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古城めぐり(埼玉) ブログトップ
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太田道灌陣屋(埼玉県川島町) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN2493.JPG←陣屋跡の石碑、奥に水路
 太田道灌は、扇谷上杉氏の家宰で、戦国初期の関東争乱の中で獅子奮迅の活躍をした名将である。殊に山内上杉氏の重臣長尾景春が大規模な反乱「長尾景春の乱」を起こした時には、関東各地を転戦してほぼ独力で乱を鎮圧した。また築城家としても有名で、江戸城河越城岩付城など名だたる関東の名城の原型を築いたと言われる(道灌の父太田道真が築城したとの説もある)。

 川島町にある養竹院は、そんな活躍をした道灌の陣屋跡に建てられたとの伝承がある。養竹院は、道灌の甥叔悦禅師が、同じく道灌の甥で養子となった資家(岩付城主)の菩提を弔う為に開山した寺である。寺には明確な遺構はないが、周辺には水路が流れ、堀跡であった可能性がある。また境内には「太田道灌の陣屋跡」と書かれた石碑がある。太田資家夫妻の墓もある他、岩付太田氏にまつわる遺品が多く残されており、太田氏との深い繋がりを今に伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.979196/139.500918/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


太田道灌と長尾景春 (中世武士選書43)

太田道灌と長尾景春 (中世武士選書43)

  • 作者: 黒田基樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2019/12/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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玉川陣屋(埼玉県ときがわ町) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN2366.JPG←陣屋跡の現況
 玉川陣屋は、『日本城郭大系』では代官屋敷と記載され、関東に入部した徳川氏が築いた陣屋である。元々この地には、天文年間(1532~55年)に松山城主上田朝直が築いた出城があり、森兵庫頭・家老小澤肥前・澤田五右衛門・樅澤三右衛門ら多数の将士を置いて、近郷を管轄させたと言う。1590年の小田原の役後に徳川家康が関東に移封となると、玉川領は徳川氏の直轄地となり、代官頭大久保長安に支配を命じた。長安は、家臣平岡帯刀を玉川へ派遣し、建物が残っていた出城跡をそのまま陣屋として使い、近郷50ヶ村を支配させた。『新編武蔵国風土記稿』では、文禄年間(1592~96年)頃に陣屋が設営され、その頃は中川某が代官として支配していたとする。6代将軍徳川家宣の治世の1710年に、玉川陣屋は廃された。

 玉川陣屋は、現在は畑や宅地に変貌し、明確な遺構は残っていない。しかし町の史跡に指定され、立派な石碑が建てられている。明確な遺構が残っていればと惜しまれる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.012233/139.294238/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


小藩大名の家臣団と陣屋町 3 南関東・中部(新装改訂版)

小藩大名の家臣団と陣屋町 3 南関東・中部(新装改訂版)

  • 作者: 米田藤博
  • 出版社/メーカー: クレス出版
  • 発売日: 2021/03/25
  • メディア: 単行本


タグ:陣屋
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奈良梨館(埼玉県小川町) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN2308.JPG←館跡の民家
 奈良梨館は、小田原北条氏の家臣で松山衆であった鈴木氏の居館である。鈴木氏は、鈴木民部重直が伊豆から松山衆の寄騎として奈良梨に移住したとされる。伊豆の鈴木氏といえば、伊豆水軍の将の一人であった江梨鈴木氏が知られているので、重直もその一族であった可能性がある。北条氏滅亡後は、奈良梨村の名主となったと言う。

 奈良梨館は、現在ご子孫とされる鈴木家の宅地となっている。宅地の北側に土塁が残るようだが、訪城したのが夏場だったので、わずかに道路際から見ることしかできなかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.083537/139.287586/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


北条氏康の家臣団 (歴史新書y)

北条氏康の家臣団 (歴史新書y)

  • 作者: 黒田 基樹
  • 出版社/メーカー: 洋泉社
  • 発売日: 2018/12/04
  • メディア: 新書


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奈良梨陣屋(埼玉県小川町) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN2301.JPG←東側の土塁と堀跡
 奈良梨陣屋は、信濃の名族諏訪頼忠の陣屋である。1582年、甲斐武田氏・織田信長の相次ぐ滅亡後に生起した北条・徳川・上杉諸氏の抗争「天正壬午の乱」の中で、頼忠は諏訪氏旧臣達に擁立されて諏訪氏の家督を継ぎ、旧領を奪還して北条方に付いた。天正壬午の乱終結後は徳川家康と和睦し、徳川氏に服属した。1590年の小田原の役の後、徳川家康が関東に移封となると、諏訪頼忠も武蔵国奈良梨・羽生・蛭川等1万2千石を拝領し、奈良梨に陣屋を構えた。諏訪氏の陣屋期間は、1592年に諏訪頼水が上野国総社に移封となるまでの3年間であった。

 奈良梨陣屋は、現在の八和田神社(旧諏訪神社)境内を含む一帯にあったらしい。社殿の北と東には土塁と堀跡が残っている。町指定史跡でもあり、土塁北東に解説板が立っているが、それによると「戦国時代から江戸時代にかけて」の頃に「鎌倉街道上道の宿駅として栄えた奈良梨において、(中略)なんらかの施設がおかれていた可能性がある」と書かれており、諏訪氏について触れられていないことから、諏訪氏の陣屋とは断定できなかったらしい。しかし奈良梨は、戦国時代には小田原北条氏の伝馬が置かれていた戦略的要地であったと言うので、ここに諏訪氏が陣屋を置いた可能性は十分考えられるだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.082306/139.288445/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望―天正壬午の乱から小田原合戦まで

