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明知陣屋(岐阜県恵那市) [古城めぐり(岐阜)]

DSCN9786.JPG←陣屋前面の水堀・切岸
 明知陣屋は、江戸時代に交代寄合の旗本であった明知遠山氏が築いた陣屋である。遠山利景は1600年の関ヶ原合戦で旧領の明知城を奪還し、1603年に恵那・土岐郡内で6531石を拝領した。1615年の元和の一国一城令で明知城は廃城となり、新たな支配拠点として明知陣屋が造営された。交代寄合となった遠山氏は、当初は領内と江戸の間を参勤交代していたが、1678年以降は江戸定府となった。これ以後、陣屋は代官村上氏によって管理されて、そのまま明治維新を迎えた。

 明知陣屋は、明知城の北西麓の台地上に築かれている。現在陣屋内には民家や大正ロマン館が建っている。しかし陣屋前面には切岸がそびえ、その前には水堀が往時の形を留めている。また陣屋内に通じる小道は往時の大手道で、通路が屈曲する枡形の形態を留めている。陣屋内の宅地の中には、代官村上家の現在の居宅があり、古い武家屋敷の面影を残し、古い形の土蔵も残っている。全体的に往時の面影を残しており、なかなか興味深い。
陣屋跡の全景→DSCN0798.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.304348/137.392144/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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  • 作者: 小川 恭一
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  • メディア: 文庫


タグ:陣屋
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麦種城(長野県飯田市) [古城めぐり(長野)]

DSCN9747.JPG←西辺に残る土塁
 麦種城は、西平城と共に小笠原氏が築いた久米ヶ城の支城とされる。
 麦種城は、二ツ山の西麓にある、山地から独立した半島状台地に築かれている。南北に細長い台地で、城内は墓地や畑となっていて改変を受けている。北の台地基部には堀切があったと想定されるが、現状では全くその痕跡は残っていない。平場の中央部付近には、東西両辺に土塁跡が残っている。土塁の外側には腰曲輪も残っている。しかし全体的に遺構の残存状況が悪く、どのような城だったのか、往時の縄張りが想像しにくい状態で残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.479517/137.767804/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2022/03/10
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松尾城(長野県飯田市) [古城めぐり(長野)]

DSCN9530.JPG←二ノ郭の空堀
 松尾城は、信濃守護小笠原氏の一流、松尾小笠原氏の居城である。松尾城がある伊賀良庄は、鎌倉時代には北条得宗領であったが、1333年の元弘の乱による執権北条氏滅亡後は、信濃守護に補任された小笠原貞宗の所領となったらしい。松尾城の創築時期は不明であるが、一説には南北朝時代には小笠原貞宗やその子政長が居城としていたとも言われる。即ち、戦国時代に府中の林城を本拠とした信濃守護家の小笠原氏は、南北朝期には松尾城を本拠としていた可能性がある。しかし文献上、松尾城が現れるのは室町時代中期である。小笠原氏は一時期信濃守護職から外されていたが、政康の時に復権を遂げ、政康の死後はは深志(府中)小笠原氏・松尾小笠原氏・鈴岡小笠原氏が分立し、惣領職をめぐって抗争を繰り広げた。その経緯は鈴岡城の項に記載する。1493年、松尾の小笠原家長の嫡男定基は、守護の鈴岡小笠原政秀・長貞父子を松尾城に誘い出して殺害し、鈴岡小笠原氏は滅亡した。1534年、深志の府中小笠原長棟は松尾城の定基を攻め、定基父子は降伏して松尾城を明渡した。長棟は松尾城を破却し、定基の子貞忠とその子信貴は甲斐へ逃れた。長棟は分裂していた信濃の小笠原氏を統一し、その子信定が鈴岡城に入り、伊賀良庄を治めた。1554年、甲斐の武田信玄が下伊那に侵攻すると、下伊那の多くの国人衆は武田氏に降ったが、鈴岡城の信定と神之峰城主知久頼元は頑強に抵抗した。しかし先に甲斐に逃れていた松尾小笠原家の信貴・信嶺父子は、武田氏の先鋒となって鈴岡城を攻撃し、落城させた。信貴によって松尾小笠原氏は再興され、武田氏の重臣山県昌景の率いる伊那先方衆として100騎を持つ松尾城主となった。1582年2月、織田軍が武田征伐を開始すると、下伊那の有力国衆であった松尾城主小笠原信嶺は早々に織田方に降り、伊那の武田領国崩壊の口火を切った。武田氏滅亡後、織田信長から本領を安堵されたが、信長は密かに信嶺を誅殺しようとしていたらしい。しかし同年6月、本能寺で信長が横死し、武田遺領争奪戦「天正壬午の乱」が生起すると、徳川家康に服属した。1590年、豊臣秀吉が小田原北条氏を滅ぼすと、徳川家康が関東に移封となり、信濃の徳川方諸将も関東に移された。信嶺は武蔵本庄城主となり、松尾城は廃城となった。

