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古城めぐり(鳥取) ブログトップ

若桜鬼ヶ城(鳥取県若桜町) [古城めぐり(鳥取)]

DSC06745.JPG←腰曲輪の石垣群
 若桜鬼ヶ城は、単に若桜城とも呼ばれ、鎌倉時代初期に在地領主の矢部氏によって築かれたと考えられている。この若桜の矢部氏統治は長く続き、初代矢部暉種より戦国時代の16代矢部吉茂に至るが、1575年に尼子勝久を奉じた山中鹿介幸盛が若桜鬼ヶ城を攻め落とし、尼子氏再興戦の舞台となった。しかし翌年、毛利方の吉川元春によって攻略されて毛利氏の持ち城となった。間もなく、東からは天下布武の野望に燃える織田信長の命により、羽柴秀吉が中国経略の指揮官として侵攻してきて、織田・毛利両勢力による攻防の場となり、1578年には秀吉が若桜鬼ヶ城を攻略して、家臣木下重堅を若桜鬼ヶ城の城将とし、鳥取城攻めの拠点とした。1581年に鳥取城が落ちた後も、引き続き重堅が城主を務め、1600年の関ヶ原の戦いで敗北するまで在城した。関ヶ原以降は山崎家盛の居城となったが、1617年に鳥取城主となった池田光政が因伯二国を領すると、一国一城令により廃城となった。

 若桜鬼ヶ城は、比高220mの山頂に築かれた城で、ほぼ総石垣の城である。それほど広い曲輪を有した城ではないが、本丸には天守台を備え、虎口が明瞭に形作られた本格的な城で、戦国末期の石垣技術を堪能することができる。特に二ノ丸腰曲輪の石垣群が素晴らしい。また西側下方には六角石垣と呼ばれる平場の高石垣があり、これも見事である。この他、南尾根の馬場手前には堀切と土塁があるが、これは中世的山城の遺構であろう。また主城部から北に伸びる尾根の下方には段曲輪群や堀切・竪堀が残っているようだが、今回はパスした。若桜鬼ヶ城は峻険な山城であるが、車道が主城部近くまで伸びており、大した苦労もせずに訪城することができるので、必見の城である。ただ、石垣は廃城時に崩されており、近年でも明らかに崩落が進んでおり、何らかの保護措置を早急に講じて欲しい。そんな中にあっても風雪に耐えて残る石垣は、古城の威厳をたたえており素晴らしい。
三ノ丸大手虎口→DSC06784.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.336589/134.397973/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:近世山城
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鳥取城(鳥取県鳥取市) [古城めぐり(鳥取)]

DSC06429.JPG←天球丸周辺の石垣群
 鳥取城は、中世山城と近世平山城の混在する城である。また鳥取城が有名なのは、何より織田信長の部将羽柴秀吉によって行われた「鳥取の渇え殺し」と言われた城攻めによってである。鳥取城の創築は、因幡守護山名誠通が、同族の但馬守護山名祐豊と争い、戦国中期の天文年間(1532~53年)に祐豊の侵攻に備えるために築かれたと言われている。しかし鳥取城が因幡支配の拠点城郭となったのは、山名氏重臣の武田高信が城主となった頃からである。1573年には山名豊国が天神山城から鳥取城に入って居城を移し、鳥取城を因幡の本城とした。毛利氏の勢力が東進してくると、山名氏も毛利氏の支配下に入ったが、織田信長の命で羽柴秀吉が中国攻略に当たると、鳥取城は織田・毛利両勢力のぶつかる最前線となった。1580年の第1次鳥取城の戦いでは、山名豊国は家老たちの主戦論を抑えて秀吉に降ったものの、その後の秀吉の冷遇に家老森下道誉・中村春続らは反感を募らせ、豊国を追放して毛利方に付いて、吉川元春に城将派遣を請うて、吉川経家が城将として鳥取城に入った。経家は自らの首桶を持参し、死を覚悟しての入城であった。1581年の第2次鳥取城の戦いでは、秀吉は商人を使って予め高値で鳥取城下の穀物を買い占め、鳥取城の米蔵を空にしておいた。その上で2万の大軍で姫路城を進発し、鳥取城背後の帝釈山に本陣を構え、鳥取城を完全包囲した。秀吉の完全封鎖によって毛利方の補給線は途絶え、3ヶ月の籠城戦の末に飢餓地獄に陥った鳥取城は、城将吉川経家の決断により秀吉に開城し、経家は自刃して果てた。時に35歳であったと言う。

