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古城めぐり(石川) ブログトップ
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幾保比城(石川県七尾市) [古城めぐり(石川)]

DSCN8513.JPG←枡形虎口
(2020年11月訪城)
 幾保比城は、将軍足利尊氏と弟直義が争った室町幕府の内訌「観応の擾乱」の際に尊氏方武将長野家光が奮戦した居城と伝えられる。また戦国後期に織田信長から鹿島半郡の領有を認められた長連龍が、築城したとの伝承もある。伝説では、古代の仲哀天皇の御宇、外船がしばしば能登の港に入港したので、その警戒のために三室孝原が築いたともされる。

 幾保比城は、赤蔵山の南東に張り出した標高151mの平らかな峰上に築かれている。おたまじゃくしの様な変わった形状をした主郭を持った、ほぼ単郭の城である。主郭内は薮がひどくて判然としないが、数段の平場に分かれているらしい。主郭外周には土塁を築き、その内側は一段低い横堀状とし、また主郭周囲の西から北側にかけて横堀状の腰曲輪を廻らしている。従って城の全周は土塁で囲まれている。その周囲には帯曲輪が1段取り巻き、南西端と西端では堀切状となっている。主郭の北西に平虎口があるが、その外側の横堀状通路を西にずれた所に枡形虎口を築いている。また主郭の東側にも櫓門らしい平虎口がある。主郭の西の角部の外には小郭が置かれ、その両側にはそれぞれ二重竪堀が落ちている。この他、北西と北東の尾根にはそれぞれ2本の浅い堀切が穿たれている。
 幾保比城は、時折見られる一点豪華主義の城で、西側の枡形虎口だけが異彩を放っている。南北朝期の古い城の基本形はそのまま引き継ぎ、虎口部分だけ改修を加えたものだろうか?
主郭土塁の西端部→DSCN8593.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.041254/136.872751/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


能登中世城郭図面集

能登中世城郭図面集

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2021/05/02
  • メディア: 大型本


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金丸城(石川県中能登町) [古城めぐり(石川)]

DSCN8430.JPG←主城部南東斜面の腰曲輪群
(2020年11月訪城)
 金丸城は、仏性山砦とも言い、将軍足利尊氏と弟直義が争った室町幕府の内訌「観応の擾乱」の際に歴史に現れる城である。元々この仏性山には天平寺と言う寺があり、多くの衆徒を擁して勢威を誇っていたと伝えられる。1350年11月4日、尊氏党であった能登守護桃井義盛は京都から能登に下向した。同月19日、直義党の桃井直信(元越中守護桃井直常の弟)は数千騎を率いて越中から能登に進攻し、高畠宿に陣を敷いた。以後、両軍は連日激しい戦闘を繰り広げ、12月13日に義盛は金丸城に籠城した。直信勢は金丸城を攻撃したが、城中から長野季光が打ち出して戦い、これを撃退した。1369年には桃井直常が能登に進攻し、得田章房・得江季員ら能登武士は能登守護吉見氏頼からの軍勢催促を受け、4月28日、鹿島郡の金丸城・能登部域に馳せ参じた。当時、両城は守護吉見氏の軍事拠点であり、金丸城に守護吉見氏頼が、能登部城に守護代吉見伊代入道が在城していた。章房らは両城の麾下にそれぞれ属して、連日桃井勢と合戦を繰返し、6月1日にこれを撃退したと言う(得田章房軍忠状・得江季員軍忠状)。時代は下って1557年、能登守護畠山氏の内紛「弘治の内乱」の際、温井・三宅反乱軍が金丸城に籠城した。七尾城方は金丸城を攻撃したが、撃退された。1580年には、織田方の長連龍と七尾城方の温井景隆・三宅長盛兄弟とが戦った菱脇合戦の舞台の一つとなった。連龍は福水城に本営を置き、鉢伏山砦を前線基地とした。一方、温井一党は金丸仏性山砦に陣営を置き、八代肥後・古浦屋新助が拠ったと言う。6月9日、邑知潟淵の菱脇で激戦が展開され、八代肥後以下の温井方将兵百数十余人が討死し、温井・三宅連合軍は敗北、仏性山砦は長氏方に攻められ落城したと言う。その後金丸城は史料に現れず、代わって徳丸城が現れるようになっているので、菱脇合戦から程なくして金丸城は廃城になったと推測されている。

 金丸城は、邑知地溝帯の北に連なる丘陵地帯の一角、標高120m、比高110mの仏性山に築かれている。この山は南麓から登山道がついている。南麓に能登生國玉比古神社があるが、そこから東に民家裏の車道を入り、60~70m程進んだところで北側に山中に入る道があるので、そこを入っていく。入って40m程で西側の尾根に登っていく道があるので、そこを登ると、尾根先端の平場に至る。ここも曲輪だったと思われ、そこから北に尾根筋を登っていけば、尾根途中の中段の曲輪を経由して主城部に至る。金丸城の主城部は、標高120mの最高所ではなく、そこから南に下った標高97mの峰を中心に築かれている。峰上に南北に長い狭小な主郭を置き、主郭には内枡形虎口がある。主郭下方の南尾根・南南東尾根・南東尾根に挟まれた南東の斜面上に7~8段の腰曲輪群を末広がりに築いている。南南東尾根の先には段曲輪があり、南東尾根の先にも舌状曲輪群が築かれ、その先端付近を二重堀切で分断している。一方、主郭の背後の小掘切を越えて北に伸びた細尾根の先に城内最高所となる物見台の小郭があり、背後に明確な堀切を穿って尾根筋を分断している。物見台から南東に伸びる尾根にも曲輪群が築かれている。途中、土橋状の尾根の側方に帯曲輪が付随する曲輪を経由して、下方に南東の出曲輪群が築かれている。ここには2本の堀切が穿たれているが、いずれも規模が比較的大きい。特に上の堀切では西側に竪堀が曲がりながら長く落ちている。南東出曲輪群の先端の平場からは、西斜面に竪堀が落ちている。
 以上が金丸城の遺構の状況で、やや薮が多く遺構が見辛い部分もあるものの、徳丸城と比べると求心性の強い縄張りで、支尾根に築かれた堀切の規模も大きい。縄張り的には徳丸城よりも優れていると考えられる。尚、主城部から独立して築かれた、物見台の南東出曲輪群は、主城部とは随分と築城思想が異なっているので、築城主体が違う可能性がある。主城部が南北朝期の縄張りをそのまま引き継いでいるのに対して、温井・三宅連合軍が金丸城を使用した際に新たに出曲輪群を築いたのかもしれない。
主郭→DSCN8420.JPG
DSCN8337.JPG←物見台背後の堀切
南東出曲輪群の二重堀切→DSCN8450.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:【主郭】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.952207/136.842409/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【物見台】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.953253/136.842967/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


足利尊氏 (角川選書)

足利尊氏 (角川選書)

  • 作者: 森 茂暁
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2017/03/24
  • メディア: 単行本


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徳丸城(石川県中能登町) [古城めぐり(石川)]

DSCN8236.JPG←主郭
(2020年11月訪城)
 徳丸城は、天正年間(1573~92年)に織田方に付いた能登畠山氏の家臣長連龍が拠った城と伝えられる。連龍は、1577年の上杉謙信による七尾城攻撃の際、上杉氏の調略に応じた遊佐続光らの計略によって兄綱連を始めとする一族を滅ぼされた。復讐に燃える連龍は、織田信長の支援を受け、福水城に本営を置いて能登進攻の態勢を固め、1580年6月9日、菱脇の合戦で七尾城方の温井景隆・三宅長盛兄弟の連合軍を破った。能登の状況を見た信長は、同年9月1日、七尾城方の温井・三宅一党と連龍の和睦の調停をはかり、織田軍の尖兵となって能登で奮戦した連龍は信長より鹿島半郡を与えられ、福水城を居城とすることを認められた。連龍は次いで徳丸城に居城を移し、その後田鶴浜館を築館して居住したとされる。
 一方、徳丸城は、南北朝期の抗争の際、能登守護吉見氏の拠点の一つとして現れる能登部城と同一のものとする説がある。得田章房軍忠状・得江季員軍忠状によれば、1369年の元越中守護桃井直常の能登進攻に際し、得田章房・得江季員ら能登武士は能登守護吉見氏頼からの軍勢催促を受け、4月28日、鹿島郡の金丸城・能登部域に馳せ参じた。当時、両城は守護吉見氏の軍事拠点であり、金丸城に守護吉見氏頼が、能登部城に守護代吉見伊代入道が在城していた。章房らは両城の麾下にそれぞれ属して、連日桃井勢と合戦を繰返し、6月1日にこれを撃退した。この能登部城が発見されていないこと、徳丸城の縄張りが戦国末期のものとは考えにくいことから、徳丸城こそが能登部城であった可能性があると言う。

 徳丸城は、邑知地溝帯の北に連なる丘陵地帯の一角、標高150m、比高130mの清四郎山に築かれている。南麓に徳丸観音堂があり、その裏から登山道が整備されている。南北に伸びる主尾根に曲輪を連ね、更にそこから東西に派生する尾根にも曲輪を連ねた縄張りとなっている。前述の登山道を登ると、主尾根から南東に伸びる支尾根の先端にある小郭に至る。小郭の先に土橋の架かった堀切が穿たれ、その上に曲輪、更に堀切を越えた先に三ノ郭(別名、火の見台)がある。三ノ郭は南東と西に腰曲輪があり、西尾根の先に西郭が築かれ、その先端も堀切が穿たれ、その先に小郭が置かれている。三ノ郭と西郭との間の尾根は、両端の付け根に片堀切が穿たれている。三ノ郭の北の尾根の先には二ノ郭群(別名、風呂屋敷)が築かれている。二ノ郭群は、頂部の狭小な曲輪とその南東斜面に築かれた数段の曲輪群で構成されている。東端には物見台がある。二ノ郭群の更に北に主郭群(別名、調度)がある。主郭群も頂部の小ぶりな平場と、南と西の腰曲輪群で構成されている。主郭の北と東に堀切が穿たれ、東尾根には小郭群が続き、堀切もある。主郭の北西にも段々に円弧状の腰曲輪群が築かれている。主郭群の北には、北郭(別名、馬責場)がある。北郭はおそらく物見であろう。その東西にも小郭があり、特に東尾根の先端には堀切が穿たれている。
 以上が徳丸城の遺構で、曲輪はあるものの大した広さはなく、また基本的に峰と峰を細尾根で繋いだ地勢なので、城内の居住性はほとんどない。また堀切の規模も大きくはなく、長連龍が拠った戦国末期の時期から考えると、前時代的な縄張りである。そうした事実を考えると、徳丸城が南北朝期の能登部城と同一の城とする見解は、至極妥当なものと思う。
最初に出てくる堀切と土橋→DSCN8086.JPG
DSCN8100.JPG←三ノ郭
二ノ郭群→DSCN8147.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.969695/136.867493/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


