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伊豆木陣屋(長野県飯田市) [古城めぐり(長野)]

DSCN1971.JPG←懸け造りの書院
 伊豆木陣屋は、江戸幕府の交代寄合旗本の伊豆木小笠原氏1千石の陣屋である。初代小笠原長巨は松尾城主小笠原信嶺の弟で、1582年に織田信長が武田征伐を開始すると織田方に降った兄信嶺によって、人質として織田家に送られた。本能寺の変で信長が横死すると、天正壬午の乱を経て信濃の過半を支配下に置いた徳川家康に仕えた。1590年に徳川家康が関東に移封となると、それに従って武蔵本庄城に移封となった信嶺と共に本庄に移った。1600年、長巨は徳川家康から伊豆木に1千石を賜り、中世伊豆木城の南東麓に陣屋を造営して居所とした。以後、幕府旗本として幕末まで存続した。

 伊豆木陣屋は、比高10m程の台地上に築かれている。南東から小川を越えて大手の登城道が伸び、枡形を通過して物見櫓横を登っていく。この登城道と枡形、櫓台には石垣が残っている。陣屋の建物の内、敷地内に残っているのは玄関と書院だけであるが、江戸初期に作られた武家書院としては極めて希少なもので、国の重要文化財となっている。書院は珍しい懸け造りの形態で、小笠原氏の文化度の高さを示しているようである。また併設されている資料館には伊豆木小笠原氏に伝わってきた文化財が展示されているが、小笠原流弓馬術の秘伝書や金屏風など、並の旗本とは異なる守護大名家の系譜を継ぐ一族の格式の高さを示している。
登城道と石垣→DSCN2017.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.446276/137.794969/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃小笠原氏 (シリーズ・中世関東武士の研究 第18巻)

信濃小笠原氏 (シリーズ・中世関東武士の研究 第18巻)

  • 作者: 花岡康隆
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/12/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:陣屋
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知久平城(長野県飯田市) [古城めぐり(長野)]

DSCN1853.JPG←三ノ郭の土塁跡
 知久平城は、諏訪氏の分流でこの地の豪族であった知久氏の神之峰城以前の居城である。知久氏は当初上伊那郡の上の平城を居城としていたが、鎌倉中期の正嘉年間(1257~59年)に地頭としてこの地に移り、知久平城を築いて居城とした。時代は下って戦国前期頃、神之峰城を築いて本拠を移したらしく、以後は出城として機能した。1554年の武田信玄による伊那制圧・知久氏没落後は知久平一帯は吉岡城主下條氏の支配下となった。1582年、武田氏滅亡・織田信長横死後は天正壬午の乱を経て伊那谷は徳川家康の支配下となり、1583年に菅沼小大膳定利が伊那郡司を任され、翌年にかけて知久平城を居城として改修した。しかし間もなく飯田城に居城を移し、1588年に知久平城は廃城となった。

 知久平城は、天竜川東岸の河岸段丘上に築かれている。かなり広い城域を有する城であったが、城内は宅地化・耕地化による改変が進み、散発的に堀跡や土塁が残るだけとなっている。北端から順に出丸(物見台)・主郭・二ノ郭・三ノ郭が空堀を挟んで並び、更に南と東に外郭を廻らした縄張りであったらしい。主郭は民家裏の畑・墓場等になっており、土塁跡の高まりが残る。以前は主郭内に標柱・解説板があったらしいが今は失われている。主郭の先にはつなぎの平場を挟んで高台になった出丸があり、標柱・解説板がある。二ノ郭もほとんど民家・果樹園となっているが、南側にわずかに堀跡らしい窪地が見られる。また保育園の西側には、三ノ郭の土塁跡がわずかに残っている。この他、主郭の北側下方に殿様井戸があるが、民家の庭先なので立入りのお断りが必要である。外郭に2ヶ所、解説板が立てられているが、遺構の残存状況が悪く、ちょっと残念な城である。
高台になった出丸→DSCN1914.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.478294/137.849793/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の山城を極める 厳選22城

戦国の山城を極める 厳選22城

  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2019/09/10
  • メディア: Kindle版


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虎岩城(長野県飯田市) [古城めぐり(長野)]

DSCN1842.JPG←堀跡とされる地形
 虎岩城は、神之峰城主知久氏の庶流虎岩氏の居城である。諏訪社との関係が深い氏族で、戦国中期には虎岩玄蕃が城主であったが、1554年の武田信玄による伊那制圧・知久氏没落後の動向は不明である。

 虎岩城は、宮の沢川の南にある河岸段丘に築かれた城である。城内は宅地と水田に変貌しており、遺構はほとんど湮滅している。段丘北端にある宅地に「城」の屋号があり、『信濃の山城と館』ではここを主郭と想定している。その基部にはわずかな窪地があり、堀跡とされるが、かなり埋まってしまっている。地勢以外に城跡を思わせるものは何もなく、残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.486157/137.858977/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃の山城と館〈第6巻〉諏訪・下伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

信濃の山城と館〈第6巻〉諏訪・下伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/08/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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飯田城(長野県飯田市) [古城めぐり(長野)]

