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小鳥崎館(岩手県北上市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN7890.JPG←外周の大きな空堀
 小鳥崎館は、天正年間(1573~92年)の『和賀御分限録』によれば、飛勢城主和賀氏の重臣都鳥(とどり)平馬玄蕃の居館であったと伝えられる。

 小鳥崎館は、北上川西岸の比高20m程の丘陵の北東端に築かれている。登城路がわからなかったので、私は西の墓地から薮を突っ切って訪城したが、南にある弁財天社から散策路があったことがわかったので(解説板もある)、この後に訪城する方は弁財天社を目指せばよい。尚、この弁財天社は小鳥崎館の氏神であったとされ、また古くは安倍貞任の弟黒沢尻五郎正任(黒澤尻柵城主)の子がこの地に住んで氏神として祀ったのが始まりと伝えられる。館は、空堀で区画された東西2郭から構成されている。2つの曲輪の南・西の外周は幅10m、深さ6m程の大空堀で囲繞されている。また西の空堀だけ、更に西側に空堀が穿たれ、二重堀となっている。東西2郭の内、東の方がやや高いのでこれが主郭であろう。主郭の西辺には空堀に沿って土塁が築かれている。主郭の北・東には腰曲輪が巡らされ、南空堀の東端は切通しの登城路となって東麓の民家裏に繋がっている。この他、東西2郭を分断する中央の空堀は、箱堀となっており、途中に横矢掛りの屈曲がある。また主郭北の腰曲輪と連絡しており、城内通路を兼ねていたことがわかる。見事な空堀がよく残る館跡である。
屈曲する中央の空堀→DSCN7947.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.301204/141.146851/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/10/25
  • メディア: 単行本


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上館(岩手県奥州市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN7846.JPG←主郭南西部の塁線と空堀
 上館は、歴史不詳の城館である。中世には無名の在地領主が居住していたと推測されている。

 上館は、胆沢城の北方、胆沢川に臨む段丘北辺部に築かれている。奥州市埋蔵文化財調査センターのHPの解説では、4つの曲輪で構成されているとされるが、現在明確なのは3つの曲輪だけである。いずれもリンゴ園となっているので、許可なく立ち入ることはできない。幸い私は作業中だった老夫婦から立入りの許可を頂いて、遺構を探索できた。ここでは確認できた3つの曲輪を主郭・北郭・西郭と呼称する。それぞれ空堀で区画されており、特に主郭西側と南側には幅広の空堀がよく残っている。主郭は四角形の曲輪で、その北に横長三角形の北郭、西に三角形の西郭がある。北郭の東側の空堀は、主郭北東で主郭周囲の空堀から分岐しており、Y字型になっている。主郭と北郭との間の空堀は、東半分はよく残っているが、西半分は半ば埋められてしまっている。それでも北西の崖付近では堀地形が明瞭である。またここには主郭西側の空堀も落ちてきている。遺構としては以上で、技巧性はないが、中世城館の雰囲気はよく感じられる。
北郭東側の空堀→DSCN7859.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.186057/141.132324/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


蝦夷と城柵の時代 (東北の古代史)

蝦夷と城柵の時代 (東北の古代史)

  • 作者: 熊谷 公男
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/11/27
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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五葉館(岩手県金ケ崎町) [古城めぐり(岩手)]

DSCN7819.JPG←西郭西側の屈曲している空堀
 五葉館は、歴史不詳の城館である。発掘調査の結果では五葉館は15世紀中頃から17世紀初頭の館跡と推測されている。尚、戦国時代に胆沢郡を治めた葛西氏の重臣柏山氏の居城大林城が南西2kmの位置にあり、柏山氏と何らかの関連がある可能性もあるだろう。

