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油川城(青森県青森市) [古城めぐり(青森)]

DSC09066.JPG←東部二重堀切
 油川城は、奥瀬氏の居城と言われている。築城年代は定かではなく、伝承によれば南部奥瀬判九郎が油川に入部して外ヶ浜の代官となったと言う。その子善九郎は臆病者であったと言われ、1585年に津軽統一を目指す大浦城主大浦(津軽)為信が外ヶ浜を攻略した際、奥瀬善九郎は防戦を考えることもなく、わずかに一族と財産を船に乗せて下北郡田名部に向かって逃げ、後にその遁走を聞いた里の者は皆これを笑ったと言う。
 油川城は、平地に西から突き出した半島状の台地の上に築かれていた。その比高はわずかに5m程に過ぎず、要害性に乏しい地形で政庁機能を主体として築いた城と考えられている。郭内は広大な平坦地で一面の耕地に変貌しており、どのような内部構造であったのかは不明である。曲輪の東側下方に堀と土塁があり、更にその南方の東張出し部の基部には二重堀切を備えている。この二重堀切は中央に土塁(阻塞)があるが、堀底全部にあるのではなく、一部にあるだけである。また、台地の西側基部にも曲輪外縁部に土塁が築かれ、櫓台も築かれている。この土塁の外にも二重堀切があり、東部二重堀切と同様、中央の土塁(阻塞)は一部のみに残っている。北西端部には櫓台が築かれ、周囲の平地に睨みを効かせている。油川城はネット上ではほとんど情報がなく、耕地化していることもあってあまり期待していなかったが、しっかりと堀などの遺構が残っており、青森城巡りの最後を飾るに申し分ない城だった。
西側基部の二重堀切→DSC09085.JPG
DSC09088.JPG←西側の櫓台

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/40.860556/140.672303/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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田舎館城(青森県田舎館村) [古城めぐり(青森)]

DSC09012.JPG←唯一の明確な土塁跡
 田舎館城は、一戸南部氏の庶流田舎館千徳氏の居城である。築城時期は不明であるが、元々は、当地の豪族曾我氏の城館があったらしく、南北朝時代の1336年、南朝方で田舎館領主となっていた工藤氏中務右衛門または安保弥五郎入道と、北朝方の曾我太郎貞光との間で、田舎楯合戦が生起している。その後、文明年間(1469~86年)に、南部一門の浅瀬石城主千徳政久の子千徳貞武(政実)が田舎館城主となって、田舎館千徳氏を称した。1585年、5代政武の時、津軽統一を目指す大浦城主大浦(津軽)為信の軍勢1700騎に攻められて、籠城した312人の内、城主政武以下303人が討死すると言う、ほぼ玉砕の状態で落城し、田舎館千徳氏は滅亡した。
 田舎館城は、現在の村役場東側に広がる集落一帯に築かれていた平城で、かつては城の北側と南側に隠し水門があり、水門を閉じると城周囲は一面の沼地に変貌し、要害となったと言う。しかし現在は宅地化で遺構のほとんどが湮滅している。本郭・外郭・新館の3郭から成っていたと言うが、明確な遺構はヤマコと呼ばれる土塁のみで、その他は本郭周囲の段差や堀跡が何となく分かると言う程度である。役場には展望台があり、ここから城跡一帯が一望できるが、城を思わせる景観は既に失われている。南側にあった新館も微高地となっているが、やはり耕地化されて改変が進み、往時の姿は失われている。国土変遷アーカイブの昭和20年代前半の航空写真では、まだ曲輪の外形が何となく分かる程度まで地形が残っていたので、これらを失ったことは今から思えば残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/40.631013/140.552505/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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石川城(青森県弘前市) [古城めぐり(青森)]

DSC08965.JPG←土塁のある主郭
 石川城は、大仏ヶ鼻城とも言い、津軽に進出した三戸南部氏の支城である。元々は石川楯と言い、1333年に鎌倉幕府滅亡の後、北条氏の一族であった名越時如と安達高景は津軽に逃れ、この地の豪族大光寺曾我氏を頼った。そして曾我氏と共に大光寺城に立て籠もったが、岩楯曾我氏らに攻め落とされ、逃れた将兵は石川楯に立て籠もったがこれも落とされ、更に逃れた持寄城も攻め落とされて大光寺曾我氏は滅亡した。その後、室町時代中期には三戸南部氏が勢力を西に伸ばし、十三湊の安東氏を謀略を以って追い落とし、津軽にその勢力を拡張させた。1533年には、南部高信が大兵を率いて津軽に侵攻し、津軽郡代となって石川城を居城とした。一方、南部氏の支族であった大浦氏は大浦城を居城として津軽に半独立的な勢力を扶植していたが、1571年、大浦(津軽)為信は津軽平定を目指して挙兵し、石川城を奇襲して高信を自刃させ、城を攻め落とした。その後為信は、家臣の板垣兵部将兼を城将とし、石川城は大浦氏の支城となった。1600年の関ヶ原合戦の時には、板垣氏は為信留守中に多田氏、尾崎氏と共に謀反を起こして討たれた。その後、弘前城が築かれると、石川城は廃城となった。

 石川城は、標高97m、比高47mの丘陵上に築かれている。現在大仏公園となっている為改変を受けているが、階段状に連なった曲輪群が残っている。最上部の主郭には背面に土塁が築かれており、櫓か何かがあったと考えられる。主郭周囲には腰曲輪群が取り巻き、堀状の地形もあるが、公園化に伴う改変も多く、どこまでが遺構か判然としない。主郭部の北側にはニノ郭・三ノ郭などが階段状に連なっていて、これも公園化による改変が見られるが、主殿などが置かれていたと想像される。高度な縄張りは見られず、古い形態の山城だった様である。折しも弘前城同様、桜満開の山城巡りとなった。
階段状の曲輪→DSC08941.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/40.547665/140.543922/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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長勝寺構(青森県弘前市) [古城めぐり(青森)]

DSC08870.JPG←長勝寺構の長大な土塁
 長勝寺構は、弘前城の南を守る出城である。長勝寺を先端に置いた、西に張り出した舌状台地の基部を、600m程にも及ぶ長い土塁で防御した構造で、禅林街という寺街全体が有事の際には出城として機能するように構築されていた。長勝寺の方の話では、津軽為信は本当はここに城を作りたかったそうなのだが、要害性が高いため幕府が許可しなかったらしい。そこで寺町という体裁にして、実際には出城として機能するよう、一直線状に土塁を築いて防御線を構築したものである。長勝寺に通じる道路には、「茂森町枡形」と呼ばれるクランク状の道路が残っており、まさに枡形虎口の構造である。この桝形部分は、よく見ると土塁が食違いとなっている。土塁の外には堀はない様だが、本当は堀も作りたかったところをさすがに幕府に遠慮したものであろうか。長勝寺構の土塁は、崖部に北端の土塁がはみ出しており、しっかりとした防御線を構築していたことがよく分かる。
枡形の跡→DSC08872.JPG