DSCN1691.JPG←三の丸の堀跡
 飯田城は、下伊那の拠点城郭で、幕末まで存続した下伊那で唯一の城である。室町時代に飯田郷を治めた愛宕城主坂西氏が、新たに飯田城を築いて居城を移したと伝えられる。 坂西氏は、信濃守護小笠原貞宗の3男宗満が貞和年間(1345~50年)に飯田郷の地頭職となって飯田郷三本杉に居館を構え、坂西孫六を称したことに始まるとも、或いは鎌倉初期に阿波国坂西の近藤周家が源頼朝の命により飯田の地頭となって坂西氏の祖となったとも言われる。いずれにしても坂西氏の事績が史書に現れるのは室町時代のことで、1400年の大塔合戦では坂西次郎長国が奮戦し、1440年の結城合戦では長国の子政忠が信濃守護小笠原政康に従って参陣している。1554年に甲斐の武田信玄が下伊那に侵攻すると、下伊那の多くの国人衆は武田氏に降り、飯田城主坂西政之も武田氏に服属して武田家重臣秋山伯耆守虎繁の組下となり、軍役60騎を勤めた。1562年、坂西長忠が松尾小笠原信貴の領地を侵して信玄に訴えられ、武田・松尾小笠原軍に討ち取られた。その後は秋山虎繁が城代として飯田城に入った。1573年、虎繁は信玄の命で、前年に武田方に寝返っていた東美濃の岩村城に移り、飯田城には坂西長忠の弟織部亮が入城した。1575年、武田勝頼が長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗すると、坂西氏は武田氏から離反して処刑された。1582年2月、織田軍が武田征伐を開始すると、下伊那の有力国衆であった松尾城主小笠原信嶺が早々に織田方に降り、動揺した飯田城の坂西織部亮・保科正直・小幡因幡守らは城を捨てて逃亡した。その後、織田方に制圧された飯田城には、織田軍の主将織田信忠や、本隊を率いる織田信長が一時的に本陣を置き、武田氏滅亡後は織田氏家臣毛利河内守長秀(秀頼)が飯田城に入って伊那統治を開始した。しかし間もなく本能寺の変で信長が横死したため、織田領国となって日の浅かった甲斐・信濃の織田勢力は瓦解し、長秀も飯田城から退去した。天正壬午の乱を経て徳川氏の支配下となると、菅沼小大膳定利が飯田城に入って伊那郡を統括した。1590年に徳川家康が関東に移封となると、菅沼氏も上野国吉井へ移り、毛利長秀が再度飯田城に入封した。1593年、肥前名護屋城下で毛利氏が病没すると、長秀の娘婿京極高知が飯田城を継承した。1600年の関ヶ原合戦の後、小笠原秀政が城主となり、1613年に小笠原氏が松本城へ移封となると、飯田藩は幕府直轄地となって小笠原氏の家老が在城した。1617年、脇坂安元が伊予大洲城から飯田城に移ったが、1672年に播磨龍野城に移った。その後は下野烏山城から堀氏が入り、幕末まで飯田藩を治めた。

 飯田城は、松川と谷川に挟まれた舌状の河岸段丘に築かれている。往時は先端から山伏丸・本丸・二の丸・三の丸が直線状に並んだ城であったが、山伏丸にはホテルが建ち、本丸は神社、二の丸は美術博物館と宅地、三の丸は小学校・図書館・庁舎となり、市街化で遺構はかなり失われている。それでも、神社背後には本丸の石積・土塁が残り、本丸・二の丸・三の丸の堀跡の一部は、わずかにその形を留めている。二の丸の堀跡には水の手御門跡の石垣が道の両側に残っている。井戸は全部で3つ表示されているが、発掘復元されているのは二の丸の1つだけで、その他は歩道への標示や形ばかりの復元だけである。外郭もあったが、昭和22年の飯田大火で町家はほとんど消失してしまっているので、古い城下町もほとんどその姿を留めていない。その代わり、移築現存門が市内各所に比較的多く残っており、わずかな救いとなっている。
本丸の堀跡→DSCN1763.JPG
DSCN1802.JPG←水の手御門跡の石垣

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.511819/137.832413/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1




タグ:近世崖端城
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原ノ城(長野県飯田市) [古城めぐり(長野)]

DSCN1619.JPG←主郭下の横堀
 原ノ城は、歴史不詳の城である。飯沼城とは指呼の間にあり、両城は親密な関係にあったことが想像される。このことから、室町中期に黒田氏の居城であったと推測されている。黒田氏は、1400年の大塔合戦では黒田孫次郎が飯沼六郎と並んで伊那衆として小笠原勢の中にあり、1440年の結城合戦の陣番帳には飯沼氏に次いで黒田氏の名が上がっている。黒田・飯沼両氏は坂西氏と並ぶ豪族であったが、やがて坂西氏の配下となり、その後この地が知久氏の支配下となると、知久氏に服属したらしい。しかしその後黒田氏の名は出てこなくなり、天正年間(1573~92年)には斎藤氏が原ノ城にいたらしい。

 原ノ城は、天竜川西方の段丘上にある比高30m程の半島状丘陵先端部に築かれている。東端の見晴山と呼ばれる所に、台形状の主郭があり、現在は畑となっている。先端部が一段低くなっている。主郭後部には土塁が残り、その背後の車道が堀跡である。主郭の北東下には横堀が残っており、横堀先端部では竪堀が落ちている。主郭の北西には二ノ郭・三ノ郭等の外郭があったらしいが、一面の住宅地に変貌し、遺構はほとんど湮滅している。わずかに三ノ郭西方を区切る堀切跡が車道となって残っているだけである。昭和20年代前半の航空写真を見ると、この車道の東側には空堀に囲まれた方形の区画があり、西城と呼ばれている。遺構はわずかであるが、主郭周辺だけは旧状をよく残している。
主郭後部の土塁→DSCN1602.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.521216/137.839644/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


長野県の歴史散歩

長野県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2006/11/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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飯沼城(長野県飯田市) [古城めぐり(長野)]

DSCN1575.JPG←主郭背後の大土塁
 飯沼城は、伝承等はなくはっきりしたことはわからないが、この地の豪族飯沼氏の居城であったと考えられている。飯沼氏は、1400年に信濃の国人衆が信濃守護小笠原長秀に反発して挙兵した大塔合戦では、小笠原勢の中に飯沼六郎の名が見える。また1440年の結城合戦では、その陣番帳に飯沼氏2名の名が上がっている。その後、飯沼郷の地頭は坂西氏の時代を経て、知久氏の支配となった。1554年の武田氏の伊那侵攻の際、飯沼城の知久一族は城を焼いて去り、神之峰城の本隊に合流したと推測されている。