 その後、鳥取城には宮部継潤が入ったが、1600年の関ヶ原合戦で宮部氏は西軍に付いて没落し、代わって池田輝政の弟長吉が鳥取城に入部した。長吉の時に4年を掛けて大改修が行われ、近世城郭としての鳥取城が完成した。1617年には池田光政が鳥取城主に封じられ、1632年には岡山城主池田光仲が鳥取城に移封となった。このまま池田氏が鳥取藩主として幕末まで至った。

 鳥取城は、中世山城に近世の石垣を備えた山上部(山上ノ丸)と、山麓に築かれた近世の居館部(山下ノ丸)から成っている。まず山下ノ丸であるが、大規模な石垣群を備えた立派な構えで、斜面上の数段の曲輪群で構成されている。前面には近世城郭らしく広い水堀が構えられ、三ノ丸・二ノ丸・天球丸が段々に築かれている。三ノ丸は鳥取西高校となっているが、大手の太鼓御門石垣などが良好に残っている。二ノ丸・天球丸の石垣は往時そのままの威容を残しているほぼ総石垣の城である。訪城した時は、天球丸下の石垣が修復中だった。

 山上ノ丸は、比高253mの峻険な久松山山頂に築かれており、天守台を備えた本丸に、二ノ丸・三ノ丸・出丸といった曲輪や腰曲輪を設け、各曲輪には峻険な山上にもかかわらず石垣が多用されている。天守台周辺は石垣の崩落が進んでおり、早急な保護措置が望まれる。また裏の腰曲輪の石垣の石は、他の部分の石垣と比べて石の大きさが小さく、毛利氏時代の遺構ではないかと推測される。山上ノ丸は、山城であるが、羽衣石城同様堀切は無い様である。山の峻険さが最大の武器だったのだろう。尚、訪城した日は猛烈な突風で、苦労して山上に登ると、風で体が飛ばされそうなほどだった。しかし天守台から見る鳥取砂丘と日本海の美しさは例え様もない。また山麓石垣と久松山の山容は何とも絵になる。山登りの苦労が吹き飛ぶ、爽快な城である。
天守台の崩落した石垣→DSC06505.JPG
DSC06557.JPG←山上ノ丸搦手虎口の石垣

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.510186/134.240903/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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羽衣石城(鳥取県湯梨浜町) [古城めぐり(鳥取)]

DSC06281.JPG←ニノ郭と主郭模擬天守
 羽衣石城は、伯耆の国人領主南条氏の居城である。南条氏は、近江源氏佐々木氏の庶流塩冶高貞の次男南条貞宗を祖とし、貞宗は南北朝期に足利氏に従って軍功を挙げ、2代将軍足利義詮から伯耆守に任ぜられて、1366年に羽衣石城を築いた。以後、南条氏は羽衣石城を拠点に、伯耆守護山名氏に従った。応仁の乱で守護権力が没落すると、南条氏は在地支配の拡大を目指して独立領主化を推し進めた。1524年、出雲の月山富田城主尼子経久は、伯耆に大挙侵攻し、一気に伯耆の諸城を攻め落とした。いわゆる「大永の五月崩れ」で、南条宗勝もこの時羽衣石城を奪われて因幡に逃れ、羽衣石城には尼子経久の子国久が入り、以後、しばらく尼子氏の支城となった。しかし安芸の毛利氏が台頭すると、尼子氏の勢力は衰退し、南条宗勝は1562年に毛利氏の支援を受けて、羽衣石城を奪還した。1566年に尼子氏が滅ぶと、伯耆は毛利領となり、南条氏はその下で東伯耆3郡を支配した。その後、天下布武の野望に燃える織田信長が配下の部将羽柴秀吉に中国経略を命じ、織田勢の山陰侵攻が本格化すると、1579年に南条元続は織田方に付き、毛利方の吉川元春は羽衣石城を攻撃した。元続は、秀吉の助勢で抗戦したが、1582年に秀吉が撤兵すると羽衣石城は落城し、元続は京都に逃れた。1585年に秀吉と毛利氏との間で領土の確定が行われ、八橋城以外の東伯耆は秀吉の支配下となり、再び南条氏が羽衣石城主に返り咲いた。しかし1600年の関ヶ原の戦いで南条元忠は西軍に付いたため、戦後改易されて羽衣石城は廃城となった。