観応の擾乱 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い (中公新書)

観応の擾乱 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い (中公新書)

  • 作者: 亀田俊和
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2019/02/08
  • メディア: Kindle版


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勝山城(石川県中能登町) [古城めぐり(石川)]

DSCN7989.JPG←中城の巨大竪堀
(2020年11月訪城)
 勝山城は、1555年に生起した能登守護畠山氏の内紛「弘治の内乱」の際に築かれた城である。畠山義綱は実権を取り戻すため、実権を握っていた重臣の温井総貞(紹春)を暗殺した。これをきっかけに温井氏と温井氏と親しい三宅氏は畠山晴俊を当主として擁立し、加賀一向一揆を味方につけて大規模な反乱を起こした。これが「弘治の内乱」で、温井・三宅連合軍は、勝山城を反乱拠点として築城したとされる。一時は義綱方を七尾城に追い込んだが、その後は劣勢となり、1558年3月に勝山城は落城し、反乱軍は鎮圧されて畠山晴俊・温井続宗らは討死したと言う。1584年、越中を支配した佐々成政の命を受けて、成政の重臣の守山城主神保氏張は能越国境の要衝として勝山城を取り立て、部将の袋井隼人を勝山城に置いたと言う。七尾城にいた前田安勝はこれを知り、前田良継・高畠定吉・中川光重らに勝山城を攻撃させたが、撃退された。同年9月の末森合戦では、佐々勢を撃退した前田利家は、佐々勢が撤退した荒山城・勝山城を占領した。翌85年、豊臣秀吉の富山遠征によって成政が秀吉に降伏すると、勝山城はその使命を終えたと思われる。

 勝山城は、邑知地溝帯の南に連なる丘陵地帯の一角、標高230m、比高130mの山上に築かれている。主尾根から北東に弓なりに伸びる尾根の北端部に登り口がある。車道脇の民家の裏に解説板があり、その奥が登道の入口である。登道と言ってもわずかな踏み跡程度のものだが、細尾根なので迷うことはない。勝山城は、能登国内としては勿論、石川県全域で見ても5本の指に入る巨大城郭で、城内は大きく3つのブロックに分かれる。ここでは便宜上、それぞれ北城・中城・南城と呼称する。

北東尾根の物見台→DSCN7859.JPG
DSCN7884.JPG←北東尾根の曲輪の一つ
主郭後部の切岸→DSCN7924.JPG
 北城は勝山城の中心的な郭群で、頂部に主郭を置き、北に伸びる尾根と北東に伸びる弓なりの尾根とに曲輪群を連ねている。大手は北東の弓なりの尾根で、主郭の東斜面から尾根の先端まで、びっしりと曲輪群が築かれている。それぞれ切岸で明瞭に区画され、途中には物見台が2ヶ所ほど見られる他、細尾根の動線を制限する片堀切が構築されている。尾根の付け根は一騎駆け状の長い土橋となっている。その先に腰曲輪群があり、尾根筋からはL字型の坂土橋が構築され、上段の腰曲輪に登っていく。腰曲輪群を登っていくと、北城の主郭に至る。主郭は後部に土塁を築いて防御し、北に向かって数段の舌状曲輪を連ねている。その先は2本の坂土橋で下の曲輪に通じている。先端部には数段の小郭が築かれて城域が終わっている。一方、主郭の東側から南側には南郭が置かれ、西辺に短い土塁があり、土塁と主郭切岸との間は堀切となっている。北城の南郭から南の尾根を登っていくと、土橋状通路の先に中城がある。

DSCN7969.JPG←中城前面の大堀切
土塁で囲まれた中城の主郭→DSCN7972.JPG
 中城は、まず前面に前衛となる小郭数段を置き、その後部に土塁を築き、背後を大堀切で分断している。その南側にあるのが中城の主郭で、南から東面にかけて大きくL字状に土塁を築いて防御している。その背後にも大堀切が穿たれ、ここから北東に向かって巨大な竪堀が落ちている。この大竪堀は100m以上も伸びる圧巻の規模で、これに近いものは上野岩櫃城や下野山田城でしか見たことがなく、それを凌駕する長さである。大竪堀の内側(中城側)には竪土塁が延々と構築され、南にある南城との間を完全に分断している。竪土塁を下っていくと、竪土塁は下方で2ヶ所の折れを持ち、その内側に腰曲輪群を構築している。この様に中城は、前後の大堀切と東の大竪堀で防御されている。竪土塁・大竪堀の南側にあるのが南城である。

DSCN8015.JPG←南城から見た大竪堀
南城の腰曲輪群→DSCN8011.JPG
DSCN8025.JPG←南城の主郭
 南城は、尾根上に小さな主郭を置き、主郭後部には土塁が築かれ、その南に南郭、また主郭の前面には虎口を伴った北郭が置かれている。これら3つの曲輪の東斜面に、多数の腰曲輪群が築かれ、前述の大竪堀沿いにもびっしりと段が連なっている。また南郭から伸びる細い南尾根には堀切が3本穿たれて城域が終わっている。
南尾根の堀切→DSCN8054.JPG

 この様に勝山城は、並の山城3つ分の規模を有する巨大山城で、ネット上ではほとんど無名というのが信じられない。薮もそれほどひどくないので、遺構も比較的確認しやすい。

 ここでちょっと勝山城の構造について考察してみたい。北城・中城・南城と分かれた区画は、それぞれ城の構造が全く異なっており、それぞれの役割の違いを表していると考えられる。一つの仮説として、北城の主郭は実力者の温井続宗が在陣し、それより高所にある中城の主郭は主君として擁立された畠山晴俊の御座所が置かれたとも推測できる。その場合、大竪堀で分断された南城との関係が問題になる。南城は明らかに軍兵の駐屯地であり、畠山晴俊と兵卒の身分差が大竪堀に表れたのだろうか。また別の仮設として、七尾城を攻略した上杉謙信が勝山城を支配していた時代があったのかもしれない。その際に、上杉氏によって大竪堀と南城が拡張されたとも考えられる。有数の戦国大名が、山城を拡張して外郭を独立した区画として新規構築した例は、北条氏の房総半島の城などにその類例がある。ただ能登の上杉系城郭でよく見られる畝状竪堀が構築されていないのは、ちょっと引っかかる。一方で、大堀切・大竪堀は織田勢力の城ではあまり見られず、逆に織田勢力の城の特徴である直線的な塁線や枡形虎口がこの城にはなく、佐々氏・前田氏が整備拡張したとは考えにくい。なかなか考えさせられる城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.960746/136.926717/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の山城を極める

戦国の山城を極める

  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2019/09/12
  • メディア: 単行本


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二穴城(石川県七尾市) [古城めぐり(石川)]

DSCN7776.JPG←主郭~二ノ郭間の段差
(2020年11月訪城)
 二穴城は、能登守護の七尾城主畠山氏が築いた城と言われている。1581年に前田利家が能登に入部すると、家臣の高畠茂助・宇野十兵衛を置いて守らせたと言われる。小口瀬戸と七尾南湾を航行する船舶を監視する役目を負っていたと考えられている。

 二穴城は、七尾南湾に突き出た丘陵上に築かれている。城の北東に多賀神社があり、その裏から城内の畑跡に通じる道が伸びている。城内は耕作放棄地と竹薮になっている。南北に主郭・二ノ郭を配置した城で、2郭間は高さ1m程の段差だけで区画されている。南の主郭は丘陵突端にあり、西辺に低土塁を築いている。更に主郭・二ノ郭の西側には数段の腰曲輪が築かれ、この腰曲輪群を貫通して竪堀状の通路が下っている。また二ノ郭の東側にも腰曲輪が1段築かれている。二ノ郭の後部にも土塁があり、段差で北側の尾根と区画されている。そこから北側は一面の酷い薮で、踏査困難なため、遺構の有無は確認できていない。
 二穴城も向田城と同じく、現地解説板ではずっと北側に続く尾根や南西に張り出した丘陵上も城域だったとしているが、『能登中世城郭図面集』では遺構とは認定していないので、どちらが正なのかよくわからない。
主郭西辺の土塁→DSCN7811.JPG
DSCN7798.JPG←主郭西側の腰曲輪

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.113155/137.016624/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


能登中世城郭図面集

能登中世城郭図面集

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2021/04/25
  • メディア: 大型本


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向田城(石川県七尾市) [古城めぐり(石川)]