 飯沼城は、天竜川西方の段丘崖の上に築かれている。東端中央に長円形の主郭があり、現在は飯沼諏訪神社の境内となっている。神社背後には大土塁が残っている。主郭の西側には空堀があったらしいが、ほとんど埋まっている。さらに北西から南西にかけて、4つほどの曲輪があったらしいが、宅地と中学校校地となっており、ほとんどその痕跡は見られない。わずかに宅地内や中学校脇に、崖に繋がる堀跡と見られる谷地形が見られるだけである。もう少し遺構が残っていればと惜しまれる。
堀跡の谷地形→DSCN1595.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.522665/137.845427/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


隠れた名城 日本の山城を歩く

隠れた名城 日本の山城を歩く

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2020/07/02
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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坂牧城(長野県高森町) [古城めぐり(長野)]

DSCN1536.JPG←主郭背後の堀切
 坂牧城(坂巻城)は、松岡城主松岡氏の支城で、松岡八十騎の一人坂牧氏の居城とされる。

 坂牧城は、天竜川西岸の段丘先端部に築かれている。南に向かって半島状に突き出た段丘に位置し、城内は現在は果樹園や宅地に変貌しており、遺構の湮滅が進んでいる。南側は比高10m程の切岸で囲まれており、その周囲の低地は往時は湿地帯であったらしい。この南の低地から水路に架かった足場板を越えて小道を登っていくと、主郭背後を区画する堀切へ至る。しかしこの堀切も、北側では埋もれてしまっている。主郭の東端に神社があり、そこに城址碑と解説板が立っている。主郭の東には二ノ郭があったと思われるが、改変が進んでいてどこまで城域だったのか判然としない。立入りできそうなのはこれら堀切周辺だけで、その他は果樹園なので無断で入ることはできない。せっかく解説板があるのにそこに至る道がわかりにくく、遺構のわかりにくさやほとんど立入りできないことも相俟って、ちょっと残念な城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.534173/137.870586/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


難攻不落の城郭に迫る! 『山城』の不思議と謎 (じっぴコンパクト新書)

難攻不落の城郭に迫る! 『山城』の不思議と謎 (じっぴコンパクト新書)

  • 出版社/メーカー: 実業之日本社
  • 発売日: 2017/03/01
  • メディア: 新書


タグ:中世崖端城
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洞頭城(長野県高森町) [古城めぐり(長野)]

DSCN1533.JPG←西側の切岸状の段差
 洞頭城は、松岡城主松岡氏の支城である。松岡氏は、武田氏支配時代に松岡八十騎と称する家臣団を従えた伊那谷屈指の大族で、その家臣牛牧氏の城であるらしい。現地解説板によれば、牛牧氏(牛牧殿)は松岡刑部大輔と呼ばれ、松岡氏(市田殿)の兄であった。最初は上平の次郎城に住んでいたが、大きな領地を与えられて洞頭城へ分家させられたと言う。

 洞頭城は、伊那南部広域農道の牛牧南交差点の西側にある。道路より一段高くなっており、方形単郭の城だったらしい。現在郭内は畑になっており、内部に遺構は残っていない。しかし道路沿いと畑西側に切岸らしい段差が見られる。周りの道路は堀跡であった様だ。遺構はほとんど失われているが、こういう小城にも標柱・解説板を立てており、町の文化財保護係の努力がうかがわれる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.547548/137.855480/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲信越の名城を歩く 長野編

甲信越の名城を歩く 長野編

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/12/21
  • メディア: 単行本


タグ:中世平城
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松岡古城(長野県高森町) [古城めぐり(長野)]

DSCN1521.JPG←西側に残る堀跡
 松岡古城は、市田郷を本拠とした豪族松岡氏の最初の居城である。松岡氏は、前九年の役で滅亡した俘囚の長安倍貞任の後裔仙千代が、平安末期に市田郷に移り、松岡平六郎貞則と名乗り松岡古城を築いて居城としたと伝えられる。東方の要害の地に松岡城を築いて居城を移す建武年間(1334~38年)まで、松岡氏歴代の居城となった。松岡氏のその後の事績については松岡城の項に記載する。

 松岡古城は、間ヶ沢西側の細長い段丘上に築かれている。この段丘の西側には新井堤という溜池があり、その南北に堀跡が残っている。コウジ(小路)・横大路など城下町に関連する地名も周囲に残っていると言う。城の中心は畑となっており、そこに立つ大杉(夫婦杉と呼ばれる)の元には、松岡右衛門大夫貞正夫人の供養塔とされる石碑が残っている。遺構はわずかであるが、城があっても不思議のない地形である。町史跡になっており、標柱と解説板も立っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.550812/137.858570/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃の山城と館〈第6巻〉諏訪・下伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

信濃の山城と館〈第6巻〉諏訪・下伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/08/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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市田陣屋(長野県高森町) [古城めぐり(長野)]

DSCN1502.JPG←民家横に残る石垣
 市田陣屋は、江戸時代末期の1846年に奥州白河藩阿部家が村替えにより伊那郡13874石を与えられた。これを支配するために陣屋を設け、幕末の23年間、代官を派遣した。

 市田陣屋は、大島川南の緩斜面に築かれている。現在陣屋跡は民家の敷地になり、車道が南北に貫通するなど、遺構の改変が進んでいる。しかし東辺の石垣が民家の横に残っているのが遠目に見える。また車道脇に標柱が建ち、その北にある民家のキワに陣屋井戸の標柱も建っている。西辺は土塁っぽい土盛りが南北に伸びているが、遺構かどうかは明確ではない。結局明確な遺構は前述の石垣だけで、ちょっと残念な状態である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.557097/137.860029/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


長野県の歴史 (県史)

長野県の歴史 (県史)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2011/01/01
  • メディア: 単行本


