SSブログ
神社・仏閣めぐり ブログトップ

安産稲荷神社(栃木県宇都宮市) [神社・仏閣めぐり]

IMG_6258.JPG←社殿
 安産稲荷神社は、宇都宮氏所縁の神社である。社伝によれば1053年に創建されたと伝えられる古社で、兵庫塚街道沿いに位置している。1237年、宇都宮氏5代頼綱の次男越中守頼業が横田城を築いた時、当社を再建して子孫長久の為安産を祈ったと、幕田町に建立されている安産稲荷神社道標に刻まれていると言う。正安年中(1299~1301年)には宇都宮氏8代貞綱の妾梅の方が難産の時、当社に祈願して男児を無事出産したので、京都へ安産の号を願い出て、正一位安産稲荷大明神の号を賜った。この男児が、後に『太平記』で勇名を馳せる宇都宮公綱である。1590年には、宇都宮氏22代国綱の奥方が当社に祈り、夫婦円満の神託を得たと言われる。(平成29年度歴史展『姿川の石碑・野仏』より)

 安産稲荷神社は、宇都宮市中心部からはかなり南に離れた位置にあるので(JR宇都宮駅から直線距離で7.3km程)、宇都宮氏所縁の史跡としては近隣の人以外にはほとんど知られていないであろう。かく言う私も宇都宮市在住でありながら、つい数年前までその存在を知らなかった。何ということもない、ごくありふれた神社の類で、特に特色のあるものではない。しかし住宅地の真ん中とは思えない、静かな社叢に包まれており、その歴史と共に雰囲気が素晴らしい。
安産稲荷道の道標→IMG_6169.JPG

 場所:【安産稲荷神社】http://maps.gsi.go.jp/#16/36.504341/139.854026/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
    【安産稲荷道の道標】http://maps.gsi.go.jp/#16/36.504393/139.837976/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


うつのみやの地名と歴史散歩

うつのみやの地名と歴史散歩

  • 作者: 塙 静夫
  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2015/09/18
  • メディア: 単行本


nice!(7)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

安国寺(京都府綾部市) [神社・仏閣めぐり]

IMG_7604.JPG←開山堂とその脇の3人の墓
(2014年4月訪問)
 安国寺は、元々は光福寺と呼ばれ、室町幕府を開創した足利尊氏の出生の地と言われている。尊氏の母清子は上杉氏の出身で、上杉氏は1252年に勧修寺重房がこの地、上杉荘を賜り、上杉氏を名乗ったことに始まる。上杉頼重の娘清子は足利貞氏に嫁ぎ、出産のために故郷のこの地に帰り、光福寺門前にあった上杉氏の別邸で尊氏を産んだと伝えられている。但し、尊氏の出生地には鎌倉説や足利説もあり確定はしていないが、綾部説が最も有力であるとされている。北朝を擁立して室町幕府を開いた尊氏・直義兄弟は、南北朝の戦乱で亡くなった多くの戦没者を供養する為、深く帰依していた夢窓疎石の勧めに従い、全国に安国寺・利生塔を建立した。しかし安国寺は、新たに創建したのではなく、その多くは元からあった寺院を安国寺として名付け直したものが多く、綾部の安国寺もそうしたものの一つで、全国の安国寺の筆頭に置かれた。

 安国寺は、京都縦貫道の綾部安国寺IC近くにあり、門前には「足利尊氏公誕生之地」の石碑や、尊氏誕生時の産湯に使われたという「産湯の井戸」などが残る。また境内の片隅には、尊氏の母清子、尊氏、尊氏の妻登子の墓が残っている。安国寺文書によると、尊氏と登子の遺骨はそれぞれ没後2ヶ月後に2代将軍義詮によって安国寺に奉納されたと言い、足利家とは縁の深い、かなり由緒正しい寺であったことが伺われる。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.341030/135.307314/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

長勝寺(青森県弘前市) [神社・仏閣めぐり]