DSCN7725.JPG←北斜面の腰曲輪群
(2020年11月訪城)
 向田城は、南北朝史に現れる金頸城に比定されている。金頸城は、南北朝史の主軸を成す『太平記』には現れず、合戦に参加した武士の軍忠状に現れる。室町幕府の内訌「観応の擾乱」後の1353年8月28日、北朝方の能登守護吉見氏頼は、能登島の向田を本拠とする南朝方の長胤連討伐の為、嫡男修理亮詮頼を大将とする軍勢を能登島に侵攻させた。胤連の下には、将軍足利尊氏に反抗する元越中守護桃井直常の弟桃井兵庫助が能登での南朝勢力拡張のため派遣されていた。翌29日、吉見勢は胤連の館を焼き払い、胤連は金頸城に籠城した。同年9月、吉見勢は「一口駒崎」に陣取り、金頸城を包囲した(『得田文書』)。その後の経過は不明であるが、胤連はこの一連の合戦で討死したと推測されている。1355年、長胤連の一族家人が蜂起したため、3月17日、吉見氏頼は再び詮頼を大将に軍勢を能登島に派遣した。同月20日、胤連の残党は金頸城に追い込まれたが、長一族は激しく抵抗し、3ヵ月後の6月14日夜、ようやく金頸城は落城し、長一族は壊滅した(『天野文書』)。その後の金頸城(向田城)の歴史は不明だが、現在残る遺構から戦国期まで使用されたものと推測されている。

 向田城は、七尾北湾に突き出た標高44mの城ヶ鼻と呼ばれる岬の上に築かれている。岬の基部には現在県道257号線が貫通している。西側の県道沿いに駐車場があり、以前はそこに城の解説板があったらしいが、現在はなくなっている。岬の上にあるのが主郭であるが、登道はないので、急な斜面を無理やり登攀した。頂部に狭小な主郭があり、北側の斜面に腰曲輪群を築いている。腰曲輪群の北辺は尾根が天然の土塁として張り出しており、腰曲輪群は2つの尾根の間の谷状の部分に築かれている。また主郭の南東側にも帯曲輪があり、竪堀らしい地形も確認できる。主郭の南には細尾根が伸びている。一方、県道を挟んで南の尾根には三重堀切が穿たれ、そこから東斜面には三重竪堀が落ちている。その南に伸びる尾根の先にも外郭の曲輪があるらしいが、時間の都合で踏査しなかった。

 向田城は、遺構はよく残っているが、全体に薮が多く、特に主郭を中心とする岬の遺構は確認が大変だった。かつてあった解説板では、はるか南の尾根の先まで城域だったとしているようだが、『能登中世城郭図面集』では遺構とは認定していない。どうも能登の城は、神和住城と言い、天堂城と言い、実際の遺構が過去に作られた縄張図と合わない例があり、判断に苦しむ。
南尾根の三重竪堀の一部→DSCN7761.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.141914/137.009007/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


能登中世城郭図面集

能登中世城郭図面集

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2021/04/24
  • メディア: 大型本


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熊木城(石川県七尾市) [古城めぐり(石川)]

DSCN7618.JPG←北郭の畝状竪堀
(2020年11月訪城)
 熊木城は、七尾城主で能登守護畠山氏の家臣熊木氏の居城である。一説には、鎌倉初期に長氏の祖長谷部信連が居城したと言い、その後信連は穴水へ移ったと言う(『長家伝』)。一方、南北朝期には熊木荘を支配した熊木左近将監の居城となったとされる。1566年に畠山義綱が家臣団によって追放されると、熊木氏も義綱に従って能登を離れたと言う。しかし熊木氏の一族は熊木荘に残留していたらしく、1576年に上杉謙信が七尾城を攻撃した際、長綱連や熊木氏以下の畠山家臣団が七尾城に籠城している。上杉軍は富木城穴水城と共に熊木城を攻め落とし、三宝寺平四郎・斎藤帯刀・内藤久弥・七杉小伝次を熊木城に配した。翌77年3月、上杉謙信が一旦帰国すると七尾城方は反撃に転じ、同年5月には七尾の将兵を引き連れた長綱連が熊木城を囲んだ。甲斐荘家繁が謀略をもって斎藤氏を降し、七杉氏を自害させ、内藤・三宝寺氏を降して誅殺し、熊木城には仁岸石見を守将として置いた。閏7月、謙信が再び能登に出征すると、穴水城を攻撃していた綱連は七尾城へ引き返し、殿軍を熊木兵部が受け持った。兵部は七尾落城後、松波城に退いたが、9月に上杉勢と戦って討死した。一方、能登を制圧した上杉氏に服属した一族もいたが、1578年の謙信急死により能登の上杉勢力が弱体化すると、その混乱の中で熊木氏は滅亡したと推測されている。

 熊木城は、熊木川北岸の比高90m程の丘陵上に築かれている。100m程離れた北郭・南郭の2つの城域から構成されており、南郭が本城で、北郭が出城と推測される。南東麓から散策路が整備されているので、登るのは容易である。ただ、この城への登道は最初がわかりにくい。民家脇を北北東に伸びる農道を真直ぐ行ってしまうと、全く城から離れたところに行ってしまう。農道入口を民家の手前ですぐに左に入り、民家と民家の間を北側に入っていくのが正解である。畑の脇を抜けて、散策路を山林の中に入っていくと、最初に高台になった平地がある。この高台の入口は土塁を築いた虎口になっているので、ここも城下の一郭であったことがわかる。その先に行くと散策路は二股に分かれ、左側の「きゅう坂」を行くと南郭へ、右側の「だんだら坂」を行くと北郭へ到達する。
 北郭は単郭の砦で、円形の主郭を中心に、北東側に土橋を架けた堀切を穿ち、北斜面には畝状竪堀を築いている。この畝状竪堀は薮払いされているので形状がわかりやすい。主郭の南側には横堀を穿ち、北西側には腰曲輪を築き、南西に大手虎口を設けている。また主郭背後の堀切からやや離れて、もう1本北端の堀切を設けている。
 南郭は、大きく南北2郭に分かれ、主郭は周囲に土塁を築き、背後には二重堀切を穿っている。主郭背後の切岸は北郭のものより大きく、こちらの方が本城として防御を固めていたことがわかる。主郭の南側には空堀・竪堀で固めた馬出しが設けられ、やや変則的な枡形虎口が形成されている。そこから南西に降ると舌状の二ノ郭がある。二ノ郭の南西端には小掘切が穿たれている。南側は薮の多い自然地形で、ここにも畝状竪堀があるとされるが、よくわからなかった。

 熊木城は、規模的には土豪の築いた小城砦の域を出ないが、馬出しや畝状竪堀など、上杉氏による改修と思われる痕跡を残している。
北郭南側の横堀→DSCN7638.JPG
DSCN7658.JPG←南郭の二重堀切の内堀
南郭の馬出し→DSCN7677.JPG
DSCN7595.JPG←高台入口の虎口

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:【南郭】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/37.129751/136.844577/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【北郭】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/37.130881/136.844963/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

  • 作者: 佐伯哲也
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/08/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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馬場城(石川県輪島市) [古城めぐり(石川)]

DSCN7509.JPG←主郭背後の大堀切
(2020年11月訪城)
 馬場城は、能登守護畠山氏の重臣長氏の一族仁岸(饒石)石見守常清の城と伝えられている。常清は畠山義綱に仕え、2代與三右衛門常次は長連龍に仕え、1621年に没したと言う。

 馬場城は、標高105m、比高90mの城山に築かれている。明確な登道はないが、山の東側に入り込んだ谷筋を登る小道が北麓から付いており、それを奥まで進んだところで西側の山林内に分け入り、そのまま西の斜面を適当に直登すれば、城の南側の尾根に到達する。あとは尾根を北に辿れば堀切が現れ、城域に入れる。馬場城は山頂に主郭を置き、その北側斜面に幾重にも腰曲輪群を築いている。薮ではっきりしない部分もあるが、北東斜面にも何段も腰曲輪群がある様だ。腰曲輪を繋ぐ動線構造や、動線制約の竪堀も確認できる。主郭の西尾根に下っていくとここにも曲輪群があり、側方に竪堀1本がある。先端には小高くなった物見郭らしい峰があり、木々の向こうに日本海が見える。おそらく大手の登り道横の物見なのであろう。一方主郭の背後には大堀切が穿たれ、北東の腰曲輪から武者走りがこの堀切に通じている。更に南の尾根には小堀切が3本穿たれている。馬場城は、日本海の水運を監視する役目を負った小規模な城砦であったと思われる。
主郭→DSCN7515.JPG
DSCN7542.JPG←北斜面の腰曲輪群

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.228124/136.717976/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


能登中世城郭図面集

能登中世城郭図面集

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2021/04/21
  • メディア: 大型本


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姫ヶ城(石川県輪島市) [古城めぐり(石川)]

DSCN7474.JPG←堀切
(2020年11月訪城)
 姫ヶ城は、渡合城・興徳寺城とも言い、能登守護畠山氏の重臣で能登の有力国人であった長氏の一族三井氏の城であったと伝えられる。1487年の江州在陣衆の中に三井左京亮が見える。一方、三井町仏照寺縁起では、文明年間(1469~87年)に能登畠山氏の家臣で三井の城主温井備中の次男政貞が出家して興徳寺を号したと伝えている。この城のある三井郷は、長・温井両氏の勢力圏の接点に位置し、両者によって相次いで領有されたことがうかがわれる。

 姫ヶ城は、河原田川と中川の合流点の北西にそびえる、標高200m、比高110m程の山上に築かれている。東麓から登山道が整備されているが、山の北側にぐるりと回ってから南下して尾根に取り付くルートとなっており、城に到達するまでの距離は長い。ほぼ単郭の小規模な城砦で、ほぼ円形の主郭を中心に2段の腰曲輪が廻らされ、背後の西尾根に堀切を穿って分断している。主郭には四阿があり、公園となっているようだが、行った時には草茫々になっていた。また西の尾根には若干の起伏があり、現地解説板では狼煙穴とされるが、よくわからない。しかし城の構造から考えて、物見や狼煙台を主任務とした城であったと考えられる。
主郭周囲の腰曲輪→DSCN7487.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.325533/136.899465/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


石川県の歴史散歩

石川県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2010/07/01
  • メディア: 単行本


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天堂城(石川県輪島市) [古城めぐり(石川)]

