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古城めぐり(山梨) ブログトップ
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葛谷城(山梨県南部町) [古城めぐり(山梨)]

DSCN0614.JPG←城址碑と信玄供養塔
 葛谷城は、戦国時代の駿河今川氏と甲斐武田氏との抗争期に築かれた境目の城である。今川氏親・氏輝親子が武田信虎と争った1515~35年頃に今川氏によって構築され、武田信玄が駿河に侵攻して今川氏真を駆逐した1568年以降に、武田氏によって規模が拡大され、再構築された城と推測されている。葛谷峠狼煙場跡として町の史跡に指定されていたが、平成2年の全面発掘調査の後、民間会社による土石採取で城は消滅した。

 葛谷城は、前述の通り、既に地上から消滅してしまっている。発掘調査の結果、伝承されてきた単なる狼煙場ではなく、土塁で囲まれた頂部の2郭を中心に横堀・竪堀・腰曲輪を備えた、かなり技巧的な縄張りの城であることが判明したと言う。現在は、国道469号線沿いの県境に近い空き地に、葛谷城旧跡の碑・武田信玄供養塔(元は葛谷城主郭にあったもの)が基壇の上に並べられて整備されているだけである。しかし周囲は草茫々である上、空き地の周りは鉄条網で囲われている。せっかく整備したものなのに、なんで鉄条網で囲っているのか、不思議でならない。そもそも文化財を残すために史跡に指定したはずなのに、みすみす破壊を許す結果となったとは、何のために史跡に指定したのかと疑問に思う。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所: https://maps.gsi.go.jp/#16/35.229259/138.529851/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/07/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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福士の城山城(山梨県南部町) [古城めぐり(山梨)]

DSCN0576.JPG←広大な腰曲輪
 福士の城山城は、歴史不詳の城である。この地は穴山氏の支配下にあり、城山城西麓の西恩寺には穴山梅雪(信君)の遺児勝千代の墓もある。従って、穴山氏に関連した城砦である可能性はかなり濃厚で、福士の代官は佐野日向守友重かその一族と考えられていて、佐野氏が管理する烽火台であったと推測されている。
 尚、福士郷佐野氏は、同家の系図によれば下野国佐野の出身で、1440年の結城合戦後に甲斐守護武田信守に属して甲斐に移住したと伝えられる。本拠地を河内谷の光子沢に置き、戦国時代には武田氏の親族衆穴山氏の家臣になったと言う。佐野友光は光子沢を本拠とし、1534年に穴山信友から将監の官途を受け、佐野将監と名乗った。友光の弟淡路守光綱は、福士郷矢嶋に本拠を置いた。佐野友重は、友光の子で、穴山氏の奉行衆を務めた。

 福士の城山城は、福士川曲流部に突き出た、標高158m、比高40m程の丘陵上に築かれている。主郭には金刀比羅宮が建っているので、参道が整備されている。社殿があるのが主郭で、社殿背後に土塁が見られる。主郭の南東の鳥居のある平場が二ノ郭である。ここから南東の尾根筋には、片堀切や切通し状の堀切が残っている。また主郭の北西下方には、広大な腰曲輪が広がっており、その北西角には堀切が穿たれ、前面に小郭が置かれている。またこの腰曲輪の北にも更に舌状の腰曲輪があり、その周りに数段の帯曲輪が確認できる。以上が福士の城山城で、神社建設による改変があるものの、概ねの遺構は残っているようである。
北西角の堀切→DSCN0582.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.234114/138.471916/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武田三代の城

武田三代の城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2020/06/15
  • メディア: 単行本


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真篠城(山梨県南部町) [古城めぐり(山梨)]

DSCN0533.JPG←見事な畝状阻塞
 真篠城は、天文~永禄年間(1532~70年)に武田信玄の命により構築され、その家臣原大隅守(虎吉)が警護したと伝えられている。後には真篠勇太夫という武士の居所になったと言う。

 真篠城は、富士川西岸の標高259m、比高140m程の丘陵上に築かれている。なだらかな山容で、丘陵南東の中腹まで集落が広がっており、県指定史跡になっているため東中腹に駐車場も整備されており、苦労なく訪城できる(但し、駐車場の場所はわかりにくい)。この城は、甲斐の中世城郭の中でもベスト5に入る、屈指の縄張りを持っている。城の中心にある主郭は、外周を土塁で囲み、東西に見事な枡形虎口を築いている。北面の虎口だけは普通の坂虎口で、北側の腰曲輪に通じている。主郭の外周には腰曲輪が築かれ、東の枡形虎口は、主郭の南に広がる二ノ郭に通じている。二ノ郭の東西には土塁が築かれ、特に西のものは主郭土塁から繋がっている。また主郭の東斜面と北西斜面にも数段の腰曲輪が築かれている。北東には谷地形を利用した大きな竪堀があり、その脇の尾根に曲輪を築いている。竪堀の下は北東尾根の最下段の曲輪に繋がっている。主郭の北斜面の下に北尾根の遺構があり、付け根に小堀切が穿たれ、その先に細尾根の曲輪が続いている。北西の広い腰曲輪の先には細長い舌状の三ノ郭が突き出すように築かれ、土橋の架かった堀切で先端を穿ち、その先に台形状の馬出し郭を置いている。これほど明確な馬出し形状は、なかなかお目にかかれない。中田正光氏の縄張図では、三ノ郭の北斜面に畝状竪堀があるとしているが、私にはわからなかった。また主郭の西尾根下方には段曲輪があり、その先を堀切で分断し、堀切前面に物見状の土壇を築いている。一方、主城部から南に外れた峰に、この城の出色の遺構が残っている。それは類例の少ない畝状阻塞(畝状横堀)で、峰上の平場内を南北に貫通して穿たれている。これを畝状竪堀とする資料もあるが、形態からすれば竪堀ではなく横堀で、畝状阻塞(畝状横堀)とする方が正しい。同様の例は上野松井田城や信濃葛山城に見られる。真篠城のものは、平場上から南斜面に向かって堀を落としており、南側に対する防御を意識していることがわかる。この他、城から南東にやや離れた仲間地区にも連続畝堀があるらしいが、時間切れで未踏査である。枡形虎口や畝状阻塞など、必見の城である。
馬出しと土橋→DSCN0422.JPG
DSCN0485.JPG←主郭東の枡形虎口

