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古城めぐり(神奈川) ブログトップ
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金子十郎家忠陣屋(神奈川県横須賀市) [古城めぐり(神奈川)]

DSCN1956.JPG←陣屋跡の石碑
 金子十郎家忠陣屋は、1180年の衣笠合戦の際に金子十郎家忠が敷いた軍営である。家忠の事績については、金子十郎家忠館の項に記載する。1180年に源頼朝が石橋山で平家討伐に挙兵すると、相模の豪族三浦義明は一族をあげて頼朝に呼応した。しかし頼朝のもとに向った三浦一族の軍勢は嵐に遭って合流できず、本拠地に引き返した。一方、武蔵の豪族畠山重忠らは平家方として三浦氏を追撃し、その居城衣笠城を包囲した。この時、金子十郎家忠も平家軍の一翼を担ってこの地に陣を敷き、衣笠城攻撃に奮戦したと伝えられる。その勇猛さは、敵方の義明が称賛するほどであったと言う。

 金子十郎家忠陣屋は、現在山科台と呼ばれる住宅団地の只中にある。遺構は望むべくもないが、宅地の横の空き地に立派な石碑などが建っており、かつての歴史を伝えている。しかし傍らに立つ解説板は、字が全く読めなくなってしまっており、作り直してほしい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.237356/139.656658/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


新版 平家物語(一) 全訳注 (講談社学術文庫)

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  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2017/04/11
  • メディア: 文庫


タグ:陣所
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二階堂政貞屋敷(神奈川県大井町) [古城めぐり(神奈川)]

DSCN1897.JPG←屋敷地の現況
 二階堂出羽守政貞は、鎌倉幕府で政所執事や評定衆を務めた有力御家人二階堂氏の後裔である。二階堂氏の祖、山城守行政の次男行村が、1213年の和田合戦の際の功により大井庄を賜り、篠窪の地頭となった。その後、1285年の霜月騒動で大井庄の大部分は幕府に没収されたが、篠窪地区は二階堂氏が伝領し、地頭6代目の出羽守政貞に引き継がれた。政貞は、明徳年間(1390~94年)頃にこの地に屋敷を構えたと伝えられている。1394年に没した。その子孫は篠窪を姓とし、小田原北条氏、大久保氏に仕えたと言う。

 二階堂政貞屋敷は、政貞が開基した地福寺の南東の丘陵地にある。付近一帯は住宅地に変貌し、明確な遺構はないが、民家脇に屋敷の解説板が立っている。また地福寺には二階堂家(篠窪家)の墓所がある他、屋敷南東の山頂には了全塚という二階堂政貞の墓が祀られている(了全は政貞の法号)。
山頂の了全塚→DSCN1903.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:【屋敷】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.349707/139.171457/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【了全塚】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.347642/139.173174/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


北条氏康の家臣団 (歴史新書y)

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  • 作者: 黒田 基樹
  • 出版社/メーカー: 洋泉社
  • 発売日: 2018/12/04
  • メディア: 新書


タグ:居館
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中原御殿(神奈川県平塚市) [古城めぐり(神奈川)]

DSCN1864.JPG←石碑と解説板
 中原御殿は、雲雀野御殿とも呼ばれ、徳川家康が関東各地に造営した御殿の一つである。家康は、鷹狩りや江戸と駿府往来の途次にここに宿泊した。御殿が造られたのは1596年と言われるが、諸説ある。また御殿は新造ではなく、それ以前から塁や中世土豪の居館があり、それを修築したとの伝承もある。江戸城虎ノ門を出発し、川崎市小杉(小杉御殿)・一之宮・田村(平塚)を経て、大磯化粧坂に至る中原街道の途次にある。1590年の江戸入部の際にここで鷹狩をしたのを初め、その後も鷹狩や中原止宿が行われた。1613年12月、馬場八左衛門が徳川秀忠の重臣大久保忠隣の謀反を家康に訴えたのも、この中原御殿でのことであった。また家康が没し、1617年に久能山から日光に改葬された際、柩が一夜ここに泊まっている。1642年に修復されたが、明暦の大火があった1657年に引き払われた。

 中原御殿は、現在の中原小学校校地を含む一帯にあった。遺構は残っておらず、校地東辺に石碑と解説板が立っているだけである。往時は東西140m、南北100mの規模で、四方に土塁と堀を廻らし、堀の要所には石垣が築かれ、土塁内側の四隅には大井戸が掘られていたという。大手は東側にあり、中原街道と大手道の交差点には高札場があった。尚、御殿の裏門が善徳寺に移築されて残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.343739/139.329600/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


徳川家康 弱者の戦略 (文春新書)

徳川家康 弱者の戦略 (文春新書)

  • 作者: 磯田 道史
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2023/02/17
  • メディア: Kindle版


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殿上砦(神奈川県平塚市) [古城めぐり(神奈川)]