 松尾城は、天竜川西方の比高40m程の河岸段丘先端部に築かれている。毛賀沢川を挟んで鈴岡城と対峙する位置にある。県の史跡に指定されており、主郭周囲は公園化されている。かなり広大な城で、公園化されているのは城跡のごく一部に過ぎない。城のある段丘は大まかに言って上下2段に分かれており、主郭は上段段丘の先端部に構築されている。東西に帯曲輪を伴い、東の切岸には河原石を積んだ石積みが残っている。主郭の西側下方には「本城」の名が残る曲輪群があり、堀切・舌状曲輪群が築かれていて、一部は民家の敷地となっている。主郭の西から北にかけて、L字型に空堀が穿たれている。この空堀は北側では堀底が幅広となり、曲輪として機能したしたらしい。空堀の西側には二ノ郭が築かれている。二ノ郭は南側が高く、北に向かって下り勾配となり、郭内は何段かに分かれていたらしいが、公園化による改変があって、往時の形状をどこまで残しているのかは不明である。二ノ郭の南側にも腰曲輪群が築かれているが、竹薮となっている。二ノ郭の西側に空堀が穿たれ、その外側に三ノ郭が広がっている。三ノ郭も南が高台となり、御霊屋・龍門寺屋敷などの地名が残るが、全体が民有地となっていてほとんど内部踏査できない。三ノ郭の北には空堀が穿たれ、外郭が広がっている。北古城・南古城などの地名が残るが、全て民家となっていてここも内部踏査はできない。外郭の北には沢筋が天然の堀となって城域を区画している。一方、主郭の東には、堀切を挟んで「長ごろう山」という小山があり、小郭群が築かれ、堀切・竪堀も構築されている。長ごろう山の東は下段の段丘が広がり、サカヤシキという広大な平場が広がっている。内部は畑や耕作放棄地となっているが、外周に横堀が穿たれている。縄張図では何本も竪堀があるとされるが、形状は明瞭ではなく、どちらかと言うと竪土塁の形状の方が明瞭である。以上が松尾城の遺構で、公園化による改変が多かったり、踏査できない部分があったりして、やや消化不良気味の城である。
主郭切岸の石積み→DSCN9735.JPG
DSCN9689.JPG←長ごろう山の堀切
サカヤシキの竪堀→DSCN9665.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.486961/137.828271/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


新装改訂版 信州の城と古戦場

新装改訂版 信州の城と古戦場

  • 作者: 南原公平
  • 出版社/メーカー: しなのき書房
  • 発売日: 2009/06/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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上野北本城(長野県飯田市) [古城めぐり(長野)]

DSCN9438.JPG←耕雲寺南東に残る空堀
 上野北本城は、座光寺北本城とも呼ばれ、歴史不詳の城である。この地の国人、座光寺氏が築いた城と推測されているが、土豪の城にしては規模が大き過ぎ、隣接して築かれている上野南本城共々、その成立ちには謎が多い。

 上野北本城は、純然たる山城である上野南本城に対して、居館的な崖端城となっている。現在城の主要部は小学校や保育園の校地に変貌しているため、遺構はかなり失われている。往時は、主郭に当たる南曲輪、その東にある東曲輪、更にそれらの北西に北曲輪・西曲輪が配置され、耕雲寺境内が外郭として配されていたらしい。しかし前述の通り改変されてしまっているので、これらの曲輪間を分断していた空堀は殆ど残っていない。わずかに耕雲寺の南に堀状地形が残る程度である。この堀は、耕雲寺の南東では竹林の中に往時の規模を残している。また小学校敷地の南から東の斜面の山林内に、空堀・竪堀が残っている。南東部の堀は薮が激しく確認が大変であるが、辛うじてY字型の空堀・竪堀が確認できる。主郭南にも堀切・堡塁があり、堡塁上に祠が祀られていてここだけ薮払いされているので、比較的わかりやすい。この他、主郭の南端には古墳があり、大きな石室が開いている。もちろん校地には入れないので、これらの外周の遺構を踏査するにはフェンスの外を薮をかき分けながら進むしかない。あまり期待せずに訪城したので失望はなかったものの、薮の多い空堀には辟易した。
主郭南の堀切→DSCN9505.JPG
DSCN9470.JPG←東曲輪南東の竪堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.536688/137.855405/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3)

宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3)

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2016/08/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世崖端城
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大島城(長野県松川町) [古城めぐり(長野)]

DSCN9095.JPG←大手丸馬出しの三日月堀
 大島城は、武田氏の下伊那の拠点城郭である。元は在地豪族大島氏の小城砦であった。1554年、下伊那を制圧した武田信玄は、この小城に深志城在番の日向大和守を城将として置き、高遠城飯田城の間の繋ぎの城として重視した。西上作戦に先立つ1571年3月、信玄は飯田城代・伊那郡代の秋山伯耆守信友に大島城の大改修を命じた。それは下伊那19の郷民と知久衆・今田衆の2衆を動員する大規模な普請であった。この時、小城砦であった大島城は、武田氏の築城技術を投入した拠点城郭に変貌を遂げた。翌72年夏、信玄は西上作戦を敢行し、遠江の諸城を攻略し、三方ヶ原では徳川家康を撃破した。しかしその数ヶ月後、信玄は病に倒れ、甲斐への帰途、信州駒場で陣没した。1582年2月、織田信長は武田征伐を開始した。武田勝頼は織田軍の侵攻に備え、大島城に拠る城将日向大和守と3000の兵に加え、武田逍遙軒信廉(信玄の実弟)・小原丹後守・安中氏らを援将として派遣したが、織田信忠率いる織田先鋒隊が14日に飯田城を落とし、更に大島城に迫ると、大島城の武田諸将は戦わずして逃亡し、城は自落した。信忠はそのまま大島城に入り、河尻秀隆・毛利秀頼を置いて管理させた。3月、武田氏が滅亡すると、その報を受けた信長は、大島城の城下町と思われる大島町に禁制を掲げて治安の維持を図った。大島城は、これ以降文献から姿を消した。1593年、飯田城主京極高知は街道整備のため大島城下町を約4km北西に移しており、遅くともこの時点で大島城は廃城になったと考えられる。

 大島城は、天竜川曲流部に突き出た半島状の断崖に築かれている。現在は台城公園として整備されており、一部改変を受けているものの遺構をよく確認することができる。基本は先端から順に主郭・二ノ郭・三ノ郭を連ねた連郭式の縄張りであるが、各曲輪を大きな空堀で分断し、要所に横矢を掛け、更に馬出しを複数設けた技巧的な縄張りとなっている。台城公園の駐車場に乗り付けると、最初に現れるのが大島城のシンボルともいうべき大型の丸馬出で、外周を二重の三日月堀で防御している。馬出し内には民家が建っている。この丸馬出しから三ノ郭に土橋が架かり、三ノ郭には枡形虎口が構築されている。土橋の脇の空堀は、北側は残っているが、南側は埋められてしまっている。三ノ郭は南東に突き出た長靴型をした曲輪で、二ノ郭との間には角馬出しが設けられ、北側には搦手の丸馬出しが独立堡塁の様に築かれている。武田氏の城としては角馬出しがあるのは珍しい。二ノ郭にも枡形虎口がある。大島城の枡形は、動線がクランクする普通のタイプではなく、躑躅ヶ崎館新府城で見られる、[ ] 形の虎口である。二ノ郭も三ノ郭同様に南東が突き出た形状をしており、主郭空堀に対して横矢を掛けている。主郭は長円形の曲輪で、北東から北側にかけて腰曲輪や井戸曲輪が構築されている。この他、二ノ郭・主郭の北側には一部二重の横堀の防御線、南側にも一部三重の横堀の防御線が築かれ、特に主郭南西には独立堡塁が築かれて下方の敵を迎撃できるようになっている。堡塁の上にはニノ郭先端が突き出ており、更に上から攻撃できるようになっている。大島城は、巨大な城ではないが、コンパクトに纏められた中に数々の築城技術が投入されており、武田氏の築城技術の一つの到達点を示している。
二ノ郭から見た主郭空堀→DSCN9285.JPG
DSCN9288.JPG←南側の二重横堀
角馬出し→DSCN9360.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.576140/137.916945/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲信越の名城を歩く 長野編

