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古城めぐり(徳島) ブログトップ

秋月城(徳島県阿波市) [古城めぐり(徳島)]

DSC00840.JPG←主郭跡とされる三宝荒神社
 秋月城は、南北朝時代に四国管領として四国諸豪に号令した細川氏の拠点である。細川氏は足利氏の庶流で、足利尊氏に従って各地の戦いで大功を挙げ、室町将軍3代義満の時には、三管領家の一つにまで列せられた。その事跡については、細川頼春墓所の項に記載する。

 細川氏が四国に地歩を記す端緒となったのは、1336年の「室泊の軍議」である。尊氏が京都や兵庫で新田義貞らの朝廷軍に大敗し九州に落ち延びる際、室の津で今後の行方を左右する重要な軍議が開かれた。それが室泊の軍議である。この軍議で、多くの一族武将を西国各地に派遣して来るべき新田勢侵攻の防衛に当たらせることにしたが、その際に細川一族は四国各地に派遣されて、四国の豪族と協力して瀬戸内海防衛の任に当たった。この時、細川阿波守和氏・頼春らは、阿波に入国して土豪の秋月氏に迎えられて秋月に居館を構え、四国全域に号令し、四国管領として大きな勢力を誇った。以後、1363年に阿波細川氏3代詮春が居館を勝瑞城に移すまでのわずか27年間であるが、秋月城は阿波守護・四国管領の居城として、四国の中心であった。細川氏が勝瑞城に移ってからは、秋月中司大輔が秋月城を守ったと伝えられている。その後の歴史は定かではないが、戦国末期の1579年、阿波に侵攻した長宗我部軍によって落城したと言う。

 秋月城は、県道139号線沿いにあり、現在は畑や墓地・民家などになっている。県道の北側に一段高くなっている場所に秋月城の石碑が立ち、中の墓地には「秋月城主及び戦没将士の墓」が建っている。ここの周囲は明らかに堀跡を思わせる低い水田になっており、城郭遺構の一部であることは間違いないが、ここは主郭ではなく的場跡であるらしい。実はこの時、地元の老婦人が通りかかり話を伺ったところ、この墓地の所有者であるとのこと。ということは、秋月氏の後裔に嫁がれた方であろうか。この老婦人の話では、碑が建っているのは的場跡で、城跡はここから南東に200m程離れた三宝荒神社の辺であるとのことである。この神社も周囲よりは1m程高い場所に建っているが、明確な遺構は見当たらない。

 一方、三宝荒神社から北に600m程の山上には、かつて望楼があったとされる高丸と言う場所がある。現在、「秋月城下守之址」という石碑が建っているが、特に遺構らしいものは見られない。その他では、足利尊氏・直義兄弟が元弘以来の戦没者の霊を弔う為に全国に建てた安国寺跡や、安国寺経蔵跡などの碑が城址周辺に建てられており、秋月城と共に一時ではあるが中世文化が花開いたことを窺わせている。

 かつての一時期、四国の中心であった秋月城は、遥か時の彼方に消えてしまったようである。
的場跡→DSC00835.JPG
DSC00847.JPG←高丸跡

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:【主郭】http://maps.gsi.go.jp/#16/34.099972/134.314481/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

     【的場跡】http://maps.gsi.go.jp/#16/34.101127/134.312207/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

     【高丸跡】http://maps.gsi.go.jp/#16/34.104876/134.313966/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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徳島城(徳島県徳島市) [古城めぐり(徳島)]

DSC00680.JPG←本丸の石垣
 徳島城は、別名を渭山城、渭津城とも言い、徳島藩主阿波蜂須賀家の歴代の居城である。元は、1385年に細川頼之が小城を築いて渭津と名付け、家臣の三島外記に守らせたのが始まりと伝えられている。戦国後期に入ると、細川氏は家臣の森飛騨守高次を渭山城に入れていた。1582年、土佐の長宗我部元親は、2万余の兵を率いて阿波に侵攻して勝瑞城主十河存保を駆逐し、渭山城も占拠して家臣の吉田孫左衛門康俊を城番として配置し、自らは土佐に帰った。1585年に豊臣秀吉の四国征伐によって阿波が平定されると、その功によって蜂須賀小六正勝の嫡男家政を阿波に封じた。家政は当初一宮城に入ったが、秀吉の命で渭山城を修築して移ることになった。この修築に当たって、秀吉は小早川隆景・長宗我部元親・比叡山僧徒に援助を命じている。土佐長宗我部氏の動きを封じる為に、阿波の掌握が重要と考えた為であろう。以後、蜂須賀氏の居城となり、幕末まで存続した。