武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望―天正壬午の乱から小田原合戦まで

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2011/05/01
  • メディア: 単行本


タグ:陣屋
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広木吉原城(埼玉県美里町) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN2277.JPG←城跡付近にある大興寺
 広木吉原城は、南北朝初期に一色大興寺入道源範行の居城であったと伝えられるが、実在したかどうかが明確ではない。一色氏といえば足利氏の一族で、室町幕府の四職家に名を連ねる名族である。多くの足利一門・重臣と同様に一色氏も、京都や西国で活躍した一族と、鎌倉府ができた際に鎌倉公方に従った東国の一族とに分かれたが、関東の一色氏としては幸手一色氏が知られる。しかし幸手一色氏は「直」字が名乗りの通字であり、「範行」が実在するとすれば九州探題を務めた一色範氏の系統とも考えられる。一方、入道名にも出てくる大興寺の所伝では、南北朝末期の1387年に小倉左中将元英と言う人が廃絶していた寺を再興したとあり、一色氏の名は出てこない。従って、一色範行の伝承には様々な疑問があるのが実態である。その後、戦国後期には、1579年に「広木大仏の合戦」が武田・北条間で行われたと『甲陽軍鑑』などに記載されているが、城の存在は明確ではないらしい。

 広木吉原城は、以上のように実在したかもわからない謎の城であるが、大興寺の北西付近にあったとされているらしい。そこには丘陵地が広がっているものの、明確な遺構は無いようである。ただ大興寺自体が寺院城郭のような立派な構えであり、目を見張らされる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:【推定地】
https://maps.gsi.go.jp/#16/36.168446/139.158540/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東公方足利氏四代―基氏・氏満・満兼・持氏

関東公方足利氏四代―基氏・氏満・満兼・持氏

  • 作者: 田辺 久子
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2002/08/01
  • メディア: 単行本


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岡部藩陣屋(埼玉県深谷市) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN2265.JPG←陣屋跡の現況
 岡部藩陣屋は、安倍(あんべ)摂津守陣屋とも言い、徳川家康の家臣安倍弥一郎信勝が築いた陣屋である。信勝の父安倍大蔵元真の時、今川氏滅亡後に徳川氏に仕えて軍功を上げた。1590年に徳川氏が関東に移封となると、元真の子信勝は武蔵国榛沢郡・下野国梁田郡に5250石を与えられて、岡部に陣屋を構えた。信勝の嫡男信盛は、上杉景勝討伐や大坂の陣で功を挙げ、大番役などを務めた。1636年に三河国内4千石、1649年に摂津国内1万石を加増され、信盛は大名となった。その後、所領高20250石となった岡部藩は、岡部を本拠とし続けた。幕末の1868年、最期の藩主信発は、三河国半原へ本拠移転を願い出て半原藩となり、岡部藩は廃藩となった。

 岡部藩陣屋は、岡部東郵便局を含めた西側一帯にあったらしい。現在は敷地の大部分が一面の畑に変貌し、昭和初期まであったという深い堀も湮滅している。陣屋跡の片隅の道路脇に陣屋跡の解説板が立っているが、それより立派なのが隣に立っている「高島秋帆幽囚の地」の石碑である。高島秋帆は幕末の西洋式兵術・砲術家で、一時期讒言によりこの地に囚われていた。いずれにしても、遺構は全く無く、残念な状態である。尚、近くの源勝院に岡部藩主安倍家歴代の墓がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.201889/139.251430/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


江戸三百藩大全 全藩藩主変遷表付 (廣済堂ベストムック287号)

江戸三百藩大全 全藩藩主変遷表付 (廣済堂ベストムック287号)

  • 出版社/メーカー: 廣済堂出版
  • 発売日: 2015/03/02
  • メディア: ムック


タグ:陣屋
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野本氏館(埼玉県東松山市) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN2382.JPG←境内北東の櫓台
 野本氏館は、鎌倉幕府の御家人野本氏の居館である。野本氏は、平安時代の公卿藤原基経の家の警護をしていた片田元親の子基員が、武蔵国野本に移り住んで野本左衛門を称したのに始まる。基員は源頼朝の信頼が厚かった。また基員の養子時基は、押垂に居住して押垂氏を名乗り、1213年の和田合戦や1221年の承久の乱における宇治川の戦いなどで軍功を上げたと言う。尚、一説には、後に鎮守府将軍に任ぜられた平安時代の武将藤原利仁が、武蔵守であった時の居館であったとも言われ、利仁の後裔を称した基員は、利仁の故地に住んだとも言う。

 野本氏館は、現在の無量寿寺の地にあった。寺の本堂の北側には土塁と空堀が残っている。北東角は高く盛り上がっており、櫓台であったと考えられている。櫓台の外側にも土塁っぽい土盛りがあり、二重土塁であった可能性がある。この他、本堂西側には墓地が広がっているが、墓地の一部が南北に一筋盛り上がっている部分があり、土塁の名残りを残している。尚、館跡の南には、藤原利仁に由来する名を持つ将軍塚古墳があり、円丘には利仁神社が建っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.018741/139.412191/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 南関東編: 埼玉・千葉・東京・神奈川