DSCN1843.JPG←砦跡とされる神社
 殿上砦は、小田原城を攻略した伊勢宗瑞(いわゆる北条早雲)が築いた砦と伝えられる。後には小田原北条氏の家臣川口但馬守の居城となったと言う。しかし別説では、上杉謙信が関東諸将を率いて小田原城を攻撃した際、上杉勢の陣城の一つではなかったとの推測があるらしい。

 殿上砦は、岩戸分神社付近にあったとされる。神社の社伝では、砦を築いた宗瑞が守護神として1511年に建立したと推測されているらしい。砦は高麗山城の北西に張り出した台地上にあり、平塚市の文化財マップでは東西800mにも及ぶ台地全体を砦跡としているが、これは砦の正確な位置がわからないからであろうか?この台地の中でも神社境内だけ、わずかな高台となっている。しかし周囲に広がる台地との間には段差以外に防御施設は見られず、砦としては中途半端である。これは、遺構が湮滅しているためと思われる。今となっては、どのような砦だったのか、想像するのも難しい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.325691/139.315932/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 南関東編: 埼玉・千葉・東京・神奈川

関東の名城を歩く 南関東編: 埼玉・千葉・東京・神奈川

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/07/26
  • メディア: 単行本


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出縄砦(神奈川県平塚市) [古城めぐり(神奈川)]

DSCN1834.JPG←出縄高通し公園
 出縄砦は、手縄砦とも言い、伝承では1494年9月に扇谷上杉定正が攻略したと伝えられる。時あたかも山内・扇谷両上杉氏が争った「長享の乱」の最中で、定正は山内上杉顕定方の部将矢野氏が守っていた出縄砦を攻め落とし、矢野氏は討死したと言う。しかし定正はこの翌月に武蔵国高見原に出陣して上杉顕定と対陣中に急死しているので、定正の出縄砦攻略が事実であれば、時期はもう少し遡る可能性がある。

 出縄砦は、出縄高通し公園付近にあったと推測されている。ここは花水川流域の低地帯を眼下に望む丘陵地の東端部に当たり、現在では住宅が立ち並んで往時の眺望は望むべくもないが、周囲を俯瞰する要衝の地であったと思われる。現在は住宅団地となって改変されており、公園内に解説板が立つだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.332624/139.302135/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


神奈川中世城郭図鑑 (図説 日本の城郭シリーズ 1)

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  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/04/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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広川城(神奈川県平塚市) [古城めぐり(神奈川)]

DSCN1833.JPG←腰曲輪状の平場
 広川城は、後三年の役で活躍した鎌倉権五郎景政の居城であったとの伝承がある。しかし『日本城郭大系』では、岡崎城攻撃の際の野戦拠点の可能性がある、としている。

 広川城は、五領ヶ台と言う丘陵地にあったとされる。丘陵上には公園があるが、これは五領ヶ台貝塚で、国の史跡となっている。公園化されているので遺構はよくわからないが、中央の平場の側方に一段低い平場があり、腰曲輪跡の様にも見えるがどうであろうか?

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.354345/139.300611/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


蝦夷の末裔―前九年・後三年の役の実像 (中公新書)

蝦夷の末裔―前九年・後三年の役の実像 (中公新書)

  • 作者: 高橋 崇
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 1991/09/01
  • メディア: 新書


タグ:中世平山城
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烏山藩厚木役所(神奈川県厚木市) [古城めぐり(神奈川)]

DSCN1813.JPG←役所跡の現況
 野州烏山藩大久保家は、小田原藩大久保家の分家である。小田原藩初代大久保忠世の弟忠為の3男忠知の家系で、1725年に烏山藩主となった大久保常春は忠為から4代目で、3年後に若年寄から老中に昇進し、相模国内で1万石の加増を受けた。1728年、相州領支配のため、厚木役所を相模川沿岸の水陸交通の要衝の地に設置した。代官の他に3名の役人が常駐し、官司は年4回の交代であったという。設置後、幕末までの140年間、領内支配を初め、厚木村の治安経済文化に関する行政が行われ、宿場商家町の発展に大きな役割を果たした。

 烏山藩厚木役所の跡地は、現在は市街化してマンションが建っており、遺構は全く残っていない。マンションの駐車場脇に、「史跡 烏山藩厚木役所跡」と刻まれた石碑と標柱が立っているだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.443357/139.370606/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


歴史ドラマが100倍おもしろくなる 江戸300藩 読む辞典 (講談社+α文庫)

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  • 作者: 八幡和郎
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2015/10/02
  • メディア: Kindle版


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荻野山中藩陣屋(神奈川県厚木市) [古城めぐり(神奈川)]