タグ:陣屋
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会田七左衛門屋敷(埼玉県越谷市) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN1414.JPG←会田家の墓所
 会田七左衛門政重は、1581年生まれで、会田出羽資久の養子となった。成人後、この屋敷に分家を創設した。元和年間(1615~24年)に関東郡代伊奈半十郎忠治配下の地方代官となり、各地の検知施行、越巻・大間野・七左衛門・谷中各村の新田開発に当たった。以後、政連・政信と続き、代々伊奈氏の譜代家臣として伊奈氏が改易になるまで仕えたらしい。

 会田七左衛門屋敷は、元荒川の自然堤防上にあり、現在はご子孫の宅地など住宅地に変貌している。『日本城郭大系』には水堀の写真が載っているが、現在は水路が暗渠化され、宅地開発で遺構は湮滅している。屋敷から道路を挟んで南側には会田家の墓所があり、市の文化財に指定されている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.897629/139.772379/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


幕府代官伊奈氏と江戸周辺地域 (近世史研究叢書 25)

幕府代官伊奈氏と江戸周辺地域 (近世史研究叢書 25)

  • 作者: 太田 尚宏
  • 出版社/メーカー: 岩田書院
  • 発売日: 2023/01/01
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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会田出羽屋敷・越ヶ谷御殿(埼玉県越谷市) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN1407.JPG←御殿跡の石碑
 会田出羽屋敷は、16世紀中頃に会田将監幸久が築いた居館である。会田氏は元々信濃国会田郷を本拠とした一族で、信濃守護小笠原氏に仕えていた。虚空蔵山城を中心とする城郭群を築いていた会田氏の一族なのだろう。小笠原氏が武田信玄に敗れると幸久は関東に下り、越谷に屋敷を構えて小田原北条氏に服属した。この地には元々鎌倉時代からの豪族館(古志賀谷二郎為基の系統か?)があったと推測されており、それを屋敷地としたらしい。幸久の子は岩付城主太田三楽斎資正から偏諱を受けて資清と名乗った。以後、代々「資」が通字となった。資清の子資久も北条氏に仕えていたが、1590年に北条氏が滅亡すると、当地で隠居した。

 越ヶ谷御殿は、徳川家康が関東各地に造営した御殿の一つである。北条氏滅亡後に関東に移封となった徳川家康は、1604年に会田資久に屋敷の一部を提供させて、増林にあった御茶屋御殿を移し、越ヶ谷御殿を造営した。家康はしばしば越ヶ谷御殿に宿泊し、民情視察を兼ねた鷹狩を行った。1608年には屋敷地として畑一町歩が会田氏に与えられた。2代将軍秀忠もしばしば越ヶ谷御殿に宿泊した。資久の子庄七郎資勝は、秀忠が越ヶ谷御殿を訪れた際に召されて小姓となり、幕臣に登用された。その子資信は埼玉郡内で500石を与えられ、幕末に至った。一方御殿は、1657年の明暦の大火で江戸城が全焼すると、急遽江戸城二の丸に移築され、将軍の居所になった。その後、御殿跡地は農地になった。

 会田出羽屋敷と越ヶ谷御殿は、前述の通り同じ位置にあった。元荒川が蛇行する部分の自然堤防上にあり、越谷では最も洪水被害が少なかった地点であったらしい。現在周囲一帯は宅地化されている上、御殿跡地の真ん中を放水路が開削されており、遺構は完全に湮滅している。しかし放水路上の緑地に石碑と解説板が立っており、その歴史を伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.897403/139.786992/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


将軍の鷹狩り (同成社江戸時代史叢書)

将軍の鷹狩り (同成社江戸時代史叢書)

  • 作者: 根崎 光男
  • 出版社/メーカー: 同成社
  • 発売日: 1999/08/01
  • メディア: 単行本


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平賀氏館(千葉県松戸市) [古城めぐり(千葉)]

DSCN1366.JPG←本土寺の本堂
 平賀氏館は、鎌倉時代の豪族平賀左近将監忠晴の居館である。忠晴の妻は下総国印東庄能戸の領主印東治郎左衛門尉祐昭の娘(妙朗尼)で、最初は平賀二郎有国に嫁ぎ、後に忠晴に嫁いだらしい。妙朗尼の兄が日蓮直弟子の六老僧筆頭の日昭で、その関係からか平賀氏一族は熱心な日蓮宗の信者となった。1277年、平賀氏は日蓮上人の弟子日朗(父は平賀二郎有国で、後述する日像・日輪の異父兄)を導師として招き、屋敷内に御堂を建立した。これが現在の本土寺で、池上本門寺・鎌倉妙本寺と共に「朗門の三長三本の本山」と称される屈指の名刹となった。忠晴の子は日像・日輪といった日蓮宗の高僧となった。

 平賀氏館は、前述の通り本土寺の境内となっている。広大な境内を有する寺で、館の明確な遺構は確認できないが、段丘の突出部の上にあり、南以外の三方を崖で囲まれた地勢は館跡を思わせる。境内には甲斐武田氏一門の秋山虎康や、その娘で徳川家康の側室となった秋山夫人の墓が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.840177/139.928076/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


日蓮「立正安国論」「開目抄」 ビギナーズ 日本の思想 (角川ソフィア文庫)

日蓮「立正安国論」「開目抄」 ビギナーズ 日本の思想 (角川ソフィア文庫)

  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2013/09/19
  • メディア: Kindle版


タグ:居館
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山田氏館(埼玉県東秩父村) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN1324.JPG←館跡推定地の平場
 山田氏館は、松山城主上田朝直(安独斎宗調)の家老で腰越城主であった山田伊賀守直定の居館である。直定は、1562年の赤浜合戦で太田資正勢と戦い討死にしたと言う。

 山田氏館は、腰越城と安戸城の間にある安戸宿の北側丘陵地にあったらしい。明確な場所は不明とされるが、丘陵上に何段かの平場があり、その付近にあったことが想像される。尚、丘陵地背後の山林の中には山田氏の墓があり、村の文化財となっている。
山田氏の墓→DSCN1326.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.050686/139.224522/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実 (角川ソフィア文庫)