DSC08899.JPG←津軽家霊屋
 長勝寺は、津軽藩の菩提寺である。元々は1526年に種里城で没した南部光信の為に、子の大浦城主大浦盛信が種里に建立したのが始まりである。その後、5代為信が大浦に移し、堀越城下を経て1610年に津軽藩の菩提寺としてこの地に建立した。長勝寺のある河岸段丘基部には長勝寺構と呼ばれる土塁遺構が残り、有事の際に出城として機能するよう考えられており、弘前城危殆の際には、城主が長勝寺に逃れることになっていたとも言われている。津軽家にとって重要な地であり、歴代藩主と奥方の5棟の霊屋(霊廟)が残り、本堂・庫裡・御影堂などなどと共に重要文化財に指定されている。
 長勝寺は、禅林街の西端にある。寺の背後は比高20m程の急崖を為す天然の要害の地で、弘前城の築城を始めた津軽為信は、本当はここに城を作りたかったが幕府が許可しなかったと伝えられていると、長勝寺の方から解説があった。また庫裡は、大浦城の台所を移築したものと伝えられ、即ち、城として100年+寺として400年の計500年前の遺構であると言う。この庫裡は、天井が茅葺きとなった珍しい構造である。また床板には草鞋の下の鉄杭(スパイク)が突き刺さった跡の穴がたくさん開いていて、合戦時に武将が土足で上がった名残だと言う。尚、庫裡の前では発掘調査が行われていた。最近、神社仏閣に関してはほとんどブログには書いていないが、長勝寺に関しては色々と面白い話が聞けたので備忘録として記載した。
大浦城から移築された庫裡→DSC08892.JPG

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/40.598713/140.450689/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

平泉寺(福井県勝山市) [神社・仏閣めぐり]

IMG_6179.JPG←木漏れ日の差す参道
(2004年9月訪問)
 平泉寺は、現在は白山神社と呼ばれ、中世越前の巨大な宗教勢力であった。717年、泰澄大師によって創建され、信仰の山、白山の表参道として繁栄し、かつては48社36堂6千坊が立ち並んだ一大宗教都市で、多くの僧兵を擁して大名に匹敵する強大な勢力を有していた。南北朝の騒乱に於いても、越前で攻防を繰り広げた北朝方の斯波高経と南朝方の新田義貞が平泉寺宗徒を自軍に引き入れようと苦心したほどであった。その勢威は戦国時代に至るまで続いたが、1574年に勢力を増した加賀一向一揆勢の乱入によって全山ことごとく焼失し、その栄華に終わりを迎えることとなった。後に豊臣秀吉によって再興され、以後福井松平藩の庇護を受けて明治時代を迎え、現在に至っている。
 平泉寺は、寺院城郭平泉寺城としても知られ、参道脇に連なる石垣や僧坊群の石垣は、往時の勢威を今に伝えている。また旧玄成院庭園は、室町末期に管領細川高国によって作庭されたと伝えられ、この地に花開いた文化の片鱗を残している。その他に、境内の奥には楠木正成の墓塔が残っている。これは、平泉寺宗徒であった正成の甥恵秀律師が、正成の摂津湊川での戦死後に建立して菩提を弔ったものと伝えられている。
 古社の、苔むした森厳とした雰囲気の中に佇むのは何とも素晴らしく、時のたつのを忘れさせてくれる。
楠木正成公墓塔→IMG_6167.JPG

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.043877/136.542152/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:墓所
nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

井波瑞泉寺(富山県南砺市) [神社・仏閣めぐり]