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.257000/138.472044/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨の古城

山梨の古城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2017/07/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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南部城山城(山梨県南部町) [古城めぐり(山梨)]

DSCN0340.JPG←堀切に架かる2本土橋
 南部城山城は、単に南部城とも呼ばれ、この地を本貫地とした南部氏の詰城であったと考えられている。しかし南部氏は、1392年に波木井(南部)政光が奥州八戸に移住してこの地を離れ、その後は甲斐武田氏の一族穴山氏がこの地に入り、下山に本拠を移すまで南部を本拠として活躍した。現在残る遺構からは、穴山氏支配時代に改修を受けたものと推測されている。

 南部城山城は、南部市街地の西にある標高230m、比高90m程の丘陵上に築かれている。T字型になった尾根上に曲輪群が展開している。南の車道脇から登道があり、以前は南部城山ふるさと公園となっていたらしく、今でも薮の中に一応小道が残っている。丘陵の主尾根は北西に向かって一直線に伸びており、ここに外郭に相当する遺構が残っている。最高所となる標高320mの峰に築かれた長円形の曲輪を中心に、幾重にも腰曲輪が築かれている。北西に向かう尾根筋には細尾根上の曲輪が続き、途中には一騎駆け状の土橋、更にその先に堀切に架かった土橋があり、北西端の峰に至る。北西端の峰は古城山と呼ばれ、砦があったらしく、頂部の平場を中心に腰曲輪が見られるが、あまり遺構は明瞭ではない。一方、これらの主尾根の曲輪群から途中で北に分岐した支尾根には、城の中心部がある。支尾根の付け根には平坦な広い曲輪があり、居住区とされている。この曲輪の先に堀切があるが、両側に土橋が2本架かっている。この2本土橋は非常に珍しい遺構で、以前に丹波地方の東掛城高城城で見たことがあるが、東国では見た記憶があまりない。その先にもう一つ曲輪が続き、その先端を斜めに穿たれた堀切が分断している。この斜め堀切の北に腰曲輪群が数段築かれ、最高所に主郭がある。主郭には土塁と櫓台が築かれている。主郭の北に2郭があり、その下方には堀切で区画された小郭があり、両側に竪堀が落ちている。特に左手の竪堀は大きく、腰曲輪群を貫通して下方まで落ちている。主郭の西斜面には数段の腰曲輪が築かれている。北の鞍部に配水池が建設されて改変を受けているが、その北に高台があり、烽火台とされている。烽火台の北にも腰曲輪と細く突き出た曲輪が置かれて城域が終わっている。
 以上が南部城山城の遺構で、主郭周辺の堀切や曲輪群はしっかり普請されているが、虎口や動線には技巧性はなく、平易である。遺構を見た限りでは、武田氏勢力の城というより、駿河今川氏の城の雰囲気を感じた。戦国期に何度も今川氏の軍勢がこの地域から甲斐に侵攻しているので、今川勢が中継基地として整備した城だったのかもしれない。
北端の烽火台→DSCN0301.JPG
DSCN0279.JPG←竪堀と腰曲輪

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.290232/138.451488/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/07/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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遠藤伊勢守屋敷(山梨県身延町) [古城めぐり(山梨)]

DSCN0087.JPG←遠藤塚が残る屋敷地
 遠藤伊勢守屋敷は、甲斐武田氏の家臣遠藤伊勢守正綱・尾張守正則父子の居館である。遠藤氏父子は、1560年に信州での合戦で討死したと言う。

 遠藤伊勢守屋敷は、大城集落にある。渓流沿いの高台であり、屋敷跡と推測される場所は宅地や畑となっている。遠藤氏にまつわる3つの塚(鎧塚・刀塚・膳塚)が民家の近くに残っており、塚の標識もある。それ以外に明確な遺構は見られない。また集落最上部にある妙覚寺の墓地に、遠藤父子の墓と供養碑が残っている。
遠藤父子の墓と供養碑→DSCN0091.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.337192/138.398123/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武田三代の城

武田三代の城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2020/06/15
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タグ:居館
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波木井氏館(山梨県身延町) [古城めぐり(山梨)]

DSCN0059.JPG←主郭
 波木井氏館は、波木井南部氏館とも言い、甲斐源氏南部氏の庶流波木井氏の居館である。その事績は波木井城の項に記載する。波木井氏の祖、南部光行の3男六郎実長がこの地に屋敷を構えたとされる。1393年、8代政光の時に同族を頼って陸奥国八戸に移住するまで、波木井氏はこの地に居住したと言う。尚、その後も波木井城に残った一族もいたが、1527年に武田信虎に滅ぼされた。

 波木井氏館は、波木井川に面した梅平集落南側の比高40m程の山裾にある。丘上が平坦な高台となっていて、そこが館跡と伝えられている。北麓の墓地裏からと、近くの鏡円坊の脇からと2つの登道がある。方形の主郭があり、その北や西にいくつかの腰曲輪が見られる。主郭背後には土塁状の土壇があるが、一部崩れていてしまっているようである。背後に切通し状の小道があり、北側斜面に竪堀が落ちている。背後の東側丘陵地にも平坦地が広がっている。この他、大きな谷で南側側方を遮断している。以上が波木井氏館であるが、昭和58, 59年に行われた発掘調査では館跡と特定できるものは発見されなかったらしく、今後の考究が待たれるところである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.366297/138.428357/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨県の歴史散歩 (歴史散歩 19)

山梨県の歴史散歩 (歴史散歩 19)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2007/03/01
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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本城山(山梨県身延町) [古城めぐり(山梨)]

DSCN0016.JPG←垂直絶壁型の堀切
 本城山は、大島氏屋敷とも言い、『甲斐国志』によれば本城時頼という武士の居城とされる。しかし本城氏についても、大島氏についても、その事績は不明であり、烽火台との伝承もある。一方、主郭内の墓地に残る五輪塔は依田大炊頭長利という武士のものとされ、現地の石碑によれば上杉禅秀の乱の首謀者上杉禅秀(氏憲)が1417年に滅亡すると、依田氏も自刃したとされる。尚、この碑には本城山を龍剣山砦としている。