関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 黒田 基樹
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2017/01/25
  • メディア: Kindle版


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竹沢二郎館(埼玉県小川町) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN1320.JPG←館跡の平場
 竹沢二郎館は、武蔵七党児玉党の一流、竹沢二郎行高の居館である。平安末期に児玉保義の5男行高が竹沢郷に分封され、竹沢氏を称してここに館を構えた。その後の竹沢氏の事績は不明点が多いが、南北朝時代に鎌倉府執事畠山道誓(国清)の命で新田義興(新田義貞の庶子)を矢口渡で謀殺した竹沢右京亮は、一説にはこの竹沢氏の末裔とも言われる。但し、『太平記』の西源院本(古態本系)では「片沢」右京亮とある。同族の江戸遠江守とともに坂東八平氏秩父氏の一流とされるので、児玉党竹沢氏とは別流であろう。1368年に鎌倉府の武蔵支配に不満を高めていた武州平一揆が挙兵した際には、竹沢左近将監が挙兵に加わって敗れ没落しているが、これも平一揆の名の通り平氏流竹沢氏と思われるので、竹沢二郎行高の後裔とは別流ではないだろうか。

 竹沢二郎館は、雲龍寺の北東の谷戸にある。雲龍寺背後にある熊野神社への参道脇から登ることができる。奥まで南北に3段の平場が展開しているようだが、夏場で雑草がすごかったので、奥まで行くのは断念した。鎌倉時代の土豪の居館に多い、背後に山を控えた選地の居館である。尚、熊野神社の脇には竹沢氏所縁とされる五輪塔がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.074797/139.241259/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武蔵の武士団: その成立と故地を探る (読みなおす日本史)

武蔵の武士団: その成立と故地を探る (読みなおす日本史)

  • 作者: 元久, 安田
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2020/01/15
  • メディア: 単行本


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花井氏陣屋(埼玉県深谷市) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN1087.JPG←菅沼定利の供養塔
 花井氏陣屋は、旧本郷村を領した花井氏の陣屋である。花井氏の前は上野吉井城主菅沼氏の陣屋があった。菅沼小大膳定利は三河国額田郡菅沼の出身で、徳川氏に仕え、長篠の合戦で軍功を上げた。1582年、織田信長横死後の武田遺領争奪戦「天正壬午の乱」を経て信濃の過半が徳川氏の支配下となると、下伊那の飯田城に入って伊那郡を統括した。1590年に徳川家康が関東に移封となると、定利は吉井城主となり2万石を領し、本郷村も菅沼氏が支配するところとなった。菅沼氏は本郷字木の下に陣屋を置いたが、1603年に本郷村450石、榛沢新田村の一部50石、合計500石を菅沼氏と縁の深い花井伊賀守定清に与え、以後は花井氏の陣屋が置かれた。その後、1690年の花井勘左エ門の時に分家200石が足された。花井氏は本家300石、分家200石で続き、花井家14代吉十郎の時に明治維新を迎えた。

 花井氏陣屋は、定光院の南にあったらしい。遺構は完全に湮滅し、一面の畑と宅地に変貌しているが、菅沼定利が開基した定光院に、花井家歴代の墓が残っている。また定光院の南の畑脇には菅沼定利の供養塔が残る。供養塔の解説板によれば、供養塔は陣屋の北端に建てられたらしく、供養塔の位置から南側が陣屋跡であるらしい。
花井家歴代の墓→DSCN1080.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.170767/139.212162/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
(場所は菅沼定利供養塔の位置)


埼玉県の歴史 (県史)

埼玉県の歴史 (県史)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2010/11/01
  • メディア: 単行本


タグ:陣屋
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北根代官所(埼玉県深谷市) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN1068.JPG←代官所跡
 北根代官所は、徳川家の旗本日根野氏が置いた代官所である。日根野氏は最初豊臣秀次に仕えていたが、後に徳川家康に仕えた。その所領は武蔵・常陸・上野に分散しており、合計1500石余りを領していた。1680年には目付役に任ぜられた。日根野氏は江戸に居住していたため、武蔵の北根村・柏合村・長在家村の支配を行うため、北根村の名主であった宇野家を郷代官に任じた。北根代官所は、宇野家の役宅を兼ねた居宅である。郷代官は、地頭所の下達文書を各村の名主に伝えたり上申書を取り次いだり、年貢扶役の割付・調停なども行い、報酬として給米や所役免除の特権を与えられ、名字帯刀など武士の格式が認められていたらしい。

 北根代官所は、現在県の史跡に指定されている。現在も宇野家の宅地・居宅であるため、許可なく中に入る事はできない。現在の建物は1747年にたてられたものであるが、傍から見ると古い農家の建物ぐらいにしか見えない。屋敷の北側に土塁が、西と北には空堀が残ると解説板に書いてあるが、空堀は埋められてしまったらしく、わずかに北側の土塁が道路脇に確認できるだけである。
北側の土塁→DSCN1073.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.145196/139.252546/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


埼玉県の歴史散歩

埼玉県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2005/03/01
  • メディア: 単行本


タグ:代官所
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新開氏館(埼玉県深谷市) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN1030.JPG←館跡付近の現況
 新開氏館は、新開荒次郎実重の居館である。新開氏は、渡来系の豪族秦河勝の後裔と言われ、平安時代末に新開次郎忠氏がこの地に館を構えた。実重は、相模西部の豪族で鎌倉幕府創業の功臣土肥実平の次男で、忠氏の養子となって新開氏を継いだ。石橋山合戦で大敗した源頼朝が海路で安房に逃れた際、同道した主従7騎の中に忠氏の名があり、一方の実重は北条政子に頼朝の無事を伝える使者を務めたとされる。頼朝が鎌倉に幕府を開くと、実重はその御家人となって活躍した。子孫は鎌倉末期に越中・阿波に移ったが、このうち阿波新開氏は牛岐城を本拠として阿波細川氏・三好氏に仕え、戦国末期に長宗我部元親に滅ぼされるまでその命脈を保った。