関東の名城を歩く 南関東編: 埼玉・千葉・東京・神奈川

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/07/26
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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岸田氏屋敷(埼玉県鶴ヶ島市) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN2339.JPG←屋敷跡付近の現況
 岸田氏屋敷は、戦国時代に扇谷上杉氏に仕えた岸田正春の居館である。河越夜戦で主君扇谷上杉朝定が敗死すると、正春はその遺児を引き取り岸田正信と名乗らせて養育したと言う。

 岸田氏屋敷は、正音寺の西方にあったらしい。しかし資料不足で、正確な場所がよく分からなかった。遺構もあるのかないのか不明である。尚、前述の正音寺は、1555年に岸田正春が創建したと伝えられ、正春の墓が残っている。
岸田正春の墓→DSCN2342.JPG

 お城評価(満点=五つ星):ー(場所が分からなかったので評価なし)
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.940099/139.413264/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    (推定地)


扇谷上杉氏 (シリーズ・中世関東武士の研究)

扇谷上杉氏 (シリーズ・中世関東武士の研究)

  • 作者: 基樹, 黒田
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2012/03/08
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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宮前館(埼玉県川越市) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN2287.JPG←北辺の空堀
 宮前館は、下広谷方形囲郭群の一つで、『日本城郭大系』では「某館(2)」、書籍によっては「字宮前の遺構」などとも呼ばれる。歴史不詳の城館であるが、近年の研究では下広谷の囲郭群は、山内・扇谷両上杉氏が争った長享の乱の中で、1497年、扇谷上杉朝良の本拠河越城を攻撃するために山内上杉顕定が本陣を置いた上戸陣(旧河越氏館)に関連して、陣所または兵站拠点として構築されたものと考えられている。その後、戦国期に小田原北条氏の前進拠点となった河越城を、関東管領上杉憲政・扇谷上杉朝定・古河公方足利晴氏の連合軍が長期攻囲した河越城の戦いでも、これらの囲郭群は再利用されたと思われる。

 宮前館は、下広谷方形囲郭群の中心的城郭・大堀山城の東に隣接するように築かれている。下広谷方形囲郭群の中では大堀山城に次ぐ規模の空堀・土塁が残っている。北辺から西辺にかけてL字型をした土塁・空堀がある。その内側に当たる南東の山林内にも、かなり浅いが空堀が見られる。この堀は、鉤型が東西に2つ連結したような形をしている。『日本城郭大系』の縄張図とは遺構配置が合わないが、どうも二重の環郭式平城であったような形態である。しかし東側は開墾されてしまっていて、そこから先の堀は消失してしまっているので、遺構の全貌はわからない。また南は民家裏の屋敷林なので、改変されている可能性がある。全体の縄張りがわかるように遺構が残っていればと惜しまれる。
西辺の土塁→DSCN2308.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.957401/139.436674/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東管領上杉氏 (シリーズ・中世関東武士の研究)

関東管領上杉氏 (シリーズ・中世関東武士の研究)

  • 作者: 基樹, 黒田
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/06/01
  • メディア: 単行本


タグ:陣城
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在家館(埼玉県川越市) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN2284.JPG←諏訪神社北側の堀状地形
 在家館は、下広谷方形囲郭群の一つと推測されている。字在家には、堀や土塁らしき地形があることから、城館があったとの説がある。もし実際に下広谷方形囲郭群の一つであれば、近年の研究ではこれらの下広谷の囲郭群は、山内・扇谷両上杉氏が争った長享の乱の中で、1497年、扇谷上杉朝良の本拠河越城を攻撃するために山内上杉顕定が本陣を置いた上戸陣(旧河越氏館)に関連して、陣所または兵站拠点として構築されたものと考えられている。その後、戦国期に小田原北条氏の前進拠点となった河越城を、関東管領上杉憲政・扇谷上杉朝定・古河公方足利晴氏の連合軍が長期攻囲した河越城の戦いでも、これらの囲郭群は再利用されたと思われる。

 在家館は、諏訪神社の北の山林にあるとされる。山林内にはわずかな起伏があり、土塁や堀跡とも考えられるが、現状からでは城館遺構とは断定できない。北の小道沿いにも土塁があり、一段低くなった小道は空堀跡とも考えられるが、あくまで推測の域を出ない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.955768/139.430451/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


城郭研究家の全国ぶらり城めぐり (わたしの旅ブックス)

城郭研究家の全国ぶらり城めぐり (わたしの旅ブックス)

  • 作者: 中井 均
  • 出版社/メーカー: 産業編集センター
  • 発売日: 2022/12/14
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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往還上館(埼玉県川越市) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN2270.JPG←堀状の溝
 往還上館は、下広谷方形囲郭群の一つである。歴史不詳の城館であるが、近年の研究ではこれらの下広谷の囲郭群は、山内・扇谷両上杉氏が争った長享の乱の中で、1497年、扇谷上杉朝良の本拠河越城を攻撃するために山内上杉顕定が本陣を置いた上戸陣(旧河越氏館)に関連して、陣所または兵站拠点として構築されたものと考えられている。その後、戦国期に小田原北条氏の前進拠点となった河越城を、関東管領上杉憲政・扇谷上杉朝定・古河公方足利晴氏の連合軍が長期攻囲した河越城の戦いでも、これらの囲郭群は再利用されたと思われる。