 本城山は、富士川東岸の大島集落の裏山にある。標高255mの山上で、主郭は現在墓地となっている。そのため西麓の大島集落から墓地への登道があるので、迷うことなく登ることができる。主郭にはL字型に土塁が残り、その裏に小平場があり、その西を堀切で分断している。堀切は、上総でよく見られる垂直絶壁型で、この地域では珍しい形である。その下方には数段の段曲輪が見られるが、その先は中部横断自動車道が尾根を貫通して破壊されている。小規模な城砦であるが、今では失われた歴史を秘めているようである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.320299/138.455865/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/07/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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金刀比羅山砦(山梨県甲府市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN5049.JPG←主郭後部の土塁
 金刀比羅山砦は、歴史不詳の砦である。甲斐駿河を結ぶ重要街道である中道往還の入口、右左口に築かれた砦で、北東にある右左口砦と共にこの街道を押さえるために築かれたものであることは想像に難くない。武田氏時代に峠筋の守りと烽火台の連絡のために築かれ、その後、1582年の本能寺の変後に勃発した武田遺領争奪戦『天守壬午の乱』の際に、中道往還から入甲した徳川家康によって使用されたものと推測されている。平山優著『天正壬午の乱』では、乱の最中に金刀比羅山砦は右左口砦と共に服部半蔵正成ら伊賀衆が守備し、中道往還の監視に当たったとしている。

 金刀比羅山砦は、右左口宿の背後にそびえる標高655mの金刀比羅山に築かれている。『甲斐の山城と館』では、「東の沢筋から道の標示があるが道形はなく、険しい登り」と記載されているが、実は北尾根に登り道が残っていた。但し、この道の登り口は北麓の民家の裏なので、民家を避けるために県道113号線から1/25000地形図にある東の沢筋の道を入り、5~10m行った先ですぐ尾根に取り付く必要がある。斜面を直登して尾根に至れば、尾根上にははっきりと道が残っている。これを辿っていけば、やがてつづら折れの道となり、山頂近くにはロープも設置されている。国道358号線がこの尾根下をトンネルで貫通しているが、ちょうどこのトンネルの真上の尾根に、段曲輪群8段と竪堀1本が確認できる。またその下方にも段曲輪2段(下の曲輪には小さな石祠がある)と浅い堀切があり、この尾根筋が大手道であったことがわかる。更に登っていくと、途中に2段の段曲輪があり、その先に砦の本体がある。砦は、堀切で区画された3つの曲輪が南北に連なる連郭式の縄張りとなっている。北から順に主郭・二ノ郭・三ノ郭となっている。主郭には金刀比羅神社が祀られ、東・北・西に腰曲輪が1段取り巻き、主郭の東西には帯曲輪と繋がる虎口が構築されている。主郭の北に神社に至る入口があるが、これは後世の改変の可能性が高い神社裏には主郭後部を守る土塁が築かれており、その裏に堀切が穿たれ、二ノ郭が広がっている。二ノ郭は倒木が多くほとんど整備されていない。二ノ郭の先の堀切は、この砦の中では最も深く穿たれている。その先は削平が甘く傾斜した三ノ郭があり、その先端も堀切が穿たれて城域が終わっている。以上が金刀比羅山砦の遺構で、右左口砦よりもしっかりとした普請がなされており、中道往還を押さえる重要な砦として機能していたことがうかがえる。
二ノ郭先端の堀切→DSCN5059.JPG
DSCN5008.JPG←北尾根の段曲輪群
北尾根の竪堀→DSCN5087.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.558790/138.592272/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨の古城

山梨の古城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2017/07/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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御岳の城山(山梨県甲府市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN4930.JPG←主郭
 御岳の城山は、甲斐武田氏の支配下にあった御岳衆と呼ばれる国人衆によって警衛されたと推測される烽火台である。御岳衆は、1582年、本能寺の変後の旧武田領争奪戦『天正壬午の乱』の際に徳川方に付いており、御岳の城山も当然徳川方の烽火台として機能していたと推測される。

 御岳の城山は、金桜神社の東方で南に向かって突き出た険しい山稜上にあり、天狗社が祀られていたことから天狗山とも呼ばれている。南麓から登道があり(登り口はすこし東の車道脇にある)、それを辿っていくと多数の墓地がある。この墓地には石積が多数築かれており、上の方まで続いている。登道には鎖とロープもあるので、登城に困難はない。登りきったところには、天狗社跡などの2段の平場と腰曲輪らしい平場があり、その上に狭小な主郭がある。主郭の北には、わずかな段差の先に細尾根が伸び、その先に岩塊がある。岩塊には2つの切れ込みがあり、これが『甲斐の山城と館』で堀切とされているものだろう。しかしほとんど自然地形であり、堀切はほんのわずかでわかりにくい。その先には自然地形の尾根が続いている。烽火台なので、数個の平場がある以外に見所はほとんど無い。
堀切とされる地形→DSCN4937.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.767869/138.559549/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 甲斐の山城と館

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 甲斐の山城と館

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/03/24
  • メディア: 単行本


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河窪城(山梨県甲府市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN4904.JPG←城跡の現況
 河窪城は、川窪の城山とも言い、甲斐武田氏の一族武田(河窪)兵庫信実が警衛に当たったと伝えられる。信実は、武田信玄の異母弟で、甲斐国河窪村を領して河窪氏を称した。信実は、1575年の長篠合戦で長篠城を攻囲する鳶ノ巣砦を守備していたが、徳川勢の奇襲を受け、防戦に努めたが討死した。その子、新十郎信俊が跡を継いだが、1582年に武田家が滅亡すると信俊は徳川家康に仕えた。1591年に武蔵の地、宮脇に知行地を移されて移住した(武田信俊館)と言う。

 河窪城は、武田氏の親族衆が守備するほど、府中防衛上の重要地であったと考えられる。ダム湖である能泉湖の南にそびえる標高約1080mの山上にある。しかし元は標高1146mあったとされ、荒川ダム建設(昭和61年完成)の採石のため昭和末期に大規模に削られてしまった。従って、遺構はものの見事に消滅している。更に現在はその削平された広大な土地にソーラー発電所が建設中で、往時の姿は見る影もなくなっている。かつては堀切も残っていたらしいが、今となっては時の彼方の情景である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.751676/138.576865/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 甲斐の山城と館