 新開氏館は、小山川西方の東雲寺と大林寺の間辺りにあったらしい。遺構は完全に湮滅しており、正確な位置も判明していない。昭和20年代前半の航空写真を見ると、東雲寺の西隣にほぼ方形をした畑の区画が確認できるが、これが館跡であろうか?
 尚、東雲寺には新開実重の墓が、また大林寺にはその夫人の墓がある。それぞれ男寺・女寺と呼ばれ、それぞれの寺に男女を別々に葬るという珍しい風習が明治時代まで伝わっていたという。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.229865/139.302671/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


相模のもののふたち―中世史を歩く (有隣新書10)

相模のもののふたち―中世史を歩く (有隣新書10)

  • 作者: 永井 路子
  • 出版社/メーカー: 有隣堂
  • 発売日: 2022/12/29
  • メディア: 新書


タグ:居館
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熊谷陣屋(埼玉県熊谷市) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN1005.JPG←陣屋跡の現況
 熊谷陣屋は、熊谷宿を領した忍藩が築いた出張陣屋(役所)である。忍藩主の命を受けて町の運営が行われ、忍藩の役人が交替で陣屋に赴いて、駅伝事務や地方事務など熊谷宿の運営の監督をした。陣屋には、平時は留守番が置かれ、事あるときは役人を派遣して事務を行ったと言う。陣屋が設置された年月は不明で、その規模もあまり大きなものではなかったと考えられている。

 熊谷陣屋は、千形神社脇にあったらしい。遺構は完全に湮滅しているが、神社境内の脇に標柱と解説板があり、中山道から神社に至る道には陣屋町通りの名が残る。尚、訪問したのは7月下旬であったが、近々祭りがあるらしく、見事な山車の準備が行われていた。
準備中の山車→DSCN1003.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.145733/139.384532/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


小藩大名の家臣団と陣屋町 3 南関東・中部(新装改訂版)

小藩大名の家臣団と陣屋町 3 南関東・中部(新装改訂版)

  • 作者: 米田藤博
  • 出版社/メーカー: クレス出版
  • 発売日: 2021/03/25
  • メディア: 単行本


タグ:陣屋
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大成館(埼玉県さいたま市) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN0852.JPG←館跡の普門院
 大成館は、応永年間(1394~1428年)にこの地の領主であった金子駿河守家光の居館と伝えられる。1426年、駿河守は関東を巡って仏法を説いていた曹洞宗の高僧・月江正文に帰依し、自らの居館を禅庵に改め、寺号を普門院としたと言う。

 大成館は、現在普門院の境内となっている。よくある単郭方形居館であったらしく、以前は北辺の空堀が残っていたが、館跡北部が大成中学建設の際に校地の一部となってしまい、空堀は失われたと言う。戦後間もなくの航空写真を見ると確かに空堀らしいものが確認できる。結局今では遺構は残っておらず、門前の「大成館跡」の石碑が残るだけである。尚、普門院には大成領主であった旗本小栗忠政一族の墓が残っている。幕末の偉人の一人、小栗上野介忠順の直系の先祖である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.911742/139.612777/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


小栗上野介

小栗上野介

  • 作者: 村上 泰賢
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2010/12/15
  • メディア: ペーパーバック


タグ:居館
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内藤氏陣屋(埼玉県久喜市) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN0792.JPG←陣屋跡の現況
 内藤氏陣屋は、栢山陣屋とも言い、徳川家の旗本内藤氏が築いた陣屋である。内藤氏の初四郎左衛門正成は、徳川家康の父広忠の代から仕えた武将で、弓・槍の名手として知られ、三河一向一揆の戦い・三方ヶ原の戦い姉川の戦い・小牧長久手の戦いなど家康の名だたる合戦に従軍して軍功著しく、徳川16神将に挙げられた。1590年に徳川氏が関東に移封となると、正成も家康に従って関東に移り、菖蒲・新堀・小林・栢山・三箇の5ヶ村5000石を拝領し、栢山に所領支配のための陣屋を造営した。1602年4月に正成がこの地で病に臥すと、2代将軍秀忠は侍医の久志本左京亮常衡を差し遣わして治療に当たらせるほど、将軍の信任を得ていた。1625年に旗本の府内宅地の制により、内藤家が江戸詰めとなってからも陣屋は置かれた。正成の孫・新五郎忠俊の時に改易となったが、正成の外孫・内藤外記正重が跡を継いで家名と所領は存続した。最終的には5700石まで加増され、幕末まで約280年間・14代にわたって大身旗本として続いた。

 内藤氏陣屋は、現在栢山小学校の校地となっている。久喜市の資料によれば、陣屋の範囲は小学校校地よりも更に西と南に広がっていらしく、北から北西辺にかけては二重の堀で囲まれ、南には2つの外郭があったらしい。現在はわずかに堀の名残の水路が残っているぐらいで、遺構は完全に湮滅している。小学校南に解説板があるだけである。尚、南西にある善宗寺に正成に始まる内藤一族の墓所がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.035418/139.579110/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


江戸の旗本事典 (角川ソフィア文庫)

江戸の旗本事典 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 小川 恭一
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA/角川学芸出版
  • 発売日: 2016/01/23
  • メディア: 文庫


タグ:陣屋
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鴻巣御殿(埼玉県鴻巣市) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN0780.JPG←御殿跡に残る東照宮
 鴻巣御殿は、徳川家康が関東各地に造営した御殿の一つである。鷹狩や領内視察などの宿泊・休憩所として1593年に建てられた。規模はおよそ一町四反歩(約1.4ヘクタール)に及んだとされる。その後、秀忠・家光と将軍家3代にわたって鷹狩の際の休泊所として利用されたが、1630年頃を最後としてそれ以降使用されなくなった。1657年の明暦の大火後にその一部が解体されて江戸城に運ばれ再利用された。1682年頃には残りの建物も腐朽して倒壊し、1691年には御殿地に東照宮を祀り除地としたと言う。