 往還上館は、下広谷方形囲郭群の中心的城郭・大堀山城の南方に位置している。民家裏に当たる北西側の山林内に、北側の道路から1本の堀状溝があるのが確認できる。道路沿いにフェンスが設置されていて入れないので、どのような遺構配置になっているのかはわからない。遺構が残っているとしても、遠目に見た限りでは断片的なもののようである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.953944/139.433198/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


埼玉県の歴史 (県史)

埼玉県の歴史 (県史)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2010/11/01
  • メディア: 単行本


タグ:陣城
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広谷南城(埼玉県川越市) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN2261.JPG←空堀と土塁
 広谷南城は、下広谷方形囲郭群の一つである。歴史不詳の城館であるが、近年の研究ではこれらの下広谷の囲郭群は、山内・扇谷両上杉氏が争った長享の乱の中で、1497年、扇谷上杉朝良の本拠河越城を攻撃するために山内上杉顕定が本陣を置いた上戸陣(旧河越氏館)に関連して、陣所または兵站拠点として構築されたものと考えられている。その後、戦国期に小田原北条氏の前進拠点となった河越城を、関東管領上杉憲政・扇谷上杉朝定・古河公方足利晴氏の連合軍が長期攻囲した河越城の戦いでも、これらの囲郭群は再利用されたと思われる。

 広谷南城は、下広谷方形囲郭群の中で最も南に位置している。民家の裏にある竹林で立入禁止になっているが、北西にある圏央道の側道から遠目に内部を見ることができる。空堀や土塁が見えるが、遠巻きに眺めるだけなので、どのような配置になっているのかはよくわからない。二重空堀のようにも見えるがはっきりしない。内部探索はできないが、遺構が残っているだけ良しとしたい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.950678/139.426267/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


首都圏発 戦国の城の歩きかた

首都圏発 戦国の城の歩きかた

  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: ベストセラーズ
  • 発売日: 2017/04/21
  • メディア: 単行本


タグ:陣城
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竹ノ内館(埼玉県川越市) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN2249.JPG←館跡付近の現況
 竹ノ内館は、下広谷方形囲郭群の一つである。歴史不詳の城館であるが、近年の研究ではこれらの下広谷の囲郭群は、山内・扇谷両上杉氏が争った長享の乱の中で、1497年、扇谷上杉朝良の本拠河越城を攻撃するために山内上杉顕定が本陣を置いた上戸陣(旧河越氏館)に関連して、陣所または兵站拠点として構築されたものと考えられている。その後、戦国期に小田原北条氏の前進拠点となった河越城を、関東管領上杉憲政・扇谷上杉朝定・古河公方足利晴氏の連合軍が長期攻囲した河越城の戦いでも、これらの囲郭群は再利用されたと思われる。

 竹ノ内館は、広谷北城の南西にあったらしい。しかし太平洋戦争中に飛行場として整備されてしまい、遺構は湮滅している。現在この飛行場跡地は富士見工業団地に変貌し、すべて工場敷地となっている。従って、遺構はおろか、その位置すら明確にできない。往時は三重の土塁と堀があったということなので、下広谷方形囲郭群の中心的城郭である大堀山館と似た構造であったのかもしれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.957209/139.428735/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


「城取り」の軍事学

「城取り」の軍事学

  • 作者: 西股総生
  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2013/08/29
  • メディア: Kindle版


タグ:陣城
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広谷北城(埼玉県川越市) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN2232.JPG←空堀と土塁
 広谷北城は、下広谷方形囲郭群の一つで、『日本城郭大系』では「某館(1)」、書籍によっては「字戸宮前の遺構」などとも呼ばれる。歴史不詳の城館であるが、近年の研究では下広谷の囲郭群は、山内・扇谷両上杉氏が争った長享の乱の中で、1497年、扇谷上杉朝良の本拠河越城を攻撃するために山内上杉顕定が本陣を置いた上戸陣(旧河越氏館)に関連して、陣所または兵站拠点として構築されたものと考えられている。その後、戦国期に小田原北条氏の前進拠点となった河越城を、関東管領上杉憲政・扇谷上杉朝定・古河公方足利晴氏の連合軍が長期攻囲した河越城の戦いでも、これらの囲郭群は再利用されたと思われる。

 広谷北城は、圏央道と県道256号線の立体交差のすぐ西側の林の中にある。遺構の残存状態はあまり良くなく、堀跡・土塁が残るものの一部を除いてわずかな遺構であり、縄張りがあまりはっきりしない。また遺構の西部はスクラップ工場となっていて破壊を受けている。そのため、『日本城郭大系』の縄張図と現地の遺構がどう対応するのか、よくわからなかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.957209/139.428735/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


「東国の城」の進化と歴史

「東国の城」の進化と歴史

  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2016/04/26
  • メディア: 単行本


タグ:陣城
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勝呂館(埼玉県坂戸市) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN2195.JPG←土塁と堀跡らしき地形
 勝呂館は、鎌倉時代に勝呂太郎恒高の居館であったと推測されている。勝呂氏については、その後裔とされる勝呂豊前守館の項に記載する。現在の大智寺境内が館跡とされ、境内にはわずかに土塁と堀跡らしい地形が見られるが、あまり中世居館の遺構という感じではなく、どちらかと言うと境内整備の中で作られたもののように感じられた。
 尚、大智寺の墓地には、1650年に長崎奉行、1665年に大目付など幕府の重職を歴任し、大智寺の中興開基となった黒川丹波守正直とその一族の墓が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.967231/139.409766/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