DSCN1783.JPG←陣屋跡の半島状台地
 荻野山中藩は、小田原藩大久保家の分家である。初代藩主大久保教寛(のりひろ)は、小田原藩5代目藩主大久保忠朝の二男で、将軍徳川綱吉の中奥小姓を振出しに家宣・吉宗と3代の将軍に仕え、若年寄まで務めた。その間、1698年に父忠朝の隠居に伴い、相模国足柄郡・駿河国駿東郡内に新墾田6000石を与えられて分家した。1706年には西の丸の若年寄に任ぜられ、駿河国駿東・富士2郡内に5千石、更に1718年に相模国高座・大住・愛甲3郡内に5千石を加増され、計1万5千石の大名に列した。享保年間(1716~36年)に屋敷を駿東郡松永村に置き、松永陣屋として4代教倫(のりみち)まで続いた。1783年、5代教翅(のりのぶ)の時、陣屋を江戸に近い相模国愛甲郡中萩野に造営し、翌年初めに陣屋の体裁がほぼ整うと、教翅は早速移り住んだ。これが荻野山中藩陣屋である。以後、幕末まで続いたが、1867年12月15日、薩摩藩邸に拠点を置く浪士隊の襲撃を受けて焼失した。これは武力倒幕を目指す薩摩藩による挑発で、ここから12月25日の江戸薩摩藩邸の焼討ち、翌月の鳥羽・伏見の戦いへの導火線となった。明治維新後、萩野山中県庁として利用されたが、1871年11月、廃藩置県によって藩知事・県知事を務めた元藩主大久保教義が東京に居を移すと、80余年、3代にわたって続いた陣屋は終焉を迎えた。

 荻野山中藩陣屋は、荻野川に向って南に突き出た半島状台地に築かれている。現在は、陣屋跡地の南端の一部が厚木市の史跡公園となっている他は宅地・駐車場に変貌している。明確な遺構はほとんどないが、地勢はよく残り、御殿の鬼門にあったという陣屋稲荷が往時の位置のまま残っている。また東側の崖下には井戸跡も残っている。台地周辺の土堤も往時のままと言う。厚木の国道脇に幕末の重要な歴史が埋もれているとは思わなかった。
東の井戸跡→DSCN1796.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.480443/139.332991/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1




タグ:陣屋
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小杉陣屋(神奈川県川崎市) [古城めぐり(神奈川)]

IMG_8128.JPG←陣屋跡に建つ陣屋稲荷
 小杉陣屋は、徳川家康の家臣小泉次大夫が築いた陣屋である。小田原の役で北条氏が滅亡すると、徳川家康が関東に入部し、関東各地の再開発を計画した。この時、小泉次大夫は家康に用水開発を進言して、用水奉行に任命された。そして1597年より、稲毛領・川崎領に「二ヶ領用水」の建設に着手した。この時、小杉陣屋を築き、この地で14年間に及ぶ難工事の指揮に当ったと言う。
 小杉陣屋は、小杉御殿の北東に隣接する地に建っていた。時期からすれば、小杉御殿の造営より陣屋の創築の方が早いので、陣屋の地に隣接して御殿が建てられたものだろう。残念ながら御殿同様、陣屋も遺構は完全に湮滅している。僅かに陣屋のあった場所に、陣屋稲荷が建っており、町名にも陣屋の名が冠され、往時の名残りを残している。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.584508,139.655628&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:陣屋
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小杉御殿(神奈川県川崎市) [古城めぐり(神奈川)]