 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/40.599218/140.459443/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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弘前城(青森県弘前市) [古城めぐり(青森)]

DSC08647.JPG←桜に彩られた本丸天守
 弘前城は、現存天守を有する、津軽藩歴代の居城である。津軽氏の勃興の歴史は種里城の項に、また大浦城主であった津軽為信による津軽統一と津軽立藩の経緯は、大浦城の項に記載する。早くから豊臣秀吉に通じて、秀吉のお墨付きを得て三戸南部氏からの独立を名実共に勝ち取った為信であったが、その後の歴史は決して平坦ではなかった。秀吉没後の関ヶ原合戦では、徳川方に付いて出陣し、藩の存続を勝ち取った為信ではあったが、留守中の国元では尾崎・多田・板垣の3武将が謀反を起こし、居城としていた堀越城が一時占拠される事件が発生していた。また1602年、黒石城に隠居中の為信が、預かっていた嫡孫熊千代の顔に誤って火傷を負わせてしまうと、堀越城にいた嫡男で熊千代の父信建は熊千代を引き取る為、家臣の天童衛門四郎らを為信の元に送ったが、為信は二度に渡りこれを拒否した。怒った信建は、使者の不手際として天童一族を誅殺してしまい、激怒した衛門四郎ら天童氏4名は堀越城に斬り込んで、襲われた信建が女装して逃がれると言う「天童事件」が発生した。弘前城の築城はこの翌年に始まったが、これは2度に及ぶ不祥事で本城としていた堀越城の弱体を感じた為とも言われている。為信が築城を始めた弘前城は、壮大な規模であった為その生前には完成せず、その事業は為信の3男で津軽藩2代藩主信枚に受け継がれた。そして1611年に至って、弘前城はようやく完成された。築城中にも津軽藩では事件が起き、1607年に為信が死ぬと、既に没していた嫡男信建に代わって家督を継いだ3男信枚と、嫡孫熊千代を擁立しようとする大光寺城主津軽建広らがその後継を巡って争うなど(津軽騒動)、騒動が絶えなかった。完成した弘前城は、当初は高岡城と呼ばれたが、1628年に弘前城に改称された。以後、城には大きな変更がなく、幕末まで存続した。

 弘前城は、現存12天守の一つで、岩木川東岸の河岸段丘を利用して築かれた城である。段丘にある城という意味では、実は平城ではなく崖端城と言う方が正しい。三ノ丸・四ノ丸まで完存する広大な城域で、外郭外堀まで綺麗に残っている貴重な城でもある。典型的な梯郭式の縄張りで、縄張り的には上田城と酷似している。本丸・二ノ丸・三ノ丸をそれぞれコの字状の水堀で囲み、城門は全て近世城郭らしい枡形虎口となっている。基本的には内枡形であるが、外郭の追手門と東門だけは出枡形となっている。弘前城と言うと、石垣の城というイメージが強いが、実際に石垣となっているのは本丸と虎口部のみで、その他は土塁が多用されている。本丸西側は、比高10m程の崖となっており、蓮池・西堀という二重の堀と西ノ郭で防御している。本丸・二ノ丸は、大手側が枡形を多用した厳重な虎口となっているのに対して、搦手側は枡形もなく、比較的大味な感じの作りである。

 松本城は堂々たる五層の国宝天守といえども、現存建築物は連立式天守のみで他は全て失われているが、弘前城は3つの三層櫓に5つの櫓門と多くの建築物が残っており、希少性は遥かに高い。これらは現存12天守の城の中でも姫路城彦根城に匹敵する現存遺構で、見応えも十分、遠く青森まで足を伸ばして見に来る価値は十分にある。遅れていた開花を考えて組んだ日程の結果、時しも満開宣言当日の訪城となり、最高の城巡りとなった。
本丸東側の石垣と内堀→DSC08747.JPG
DSC08798.JPG←本丸西側の崖と蓮池

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/40.608162/140.463649/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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新屋城(青森県平川市) [古城めぐり(青森)]

DSC08501.JPG←本館(主郭)西側の堀跡
 新屋城は、新屋氏の居城である。築城年代は不明で、新屋源次郎が城主の時の1574年に、大光寺城主滝本重行に攻め落とされた。新屋氏は浪岡に落去し、後に津軽為信の家臣となったと言う。
 新屋城は、引座川南岸の段丘上に築かれた城で、新屋八幡宮の鎮座する本館から西へ、町屋敷・東館・西館が一直線に並ぶ縄張りとなっている。これらの曲輪間は堀切で分断され、城の外周も堀で囲まれていた様である。この城は元々訪城する予定はなかったのだが、日没までまだ時間があったので予備知識もなく訪城したところ、主郭に当たる本館以外は他の曲輪の位置関係ががさっぱりわからず、まともに遺構を確認することができなかった。僅かに本館周囲に残る堀跡だけを確認した。帰ってから調べたところでは、堀切は集落内の道路となって残っているらしい。いずれにしても、宅地化で遺構がわずかとなった城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/40.593482/140.601536/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
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尾崎城(青森県平川市) [古城めぐり(青森)]

DSC08478.JPG←本郭西側の切岸と堀跡
 尾崎城は、南部氏の家臣尾崎氏の居城である。歴史上の初見は南北朝時代の1339年で、大光寺城主曾我貞光の配下にあった尾崎城が、南朝方に攻められる尾崎合戦があったことが知られている。その後、尾崎氏が居城し、室町時代には浪岡城主北畠氏に属した。戦国後期の永禄年間(1558~69年)には、尾崎三郎衛門・喜蔵が城主で、南部氏の傘下で大光寺城主滝本重行に属していたが、大光寺城が大浦城主大浦(津軽)為信に攻め落とされると津軽氏に臣従した。1600年の関ヶ原合戦の時、津軽為信は徳川家康に従って出陣しており、その留守中に尾崎喜蔵は叛乱を起こした。一時は堀越城を占拠するものの、今信則に攻められて討死した。以後、尾崎城は廃城となった。
 尾崎城は、周囲より5m程高い微高地に築かれた平城で、大館とも呼ばれる本郭と、北館とも呼ばれる外郭などから成る。現在は宅地化が進み、遺構の湮滅が進んでいるが、本郭の西側や東側にはしっかりした切岸と堀跡が残っている。しかし曲輪の形状が明確に確認できるのは本郭だけで、外郭は宅地化でほとんどその形状を追うことができない。本郭の遺構だけでも、このまま大切に残してもらいたいものである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/40.587388/140.612909/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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大光寺城(青森県平川市) [古城めぐり(青森)]

