

DSC08842.JPG←かつての石山城本丸付近
 石山城は、岡山城の前身となる中世城郭である。この地の国人領主金光氏が築いたと言われ、金光備前は戦国時代前期に備前西半を押さえていた金川城主松田氏に属していたと言う。永禄年間(1558~70年)には金光備前の子宗高が城主であったが、沼城主宇喜多直家によって謀殺されて城を奪われた。直家は、重臣の戸川・馬場両氏に命じて石山城を改修・拡張し、1573年に居城を石山城に移した。後に子の秀家によって本丸の位置を東に移されて近世城郭の岡山城に変貌を遂げるまで、直家の石山城が備中の中心であった。
 石山城は、岡山城の二ノ丸内郭と西ノ丸の位置に当たる。そこは現在、市民会館や山陽放送、榊原病院が建っており、広場の真ん中の植栽に「石山」の石碑が置かれている。また榊原病院の駐車場入口にも、「宇喜多氏築城以前 岡山城本丸址」と書かれた石碑が建っている。この辺り一帯は周囲より5m程の高台になっている。石山城の縄張りは岡山城の下に埋没している為はっきりしないが、東西に連郭式に曲輪を連ね、周囲を水堀で囲んだものと推測されているようだ。
病院駐車場入口の石碑→DSC08817.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.664858/133.932513/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:中世平山城
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岡山城(岡山県岡山市) [古城めぐり(岡山)]

DSC08792.JPG←ねじれたような天守の屋根
 岡山城は、宇喜多氏の築いた近世城郭である。元々この地には、金光氏が築いた石山城(岡山城の二ノ丸付近)があったが、1570年に宇喜多直家が石山城主金光宗高を謀殺して城を奪い、1573年に改修を施して居城とした。その後宇喜多氏は、織田信長の中国方面軍司令官であった羽柴(豊臣)秀吉に従い、信長の横死後に秀吉が天下の権を握ると、秀吉の元で成長した直家の子秀家は秀吉の寵遇を受けて、備前・美作と備中東部・播磨西部まで領有する大大名となった。そして大身に相応しい居城とする為、秀家は小田原の役が集結した1590年から8年を掛けて近世城郭としての城の大改修・拡張を行った。秀家は、秀吉の晩年に五大老・五奉行・三中老の制が建てられると、徳川家康や前田利家らと並んで五大老の席に列したが、1600年の関ヶ原の戦いで西軍について敗北した宇喜多氏は改易され、秀家は八丈島に配流となった。宇喜多氏の後は、小早川秀秋が岡山城主となった。しかし秀秋は2年後に病没して小早川氏は断絶となり、代わって姫路城主池田輝政の5男忠継が岡山城主となった。岡山城は、小早川時代・池田時代にも宇喜多氏時代の城に整備拡張の手が加えられた。1632年、池田忠雄が急死して嫡男光仲が岡山城主となったが、幼少の為、鳥取城主池田光政と国替えとなった。以後、光政系池田氏が岡山城主となり、幕末まで存続した。

 岡山城は、西国の大名が築いた堂々たる近世城郭で広大な城域を有していたが、本丸以外は市街化されてしまい、かつての城域に比べれば僅かな部分しか残っていない。その為、現在残る遺構から縄張りについて他の城と比較することは難しいが、本丸について言うと、津山城などと比べると虎口構造が平易でほとんど枡形が築かれていない。しかしほぼ総石垣の城で、宇喜多時代・小早川時代・池田時代のそれぞれの石垣が混在しており、また公園化された敷地内には、発掘された地中の宇喜多氏時代の石垣の一部が復元保存されている。岡山城の天守は昭和20年に戦災消失したが現在は復元されて堂々とした威容を誇っている。この漆黒の天守は非常に特徴的で、五角形の天守台に合わせて作られた望楼型の4層6階の天守は、下から見ると上層階にいくに従って屋根のラインが微妙に螺旋状にねじれているように見える。天守台の石垣は、宇喜多氏時代のものがそのまま使用されているようである。現存建築物としては月見櫓や、本丸からかなり離れた所に西ノ丸西手櫓が残っている。また、街中にも二ノ丸内郭や西ノ丸の石垣が多数残っており、石垣を残しつつ街を作った感じである。石山門跡などは枡形の石垣まで残っており、市街化しているとはいえ、こういう遺構がきちんと残っているのは嬉しい。天守が現存していればさぞかし素晴らしかっただろうと、今更ながら天守を焼いた戦災が恨めしく思える。
街中に残る二ノ丸櫓台→DSC08820.JPG
DSC08828.JPG←石山門跡の石垣