IMG_5272.JPG←豪壮な山門
(2004年5月訪問)
 井波瑞泉寺は、東本願寺の別院となる大きな寺院である。1390年に本願寺5世綽如上人によって創建された。戦国時代に瑞泉寺は、越中一向一揆の一大拠点となったため、度々戦国大名の攻撃目標となり、対する一向衆側も瑞泉寺を城塞化して井波城とした。後に越中に侵攻した織田軍の先鋒佐々成政は瑞泉寺を焼き払った。兵火を逃れて城端北野に移った後、再び井波へ戻り、現在の場所に再建された。
 北陸には大伽藍が多いが、瑞泉寺もまた格別で、特に大きな山門や本堂左手の太子堂は、彫刻で有名な井波の技術の粋を結集した見事な彫刻で飾られ、人目を引く。また境内周囲の石垣は、城郭のものを思わせる程重厚で見事なものである。
 なお、瑞泉寺の東隣に井波城址があるが、瑞泉寺に行った時はそのことを知らず、見逃してしまった。
見事な彫刻の太子堂→IMG_5286.JPG

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.558601/136.972239/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

篠塚稲荷神社(東京都台東区) [神社・仏閣めぐり]

DSC04253.JPG
 篠塚稲荷神社は、新田義貞の家臣篠塚伊賀守重廣にまつわる神社である。篠塚伊賀守は、新田四天王の一人として知られ、剛勇を以って鳴らした武将である。義貞が越前の戦いで討死し、その弟脇屋義助が伊予に転戦すると、それに従って伊予に移り、義助陣没後も世田城・笠松城で抵抗を続けた。しかし阿波守護の細川頼春の大軍に攻め落とされ、大館氏明は戦死した。一方、篠塚伊賀守は並みいる敵兵を相手にたった一人で敵中を突破し、足利方の船を奪って戦場から逃れた。この後、魚島を経由して、遠く常陸に逃れたという。その後、武蔵に移って主家の再興を念願し、稲荷社の傍らに庵を結んで出家し日夜参篭を怠らなかったと伝えられている。いつしかその稲荷社は、篠塚稲荷神社と呼ばれるようになり、今日に及んでいると言う。
 篠塚稲荷神社は、かつての江戸城浅草御門近くにある。篠塚伊賀守が伊予から遠く離れたこの地に庵を営んだというのは俄かには信じ難いが、そうした伝承が残ると言うことは何らかの所縁があるのだろう。都会の喧騒の中にたたずむ小さな神社であるが、こんなところにも太平記の歴史が息づいていると思うと、何ともいえぬ思いに駆られそうだ。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.696131/139.786627/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
nice!(8)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

太田姫稲荷神社(東京都千代田区) [神社・仏閣めぐり]

DSC02195.JPG
 太田姫稲荷神社は、太田道灌に由来する神社である。社伝に拠れば、太田道灌の最愛の姫が疱瘡に罹り生死の境を彷徨った時、ある人が疱瘡除けで知られる一口稲荷神社のことを話したので、道灌は急使を派して祈願したところ、たちどころに姫の病が癒え、以後道灌の崇敬の念篤く、江戸城本丸に一社を建立した。しばらくして、神の託宣によって江戸城鬼門に移した。これが1457年のことと伝えられている。後に、徳川家康が江戸に開府すると、この社を江戸城西ノ丸鬼門に当たる、神田駿河台東側の大阪に移した。以後、この坂は一口坂と呼ばれ、後には鈴木淡路守の屋敷ができた為、現在は淡路坂と呼ばれている。というわけで、太田姫稲荷神社は、江戸時代には江戸城外堀に架かる聖橋のたもと、淡路坂を登りきったところにあったが、関東大震災で焼失し、昭和6年に総武線開通工事のために現在地に移転した。元あった場所には、現在も御神木が建ち、「元宮」の札が掲げられている。

 この神社に行ったのは、たまたま出張でこの近くに行って歩いていたら、「駿河台道灌道」という通りの名が目に留まり、何か由来があるのだろうと昼休みに周囲を散策したら、この神社があったのである。東京にはあちこちに道灌所縁の史跡があり、道灌がその死後もいかに江戸の人々に人気があったかを現在に伝えている。尚、神社裏手には、道灌の供養碑も建っている。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.696428/139.763099/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

大滝神社(福井県越前市) [神社・仏閣めぐり]