 五葉館は、黒沢川北岸の段丘崖に沿って築かれている。東西に3郭が空堀を挟んで並んでおり、現地解説板(崖下の黒沢川せせらぎ公園にある)の縄張図では西郭・中郭・東郭としている。西郭が主郭であったと考えられ、西は横矢掛りのクランクを持った空堀が穿たれ、東側は一直線の空堀で中郭との間を区画されている。中郭と東郭の間の空堀は、せせらぎ公園駐車場への入口道路に変貌しているが、改変があるものの往時の雰囲気は感じられる。いずれの曲輪も北辺にあったと思われる空堀は湮滅している。また東郭の東方には、L字型の堀状地形があり、2本の竪堀状の溝が堀側面に落ちている。これも遺構なのかは判然としないが、ちょっと不思議な謎の構造となっている。五葉館は、曲輪間を区画する空堀はよく残っているが、郭内は田畑に変貌しており、北側・東側の城域も判然とせず、少々残念である。
西郭・中郭間の空堀→DSCN7811.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.185608/141.099966/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

  • 作者: 松岡 進
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/02/27
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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三居寺館(岩手県金ケ崎町) [古城めぐり(岩手)]

DSCN7692.JPG←西館南の二重堀
 三居寺館は、歴史不詳の城館である。黒沢川南岸の比高20m程の段丘北面に築かれている。南の車道から途中の畑まで小道があるが、その先は明確な道がないので、山林を突っ切って段丘北辺部を目指して歩くしかない。『岩手県中世城館跡分布調査報告書』では「西郭と東郭からなる」と書かれていて、この表現だと東西に2郭が並んでいる様に解されるが、実際には間が110m程離れた完全に独立した2城から成る。ここでは西館・東館と呼ぶことにする。

西館の南東角部→DSCN7702.JPG
 西館は、段丘の北西角に位置し、南は二重堀、東は一重の空堀で区画された東西に長い曲輪で、単郭である。空堀はそれほど大きなものではなく、南の二重堀の西端近くに土橋が架かっている。南と比べると東の切岸の方が高低差が大きい。空堀と主郭以外に明確な遺構はない。

DSCN7724.JPG←東館の主郭南の空堀
 東館は、段丘の北東角に位置し、長方形のやや小ぶりな主郭の西と南に空堀を穿っている。空堀・切岸の規模は西館より大きく、主郭の空堀沿いには低土塁が築かれている。主郭の東の斜面には背後を土塁で囲んだ二ノ郭がある。二ノ郭背後の土塁は、主郭南東角から南東に向かって伸びており、土塁の裏には空堀も穿たれている。二ノ郭は、土塁の北東に広がる斜面に、曲輪群を段状に築いている。これは丸子楯の三ノ郭と類似した構造である。この曲輪群内部の北寄りには竪堀が降っている。
東館の主郭東の切岸→DSCN7764.JPG
DSCN7750.JPG←東館二ノ郭背後の土塁

 以上が三居寺館の遺構で、東館は西館の前衛として守りを固める砦、西館は背後に構えられた本城、という位置付けであったように想像される。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:【西館】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/39.187138/141.056814/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【東館】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/39.187138/141.058896/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


パーツから考える戦国期城郭論

パーツから考える戦国期城郭論

  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2021/02/26
  • メディア: Kindle版


タグ:中世崖端城
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新井田楯(岩手県金ケ崎町) [古城めぐり(岩手)]

DSCN7669.JPG←二重堀切の内堀
 新井田楯(新井田館)は、歴史不詳の城である。城内に坂上田村麻呂が討伐した8人の蝦夷を祀った八荒神神社があることから、地元では八荒神と呼ばれていたと言う。

 新井田楯は、西根段丘が東に突き出た、比高20m程の突端に築かれている。南麓の地区センター脇から神社参道が伸びており、それを登れば城域に至る。東西2郭から成るとされるが、西郭はほとんど自然地形で遺構が明瞭ではない。東郭が主郭に当たり、南北に帯曲輪が築かれ、西の台地基部に二重堀切が穿たれている。主郭南の帯曲輪は2段あり、上段には前述の通り八荒神神社が建っている。また二重堀切の内堀は、この帯曲輪に繋がっており、城内通路を兼ねていたことがわかる。主郭東側は車道が南北に貫通し、段丘が削られているので、もっと遺構があったかもしれない。いずれにしても、小規模な城砦である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.191562/141.051493/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