IMG_8125.JPG←御主殿稲荷
 小杉御殿は、1608年に2代将軍徳川秀忠が造営した御殿である。東海道が整備される前は、中原街道が江戸と西方を結ぶ主要街道で、中原御殿との中継点として築かれたと言われている。鷹狩りの休息所としてだけでなく、父家康の送迎の御殿としても使用された。また中原街道は、この御殿の前で「鈎の手」となってクランクしており、防御もしっかり考えられた御殿であった。1640年に安藤市郎兵衛・小俣平右衛門を奉行として改修されたが、1672年、4代将軍家綱の時代に完全に撤収された。
 小杉御殿は、西明寺の北東に隣接する区画に築かれていたが、現在は全て宅地化されており、遺構は残っていない。しかし御主殿のあった場所には、御主殿稲荷が建っている他、前述の通り中原街道は「鈎の手」を残し、町名にも御殿の名が冠され、往時の雰囲気をわずかに漂わせている。尚、御殿の北東に隣接して小杉陣屋があり、時期からすれば、御殿の造営より陣屋の創築の方が早いので、陣屋の地に隣接して御殿が建てられたものだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.583688,139.654255&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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和田屋敷(神奈川県秦野市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC02957.JPG←大堀の跡
 和田屋敷は、小田原北条氏の家臣和田兵庫・石見父子の居館である。和田兵庫は大永年間(1521~27年)に北条氏綱に仕え、その子石見は氏康に仕えて天文年間(1532~55年)に没するなど、4代に渡る北条氏の家臣であった。五郎兵衛の時に小田原の役で北条氏が滅亡し、そのまま当地で帰農したと言う。
 和田屋敷は、現在は耕地化や宅地化でかなり湮滅が進んでいるが、現在でも当地の家主である和田氏宅の周囲に、わずかに土塁らしき地形が残っている。元は、上下2段の曲輪から成っていたとされ、その間には大堀と呼ばれる空堀が穿たれていた様である。この大堀も現在はかなりわかりにくくなっているが、辛うじて段差を隔てる小道としてその名残を残している。近くには和田氏関連の館と思われる浄円寺囲郭がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.368414/139.214684/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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中村宗平館(神奈川県小田原市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC02943.JPG←居館のあった殿ノ窪
 中村宗平館は、現地解説板では中村氏居館と表記され、桓武平氏、平良文(村岡五郎)の流れを汲み、中村郷の豪族であった中村庄司宗平の居館である。宗平は、良文の6代の孫に当たり、平治の乱で敗れて伊豆に配流となった源頼朝に早くから心を寄せ、1180年に頼朝が挙兵すると、自身は老齢のため参陣できなかったが、次男の土肥実平、三男の土屋宗遠、嫡孫中村景平・盛平、女婿岡崎義実、その嫡男佐奈田与一ら、一族を挙げて石橋山の戦いに参加した。宗平の一族は、石橋山で討死した与一を始め、鎌倉幕府の創業に大いに貢献し、宗平は頼朝の覚えがめでたく、頼朝は鎌倉開府後しばしばこの館に宿泊したと言う。
 中村宗平館は、三方を山で囲まれ、東向きに開いた谷戸状の地形に築かれており、鎌倉期の豪族の居館として典型的な立地である。この地は殿ノ窪と呼ばれ、北側に屋敷神を祀り、一族の墓所を納めたとされ、現在でも一族のものと思われる五輪塔群が置かれている。遺構はないが、三方を山で囲まれた窪地がよく残っており、往時の姿を彷彿とさせる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.314206/139.222795/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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曽我城(神奈川県小田原市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC02924.JPG←4人の墓の建つ土塁跡
 曽我城は、「曽我物語」などで知られる日本3大仇討ちの一つ曽我兄弟の仇討で有名な曽我氏の居城である。仇討ちに至る経緯は、河津氏館の項に記載する。殺された河津三郎祐泰の妻満江御前は、曽我城主曽我祐信と再婚し、満江の連れ子であった一萬丸と箱王丸はこの地で成長した。元服して、十郎祐成・五郎時致と名乗った兄弟は、源頼朝が富士で巻狩りをした際に、父の仇工藤祐経を討ち取って、宿願を果たしたと言う。