甲信越の名城を歩く 長野編

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/12/21
  • メディア: 単行本


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岩清水楯(岩手県矢巾町) [古城めぐり(岩手)]

DSCN8992.JPG←四重堀切の一部
 岩清水楯(岩清水館)は、高水寺城主斯波氏の家臣岩清水氏の居城である。建武の新政期に足利尊氏の命で奥州に下向した斯波家長は、高水寺城に入るまでの間の一時期、この地の豪族岩清水泰秀が館へ迎え入れ、岩清水御所と呼ばれたとされる。時代は下って戦国末期の1588年、楯主岩清水右京亮義教は、梁田中務らと共に南部氏に通じ、主家斯波詮直に対して叛乱を起こした。これは詮直が家臣の諌めも聞かず、日夜遊興に耽ったためと言われる。右京の兄岩清水肥後守義長は、ただちに三百余騎の兵を率いて岩清水楯を攻撃したが、敗北した。詮直自ら討伐に出陣したが、南部信直がこの虚に乗じて斯波領に侵攻したため、詮直は居城の高水寺城に引き返した。しかし結局南部勢に敗れて高水寺斯波氏は滅亡し、岩清水義長は討死した。岩清水義教はそのまま南部氏に仕えたと言う。

 岩清水楯は、標高299m、比高70m程の館山に築かれている。登道の情報がなかったので、間違いないルートということで、北尾根を貫通する車道脇から尾根に取り付いて、尾根を南に向かって訪城した。尾根を暫く進むと小堀切があり、三ノ郭が現れる。三ノ郭は尾根上の小さな曲輪で、側方に帯曲輪を伴っている。その先に中規模の堀切が連発で現れる。この主郭背後の堀切は、『岩手県中世城館跡分布調査報告書』では二重堀切となっているが、実際にはなんと四重堀切となっている。一番内側は、二ノ郭後部が狭まって堀切形状となっているので、これを曲輪の一部とみなして堀切の数に入れないとしても三重堀切である。この四重堀切では、東側は堀切から竪堀が落ちており、特に内堀から落ちる竪堀は大竪堀となっている。2本目の堀切から落ちる竪堀は、西側で二ノ郭下にある腰曲輪の虎口と直交しており、この虎口は側方に櫓台を置いた堀状通路となっている。四重堀切の外堀手前には大土塁がそびえて、視界を遮断している。主郭は、後部では1段だが、前方に行くに従って外周部が一段低くなり、内部が2段に分かれている。主郭の周りには二ノ郭が全周している。二ノ郭の南にも段曲輪群があり、この段曲輪群に通じる竪堀状虎口が二ノ郭に見られる。この虎口の正面には主郭の切岸がそびえており、侵入してくる敵兵を主郭から迎撃できるようになっている。また段曲輪先端に大石があるが、櫓の柱の「ほぞ穴」と推測されている一直線の穴が残っている。以上が岩清水楯の遺構で、しっかりした普請の跡がよく残っているが、全体的に薮がひどく、明確に分からなかった部分もある。『岩手県中世城館跡分布調査報告書』の縄張図では東斜面にも腰曲輪群があるとされるが、薮がひどくて確認できなかった。
主郭切岸と二ノ郭→DSCN8990.JPG
DSCN9067.JPG←大石に残るほぞ穴

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.582184/141.097713/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


パーツから考える戦国期城郭論

パーツから考える戦国期城郭論

  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2021/02/26
  • メディア: Kindle版


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座主楯(岩手県矢巾町) [古城めぐり(岩手)]

DSCN8827.JPG←北辺の三重横堀の一部
 座主楯(座主館)は、伝法寺楯とも言い、歴史不詳の城である。この城の南に隣接して平安時代の創建と伝えられる寺院跡があることから、平安時代まで遡る城とも、或いは安倍氏時代の城との説もある。また『日本城郭大系」では、伝法寺右衛門という武士の居城とされるが、詳細は不明である。平成2年の発掘調査の結果では15~16世紀代の遺物が出土しており、戦国時代の城砦であることは疑いがない。