蝦夷と東北戦争 (戦争の日本史)

蝦夷と東北戦争 (戦争の日本史)

  • 作者: 鈴木 拓也
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2008/12/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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道所森楯(岩手県金ケ崎町) [古城めぐり(岩手)]

DSCN7617.JPG←本丸西の横堀
 道所森楯(道所森館)は、寛文年間(1661~73年)に仙台伊達藩が、盛岡南部藩の動きに備えるために築城に着手した城と言われている。藩祖伊達政宗の10子、一関藩主伊達兵部宗勝をこの地に移封する計画であったが、宗勝は伊達騒動と言われるお家騒動の中心人物となり、審問に敗れたためその子と共に流罪となり、築造は中止されたと言う。

 道所森楯は、標高116.8m、比高20m程の独立丘陵に築かれている。明確な登道はないようなので、解説板のある北東麓から、薮をかき分けて適当に斜面を直登した。中心にほぼ方形の本丸を置き、周囲に腰曲輪・空堀をを築いただけの、比較的簡素な構造となっている。もちろん築城途中で放棄された城なので、今残る姿が完成形ではないのだろうが、独立小丘という地勢上の制約や幕府の監視の手前、それほど複雑かつ大規模な構造にはできなかったと推測される。本丸は南に傾斜した曲輪で、内部は3段程の平場に分かれている。本丸外周の腰曲輪は、北側は幅広で外周に土塁が築かれている。北東には搦手虎口と思われるL字型の堀状通路があり、側方に土塁が突出している。東・南の腰曲輪には幅広の土塁が築かれ、本丸切岸との間に堀状通路が設けられている。南に大手虎口が築かれ、大手道と大手防衛の曲輪が構築されている。また本丸の西側は薬研堀の横堀が穿たれ、外周に土塁が築かれている。以上が道所森楯の遺構で、慶長の築城ラッシュから既に約半世紀が経ち、築城技術が衰退した平和な時代の城郭遺構である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.231613/141.073916/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


オールカラー徹底図解 日本の城

オールカラー徹底図解 日本の城

  • 作者: 香川元太郎
  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2021/09/28
  • メディア: 単行本


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七折楯(岩手県北上市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN7502.JPG←西側の空堀・土塁
 七折楯(七折館)は、1600年の岩崎一揆の際、岩崎城攻撃のために出陣した南部利直の本陣である。1600年9月、関ヶ原合戦に連動して、領土拡大を目論む伊達政宗に扇動された和賀氏旧臣達は、最後の当主和賀義忠の弟忠親を擁して岩崎城に立て籠もって南部氏に対して挙兵した(岩崎一揆)。和賀勢は、南部氏の拠点花巻城まで攻め込んだが攻略できず、返って南部勢の反撃を受けて撤退し、岩崎城に籠城した。10月、三戸で軍備を揃えた南部利直は、岩崎城攻撃のために岩崎城西方の兵庫楯に陣を敷き、更に七折楯の普請を命じた。冬が到来したため、そのまま戦いは中断され、翌年3月、春の到来とともに南部利直は再び出陣し、七折楯に本陣を構えて攻撃を開始した。翌4月に岩崎城を攻略して一揆を鎮圧した。