 鴻巣御殿は、現在では路地裏の小さな東照宮しか残っていない。なんでも日本一小さい東照宮とのことで、近年まで御殿の比定地も明らかでなかったが、平成6年の試掘調査でその一部が確認されたらしい。東照宮前を通る路地の街並みが「御成町」で、将軍が御成りになったことにちなむ名にその歴史を残している。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.057573/139.511840/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


徳川家康という人 (河出新書)

徳川家康という人 (河出新書)

  • 作者: 本郷和人
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2022/10/26
  • メディア: Kindle版


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小谷城(埼玉県鴻巣市) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN0689.JPG←城跡の現況
 小谷(こや)城は、戦国期に忍城主成田氏の家臣小宮山内膳の居城であったと伝えられる。小谷とは即ち「小屋」であり、戦国時代には小規模な城のことを「小屋」と呼んだ。小宮山氏としては、同じ成田氏の家臣の中に戸塚城主小宮山弾正介忠孝がおり、弾正介は小谷城北方にある宝勝寺の開基であったとも伝えられる。これらのことから、内膳と弾正介は同族であり、内膳の方が古い時代の人であったと推測されている。また宝勝寺の石碑では、弾正介が小谷城主の時、城の塁壁内に宝勝寺を建立したものと推測している。尚、1590年の小田原の役の際、忍城主成田氏長は小田原城に詰めており、その応援部隊の中に小宮山弾正の名がある。豊臣秀吉に降伏した成田氏は、1591年に下野烏山城に移封となっており、成田氏に仕えた小宮山氏は弾正が最後であったろうと考えられている。

 小谷城は、荒川東岸の平地にあったらしい。現在は城跡付近を堤防が貫通しており、往時の景観は変わってしまっている。堤防上にある現地解説板によれば、城の中心部は堤防の西側にあったらしく、近辺には城山・小城沼・元屋敷・仕置場など城に関係した地名が残ると言うが、一面の畑・空き地になってしまっている。近くの日枝神社は城の北東にあるため、城の鬼門除けとして祀られた社との説もある。今となっては失われた城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.077190/139.465964/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


 尚、訪城した時、たまたま日枝神社では氏子さん達が集まって作業をしていたが、覆屋の中にある本殿を案内してくれた。なんでも令和になってから発見された本殿とのことで、それまでは覆屋の中は未整備の物置状態で、誰も中を覗けなかった状態だったらしい。中を皆さんで整理したところ、現れたのは国宝の妻沼聖天山とよく似た極彩色の貴重な本殿で(⇒当時の新聞記事はこちら)、とりあえず2022年2月に市の有形文化財に指定されたばかりとのこと。普段は見ることのできない本殿で、とても貴重なものを見せていただける幸運に巡り会えた。案内していただいた方には本当に感謝!である。
素晴らしい彫刻の本殿→DSCN0706.JPG
(拡大可)



秀吉の天下統一戦争 (戦争の日本史)

秀吉の天下統一戦争 (戦争の日本史)

  • 作者: 小和田 哲男
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2006/09/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世平城
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箕田館(埼玉県鴻巣市) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN0660.JPG←館跡付近に立つ石碑
 箕田(みだ)館は、平安時代に箕田源氏、源仕(みなもとのつこう)・宛(あたる)・渡辺綱(つな)3代の居館であったと伝えられる。箕田源氏は嵯峨源氏の一流で、嵯峨天皇の第8皇子源融(とおる)の孫・仕が、長じて後に武蔵国箕田郷に居を構えたことに始まる。周辺の土地を開墾し、家の子・郎党を養い、次第に力を蓄えた。知勇兼備の武将として武蔵介源経基に仕え、承平天慶の乱では平将門討伐や藤原純友討伐に軍功を挙げ、従五位上武蔵守となった。その子・宛は弓馬の道に優れ、父・仕に従って西国で藤原純友討伐に軍功を挙げたが、953年に21歳で没した。宛の長子・綱は953年に箕田に生まれ、幼くして両親を失い、従母である多田満仲の娘に引き取られ、摂津国渡辺庄で育ち、渡辺姓を名乗った。幼少より勇名を馳せ、長じてからは源頼光に仕え、頼光四天王の第一と称せられた剛勇の武将であった。

 箕田館は、箕田氷川八幡神社の北、満願寺の南にあったとされる。しかし館跡付近は現在一面の住宅地に変貌しており、遺構は一切残っていない。1000年以上前の開発領主の館であるから、遺構が残っていなくても仕方のないところだろう。県の旧跡に指定されているが、標柱や解説板は現地にはない。市のHPに載っている館跡の小さい石碑は館を示すものではなく、山上・荒神と刻まれた地域信仰のもので、住宅地の中に完全に埋没している。ただ館跡付近には箕田古墳群があり、その2号墳は三士塚とも呼ばれ、源仕とその妻子の墓との伝承もあるが、築造年代が合わず伝承は否定されている。尚、宝持寺や箕田氷川八幡神社は箕田源氏所縁の地で、その解説板や由緒書に箕田源氏3代の記載があり、箕田碑が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.080555/139.480373/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


平将門と天慶の乱 (講談社現代新書)

平将門と天慶の乱 (講談社現代新書)

  • 作者: 乃至 政彦
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2019/04/10
  • メディア: 新書