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.664735/133.936032/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:近世平城
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備中福山城(岡山県総社市) [古城めぐり(岡山)]

DSC08581.JPG←土塁上に残る石列
 備中福山城は、南北朝時代に、太平記に名高い備中福山合戦が行われた地である。後醍醐天皇の建武の新政から離反した尊氏は、京都争奪戦に敗れ、続く兵庫でも敗北して、1336年2月、九州に落ち延びて再起を図った。尊氏は官軍の西進を防ぐため、予め各国に足利一門や味方の有力武家を配置しておいた。官軍の総帥新田義貞はその術策にはまり、播磨の土豪赤松円心の籠る白旗城に釘付けとなり、虚しく50余日を空費した。その間に頽勢を立て直した尊氏は大軍を率いて西上を始めた。5月5日、備後鞆の津に着いた尊氏は、大軍を海陸2軍に分け、自身は大船団を率いて瀬戸内海を東に向かい、弟直義に高師泰・少弐頼尚らを先陣とした陸上軍を率いさせた。既に尊氏は、光厳上皇の義貞討伐の院宣を受けた官軍であった。士気・兵力共に勝る直義の軍勢は、新田一族の大井田氏経の拠る備中福山城に迫った。直義は5月16日、朝原峠より攻撃を開始した。城兵は善戦したが多勢に無勢で17日に落城し、城将大井田氏経は囲みを打ち破って三石城に逃れた。直義はここで兵を休息させ、首実検をして諸将の戦功を賞したと言う。この序戦で快勝した足利勢は、約1週間後の5月25日、摂津湊川の戦いで新田義貞を破り、楠木正成を敗死させた。こうして時代は室町幕府の樹立へと大きく動いてゆくことになった。

 備中福山城は、南北朝時代の城らしく素朴な造りの城である。南北に長い尾根上に、削平された曲輪を5つ連ねた縄張りで、堀切はなく、切岸付近に石列を伴った土塁が残っている。一部にはわずかに横堀らしき跡も残っている。曲輪は広く、門跡・井戸跡なども残るが、全体に削平が甘くあまりはっきりしない遺構で、やはり南北朝期の城と言う感じの造りである。城の築かれた福山という山自体が、峻険さの乏しいなだらかな山容で、ここに城を築くのは物見以外の用途では無理がある。それゆえ戦国期には利用価値がなかったと思われ、支峰に新たに幸山城が築かれたのであろう。とはいえ、太平記にも大きく一項を割いて記載された城であり、歴史的に重要である。
門跡の石積み→DSC08554.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.646307/133.759757/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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大松山城(岡山県高梁市) [古城めぐり(岡山)]

DSC08483.JPG←天神丸の堀切
 大松山城は、中世の備中松山城の主要部である。その歴史は近世城郭である備中松山城の項に記載する。
 大松山城は、本丸を含めた大きく3段の曲輪から成るらしく、その南東に出丸とされる天神丸を中心とした曲輪群がある。出丸と言うが、大松山城本丸より高い位置に天神丸があるので、詰丸か祭祀の場所だったのではないだろうか。天神丸に行った時は、天神丸は発掘調査中で石列が確認されていたようである。天神丸は、土壇の上に天神社が置かれた本丸と、堀切で分断された南の出丸やその他の曲輪群で構成されており、それ自体が一つの独立した山城となっている。一部には石垣も残っているが、これは中世松山城の遺構であろう。私が大松山城と思って行ったのは、実は天神丸の勘違いで、大松山城には行き損なった。時間の制約もあったので、今回はこれでよしとしたい。
天神丸曲輪群の石垣→DSC08443.JPG