 七折楯は、岩崎城から約900m南西にある、夏油川西方の台地先端部に築かれている。台地上には耕作放棄地があり、そこまで通じる小道があるので、それを登っていけば城に至る。台地の北東端部に、西と南をL字型の空堀・土塁で区画した主郭がある。空堀・土塁はいずれも大した規模ではなく、それほど強く防御性を意識して築いている感じではない。主郭の南西には虎口が築かれ、土橋が架かっている。主郭の東斜面には帯曲輪が1段築かれている。西や南に広がる周囲の平場にも、所々段差があり、耕地化によるものの可能性もあるが、遺構である可能性もあるだろう。また城のある台地の南は、細長くなってくびれているが、ここには竪堀と溝状の堀が見られ、外郭があったと考えられる。南部氏当主の本陣であるので、当然南部氏の大部隊が周囲に駐屯していたはずで、かなり広い範囲が城域になっていた可能性がある。
主郭の土橋→DSCN7474.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.275446/141.038275/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


戦国大名南部氏の一族・城館 (戎光祥中世織豊期論叢3)

戦国大名南部氏の一族・城館 (戎光祥中世織豊期論叢3)

  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2021/03/18
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岩崎城(岩手県北上市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN7245.JPG←横矢が掛かる本丸西の空堀
 岩崎城は、飛勢城主和賀氏の重要な支城で、和賀氏の家臣岩崎氏の居城である。既に南北朝期初頭には城の存在が知られている。1334年、岩崎大炊一道が津軽地方の鎮圧に煤孫和賀氏と共に参陣している。またこの地は鬼柳氏と煤孫氏との領界に近かったため、1341年には「岩崎楯」において鬼柳氏と煤孫氏との間で合戦があり、鬼柳清義が討死した。その後、時代は下って1531年、和賀氏と秋田仙北郡小田嶋党との合戦では、岩崎氏も郡境に出陣している。この間、代々岩崎氏の居城であったと推測されている。1590年、豊臣秀吉の奥州仕置きにより、小田原に参陣しなかった和賀氏は改易された。間もなく和賀・稗貫一揆が勃発して抵抗したが、翌年秀吉の派遣した再仕置軍に鎮圧され、和賀氏は没落して南部領に編入された。1592年には秀吉の城郭破却令に従い、南部信直は岩崎城を破却した。1600年、関ヶ原合戦に連動して、領土拡大を目論む伊達政宗に扇動された和賀氏旧臣達は、最後の当主和賀義忠の弟忠親を擁して岩崎城に立て籠もって南部氏に対して挙兵した(岩崎一揆)。この一揆の発頭人の一人が、元岩崎城主岩崎弥右衛門義彦であった。和賀勢は、南部氏の拠点花巻城まで攻め込んだが攻略できず、返って南部勢の反撃を受けて撤退し、岩崎城に籠城した。翌年3月、南部利直は岩崎城周辺の七折楯に本陣を構えて攻撃を開始し、4月に攻略して一揆を鎮圧した。その後、南部氏は伊達氏との国境警備の為に家臣の野田氏らを置いて城を修築した。1602年に柏山伊勢守明助を入城させて藩境の警衛に当たらせた。しかし後に柏山氏が無嗣断絶となると、廃城となったらしい。