 徳島城は近世になってから築かれた平山城であり、水道配水池が城内に作られるなど市街化の中でかなり改変されているようだし、現存建築物もなく壊滅状態なのでほとんど期待せずに訪れたが、予想外に素晴らしい城だったので驚いた。山上の要害部は、東二ノ丸・本丸・西二ノ丸・西三ノ丸と並べた連郭式の縄張りで、ほぼ全ての曲輪を石垣で防御を固め、本丸には3ヶ所の虎口を設けている。本丸は最も広い面積を有し、かつては御座敷・御留守番所・櫓などが建てられ、定番が詰めていた。本丸北側の虎口は、建物で隠された埋門になっていた。東二ノ丸には3層の天守が建てられていたが、元々天守台はなく、現在はただの空き地になってしまっている。西二ノ丸周辺の虎口は最も厳重に作られており、屈曲した虎口を防衛する櫓台(帳櫓)も残っている。水道配水池が作られた為に破壊を受けた西三ノ丸の周辺にも、よく見て周ると石垣が残っている。

 徳島城の石垣を構成する石は緑色片岩と言うらしいが、一宮城の本丸石垣のものと全く同じである。割れやすい脆い石材なので、こうした大規模な石垣で使われる例は稀なようだ。関東では中世の山城である武蔵小倉城に同じ石材を使った石垣が残るが、小倉城では一つ一つの石材が小さく、平らに積み重ねられており崩落箇所も多いが、徳島城のものは石材も大きく見事である。

 麓の平地に築かれた表御殿は既にないが、庭園や周囲の石垣・虎口・水堀が東側半分だけ残っている。ここの石垣も、要害部と同じ緑色片岩で構成されている。

 徳島城を構成する、飾り気のない荒々しい石垣は、戦国時代の弱肉強食の激しさをそのまま伝えているようで、美観を優先する傾向の強い近世城郭としては極めて異質なものである。川並衆と言う一介の職能集団の頭目から、秀吉と共に大名にまで実力でのし上がった蜂須賀氏の、尚武の気風によるものであろうか。また山上の要害部の縄張も、中世山城の雰囲気が濃厚に漂っていて見応えがある。戦国の山城好きには外せない城である。
帳櫓の櫓台石垣→DSC00751.JPG
DSC00739.JPG←西三ノ丸周辺に残る石垣

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.075306/134.554678/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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一宮城(徳島県徳島市) [古城めぐり(徳島)]

DSC00562.JPG←本丸石垣
 一宮城は、阿波小笠原氏の一族一宮氏の築いた山城である。小笠原(一宮)長宗が南北朝期に築城した。宗家の阿波守護小笠原義盛は北朝方の細川氏に属したが、一宮氏は長く南朝方として活動した。おそらくは当時一般化していた一族内部の対立が背景にあったものと考えられる。しかし、南朝方の脇屋義助が伊予国府で病死すると、細川頼春はこの機に乗じて伊予の南朝勢力を攻め、転じて阿波の南朝勢力も攻撃し、1350年に一宮城付近で戦いが行われた。1362年に、室町幕府に反旗を翻して南朝方に付いた細川清氏が従兄弟の細川頼之に滅ぼされ、阿波の南朝勢力が衰退すると、長宗はやむなく北朝方に降った。

 時代は下って1577年、勝瑞城主三好長治が細川真之と争うと、長治と不和であった一宮成助は兵を挙げて長治を今切城に包囲し、城を脱出した長治を追い詰めて自殺させた。しかし三好方の逆襲で孤立すると、成助は土佐の長宗我部元親と誼を通じ、同年に元親の阿波侵攻が開始されるとこれに組して三好勢と交戦した。1582年に織田信長の四国征討軍の先鋒となった三好康長は十河存保と共に一宮城・夷山城を収めたが、本能寺の変で信長が横死すると、康長は急ぎ京に戻り、元親はこの機に乗じて大軍で阿波に侵攻し、中富川の戦いで存保を破り阿波を平定した。その後元親は、成助が一時、三好康長に通じたことを耳にしたので、夷山城に誘殺した。元親は、一宮の南城を江村親俊に、北城を谷忠澄に守らせたが、1585年の豊臣秀吉の四国征伐の時、豊臣秀長の四万余の攻撃を一万余の兵でよく守り、七月下旬に元親の降伏によって開城した。四国征伐後、蜂須賀家政は秀吉から阿波を与えられ一宮城に入ったが、間もなく徳島城に移り、一宮城を益田長行に守備させて阿波九城の一つとした。その後、元和の一国一城令によって一宮城は廃城となった。

 一宮城は、広大な城域を持った山城である。いくつもの曲輪を有し、曲輪間には堀切・竪堀などの防御構造が随所に見られ、その縄張りは中世山城そのものである。一方で、蜂須賀氏による改修で築かれたと思われる本丸の石垣は、荒々しい石をそのまま積み上げた豪壮なもので、虎口や折れを持った見事なものである。主郭以外の曲輪は、主なものでも明神丸・才蔵丸・小倉丸・椎の丸・水の手丸等があり、さらにそれぞれに腰曲輪などを付随させている。また本丸と小倉丸の間の谷間には、畑跡とされる数段の平坦地が広がっている。

 登山道が整備され、要所に多くの解説板が設置されているが、主要部以外は整備が追いついておらず、薮が非常に多くて遺構の確認が容易ではない。また危険防止のために有刺鉄線が張られている部分があるが、山城めぐりをしている者には、その方がより危険性を増している様に思う。夏場にはマムシが出る可能性も高い地域なので、行くなら冬場の方が良い。いずれにしても実戦バリバリの中世城郭の雰囲気を濃厚に漂わせた、類稀な近世山城である。
才蔵丸の堀切と虎口→DSC00527.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.033990/134.463118/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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撫養城(徳島県鳴門市) [古城めぐり(徳島)]