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 甲斐の山城と館

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/03/24
  • メディア: 単行本


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平瀬烽火台(山梨県甲府市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN4875.JPG←東辺の石積み
 平瀬烽火台は、戦国時代に甲斐武田氏が築いた烽火台網の一環で築かれたものと推測されている。

 平瀬烽火台は、名勝昇仙峡の玄関口にそびえる標高584mの城山に築かれている。城山の東に県道が通っており、そこから西に尾根を辿れば、比高わずか30m程で烽火台に着くので、訪城はたやすい。切岸は明瞭ではないが、長円形の主郭とその周囲を取り巻く腰曲輪だけで構成されている。主郭内には岩石がゴロゴロしている。城の東辺部にわずかに石積みが見られ、また西南西の端に方形に囲んだ石塁がある。この方形の石塁は烽火穴であるらしい。その脇には虎口らしい石積みもある。遺構としてはこれだけで、烽火台と言う名の通り簡素な城砦である。
方形の石塁→DSCN4889.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.721265/138.553820/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武田三代の城

武田三代の城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2020/06/15
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南部氏館(山梨県南部町) [古城めぐり(山梨)]

DSCN3611.JPG←館跡に残る井戸
 南部氏館は、後に伊達氏と並ぶ奥州の雄となった南部氏の発祥の地である。甲斐源氏の祖新羅三郎義光から3代の裔加賀美次郎遠光の3男三郎光行が、1180年に平家打倒に挙兵した源頼朝に従って軍功を挙げ、甲斐国南部郷を与えられて入部し、南部氏を称した。光行はこの地に居館を構えたが、1189年の奥州合戦の軍功により、奥州糠部の地を賜った。光行は、3男六郎実長を波木井に残し、自身とその一族は奥州に移って栄えた。その為、南部氏館はいつまで使われたかは明らかではない。

 南部氏館は、富士川西岸の微高地に築かれている。しかし館跡は市街化で宅地に変貌しており、遺構はほとんど残っていない。わずかに民家の敷地の中に井戸だけが残っていて、町の史跡となっている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.290617/138.455393/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国大名南部氏の一族・城館 (戎光祥中世織豊期論叢3)

戦国大名南部氏の一族・城館 (戎光祥中世織豊期論叢3)

  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2021/03/18
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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四条氏屋敷(山梨県南部町) [古城めぐり(山梨)]

DSCN3588.JPG←四条金吾頼基夫妻の墓
 四条氏屋敷は、鎌倉後期に北条氏一門の江馬氏の被官であった四条金吾頼基の屋敷である。頼基は中務三郎左衛門を称し、唐名により四条金吾と呼ばれた。日蓮に深く帰依し、1300年3月15日に71歳で没すると、屋敷跡を寺としたと伝えられる。その寺が内船寺であると言う。但し、内船寺は1288年に四条金吾が開基したとも言われ、いずれが正しいのかはわからない。

 四条氏屋敷は、前述の通り内船寺の境内となっている。内船集落背後の丘陵上に位置し、眺望に優れる要害の地であり、土豪の居館を置くには適地であったと思われる。但し土塁などの遺構は残っていない。内船寺の墓地には、四条金吾頼基夫妻の墓がある。
 ちなみに、Google日本語入力で「四条金吾」と入力すると、変換候補一覧の中に「四条金吾殿御返事」と出るので、何だろうとググったら、日蓮上人の御書全集に出てくる文書で、日蓮が四条金吾頼基宛に佐渡の配流地などから出した手紙のことらしい。四条金吾頼基は、創価学会では有名人らしい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.287903/138.465972/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨県の歴史散歩 (歴史散歩 19)

山梨県の歴史散歩 (歴史散歩 19)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2007/03/01
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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波木井城(山梨県身延町) [古城めぐり(山梨)]

DSCN3522.JPG←二ノ郭西側の切岸
 波木井城は、峯の城とも言い、甲斐源氏南部氏の庶流波木井氏の居城とされる。南部光行の3男六郎実長が波木井氏を称したとされる。光行は源頼朝に仕え、1189年の奥州合戦の軍功により、奥州糠部の地を賜り、光行とその一族は奥州に移って栄えた。一方、波木井六郎実長はこの地に残って波木井城を築いたと言われるが、明証はない。また梅平集落南側の山裾にも実長の居館跡があり、波木井城との関係はわかっていない。『太平記』第30巻によれば、南北朝期の1351年の薩埵山合戦の際、南部一族と羽切遠江守ら300余騎は足利尊氏方として薩埵山の一陣を守備し、攻撃してきた直義方の児玉党(武蔵七党の一)を撃退したと言う。波木井城が歴史に現れるのは、戦国期の武田信虎(信玄の父)の時代で、1521年に駿河今川氏の部将福島正成が甲斐に侵攻した時、波木井義実は今川方に内通した廉で、1527年に武田信虎に峯の城(波木井城)で攻め滅ぼされたと言う。

 波木井城は、身延山の南東の尾根筋の標高350mの峰に築かれている。城内は一部が宅地、大半が畑となり、墓地や鉄塔が立っているなど、地形改変が多くて遺構がよくわからない。鉄塔の立つ頂部の小郭が主郭と思われ、その西側には平坦な二ノ郭が広がっている。二ノ郭の南西部には土門と呼ばれる虎口跡があり、車道が通っているが、その脇には明確な切岸が残っている。主郭の東側斜面には腰曲輪らしい平場が段々に連なっている。腰曲輪群の北東部には、城址碑が立っており、その下方にも腰曲輪らしい平場が残る。全てが遺構かどうかはわからないが、城らしい雰囲気は感じられる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.387064/138.442647/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


太平記(五) (岩波文庫)

太平記(五) (岩波文庫)

  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2016/04/16
  • メディア: 文庫


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下山城(山梨県身延町) [古城めぐり(山梨)]