お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:【天神丸】http://maps.gsi.go.jp/#16/34.812535/133.623523/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

    【大松山城】http://maps.gsi.go.jp/#16/34.813891/133.623201/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


戦国山城を攻略する−キャッスリング入門−

戦国山城を攻略する−キャッスリング入門−

  • 作者: 森本 基嗣
  • 出版社/メーカー: 吉備人出版
  • 発売日: 2010/03/02
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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備中松山城(岡山県高梁市) [古城めぐり(岡山)]

DSC08280.JPG←大手門跡
 備中松山城は、江戸時代に水谷勝宗が築いた近世山城である。元々この地には、鎌倉時代にこの地の地頭秋庭三郎重信が臥牛山上に築いた大松山城があり、それに対して近世城郭としての備中松山城は小松山城とも呼ばれる。勿論、中世には大松山城が備中松山城と呼ばれていた。秋葉氏5代の後、鎌倉末期の1332年に高橋九郎左衛門宗康が入城して、城砦を小松山まで拡張した。南北朝期の1355~62年には高越後守師秀(高師泰の子、高師直の甥)が備中守護として在城したが、1362年に城代秋葉信盛が師秀を追放して備中守護代となった。その後、幾多の城主の変遷を経て、戦国後期の1571年には有力国人の三村元親が入城し、大松山・天神丸・小松山・前山と全山に城域を拡張した。この頃西の毛利氏が強勢を以って勢力を東に拡張し、備中に侵攻して松山城を取り囲んだ。1575年5月、城を脱出した元親は、傷を追っており逃れ難きを悟って近くの松蓮寺で自刃した。この戦いを「備中兵乱」と言う。以後、松山城は毛利氏の支城となり、毛利氏家臣の天野五郎左衛門、次いで桂民部大輔が城番となった。1600年の関ヶ原合戦以後、松山城は徳川氏の支配下となり、備中総代官として小堀新助正次(小堀遠州の父)が入城した。1617年、池田備中守長幸が鳥取城から移封されて松山城主となり、1642年には水谷伊勢守勝隆(元下野久下田城主で、結城氏麾下の名将水谷蟠龍斎正村の甥)が城主となった。2代水谷勝宗は、1681年から足掛け3年を掛けて近世城郭として大々的に改修し、現在の松山城が完成した。水谷氏3代の後、城主は変遷し、最終的には板倉氏が城主となって幕末まで存続した。

 備中松山城は、標高420m、比高340mの山上に築かれている。太平の時代に築かれた城としては異例のことで、この時代に峻険な山上にこれほどの山城を築く必要があったのか、不思議でならない。また幕府がよく築城を認めたものである。幾重にも連なる壮大な石垣を持った城で、巨大な岩塊の上に器用に石を積んでいる。但し、高石垣を積む技術はなかったらしく、それぞれの石垣は比較的低く押さえられている。一つには足場の不安定な山上という制約もあったのだろう。本丸には現存の天守がそびえているが、わずか二層のこじんまりしたものである。天守入口は、ほかの近世城郭と比べると平易な構造で、この辺りはやはり太平の世の天守という感じがする。この他二重櫓や土塀が現存している。石垣はかなり広範に築かれていて、本丸、二ノ丸・三ノ丸の外周のほか、少し離れた中太鼓の丸付近もほぼ総石垣となっている。中太鼓の丸からは、眼下の前山に築かれた下太鼓の丸が見える。備中松山城の北の尾根筋は大松山城につながっているが、途中の鞍部に石垣が積まれた堀切があって、ここまでが近世松山城の城域であろう。