 座主楯は、北谷地山から東に張り出した尾根先端部に築かれている。町の史跡に指定され、現在は舘山公園として整備されている。山頂の主郭に主郭を置き、そこから東に広がる斜面に扇形に腰曲輪群を段々に築いている。主郭内は北・南・東と3段に分かれている。主郭外周から、腰曲輪群の北辺・南辺を二重横堀でコの字状に囲んだ構造となっている。これらの内、主郭北面では更に外側に横堀が穿たれて、三重横堀となっている。この三重横堀は、主郭の北東端下方で、内堀と中堀が合流して1本となり、外堀と合わせて二重横堀となって腰曲輪群の北辺を降っている。二重横堀の下方は、中間土塁が広がって武者溜まりのような空間を形成している。外堀は、主郭北西部で背後の尾根に築かれた北郭に沿って北西に曲がり、そのまま北郭と並走して北郭背後の堀切に繋がっている。堀切との交差部では側方に竪堀が落ちている。南辺の二重横堀では、内堀は途中で腰曲輪に回り込んで曲輪と同化している。外堀は、南に屈曲して降っており、登城道になっている。この他、東斜面の腰曲輪群には、井戸跡や登城路があり、竪堀状の登城道も確認できる。ただ、公園化で改変されている部分もあると思われるので、これら全てが往時のものかどうかは明確ではない。いずれにしても座主楯は、多重横堀で防御線を構築した城であり、飯岡楯に近似した構造をしている。勢力圏・縄張面から考えて、高水寺城主斯波氏に関連した勢力の城と推測される。
主郭→DSCN8887.JPG
DSCN8941.JPG←腰曲輪群の竪堀状の登城道

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.595909/141.105931/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


城館調査の手引き

城館調査の手引き

  • 作者: 中井 均
  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2016/08/27
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平山城
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煙山楯(岩手県矢巾町) [古城めぐり(岩手)]

DSCN8717.JPG←主郭にある塚
 煙山楯(煙山館)は、高水寺城主斯波氏の一族煙山氏の居城である。『煙山村郷土史』によれば、天正年間(1573~92年)の城主は煙山主殿(藤原道国)と伝えられる。

 煙山楯は、城内山から北東に伸びる尾根に築かれている。実相寺の背後に当たるが、明確な道が見つからなかったので、中腹の千手観音堂から尾根を直登して訪城した。途中で気づいたが、どうも北斜面に林業用の歩道がある様だが、登り口がどこにあるのかは確認できていない。結構斜度のきつい尾根なので登るのは疲れるが、登って数分で段曲輪群の平場に至る。その先は尾根を挟みながら段々に曲輪が築かれており、最上部に腰曲輪に囲まれた主郭がある。主郭は比較的小さな曲輪で、中央に大石を組んだ塚があり、後部に土塁が築かれている。塚は、古代の石神信仰に関わる遺跡(磐座)か狼煙台と考えられているらしい。主郭の背後には大堀切が穿たれ、そこから南に落ちる竪堀は、南東斜面の腰曲輪に繋がっている。大堀切の先は自然地形の尾根であるが、少し先に小堀切が穿たれて城域が終わっている。この他、段曲輪群は、登ってきた北東尾根だけでなく、主郭の南東と北斜面にも数段築かれている。しかしいずれも高低差がある上、明確な城道が残っておらず、主郭部とは隔絶している。以上が煙山楯の遺構で、有事の際の詰城という感じの比較的小規模な城砦である。
主郭背後の大堀切→DSCN8721.JPG
DSCN8696.JPG←北東尾根の段曲輪群

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.613053/141.106575/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


47都道府県・城郭百科 (47都道府県百科シリーズ)

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  • 出版社/メーカー: 丸善出版
  • 発売日: 2022/07/28
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飯岡楯(岩手県盛岡市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN8550.JPG←北東尾根の二重堀切
 飯岡楯(飯岡館)は、高水寺城主斯波氏の重臣飯岡氏の居城と伝えられる。古くは奥州藤原氏が岩手・紫波両郡境界の守備のため、飯岡氏をこの地に置いたとも言われるが詳細は不明。南北朝期に高水寺斯波氏が入部すると、重臣の飯岡氏をこの地に置いたと考えられる。戦国期になると南部氏の南進策によって斯波氏は攻勢に晒され、1572年に飯岡楯は南部氏の攻撃を受けて落城したと言われている。