 岩崎城は、夏油川北岸の比高20~30m程の舌状台地に築かれている。この台地は、北側も和賀川の氾濫原に臨む急崖となっている。台地上の城内は、大きく3つの曲輪に分かれ、真ん中の曲輪が本丸、西の曲輪が三ノ丸、東の曲輪が「無名の曲輪」(ここでは笹曲輪と呼称する)が配置され、それぞれ空堀で分断されている。三ノ丸は広大な平場で空き地と林になっており、西側に土塁が築かれ、西辺やや南寄りに大型の内枡形虎口、南西隅には物見台が築かれている。三ノ丸の西側は車道などで改変されているが、わずかに空堀の一部が残っている。本丸は公園に変貌している。以前は天守閣風の公民館が建っていたらしいが、現在は取り壊されて跡形もない。本丸も西から北辺にかけて土塁が残っている。本丸にも枡形虎口があり、その土塁の一部が残っている。この枡形土塁の南に、土塁によって閉鎖空間となった三角形の平場があるが、これは夏油川によって南の断崖が削られたものと考えられ、往時はもっと南に平場があったのだろう。本丸西の空堀は、南側で横矢掛かりの屈曲があり、北側は北東に向かってカーブして搦手門に至っている。本丸北西下方には土塁で囲まれた2段の腰曲輪があり、この空堀に対する防衛陣地となっている。空堀の三ノ丸側にも腰曲輪があり、本丸側の腰曲輪とで空堀を両側から挟んで堀底道を防衛している。いずれの腰曲輪にも虎口があり、堀底道から曲輪内に進入できるようになっている。本丸の北側にも土塁囲みの腰曲輪が築かれ、白鳥神社が鎮座している。この腰曲輪は本丸~笹曲輪間の堀切に繋がっている他、北腰曲輪から土塁道から腰曲輪を経由して竪堀状城道で笹曲輪に通じている。笹曲輪は西に一段低い小郭があり、前述の城道はこの小郭に通じており、虎口郭として機能していたのだろう。本丸~笹曲輪間の堀切は大きく、台地上を隔絶している。笹曲輪は未整備であるが、土塁が築かれ、先端に虎口と小堀切が構築されている。主城部がある台地の北の平地は「城内」と呼ばれる地区で、二ノ丸とされる。中世城郭で言う根古屋で、二ノ丸東西を区画し防衛する土塁・空堀が一部残存している。おそらく木戸口が設置されていたと考えられ、西木戸では三ノ丸切岸付近に竪土塁・竪堀が残っている。以上が岩崎城の構造で、近世まで使われた城であるがその遺構は中世城郭そのものである。枡形虎口は、近世になってから改修されたものであろう。
三ノ丸南西の物見台→DSCN7416.JPG
DSCN7337.JPG←本丸北の土塁囲みの腰曲輪

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.281226/141.045710/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


続・東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

続・東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2021/10/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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岩崎楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN7200.JPG←主郭背後の二重堀切
 岩崎楯(岩崎館)は、猿田彦神社の社殿によれば、平安末期の平治年間(1159~60年)に奥州藤原氏3代秀衡の家臣長崎主殿長徳が岩崎楯主であったと言う。一方、『風土記書上』では楯主は岩崎縫殿と伝えられる。また近藤氏の系図には、葛西氏の旧縁・近藤伊賀守忠清が近江国より下向し、岩崎の近藤氏の祖になったとある。時代の変遷により、楯主も変わったものであろうか。

 岩崎楯は、猿田彦神社背後の丘陵上に築かれている。神社社殿が建つ先端の平場も城域であったと考えられる。神社の平場の後ろに2段の平場があり、奥が主郭である。主郭は広く、南北に腰曲輪が築かれ、南中央部に虎口が築かれている。主郭の後部は高台となっており、背後に土塁が築かれ、更に二重堀切が穿たれて丘陵基部を分断している。この二重堀切は、非常に綺麗で見応えがある。一方、主郭の南西にも堀切が穿たれ、外に物見台が築かれている。どうもこの堀切は木戸口であったらしく、斜面下方に城道が伸びていたらしい。物見台はこの木戸口を防衛する堡塁であったと考えられる。前述の二重堀切の先は地山のままの地形が続くが、北東の窪地に平場があり、その後部にあたる北尾根に堀切があり、その先に舌状曲輪が築かれている。どこまでが城域だったのか判然としない部分もあるが、基本的には二重堀切までが城域で、北の舌状曲輪は出丸だったのだろう。部分的に少々薮が多いが、見応えのある遺構が山林内に眠っている。
南西の堀切と物見台→DSCN7157.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.822499/141.041182/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