DSC00481.JPG←本丸に残る石垣
 撫養城は、岡崎城とも言い、蜂須賀家政の築いた阿波九城の一つである。築城時期は定かではないが、古くは鎌倉時代に阿波守護であった小笠原氏の居城であったとも言われている。戦国時代に権力闘争を重ねた足利将軍所縁の地でもあり、1523年には管領細川高国と対立して京を出奔した10代将軍足利義稙(義材)がこの地で没している。また13代将軍足利義輝を弑逆した三好三人衆・松永久秀に擁立された14代将軍足利義栄も、足利義昭(義輝の弟)を戴いた織田信長の上洛によって、一度も京に入ることなく阿波に逃れてこの地で客死したと言う。この頃の撫養城は、三好氏の家臣で阿波小笠原氏の後裔撫養氏の居城であったようである。戦国末期の1582年、土佐の長宗我部元親が四国全土の併呑を企図して阿波に侵攻し、三好氏が各地で敗北すると、撫養城も長宗我部氏が支配し、その家臣真下飛騨守が城を守った。しかしそれもつかの間、柴田勝家を滅ぼして天下の権を握った豊臣秀吉が1585年に長宗我部氏を伐って四国を平定すると、征伐戦で功のあった蜂須賀家政が阿波の新領主として入国した。家政は徳島城を築くと共に、国内9ヶ所の要所に支城を置き、阿波北部の要衝撫養城は益田内膳正忠に守らせた。後に元和の一国一城令により廃城となった。

 撫養城は鳴門市中心部の東方、標高62mの妙見山山上に築かれている。現在の城域は公園化による改変が激しく、往時の遺構はわずかである。妙見神社の境内が本丸とされ、本殿背後にはわずかではあるが見事な石垣が残っている。本丸の南は一段高くなった曲輪で矢倉跡とされており、現在は模擬天守である鳥居記念博物館が建っている。本丸の東北方には広い平坦地が広がり千畳敷と呼ばれているが、ここも改変が激しく、かつてどのような形状の曲輪であったのかは、想像するほかはない。千畳敷の一段下は駐車場になっていて、もしかしたらここも曲輪であった可能性があるが、これも今ではわからない。立派な模擬天守が建っているので素人受けはすると思われるが、城郭遺構としては残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.177796/134.618601/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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勝瑞城(徳島県藍住町) [古城めぐり(徳島)]

DSC00443.JPG←主郭に建つ見性寺と水堀
 勝瑞城は、室町時代に阿波守護であった細川氏、及びその家臣だったが下克上で阿波を支配した三好氏の本拠である。現在は「勝瑞城館跡」という名称で国の史跡に指定されているが、これは勝瑞城の周囲に勝瑞館と呼ばれる守護町が築かれていて、その総合名称だからである。

 1362年に室町幕府に反乱を起こした従兄弟の細川清氏を、幕命によって討ち滅ぼした細川頼之は、領国である阿波・讃岐を三分し、東讃岐を自分の領地とし、西讃岐を次弟頼有に任せ、阿波を弟詮春に与えた。そして阿波の本拠を秋月城から小笠原氏の拠っていた井隈庄に移し、戦勝を記念して地名を勝瑞と改めた。こうして勝瑞城を中心にして守護町となった勝瑞は、以後220年間、阿波の政治・文化の中心となった。京都の管領屋形に対して阿波屋形・下屋形とも呼ばれ、応仁の乱では細川勝元率いる東軍の後方拠点となった。1553年、阿波守護細川氏の家臣三好義賢は主君細川持隆を殺害して、勝瑞城に拠って実権を握った。1582年、土佐の長宗我部元親は讃岐に侵攻して十河存保(三好長治の弟)の守る勝瑞城を攻めた。存保は中富川の戦いで大敗し、1ヶ月ほど勝瑞城に籠もったが讃岐虎丸城に引き、勝瑞城は長宗我部軍によって破却された。後に阿波に入部した蜂須賀家政が徳島城築城に際して、石塁や残った遺構の多くを持ち去ったと言う。

 勝瑞城は現在主郭だけが残り、内部は見性寺とその墓地が立つほか、勝瑞義冢碑という石碑が建立されている。墓地には三好氏歴代の墓も建っている。主郭には土塁の一部が残存するほか、周囲にはほぼ全周にわたって水堀が残っている。しかしそれ以外の遺構は無く、かつての守護町は宅地に変貌してしまっている。勝瑞城の南には勝瑞館があり発掘調査が続いているが、ほとんど埋め戻されて整備工事が行われていて、見る限りではただの広い空き地である。また勝瑞城主郭の西600m程の所には細川殿と呼ばれる守護細川氏の屋敷があったとされるが、現在は宅地になっている。何年後かに勝瑞館跡が史跡公園として整備された時には、また改めて訪れてみたい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.132020/134.523050/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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