DSCN7428.JPG←殿様屋敷
(2020年11月訪城)
 天堂城は、能登守護畠山氏の重臣温井氏の居城とされる。温井氏は、元々輪島の国人領主で、南北朝時代以降、大屋荘の地頭であった長氏の勢力が後退すると、次第に勢力を拡大したらしい。温井氏の初見は文明年間(1469~87年)と明応年間(1492~1501年)の神社棟札で、温井備中俊宗・代官温井彦右衛門尉為宗の名が見えると言う。俊宗の子孝宗は兵庫助を名乗り、能登守護畠山義統・義元・慶致・義総の4代に仕えたが、1531年の加賀一向一揆の内紛(享禄の錯乱)で、加州三ケ寺を支援した畠山氏の軍勢に加わって加賀に出陣し、河北郡太田の合戦で討死した。跡を継いだ総貞(備中入道紹春)は、畠山義総に文武の才を買われて重用された。義総が没して嫡子義続が跡を継ぐと、畠山氏の重臣層を巻き込んだ内訌を生じ、遊佐続光一党と温井一族が対立、七尾城を巡って攻防が繰り広げられた。1551年春頃、両派の和睦が成立して内乱が収束すると、主君義続は傀儡化され、畠山七人衆と呼ばれる重臣層による合議体制が成立した。その中では、温井備中入道紹春と遊佐美作守続光の二人が双璧であった。1554年頃、紹春はライバルの遊佐続光を越前に追って専権を確立した。しかし1556年、大名権力の回復を目指す畠山義綱は紹春を謀殺し、温井・三宅の一族は加賀に逃れた。間もなく温井一党は、加賀・能登の一向一揆と結んで能登復帰の軍事行動を開始したが敗退した。1560年に畠山義綱が重臣の遊佐続光・長続連らによって追放され、義綱の嫡男で幼い義慶が擁立されると、景隆を中心とする温井・三宅一族は帰参を赦された。その後、七尾城では幼主義慶を擁した温井景隆らの重臣が加賀・越中の一向一揆と手を組み、上杉謙信の能登進出に抵抗した。1577年、謙信は七尾城を攻囲し、遊佐続光を内応させて七尾城を攻略した。温井景隆とその弟三宅長盛も上杉氏に臣従したが、謙信没後の1579年、景隆らは織田信長に通じて上杉勢力を能登から追放し、七尾城奪還に成功した。景隆は七尾城を占拠した畠山氏旧臣勢力の主将となり、織田氏に服属した。1582年6月、信長が本能寺の変で横死すると、景隆は石動山天平寺の衆徒と結んで、能登に入部していた織田氏の部将前田利家に叛し、鹿島郡荒山峠の合戦で敗れ、温井氏は滅亡した。

 以上、長々と温井氏の事績を書き綴ったが、温井氏の居城とされる天堂城は、その存在自体がよくわからない。というのも、遺構とされる山中を歩き回ったが、明らかな城郭遺構が確認できないのである。天堂城は、鳳至川上流域の西岸にそびえる標高244mの丘陵一帯に築かれているとされる。『日本城郭大系』では多数の曲輪群を擁した大規模な城としており、今は失われた現地解説板にはその曲輪群の配置が記載されていたが、殿様屋敷・兵庫屋敷・本丸などを探索しても、平場はあっても畑、その他は自然地形で明確な遺構は確認できなかった。空堀とされるものも自然地形と考えた方が良さそうである。城内の各所に案内表示があるものの、どこも未整備で、余計に訳がわからない。結局、天堂城とされるものは城ではないのではないだろうか?謎の多い城である。
空堀とされる地形→DSCN7422.JPG

 お城評価(満点=五つ星):?(評価不能)
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.343038/136.868523/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


石川県の歴史 (県史)

石川県の歴史 (県史)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2014/01/01
  • メディア: 単行本


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神和住城(石川県能登町) [古城めぐり(石川)]

DSCN7381.JPG←主曲輪
(2020年11月訪城)
 神和住城は、歴史不詳の謎の城である。現地解説板によれば、戦国時代の1559年に、この地の土豪であった山本太郎右衛門が真念寺を小間生から神和住に招請し創建したと伝えていることから、山本氏がこの地の名主であり、この神和住城の旗頭であったと推定される、としている。しかし神和住城を城郭遺構とする見解には否定的意見もあり、佐伯氏の『能登中世城郭図面集』では城郭遺構と認定しておらず、神社仏閣などの宗教施設の可能性が高いとしている。

 神和住城は、真念寺の西側にある火之宮神社背後の丘陵中腹にある。この丘陵中腹はゴボジ(御坊地)と呼ばれていると言い、以前は登道が整備されていたようだが、現在は薮で埋もれているので、適当に薮をかき分けて尾根に取り付いて登った。薮がひどいのは入口付近と東部の遺構だけで、曲輪跡とされる中心部はそれほど薮が多くないので、状況の確認はできる。しかし各所に標柱が設置されているが、現地解説板にある城の概念図と現地の遺構形状がうまく合致しないので、どこを歩いているのかさっぱりわからなかった。一応、山腹を窪地状に造成した「曲輪(屋敷跡)」や、尾根の上を平らに削平した「主曲輪(物見台)」、堀状地形や「竪堀」とされる地形が見られるが、とても整然とした防御構造を構成しているようには感じられず、城っぽい普請ではない。佐伯氏が推測している通り宗教施設と考えた方が合っている感じがするがいかがであろうか?
窪地状の屋敷跡→DSCN7365.JPG
DSCN7395.JPG←竪堀とされる地形
坂虎口→DSCN7398.JPG

 お城評価(満点=五つ星):?(評価不能)
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.342526/137.062351/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


石川県の歴史散歩

石川県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2010/07/01
  • メディア: 単行本


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黒峰城(石川県珠洲市) [古城めぐり(石川)]

DSCN7241.JPG←主郭の土塁
(2020年11月訪城)
 黒峰城は、宝立山の南東の峰に築かれた山城である。伝承では阿部判官義宗が城主であったと伝えられるが、実在不明の伝説的人物とされる。天正年間(1573~92年)中期には上杉謙信の武将由井浄定が置かれたが、前田利家の軍勢によって落城したとも言われる。

 黒峰城は、標高436mの山上に築かれている。山の東の尾根まで車道が伸びており、その脇に城への登り口が明示され、登山道が整備されているので迷うことなく城まで行ける。この登山道は古くからの古道の一部で、黒峰城は古道を押さえるように築かれている。最高所に土塁で囲まれた五角形の主郭を置き、北に北郭、南東に二ノ郭を築いている。主郭は南北に虎口が構築され、北側では更にその外に食違いの土塁が築かれて食違い虎口が形成されている。またこの土塁のうち左手のものによって、主郭の北西側に横堀が形成されている。北郭の北端は物見台となってそびえ、その北尾根には二重堀切が穿たれている。二重堀切の形状はやや変則的で、外堀は内堀より高い位置に穿たれている。また内堀は、城の東西にある古道を繋ぐ切通し道となっている。主郭南東の二ノ郭は2~3段の平場に分かれ、東辺の一部に土塁を築いている。東端は物見台状に突出しており、そこからは飯田湾が一望でき、観光名所である見附島もよく見える。二ノ郭の西側は内枡形の様な空間を形成し、古道が通る下段の腰曲輪に通じている。この腰曲輪の西端には堀切と小郭が築かれ、小郭北側の古道沿いの斜面には畝状竪堀が穿たれている。この他、主城部から南に伸びる尾根には南郭群が置かれ、古道はその西側をすり抜けて南下し、南側で南郭群の下方を画する横堀状の切通し道となって下っている。

 黒峰城は、主城部が綺麗に整備されているので、整然とした遺構がよく分かる。また山上からの絶景も相俟って素晴らしい。畝状竪堀はやや薮が多いのが残念だが、古道を取り込んだ城の典型であり、見応えがある。能登の城で畝状竪堀と言えば、越後上杉氏の影響下の城であるので、黒峰城も上杉氏勢力が改修した戦国後期の城と考えるのが妥当であろう。
二ノ郭→DSCN7229.JPG
DSCN7270.JPG←畝状竪堀
北端の二重堀切→DSCN7254.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.420822/137.172450/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

  • 作者: 佐伯哲也
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/08/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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末次城(石川県能登町) [古城めぐり(石川)]

DSCN7115.JPG←主郭切岸と腰曲輪
(2020年11月訪城)
 末次城は、背継城・行延城とも言い、松波城の支城である。この地の土豪末次甚右衛門が城主で、1577年の上杉謙信による能登攻略の際に落城したと言われ、同年9月の松波城の落城と共に末次城も落城したと推測されている。