DSCN3483.JPG←竹薮となった堀跡
 下山城は、穴山氏館とも言い、甲斐武田氏の一族穴山氏の居城である。穴山氏入部前には、下山氏の本拠地であった。下山氏は、甲斐源氏の一流加賀美遠光の長男秋山光朝の子、小太郎光重が建仁年間(1201~4年)に下山に入部して下山氏を称したことに始まるとされる。その後、兵庫介光基、次郎入道、兵衛太郎らの名が吾妻鏡等に見られる。光基は、日蓮の門下となったことが知られる。その後、1418年頃に穴山氏が河内に入部し、下山氏館跡に居城を構えたとされる。穴山氏の草創については穴山氏館の項に記載する。戦国時代には、武田氏の親族衆として、伊豆守信友、信君(梅雪)父子が活躍した。1569年に武田信玄が今川氏を滅ぼして駿河を手中にすると、1575年に信君は駿河江尻城主となり、下山は留守所となった。1582年に織田信長が武田征伐を始めると、信君は江尻城を明け渡して徳川家康に降った。しかしわずか3ヶ月後に本能寺の変が起こり、家康と共に堺にいた信君は帰国の途中、落ち武者狩りに襲撃されて落命した。穴山氏では信君の子で、まだ幼い勝千代が残されたが、勝千代が1587年に夭折すると穴山家は断絶し、穴山領は徳川氏の支配下となった。これに伴い、下山城は廃城になったと推測されている。

 下山城は、現在本国寺境内や保育園となっている。国道52号線から見ると、5m程標高が高い山裾の微高地であるが、遺構はほとんど残っていない。城址碑が立つ他、台地の北東部にわずかに堀跡が残っている。但し密生した竹薮となっていて、ほとんど形状がわからない。残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.413773/138.441167/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武田氏滅亡 (角川選書)

武田氏滅亡 (角川選書)

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2017/02/24
  • メディア: 単行本


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千須和備後守家屋敷(山梨県早川町) [古城めぐり(山梨)]

DSCN3458.JPG←千須和備後守の墓
 千須和備後守は、波木井氏と共に日蓮を身延山に招いた人物と伝えられる。しかし後に穴山氏と対立して討たれたらしい。伝承では、穴山梅雪の使者から出陣要請を受けたが、その時はまともな対応をせず、使者に対して接待もしなかったことから、バカにされたと思った使者は主君梅雪に千須和は出陣しない旨を報告した。その為、梅雪から討手を差し向けられて備後守は殺されたと言う。但し、日蓮のいた鎌倉時代と、穴山梅雪のいた戦国後期では時代が離れているので、2つの話に出てくる千須和備後守は生きた時代の異なる別人で、千須和氏は代々備後守を称したということなのだろうか。

 千須和備後守家屋敷は、『甲斐の山城と館』では本証寺境内と推測している。遺構はないが、寺の北西の墓地に千須和備後守の墓がある。尚、この地は山間の急峻な斜面に築かれた集落で、こんな所にも集落があるのかと驚かされる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.423076/138.382298/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/07/01
  • メディア: 単行本


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兵部平(山梨県身延町) [古城めぐり(山梨)]

DSCN3452.JPG←伝飯富兵部少輔供養塔と古屋家墓
 兵部平は、武田信玄の重臣飯富兵部少輔虎昌の屋敷跡と伝わっている。虎昌は、天文年間(1532~55年)より東信地方を統括していた勇将で、飯富隊は赤備えで勇名を馳せた。信玄の信任厚く、嫡男太郎義信の傅役にも任ぜられたが、1565年に義信が反逆した罪で幽閉された、いわゆる義信事件に連座して、切腹させられた。虎昌の弟源四郎昌景が跡を継いだが、断絶していた名家、山県氏の名跡を継いで山県昌景と改姓したため、飯富氏は断絶した。しかし虎昌の遺児坊麿呂(時に4歳)は、京都三条家(信玄正室三条夫人の実家)に預けられ、成長して古屋弥右衛門昌時と改名して、17歳で父の故地飯富に帰って居を構えたと言う。昌時の4代の孫、弥次右衛門昌光は、富士川水運を中興する豪商となった。

 兵部平は、富士川と早川の合流点北西にある飯富集落付近にあったらしい。しかし『甲斐の山城と館』によれば、兵部平の位置は明確ではなく、虎昌がこの地に住んだとの確証もないらしい。永久寺や飯富八幡神社の背後にある台地が想定されるが、一面の畑となっていて明確な遺構は何もない。ただ、永久寺北西の畑の奥に、古屋弥右衛門昌時が亡父飯富兵部少輔の供養の為に建てたと伝わる宝篋印塔が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.434388/138.435845/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国大名武田氏の家臣団―信玄・勝頼を支えた家臣たち

戦国大名武田氏の家臣団―信玄・勝頼を支えた家臣たち

  • 作者: 丸島 和洋
  • 出版社/メーカー: 教育評論社
  • 発売日: 2016/06/23
  • メディア: 単行本


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依田氏屋敷(山梨県身延町) [古城めぐり(山梨)]

DSCN3437.JPG←北東部の堀跡
 依田氏屋敷は、依田出雲守義忠の屋敷である。義忠の事績は不明であるが、依田氏一族は下山地域を支配した穴山氏に仕えていたらしい。武田氏滅亡後、依田氏一族はこの地を領した徳川家康の家臣菅沼藤蔵定政の先手として働いたらしいが、義忠が一族中どの様な立場で、どんな動きをしたのかもわかっていない。

 依田氏屋敷は、円通寺境内の南側にある。丘陵南端に近く、方形に近い形状の台地となっていて、内部は山林となっている。土塁はないが、北東に堀跡らしい地形が見られる。遺構としてはこの程度であるが、寺の本堂の裏には依田義忠の宝篋印塔が残っている。尚、墓にお参りした後、寺から出ようとしたら、ご住職に呼び止められて、寺に来たら声掛けてくれと注意された。城巡り、史跡巡りで各地の寺に数多く訪れているが、こういうことを言われるのは初めてである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.443147/138.447776/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


日本100名城と続日本100名城に行こう 公式スタンプ帳つき (歴史群像シリーズ)

日本100名城と続日本100名城に行こう 公式スタンプ帳つき (歴史群像シリーズ)