坂東武士団と鎌倉 (中世武士選書)

坂東武士団と鎌倉 (中世武士選書)

  • 作者: 実, 野口
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/04/30
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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塚越林氏屋敷(埼玉県坂戸市) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN2182.JPG←北側の空堀
 塚越林氏屋敷は、『坂戸市史』では「塚越の構堀林氏屋敷」と呼称され、戦国時代に小田原北条氏麾下の松山衆に属した林氏の屋敷である。現在も林家の屋敷地であり、西辺は堀が埋められてしまっているが、それ以外の三方に空堀が残っている。この内、最も往時の姿を留めていると思われるのが北側の堀で、しっかりした幅と深さがあり、見応えがある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.967821/139.423671/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国関東覇権史 北条氏康の家臣団 (角川ソフィア文庫)

戦国関東覇権史 北条氏康の家臣団 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 黒田 基樹
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2021/07/16
  • メディア: 文庫


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塚越館(埼玉県坂戸市) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN2163.JPG←館跡南西に残る土塁
 塚越館は、歴史不詳の城館である。『坂戸市史』では勝呂一族の館ではないかと推測しているらしい。一方、館跡北西にある墓地には、水村伊勢守義信と刻まれており、水村氏の居館であった可能性もある。

 塚越館は、坂戸市立住吉中学校の西側にある。現在は、周囲に民家が点在する大きな畑の区画となっているが、西側に土塁と空堀が残っている。この土塁は南西角ではL字型になっていて、方形館の形態を思わせる。事実、畑地の南、民家との境界には空堀跡らしい窪地地形も残っている。かなり明確な遺構であり、中世の館跡であるとすれば貴重である。一度、発掘調査などで本当に中世の館跡なのか、確認してほしいものである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.966276/139.426932/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 南関東編: 埼玉・千葉・東京・神奈川

関東の名城を歩く 南関東編: 埼玉・千葉・東京・神奈川

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/07/26
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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明泉館(埼玉県坂戸市) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN2126.JPG←堀状地形
 明泉館は、歴史不詳の城館である。寳珠寺の東に並ぶ民家群の北側に堀状地形があり、それが遺構とされる。寳珠寺裏から東に伸びる小道を辿っていくと、道が掘状になり、一直線に東に続いている。南の民家側に分岐する堀地形もあり、また北の畑の周りにも堀地形が見られ、似たような堀状地形多数ある。土塁っぽい地形もあるが、具体的にどこを館跡としているのか、現地を踏査した限りでは場所がよくわからなかった。また個人的には、これが城館遺構という確証も持てなかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.970235/139.431396/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


埼玉の城―127城の歴史と縄張

埼玉の城―127城の歴史と縄張

  • 作者: 太久夫, 梅沢
  • 出版社/メーカー: まつやま書房
  • 発売日: 2018/03/01
  • メディア: 単行本


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塚越城(埼玉県坂戸市) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN2105.JPG←空堀と土塁
 塚越城は、『日本城郭大系』では西光寺城と記載され、戦国時代にこの地を領していた小島氏の居城と推測される。西に隣接する西光寺の寺伝(解説板)によれば、越後上杉氏に仕えた小島豊後が屋敷内に庵を建て、西光庵と称したのが西光寺の起源とされ、天文年間(1532~55年)に豊後の子小島越後によって庵が再興され、西光寺と呼ぶようになったと言う。ただ、この寺伝は少々おかしい。小島越後が庵を再興したのが天文年間(1532~55年)とすると、父の豊後が活躍したのはそれ以前ということになり、まだ越後の上杉謙信が関東に出馬する前のことなので、関東管領山内上杉氏に仕えていたというのが正しいか、或いは天文年間(1532~55年)という年代が間違っているか、のいずれかであろう。いずれにしても小島氏は、戦国後期には武蔵全域を制圧した小田原北条氏の家臣となった。北条氏が滅亡すると、小島氏はこの地で帰農して境内を寄付し、西光寺の開基となった。
 尚、『日本城郭大系』では塚越城を平安時代末期の創築とし、また西光寺の墓地には南北朝期に勝呂地区一帯を本拠地とした在地領主・勝(すぐろ)氏の一族、勝次郎左衛門入道頼阿の宝篋印塔(1366年建立)が移されているので、戦国時代以前には勝呂氏の城館であった可能性も考えられる。

 塚越城は、前述の通り西光寺境内の東に築かれている。車道脇から入った山林の中に、南北に伸びる土塁・空堀と、更にそこから西に分岐して、東西に長いコの字形をした空堀・土塁が確認できる。空堀は埋もれているのかかなり浅くなってしまっている部分もあるが、何らかの城館があったことは間違いない。わりと良好に残っている遺構なので、文化財に指定して保存してほしいものである。
勝氏の宝篋印塔→DSCN2081.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.973274/139.429078/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


埼玉県の歴史 (県史)

埼玉県の歴史 (県史)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2010/11/01
  • メディア: 単行本


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林氏屋敷(埼玉県坂戸市) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN2061.JPG←北西辺の堀跡
 林氏屋敷は、文亀年間(1501~04年)に信州諏訪から当地に移り住んだと伝えられる林氏の屋敷である。詳しい系譜や戦国期の事績は不明であるが、江戸時代には赤尾村下分の名主を務めているので、戦国期にもこの地の名家として重きをなしていたと思われる。