 末次城は、松波と宇出津を繋ぐ街道の東に張り出した丘陵上に築かれている。北西に突き出た丘陵全体を城域とした広域の城である。『能登中世城郭図面集』の佐伯氏は、主要部以外は自然地形か耕作地と判断して縄張図に載せていないが、実際に歩いてみるとそれでは説明つかないような平場や堀切状地形があるので、解説板の縄張図で示された城域が正しいものとして説明する。北麓に城主末裔の末次家の居宅があり、その脇から散策路が整備されている。各所に細かく標柱があるので、迷うことはない。城の中心となるのが周囲から切岸でそびえる主郭で、ほぼ長円形をしており、城址石碑が立っている。主郭の東側に鞍部の平地があり、東の2郭や南東に伸びる6郭・狼煙台へ通じる道の交差点のようになっている。前述の登り口から北大手口方面に登っていくと、ここに至る。この鞍部の平地の北には谷があり、現地表示では大竪堀とされているが、見た限りではほぼ自然地形のようである。「二の丸木戸口」「虎口」などの表示もあるが、これも明確な遺構は見られない。鞍部の平地の北東に一段高くなった平場が2郭とされ、ほぼ自然地形であるが城内では最も広い面積を有する。城主末次氏と共に木郎郷の郷士・郷民が立て籠もって戦ったと伝えられる城であるので、2郭は村民の避難区であったかもしれない。2郭の北側には舌状曲輪が突き出し、2郭の北東には堀切状地形と、一段低い5郭があるが、普請がささやかで自然地形との区別が難しい。その先はやはり大竪堀と表記される自然の谷があり、東大手口となっている。一方、主郭の南には幅広の堀切地形を挟んで3郭がある。この堀切地形の東西に竪堀が落ち、特に東側のものは二重竪堀となっている。3郭も長円形の曲輪で、南側に一段低い腰曲輪を伴っている。現地表示では空堀となっているが、現状からでは腰曲輪に見える。3郭の西には段曲輪の下に堀切があり、その西に4郭がある。3郭の南下方には空堀が穿たれ、鞍部の先に南出曲輪がある。物見台的な小郭である。主郭から3郭にかけての東側には腰曲輪があり、墓地となっていて、「軍勢駐屯場(陣屋)」の表示がある。前述の鞍部の平地から南東に伸びる尾根には外郭群があり、尾根の僅かな段差部には土塁の表示がある。その先は6郭とされ、自然の尾根だが両側に腰曲輪らしい平場がある。6郭の先に狼煙台と表示のある曲輪があり、北に突き出た平場の周囲に土塁が廻らされ、付け根には堀切が穿たれている。このあたりは明確な普請の形跡が見られる。
 以上が末次城の概要で、地元の有志の人達の手でよく整備されており、大事にされている城址である。
二重竪堀→DSCN7124.JPG
DSCN7166.JPG←3郭南の空堀
狼煙台の土塁→DSCN7095.JPG
DSCN7102.JPG←狼煙台付け根の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.333825/137.208821/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


能登中世城郭図面集

能登中世城郭図面集

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2021/04/18
  • メディア: 大型本


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寺家砂田館(石川県羽咋市) [古城めぐり(石川)]

IMG_1600.JPG←館跡の現況
 寺家砂田館は、歴史不詳の城館である。昭和55年に能登海浜有料道路(現在ののと里山海道)建設に伴って発掘調査が行われている。寺家砂田館は中世の居館跡であるが、それを含む寺家遺跡は奈良・平安時代を中心とした広大な祭祀遺構であり、その祭祀場を整地して中世居館が築造されたことが判明している。館跡が古代の祭祀と関連があるかは不明であるが、能登一の宮である気多大社が近いので、神官を中心とした有力勢力の居館であった可能性や、より一般的な初期武士団などの領主層の居館の可能性が考えられている。

 寺家砂田館は、のと里山海道の西側にあったらしい。以前は草むらの中に解説板が立っていたらしいが、昨年8月に訪問したところ、一部は工事が行われており、解説板も見つけることができなかった。発掘後は埋め戻されているはずなので、解説板がなければその存在を知ることもできない状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.920752/136.773477/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武士の起源を解きあかす――混血する古代、創発される中世 (ちくま新書)

武士の起源を解きあかす――混血する古代、創発される中世 (ちくま新書)

  • 作者: 桃崎 有一郎
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2018/11/06
  • メディア: 新書


タグ:居館
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田鶴浜館(石川県七尾市) [古城めぐり(石川)]

IMG_1337.JPG←境内に残る土塁
 田鶴浜館は、七尾城主能登畠山氏の家臣から前田利家の与力となった長連龍の居館である。連龍の事績については穴水城の項に記載する。織田軍の尖兵となって能登で奮戦した連龍は、1580年に信長より鹿島半郡を与えられ、福水城を居城とすることを認められた。次いで徳丸城に居城を移し、その後田鶴浜館を築館して居住したとされる。この地は、元は能登畠山氏の家臣天野加賀守が居住したところであったらしい。連龍の田鶴浜館への移動は、通説では1606年とされているが、佐伯哲也氏は『能登中世城郭図面集』の中で疑問を呈しており、前後の状況から1582年頃まで遡るとの説を提示している。いずれにしても、以後長氏相伝の居館となり、1671年尚連の時に金沢城下に居所を移し、田鶴浜館は廃館となった。

 田鶴浜館は、現在は得源寺の境内となっている。かなり改変されているらしく、現在残る遺構は本堂の北東に残る1本の土塁だけである。尚、寺の北側に広がる町屋は「殿町」と言い、長家家臣団の屋敷跡とされる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.060485/136.886644/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


能登中世城郭図面集

能登中世城郭図面集

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2015/08
  • メディア: 大型本


タグ:居館
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長正連館(石川県輪島市) [古城めぐり(石川)]

IMG_1272.JPG←中央の一段高い水田が館跡
                          奥の山が荒屋城
 長正連館は、長氏八8代正連の居館と伝えられる。北西の山上には詰城の荒屋城が築かれている。正連は後に穴水城を築いて居城を移したと言う。
 長正連館は、荒屋地区の水田となっている。特に目印もなく、標柱もないので、場所は非常にわかりにくく、周囲より一段高くなった水田の南端に小さなお堂が建っているだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.272584/136.846476/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


能登中世城郭図面集

能登中世城郭図面集

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2015/08
  • メディア: 大型本


タグ:居館
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平時忠館(石川県珠洲市) [古城めぐり(石川)]

IMG_1179.JPG←平時忠とその一族の墓所
 平時忠館は、この地に流された平時忠の配流先の居館である。時忠は代々朝廷に仕えた公家で、平家一門随一の実力者で、知略家として知られた。その姉時子は平清盛の妻となり、妹滋子は後白河天皇の女御となって高倉天皇を生んだことから権勢を振るい、権大納言に任じられ、平大納言と称せられた。有名な「平家にあらずんば人にあらず」は時忠の言とされる。壇ノ浦の合戦で捕らえられ、能登に流罪となった。

 平時忠館は、国道249号線南側の則貞という谷地にあったとされる。付近には斜面にも平場が見られ、民家の建つ敷地もあるが、どこに居館があったのかは明確にはできない。付近には、時忠とその一族のものと伝えられる五輪塔群があり、県の史跡に指定されている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.488225/137.195249/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


北陸平家物語紀行―伝承が彩る歴史といま

北陸平家物語紀行―伝承が彩る歴史といま

  • 作者: 細井 勝
  • 出版社/メーカー: 北國新聞社出版局
  • 発売日: 2011/12/30
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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勅使館(石川県加賀市) [古城めぐり(石川)]

IMG_9921.JPG←雑草で覆われた北郭東堀
 勅使館は、平安末期~南北朝期にかけての豪族の居館である。館主は勅使河原右京或いは河原四郎左衛門の名が挙げられているが定かではない。古代の皇室領である「勅旨田」がこの地域にあったことが平安後期の文献から判明しており、勅使館はこの勅旨田を管理していた豪族の居館と推測されている。

 勅使館は、勅使小学校とその周囲に築かれていた。小学校の移転新築に伴う発掘調査が昭和54~5年に行われ、その結果南北に北郭・内郭・南郭を連ね、その東側に大きな東郭を置いた、複郭式の居館であったことが判明している。現在は発掘復元された北郭東堀と内郭北堀が見学でき、その南西に掘立柱建物跡が表示されている。堀跡の周りには石積みも復元されているが、訪問したのが盛夏だったので、石積みは雑草でほとんど見えなかった。最近は規制の多い小学校敷地であるが、見学できるように開放されているのはありがたい。
 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.303834/136.389105/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の山城を極める

戦国の山城を極める

  • 作者: 加藤理文
  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2019/09/12
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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本折城(石川県小松市) [古城めぐり(石川)]

IMG_9784.JPG←城域とされる本光寺
 本折城は、加賀守護富樫氏の家臣本折氏の居城である。本折氏の事績はあまり明瞭ではないが、1441年の管領「細川左京大夫持之判書」(摂津家文書)には本折但馬入道父子、1445年の管領「細川右京大夫勝元判書」に本折氏の名、『官知論』の高尾城落城の条に降伏後に斬死した本折越前守、1552年に富樫氏の被官として本折治部少輔など、断片的に記録が残されている。本折城の歴史も断片的で、1531年の朝倉勢による加賀攻撃の際、朝倉宗滴(教景)が本折に陣したと伝えられ、1564年には朝倉義景によって小松城と共に攻略された。1577年には滝川左近将監らの織田勢によって、小松・本折・安宅などの諸城が焼き打ちされ、1580年にも柴田勝家率いる織田勢によって本折城に火が放たれたと伝えられる。

 本折城は、小松城の南方1.7km程の位置にある。遺構はなく、城の位置も定かではないが、本折町を中心とする本光寺を含む一帯にあったと考えられているらしい。完全に市街化しているので、城跡らしさは微塵も見られない。本光寺の解説板にも城の記載はない。
 尚、本光寺の南にやや離れたところの駐車場脇に、一向一揆衆の湯浅九郎兵衛と言う土豪の墓がある。1506年に一向宗徒が蜂起して朝倉貞景を攻撃した際、湯浅九郎兵衛は本願寺に呼応して一方の将となって奮戦したと言う。本折城と関係があるかどうかは不明。
湯浅九郎兵衛の墓→IMG_9794.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:【本光寺】https://maps.gsi.go.jp/#16/36.398608/136.449380/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


北陸の戦国時代と一揆

北陸の戦国時代と一揆

  • 作者: 竹間 芳明
  • 出版社/メーカー: 高志書院
  • 発売日: 2012/06
  • メディア: 単行本


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千代城(石川県小松市) [古城めぐり(石川)]

IMG_9782.JPG←主郭付近の現況
 千代城は、加賀一向一揆が築いた城である。一説には1562年に築かれたと言われ、城主は徳田志摩の名が伝わっている。1580年に織田信長の部将柴田勝家が加賀一向一揆を殲滅すると、勝家の家臣拝郷五郎左衛門家嘉が城将となった。1600年、浅井畷の戦いで知られる慶長の役の際には、金沢城主前田利長は前田良継・寺西秀澄らを千代城に置き、小松城を牽制させたと言う。