 曽我城は、城前寺の後背地にあったとされ、城の大手前にあったことから城前寺の名がついたとされる。城地は宅地化されていて遺構らしきものは確認できないが、西向きに傾斜した丘陵地の中腹にあり、周囲を一望できる地勢であったことがわかる。城前寺の本堂背後には、曽我祐信・満江夫妻と祐成・時致兄弟の墓が建てられているが、墓の建つ墳丘は曽我城の土塁の跡であると言う。
 尚、この周辺には、曽我兄弟にまつわる史跡が多数散在しているらしい。城前寺から東に800m程の丘陵上には、曽我祐信のものと伝えられる巨大な宝篋印塔がある。高さは2.2mもあり、中世のものではこれまで私が見た中で最大級の宝篋印塔である。春先に曽我梅園の梅を見ながら、ゆっくり時間を掛けて史跡散策をするのもいいかもしれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.305083/139.187776/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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下堀方形館(神奈川県小田原市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC02892.JPG←宅地に残る土塁と堀跡の水路
 下堀方形館は、甲斐武田氏の家臣志村氏が、主家滅亡後に小田原北条氏に仕えて築いた居館と伝えられるが、定かではない。元々この地は北条一族の長老北条幻庵の内室の知行地であったことから、一説には幻庵に関係した館とも言われている様だ。
 下堀方形館は、現在は市街化が進んでおり、館内部も民家となっていり遺構の湮滅が進んでいるが、一部の土塁と四周の堀跡が水路となって残っている。近年、館の北に新道が建設され、建設に当たって発掘調査が行われたところ、館の北側には二重の堀があったことが判明している。市街化の只中で奇跡的に遺構の残存する中世居館であるが、現在でも宅地造成が進行中で、残った僅かな遺構を大切に保存してもらいたいものである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.288989/139.183999/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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間宮氏笹下中里陣屋(神奈川県横浜市磯子区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00235.JPG←陣屋のあった谷戸の現況
 間宮氏笹下中里陣屋は、かつて小田原北条氏の重臣で笹下城主であった間宮氏が、江戸時代に徳川家旗本となってから築いた陣屋である。この地域は、戦国期以来の間宮氏の所領で、一説には永禄年間(1558~69年)に間宮氏が築いた陣屋とも言われるが定かではない。江戸時代のものは1703年に開設されたとされ、古屋敷と呼ばれる谷戸にあったと推測されている。
 間宮氏笹下中里陣屋は、笹下川の西岸、上中里神社のある丘陵地北麓の谷戸にあったとされるが、現在は全て宅地化されてしまっており、その痕跡は全く残っていない。近くの笹下川には、「陣屋橋」と言う小橋が架かっていたとも言うが、見つけられなかった。全ては開発の波の中に飲まれている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.373716/139.609720/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:陣屋
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間宮氏氷取沢陣屋(神奈川県横浜市磯子区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00228.JPG←陣屋付近の現況
 間宮氏氷取沢陣屋は、小田原北条氏の重臣で笹下城主間宮氏が築いた陣屋で、江戸開府以後は一族の間宮若狭守綱信の隠居所であった。綱信は、1510年の権現山合戦で活躍した間宮彦四郎の子孫とされている。綱信は、間宮豊前守信盛の孫で、1533年に生まれ、滝山城主北条氏照や北条氏政に仕えた。天正年間(1573~92年)には、氏政の命で織田信長の元に向かう途中、三河岡崎城で徳川家康に謁見した。1590年、北条氏滅亡後に関東に入部した徳川家康に召されたが、綱信は出仕せず、代わりに子の重信を仕えさせ、徳川家旗本となって幕末まで存続した。綱信は隠居料として氷取沢一円を与えられたと言う。
 間宮氏氷取沢陣屋の位置は正確にはわかっていないが、宝勝寺の西方にあったらしい。付近は市街化が進み、陣屋らしい跡は微塵もないが、宝勝寺付近の地勢を見ると、背後に山地を控え、前面に笹下川が天然の堀となって流れており、陣屋を置くに格好の地であったことは想像に難くない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.361782/139.606694/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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竹ヶ谷城(神奈川県鎌倉市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00194.JPG←腰曲輪らしき平場
 竹ヶ谷城は、鎌倉幕府の首府鎌倉を防衛する馬蹄形連丘、いわゆる「鎌倉城」の更に西方の外郭を成す山地に防衛拠点として構えられた砦の1つであると考えられている。古東海道から鎌倉への出入口を防衛する役目を負っていたと推測される。
 竹ヶ谷城は、現在は鎌倉広町緑地という公園になっていて、ハイキングコースが整備されている。全体に緩い勾配の丘陵で要害地形ではなく、遺構も不明瞭でどこからどこまでが城跡とされているのか、さっぱりわからない。しかし地元では、竹が谷城跡としてはっきり認知されているようである。丘陵頂部の「うさぎ山」は、普通に考えればここが主郭と考えられるが、ただの平坦地が広がっているだけである。唯一、腰曲輪が確認できたが、うさぎ山は太平洋戦争の時に対空高射砲台が置かれたらしいので、その時の改変の可能性もある。しかし中世でも物見ぐらいは置いた可能性は充分あるだろう。戦国時代にも、もしかしたら三浦半島と玉縄城の繋ぎの烽火台ぐらいには使われたかも知れない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.313663/139.511122/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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一升桝遺跡(神奈川県鎌倉市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00098.JPG←台形曲輪の土塁
 一升桝遺跡は、HP「土の古城探訪」では「一升枡陣城」と呼称され、鎌倉時代後期に築かれた鎌倉の交通路を監視・防衛する防御施設と考えられている。極楽寺地区と大仏切通を結ぶ尾根筋にあり、標高約90mの位置に築かれている。南に位置する五合桝遺跡と共に、鎌倉を囲む馬蹄形連丘の内、西方面を防衛していたと考えられている。1333年5月の新田義貞の鎌倉攻めでは、義貞軍は軍勢を3隊に分け、化粧坂口・巨福呂坂口・極楽寺坂口の3道から一斉に攻めかけた。つまり主戦場は鎌倉西部の山稜であり、その只中に位置していた一升桝遺跡も、この時重要な攻防の場となったことが推測される。