  • 作者: 日本城郭協会
  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2020/12/17
  • メディア: ムック


タグ:居館
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菅沼城(山梨県身延町) [古城めぐり(山梨)]

DSCN3413.JPG←南西斜面の腰曲輪群
 菅沼城は、1582年の天正壬午の乱の際に徳川氏によって新規築城された城である。1582年6月2日本能寺の変が起こり、堺に滞在していた徳川家康は、決死の伊賀越を敢行して6月4日に岡崎城に帰還した。そして領内に密かに匿っていた武田遺臣達を次々と召し出し、甲信の国人衆へ徳川方に帰属するよう工作を開始した。6月6日には、駿河衆の岡部次郎右衛門正綱に命じて、下山地域に築城することを命じた。こうして築かれたのが菅沼城である。下山地域は武田一族で勝頼を裏切って織田方に投じた穴山梅雪(信君)の所領であったが、本能寺の変後の混乱の中で梅雪とその重臣達が落人狩りで落命し、穴山氏には幼い嗣子勝千代が残されただけであった。家康は、穴山氏家臣団を徳川方に従属させるとともに、徳川領北方の備え、及び甲斐侵攻に当たっての富士川沿いの軍事・補給ルートの確保を企図していたと考えられる。この後、甲斐に侵攻した家康は、小田原北条氏の侵攻に対応するため、諸将を各地の城に配置した。菅沼城には菅沼藤蔵定政を置いて富士川筋の守備に当たらせた。菅沼城の呼称は、城将菅沼氏に由来する。天正壬午の乱終結後の菅沼城の動向は不明であるが、1587年に穴山勝千代が夭折して穴山氏が事実上断絶すると、穴山氏旧領の河内領9千石は菅沼定政に与えられた。1590年の小田原の役では河内郷士21騎を率いて下総小金城に出陣した。小田原の役後、菅沼氏は下総守谷城に移封となり、菅沼城は1602年に廃城になったと言う。

 菅沼城は、冨士川西岸の比高70m程の丘陵南端に築かれている。古い航空写真を調べると、1970年代前半に中富中学校が主郭跡に建設されて主要部の遺構が破壊されてしまった。その中学校も2016年に廃校となり、現在はドローン会社の所有地になっている。その為主郭内の無断踏査はできない。旧校地の南東には舌状に張り出した二ノ郭があり、その西側の南斜面から西斜面にかけては腰曲輪群が築かれている。しかし夏場だと二ノ郭は草茫々である。また腰曲輪群の中にはコンクリートの護岸があり、腰曲輪も改変を受けているらしい。山林の中に城道らしい山道が南麓から残っていて、往時の大手道であるらしい。以上が現在の遺構の状況であるが、1950年代後半の航空写真を見ると、二ノ郭は現在残るよりも北に大きく広がっており、主郭とは横矢掛りの屈曲を伴う切岸で区画されていたらしい。また主郭の北西端には物見台のような突出部があり、西側には延々と腰曲輪が築かれていた様である。築城時期が明確な、戦国末期の貴重な城であったが、高度成長期の開発で失ったものは大きい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.470361/138.442283/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


天正壬午の乱 増補改訂版

天正壬午の乱 増補改訂版

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/07/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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河村下野守屋敷(山梨県南アルプス市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN3387.JPG←北側の土塁跡と水路
 河村下野守道雅は、落合村の地頭で、武田氏の家臣であった。1582年に武田勝頼が天目山で自刃した時、道雅は勝頼に従って殉死したと言う。道雅の妻は、亡き夫の菩提を弔うために館跡に常泉寺を建立したと伝えられる。

 河村下野守屋敷は、前述の通り常泉寺の境内となっている。しかし常泉寺のお堂はなくなっており、実質的に廃寺になっている様である。境内北西に墓地だけ残っているが、この墓地はL字型の土塁の上に立っている。土塁の北側から、道路を挟んで東には水路があり、堀跡だったと考えられる。この近傍には、跡部大炊助勝資屋敷、武藤三河守屋敷もあり、武田氏の家臣が集住していたようである。何か理由があるのであろうか。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.584743/138.464491/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武田氏滅亡 (角川選書)

武田氏滅亡 (角川選書)

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2017/02/24
  • メディア: 単行本


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武藤三河守屋敷(山梨県南アルプス市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN3370.JPG←屋敷付近の阿弥陀寺
 武藤三河守は、武田氏の家臣で親類衆であった。戦国時代に上野城主大井信達の子三郎左衛門尉信堯(武田信玄の生母大井夫人の実弟、即ち信玄の叔父)が、絶えていた武藤家の名跡を許されたことに始まるとされる。信堯は優れた歌人としても知られたが、1550年の砥石崩れ(武田勢が村上義清の支城であった信濃砥石城を攻撃して大敗した戦い)の際に討死した。その後、信堯の子竹千代丸が跡を継いだらしいが、夭折したため、武藤家の名跡は真田幸隆の3男昌幸が入嗣して継ぎ、武藤喜兵衛尉を称した。しかし1575年の長篠合戦で、真田氏の長男信綱、次男昌輝が討死したため、昌幸は真田家に戻って跡を継いだ。昌幸は智謀の将で、後年、上田城で徳川の大軍を二度にわたって破ったことは広く知られている通りである。昌幸の後に武藤家を継いだのが武藤三河守で、武田氏の奉行を勤めたと言う。

 武藤三河守屋敷は、阿弥陀寺付近にあったと考えられている。阿弥陀寺は、武藤三河守が甲斐源氏加賀美遠光の崇敬した阿弥陀堂を整備したものと言われ、武藤氏の菩提寺であった。武藤家に入った若き日の昌幸も、この地に居住していた可能性は高いとされる。現在は宅地化で遺構は残っていないが、武藤家の所縁を伝える解説板が立っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.583731/138.465157/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


真田昌幸 (人物叢書 新装版)

真田昌幸 (人物叢書 新装版)

  • 作者: 柴辻 俊六
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 1996/07/01
  • メディア: 単行本