タグ:居館
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設楽氏陣屋(埼玉県加須市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC07574.JPG←標柱が立つ陣屋跡伝承地
 設楽氏陣屋は、礼羽陣屋とも言い、徳川家康の家臣設楽氏が礼羽に築いた陣屋である。設楽氏は2代貞通の時に三河国設楽郡の川路城主となり家康に仕えた。1590年の小田原の役の後、徳川氏が関東に移封となると、設楽氏3代甚三郎貞清も関東に移り、武蔵国太田庄羽生領の内、加須・礼羽・馬内・戸崎の4ヶ村1500石を拝領し、礼羽に陣屋を構えた。後に陣屋は加須に移され、明治の初めまで蔵屋敷として残っていたと言う。

 設楽氏陣屋は、礼羽氏館跡のすぐ東にあったらしい。遺構はなく、現在は畑の隅に標柱が立っているだけである。標柱には、「伝承 陣屋跡」とあるので、正確な場所もわかっていないようである。尚、3代貞清が開基した香積寺に、設楽家累代の墓があり、市の史跡となっている。
設楽家累代の墓→DSCN0601.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.127052/139.583970/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


江戸の旗本事典 (角川ソフィア文庫)

江戸の旗本事典 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 小川 恭一
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA/角川学芸出版
  • 発売日: 2016/01/23
  • メディア: 文庫


タグ:陣屋
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武藤氏屋敷(静岡県森町) [古城めぐり(静岡)]

DSCN0560.JPG←宅地裏に残る土塁
 武藤氏屋敷は、一宮荘の代官職を務めた武藤氏の居館である。遠江武藤氏は、遠江国初代守護安田義定(甲斐源氏・源清光の子で武田信義の弟)に仕えた目代武藤五郎が史料上の初見である。武藤氏では、九州に下向して大宰少弐職を代々世襲して職名を姓とした少弐氏が有名であるが、南北朝の動乱が始まった1336年に太田郷一藤名が少弐氏に伝領されている。室町中期の文安年間(1444~49年)から明応年間(1492~1501年)にかけての時期の室町幕府奉公衆の中には、武藤遠江守や武藤弥次郎等の名が見える。これに先立つ1432年に、武藤与次郎用定が一宮荘代官職に任ぜられた。武藤刑部丞氏定は用定の末裔と考えられ、戦国期に駿河遠江を制圧した甲斐武田氏に属して真田城を築いたが、1581年の徳川家康による高天神城攻撃の際に討死した。その子孫武藤孫左衛門は掛川亀ノ甲村に土着したと言う。その後、武藤氏屋敷がどうなっていたのか不明であるが、江戸中期の1679~1722年には旗本土屋主税の陣屋敷として使用された。土屋主税は、赤穂浪士の吉良上野介邸討入りの際、吉良邸の隣に江戸屋敷があったので、忠臣蔵では討入りの場面でよく出てくる武士である。

 武藤氏屋敷は、香勝寺南の住宅地の中にある。太田川西岸の段丘上の斜面に位置している。遺構は湮滅が進んでいるが、北側の道路脇に東西に走る土塁が残っている。また敷地東側には段差があり、屋敷地としての地勢はうかがうことができる。尚、香勝寺には武藤氏一族の墓が残っているが、香勝寺はききょう寺として有名で、墓所に行くには入園料を支払う必要がある。
武藤氏一族の墓→DSCN0552.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.825703/137.913684/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


静岡県の歴史散歩

静岡県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2006/08/01
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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陣山館(宮城県気仙沼市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN0246.JPG←主郭の現況
 陣山館は、戦国末期の1588年に生起した「浜田の乱」の際に取り立てられた陣城と推測されている。1588年春、葛西氏の家臣で気仙郡の旗頭であった千葉(浜田)安房守広綱は、主家葛西氏に反逆して浜田の乱と呼ばれる戦乱を起こした。その経緯は米ヶ崎城の項に記載する。5月に行われた合戦での広綱の攻略目標は、赤岩城主気仙沼熊谷氏の支城であった長崎城であった。その際、浜田氏に加担してその先鋒となった忍館城主鹿折信濃時兼は気仙沼口に到り、熊谷方が布陣した笹ヶ嶺を望見して「敵は案外微勢である」とうそぶいたと伝えられる(『熊谷家記』)。ここにある気仙沼口が陣山とされ、浜田勢が一時期ここに陣を構えたと推測されている。

 陣山館は、気仙沼港の最奥にある比高50m程の丘陵先端の小山に築かれている。現在は復興祈念公園に変貌しており、その前段階として2019年度に発掘調査が行われた。その報告書では、「公園の整備は大規模な造成工事を避け、現在の自然地形を生かして令和2年度に完成する予定である。これは陣山館跡が、おおむね現状保存されることを意味する。」とあるが、確かに地勢は往時のままであるが、腰曲輪群や土塁・空堀は公園化でかなり改変されてしまっており、山頂に至るスロープの通路が開削されたり排水溝が敷設されたりと、ほとんどまともに遺構が残っていない。主郭に至っては復興モニュメントが建っていて、完全に整地されてしまっている。なんとか南斜面に腰曲輪らしい段があるのがわかる程度である。ただ元々陣山館は山頂の主郭を中心に小規模な腰曲輪群が築かれただけの小規模で簡素な城砦であり、公園化されていなかったとしてもわずかな遺構しかなかったのだろう。1000年に一度という未曾有の大震災から立ち直るためには、やむを得ないところか。
南斜面の腰曲輪群→DSCN0257.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.909577/141.578901/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


復興を生きる: 東日本大震災 被災地からの声

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  • 作者: 河北新報社編集局
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  • 発売日: 2022/08/30
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タグ:陣城
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あけましておめでとうございます [日記]

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

昨年は、新型コロナが収束もしていないのに、
大馬鹿プーチンが戦争をおっぱじめて大変な年になってしまいました。
年末にタモリさんが、今年は「新しい戦前になるんじゃないか」という
恐ろしい予想をしていましたが、
そうならないことを祈るばかりです。

世界に平和を取り戻す1年になりますように・・・。
また皆様のご多幸をお祈りいたします。
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