 一升桝遺跡は、五合桝遺跡に比べるとかなり遺構が明瞭で、重厚な防衛陣地となっていたことがその遺構から推測できる。遺構は、標高99mの山稜頂部から100m程南に下った尾根の分岐点に構築されており、土塁で囲まれた台形の曲輪がはっきりと残っている。この曲輪の南西角には虎口があり、そこから尾根道を下って行くと、途中に木戸口跡や平場・土塁などがあり、更にその下まで降って行くと、山麓の虎口遺構が残っている。一方、台形の曲輪の南東側にも古道の通る木戸口らしい遺構があって。古道は曲輪の東側下方を抜けており、台形の曲輪は古道を監視していたことがよく分かる。台形の曲輪の北東部の土塁は一段高くなっており、櫓台があったと考えられる。この曲輪の北側は一段高い平場になっているが、冬でも笹薮が酷く遺構が判然としない。その背後には土塁と掘切が明瞭に残っている。その上の山稜頂部は自然地形である。中世鎌倉を守る防衛陣地として鎌倉幕府の築いた貴重な遺構であり、国の史跡に指定されているので、今後の整備に期待したい。
堀切→DSC00138.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.314469/139.527816/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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五合桝遺跡(神奈川県鎌倉市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00045.JPG←平場に見られる土塁跡
 五合桝遺跡は、HP「土の古城探訪」では「五合枡陣城」と呼称され、鎌倉時代後期に築かれた鎌倉の防衛施設と考えられている。極楽寺坂南側の山稜部にあり、稲村路、極楽寺坂を防衛する施設と推定されている様だ。また往時この地には「仏法寺」という寺院があり、執権北条氏の支援の下で栄えた極楽寺の有力末寺であり、現在は「仏法寺跡」として国の史跡に指定されている。1333年の新田義貞による鎌倉攻めの際には、激戦地の一つでもあり、この方面では、新田氏の一族である大館宗氏が極楽寺坂の切通しから(一説には稲村ヶ崎からとも)府内へ攻め込んだが、幕府方の反撃に合い、宗氏以下11人、稲瀬川で討死にしたと伝えられている。
 五合桝遺跡は、比高60m程の山稜上にある。尾根上に数段の平場があり、土塁や土壇(塚?)も確認できるが、全体に藪が多く遺構が不明瞭である。しかしこの地からは鎌倉市街が一望でき、絶好の防御陣地であったことを伺わせている。史跡指定はされているので、今後の整備を期待したい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.307815/139.531206/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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津久井館(神奈川県横須賀市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC10022.JPG←「峯の屋敷」の段丘
 津久井館は、平安末期から鎌倉初期にかけての相模の豪族で、衣笠城主三浦義明の弟津久井次郎義行の居館である。義行以降、高行、義通、高重と4代に渡る津久井氏代々の居館であった。高重は承久の乱で後鳥羽上皇方に付いて討死し、津久井氏は滅亡したと言う。
 津久井館は、衣笠城の南方4.6kmの位置にあり、三浦氏にとって三浦半島南部の東京湾側の開発拠点であったと推測されている。「峯の屋敷」と呼ばれる比高15m程の丘陵上にあったとされているが、現在は住宅地と果樹園に変貌している。内部に入ることはできないので、周囲を見ただけであるが、遺構は残っていない様である。ただ、周囲の平地を見下ろせる段丘であり、地勢的に中世初期の居館を築くには好適であったことが伺われる。
 尚、館跡の北にある東光寺には津久井氏一族の墓が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.205074/139.663653/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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根府川城(神奈川県小田原市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC06122.JPG←山中に残る土塁
 根府川城は、根府川要害とも言い、江戸時代の文献では「氏直之構」と記載される城である。豊臣秀吉との関係が極度に緊迫してきた小田原の役前夜の状況の中で、北条氏直が小田原城防衛の為に築いた城と言われている。城主は、北条氏の重臣で田原城主であった大藤氏の一族であったらしい。1590年に、秀吉が諸大名に大号令を掛けて北条征伐を始めると、序戦で箱根第一の要害山中城を大兵力で猛攻し、わずか半日で落城させた。山中城を抜かれた北条方は、兵力分散を避けて小田原城に諸城の兵を撤収させ、根府川城兵も足柄城兵等と共に小田原城に退き、根府川城は北条氏の滅亡に伴ってそのまま廃城となった。

 根府川城は、箱根山中の多くの城がそうであるように、古道を扼する要害であった。その形態は、城と言うより古道を防衛する長塁で、「要害」と言う方が実情に合っている。小田原城カントリー倶楽部へ向かう林道から分岐した山中の車道から、尾根を東に下って行くと、古道は堀底道状となって尾根筋を走り、その脇に高土塁を並走させている。そこを更に数百m下って行くと武者隠しとされる枡形の平場があり、その先に数段の広大な緩斜面が広がっている。この斜面の南北の辺縁部には土塁があり、櫓台らしき土檀も散在している。また薮がひどいものの空堀も確認できるほか、土塁の屈曲部付近の上部には小石が散乱し、戦闘用の石であったと思われる。全体的には、中心的曲輪がはっきりせず、防御構造も中途半端に感じられ、急ごしらえの城という印象が強い。また車道の上方にも遺構があるらしいが、荒れていてよくわからなかった。

 尚、根府川城の訪城に当たっては、HP「土の古城探訪」を大いに参考にさせて頂いた。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.205794/139.117116/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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荒井城(神奈川県真鶴町) [古城めぐり(神奈川)]

DSC06019.JPG←空堀跡
 荒井城は、1083年の後三年の役の際に、源義家に従って活躍した荒井実継の居城であったと言われている。その後、土肥氏の出城となり、下って戦国時代には小田原北条氏の烽火台が置かれたとも言われている。しかしその歴史には不明な点が多く、正確なところはわかっていない。
 荒井城は、真鶴半島の付け根部分にある丘陵地に築かれた城である。しかし山上ではなく、北に開いた谷戸地形の中に築かれている様で、周りの方がぐるりと高くなっており、三方を山で囲まれた窪地に造られた居館の様である。類似の形態は、神奈川県内の居館跡ではありふれたもので、周囲の丘陵を背後の防衛線としているのであろう。現在は荒井城址公園となって改変され、明確な遺構は少ないが、唯一屈曲した空堀が残っている。ここには石積みらしい跡も見られる。居館跡は、その東側上部の平場だと推測されている。城と言っても鎌倉期頃の古くささやかなもので、遺構から考えると戦国期にはその役目を終えていたと思われる。
居館跡とされる平場→DSC06026.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.155188/139.134282/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:居館
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土肥氏館(神奈川県湯河原町) [古城めぐり(神奈川)]