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跡部大炊助勝資屋敷(山梨県南アルプス市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN3365.JPG←一段高くなっている墓地
 跡部大炊助勝資は、武田信玄・勝頼の2代に渡って主君の間近に仕えた活躍した側近であった。1465年に武田信昌に滅ぼされた守護代跡部景家の後裔、またはその一族の末裔である。勝資は、武田家家臣団の中で最も多くの朱印状を奉じ、外交・内政ありとあらゆる分野に関わった官僚だったが、『甲陽軍鑑』では勝頼側近の長坂釣閑斎光堅と共に武田家没落の原因となった奸臣として評されている。1582年の武田氏滅亡の際に勝頼に従って討死したとされる。

 跡部大炊助勝資は、現在の南アルプス市大師周辺を拠点としており、『甲斐国志』によれば跡部大炊介の屋敷跡に了泉寺が建立されたと言い、現在の了泉寺が跡部大炊助勝資の屋敷跡と伝えられている。寺の周囲は宅地・畑であり、明確な遺構は残っていないが、境内西側の墓地が一段高くなっており、土塁跡だった可能性がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.588094/138.467710/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武田勝頼:日本にかくれなき弓取 (ミネルヴァ日本評伝選)

武田勝頼:日本にかくれなき弓取 (ミネルヴァ日本評伝選)

  • 作者: 笹本正治
  • 出版社/メーカー: ミネルヴァ書房
  • 発売日: 2011/02/10
  • メディア: 単行本


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源義清館(山梨県昭和町) [古城めぐり(山梨)]

DSCN3331.JPG←神社前の水堀
 源義清館は、甲斐源氏の祖刑部三郎源義清の居館と伝えられている。義清は、八幡太郎源義家の弟新羅三郎義光の3男で、常陸那珂郡武田郷の支配を任されて居館を築き、武田冠者を称した。1130年に嫡男清光の「濫行」の罪を以って朝廷に告発され、義清・清光父子は甲斐国に配流となった。市川三郷町の平塩岡にも義清館の伝承地があるが、最初に土着したのが平塩岡で、晩年にこの地に移って没したと考えられている。義清の没後、館内に社殿を造営して義清大明神と称したと伝えられ、それが現在の義清神社である。

 源義清館は、前述の通り義清神社の境内となっている。境内南辺には館の堀跡と思われる水堀があり、また境内に残る土盛りは館の土塁の痕跡とされる。神社の北西100mの所には、義清の墳墓とされる義清塚もある。この墳墓は、栃木県佐野市にある藤原秀郷の墳墓と同じ形態で、平安時代の地方豪族の墳墓の様式であったのだろうか。いすれにしても館跡ともども、甲斐源氏草創の歴史を伝える貴重な遺構である。
義清塚→DSCN3355.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.634985/138.546052/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲斐源氏一族 (シリーズ・中世関東武士の研究32)

甲斐源氏一族 (シリーズ・中世関東武士の研究32)

  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2021/10/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
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小瀬氏屋敷(山梨県甲府市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN3327.JPG←北側の堀跡の様な水路
 小瀬氏屋敷は、武田安芸守信満の子小瀬宮内大輔信堅の屋敷である。古くは石和五郎信光の館、小笠原長清の別荘であったとも言われ、信満の子右馬助信長、その弟宮内大輔信堅の屋敷となったと言う。長清の時代には、承久の乱の首謀者の一人、源有雅を鎌倉幕府より預かって関東へ護送の途中、この地で処刑して葬ったとされ、付近には有雅の幽閉の地と有雅の墓が残っている。小瀬氏は名跡が絶えていたのを、信堅が再興したと伝えられる。

 小瀬氏屋敷は、小瀬町公民館付近にあったらしい。現在は市街化が進み、屋敷地中央を水路が斜めに貫通して破壊されているが、宅地の北と東に堀跡らしい水路が流れている。ただこの水路は、昭和20年代前半の航空写真では確認できないので、堀跡ではないかもしれない。後究を待ちたい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.626614/138.581500/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1




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落合氏屋敷(山梨県甲府市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN3055.JPG←北辺に残る土塁
 落合氏屋敷は、浪人屋敷とも呼ばれ、土豪の屋敷である。しかしここの落合氏については詳細が不明で、いつどのような経緯でこの地に来住したのかはよくわかっていない。浪人屋敷と呼ばれていることから、1582年の武田氏滅亡以後に土着して、武田浪人としての身分を確保したものと推測されている。

 落合氏屋敷は、濁川東岸の平地にあり、現在も落合家の宅地となっている。一辺60m程の方形居館で、北辺と西辺に土塁が残り、堀が北側を除いて囲んでいる。但し、周囲は他の民家や畑なので、遺構が確認できるのは車道沿いの北辺部と、東側の門の周囲だけである。比較的往時の形態を留めており、貴重である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.649354/138.596048/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世武士団 (講談社学術文庫)

中世武士団 (講談社学術文庫)

  • 作者: 石井 進
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2011/09/15
  • メディア: 文庫


タグ:居館
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川田館(山梨県甲府市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN3034.JPG←北辺の土塁跡に築かれた石垣
 川田館は、武田信虎(信玄の父)が1519年に躑躅ヶ崎館を築いて本拠を移す以前の守護館である。甲斐武田氏は、名族とは言うものの庶家・一族の力が強く、守護館を転々と移したが、川田館は戦国武田氏3代(信虎・信玄・勝頼)の本拠となった躑躅ヶ崎館以前の最後の守護館である。創築には2説あり、15世紀後半に信虎の祖父信昌が守護代跡部上野介景家を小田野城に滅ぼした後この館を築いたとも、或いは信虎が築いたとも言われる。御所曲輪・御厩屋敷などの地名が残っていると言う。

 川田館は、南北110m・東西220mの規模であったと推測されている。現在は宅地・果樹園・神社境内などに変貌しているが、御所曲輪と呼ばれる民家敷地の東側には、堀跡らしき水路が流れ、北辺には石垣が見られる。但し石垣は、新しいもので遺構ではないが、土塁跡を改修したものと推測されている。躑躅ヶ崎館と比べると規模は小さく、躑躅ヶ崎館を築いたことが戦国武田氏の飛躍に繋がったことが伺われる。最近では信虎が再評価されているが、信玄時代の飛躍の基礎を築いたのは、正に父の信虎だったのであろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.654742/138.628170/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武田三代 信虎・信玄・勝頼の史実に迫る (PHP新書)

