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中地山城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN6336.JPG←内堀
 中地山城は、飛騨国高原郷を支配した江馬輝盛によって、越中進出の拠点として永禄年間(1558~70年)に築城されたと推測されている。輝盛は、越後の上杉謙信と親交があり、1564年の謙信の書状では、輝盛が越中境に出兵し、上杉方のために働いたことが知られ、これ以後上杉氏に協力して越中方面で活動している。この頃に中地山に進出して城を築いたと思われる。城主は江馬氏重臣の河上中務丞富信であったと言う。1569年には反上杉方に走った池田城主寺島職定を牽制している。また1572年、加賀一向一揆が富山城を占拠した時には、謙信の富山城攻めに加わっている。1578年、謙信が急死すると、中地山城は織田勢(三木・斉藤氏)の攻撃により落城し廃城となったと言う。

 中地山城は、常願寺川と小口川の合流点南東の台地上に築かれている。市の史跡となっており、南西麓から散策路が敷設されているが、城内の解説板の所から主郭に通じる道は雑草だらけで、散策路もほとんど埋もれてわかりにくくなっている。城のある台地は起伏に富んだ地形で、この起伏を利用して曲輪を配置し、二重の空堀で中心部を囲んでいる。しかし城域は広いが、普請はざっくりしていて、求心性のない縄張りである。現地解説板の縄張図に従うと、城は大きく5つの曲輪群で構成されている。A郭は城山地区で主郭、B郭は城天地区で屋敷跡、C郭が外郭、D郭が馬場・馬屋跡、E郭は日本垣地区で出丸とされている。A郭には北東部に大きな土壇があるが、面積がほとんど無い小山で、櫓台や物見台の類ではなく、信仰上の塚であったように感じられる。A郭の北と南に虎口が開かれていて、その脇には土塁が築かれている。しかし構造はやや不明瞭で、原初的な枡形虎口の一種の様である。北虎口を降るとB郭で、広めの平場が段状に連なり、物見台状の土塁が2ヶ所ほど築かれ、北西下方には「城天の袖」という腰曲輪があり、土塁が築かれている。一方、南虎口を出ると、C郭に至る城道が屈曲しながら下っている。C郭はほとんど雑草に埋もれていて、曲輪の形状がわからない。C郭の西側下方にも「城の腰」という腰曲輪群があるが、耕作放棄地の薮となっている。C郭外周に内堀が穿たれ、大きく弧を描いてB郭の東側まで区画している。C郭から内堀を挟んで東にD郭があるが、近代に地形が改変されているらしい。B郭から内堀を挟んで東にはE郭があり、その南東に小丸山という物見台がそびえている。この他、城域の一番南には窪地があり外堀とされているが、形状は内堀ほど明瞭ではない。以上が中地山城の遺構で、飛騨勢の越中進出のための軍団の駐屯地と言う感じで、ここに立て籠もって守り切ると言うよりも軍団の中継拠点として整備された兵站基地だったと思われる。
A郭の大土壇→DSCN6412.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.569933/137.368863/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

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タグ:中世平山城
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