 羽衣石城は、標高376m、比高226mの峻険な山城であるが、途中まで車道が延びており、150m程の高低差で登ることができる。城跡は公園化されており、模擬天守まで建てられているため、整備されすぎで興を削ぐ。歴戦の城にしてはこじんまりした縄張りで、主郭の周囲に腰曲輪状にニノ郭と三ノ郭を配置しただけで、土塁や堀切は全くなく、各曲輪もそれほど広くはなく、山の峻険さだけを武器とした城だった様である。中腹の「お茶の水井戸」付近には土留めの石垣が築かれ、この他大手道の門らしき場所にも石垣が残っている。主郭からかなり下方の北西尾根には段曲輪群が築かれており、そこそこの広さがあるため居館跡と推定されているようだ。整備されすぎるとどんな中世城郭でも白けてしまうという実例で、史跡整備の難しさを感じた。
お茶の水井戸の石垣→DSC06324.JPG
DSC06339.JPG←居館跡とされる段曲輪

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.437114/133.898819/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世山城
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田内城(鳥取県倉吉市) [古城めぐり(鳥取)]

DSC06209.JPG←二重堀切
 田内城は、南北朝時代に因幡と伯耆の守護であった山名時氏が築いた城である。山名時氏は新田義貞の庶流で、足利氏に従って功績を挙げ、室町幕府の重臣となった。その事績については、山名時氏墓所の項に記載する。時氏は興国年間(1340~46年)に、因幡に二上山城を、伯耆にはこの田内城を築いて領国経営の拠点としたと言われ、田内城には嫡子師義を配した。師義は後の延文年間(1356~61年)に、より峻険な打吹城を築いて移り、田内城は廃城となった。
 田内城は、小鴨川に望む標高60m、比高わずか40m程の小山に築かれた城である。山頂には主郭が置かれ、主郭内には現在模擬天守が建てられているが、勿論史実ではない。主郭西の緩斜面に小さなニノ郭・三ノ郭を置き、その先の尾根の鞍部には二重堀切を構築して防御を固めている。1本目の堀切は横堀形状となっている様だ。各曲輪はそれぞれ虎口や土塁が明瞭に残っている。また主郭の東側にも腰曲輪が築かれている。遺構は比較的よく残っているが、守護所として考えると非常に小さな城で、麓の居館に対する単なる詰城として考えても、動乱の時代に対応するには防御性に不足があったことが窺われる。間もなく打吹城に移ったのも、遺構を見ればうなずける。
三ノ郭と二ノ郭虎口→DSC06213.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.442736/133.838056/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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打吹城(鳥取県倉吉市) [古城めぐり(鳥取)]

DSC06100.JPG←破却された天守台
 打吹城は、南北朝期の延文年間(1356~61年)、伯耆守護山名時氏の時に、その嫡子師義が田内城より移って築いた城と言われている。山名氏は一時期は一族で中国11ヶ国を領し、六分の一殿と呼ばれて強勢を誇ったが、3代将軍足利義満の守護抑制策にはまり、一族の内紛につけこまれて明徳の乱を引き起こし、勢力を著しく減退させた。その後、山名宗全の時代に勢力を盛り返したが、時の将軍足利義政の後継争いや有力守護大名畠山氏の内紛が絡んで、管領細川勝元と激しく対立し、応仁文明の大乱を巻き起こした。11年間にわたって続いたこの大乱によって、各地の守護大名の権力は没落し、伯耆でも守護山名氏に代わって羽衣石城の南条氏や尾高城の行松氏ら国人領主の勢力が強くなり、一方、隣国の出雲では守護代の月山富田城主尼子経久が台頭していた。1524年、尼子経久は伯耆に大挙侵攻して山名氏や周辺諸城を抜き、打吹城も攻略された。これは「大永の五月崩れ」と呼ばれる。城を追われた諸将は毛利元就を頼った。毛利氏が尼子氏を降した後、1580年には吉川元春が打吹城に入ったが、1582年、織田信長が本能寺の変で横死すると、羽柴秀吉は毛利方と和睦し、これ以後、打吹城は羽衣石城の支配下に入った。1600年の関ヶ原の戦いの戦功で中村一氏が伯耆に入封すると、打吹城は米子城の支城となり入番が置かれたが、1609年に中村氏が無嗣断絶になると幕府の直轄領となった。その後、1615年の一国一城令によって、伯耆は米子城を残して他の城は破却され、打吹城も石塁を壊し堀を埋めて廃城となった。