DSC05977.JPG←駅前に建つ館跡の石碑と銅像
 土肥氏館は、鎌倉幕府創業の功臣土肥二郎実平の居館である。実平は、1180年、源頼朝が平家打倒の為挙兵すると、早くからこれを援け、石橋山合戦では土肥椙山に敗走した頼朝を匿ってその危急を救い、鎌倉幕府の創設に当たっては、軍監・追捕使・宿老として多くの功績を残した。尚、戦国時代に中国の覇者毛利氏の重臣となり、吉川氏と並んで「毛利の両川」と謳われた小早川氏は、実平の後裔とされている。
 土肥氏館は、現在のJR湯河原駅の付近にあったとされているが、早くに遺構を失い、江戸時代後期には既に伝承のみとなっていた。駅付近は10m程の段丘上に位置し、段丘上の館であったと思われる。背後の谷戸には土肥一族の菩提寺、城願寺があるが、この付近は地名を城堀と言い、館跡に由来する地名であると推測される。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.145714/139.102546/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:居館
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土肥城(神奈川県湯河原町) [古城めぐり(神奈川)]

DSC05957.JPG←二重堀切部の櫓門らしい跡
 土肥城は、標高563mの城山山頂に築かれた山城である。明確な歴史は不明であるが、鎌倉幕府創業の功臣土肥実平の詰城であったと言われている。しかし現在残る遺構は明らかに戦国期のものであり、小田原北条氏が相模防衛の為に箱根外輪山系に整備した山城と考えられる。

土肥城は、湯河原市街地からの比高が523m程にもなる高所に築かれた城であるが、西の山中を走る県道75号線からハイキングコースが整備されており、そこからの比高は160m程で比較的楽に登城できる。土肥城は、最上部に主郭を置き、そこから東に伸びる尾根上に掘切を介しながら合計6つの曲輪を連ねた連郭式の縄張りとなっている。各曲輪は削平が明確で、虎口には土塁が設けられて防御を固めている。ただ、虎口構造は基本的には平易な坂虎口であるが、要所で動線を曲げて敵の侵入を阻んでいる。そしてニノ郭虎口には、石積みの跡が明確に残っている。その他の曲輪の虎口付近にも石が散乱しているので、もっと石積みがあったのかもしれない。堀切はどれもかなり埋まっているのか、かなり浅くなっているが、やや薮に埋もれているものの形ははっきりと捉えることができる。五ノ郭と六ノ郭との間は二重堀切になっていて、堀切間は動線両側に土塁が盛り上がっており、櫓門が構えられていた可能性がある。六ノ郭先端にも土塁と堀切があり、実質的にここで城域は終わる様だが、その先も自然地形の緩斜面が広がっており、馬場か何かだった可能性がある。この他、主郭南にも3段の段曲輪と堀切がある。縄張りとしては比較的簡素な城で、全体から受ける印象は湯坂城によく似ている。湯坂城と同様、山中を通る古道を扼する要害だったのかもしれない。
ニノ郭虎口の石積み跡→DSC05929.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.156271/139.084750/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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黒川丸山城(神奈川県川崎市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC01201.JPG←城址付近の現況
 神奈川と東京の県境近くにある丸山城は、歴史不詳の城である。中世の通信基地として物見や烽火台が置かれたと考えられている。多摩丘陵の北辺に位置する丘陵上にあり、西側には鎌倉街道が通り、また飛鳥時代から平安時代にかけては、相模国府と武蔵国府を結ぶ古代東海道がこの付近を通っていたとされ、この街道沿いに併設された烽火台であった可能性も指摘されている様である。
 丸山城は、比高僅か20m程の円丘の上にあり、現在は黒川配水場が建てられている為、城内に進入はできない。当然破壊も受けており、遺構は確認できない。大丸城と同じく単郭の砦だった可能性もあるが、本当に中世以前の城であれば、はっきりした城郭遺構は元々無かったかもしれない。
 尚、丸山城という城の名は各地にあり、神奈川県下でも3つあるため、ここでは地名の黒川を付して「黒川丸山城」と記載した。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.617169/139.453679/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:中世山城
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矢部氏館(神奈川県相模原市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC01065.JPG←祠部分付だけ残る西側の土塁
 矢部氏館は、武蔵七党横山党の一流矢部氏の居館である。横山新太夫孝兼の孫で、粟飯原(藍原)二郎太夫孝遠の三男義兼が矢部三郎を称した。義兼は、1213年の和田合戦の際に、横山宗家と共に和田義盛方に付いて敗北し、滅亡した。しかしその一族は、その後も名跡を保っていたらしく、室町時代の上杉禅秀の乱の際にも、禅秀方に付いた武将の中に「矢部伊与守・嫡子三郎」がいたことが「鎌倉大草紙」に見えると言う。しかし室町期の矢部氏と、矢部氏館の関係は不明である。
 矢部氏館は、現在上矢部交差点の北の道路沿いに土塁が残っている。西側半分は道路のため削られているが、明瞭に残っている。発掘調査ではその外側に箱薬研堀も見つかっている。また交差点から西に150m程の所にも土塁が残っている。頂部には祠が祀られ、以前は道路に沿って東西に延びていたが、現在は祠の部分だけが辛うじて残っている。付近には矢部義兼の追善供養のために建てられたと推測される板碑も残っていて、矢部氏の痕跡を色濃く残している。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.583251/139.393426/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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淵辺義博居館(神奈川県相模原市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC01038.JPG←居館跡に建つ石碑
 淵辺伊賀守義博は、足利氏の家臣である。太平記によれば、中先代の乱の時、後醍醐天皇の皇子成良親王を奉じて鎌倉府執権であった足利直義(尊氏の弟)は、鎌倉防衛の最後の砦井出の沢でも敗れて危殆に陥り、鎌倉放擲を決断した。その際、鎌倉に幽閉されていた護良親王が敵軍に奪取されて奉じられることを恐れ、淵辺義博に護良親王暗殺を命じた。護良親王を殺害した義博は、その後三河に向かって敗走する直義軍に合流したらしく、駿河国手越河原の合戦で討死したと言われている。