 飯岡楯は、飯岡山の北東に張り出した丘陵を中心として築かれている。この丘陵は、標高約200mの峰から東に向かって2つの尾根がV字形に伸びており、この2つの尾根に曲輪群が築かれている。基本的には多段式の曲輪群で構成された城で、曲輪群は広範囲に築かれている。ただ全体的にざっくりした普請で、曲輪群の段を区切る切岸はあまり高低差がなく、斜度も緩い。最上部にある主郭も削平が甘く、ほとんど地山のままであり、規模的にも物見か砦レベルのものである。しかし主郭背後には堀切が穿たれ、背後の尾根との間を分断している。この堀切は、よく見ると二重堀切となっているが、外堀はほとんど帯曲輪のような形状である。この堀切から落ちる南北の竪堀の脇から、二重横堀が派生している。この二重横堀は、北東尾根の北斜面、南東尾根の南斜面にそれぞれ穿たれ、いずれもかなり長く山腹を巡っている。この内、北の二重横堀は途中で分岐し、内堀は北東尾根上に円弧状に回り込んで、尾根上に築かれた腰曲輪群を上下に分断している。またこの二重横堀の分岐部には竪堀状虎口が築かれており、下段の腰曲輪群と連絡する通路となっている。外堀は更に山腹をしばらく降った後、こちらも北東尾根上に円弧状に回り込んでいる。外堀は、尾根上に回り込んだ先の先端部だけ、もう1本横堀を構築して二重堀切となっている。またここには竪堀・竪堀状虎口があり、城の北東最外殻の防御線になっていたようである。一方、南の二重横堀は山腹をうねるように走り、南東尾根に穿たれた堀切・竪堀に合流している。この南東尾根の堀切の所まで、南麓から谷伝いに小道が通っており、大手道であった可能性がある。南東尾根の堀切の周囲にも平場群があり、南東先端部にある秋葉神社が建つ小丘も城域だったと考えられている。神社周囲にも同心円状に帯曲輪群が見られる。全体的な構成を見ると、北東尾根の方が防備が厳重であるが、前述の通り大手は南にあったと考えられ、秋葉神社の出曲輪はそれを防衛する砦であったようだ。以上が飯岡楯の遺構で、二重横堀を外周の防御ラインとした山城である。
南の二重横堀→DSCN8635.JPG
DSCN8666.JPG←主郭背後の二重堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.672272/141.097369/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


パーツから考える戦国期城郭論

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  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2021/02/26
  • メディア: Kindle版


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大瀬川楯(岩手県花巻市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN8356.JPG←主郭後部の土塁と空堀
 大瀬川楯(大瀬川館)は、天正年間(1573~92年)に稗貫氏の家臣瀬川隠岐守の居城であったと伝えられる。瀬川氏は、畠山重忠の弟重宗の後裔、或いは重忠の嫡子重保の子重行の後裔と言われ、当初は大瀬川殿と称されたと言う。1556年には高水寺斯波氏の攻撃を受けている。1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で稗貫氏が改易となった後、旧臣団が蜂起した和賀・稗貫一揆に瀬川氏も加わった。後には稗貫氏の旧領を支配した南部氏に出仕したと言う。

 大瀬川楯は、葛丸川南西の丘陵上に築かれている。東北自動車道の建設に伴って岩手県内で昭和47~53年の7年間にわたって各地の発掘調査が行われ、大瀬川楯も発掘調査が行われた。その結果、空堀で囲繞され、南北に連なる3つの曲輪で構成されていたことが確認された。しかしその後の高速道路建設、それに伴う周辺車道建設により、現在は一番北の主郭だけが残存し、二ノ郭・三ノ郭は削られて湮滅している。西の車道から薮を適当にかき分けて登っていけば、まもなく空堀が見えてくる。主郭は城内で最大の曲輪で、南北に長く、外周を空堀で囲んでいる。北辺は大きく弧を描く塁線となっており、空堀に沿って主郭後部に土塁が築かれている。空堀はよく残っているが、規模は小さい。西辺の空堀は二重横堀であったらしいが、内堀は浅い溝状であったらしく、現状では内堀は確認できない。主郭の東辺は削られてしまっている。主郭内は削平が甘く、地山の形状を残しているが、発掘調査では建物跡が多数見つかっている。また主郭内には標高176.5mの三角点がある。主郭の南には空堀を挟んで二ノ郭があったはずだが、現在は自然地形だけで明確な遺構はほとんど残っていない。二ノ郭の南にあった三ノ郭は、削られて完全湮滅の状態である。以上が大瀬川楯の遺構で、技巧性はほとんど無く、のっぺりした印象の見栄えしない城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.496631/141.105244/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