 千代城は、梯川と鍋谷川の合流点北側の平地に築かれている。千代町集落中程にある八幡神社付近が城跡で、神社境内が二ノ郭、その西側が主郭であったらしい。現在は宅地化で遺構は完全に湮滅している。平城のため城跡らしさは全く残っておらず、城址石碑もないが、八幡神社の由緒を刻んだ石碑に千代城のことが数行だけ記載されている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.410697/136.492767/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

  • 作者: 佐伯哲也
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/08/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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安吉城(石川県白山市) [古城めぐり(石川)]

IMG_9768.JPG←城址石碑
 安吉城は、1487年に加賀一向一揆の武将安吉源左衛門尉家長によって築かれた城である。家長は、元は大窪姓であったが、安吉城と築いて入部すると安吉氏を称した。安吉・吉田本郷を中心とした地域の一向宗門徒の集団「河原組」を率いており、1488年に加賀守護富樫政親を一向宗の大軍が高尾城に包囲した際、一揆軍の中に「河原組」を率いる家長の名が見えると言う。1550年に家長は出家し、家宰窪田大炊介経忠に城を譲った。経忠の後は窪田大炊允綱盛が継ぎ、本願寺派に属し、加賀国総代となり一向一揆軍を率いて活躍した。しかし1580年、織田信長の部将柴田勝家の軍勢に敗れ、安吉城は落城した。勝家が安土城の信長の元に送った加賀一向宗指導者達19人の首級の中に、窪田大炊頭の名が伝えられている。

 安吉城は、安吉町集落の南端、大慶寺用水の北側にあったらしい。現在は宅地化・耕地化で遺構は完全に湮滅している。わずかに山島公民館前に城址石碑が建っているだけである。よく見ると公民館南に土盛りの茂みがあり、土塁の遺構の様にも見えるが、どうであろうか?

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.483537/136.565530/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


加賀中世城郭図面集

加賀中世城郭図面集

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2017/05
  • メディア: 大型本


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棚木城(石川県能登町) [古城めぐり(石川)]

IMG_8230.JPG←公園内の堀切らしい地形
 棚木城は、この地を領した棚木氏の居城であったと伝えられる。棚木氏の出自には諸説ある様で、長光連の弟が棚木左近を称したとも、能登畠山氏3代義統の2男が棚木左門を称したとも言われ、明確にできない。後に棚木城に入城する長景連は、その先祖連之が棚木氏から長氏宗家に入嗣し、その後の家中の内訌で越後上杉氏を頼って出奔したとされる。1576年に上杉謙信が能登に侵攻した際には、他の能登諸城と同様に棚木城も攻略されたと言われるが、これも明確ではない様だ。いずれにしても棚木城が歴史の表舞台に出るのは戦国末期のことで、1579年に正院川尻城を逐われた上杉氏の部将・長景連は、1582年、兵船を率いて再び奥能登に攻め込んで、棚木城を攻略して立て籠もったが、織田信長の部将前田利家の与力となっていた長氏嫡流の長連龍に撃退され、川尻まで逃げてきたところで百姓の襲撃に遭って討ち取られたと伝えられる。

 棚木城は、宇出津港の南東に突き出た標高28mの半島に築かれている。現在城跡は遠島山公園となり、大きく改変されてしまっている様で、城郭遺構らしいものは極めて少ない。半島内は起伏のある地形で、ほとんどが自然地形の様に見受けられる。しかし、半島の突端まで行く途中に堀切や片堀切らしいものがあり、また谷の様な空堀らしい地形も見られる。入口案内板には地図上に本丸跡の表記があるが、かつてはあったらしい標柱が現地では失われており、どこが主郭であったのかもはっきりせず、曲輪の形状もよくわからない。この他、落城伝説にまつわる米流し坂という竪堀のようなものがある。公園入口付近には、馬洗池というものもあった様だが、現在は駐車場の真ん中に公園整備で作られた水溜りがあるだけで、遺構とは見做し難い。城跡北側の入り江は舟隠しと呼ばれる船溜まりであったらしい。
 棚木城は、歴史にも不明点が多いが、遺構に関してもかなり不分明な状態で、かなり残念である。しかしその立地からは、水軍の拠点としての海城であったことは想像に難くない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.300395/137.160680/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


能登中世城郭図面集

能登中世城郭図面集

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2015/08
  • メディア: 大型本


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正院川尻城(石川県珠洲市) [古城めぐり(石川)]

IMG_8111.JPG←五ノ郭北西部の切岸
 正院川尻城は、上杉謙信の家臣で穴水城主長氏の庶流、長景連が拠点とした城である。長氏は、源平争乱期(治承・寿永の乱)に勇名を馳せて鎌倉幕府の御家人に列した長谷部信連を祖とする。信連は、源頼朝から能登国大屋荘を賜り、能登に入部した。その後、長谷部を長に改め、能登の有力国人となり、その子孫は能登各地に勢力を広げた。鎌倉時代後期には正院周辺は庶流の長川尻氏が領するようになり、その支配拠点として川尻氏によって正院川尻城が築かれたと推測されている。1576年、上杉謙信は能登に侵攻し、翌77年に七尾城を攻略して能登全域を制圧した。謙信の家臣長景連はこの戦いの中で川尻城を攻略し、川尻氏は没落した。景連は、珠洲郡支配の拠点としてそのまま川尻城に在城した。景連は、長氏の庶流長連之の子孫で、この一族は長氏家中の内訌によって、上杉家を頼って越後に落ち延びたものらしい。越後黒滝に住んだので黒滝長氏と称される。1578年に謙信が急死して上杉氏の勢力が減退すると、1579年には織田信長の勢力が能登を圧し、能登畠山氏の旧臣温井景隆・三宅長盛らによって七尾城将鯵坂長実が追放されると、能登各地の上杉氏勢力は駆逐されていった。景連は鹿野の浜の合戦で温井勢に敗れ、越後に撤退した。1582年、景連は兵船を率いて再び奥能登に攻め込んで、棚木城を攻略して立て籠もったが、織田信長の部将前田利家の与力となっていた長氏嫡流の長連龍に撃退され、川尻まで逃げてきたところで百姓の襲撃に遭って討ち取られたと伝えられる。これ以後、川尻城は廃城となったと考えられる。

 正院川尻城は、正院町東側の標高34mの台地上に築かれている。拠点城郭らしく、城域は広大で、台地上に広く曲輪が分布している。城へは登り口が幾つかある様だが、一番わかり易いのは城の南にある「うじま公園」の西側駐車場(城址解説板はこの脇にある)からまっすぐ北に向かったところで、県道脇に登り口の小さな標識が出ている。解説板の縄張図によれば、台地の南西角にニノ郭、その東に主郭、これらの北に横長の三ノ郭、その東に四ノ郭、三ノ郭の北に五ノ郭が配置され、それぞれの曲輪は空堀で分断され、更に腰曲輪を各所に配置した縄張りとなっている。一応、登り口から主郭まで散策路があるが、現在城内は1/3ほどが畑、残りは山林や薮(一部は耕作放棄地)に覆われている。畑地等になったため改変が進んでいる部分も多く、空堀も明確なのは山林の中にある一部であり、畑地の中の堀は埋められたのか、かなり浅くなってしまっている。空堀は基本的に直線形で、横矢掛りの張出しは三ノ郭の南辺など一部に設けられているだけである。城内で一番薮がひどいのはニノ郭で、南西角にある櫓台まで辿り着くのが大変だった。この他、二ノ郭南と三ノ郭北西の腰曲輪西側に切通し状の虎口が確認できた。城の南東からの登り口付近も虎口とされ、ここも切通し状になっているので、どうやらこの城は、虎口を切り通しにして狭めることで、敵の侵入を防ぐ構造だったらしい。この他にも、北西にやや離れた独立丘にも出丸があるらしいが、時間の関係で省略した。正院川尻城は大きな城ではあるが、遺構面では目立った特色がなく、薮に埋もれているせいもあって少々見劣りするのが残念である。
三ノ郭~四ノ郭間の空堀→IMG_8092.JPG
IMG_8107.JPG←三ノ郭腰曲輪の切通し状虎口

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.444318/137.300069/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国廃城紀行: 敗者の城を探る (河出文庫)

戦国廃城紀行: 敗者の城を探る (河出文庫)

  • 作者: 澤宮優
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2019/06/05
  • メディア: 文庫


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飯田城(石川県珠洲市) [古城めぐり(石川)]

IMG_8039a.JPG←北西斜面の畝状竪堀
 飯田城は、飯田氏の城と言われている。天正年間(1573~92年)の城主の名として、飯田与三右衛門長家の名が伝わっている。飯田氏は、この地を領した土豪であったとも、越後の飯田与七郎の同族とも言われる。いずれにしても1577年に上杉謙信が能登を制圧すると、正院川尻城に入った上杉氏家臣長景連に属した。しかし翌78年に謙信が急死して上杉氏の勢力が減退すると、1579年には織田信長の勢力が能登を圧し、温井景隆・三宅長盛らによって七尾城将鯵坂長実が追放されると、能登各地の上杉氏勢力は駆逐されていった。この中で飯田城も落城して、長家は越後へ逃れたと考えられている。