 しかし淵辺義博についてわかっているのはこの程度で、その他の事績は明らかではない。ただ、直義が親王暗殺という重大事を任せた程であるから、足利の家臣団の中でも信頼の厚い武士だったものと推測される。名乗りについても一説には淵辺「甲斐守」とも言われ、苗字を「淵野辺」とするものもある。今川了俊の『難太平記』では、「淵辺という年来の者が、「まず御前に討死つかまつろう」と言って、ただ一騎大勢の中に馳せ入って討たれた。」と簡潔に記されているのみである。

 淵辺義博居館は、東京都と神奈川県の県境を流れる境川西岸の台地上に築かれており、江戸時代後期までは馬場や土塁の跡が残っていたとされる。しかし現在は市街化で遺構は確認できない。しかしそれでもアパートの裏の空き地に、立派な石碑が建てられている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.572353/139.407417/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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落合館(神奈川県綾瀬市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC01009.JPG←稲著社の境内
 落合館は、渋谷氏の一族落合氏の居館である。高座郡渋谷庄を本拠とした渋谷庄司重国の嫡子光重の六男重貞は、深谷郷落合に分知されて落合六郎を称した。重貞は1248年、薩摩の地頭となった父光重と共に薩摩に下向して土着し、高城氏の祖となったと言う。重貞の薩摩下向後も、落合にはその一系が在住していたらしいが、その事績は不明である。
 落合館は、一説には現在の稲著社の付近にあったと推測されている。蓼川とその支流比留川に囲まれた丘陵上に位置し、周囲をキツツキの森という鬱蒼とした森林に囲まれている。遺構はなく、現在残るのは伝承のみである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.418914/139.442950/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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渋谷氏長後居跡伝承地(神奈川県藤沢市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC01003.JPG←天満宮西側の斜面
 現在、長後天満宮が建っている場所は、渋谷氏が長後に構えた城或いは居館跡であると伝わっている。渋谷氏は坂東八平氏の一、秩父氏の庶流で、渋谷庄司重国の祖父秩父六郎基家が長後に入部して築城したとも、渋谷重国入道長後坊がこの地に住んだことから長後の名が付いたとも言われるが定かではない。その後の渋谷氏の本拠となった早川城は、この地から西北西4.5kmの位置にあり、渋谷一族との強い関連があったことは十分考えられる。尚、渋谷氏の事績については早川城の項に記載する。
 渋谷氏長後居跡伝承地とされる長後天満宮は、引地川東岸の丘陵上に位置し、境内西側は引地川流域の低地に向かって落ち込む斜面となっている。眺望の利く地であり、遺構はないが、中世の居館を置いた可能性は十分に考えられる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.420234/139.463528/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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富士塚城(神奈川県横浜市泉区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00987.JPG←城址碑のある富士塚公園
 富士塚城は、飯田五郎家義館とも言い、石橋山合戦の時に源頼朝を救った飯田五郎家義の館である。家義は、平家方の関東総大将大庭景親に従いつつ、危地に陥った頼朝を、夜陰風雨の中、箱根山まで導き、安房に逃れさせた。同じ年の黄瀬川の戦いでは一子太郎を失いつつ奮戦して伊藤小次郎の首級を挙げ、「前には我が生命を救い、今また戦功をなす。本朝無双の勇士なり。」と頼朝から賞され、この地を与えられた。家義は、鎌倉に近い相模野台地の要地に館を定め、一族の墳墓の地としたと言う。
 富士塚城は、現在は一面の住宅地となっており、遺構は残っていない。台地西側の富士塚公園に解説板と大きな石碑が建っており、その歴史を今に伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.400612/139.479622/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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