 林氏屋敷は、県道74号線沿いの、天神橋のたもとに位置しており、現在もご子孫の居宅となっている。屋敷正面には立派な長屋門があり、その脇に土塁が残っている。また宅地の四周にはほぼ全周にわたって堀跡が残っている。内部探索はできないので外周から見て回ると、南西辺にも土塁が残っているようである。戦国時代から残る屋敷跡として貴重である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.987287/139.434443/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


わくわく埼玉県歴史ロマンの旅

わくわく埼玉県歴史ロマンの旅

  • 作者: 埼玉県立歴史と民俗の博物館
  • 出版社/メーカー: 学陽書房
  • 発売日: 2014/06/06
  • メディア: 文庫


タグ:居館
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大串次郎館(埼玉県吉見町) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN2019.JPG←川沿いの竹薮の中の土塁状地形
 大串次郎重親は、武蔵七党横山党の一流である。大串氏は、由木保経の次男・次郎隆(孝)保が大串郷に入部して大串氏を称したのに始まる一族で、隆保の子が重親である。重親は、烏帽子親が坂東武者の鏡とされる畠山重忠であり、「重」の字は重忠からの偏諱である。治承・寿永の乱(いわゆる源平合戦)では源氏方に属して活躍した。『源平盛衰記』等の軍記物では、宇治川の戦いの際、急流を徒歩で渡ろうとして足を取られて流されそうになった重親が近くで渡渉していた重忠にしがみつくと、怪力の重忠は重親を掴んで向こう岸まで投げ飛ばしたと伝えられる。重親は、敵前で「徒立ちの先陣なり」と大声で名乗り、敵味方から笑いが起こったという(既に佐々木高綱が騎馬で先陣の功を上げていた)。

 大串次郎館は、市野川北岸の自然堤防上にあったらしい。明確な位置は不明であるが、ネットの記事を参照すると2ヶ所の候補地が考えられる。一つは現在の堤防の南側にある竹薮で、遺構はあまりはっきりしないが、土塁らしきものが見られる。もう一つは、そこから北東にやや離れた集落内で、民家の周囲に堀や土塁らしい地形が見られる。どちらであったのかは明確ではないが、自然堤防上にあったことから推測すると、前者の方が有力であるように思う。ちなみに、埼玉県埋蔵文化財情報公開ページの遺跡地図では、この2つとも異なる、金蔵院付近を館跡としている。それにしても、館跡近くにある県道76号線の橋の名が「徒歩橋」と言う名で、珍しい名前だと思っていたが、大串次郎の徒立ちの先陣に由来する名だとその事績を調べていて気が付いた。
 尚、金蔵院の西方約60mの畑の中にある宝篋印塔は、大串次郎重親のものと伝承されている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.020043/139.472616/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


源平の争乱 (戦争の日本史6)

源平の争乱 (戦争の日本史6)

  • 作者: 上杉 和彦
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2007/02/16
  • メディア: 単行本


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中新里城(埼玉県神川町) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN3245.JPG←東城稲荷
 中新里城は、歴史不詳の城である。この地域の中核的城郭である御嶽城雉ヶ岡城に近いので、それらに関連する城であった可能性も考えられる。

 中新里城は、九郷用水の南の平地にあったらしい。この地区には、「東城」「北城」「南城」などの小字名が残されているということで、城があった可能性はかなり高いらしい。しかし明確な遺構は残っておらず、城域と思われる一角に「東城稲荷」が残るだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.207914/139.103651/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


埼玉の城―127城の歴史と縄張

埼玉の城―127城の歴史と縄張

  • 作者: 太久夫, 梅沢
  • 出版社/メーカー: まつやま書房
  • 発売日: 2018/01/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世平城
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真下氏館(埼玉県本庄市) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN3240.JPG←真下氏の墓石群
 真下氏館は、武蔵七党の一、児玉党の一流で、真下氏の祖・五郎太夫基行(太郎基行ともされる)の居館である。真下氏の正確な系図は不明ながら、児玉氏2代弘行の次男・入西三郎大夫資行の子・基行が、児玉郡真下郷に分封され、真下氏を称したことに始まると推測されている。鎌倉期には弓の名手として知られた一族であったらしい。1333年、新田義貞の鎌倉攻めの際、真下左兵衛春行は新田軍に属して戦った。しかし1337年、奥州霊山城から南下してきた鎮守府大将軍北畠顕家率いる南朝軍と鎌倉府の足利勢率いる北朝軍が戦った薊山(あざみやま)合戦(または薊山安保原合戦とも言う)では、南朝方に付いていた春行は討死し、真下氏は没落したらしい。残った一族は上野国に移住して、戦国期に真下城を築いたとされる。

 真下氏館は、現在の龍泉寺付近にあったらしい。所在地も明確ではなく、遺構は望むべくもない。ただ龍泉寺とその南にある金佐奈神社は真下氏所縁の神社仏閣で、それらの由緒書に真下氏のことが書かれている。また金佐奈神社の南西200m弱の位置にある馬頭観音堂も、真下氏所縁のもので、観音堂南東にある墓地内に真下氏一族の墓石群があり、薊山合戦で討死にした真下春行の墓もある。尚、下真下地区の西には、太平洋戦争の時に陸軍によって児玉飛行場が建設され(現在の児玉工業団地)、そのため寺が移転させられるなど、集落自体の形が戦前と全く変わってしまっている可能性があることを付記しておく。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:【龍泉寺】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.216969/139.143348/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