DSC08440.JPG←新城南郭の堀跡
 大光寺城は、新城・古館・小館・五日市館から成る平城である。発掘調査の結果、11世紀に築城されたことが判明している。その後、鎌倉時代の1217年、平賀郡岩楯に平広忠が地頭代として入部して曾我氏を名乗り、後に大光寺曾我氏と岩楯曾我氏に分かれた。鎌倉幕府滅亡の際、津軽に逃れた北条一族の名越時如・安達高景は大光寺曾我氏と共に大光寺城に立て籠もったが、岩楯曾我氏らに攻め落とされ、逃れた持寄城も攻め落とされて大光寺曾我氏は滅亡した。その戦功により大光寺城を与えられた岩楯曾我貞光は、足利尊氏が後醍醐天皇から離反すると、足利方に付いた。一方、同じ頃、大光寺城五日市館には藤崎安東氏の一族葛西氏がいたが、永享年間(1429~41年)に三戸南部守行に逐われ、以後は南部氏の一族が城代となった。南部氏は奥州南朝方の柱石であったので、おそらく北朝方の岩楯曾我氏もこの頃に攻め滅ぼされたと推測される。戦国時代に大光寺城主であった南部信愛・左衛門父子の後、南部氏家臣の滝本播磨重行が城代となったが、1575年に大浦城主大浦(津軽)為信に攻め滅ぼされた。為信は、乳井大隅守建清を大光寺城主とし、1599年には津軽建広が城主となった。建広は、為信没後の後継者擁立で敗れて追放され、1610年に大光寺城は破却された。その用材は弘前城に転用された。

 大光寺城は、六羽川東岸の微高地に築かれた平城である。現在城址碑が建っている大光寺コミュニティセンター付近は新城に当たる。城内は全て宅地や畑に変貌し、主郭は空き地となっており、遺構はほとんど湮滅している。しかし周囲よりわずかな微高地となった地勢は残っており、南側には南郭の外堀跡が低い畑となって残っている。その他、西側には切岸跡と思われる段差も残っている。一方、古館は、新城の北西600m程の位置にあり、ここもわずかな微高地となっている。主郭跡と想われる場所には保食神社が鎮座し、周囲の郭内は一面の畑となっている。小館は、古館の北側にあり、幅20m程の堀跡を挟んで位置している。ここもわずかな微高地で一面の畑となっており、明確な遺構は見られない。このような感じで、街中の平城としては城址碑と堀跡が残るだけマシであろうか。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:【新城】http://maps.gsi.go.jp/#16/40.589947/140.557398/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

    【古館】http://maps.gsi.go.jp/#16/40.594297/140.554351/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

    【小館】http://maps.gsi.go.jp/#16/40.596350/140.553578/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0


奥羽・津軽一族

奥羽・津軽一族

  • 作者: 白川 亨
  • 出版社/メーカー: 新人物往来社
  • 発売日: 2000/06
  • メディア: 単行本


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大浦城(青森県弘前市) [古城めぐり(青森)]

DSC08419.JPG←本丸西側の堀跡
 大浦城は、津軽氏発展の礎となった城である。1491年に種里城主となった南部光信は、1501年、西根城を改修して大浦城と改称し、養子の盛信を入れて津軽平野に勢力を伸長した。盛信は大浦氏を称し、光信の死後、その跡を継いだ。以後、政伸・為則・為信と続き、大浦城は大浦氏歴代の居城となった。1571年、弱冠21歳の為信は、居城の大浦城を拠点とし、支城の堀越城を足掛かりとして、津軽統一を目指して挙兵した。強敵石川城の郡代南部高信を討ち、その日の内に高信麾下の猛将和徳讃岐の拠る和徳城も一挙に攻め滅ぼした。その後、次々と敵を攻め滅ぼし、1588年、最後まで残った飯詰城を攻め落として、17年に渡る津軽統一事業を成し遂げた。その後、大浦氏から津軽氏に改称した為信は、豊臣秀吉に臣従して南部氏から独立した大名として認知され、所領を安堵された。1594年、領内統治と南部氏に対する備えから居城を堀越城に移すと、大浦城は主城としての役目を終えた。その後、津軽藩2代信枚が弘前城を築城すると、大浦城の建物などを移築し、大浦城は廃城になったと推測される。

 大浦城は、後長根川を天然の外堀とした平城である。現在は、本丸跡に津軽中学が建てられ、二ノ丸は宅地や校庭に変貌し、西ノ丸は耕地化しており、市街化で遺構は少ない。しかし、本丸南辺の切岸や櫓台、本丸西側の堀と櫓台がはっきりと残っている。国土変遷アーカイブの昭和20年代前半の航空写真では、二ノ丸の外堀や本丸と二ノ丸の間の横矢の掛かった内堀がはっきりと確認でき、西ノ丸の輪郭も明瞭である。これらの遺構の大半が失われてしまったのは非常に残念であるが、市街化で失われていると思っていた遺構が、一部とはいえここまではっきり残っているとは嬉しい誤算だった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/40.618261/140.414296/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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種里城(青森県鯵ヶ沢町) [古城めぐり(青森)]

DSC08371.JPG←丘陵背後の空堀
 種里城は、津軽氏発祥の地である。室町時代に三戸南部氏によって津軽を逐われた安東氏一族は、その後津軽奪還を企図して度々挙兵したため、南部氏は1491年に、下久慈にいた南部光信をこの地に封じて安東氏の動きに対処させた。光信は入部後、種里城を築城して拠点とし、津軽平野支配を目論んだ。1501年、西根城を改修して大浦城と改称し、養子の盛信を入れて津軽平野に勢力を伸長した。その後、5代為信は津軽平野を統一して、津軽氏を名乗り、豊臣秀吉に大名として認知されて、近世大名となった。種里城は、江戸時代を通して津軽氏祖宗興隆の聖地として津軽藩に保護された。
 種里城は、比高30m程の独立丘陵上に築かれた単郭の城である。その地勢は久川城によく似ているが、規模は二回りほど小さい。丘陵背後を天然の沢を利用した堀と成して、背後の山地と分断し、丘陵上の主郭内部は数段の段差に分かれ、一部に土塁を巡らしている。ただ、段差は後世の改変の可能性があるらしい。最上段には主殿の遺構が確認されている。北側には腰曲輪があり、また光信の廟所周囲は空堀で区画され、元は出丸となっていた様だ。この他、種里城の北には、空堀を挟んで丘陵上に武家屋敷跡があり、数段の平場や虎口遺構が明瞭に残っている。尚、主郭にある「光信公の館」という展示館は、訪城当日は開館前日の清掃中であったが、御好意で中を拝見させていただくことができ、いろいろと話を伺うこともできた。城としては、旧態依然とした単郭の平山城であるが、津軽氏発祥の地として現在でも大切に保護されている。
主郭に残る土塁→DSC08322.JPG
DSC08380.JPG←武家屋敷跡の虎口遺構
 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/40.704432/140.165752/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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十三湊遺跡(青森県五所川原市) [古城めぐり(青森)]