 打吹城は、標高204m、比高174mの見事な山容を持った打吹山山頂に築かれた山城である。打吹城は山頂の主城部以外に、越中丸・備前丸・小鴨丸など、曲輪を守った家臣の名が付いた出丸を備えた広い城であったが、徹底した破却の跡を残しており、多くの石垣跡が見られるが、石はほとんどが取り去られ、残った石はそこかしこに散乱している状態である。主郭の大手虎口も破壊されているが、その形状から内枡形があったものと思われる。また井戸らしきくぼみがあちこちにあり、井戸の多かった城だったようである。主郭はなかなか広く、石碑が立てられている土壇は天守台跡で、わずかに石垣が残っている。埋められたのか堀切はなく、ニノ郭等に破城の跡と思われる溝状遺構が残っている。破却がかなり徹底的に行われているので、その縄張りもわかりにくいほどである。もし往時のままだったら、有数の石垣を持った大城塞であったことが窺われるが、今では想像するしかない。それにしてもこれほど破却の痕跡を明瞭に残した城も珍しい。
天守台に残る石垣→DSC06107.JPG
DSC06089.JPG←主郭虎口の石垣跡

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.426407/133.822049/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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富長城(鳥取県大山町) [古城めぐり(鳥取)]

DSC05757.JPG←主郭周囲の土塁
 富長城は、日本海に面した断崖上に築かれた城である。元弘の乱の折、名和長年に協力した荒松氏が築いた城と伝えられており、戦国時代には西伯の土豪福頼左右衛門尉が在城したとも言われている。また一説には、富長神社社殿のある辺りに陣屋があったとも言われるらしい。
 富長城は、現在富長神社の境内となっている。よくある単郭方形居館の類だが、遺構が想像以上に大きいのでびっくりした。主郭東側は天然の沢で掘り切られているが、この沢が大きく最も深い北側では深さ20m程もある大きなものである。また主郭外周を廻る土塁も大きく、高さ5m程もある。海沿いの断崖上に立つ方形居館という珍しい立地で、北側の土塁の下はすぐそこまで海が迫っている。大手虎口はややはっきりしないものの桝形の土塁となっているようだが、日本城郭大系の図では役所跡とある。どちらが本当だろうか。西側の堀は一部は埋まっており、その北側は深い沢となっているようだが薮がひどく明確には確認できない。全く予想外の遺構で恐れいった。
主郭北端から望む日本海→DSC05735.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.499705/133.475422/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:居館
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末吉城(鳥取県大山町) [古城めぐり(鳥取)]

DSC05701.JPG←山中鹿介供養塔と美甘塚
 末吉城は、歴史不詳の城である。わずかに山中鹿介幸盛の尼子氏再興戦の中でその姿を現すだけである。即ち、1571年、尼子勝久を奉じて再挙の旗を押し立てた鹿介は、末吉城に入って大山経悟院・新山城と連携して西伯耆最後の拠点として護りを固めていた。6月に毛利元就が死に、その次男吉川元春は弔い合戦と称して一万余騎の大軍で山陰に向けて進撃し、大山経悟院を討つと呼号していた。しかしこれは偽勢で、不意に反転して末吉城を囲んだ。鹿助率いる尼子方城兵はわずか4~500人で、土塁を高くし空堀を設けたものの、毛利方は6000の兵を総動員して三重楼を造って鉄砲や礫を城内に打ち込んだので、数日間の激戦の末に末吉城は落城し、鹿介は捕らえられて尾高城に幽閉されたと言う。

 末吉城は、尾高城の北北東7.7kmの位置に築かれていたと言われるが、現在周囲は宅地や畑に変貌し、遺構は全く残っていない様である。国道9号線の大山入口交差点脇に末吉城址駐輪場と山中鹿介供養塔、末吉城の悲話にまつわる美甘塚が残っているだけである。しかし、帰ってからYahooMapの航空写真で見たら、交差点南側に城址らしい地形が広がっており、土塁や空堀の残欠がある可能性がある。いつの日か再訪して確認してみたい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.485379/133.443621/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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尾高城(鳥取県米子市) [古城めぐり(鳥取)]