 以上が山上の遺構で、一方、備中松山城は近世山城であるが、根古屋式山城でもあって、南麓には水谷勝宗が整備した御根小屋と呼ばれる屋敷跡が残っている。現在は高梁高校に変貌しているが、石垣や平場、門跡は往時のままであり、その雰囲気を色濃く残している。
天守背後の二重櫓→DSC08416.JPG
DSC08409.JPG←搦手虎口跡

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.809099/133.622192/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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備中高松城(岡山県岡山市) [古城めぐり(岡山)]

DSC08149.JPG←本丸~二ノ丸間の水堀
 備中高松城は、織田信長の部将羽柴秀吉によって史上有名な水攻めが行われた城である。高松城は、戦国後期の天正年間(1573~92年)以前に、備中松山城主三村氏の部将石川氏によって築かれた。天正の頃、高松城主石川久孝は備中半国の旗頭となったほどの有力武将であった。しかし嗣子無く他界し、石川家の断絶を迎えて石川氏麾下の清水宗治は、石川氏の娘婿となって、自ら高松城主となった。この時、長谷川氏も高松城主を望んだが城中で宗治に誅殺された。この頃西の毛利氏が強勢を以って東に進出し、宗治も諸将を率いて毛利氏に下って小早川隆景の麾下に属した。一方、中央では天下布武の野望に燃える織田信長が天下統一を目指して四方の戦国大名を攻め滅ぼしており、その矛先は西の毛利氏に対しても向かっていた。1582年、織田勢の中国方面軍指揮官であった羽柴秀吉は、備中の毛利方の境目7城(宮地山城・冠山城・高松城・鴨城・日幡城・松島城・庭瀬城)の攻略に取り掛かった。7城の中心であった高松城は、周囲を広大な沼地に囲まれた沼城で、宗治が籠城策を取ると攻め口がなくなり、秀吉は黒田官兵衛孝高の建策を容れて、総延長3kmに及ぶ長大な堤防を築き、水攻めを敢行した。その戦いの経緯は、高松城水攻築堤跡の項に記載する。信長が本能寺で横死し、羽柴・毛利間で和議が結ばれると、城主清水宗治は自刃し、高松城は開城された。その後、秀吉の城番として杉原七郎左衛門尉が高松城に入った。この後、宇喜多秀家の部将花房正成が高松城主となり、城は大改修されたと言う。1600年の関ヶ原合戦で宇喜多氏が改易になると、宇喜多氏から追放されていた花房職之が徳川氏の旗本となって高松の地を与えられた。後に高松城は廃城となった。

 備中高松城は、かつては広大な沼地の真ん中に本丸・二ノ丸・三ノ丸の各曲輪が浮島のように浮かび、その外周を家中屋敷と呼ばれる外郭が囲んでいた。しかし現在は周囲の沼地は完全に耕地化され、各曲輪も一部を残して宅地に変貌しており、遺構の湮滅が進んでいる。辛うじて本丸・二ノ丸・三ノ丸の西半分が城址公園として整備され、本丸には曲輪の形状と周囲の水堀が残存している。本丸は周囲より微高地となったただの平場で、土塁などは残っていない。今の状況から考えると、大軍に包囲されての籠城戦に耐えられる要害とはとても思えないが、それは遺構が大きく改変されてしまったからであろう。これも平地の城の宿命で仕方がない事かも知れない。尚、関東平野には岩槻城騎西城忍城羽生城など沼城の名城が多いが、平地の少ない中国地方では高松城の様な沼城は少ないだろう(これは個人的な推測)。秀吉はおそらくあまり沼城を攻めた経験がないと思われ、秀吉が苦戦した理由の一つかもしれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.692880/133.822027/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:中世水城
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津山城(岡山県津山市) [古城めぐり(岡山)]