DSC08278.JPG←直線状の土塁遺構
 十三湊遺跡は、十三湊を支配して強勢を誇った安東氏が築いた中世の国際港湾都市の遺構である。鎌倉時代に津軽地方で最も勢力のあった藤崎城の安東氏は、1229年頃、渡島の蝦夷と交易する為に十三湊に進出したと言う。その後の事績は、福島城の項に記載する。
 十三湊遺跡は、十三湖西岸の、前潟と挟まれた半島にあり、現在は国指定史跡となっているが、整備はまだあまり進んでおらず、一面の田舎町の風景が広がっている。明確な遺構としては、一部に直線状の土塁が残っており、その北東のやや離れた場所に、安東氏館の土塁も南東部だけがわずかに残っている。発掘調査の結果では、周囲の広い範囲に町家や家臣団屋敷の遺構が確認されている。前述の東西方向の土塁によって、南北に二分されており、土塁北側のエリアが領主や家臣団の居住地と推定されている。土塁南側のエリアは北側が衰退した後整備されたと考えられており、それから推測すると先の土塁は十三湊中枢部を防衛する外郭線だったと考えられる。湖沿岸は、今でもしじみ漁が有名な漁師町でのどかな景色が広がっている。今後の復元整備に期待したい。
居館跡の土塁→DSC08290.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/41.030234/140.329324/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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福島城(青森県五所川原市) [古城めぐり(青森)]

DSC08170.JPG←外郭の高土塁と空堀
 福島城は、安東氏が築いた広大な城である。元は平安時代末に、何らかの城館があったらしいが詳細は不明。その後、鎌倉時代末期に十三湊を支配して勢力を誇った安東貞季が、福島城を築いたと考えられている。安東氏は鎌倉幕府から蝦夷管領に任命されていたが、管領職を巡って又太郎季長と五郎三郎季久が争いを起こし、津軽中を巻き込んで合戦に及んだ。この安東氏の内乱は、鎌倉幕府内管領の長崎高資が、抗争する安東氏家中の双方から賄賂を受け取って、双方に都合の言い様に取り繕った為、返って乱が増幅し、この収拾に失敗したことが鎌倉幕府の権威を失墜させ、幕府滅亡の一因になったと言われている。南北朝時代になると、十三湊安東氏は南朝方として活動したが、1340年に、大津波が十三湊に来襲し、福島城をも壊滅させたと言う。しかし安東氏は、その財力で数年にして復興を成し遂げ、福島城も旧状を上回る規模で再興した。室町時代になると、三戸南部氏は謀略を以って十三湊安東氏を追い落とし、福島城は安東氏没落と共に廃城となった。

 福島城は、十三湖北岸の丘陵地に築かれた平城で、内郭と外郭から構成された、とりとめないほど広大な城域を有した城である。内郭は、方形単郭の城館で、周囲に土塁と水堀が残っている。外郭は、内郭から東に500m程も離れた位置にあり、国道脇に外周を防衛する高土塁と空堀、門跡が残っている。土塁は高さ5m程もある豪壮なもので、途中で屈曲して横矢を掛けており、その南側に外郭東門や井戸の跡が残っている。私が踏査したのは300m程で外郭全体の1/4程度に過ぎず、外郭は延々十三湖の北岸まで続いていたらしい。ただ、内郭まではかなりの距離と面積があり、全域を城砦化していたとは考えにくいので、長城形式で領域外周を防衛したものだろう。同様の例は、常陸小幡城などでも見られる。この他にも、内郭北西部の山林の中にも土塁と空堀が残っている。長城形式の外郭がこれほどしっかり残っている中世城郭も珍しい。十三湊の海運を支配して莫大な富を誇っていた安東氏の勢威を今に伝えている。
内郭周囲の水堀と土塁→DSC08215.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/41.047002/140.365008/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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中里城(青森県中泊町) [古城めぐり(青森)]

DSC08073.JPG←古代遺構が復元された主郭
 中里城は、古代防御性集落と中世城郭の二重史跡である。最初に中里城のある台地に足跡を残したのは縄文時代前期で、鏃などの遺物から狩猟の場として利用されていたと考えられている。平安時代半ばには、空堀や土塁で囲んだ集落が形成され、古代防御性集落と呼ばれている。室町時代には、安東・南部両氏の抗争の中で城として利用され、城主としては新関又二郎、高坂修理、中里半四郎などの名が挙げられているが明確ではない。いずれにしても中里城の歴史については不明である。
 中里城は、標高51m、比高40m程の丘陵上にあり、現在史跡公園として整備されている。平坦な広い主郭の周囲には土塁と空堀がめぐらされ、主郭中央も土塁と空堀で分割されている。また主郭周囲には腰曲輪が築かれている。主郭内には、柵列や竪穴建物跡などが復元整備されているが、これらは古代防御性集落としての遺構であって、中世城郭としての姿がどのようであったのかはちょっとわかりにくい。この他、南に伸びる尾根先端の神社境内も城域だったらしく、腰曲輪などの削平地が確認できる。更に主郭の西の尾根にも出丸があり、腰曲輪・段曲輪が築かれていた様である。中世城郭としてはややパッとしないが、古代防御性集落も含めた遺構で、貴重である。
主郭周囲の空堀→DSC08091.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/40.970186/140.440110/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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飯詰城(青森県五所川原市) [古城めぐり(青森)]

DSC07954.JPG←主郭の腰曲輪群
 飯詰城は、高楯城とも呼ばれ、浪岡北畠氏の家臣朝日氏の居城である。元は、1091年に藤崎城主安東氏が築いた玄武砦に始まるとされる。その後の南北朝期の1335年、後醍醐天皇の側近万里小路藤房は、諫言が容れられず、建武の新政に失望して出家し、その後行方をくらませたが、一説には安東氏を頼って奥州に下向し、この地に土着したと言う。この伝承によれば、藤房は嫡子景房と共に玄武砦を城郭として整備して高楯城と改称し、1344年に景房が朝日氏を名乗って初代城主となったとされる。北畠氏が浪岡城に入部すると、朝日氏はその配下として活動した。戦国時代後期になると、大浦城主大浦(津軽)為信は津軽統一を目指して周囲を席巻し、1578年に浪岡北畠氏はあっけなく滅ぼされた。しかし飯詰城主朝日左衛門尉藤原行安は、10年間に渡って抗戦を続け、遂に1588年、力尽きて城に火をかけ、主従300余名は自刃したと言う。飯詰城の落城を以って、津軽為信の17年に渡る津軽統一事業は完成した。

 飯詰城は、妙龍寺東側の比高20~30m程の丘陵上に築かれている。西郭・主郭・東郭の大きく3郭の曲輪群からなる、そこそこの広さを持った城である。西郭群は主郭前面を防衛する出丸で、東西に長い曲輪とその周りの腰曲輪で構成されている。この西郭群だけで、一つの独立した城として機能できるようになっている様である。西郭群に西端には模擬櫓が建てられている。西郭の中心郭と主郭群との間は堀切で区画されている。主郭群では、主郭の周囲には数段の腰曲輪が囲繞し、主郭前面に数段の段曲輪が築かれて防御を固めている。主郭背後は5m程の切岸で、その東側に東郭群がある。東郭群はニノ郭に相当すると考えられ、多くの腰曲輪が形成されている。東郭群の東側には深さ5m程の堀切があって、尾根筋を分断している。この堀切は南側で直角に曲がって西側に走り、横堀となって主郭東側下部まで到達している。どうも城内通路としても使われた堀らしく、内枡形の変形の様にも考えられる。これらの主城部南側にも、南側の高地と分断する広い堀跡がある。中世城郭としてなかなか立派な遺構を残している。
西郭の堀切→DSC07930.JPG
DSC07973.JPG←東郭群の深い堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/40.826175/140.495793/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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堀越城(青森県弘前市) [古城めぐり(青森)]