 飯田城は、飯田港の北に位置する標高40m程の丘陵上に築かれている。東麓に津波避難階段があり、以前はそこから城に登れたらしいが、現在は鍵で閉鎖されている。地元の方の話では、山の地主さんが倒木などで危ないからと使用を断ったとのことである。結局登り口がわからず、西側の斜面を薮をかき分けて直登した。主郭は頂部にあるが、大きな長円形の平場の中に高台となった方形の2郭を並べる珍しい形で、これら全体を主郭と見做している人も多いが、私は中央の2郭の内、南側の高い方を主郭、北側の低い方をニノ郭、その周りを取り巻いている平場をこれらの腰曲輪と解釈した。主郭とニノ郭の間は、広幅で浅い堀切を設けて区画している。堀切の南側は窪地になっており、虎口があった様である。これら城の中心部下方の西から北を巡って東にかけて、延々と腰曲輪が築かれている。この腰曲輪には北西部と東部に比較的大型の畝状竪堀が築かれている。この畝状竪堀は、上杉氏支配時代に構築されたものと推測されている。また城中心部の南東には、切岸の下に三ノ郭がある。三ノ郭は、南北に連なる3つの平場で構成され、これらは段差で区切られ、真ん中の平場が一番高くなっている。三ノ郭には前述の東側の腰曲輪と城道が通じている。三ノ郭の南には小堀切が穿たれ、その先に伸びる尾根筋にも曲輪群と、堀切が穿たれている。この堀切は鋭さがあり、中央に土橋を架け、内側に土塁が築かれて防御性を向上させている。一方、城中心部の北は腰曲輪がそのまま堀切に変化し、その北に物見台の様な北出曲輪が構築されている。この他、南尾根の西側の谷筋にも曲輪群があるらしいが、薮がひどかったので未確認である。飯田城は、萩城よりは規模が大きいが、やはり比較的少数の兵で守れる様に畝状竪堀で防御性を増した城である。
二ノ郭から見た堀切と主郭→IMG_8014.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.439395/137.261617/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


能登中世城郭図面集

能登中世城郭図面集

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2015/08
  • メディア: 大型本


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萩城(石川県珠洲市) [古城めぐり(石川)]

IMG_7870.JPG←主郭西側の畝状竪堀
 萩城は、歴史不詳の城である。地元では黒峰城の出城との伝承があるらしいが、飯田城の支城との説もある。畝状竪堀があることから、天正年間(1573~92年)に上杉勢によって改修された城と推測されている。

 萩城は、飯田湾の海岸線に近い標高40m程の丘陵上に築かれている。尾根南端に登り口があり、そこから山上まで小道が付いている。城内は、間伐など人の手が入っているので遺構が見やすい。峰の頂部に主郭を置き、南の尾根筋には主郭の前面とその前に築かれた前郭の前とに、2本の堀切を穿ち、主郭背後も堀切で分断している。南の尾根筋の堀切には、いずれも中央に土橋が架かっているが、主郭前面の堀切は幅が広く、より防御性を持たせている。主郭には朽ちかけた神社の社殿があり、主郭の西斜面には、横堀が穿たれ、そこから比較的大きな畝状竪堀が落ちている。またこの主城から90m程尾根を北に行った先に出城がある。出城は方形の曲輪の背後に横矢の掛かった堀切が穿たれている。堀切背後の尾根も曲輪だった可能性があるが、出城全体が薮が多くて判然としない。萩城は小規模で簡素な城であるが、普請はしっかりしており、少人数の兵で守ることを想定した城だった様である。
出城の堀切→IMG_7914.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:【本城】https://maps.gsi.go.jp/#16/37.422194/137.243464/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【出城】https://maps.gsi.go.jp/#16/37.422773/137.242863/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 日本の城

ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 日本の城

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2018/06/19
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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松波城(石川県能登町) [古城めぐり(石川)]

IMG_7770.JPG←景勝台西側の堀切
 松波城は、能登守護畠山氏の庶流松波畠山氏の居城である。1474年に能登畠山氏3代義統の3男義智が北能登の支配拠点として松波に入部し、松波城を築いたと言われる。以後6代、100余年にわたって松波一帯3800余貫を領した。松波畠山氏は代々常陸介を称し、5代義龍の時から松波氏を称した。1577年6月、七尾城から上杉謙信来攻の急報を受け、松波義親は家臣の生森長右衛門を城代として残し、自身は七尾城に向かって立て籠もった。しかし同年9月には遊佐続光の上杉方への内応により七尾城落城が免れ難いことを知り、弟丹波守義行・部将神保周防・河野肥前・熊木兵部らを引き連れて七尾城を脱出して松波城に戻った。攻め寄せた謙信の部将長沢筑前光国率いる700~1000余人の軍と激しい籠城戦を展開し、神保・熊木両名は討死し、義親も負傷したため自刃した。こうして松波城は上杉軍に攻略された。尚、義親の子連親は越後に母といたため無事で、長連龍に仕え、その子孫は加賀八家と呼ばれる加賀前田藩の重臣の一、長家の家臣として存続した。

 松波城は、松波漁港を間近に望む標高25mの丘陵東端部に築かれている。現在は解体されてなくなっているが、以前は主郭跡とされる平場に武道館が建っていたらしい。武道館建設時の改変・湮滅もあるのか、主郭背後に当たる西側には土塁・堀切などが見られず、どこまでが城域であったのか判然としない。主郭部分では、その東辺に石積みを伴った土塁が残っているのが唯一の明確な遺構と思われるが、これも中世の遺構にしては形が整いすぎており本当に遺構か疑問に思うところもある。主郭の東側には北に張り出した平場があり、その南東がニノ郭とされるが、ここもただの平場である。ただ外周には腰曲輪らしい平場が数段見られるので、曲輪であったことは間違いないのだろう。二ノ郭の東下方が三ノ郭とされ、ここに庭園遺構が発掘されているが、現在はブルーシートで覆われている(もう何年も前から同じ状態らしい)。三ノ郭東端には大手門跡の石碑が立っている。この東は堀切があったと思われるが、かつてのと鉄道が通っており(現在は廃線)、線路敷設のため大きく削られてしまったので、往時の規模は不明である。三ノ郭の北側には、この堀切沿いに土塁で囲まれた物見台の様な小郭がある。堀切の東側には、2つの高台(曲輪)が堀切を介して並んでおり、この城域先端部付近だけは城跡らしさが残っている。東側の先端郭が景勝台と呼ばれ、また「音川亭(鳳祥斎)址」の碑が立っている。ここも発掘調査中の様な感じだが、ブルーシートも掛けられず野晒しになっている。先端の2郭の周りには腰曲輪が築かれ、景勝台の北側には規模は小さいが横堀と土塁が築かれている。以上が遺構の状況で、松波城は守護家の一族の城であった割には縄張りがあまりにざっくりしすぎており、縄張りがよくわからない城というのが正直なところで、残念である。また発掘調査中のところは長年放置されているようなので、今後どうしていくつもりなのか、現状を見る限り不安を感じてしまう。
庭園跡の現況→IMG_7752.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.355132/137.238507/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


大坂の庭園―太閤の城と町人文化 (学術選書)

大坂の庭園―太閤の城と町人文化 (学術選書)

  • 作者: 飛田 範夫
  • 出版社/メーカー: 京都大学学術出版会
  • 発売日: 2012/07
  • メディア: 単行本


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甲山城(石川県穴水町) [古城めぐり(石川)]

IMG_7675.JPG←主郭切岸と空堀
 甲山城は、能登に侵攻した上杉勢が占拠した城である。天正年間(1573~92年)の始め、平楽(たいらく)右衛門尉が居城したと伝えられるが、一説には越後の平子(たいらく)氏の誤伝とも言われる。1576年、上杉謙信は能登に侵攻して七尾城を攻めたが容易に落ちず、長期攻囲戦のため能登一円の城を占領して部将を配置した。甲山城も上杉勢に攻略され、上杉氏家臣の轡田肥後・平子和泉・唐人式部が城将として配された。1578年には、長連龍の穴水城奪回戦の際、穴水城を守る越後勢を救援するため、上杉方の管轄下にあった棚木・甲山両城から加勢の軍兵が船で穴水城に向かったと言う。謙信の急死後、上杉氏が弱体化すると、1579年に温井景隆・三宅長盛らが甲山城に攻め寄せ、城は落城し、轡田氏らは攻め滅ぼされた。その後甲山城は温井氏の管理下に置かれた。1580年、前田利家が能登を領すると、甲山城はその支配下になった。

 甲山城は、甲港の入江に面した標高約20mの丘陵の東端部に築かれている。城のすぐ南を県道34号線が通っており、県道脇の山林に足を踏み入れるとすぐに外郭の空堀が目の前に横たわっている。城域の北東角に土塁と空堀で台地と分断された主郭を置き、その周囲も曲輪としている。主郭は南辺に横矢のクランクを設けている。主郭周囲の曲輪は、いくつかの曲輪に分かれていたと思われるが、前述の県道脇の空堀が途中で埋まっており、その形状を明確に知ることはできない。そこでここでは一括して「外郭」と総称する。外郭の南から西にかけて空堀が残っており、西側はかなり埋もれて浅くなっているが、南のものはしっかりと残っており、横矢掛りの屈曲も明確である。この空堀は南中央のクランク部から北側にも分岐して伸び、ここにも横矢のクランクが設けられている。この他、北西部に櫓台を備えた空堀があり、虎口であったと推測されているようだが、薮がひどくて形状があまり明瞭には確認できなかった。甲山城は、この地域では珍しい、横矢掛りを多用した崖端城で貴重である。しかし残念ながら、城内は薮が多く歩きにくく、遺構の確認も少々骨が折れる。
外郭空堀のクランク→IMG_7703.JPG
IMG_7716.JPG←北西虎口の櫓台

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.203569/137.025239/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

  • 作者: 佐伯哲也
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/08/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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穴水城(石川県穴水町) [古城めぐり(石川)]