IMG_4632.JPG
(2004年4月訪問)
 大滝神社は、正式には大瀧神社と記載され、推古天皇の時代に創建されたと伝えられる古社である。南北朝時代には、平泉寺の末寺となって北朝方に抗して、兵火によって一時衰退した。その後戦国時代になると、戦国大名朝倉氏の帰依を受けて興隆した。1575年に織田信長が越前一向一揆を攻略した際、灰燼に帰したが、その後領主となった丹羽長秀によって復興され、江戸時代を通して越前松平氏の庇護を受けた。1843年に老朽化により現在の本殿・拝殿が再建された。
 国の重文指定になっている本殿・拝殿は、見事で華麗な彫刻をまとう、すばらしい寺社建築である。由緒書きに「江戸後期の社殿建築美の粋を尽した」とあるが、まさしくその通りの姿で、小さな建築物にもかかわらず、幾重にも破風を重ねて様式美をぎゅっと凝縮させたような姿は非常に見応えがあり、6年たった今でも忘れられない。全国に重文指定の寺社建築は多いが、これ程見事なものは数えるほどしかないだろう。極めて貴重なものである。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.906745/136.253225/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

埴生護国八幡宮(富山県小矢部市) [神社・仏閣めぐり]

IMG_4402.JPG←木曽義仲騎馬像
(2003年10月訪問)
 埴生護国八幡宮は、1183年5月に木曽義仲が倶利伽羅山で平維盛率いる平家の大軍と決戦するに当たり、戦勝祈願した神社である。以来、蓮沼城主遊佐氏、武田信玄、佐々成政等の戦国武将の信仰が篤く、江戸時代には加賀藩主前田候の祈願社となった。社名の「護国」とは、江戸の始めに地方に凶作が続いたことから、前田利長が埴生八幡宮に祈願し、尊号を奉ったことに由来すると言う。
 また社殿は、1600年の関ヶ原の戦いの折、前田利長が大聖寺に出陣する際に埴生八幡宮に祈願し、帰陣の後に報賽として本殿を改築したものである。その後1611年、高岡城に在城中に病気平癒祈願の為、釣殿を寄進。また1622年には、前田利常の室、天徳院の産後祈願の為、拝殿と幣殿を改築した。これらの社殿は、江戸時代初期の優れた建築として、国の重要文化財に指定されている。
 またこの八幡宮には、境内に木曽義仲の騎馬武者姿の雄雄しい銅像が建っている。大きな神社ではないが、義仲ゆかりであり倶利伽羅峠古戦場からも近いので、古戦場に行ったときにはついでに寄ると良いだろう。
重文の社殿→IMG_4399.JPG

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.666870/136.851604/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
nice!(3)  コメント(4) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

瑞龍寺(富山県高岡市) [神社・仏閣めぐり]

IMG_3823.JPG←瑞龍寺の山門
(2003年10月訪問)
 瑞龍寺は、加賀前田家3代前田利常が造営した大伽藍である。利常は名君の誉れ高く、一方で幕府の警戒を恐れて自ら深く韜晦し、加賀藩の基礎を磐石なものとした。また仁君でもあり、庶弟の自分に位を譲ってくれた兄利長に対する追慕の念が深く、利長の死後、兄の菩提を弔うためにこの大伽藍を造営した。
 瑞龍寺の伽藍は、伽藍自体の大きさは驚くようなものではなく、むしろ加賀百万石の築いた寺と考えれば小さいと考えた方がよいかも知れない。この程度の規模の寺社建築物は、北陸では珍しくはない。しかし、山門・仏殿・法堂を一直線上に配置した構成美とそれを取り巻く広大な空間がすばらしく、京都の寺社とは大いに趣を異にしている。そしてこれらの建築物は、富山県内で唯一の国宝建築となって現在に至っている。
 なお境内には、織田信長・信忠親子や前田利家・利長親子の分骨廟も置かれている。歴史好きの方には必見であろう。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.735583/137.010498/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

大塩八幡宮(福井県越前市) [神社・仏閣めぐり]