DSC07860.JPG←門跡の見つかった本丸東側
 堀越城は、近世大名津軽氏の弘前城以前の居城である。元々は1336年に曾我太郎貞光が、南朝方と戦う為に築城した。その後貞光は、元中年間(1380~92年)に根城南部氏か三戸南部氏に滅ぼされた。時代は下って戦国時代に入ると、南部氏の庶流大浦氏の支城となった。1571年、大浦城主大浦(津軽)為信は南部氏に代わって津軽統一を果たす為に挙兵し、堀越城を拠点として18年の歳月を掛けて津軽統一を果たした。豊臣秀吉から南部氏から独立した大名と認められ、所領を安堵された為信は、1594年に堀越城を改修して居城を移した。その後、弘前城が新たに築城されて、1611年に居城を弘前城に移し、その後の元和の一国一城令で廃城となった。
 堀越城は、平川の支流前川の北岸の平地に築かれた平城である。二ノ丸跡を国道7号線が貫通しているが、遺構は良く残っている。熊野神社が置かれている主郭は、周囲を土塁で囲繞し、更にその周りに水堀を巡らしている。その外側が二ノ丸で、ここにも土塁や外堀跡が残っている。北側の外堀に面しては、船着場のような遺構も確認できる。二ノ丸の更に外側には三ノ丸があり、二ノ丸と三ノ丸との間の広い堀には面して、櫓台らしい土盛もある。この他、国道を挟んで東側にも、折れのある土塁が確認できる。訪城した4月末には本丸内東側では発掘調査がされており、後日その付近で大規模な門跡が発掘されたとの報道があった。外郭まで残る数少ない中世の平城で、貴重な遺構である。
二ノ丸の外堀→DSC07869.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/40.572639/140.521499/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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黒石城(青森県黒石市) [古城めぐり(青森)]

DSC07794.JPG←空堀状の地形
 黒石城は、当地の地頭代であった工藤氏が築いた城と考えられている。鎌倉末期に工藤右衛門尉貞行は津軽田舎郡の地頭代を務め、元弘・建武年間(1331~38年)の頃に黒石城を築いたらしい。貞行は、鎌倉末期の藤崎安東氏の内乱にも出陣した。(この安東氏の内乱は、鎌倉幕府内管領の長崎高資が、抗争する安東氏家中の双方から賄賂を受け取って、双方に都合の言い様に取り繕った為、返って乱が増幅し、この収拾に失敗したことが鎌倉幕府の権威を失墜させ、幕府滅亡の一因になったと言われている。)その後、元弘の騒乱期には、大光寺楯合戦、石川楯合戦に出陣し、南北朝期には田舎館合戦に南朝方に属して戦った。その後の城の経歴は不明で、時代が大きく下った1602年、津軽統一を果たした津軽為信は、黒石城を改修して隠居城としたと言う。尚、近世の黒石陣屋を黒石地方の人は黒石城と呼ぶことから、古くからの黒石城を「旧黒石城」とも呼んでいる。

 黒石城は、浅瀬石川北岸に築かれていた。内広市郭・外広市郭・花館郭の3郭で構成された城で、日本城郭大系では、小阿弥堰の南側に郭跡があると記載されているが、そこは一面の氾濫原で、城郭を築く適地ではない。一方、小阿弥堰の北側は比高15m程の河岸段丘となっており、その段丘端の民家のある辺りは、空堀状の窪地が見られ、民家の敷地もいかにも曲輪跡らしい形状を示している。こちらが城跡だとすると、黒石城は段丘上の城で、先端から数郭に分かれており、間を堀切で分断していた様である。また北側には、現在の県道に沿って空堀が構えられていたらしい。大系の記事と現地の状況が整合しない、謎の城である。はっきりしているのは、近くの交差点脇に城址碑が立っていることだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/40.648337/140.577461/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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黒石陣屋(青森県黒石市) [古城めぐり(青森)]

DSC07782.JPG←蝦夷館との間の空堀
 黒石陣屋は、弘前藩の支藩である黒石藩の陣屋である。江戸時代前期の1656年に、津軽信英が黒石に5千石で分封され、新たに黒石藩を立藩した。その後、1808年には1万石に加増されて幕末まで存続し、黒石藩11代285年間の陣屋であった。
 黒石陣屋は、現在の御幸公園付近にあった。周囲は市街化されているので往時の規模は想像しかできないが、浅瀬石川の北岸の段丘上に位置し、陣屋の西側の馬場や御蔵が現在の御幸公園に相当し、従って陣屋自体は公園の東側にあった。陣屋本体の地は市街化されてしまい、遺構は残っていないが、馬場であった御幸公園の南東に、空堀を挟んで蝦夷館と呼ばれる別郭が残っている。この陣屋には元々行く気はなかったのだが、浅瀬石城から黒石城に向かう途中で通りかかって気付いた為、立ち寄った。御幸公園には、立派な石碑と大きな陣屋絵図が掲げられていた。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/40.641939/140.592352/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:陣屋
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浅瀬石城(青森県黒石市) [古城めぐり(青森)]

DSC07772.JPG←本丸北西角の櫓台
 浅瀬石城は、一戸南部氏の庶流千徳氏の居城である。1240年に南部光行の長男彦太郎行朝の子千徳伊予守行重が浅瀬石城を築いたとされる。文明年間(1469~86年)には、7代政久は三戸南部氏より所領を安堵され、津軽一円の代官として栄えた。1561年、10代大和守政氏は大浦(津軽)為信と攻守同盟を結び、政氏は津軽の南部諸城を攻め、1576年には大光寺城を、1585年には千徳氏の一族千徳掃部政武の田舎館城をも攻め落とすなど、津軽平定に活躍した。一方、三戸城主南部信直は、名久井日向を大将とした3000の兵で浅瀬石城を攻めたが、撃退された。その後、千徳氏は津軽氏と不和となり、1596年、11代千徳政康は津軽為信との決戦を決意したが、反対する家臣達が為信の元に逃亡し、為信が浅瀬石城を攻撃すると政康は城を支えきれず、自害して落城した。