パーツから考える戦国期城郭論

パーツから考える戦国期城郭論

  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2021/02/26
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タグ:中世平山城
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豊後楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN7091.JPG←主郭後部の大土塁
 豊後楯(豊後館)は、袋豊後守泰時と言う武士の居城である。現地標柱の解説文によれば、泰時は享禄年間(1528~32年)に玉造郡真山村からこの地に移封され、1561年に没したと言う。泰時についてそれ以外の情報はないが、勢力圏から考えると大崎氏の家臣であったのだろう。

 豊後楯は、二迫川南岸の丘陵の北尾根の崖上に築かれている。ほぼ単郭の城で、長方形の平場の北西部が細長く北に向かって突き出た、L字型をした主郭がある。主郭の後部には幅広の大土塁が築かれ、その背後には堀切が穿たれている。大土塁は、その幅の広さから考えて何らかの建物が建っていた可能性がある。この大土塁から主郭西辺に低土塁が伸びていて、全体としてL字型の土塁を形成している。また主郭内の、大土塁の際には井戸跡らしい大穴が開いている。主郭の北は断崖上の細尾根となっているが、ここに舌状曲輪が築かれ、また東には帯曲輪が1段築かれている。この城の北側は絶壁で、大手道は南から丘陵を越えて通じていたらしく、現在でも丘陵上の鉄塔に至る道が残っている様である。私は南の小道の存在がわからなかったので、北西から急な支尾根を無理やり登攀して訪城したが、今後訪城する方は南から通じる鉄塔保守道を見つけて、それを使った方が良いだろう。この道を辿れば、主郭背後の大堀切に至るはずである。以上が豊後楯の遺構で、小規模な城砦であるが大土塁などしっかりした遺構が残っており、見応えがある。
主郭背後の堀切→DSCN7088.JPG
DSCN7055.JPG←井戸跡らしき大穴

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.799024/140.962057/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書

よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書

  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2020/10/27
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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武鎗城 その2(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN6975.JPG←万日堂跡周囲の腰曲輪
 武鎗城には2018年12月に訪城しているが、この度、地元の郷土史家である三浦様から招待をいただき、一緒に城跡を巡り歩く機会に恵まれた。またその際に、武鑓氏や武鎗城に関する文献のコピーや、三浦さんがまとめられた武鎗村に関する応仁年間(1467~69年)以降の年表など、貴重な資料をいただくことができた。この場を借りて、改めて御礼申し上げます。

 まず武鎗城の歴史についての補足。最後の城主であった武鎗典膳重信は、元々奈良坂郷高森城(奈良坂城)主奈良坂貞信の3男で、初名は奈良坂又三郎といった。1552年に武鑓因幡重利に入嗣して武鎗城に入り、武鎗城主となった。その後の事績は既述の通り。

 次に城跡について。武鎗城主郭の東に丘があり、万日堂跡とされる。現地標柱の解説文によれば、1187年頃に奥州藤原氏3代秀衡の家臣照井太郎高直が、自身が築いた武鎗城の繁栄と領地内の安全を願って建てたものと伝わっているらしい。しかし照井太郎の伝説には虚実が入り交じっており、俄には信じ難い。一方、紫桃正隆著『仙台領内古城・館』では、この丘は武鎗城の「馬場」とされている。現状を見ると頂部の小さな丘の周りに腰曲輪状の平場があり、物見台だったのではないかという三浦さんの推測の方が正しいように思う。この後、主郭や北西の尾根を巡った後、西館に向かった。西館の中心と思われる一番西の峰は、最近薮払いされたとのことで、周囲に腰曲輪がある他、峰の北東に塚のような土壇がある。三浦さんは西館の遺構の一部ではないかと推測していたが、土壇の上に昭和初頭の馬頭観世音の碑があり、どちらかというと近世以降に築かれた信仰に関わる遺構ではないかと感じられた。一方で峰の南斜面には数段の平場があり、そこを登ってくる小道はS字状に曲がっていて、平場の塁線から横矢が掛かるようになっていて、これは城の遺構と推測された。
 尚、城の南にある町家は、往時の城下集落の名残かと思っていたが、三浦さんの話では城下集落はなく、近代に新しくできた町家とのことであった。そうなると武鎗城が恒常的に維持された城だったのか、疑問も生じてくる。この地域は戦国時代には葛西・大崎両勢力の接壌地帯であり、武鎗城をはじめとする城郭群がどのように維持管理されていたのか、いろいろと考えさせられた。