IMG_4771.JPG←長床形式の拝殿
(2003年9月、2004年4月訪問)
 大塩八幡宮は、891年の鎮座と伝えられる古社で、斯波、朝倉、松平など代々武家の崇敬を受けてきた。南北朝の頃は、杣山城主の瓜生保の一族が宮司を務めていたとも言われ、北陸街道の交通の要地でもあった大塩地区には、新田方の山城も構えられていたらしい。
 古くは源平争乱の時代に、平家を撃破して上洛を目指す木曽義仲の本陣がここに置かれたこともある。1183年京を目指す義仲軍はこの地で作戦会議と陣立てを行った。その際、義仲はここで戦勝祈願をしたと伝えられている。神社の背後の丘陵地には、いくつかの平場と堀切跡が残るが、当時のものとのことである。
 又、この神社には全国的にも珍しい長床形式の拝殿があり、室町時代初期という古い建築とのことで、国の重要文化財に指定されている。簡素な造りで、一見しただけでは「何でこれが重文?」と思うが、神社の拝殿としては確かにあまり例のない構造で、ここ以外では会津の新宮城近くの新宮熊野神社で見たことがあるだけである。
 なかなか由緒ある神社であるので、近くに行った時には寄ると良いだろう。
木曽義仲本陣跡の碑→IMG_4789.JPG
IMG_4791.JPG←義仲陣跡の堀切

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.849187/136.171138/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0
タグ:陣城

尊氏ゆかりの寺 能仁寺 [神社・仏閣めぐり]

DSC04439.JPG
 真岡市の東のはずれに能仁寺という寺がある。足利尊氏が南北朝期に開いた寺と伝えられており、本堂には尊氏の木造も安置されているという。なぜ尊氏が真岡の地にこの寺を開いたのか、その理由はわからない。ただ、ここから更に東に500mほど行った所にある観音堂は、尊氏が15歳のときに夢の中で観音様のお告げがあって、そのためこの地に観音様を安置し、その守護のためという伝承がある。しかし若き日の尊氏(このころは高氏)は、武家の名門清和源氏の嫡流足利氏の嫡男で、普段は鎌倉の屋敷にいたと言われており、しかも足利氏の発祥の地の足利の庄からは遠く離れているので、何ゆえこの地に来たのか、不思議な感じがする。ここに足利氏の飛び領でもあったのであろうか。本当に若き日の尊氏がこの地に足を運んだことがあるとしたら、同じ地に立つと感慨深いものがある。
 観音堂や寺を建てたのが暦応年間、康永年間というから、南北朝の抗争は続いていたものの室町幕府の幕政が安定期に入り、尊氏・直義の二頭体制が表面上はうまくいっていた頃の建立であり、全くいわれのない話ではないのかもしれない。

以下は現地解説板の記載。

大雄山能仁寺(臨済宗妙心寺派)
「本寺は南北朝期、足利尊氏を開基とし、仏国国師(那須雲巌寺の開祖)の高弟、不識妙宥禅師の開山で康永2年(1343年)に建立された。本尊は釈迦如来(県指定文化財)である。
 尊氏公から永一千貫の地を寄付されて、鎌倉円覚寺派十刹の一に列し下野国では、那須の雲巌寺と並んで最高位の寺院となっていた。応永26年(1419年)には、称光天皇から蒙古使に命じて書かせたと伝えられる「関東名藍」の扁額を賜った。戦国時代末期に二度の火災、その後江戸時代に山崩れ等の災害にあったが、仏殿(釈迦堂)と扁額は難を免れたといわれる。
 仏殿には、足利氏の家紋である「丸に二引両」が附され、尊氏の木造やお位牌が安置される尊氏ゆかりの由緒ある寺院である。
 なお、尊氏は暦応元年(1338年)本寺から約五百メートル東の境沢の地に観音堂を建立し、その守護として本寺院を建立したといわれている。」