 浅瀬石城は、東北道黒石ICの南東隣の、浅瀬石川南岸の比高20m程の段丘上に築かれている。現在、城内全域が林檎畑となっているが、曲輪間を分断する堀跡がよく残っている。本丸・二ノ丸・侍屋敷・町屋敷と4つの曲輪から構成され、北の二股沢を挟んだ台地上にも御堂館・代官館という外郭を構えていた様である。曲輪内は前述の通り畑となっているので遺構ははっきりしないが、周囲の切岸がしっかりと残り、本丸北側には2段の腰曲輪らしい地形も残っている。本丸北西角は、下から見上げるといかにも櫓台であったという雰囲気があり、実際櫓が建っていたと考えられる。本丸と二ノ丸の間の堀は、現在畑の中の車道に変貌しており、水路なども造られているが、地形はほぼそのまま残っている様である。手書きの城の大きな案内板や城址碑が建てられ、畑のご老人に畑への入場のお願いをすれば、笑顔で快諾頂けた。一面の林檎畑に変貌しつつも、地元で大切にされていることがわかる城で、気持ちよかった。
本丸~二ノ丸間の堀跡→DSC07745.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/40.619189/140.617694/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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川原御所(青森県青森市) [古城めぐり(青森)]

DSC07716.JPG←県道脇に立つ石碑
 川原御所は、浪岡北畠氏の庶流川原御所北畠氏の居館である。北畠顕家の弟顕信の子守親の子孫が浪岡に入部し、川原御所を築いたとされる。川原御所北畠氏は後に絶えた為、浪岡北畠氏6代具永の次男具信が川原に入って川原御所を再興した。1562年、領地争いが原因で、川原御所具信が浪岡城主北畠具運を殺害すると言う「川原御所の乱」が発生し、間もなく具信父子は誅殺されて川原御所北畠氏は滅亡した。以後、浪岡北畠氏は急速に衰退し、後に津軽氏の攻撃によって滅亡した。
 川原御所は、浪岡城の南西800m程の位置にあったとされる。現在は一帯は宅地化され、明確な遺構は確認できないが、県道北側に石碑が建つほか、西と南に水路がめぐり、堀があったことを想起させる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/40.711687/140.596815/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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浪岡城(青森県青森市) [古城めぐり(青森)]

DSC07640.JPG←横矢の掛かった塁線
 浪岡城は、浪岡御所とも呼ばれ、南北朝時代に後醍醐天皇の命で奥州に下向した北畠親房・顕家父子の裔とされる浪岡北畠氏の居城である。しかしその系譜には諸説あり、明確にはできない。一般的には、顕家の子顕成が浪岡に入部して、浪岡北畠氏の祖となったと言われている。浪岡北畠氏は当初東山根の館にいたとされ、1460年頃に浪岡城を築いて居城とした。浪岡北畠氏は1500年代前半が最盛期で、盛んに京都と交流したりしていたが、1562年に「川原御所の乱」と呼ばれる一族の内乱が起きて、浪岡城主北畠具運が川原御所北畠具信に殺害され、以後急速に勢力が衰えた。1578年、南部氏から独立して津軽平定を目指した大浦城主大浦(津軽)為信によって浪岡城は攻撃され、御所側は戦わずして離散し、浪岡城主北畠顕村は西根の禅寺に連行されて自害させられた。ここに浪岡北畠氏は滅亡した。その後浪岡城は、大浦氏によって利用され、為信の弟が代官として入ったが、後に廃城となった。

 浪岡城は、浪岡川北岸の比高僅か10m程の段丘上に築かれた城である。低湿地帯の中の平坦な城で、本丸に当たる内館を中心に、浮島の様に周囲に曲輪を配置しており、イメージ的には常陸小田城に近い。ただ、ある程度求心的な縄張りは有するものの、群郭的縄張りに近い。曲輪は、内館・北館・西館・東館・猿楽館・検校館・新館・外郭から成り、その間を水堀で区画している。前述の通り内館が本丸で曲輪の位置も一番高いが、元からの地形ではなく全体を土盛で嵩上げしてるのではないかと思われる。北館は家臣団屋敷があったらしく、現在建物跡や区画跡が復元整備されている。北館にのみ枡形虎口が築かれており、内館を防衛する重要な曲輪として機能していたことが推測される。そして内館と北館の周囲にのみ、水堀の真ん中に細い帯曲輪が築かれている。土橋はなく、いずれの曲輪にも木橋を使って連絡していた様だ。この城では、内側に湾曲させて横矢を掛けた塁線が特徴で、あまり高度な縄張りは見られない。現在、国指定史跡として広範に整備されており、往時の姿を知ることができる。
曲輪間の帯曲輪→DSC07655.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/40.717054/140.604089/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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七戸城(青森県七戸町) [古城めぐり(青森)]

DSC07462.JPG←角館の堀跡
 七戸城は、奥州の名族南部氏の庶流七戸氏の居城である。その創築は明確ではないが、鎌倉時代末期には執権北条氏の被官工藤氏の城であったとも言われている。鎌倉幕府滅亡後の1335年、根城南部氏5代政長に七戸が与えられ、南北朝時代には根城と共に奥州南朝方の拠点となった。その後、8代政光が七戸氏の祖となってその系統は戦国末期まで続いた。七戸城は南部氏所領の北部に位置し、北の安藤氏に対する防衛拠点として重視されたと考えられている。室町時代中期の1456年、蠣崎蔵人の乱の時に七戸城は攻め落とされ、以後、七戸南部氏の勢力は急激に低下したとされる。1591年、九戸城主九戸政実が宗家の三戸城主南部信直に叛した時(九戸政実の乱)、七戸家国も政実と結んで叛し、豊臣秀次を総大将とする奥州仕置軍に攻め滅ぼされ、七戸南部氏は断絶した。その後、豊臣秀吉の命で城は破却されたが、その重要性から改めて七戸氏が置かれた。江戸時代前期の1664年、七戸重信が盛岡城の南部宗家を継いだ為、七戸城は南部藩の直轄地となり、城内に代官所が置かれて幕末まで至った。

 七戸城も、九戸城・根城などと同じく、極めて広大な城域を有した段丘上の城で、群郭的に外郭を配置した縄張りとなっている。その遺構は、石垣を持たず、土塁と堀で分断防御した中世城郭的色彩を色濃く残している。本丸の堀はほぼ湮滅しているが、二ノ丸や宝泉館・北館・角館等の外郭にも堀跡が良好に残っている。北側の外郭である貝ノ口にも、台地基部を横切る土塁と堀がわずかに残っており、現在発掘調査中の様であるがは、浅い堀には畝の様な物が見られ、もしかしたら畝堀だったのかもしれない。近世まで使われた城の為、どこまでが戦国時代の遺構かは判然としないが、遺構がなかなか素晴らしい。国指定史跡として現在も整備が続いている様なので、更なる整備に期待したい。
貝ノ口の土塁と堀跡→DSC07518.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/40.698267/141.150059/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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根城(青森県八戸市) [古城めぐり(青森)]