武田三代 信虎・信玄・勝頼の史実に迫る (PHP新書)

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2021/09/15
  • メディア: Kindle版


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石和陣屋(山梨県笛吹市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN3020.JPG←小学校正門前の石碑と解説板
 石和陣屋は、幕府領の代官所として造営された陣屋である。徳川綱重が甲府城主となった時、笛吹川以東に残された幕府領を統括するために、1661年に平岡勘三郎良辰によって開設された。1704年に柳沢吉保が甲斐国主となると陣屋は一時閉鎖となったが、1724年に柳沢吉里が大和郡山へ移封となると、再び石和代官所として甲斐国内の幕府領の内、およそ1/3を支配し、幕末まで存続した。

 石和陣屋は、現在は石和南小学校に変貌している。遺構はなく、学校正門前に陣屋跡の石碑と解説板が立っているだけである。尚、八田家御朱印屋敷に陣屋表門が移築されて現存している。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.648169/138.637612/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


江戸300藩 県別うんちく話 (講談社+α文庫)

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  • 作者: 八幡和郎
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2013/08/16
  • メディア: Kindle版


タグ:陣屋
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八田家御朱印屋敷(山梨県笛吹市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN3004.JPG←北辺の土塁
 八田家御朱印屋敷は、戦国時代に武田信玄に蔵前奉行として仕えた、八田(末木)家重の屋敷である。八田家は、下野の名族宇都宮氏2代、八田(宇都宮)権頭宗綱の後裔とされるが詳細は不明。家重は、一宮町末木を武田氏から拝領して姓を末木に改めた。1582年3月の武田家滅亡に当たり、織田軍の兵火に罹って屋敷の建物は悉く焼失した。織田信長が本能寺の変で滅亡した後は徳川家康に仕え、末木政清は八田に復姓した。1583年4月に政清は棟別の免許を受け、同年9月にはその弟新左衛門尉が同じく棟別の免許を受けた。新左衛門尉には男子がなかったため、政清の2男政俊が両家を相続し、苗字帯刀を許されると共に、3400坪の屋敷地が御朱印地として安堵された。

 八田家御朱印屋敷は、現在は公園として整備され、桃山時代末期の武家書院様式の書院を拝観することができる。また屋敷の表門には、石和陣屋の表門が移築されて現存している。屋敷は複郭であったらしく、主郭は北東に偏し、主郭の北以外の三面には水堀が廻らされている。屋敷地北辺には、水防堤を兼ねた土塁が残っている。書院・陣屋移築門などと合わせ、貴重な遺構である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.654149/138.641109/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 甲斐の山城と館

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  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/03/24
  • メディア: 単行本


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信虎誕生屋敷(山梨県笛吹市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN2989.JPG←西側の水路と段差
 信虎誕生屋敷は、岩下越前守館とも言い、その名の通り武田信玄の父、信虎が生まれたとされる屋敷である。岩下越前守の妹が信虎の母で、1494年1月6日に母の実家である岩下氏の館で生まれたとの説がある。また『甲斐国志』によれば、この館は1465年に武田信昌と戦って敗死した守護代跡部上野介父子の館であった可能性があると言う。

 信虎誕生屋敷は、寿命院の南西に位置している。夕狩沢古戦場南東の裾野の平地で、水路で囲まれた方形区画が屋敷跡とされている。屋敷地内は現在果樹園となっているので内部の探索はできないが、西側の車道に面して堀跡と思われる水路があり、屋敷地側は車道より1m程高くなっており、切岸跡と思われる。明確な遺構はないが、西側の車道と水路は緩やかにカーブしており、堀跡らしい雰囲気は感じられる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.677875/138.656108/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武田三代の城

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  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2020/06/15
  • メディア: 単行本


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大野砦(山梨県山梨市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN2983.JPG←石塁上の稲荷社と水路
 大野砦は、1582年に北条・徳川両氏が武田遺領をめぐって争った天正壬午の乱の際、北条・徳川両軍の争奪が行われた城砦である。元々は、大野太郎の居城であったとされる。1582年6月、本能寺の変が起きると、神流川の戦いで織田氏の部将滝川一益を破った北条氏直は、上州から佐久へ侵攻し、川中島での上杉勢との対峙を経て、甲斐・信濃の徳川勢を撃破するため大門峠から諏訪に入り、南下して8月6日に甲斐の若神子城に本陣を置いた。一方、徳川家康は同月10日、新府城に本陣を進めて北条の大軍と対峙した。こうした動きの一方で、両者とも甲斐・信濃の国人衆を味方につけるための工作を進めた。甲斐では、匿っていた武田遺臣を重用して調略を進めた徳川方が有利であったが、一部の国人衆は北条方に付くものもあった。雁坂口の守備を担っていた大村党もその一つで、雁坂口から北条勢を引き入れようと画策し、浄居寺城主大村三右衛門尉忠堯・その子伊賀守忠友が大野砦に立て籠もった。これに危機感を抱いた徳川方は、穴山衆の穂坂常陸介・有泉大学らに命じてこれを急襲させた。大村党は大敗して滅亡し、大野砦は徳川方の支配下に入った。その後、松平清宗・内藤信成、甲斐衆の三枝虎吉・御手洗直重らが大野砦を守ったが、8月9日、笹子峠を押さえていた北条軍別働隊は風魔孫右衛門率いる200人余に大野砦への夜襲を掛けさせた。不意を衝かれた徳川方は見張り番の将兵30人余が討死したが、北条勢を撃退し、風魔一族の三澤勘四郎ら23人を討ち取ったと言う。

 大野砦は、笛吹川と重川に挟まれた平地に築かれている。土豪屋敷を利用して急造した砦であったと考えられているが、現在は住宅地となっていて明確な遺構は残っていない。東南隅の稲荷社が、石塁の上に残っており、その東側には堀跡の可能性がある水路がある。天正壬午の乱に現れる城砦の一つであるが、解説板も何もなく、残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.670763/138.676043/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


天正壬午の乱 増補改訂版

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  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/07/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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