 いずれにしても、季節的に雁やハクチョウの群れが多数見られ、住宅地に近いというのにカモシカが現れたりと、初冬の楽しい城歩きとなった。


政宗伝「千年の夢」-仙台藩祖の心匠(ノーザン・ソウル)-

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  • 作者: 三浦 健
  • 出版社/メーカー: NextPublishing Authors Press
  • 発売日: 2021/03/11
  • メディア: ペーパーバック


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田子屋楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN6888.JPG←主郭切岸と腰曲輪
 田子屋楯(田子屋館)は、現地標柱には田子谷館と表記され、大崎氏の家臣で斐ノ城主菅原太郎明長が1533年に移った城である。しかし明長は16年後の1549年に御田鳥城に再び居城を移した。慶長年間(1596~1615年)には、伊達氏家臣の守屋伊賀守貞成が田子屋楯に居住したと言う。

 田子屋楯は、迫川流域の平地の北に連なる丘陵地の一角、比高30m程の丘陵上に築かれている。大館・小館という2つの曲輪で構成されている。東麓の宅地脇に標柱があり、その先に小道が登っているが、この小道の先は廃屋に至ってしまうので、途中から薮をかき分けて西に進んで訪城した。東西に長い長方形の主郭があり、これが大館である。周囲は切岸に囲まれ、外周に腰曲輪が築かれている。主郭は一部が切り開かれ、北西に3基の祠が祀られている。腰曲輪は竹薮などになっている。主郭の北東下方には、尾根状に繋がった鞍部の曲輪があり、その北に二ノ郭(小館)がある。二ノ郭は全面竹薮となっており、郭内が傾斜していて、北に向かって登り勾配となっている。西と北に土塁が築かれ、その外側下方には西に横堀、北に堀切が穿たれ、これらはL字型に繋がっている。この他、前述の繋ぎの曲輪の南東にも腰曲輪が築かれ、主郭腰曲輪と繋がっている。全体的に薮がひどいが、遺構はよく残っている。
二ノ郭北の堀切→DSCN6939.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.808923/141.108366/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/08/21
  • メディア: 単行本


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高山城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN6457.JPG←三ノ郭群の北の堀切
 高山城は、射水・婦負郡守護代神保氏の重臣寺島牛助(牛之助とも)が築いたと伝えられる。小島城主小島甚助は、牛助の弟である。両人の事績は小島城の項に記載する。