DSC07308.JPG←本丸周囲の空堀
 根城は、奥州の名族南部氏の庶流根城南部氏の歴代の居城である。鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇は、動乱冷めやらぬ奥州を押さえる為、北畠顕家を陸奥国司・鎮守府大将軍に任じて、幼い義良親王(後の後村上天皇)を奉じて陸奥多賀城に下向させた。これは顕家の父で後醍醐の側近であった北畠親房の献策に拠ると言われる。この時、白河結城宗広・伊達行朝らと共に、根城南部氏の祖南部師行も下向して、奥州府の柱石として重きを成した。師行は、国代として糠部郡を支配し、1334年に根城を築いて本拠地とした。南北朝に分裂した後の1338年、師行は顕家率いる奥州軍に加わって西上し、和泉堺浦で北朝方の高師直(足利尊氏の執事)の軍に敗れて、顕家と共に討死した。根城南部氏はその後も奥州南朝方として活動したが、次第に北朝方に圧迫され、遂には足利義満の時代に南北合一となった。根城南部氏は、その後も根城を本拠として続き、1590年の小田原の役に三戸城主南部信直が参陣して本領安堵されると、根城南部氏は三戸南部氏の支配下に入った。江戸時代初期の1627年に、信直の子利直の要請によって、根城南部直栄は岩手県遠野に移り、根城は廃城となった。

 根城は、現在国指定史跡として大々的に整備され、日本百名城にも選出されている。馬淵川南岸の河岸段丘を利用して築かれた城で、浮島の様に曲輪を点在させた群郭的縄張りの城である。青森~岩手には、九戸城浪岡城などこの手の縄張りの城が多い。根城は広大な城域を有し、本丸・中館・東善寺館・岡前館・沢里館から構成され、外郭まで含めて遺構はほぼ完存に近い。近世初頭まで存続した城であるが、遺構を見る限りほとんど中世城郭のままの形態を残していた様である。本丸は外周に低い土塁と空堀を巡らして防御し、周囲の一部は横堀と空堀で二重防御している。本丸内は、主殿など多くの建物が発掘成果に従って復元されており、往時の城の状況を知ることができる。中館・東善寺館も公園として整備されており、堀跡や切岸が明瞭に残っている。岡前館はほとんど宅地化しているが、周囲を廻る第3空堀はかなり埋まっているもののはっきりと残っている。更に南の外郭に当たる沢里館も、切岸と外周の堀跡が明瞭に残っている。街中の城で、外郭まで含めた遺構がこれほど良く残っている例も珍しい。
外郭を廻る第3空堀→DSC07340.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/40.506156/141.460508/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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八戸城(青森県八戸市) [古城めぐり(青森)]

DSC07090.JPG←わずかに残る二ノ丸切岸
 八戸城は、盛岡藩の支藩八戸藩の居城である。元々は、建武の新政期に北畠顕家が陸奥国司として奥州多賀城に下向し、その国代南部師行が、1334年に根城を築き根城南部氏となったが、その後間もない頃に師行の孫信助が根城の支城と築いた「中館」が前身と言われている。信助の系統は、以後中館氏を称して代々の居館とした。戦国時代の末に三戸城主南部信直は豊臣秀吉から南部内七郡の支配を認められた。江戸時代初期の1627年、信直の子利直は根城南部氏を岩手県遠野へ国替えし、これに従って中館氏もこの地を去ると、八戸は三戸南部氏の直轄地となった。この時、利直は自ら縄張りして八戸城と城下町の作事・普請を行った。その後、盛岡城に移った南部重直は、1664年に世継ぎを定めないまま没し、徳川幕府は遺領10万石の内、弟重信に盛岡8万石を与え、弟直房には八戸2万石を与えて八戸藩が成立した。これ以後、八戸城は本格的に整備された。八戸城は、江戸時代に築かれた為、館或いは陣屋に近いもので、当初は「城」と呼ばれたが、後に「御屋敷」と呼び替えられた。江戸時代後期の1838年、8代信真は沿岸警備の功で城主格として扱われるようになり、再び城と呼ばれるようになって明治維新を迎えた。

 八戸城は、現在は市街化の波に完全に埋没し、遺構はほぼ湮滅している。本丸は三八城公園となり、二ノ丸は市街化されている。本丸は現在でも周囲より10m程の高台となっていて、その地勢を残している。また二ノ丸北側には、一部切岸の地形が残存し、城らしい跡をわずかに留めている。その他では、内堀の標柱が道路脇に建っているが地形は改変されており、枡形があった付近も改変されて形状は不明である。残念ながら、ほとんど城の痕跡は残っていない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/40.514672/141.487716/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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新田城(青森県八戸市) [古城めぐり(青森)]

DSC07013.JPG←空堀跡
 新田城(にいだじょう)は、新井田城とも記載され、根城南部氏の庶流新田氏が築いた城である。南北朝時代に根城を築いた南部師行の孫政持が根城の支城として築城し、以後新田氏を称して南部氏の重臣となった。一説には、新田城の北方500mの古館に入り、後に新田城に移ったとも言われている。時代は下って、1590年、三戸城主南部信直が豊臣秀吉の小田原の役に参陣して本領を安堵されると、根城も信直の支配下に入った。1627年、新田直義は伊達藩との国境を守るため遠野に移り、新田城は廃城となった。江戸時代中期の1766年には、八戸藩5代信興の隠居所として新御殿がこの地に営まれたと言う。

 新田城は、新井田川東岸に張り出した標高38mの台地上に築かれている。独立丘陵上の平山城で、いかにも要害の地であったことが現在でもよく分かる。本丸と外館(二ノ丸)の2郭から成る城で、新田八幡宮が建てられた本丸はかなり広く、周囲に腰曲輪を巡らしている。腰曲輪の一部は民家になっているが、切岸等の遺構は明確で、本丸西側に腰曲輪に繋がる虎口と土塁も明瞭に残っている。また本丸と外館の間は空堀で分断され、この堀跡の一部が残っている。堀の残りの部分は民家が建って湮滅してしまっている。外館には現在新井田小学校や民家が建っていて、かなり改変を受けているようだ。新田城は、一部であるが遺構は明瞭に残っていて、なかなかのものである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/40.491047/141.518701/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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京兆館(青森県三戸町) [古城めぐり(青森)]

DSC06662.JPG←館跡と思われる平場
 京兆館は、三戸城の城下町の入口、沼尻惣門を警護した館である。盛岡藩主南部利直の家臣岩館右京が館主で、1632年に利直が死没すると右京は殉死したと言う。尚、「京兆」とは右京太夫の唐名である。
 京兆館が築かれた地は、東側を盛岡・浄法寺に通じる古い街道が通る交通の要衝であったとされる。西側を流れる熊原川に望んだ、川沿いの低地に平場があり、そこが館跡なのであろう。三戸城から九戸城に向かう途中、通りがかりでたまたま道端の解説板に気付いたので立ち寄った。事前情報もなかったので、畑に変貌した平場だけ見て、そのまま九戸城へと急いだ。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/40.368496/141.243507/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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三戸城(青森県三戸町) [古城めぐり(青森)]