南北朝武将列伝 南朝編

南北朝武将列伝 南朝編

  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2021/02/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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大森氏陣屋(埼玉県入間市) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN3134.JPG←大森氏・加藤氏の墓石群
 大森氏陣屋は、大森錦治郎館とも呼ばれ、江戸前期の旗本大森好長の陣屋である。大森氏は、徳川家康の祖父清康の代から仕えた譜代家臣で、好長の時に大坂の陣で軍功を挙げ、この地を加増された。好長はその後も加増を受け、合計1470石となった。子孫の時長は長崎奉行を努めた。また好長の実子重長は、好長の妻の実家・旗本加藤重正の養子となって加藤家を継いだ。

 大森氏陣屋は、国道16号線宮寺交差点の南方にあったらしい。工場敷地の裏に大森氏と加藤氏の宝篋印塔6基があり、入間市景観50選に選ばれている。陣屋は、この墓地の近くにあったと推測される。お城巡りの先達余呉さん等の城郭サイトでは、墓石群の裏手にあるL字型の土塁を陣屋遺構としているが、宝篋印塔は大森氏の菩提寺崇巖寺の境内に建てられたと解説板にあるので、この土塁は崇巖寺跡のものと思われる。結局、陣屋の遺構はその正確な場所も不明であるが、宝篋印塔群だけでも見応えがある。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.802126/139.378738/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


江戸の旗本事典 (角川ソフィア文庫)

江戸の旗本事典 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 小川 恭一
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA/角川学芸出版
  • 発売日: 2016/01/23
  • メディア: 文庫


タグ:陣屋
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宮寺氏館(埼玉県入間市) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN3090.JPG←境内に残る土塁
 宮寺氏館は、加納下野守城とも呼ばれる。宮寺氏は、武蔵七党の一、村山党の一流で、村山党の祖村山頼任の子頼家の次男家平が、宮寺に入部して宮寺五郎家平と称したのが始まりと伝えられる。その後の宮寺氏の歴史は不明であるが、鎌倉幕府滅亡時には同じ村山党の加納下野守の居館となっていた。加納下野守は、1352年に新田義興に従って武蔵小手指ヶ原で足利尊氏の軍勢と戦ったと言う(武蔵野合戦)。また、江戸時代には狩尾氏・伊濃氏が居を構えたと言う。

 宮寺氏館は、現在は西勝院の境内となっている。本堂の南東にL字型の大きな土塁が残っている。この土塁の周囲には堀跡も確認できる。また門前の駐車スペース脇のフェンスの向こうにも、土塁の残欠が見られる。寺の西側には、水堀跡の水路が巡っている。遺構はこれだけであるが、市の史跡となり解説板も立っているのは嬉しい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.792031/139.382966/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 南関東編: 埼玉・千葉・東京・神奈川

関東の名城を歩く 南関東編: 埼玉・千葉・東京・神奈川

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/07/26
  • メディア: 単行本


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渋江氏館(埼玉県さいたま市) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN2842.JPG←浄安寺の山門
 渋江氏は、武蔵七党の一、野与党の一流で、大蔵経長の子経遠が渋江郷に入部して渋江氏を称したのに始まる。『吾妻鏡』には、渋江五郎光衡や渋江太郎兵衛尉の名が見える。また南北朝期の1383年には渋江加賀入道が花積郷御厩瀬渡を押領し、鎌倉公方足利氏満が禁止命令を出している。室町時代には、扇谷上杉氏の家宰太田道真(道灌の父)が岩槻城を築いた後は太田氏に従属していたが、1525年2月の北条氏綱の岩槻城攻撃の際、渋江氏が内応して岩槻城は落城し、城主太田資頼は石戸城へ逃れた。その後、渋江三郎が岩槻城代となった。しかし資頼は、1530年9月に渋江氏を破って岩槻城を奪還したと言う。

 渋江氏館は、岩槻城の大手門外の渋江町にあったらしい。正確な場所は不明だが、浄安寺付近にあったと思われる。場所も不明なので明確な遺構は望むべくもないが、浄安寺には徳川家康の家臣で関東移封後に岩槻城主となった高力清長や、家康の6男松平忠輝の側室竹の局とその子徳松丸の墓がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.954031/139.701269/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


現代語訳吾妻鏡〈1〉頼朝の挙兵

現代語訳吾妻鏡〈1〉頼朝の挙兵

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2007/11/01
  • メディア: 単行本


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会田七左衛門屋敷(埼玉県越谷市) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN1414.JPG←会田家の墓所
 会田七左衛門政重は、1581年生まれで、会田出羽資久の養子となった。成人後、この屋敷に分家を創設した。元和年間(1615~24年)に関東郡代伊奈半十郎忠治配下の地方代官となり、各地の検知施行、越巻・大間野・七左衛門・谷中各村の新田開発に当たった。以後、政連・政信と続き、代々伊奈氏の譜代家臣として伊奈氏が改易になるまで仕えたらしい。

 会田七左衛門屋敷は、元荒川の自然堤防上にあり、現在はご子孫の宅地など住宅地に変貌している。『日本城郭大系』には水堀の写真が載っているが、現在は水路が暗渠化され、宅地開発で遺構は湮滅している。屋敷から道路を挟んで南側には会田家の墓所があり、市の文化財に指定されている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.897629/139.772379/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