DSC07162.JPG←ホテルから見た津山城全景
 津山城は、森忠政が築いた近世城郭である。元々は、嘉吉の乱における赤松氏討伐で功を挙げた山名教清が美作守護に任ぜられ、嘉吉年間(1441~44年)に、鶴山と呼ばれたこの地に一族山名忠政に命じて城を築かせた。時代は大きく下って1603年、森忠政は信濃川中島から18万6500石で美作に移封され、当初院庄の構城跡に居を構えた。忠政は、織田信長の家臣森可成の6男で、森蘭丸の弟に当たる。忠政は、美作入部の翌年から12年もの歳月をかけて津山城を築き、現在に残る堂々たる近世城郭に仕立て上げた。森氏は4代95年にわたってこの地を支配したが、1697年に嗣子無く国を除かれた。翌98年に親藩松平越後守宣富が津山城に入り、以後、幕末まで存続した。

 津山城は、3段の石垣を備えた堂々たる近世城郭で、複雑に組まれた石垣は見事というほかはない。非常に枡形の多い城で、幾重にも動線を屈曲させた厳重な虎口構造を取っている。大手門も動線が180度屈曲しており、天守台周囲も複雑な枡形を迷路状に張り巡らして防御しており、まるで「桝形の鬼」とでも呼ぶべきほどのものである。津山城から宮川を挟んで東側には、丘陵地が控えているため、そこからの砲撃を意識してか、本丸東側には異例とも言うべき高石垣が築かれている。この石垣は本丸からの高さは6~7mほどもあり、非常に珍しいことに外側だけでなく本丸に面した内側にも石垣が積まれている。砲弾が貫通しないよう石垣で補強したものであろうか。津山城にはかつては層塔型の五重天守がそびえていたが明治7年に解体され、現在は復元された備中櫓だけが往時の面影を語り継いでいる。古写真が豊富に残る城なので、他の櫓や天守が大々的に復元される日がいずれ来るかも知れない。是非津山市の頑張りに期待したい。
本丸東側の高石垣→DSC07634.JPG
DSC07495.JPG←大手門内の反転する動線
天守台の迷路状虎口→DSC07591.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.062741/134.005104/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:近世平山城
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院庄館(岡山県津山市) [古城めぐり(岡山)]

DSC07449.JPG←わずかに残る土塁跡
 院庄館は、鎌倉期から室町期にかけての美作守護職の居館と推定されている。また、太平記におけるエピソードで有名である。即ち、倒幕を企てて敗れた後醍醐天皇は幕府に捕らえられ、隠岐配流のため護送される途中、院庄に宿営した。密かに天皇奪還を計画した備前の住人児島高徳は、護送団が予測と異なるルートを通ったために奪還を果たせず、せめて帝に自分たちの思いを知らせたいと、密かに院庄の庭の桜木に「天莫空勾践 時非無范蠡」の詩を記したというものである。戦前の皇国史観では広く称揚されて有名であった話だが、今は知っている人も少ないであろう。また、児島高徳自体が伝説上の人物で、実在が確認できないので、後醍醐天皇が本当にこの地に宿営されたのかも定かではない。

 院庄館は、単郭方形居館で、現在は作楽神社となっている。神社の周囲には水堀が南以外の三方に残っており、一部に土塁も残っている。ただ日本城郭大系に拠れば、土塁は遺構であるが、水堀は第二次大戦末期から戦後にかけて神社の整備事業として掘られたものだそうである。神社南東の広場には井戸跡が発見されて解説板が立っているが、井戸自体は埋め戻されて見ることはできない。太平記にまつわる伝説の地として、わずかに中世城館の跡を残すだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.062162/133.943135/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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岩屋城(岡山県津山市) [古城めぐり(岡山)]