観音堂
「本堂は、聖観世音菩薩と馬頭観世音菩薩を本尊とし、1338年(北朝 暦応元年)足利尊氏の創建という。
 この境沢の地に建立されたのは、次のようないわれがあります。
 1320年(元応二年)7月9日の夜、尊氏が15歳のとき、夢枕に異形の僧侶が立ち「自分は根本境沢の土中に埋没している観音である。武運長久を願い大将軍を望むならば、来て我が体を拝せよ。」というのである。掘り起こしてみると、聖観音と馬頭観音とが白蛇・黒蛇に護られていた。尊氏深く感じ、これを尊信し、ここに安置されたといわれている。
 さらに、本堂の守護として5年後の1343年(北朝 康永二年)大雄山能仁寺(根本愛宕下)を建立したといわれている。」
観音堂→DSC04446.JPG

初詣(大猷院) [神社・仏閣めぐり]


 正月3日の日に初詣に行った。夕方から仕事があったので、大好きな城めぐりと絡ませながら、限られた時間の中でどう回ろうかと思案した挙句、今年の初詣は日光となった。日光は言わずと知れた世界遺産がひしめいているが、私、東照宮しか行った事無かったんですよねー。前の嫁さんがわがままだったもんで。歩きたくない、疲れる、とか言って・・・。離婚した今は身軽で(正確に言うと調停中だが)、自分の好きなように歩けるのは嬉しい。
 ちょっと早起きして8:30ごろに現地に着いたら、まだ人があまり出てなくてバカ空きだ。輪王寺を見た後、徳川家光の廟所である大猷院に行ったらなんと人が一人もおらず、透明な冬の朝の空気の中で静寂に包まれながら壮麗な建物を堪能する機会に恵まれた。
 しっかしさすがは徳川絶頂期の3代将軍の廟所である。金を惜しまず、これでもかというくらい精緻な彫刻と色鮮やかな装飾の数々。東照宮もすごいが、ここもすごいわ・・・。なんせ水盤舎でさえ、こんなんです。


普通の神社仏閣ではまずお目にかかれない壮麗さだ。一体いくら掛かったんだろう?こんなこと繰り返してたら、幕府財政も破綻するよなぁ・・・。
 さてそれともう一つ気づいたのは、周囲の石垣の積み方の見事さ。この辺は我ながら、城バカ丸出し。神社で石垣に見とれてるんですからねー。まだ4代将軍になったころは、戦国期の石垣技術が残っていたのだろう。城郭並みの見事さだった。


nice!(2)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

山寺立石寺(山形県山形市) [神社・仏閣めぐり]


 ブログで書くのは今回が初めてだが、実は各地の城歩きをしながら、城に所縁のある寺社や、国宝・重文指定されている建造物のある寺社には寄っていることが多い。今回は芭蕉さんでチョー有名な山寺立石寺である。最上家の祖、斯波兼頼が山形入府の後に再建した根本中堂が重文指定されている。
 この日は、天気は曇りであったが湿気と暑気がきつく、山登りをしてお参りすると全身汗だくになってしまった。山登り自体は、山城歩きをしていれば慣れているので、そんなにきついことはない。でもこういう有名なお寺だと年配の方のお参りが多く、麓の土産物屋街では杖の貸し出しがされていた。でも年配の方以外でも、お盆の最後の週末と言うこともあり、若い女性の旅行客や家族連れで結構賑わっていた。
 こちらはと言うと、今日中に山形城まで行きつかなくてはという、時間に余裕のない状態だったので、家族連れなどを追い抜いて一気に山上を目指した。さすがに奇岩奇景が多く、信仰の場と言う感じが強い。山上には、奥の院のほか、最上義光の小さな霊屋も建てられている。ほとんど気づいている人はいないようだったが。
 また山上には、重文指定されている小さな三重塔があるということだったが、実物見てびっくり。三重塔の模型のようなものだった。
 今回はゆっくりと情緒を感じながら観て回るゆとりがなかったが、とりあえず良しとしよう。


神社・仏閣めぐり ブログトップ