幕府代官伊奈氏と江戸周辺地域 (近世史研究叢書 25)

幕府代官伊奈氏と江戸周辺地域 (近世史研究叢書 25)

  • 作者: 太田 尚宏
  • 出版社/メーカー: 岩田書院
  • 発売日: 2023/01/01
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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会田出羽屋敷・越ヶ谷御殿(埼玉県越谷市) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN1407.JPG←御殿跡の石碑
 会田出羽屋敷は、16世紀中頃に会田将監幸久が築いた居館である。会田氏は元々信濃国会田郷を本拠とした一族で、信濃守護小笠原氏に仕えていた。虚空蔵山城を中心とする城郭群を築いていた会田氏の一族なのだろう。小笠原氏が武田信玄に敗れると幸久は関東に下り、越谷に屋敷を構えて小田原北条氏に服属した。この地には元々鎌倉時代からの豪族館(古志賀谷二郎為基の系統か?)があったと推測されており、それを屋敷地としたらしい。幸久の子は岩付城主太田三楽斎資正から偏諱を受けて資清と名乗った。以後、代々「資」が通字となった。資清の子資久も北条氏に仕えていたが、1590年に北条氏が滅亡すると、当地で隠居した。

 越ヶ谷御殿は、徳川家康が関東各地に造営した御殿の一つである。北条氏滅亡後に関東に移封となった徳川家康は、1604年に会田資久に屋敷の一部を提供させて、増林にあった御茶屋御殿を移し、越ヶ谷御殿を造営した。家康はしばしば越ヶ谷御殿に宿泊し、民情視察を兼ねた鷹狩を行った。1608年には屋敷地として畑一町歩が会田氏に与えられた。2代将軍秀忠もしばしば越ヶ谷御殿に宿泊した。資久の子庄七郎資勝は、秀忠が越ヶ谷御殿を訪れた際に召されて小姓となり、幕臣に登用された。その子資信は埼玉郡内で500石を与えられ、幕末に至った。一方御殿は、1657年の明暦の大火で江戸城が全焼すると、急遽江戸城二の丸に移築され、将軍の居所になった。その後、御殿跡地は農地になった。

 会田出羽屋敷と越ヶ谷御殿は、前述の通り同じ位置にあった。元荒川が蛇行する部分の自然堤防上にあり、越谷では最も洪水被害が少なかった地点であったらしい。現在周囲一帯は宅地化されている上、御殿跡地の真ん中を放水路が開削されており、遺構は完全に湮滅している。しかし放水路上の緑地に石碑と解説板が立っており、その歴史を伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.897403/139.786992/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


将軍の鷹狩り (同成社江戸時代史叢書)

将軍の鷹狩り (同成社江戸時代史叢書)

  • 作者: 根崎 光男
  • 出版社/メーカー: 同成社
  • 発売日: 1999/08/01
  • メディア: 単行本


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山田氏館(埼玉県東秩父村) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN1324.JPG←館跡推定地の平場
 山田氏館は、松山城主上田朝直(安独斎宗調)の家老で腰越城主であった山田伊賀守直定の居館である。直定は、1562年の赤浜合戦で太田資正勢と戦い討死にしたと言う。

 山田氏館は、腰越城と安戸城の間にある安戸宿の北側丘陵地にあったらしい。明確な場所は不明とされるが、丘陵上に何段かの平場があり、その付近にあったことが想像される。尚、丘陵地背後の山林の中には山田氏の墓があり、村の文化財となっている。
山田氏の墓→DSCN1326.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.050686/139.224522/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実 (角川ソフィア文庫)

関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 黒田 基樹
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2017/01/25
  • メディア: Kindle版


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竹沢二郎館(埼玉県小川町) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN1320.JPG←館跡の平場
 竹沢二郎館は、武蔵七党児玉党の一流、竹沢二郎行高の居館である。平安末期に児玉保義の5男行高が竹沢郷に分封され、竹沢氏を称してここに館を構えた。その後の竹沢氏の事績は不明点が多いが、南北朝時代に鎌倉府執事畠山道誓(国清)の命で新田義興(新田義貞の庶子)を矢口渡で謀殺した竹沢右京亮は、一説にはこの竹沢氏の末裔とも言われる。但し、『太平記』の西源院本(古態本系)では「片沢」右京亮とある。同族の江戸遠江守とともに坂東八平氏秩父氏の一流とされるので、児玉党竹沢氏とは別流であろう。1368年に鎌倉府の武蔵支配に不満を高めていた武州平一揆が挙兵した際には、竹沢左近将監が挙兵に加わって敗れ没落しているが、これも平一揆の名の通り平氏流竹沢氏と思われるので、竹沢二郎行高の後裔とは別流ではないだろうか。

 竹沢二郎館は、雲龍寺の北東の谷戸にある。雲龍寺背後にある熊野神社への参道脇から登ることができる。奥まで南北に3段の平場が展開しているようだが、夏場で雑草がすごかったので、奥まで行くのは断念した。鎌倉時代の土豪の居館に多い、背後に山を控えた選地の居館である。尚、熊野神社の脇には竹沢氏所縁とされる五輪塔がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.074797/139.241259/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武蔵の武士団: その成立と故地を探る (読みなおす日本史)

武蔵の武士団: その成立と故地を探る (読みなおす日本史)

  • 作者: 元久, 安田
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2020/01/15
  • メディア: 単行本


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