DSC05625.JPG←本丸~二ノ丸間の堀切
 尾高城は、小鷹泉山城とも言い、西伯耆の軍事上の中心であった城である。交通の要地にあったため、鎌倉時代から城が築かれていたらしい。はっきりと歴史に現れるのは、室町時代に伯耆守護山名氏の支配下で、豪族の行松氏の居城であった。1524年に月山富田城主尼子経久が伯耆に侵攻すると、尾高城も尼子氏の手に帰し、城主行松正盛は毛利元就の元に逃れた。尼子氏支配時代は吉田光倫が城主であったが、1562年に毛利元就が尼子氏の有力支城白鹿城を攻撃すると、行松正盛は流浪38年目にして尾高城を奪還した。その後は毛利氏の支配下となり、奪還から間もなく正盛が死ぬと、杉原播磨守盛重が伯耆経略の重責を担って尾高城に入った。1571年には、第1次尼子氏再興運動に敗れて毛利方に捕らえられた山中鹿介幸盛が、腹痛を偽って尾高城の厠から脱出した逸話が知られている。約20年の杉原氏時代の後は、吉川元春(元就の次男)の居城となった。しかし1600年の関ヶ原合戦で毛利氏は敗北してこの地を去り、尾高城は米子に入部した中村一忠の持ち城となった。中村氏は前米子城主の吉川広家が築城途中であった為、米子城が完成するまでの一時期、尾高城に在城したらしい。米子城が完成すると、尾高城の石垣などは取り壊されて廃城となった。

 尾高城は、伯耆の主峰大山の遥か山裾の台地先端に築かれた城で、比高20m程の段丘上に位置している。想像以上に広大な城域で、遺構も多少改変されているもののよく残っている。北西部お先端から二ノ丸・本丸を配置し、大きな堀切を挟んで南に中ノ丸を置き、その南側にも馬出しと思われる小郭を配置している。一方、東側には谷戸を挟んで蔵屋敷・方形館・南大首郭等を置いている。更に堀跡の道路を挟んで南側には天神丸があり、ここには現在「シャトーおだか」というホテルが建てられている。方形館などは公園化しているが、あまり大きな改変はされていないようである。手付かずなのは本丸と二ノ丸で、山林化している分、遺構は手付かずで残っている。本丸外周は土塁で防御され、二ノ丸との間は広幅の堀切で分断している。この広い堀切は水の手曲輪でもあったらしい。この堀切沿いの切岸や本丸土塁には一部に石積みが残っており、この城に石垣が取り入れられていたことを物語っている。西伯耆の拠点城郭であっただけあって、規模が大きく素晴らしい。このまま貴重な遺構を後世に伝えてもらいたい。
切岸に残る石積み→DSC05631.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.421458/133.411156/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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米子城(鳥取県米子市) [古城めぐり(鳥取)]

DSC05554.JPG←市内から見た山頂の石垣
 米子城は、吉川広家が築城を開始し、中村一忠によって完成された近世城郭である。元々は飯山城と呼ばれ、応仁・文明年間(1467~87年)に伯耆守護山名教之の配下山名宗之によって築かれたと言われている。築城以降、出雲・伯耆国境の城として争奪の的となった。その後、1591年に西伯耆・東出雲・隠岐の領主吉川広家が、月山富田城に代わる近世城郭として築城を開始したが、1600年の関ヶ原の戦いの後、広家は岩国に転封となり、代わって中村一忠が伯耆18万石に封ぜられて築城を続け、1602年に完成された。しかし一忠はわずか20歳の若さで急逝して中村家は断絶し、その後、幾つかの城主の変遷を経て、1632年から鳥取城主となった池田光仲の家老荒尾内匠助成利が、1万5千石で米子城主となり、幕末まで荒尾氏の歴代の居城となって存続した。

 米子城は、比高90mの湊山に築かれた平山城で、近世城郭らしく石垣の多い城である。しかも虎口の枡形などが巧みに配置されているのも、近世城郭らしい。頂上の本丸にはかつて五重の天守を備えた天守台があるが、天守台石垣の傾斜は周囲の石垣と比べて緩く、かなりの重量を支える為に築かれたことが窺われる。天守台上に天守の礎石がよく残っているのは珍しい。米子城は一城別郭の縄張りを持った城でもあり、三つの山にそれぞれ本丸・内膳丸・采女丸を分散配置している。麓の二ノ丸はかつて城主居館があり、その周囲も総石垣となっている。三ノ丸は野球場となってしまい湮滅しているが、復元する計画もあるようだ。ついこの間まであまりその存在を認識していなかった城であるが、見事な遺構で素晴らしい。
天守台から見た内膳丸→DSC04715.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.425025/133.324295/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:近世平山城
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