IMG_7582.JPG←主郭から見たニノ郭
 穴水城は、七尾城主能登畠山氏の重臣長氏の居城である。長氏は、源平争乱期(治承・寿永の乱)に勇名を馳せて鎌倉幕府の御家人に列した長谷部信連を祖とする。信連は、源頼朝から能登国大屋荘を賜り、能登に入部した。その後、長谷部を長に改め、能登の有力国人となった。室町時代前期には将軍家奉公衆となり、能登守護家に対して独立を維持していたが、能登守護が吉見氏から畠山氏に変わると、やがて畠山氏の家臣となった。長氏の惣領家(九郎左衛門家)は鎌倉時代には輪島に本拠を置いていたらしいが、南北朝期に櫛比荘に移り、更に南北朝末期の8代正連の時に穴水城を築いて移ったとされる。以後穴水城は、21代連龍に至るまで長氏惣領家歴代の居城となった。戦国後期の1576年、能登に侵攻して七尾城を囲んだ上杉謙信は、七尾城を孤立させるために能登各地の城を攻略して配下の武将を配置した。穴水城も、城主長綱連が七尾城に詰めて不在であった間に落城させて、家臣の長沢筑前・白小田善兵衛を守将として置いたと言う。しかし小田原北条氏の軍勢が越後に侵攻するとの急報を受けて、謙信は一部の軍勢を残して一旦引き上げた為、七尾城の畠山勢は攻撃に転じ、翌77年5月、綱連は穴水城奪還のためにこれを包囲した。しかし閏7月に謙信が再度能登に侵攻すると、綱連は囲みを解いて七尾城に戻った。綱連は親織田派で、弟の連龍を城外に脱出させて織田軍の救援を求めたが、遊佐続光・温井景隆・三宅長盛らは謙信の調略を受けて内応し、続光の手引きで城内に入った上杉勢は七尾城を攻略し、長氏一族一類百余人を悉く滅ぼした。ただ一人生き残った連龍は、織田信長の支援を得て御家を再興し、上杉方に奪われた穴水城の奪回戦を展開した。そして1578年8月、穴水城を攻略して奪回を果たした。その後も連龍は、一族の仇である上杉勢や温井景隆・三宅長盛ら畠山旧臣勢力と能登各地で戦いを続けて、織田方の尖兵として活躍し、遂に七尾城の温井氏らは信長に七尾城の明け渡しを願い出た。信長はこれを許して徳山則秀を能登へ下向させ、一方の連龍には鹿島半郡の領有を認めた。その後、能登一国は前田利家に与えられ、連龍は信長の命で利家の与力となった。これに伴って穴水城は前田氏の支城となり、1583年まで使用されていたことが古文書から確認される。しかしその後、役目を終えて廃城となった。

 穴水城は、穴水港に面した標高61.8mの丘陵上に築かれている。城の中心部は西に向かってY字に開いた地形にあり、真ん中が主郭、南西に伸びた舌状曲輪がニノ郭、北西に伸びた舌状曲輪が三ノ郭と思われる(現地標柱では、二ノ郭の下段を「伝三の丸」としている)。これらの曲輪には堀切がなく、段差だけで区画されている。またそれぞれ外周に腰曲輪を伴い、Y字分岐部の真ん中にも腰曲輪群が築かれている。ニノ郭下段の南東尾根には段曲輪群がある様だが、薮でよくわからない。主郭の北東には広い平場があり、『能登中世城郭図面集』では城主一族の屋敷地と推測している。この平場の北東は高台となり、曲輪群の平場が確認できるので外郭に相当するのだろう。東の尾根には浅い箱堀状の堀切が穿たれている。この他、主郭の南にも細長く張り出した南郭がある。穴水城は、有力国人・長氏の本城とは言うものの、居館的機能を主としたらしく、厳重な防御構造はあまり見られない。古い形態をそのまま戦国時代末まで引きずった城だった様である。なお、主郭・ニノ郭は公園化され、一部遊歩道もあるが、ほとんどの遺構は未整備の薮に埋もれてしまっている。主郭裏まで車で来れるのが救いである。
東尾根の堀切→IMG_7603.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.230140/136.914389/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


能登中世城郭図面集

能登中世城郭図面集

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2015/08
  • メディア: 大型本


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七尾城 その2(石川県七尾市) [古城めぐり(石川)]

IMG_7516a.JPG←物見台の畝状竪堀
 七尾城には、2004年に訪れているが、当時は縄張りなどのネットの情報が少ない上に、私自身まだ山城初心者の頃であったので、散策路のある主要部以外は遺構を見逃していた。また相方が以前から七尾城に行きたがってこともあり、5月連休の石川城巡りの中で再訪をした。今回は主要部以外にも、支群と呼ばれる支尾根の曲輪群や、本丸裏の長屋敷、そして最大の目的である物見台にある畝状竪堀の踏査を行った。

 まず支尾根に築かれた支群で踏査したのは、城平支群と善谷支群、それと稗子畑支群である。城平支群と善谷支群は便宜上分けられているが、実質的には一つの尾根続きに築かれた曲輪群で、上部が城平支群、下部が善谷支群となっている。ここへ行くには、桜馬場から西側の、道が消失した斜面をトラバースしつつ降っていき、腰曲輪を経由して行くことができる。高さ5~10mもの大切岸が連発して出てくる曲輪群で、曲輪の規模も大きく、各所に土塁や石塁が残っている。城平支群と善谷支群だけで並の山城一つ分以上の規模がある。
 稗子畑支群は二の丸の西尾根にあり、温井屋敷の西斜面からわずかな踏み跡を辿って行くことができる。ここも数段の曲輪群で構成されているが、やはり高さ10m程の大切岸で上段・下段が分かれている。稗子畑支群へ行く途中の温井屋敷・二の丸の西斜面には石垣がいくつも残っている。また斜面から西側に突き出た物見台が2~3段程あり、そこにも石垣が組まれている。
善谷支群の大切岸→IMG_7094.JPG
IMG_7256.JPG←西斜面物見台の石垣

 本丸裏の長屋敷は、本丸との間を大堀切で分断して築かれた山上の砦である。この大堀切は山上の城址駐車場の目の前にある。私は大堀切から屋敷南の腰曲輪を経由して登ったが、案に相違して道は消失し、薮も酷い。長屋敷に登るなら、駐車場から屋敷北斜面の腰曲輪群を経由して行くのがよい。山上には南辺を土塁で防御した屋敷跡の広い平場と、その西側に物見や櫓があったと思われる高土塁が南北に伸びている。
長屋敷の高土塁→IMG_7437.JPG

 物見台は、百間馬場と呼ばれる城山展望台に通じる車道が、七尾城へ行く車道から西に分岐する地点のすぐ東にそびえている。台形状の曲輪で、外周に腰曲輪を1段廻らし、東の尾根に堀切を穿っている。城山展望台に通じる車道は、この堀切のすぐ北側を通っており、ここから小道が伸びている。物見台の曲輪には朽ちかけたベンチがあるので、以前はきれいに公園化されていたらしい。今も、今年行った限りでは薮払いされていた。ここの白眉は、なんと言っても外周に穿たれた畝状竪堀である。NHK-BSの『英雄たちの選択 謙信vs.信長 戦国最強は誰だ? ~真説・手取川の戦い~』で、千田嘉博先生がこの遺構を紹介していたので、ご覧になった方も多いと思う。物見台の東面から南面にかけて畝状竪堀が並んでおり、テレビ撮影されたせいか綺麗に薮払いされていて非常に見やすくなっていた。中規模の竪堀群が6本以上あり、見応えがある。この畝状竪堀については、七尾城救援に向けて急速に接近中の柴田勝家率いる織田軍との籠城戦に備えて、上杉謙信が改修したものとする説が提示されている。

 今回記載した遺構群は、いずれも藪漕ぎを厭わない様な山城中級者以上向けのものであるが、七尾城の凄さを語るには見ておいて損はない。ちなみに、本城から離れた物見台は別として、七尾城の主要な曲輪(山上の散策路が整備されている部分)とここに取り上げた支群・長屋敷を含めて、踏査時間として3時間を目標としていたが、遺構群の規模が半端なく、大切岸の登り降りも大変で、結局3時間半も掛かってしまった。

 場所:【城平支群】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/37.008362/136.981852/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【善谷支群】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/37.009081/136.979771/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【長屋敷】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/37.008550/136.985672/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【物見台】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/37.007728/136.991293/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の城を歩く (ちくま学芸文庫)

戦国の城を歩く (ちくま学芸文庫)

  • 作者: 千田 嘉博
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2009/08/10
  • メディア: 文庫


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町屋砦(石川県七尾市) [古城めぐり(石川)]

IMG_6934.JPG←畝状竪堀
 町屋砦は、町屋堡とも言い、西谷内城の支砦と伝えられている。国分左兵衛または岡部某が守将であったと言うが詳細は不明。桝形山砦と同様に畝状竪堀が構築されていることから、西谷内城の支砦であったものを越後上杉氏により改修されたものとの説が提示されている。

 町屋砦は、熊木川西岸に突き出た丘陵先端部に築かれており、砦の位置は標高100m、比高70m程である。丘陵頂部ではなく、やや低い先端部に築かれているのがミソで、熊木川沿いの街道を遠くまで見通せる位置にわざわざ場所を選んでいる。城までの道はないので、他の城歩きの先達のHPを参考にして、南西を通る車道の脇から尾根筋を越えてアプローチした。基本的に単郭の小城砦で、方形に近い形の主郭を置き、その前後を掘切で分断している。主郭内は数段の平場に分かれ、南西角に内桝形虎口らしい地形がある。南北の斜面には腰曲輪が築かれている。北斜面ではこの腰曲輪から畝状竪堀を落としている。桝形山砦は斜面に直接竪堀群を刻んでいるが、町屋砦では腰曲輪から竪堀群を落としているという違いがある。ここの畝状竪堀も桝形山砦と同様小さいが、藪が少ないので形状が分かりやすい。以上が遺構の概要で、畝状竪堀が見どころの城砦である。
主郭前面の堀切→IMG_6922.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.140751/136.813560/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


 [カラー版] 地形と立地から読み解く「戦国の城」

 [カラー版] 地形と立地から読み解く「戦国の城」

  • 作者: 萩原さちこ
  • 出版社/メーカー: マイナビ出版
  • 発売日: 2018/09/14
  • メディア: 新書


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