「城取り」の軍事学

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  • 作者: 西股総生
  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2013/08/29
  • メディア: Kindle版


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下仙人館(岩手県北上市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN8312.JPG←主郭堀切と二ノ郭
 下仙人館は、歴史不詳の城館である。戦国末期、この下仙人地区には和賀氏家臣の仙人別当浄念坊と妙楽院と言う者が居り、1600年の「岩崎一揆」の際に和賀忠親に加勢している。館跡はこの修験山伏の居住地と推測されている。また、館跡の西には国重文の多聞院伊澤家住宅があるが、この多聞院伊澤家は仙人峠にある仙人権現社の別当を勤めており、伊澤家住宅の北にある久那斗神社は仙人権現社の里宮として1534年に建てられたと伝えられる。このことから多聞院伊澤家に関わる城館との説もある。
 尚、仙人権現社は奥州藤原氏3代秀衡が祖先の霊を久那斗権現として祀ったものと伝えられ、またこの地には「秀衡街道」と呼ばれる古道が残っている。

 下仙人館は、和賀川南岸の段丘先端部に築かれている。先端に広い主郭を置き、土橋の架かった堀切を挟んで西に二ノ郭、更に堀切を挟んで外郭がある。主郭は現在公園となってる。主郭西の堀切は北側で北東に折れ、北斜面を降っている。また主郭の北東と南東には小さな尾根が突き出ており、小堀切と堡塁が築かれている。二ノ郭は狭い曲輪で、西の堀切は北側で屈曲している。二ノ郭の西半分と外郭は、訪城時には発掘調査中であった。外郭北側に横堀状地形と腰曲輪状の平場があるが、前年度(令和3年度)の発掘調査の結果によれば、1970年代の数年間に人が居住していたこともあって平場全体が現代に削られていたことがわかったとのことで、実際に遺構だったのかどうかわからないらしい。今回の令和4年度の発掘調査結果も遠からず纏められると思うので、報告書刊行後に再確認してみたい。いずれにしても、大きな城館ではないが主郭・二ノ郭はよく遺構を残している。
主郭北東の堀切と堡塁→DSCN8319.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.302831/140.947573/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


奥州藤原氏―平泉の栄華百年 (中公新書)

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  • 作者: 高橋 崇
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  • メディア: 新書


タグ:中世崖端城
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田中楯(岩手県北上市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN8225.JPG←主郭背後の堀切
 田中楯(田中館)は、歴史不詳の城である。この地は重要道路の交差点であり、田中瀬という中世和賀川の渡し場に近く、交通の要衝を押さえるために築かれた城と推測されている。

 田中楯は、鈴鴨川東岸の比高20m程の段丘突出部に築かれている。この段丘は北に向かって突き出ており、北麓に周囲の平地より一段高い平場があり、楯主の居館地と推測されており、現在は八幡宮が祀られている。八幡宮への参道は、L字型に屈曲した切通しとなっていて、虎口のような形態をしている。その南の段丘上には主郭がそびえている。主郭の前面には腰曲輪が1段築かれているが、西側では横堀に変化している。堀外の土塁上には多数の石が散乱している。主郭はほぼ方形の曲輪で、祠が祀られている。主郭後部には土塁が築かれ、背後に堀切が穿たれている。ここには斜めの土橋があるが、改変されているのか元々の遺構であるのか、よくわからない。主郭背後には南郭があり、南西部に屈曲した空堀があるようだが、薮が多くてよくわからない。以上が田中楯の遺構で、単純な構造の城砦である。
主郭前面の横堀土塁→DSCN8201.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.295193/140.978032/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

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  • 作者: 松岡 進
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/02/27
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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時田館(岩手県北上市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN8110.JPG←主郭西の水堀・土塁
 時田館は、歴史不詳の城館である。時田館のある尻平川流域は鎌倉時代には室対郷と呼ばれ、和賀景行が相続していた。景行は須々孫氏の祖と言われ、南北朝時代には南朝方として活動した。しかし1352年に須々孫行義は北朝勢との戦いに敗れ、所領を和賀氏本家に没収された。その後、室対郷が他氏に分与された形跡がないことから、そのまま和賀氏本家に返還されたと考えられている。その後の変遷は不明であるが、時田館は地侍の時田氏の居館であったとされる。

