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岡豊城(高知県南国市) [古城めぐり(高知)]

DSC01979.JPG←北麓の二重堀切
 岡豊城は、国分川北岸の標高97.5mの丘陵上に築かれた平山城である。戦国末期に四国全土をほぼ制圧した土佐の戦国大名長宗我部氏の歴代の居城として知られている。長宗我部氏は元々渡来系の豪族秦氏の出自とされ、平安時代末期から鎌倉時代初期に掛けての時期に、秦能俊が土佐宗我部郷に入部したのに始まると言われている。室町時代に入ると、土佐守護細川氏や応仁の乱を逃れて下向した土佐国司一条氏の権威を背景に長宗我部氏は勢力を伸ばしたが、1507年、管領細川政元の暗殺によって細川諸家の内紛が起こると、本山梅慶を中心とした土佐群雄によって反長宗我部連合が結成され、岡豊城の長曽我部兼序を攻めて自刃に追い込み、岡豊城も落城した。しかしこの時、幼い嫡子国親は一条房家を頼って落ち延び、後に一条氏の支援によって長宗我部氏を再興した。再興後、長宗我部国親は勢力を盛り返し、親の仇敵であった各地の豪族を攻め、1547年に山田城主山田元義を滅ぼし、1560年には朝倉城主本山茂辰と直接対決した。その最中に国親は病没し、嫡子元親が国を継いだ。元親は引き続いて土佐群雄を制圧し、1574に中村城主一条兼定を滅ぼして土佐一国を平定した。更にその強勢を以って阿波・伊予・讃岐に軍を進め、織田信長と衝突寸前に至ったが、本能寺の変で信長が横死すると、勝瑞城主十河存保を敗走させ、1585年春、伊予湯築城主河野通直を降して四国全土を制圧した。同年夏、豊臣秀吉が四国征伐を開始すると、元親は秀吉に降伏して土佐一国を安堵された。元親は1588年に大高坂城(後の高知城)を新たに築いて移ったが、治水に難があったため、1591年に浦戸城を築いて居城とし、岡豊城は廃城となった。

 岡豊城は、全体が公園化されていて城域の北東隅には県立歴史民俗資料館が建てられるなど、多少の改変を受けているが、全体に遺構はよく残っていて、各所の解説板も丁寧で見やすい。本丸(現地では「詰」と呼ぶ)を中心にして、周囲を二ノ段・三ノ段・四ノ段と呼ばれる曲輪で囲み、防御性と居住性を両立している。各曲輪には土塁や石垣が築かれ、一部には横堀も設けられて更に防御を厳重なものにしている。堀切は比較的少ないが、詰と二ノ段との間のものが、最も規模が大きいようである。そのほかでは、山麓北隅に二重堀切が残っている。この城で特徴的なのは北側斜面を主体にいくつも掘られた竪堀群である。しかし埋もれているせいか規模は小さく、それほど圧倒されるようなものではない。また北斜面には低い石垣が散在するが、これは全て往時のものだろうか?その他では本城から離れた西には伝厩跡曲輪という出城があり、本城とは堀切で区画されている。この出城も多くの竪堀で防御されているが、やはりかなり埋もれてしまっている。

 以上が岡豊城の概要で、厳重に固めたれた虎口など出色の遺構もあるにはあるが、公園化で改変されているせいか、四国全土を制圧した戦国大名の居城としては、あまりパッとしない印象が残った。
詰~二ノ段間の堀切→DSC02079.JPG
DSC02026.JPG←土塁・石垣で固められた虎口

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/33.594961/133.622493/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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高知城(高知県高知市) [古城めぐり(高知)]

DSC01774.JPG←堀切に掛けられた詰門
 高知城は、現存12天守の一つで、土佐藩山内家の歴代の居城である。元は大高坂城と言い、南北朝時代には大高坂松王丸がここに砦を築いて、南朝方として戦ったと伝えられている。戦国末期の1588年、岡豊城に本拠を置いた土佐の戦国大名長曽我部元親は、新たにこの地に築城を開始して居城を移したが、城下が低湿地の為水害に悩まされて、3年程で浦戸城を築いて移った。1600年、関ヶ原合戦の戦功により土佐を与えられて入部した山内一豊は、浦戸城が南に偏し、土地が狭く城下町の建設に適さない為、徳川家康の許可を得て新たに大高坂城の故地に築城を開始した。城の名を高知城と改め、以後、土佐藩の居城として幕末まで存続した。尚、1727年に火災の為、山上の建造物は悉く焼失し、1753年迄掛けて元の姿に再建された。

 高知城は、西国の有力な外様大名の居城らしく、大きな規模を持った平山城である。追手の枡形や櫓門を始め、本丸の詰門・本丸御殿・天守・黒鉄門など、遺構は全体によく残っている。特に本丸の全ての建築物が残る唯一の城で、本丸御殿は規模こそ小さいものの現存例の稀有な貴重なものである。比較的狭い本丸を持った平山城の御殿とは、本来この程度のものだったのだろう。面白いのは、天守に窓からの視界(射線)をふさぐ屋根が見える部分があり、設計に無理があるようだ。太平の世になってからの改変によるものであろう。

 また詰門は、一見それとは分かりにくいが、よく見ると本丸と二ノ丸を分断する堀切上に掛けられた渡り廊下であることがわかる。おそらく築城当時は、現状見られる2階建ての建築物ではなく、彦根城などに見られる様なただの木橋だったのではないだろうか?頑丈な建物にしてしまっては、堀切による敵兵の遮断効果が用を成さなくなるからである。近世の平山城で、これ程本丸~二ノ丸間の分断を明確に意識した縄張りは、そう多くないと思う。一豊入部当時の不穏な土佐情勢を反映したものであろうか。

 本丸・二ノ丸・三ノ丸は言うに及ばず、それ以外の曲輪も全周を見事な反りを持った高石垣で防御しており、御台所屋敷跡には古風な野面積みの石垣も残っていて情緒を感じさせる。また雨の多い高知城は、石垣に雨樋がうまく造られており、三ノ丸ではその構造を解説している。また三ノ丸には、発掘された長曽我部時代の石垣も展示されている。なかなか見所の多い名城である。
天守から見た三ノ丸→DSC01832.JPG
DSC01923.JPG←台所屋敷跡の野面積み石垣

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/33.560779/133.531212/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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