DSC06620.JPG←鍛冶屋御門の枡形石垣
 三戸城は、奥州の名族南部氏本宗家の戦国時代の居城である。三戸南部氏は鎌倉時代の糠部郡入部以来、聖寿寺館を本拠としていたが、1539年に家中の争いが元で聖寿寺館を消失し、24代南部晴政は、永禄年間(1558~69年)に新たに三戸城を築いて居城とした。26代信直の時の1590年に豊臣秀吉による天下統一がなされ、秀吉の朱印状により、家臣団の屋敷を三戸城下に移し、近世城郭として整備された。翌91年、九戸政実の乱の鎮定後、豊臣秀吉から和賀など三郡を加封され、浅野長政らの勧めもあって、新たに南に盛岡城の築城を始めた。しかし盛岡城の完成は1633年で、それまでは三戸城から九戸城郡山城(高水寺城)と居城を移し、三戸城には弟の政信を置いた。盛岡城に居城を移した後、九戸城・郡山城は破却されたが、三戸城は破却されずに長く残し、城代、後には代官が置かれて幕末まで存続した。

 三戸城は、最高所で比高80m程の、熊原川南岸にそびえる菱形形状の独立丘陵上に築かれた広大な城郭である。城跡は現在公園化されていて、本丸付近はかなり改変されているが、全体に遺構は良く残っている。非常に変わった縄張りで、普通であれば大堀切で分断した連郭式の城にするところであるが、三戸城は短軸でも幅が広すぎるせいか分断的な縄張りではなく、高低差をつけて区画した曲輪群を縦横に連ねた、群郭的な縄張りとなっている。その為、本丸を中心とした求心的な縄張りではなく、群郭の外郭線を主な防衛線としていた様である。南西端と北東端には物見の曲輪を置き、眼下を睥睨している。大手は南西側で、外郭線に綱御門と呼ばれる枡形門があり、この門と周囲の曲輪には石垣が築かれている。この綱御門だけが復元整備されている。この内側にも大きな枡形土塁が築かれた鳩御門がある。本丸までの間には、更に続いて欅御門・大御門があり、それぞれ土塁が残っているが、かなり破壊を受けしまっている。大御門の土塁に連なる形で城内唯一の空堀がある。深さは3m程のものである。本丸の北側に一段低く連なっている谷丸の切岸には、石垣があったとされるが現在は湮滅している。三戸城で必見の遺構は搦手にあり、搦手筋に構えられた鍛冶屋御門には崩落が進んでいるものの、しっかりと石垣が残っている。この門も枡形虎口となっており、更に上部には腰曲輪があって、腰曲輪の櫓台から左袖となって横矢を掛けている。この付近は腰曲輪もほぼ原型を留めており、中世城郭の雰囲気を濃厚に漂わせている。公園化で遺構が破壊されていなければ、もっと素晴らしかっただろうにと惜しまれる。
鳩御門の枡形土塁→DSC06459.JPG
DSC06544.JPG←城内唯一の空堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/40.381573/141.264310/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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佐藤館(青森県南部町) [古城めぐり(青森)]

DSC06366.JPG←南側の空堀の遠望
 佐藤館は、詳細不詳の城館である。南部利康霊屋を訪問(要予約)した時に、案内していただいた市職員の方から頂いた聖寿寺館のパンフレットの地図に、その名が記載されていた。位置的には、平良ヶ崎城西側の谷戸を挟んだ向かいの台地の北東辺縁部に位置し、台地からは大きな空堀で隔てられた独立区画となっている様である。私有地の為、内部には進入不可能で、遺構の有無は確認できないが、平良ヶ崎城址から南の空堀が遠望できる。いずれにしても南部氏に関わる城館の一つであることは疑いの余地がなく、重臣の居館か何かであったのだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/40.413226/141.274298/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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平良ヶ崎城(青森県南部町) [古城めぐり(青森)]

DSC06381.JPG←空堀跡
 平良ヶ崎城は、南部藩祖南部三郎光行が糠部経営の拠点として1192年に築いた城である。光行の糠部郡入部の経緯は、聖寿寺館の項に記載する。この地は街道の分岐点を押さえる要地で、高山峠に続く尾根を掘り切って城地とした。三戸五城の一つに数えられ、居館の聖寿寺館に対して政庁として機能したと考えられている。1539年、家中の争いが元で、家臣赤沼備中の放火で聖寿寺館を消失し、以後三戸城が居城となると、平良ヶ崎城もその機能を失ったと考えられる。
 平良ヶ崎城は、北古館・南古館という地名の残る、馬淵川北岸の比高10m程の段丘上に築かれた城である。南古館は小学校跡地で、北古館は畑に変貌しており、遺構は湮滅が進んでいる。小学校跡地の中には平場に段差が残っており、曲輪が区画されていたのかもしれない。唯一明確に残っているのは、北古館と南古館の間の空堀で、深さ5m程の空堀が道路となっている。周囲の平地から望んだ姿は、遺構はなくても崖端城の切岸そのものである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/40.413275/141.277345/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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聖寿寺館(青森県南部町) [古城めぐり(青森)]

DSC06331.JPG←北側の堀跡
 聖寿寺館は、奥州の名族南部氏本宗家の室町時代から戦国時代にかけての本拠地である。南部氏は、甲斐源氏新羅三郎義光の流れを汲む南部三郎光行を祖とする。1189年、光行は源頼朝の奥州合戦に従軍し、戦功によって糠部郡を賜り、1191年暮れに鎌倉よりこの地に入部したと言われている。翌92年に平良ヶ崎城が築城されて政庁機能を果たし、聖寿寺館はそれに対する居館であったと考えられている。南北朝時代には、義良親王を奉じて陸奥守鎮守府大将軍となって奥州多賀城(後に霊山城に移動)に下向した北畠顕家の下で、南部師行は伊達氏と並ぶ奥州南朝方の柱石として活躍した。室町時代になると、強勢だった八戸南部氏に対して、嫡流の三戸南部氏の宗家としての立場が確立し、13代守行は室町将軍直属の京都御扶持衆となって、伊達氏・葛西氏と並ぶ奥州屈指の格式を誇った。戦国時代に入ると23代安信・24代晴政の下で、聖寿寺館を拠点として戦国大名化へと脱皮した。しかし1539年、家中の争いが元で、家臣の赤沼備中が聖寿寺館に放火して消失した。以後は三戸城が居城となり、聖寿寺館は廃されたと考えられる。

 聖寿寺館は、馬淵川の支流猿辺川北岸の段丘上に築かれた居館である。現在国の指定史跡となっているが、館内は民有地の畑や宅地の為、整備はまだ進んでいない。それでも畑となった広い平坦地の北側には堀跡が明確に残っている。また東側の切通し状の車道も堀跡である。内部は私有地の畑であまり確認できないが、畑の入口付近から見たところ、どうも2段の平場に分かれていた様である。大手虎口は南にあったらしく、虎口周囲には腰曲輪があって、左袖を掛けて防御していた様である。350年間も存続した居館であるが、遺構は割とささやかなものである。尚、周囲には南部氏の廟所が残っている他、平良ヶ崎城・馬場館・大向館・佐藤館などがあって、中世の一大拠点であったことを物語っている。
南虎口→DSC06349.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/40.413275/141.277345/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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