 時田館は、尻平川西岸の比高わずか10m程の段丘辺縁部に築かれている。沢筋を挟んで南北に曲輪があり、南に主郭があり、北には西郭・東郭が東西に並んでいる。主郭は民家の敷地となっているので、内部探索はできないが、西側に一直線状の土塁・堀(一部は水堀)が残っている。主郭北の沢は、天然の堀として機能しており、また水の手を兼ねていたのだろう。東郭は三角形の曲輪で南東に向かって突出している。西郭との間には浅い空堀が穿たれている。西郭は東郭より一段高く、方形に近い形状で、北以外の3方に土塁を築いている。以上が時田館の遺構で、それほど見応えのある遺構があるわけではないが、土塁と空堀はよく残っている。
西郭~東郭間の空堀→DSCN8177.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.329177/140.978000/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書

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タグ:中世崖端城
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根子館(岩手県花巻市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN8063.JPG←空堀、奥は主郭
 根子館は、上館とも呼ばれ、稗貫氏の重臣根子氏の居館である。根子大和守は、太田の他、根子・湯口・笹間の一部を治めていたが、天正年間(1573~92年)の根子兵庫守の時に下館に移ったと言われている。1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で稗貫氏が改易となると、根子氏も没落した。翌年、和賀氏旧臣団と協力して主家再興を企てて一揆を起こしたが、鎮圧された(和賀・稗貫一揆)。1600年、和賀氏旧臣団が岩崎城に立て籠もって挙兵した際、根子氏も岩崎城に立て籠もって戦ったが敗れ、その後の一族の行方は不明となった。

 根子館は、豊沢川南方の段丘北辺部に築かれている。段丘の一部を、基部を空堀で穿って独立させ、平坦にして主郭としている。主郭は広いが、民家裏の農地になっていて、無断で踏査することはできない。空堀の南や西も曲輪と推測されるが、南郭は民家敷地なので確認できる部分は限られる。また西郭は昌歓寺境内となっているが、L字型に空堀が残っている。主郭と昌歓寺の間の切通しの車道も、明らかに空堀跡である。南郭の東には、「宿」地名が残り、根子氏の家臣団居住地であった。確認できる遺構は限られるが、館跡の雰囲気は残っている。また各所に「太田ふるさと案内板」という伝承の解説板が立っているのもありがたい。
昌歓寺境内の空堀→DSCN8042.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.378240/141.046804/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

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  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/10/25
  • メディア: 単行本


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十二丁目城(岩手県花巻市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN8015.JPG←主郭南西部の空堀
 十二丁目城は、稗貫氏の重臣伊藤氏(十二丁目氏)の居城である。伊藤氏は、稗貫大和守義時が1555年に上洛した際、その随臣として名が見え、瀬川・根子氏らと共に稗貫氏の重臣として知られた。1590年、豊臣秀吉の奥州仕置で稗貫氏が改易となると、十二丁目城は南部氏の持城となり、1592年の秀吉による城郭破却令に従い、南部信直は十二丁目城を破却した。その後、1600年に和賀氏旧臣団が挙兵した岩崎一揆の際、和賀勢がこの城に立て籠もり、南部勢の北十左衛門らに攻撃されたと言う。

 十二丁目城は、北上川西岸の獅子ヶ鼻と呼ばれる台地上に築かれている。城跡は民家と山林になっているが、主郭外周の空堀の一部が残存している。主郭西側に、台地先端まで掘り切ったL字の空堀が残っている。この堀は、南辺でT字に分岐して南にも堀が伸びている。またその東では堀は埋められてしまっているが、東端部にわずかに堀跡が残存している。主郭の西と南には外郭があったと推測され、南の宅地裏に外堀らしい地形が残っているが、現在は水路が敷設されて改変されているので、実際に遺構であったのかは明確ではない。しかし昭和20年代の航空写真を見ても、堀らしい線が確認できるので、遺構であった可能性は高いと思う。残念ながら、主郭西側の空堀以外は遺構の湮滅が進んでいるが、残っている部分だけでも見応えがある。
外堀らしき水路→DSCN8000.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.363858/141.130253/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


完訳フロイス日本史〈4〉秀吉の天下統一と高山右近の追放―豊臣秀吉編(1) (中公文庫)

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  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2000/04/01
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