DSC07298.JPG←主郭から見た城主居館郭と馬場
 岩屋城は、美作における中心的な大城郭である。1441年、嘉吉の乱で赤松氏討伐に功のあった山名教清が美作の守護に任ぜられて岩屋城を築いた。応仁の乱が勃発すると、岩屋城主山名政清は、山名一族として西軍の主将山名宗全の催促に応じて軍勢を率いて京に上り、この隙を突いて播磨の赤松政則が岩屋城を攻め落とし、1473年に政則は美作守護に任ぜられて、部将大河原治久を岩屋城代とした。1520年、赤松政村の家臣であった三石城主浦上村宗が謀反して岩屋城を奪取し、中村則久を城代とした。政村は岩屋城奪還を企図して果たせず、赤松氏の岩屋城支配は終わりを告げた。1544年、出雲の月山富田城主尼子晴久は美作に侵攻し、岩屋城主中村則治は尼子氏に降った。1568年頃、尼子氏の将で副将として岩屋城に入っていた芦田正家は則治を殺害して岩屋城主となり、主家浦上氏を凌ぐ勢力に成長していた宇喜多直家に投じ、1573年には直家の宿将浜口家職が岩屋城主となった。直家は当初毛利氏と結んでいたが次第に対立し、直家が織田方に付くと、1581年、毛利方の中村頼宗・大原主計介が岩屋城を攻め落とし、中村頼宗が岩屋城主となって再び毛利方の有に帰した。1582年、織田信長の横死を秘した羽柴秀吉は毛利氏と和議を結んで備中高松城を開城させ、宇喜多・毛利の領土を画定した。しかし領土境を備中高梁川とすることに美作の毛利方諸将が服さなかったため、宇喜多氏の武力接収戦が行われた。岩屋城も、周囲を囲むように宇喜多方の陣城が築かれて攻囲されたが決着がつかず、ついに前将軍足利義昭の調停で和議が結ばれ、毛利方の諸城は開城して岩屋城も宇喜多氏の支配下となった。岩屋城には宇喜多氏の宿将長船越中守が入ったが、1590年、野火によって焼け、以後廃城になったと言う。

 岩屋城は、美作支配の重要拠点となった城だけあって、城域は広大で、各曲輪の規模も大きい。標高483m、比高303mの岩屋山山頂に主郭を置き、そこから派生する尾根には馬場や東曲輪群、さらに馬場の南の尾根筋に段曲輪群を設けている。ニノ郭・三ノ郭は主郭から東にやや離れて配置され、それぞれ独立性の高い曲輪となっており、一城別郭の縄張りとなっている。段曲輪群の中には、防御のために要所に堀切が設けられているが、堀切は全体的に小さい。そして堀切手前にも段曲輪が設けられ、敵を前面で迎撃できる様になっている。北西尾根の段曲輪群側面の中腹には横堀も確認できる。堀切で素晴らしいのはニノ郭北側の大堀切で、深さ10m以上もある見事なものである。その他、大手道両側の尾根上にも段曲輪群が設けられており、非常に守りの固い城であったことが想像される。しかし、この城で何と言っても素晴らしいのは、「てのくぼり」と呼ばれる連続12本の畝状竪堀で、規模も大きく圧巻である。これほど見事な畝状竪堀はそうあるものではない。かなりの範囲が整備されているので、削平された曲輪がよくわかる。ハイキングコースのルート設定も素晴らしく、大手から登って一通り回っていくと、最後にクライマックスの大堀切と畝状竪堀が見れるにくい演出である。石垣はわずかしか残っていないが、井戸跡や門跡もよく残り、中世山城の威容をよく残している。

 尚、岩屋城の麓の大手筋には家臣団屋敷跡の標柱が建っており、周辺に築かれた宇喜多方の陣城群の標柱も建っている。私は時間の関係でパスしたが、時間のある人は陣城群も巡ってみると面白いだろう。
南西尾根段曲輪群側方の横堀→DSC07275.JPG
DSC07338.JPG←ニノ郭北側の大堀切
圧巻の畝状竪堀「てのくぼり」→DSC07379.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.076177/133.834237/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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