 高山城は、山田川東岸の標高190mの山上に築かれている。史跡指定はないが北西麓から登道が整備され、解説板も設置されている。解説板の奥を台地上に登ると、山麓居館・家臣団屋敷地らしい平場群が展開している。ここは町ヶ平・法華坊・的場などの地名が残っている。平場群は明確だが、大半が耕作放棄地の薮に埋もれている。平場群を通過すると、道は尾根を南東に登っていき、やがて主郭に至る。主郭は南北に長い曲輪で、北東角に櫓台、南端にも大きな土壇があり鐘突堂と呼ばれる。主郭中央部の平場は倉跡とされる。登ってきた道はかつての大手と推測され、主郭の北西に多数の帯曲輪群が築かれて大手筋を固めている。ただこの帯曲輪群は、近世の段々畑だった可能性もある。主郭から北に伸びる細尾根には間隔をあけて3本の堀切が穿たれている。これらの堀切群の北には二ノ郭がある。二ノ郭は、細長く伸びた曲輪で2段に分かれ、南の細長く高台となった平場は物見台であったらしい。ここだけ木が伐採されていて、北西麓への眺望が開けている。下段の平場は細長い菱形状で、南東に土塁が築かれている。二ノ郭の北には細尾根・小郭・細尾根と降っていき、三ノ郭に至る。三ノ郭はくの字型をした広い平場で、周囲に腰曲輪を伴っている。三ノ郭の南西端には土塁を兼ねた小郭が築かれて南限を区画している。三ノ郭の北東には三角形の腰曲輪があり、その先端を城内最大の堀切で分断している。その北に細尾根が伸び、その先を小堀切で区画して城域が終わっている。一方、主郭の後部にも堀切が穿たれ、南に細尾根が伸びている。この細尾根は小ピークで分岐してY字型になっている。南と、北の三角点のある峰の先に、それぞれ小堀切が穿たれている。以上が高山城の遺構で、それほど技巧的な縄張りではないが、城域は広く、堀切も中規模のものもあって、中々守りを固めた城であったことがうかがわれる。
二ノ郭の土塁→DSCN6421.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.614503/137.093024/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集 1(中央部編(富山市・中新川郡

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  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2023/03/31
  • メディア: 大型本


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小島城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN6320.JPG←主郭に残る土塁
 小島城は、射水・婦負郡守護代神保氏の重臣小島甚助が築いたと伝えられる。高山城主寺島牛助(牛之助とも)は、甚助の兄である。共に上杉勢によって元居た地を追われ、この地まで逃れてきて城を築いて居城とし、神保長職の旗本となったとの伝承がある。1563年、上杉勢の攻撃を受けて小島・高山両城は落城し、小島甚助・寺島牛助兄弟は「乱の穴」という洞窟に身を隠して危難を免れ、若狭城(大道城)に逃れて立て籠もったとされる。1581年、織田信長の部将佐々成政の進攻を受けて小島・寺島兄弟は抗戦しきれず、降伏して佐々氏に仕えた。佐々氏移封後は、加賀前田氏の家臣となったと言う。

 小島城は、山田川西岸にある城山という丘陵上に築かれている。丘陵上に鉄塔があるため、南尾根の小道から鉄塔保守道を登って登城可能である。この丘陵は、傾斜量図で見ると南西から北東に向かって全部で4段の平場があるが、どこまでが城域であったのかはよくわからない。しかし最上部にある南西の平場が主郭であろう。主郭は山林内に平場が広がっていて、南と西は断崖で囲まれている。北端には低土塁が見られる。その先は鉄塔の建つ2段目の平場であるが、薮が深く侵入が困難で、遺構が存在するかどうかよくわからない。また4段の平場の内、下の2段は畑となっている。結局、平場とわずかな土塁以外に明確な遺構は見られず、縄張りがよくわからない城だった。
 尚、小島城の西方約1kmの山中に小島甚助・寺島牛助兄弟が隠れた「乱の穴」が残っている。
乱の穴→DSCN6336.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.597346/137.081233/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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  • 出版社/メーカー: 丸善出版
  • 発売日: 2022/07/28
  • メディア: 単行本


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尾畑城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN6208.JPG←西の堀切
 尾畑城は、歴史不詳の城である。城の西側には、飛騨街道と並び飛騨・越中を結ぶ重要街道・大長谷街道が通っており、この街道を眼下に見下ろせることなどから、街道を監視するために築かれたと推測されている。またその縄張りには、地元土豪が築いた周辺城砦と大きな違いがあり、外部勢力による築城との推測もされている。これらのことから1576年の上杉謙信の能登侵攻の際に飛騨口を守るために上杉氏が築いた城とも考えられているが、確証はない。

 尾畑城は、標高593mの奥地の山上に築かれている。市の史跡に指定されており、西麓の車道脇に標柱と解説板が立っており、そこから登道が整備されている。但し登道はあると言っても、かなり傾斜がきつく、場所によっては滑り落ちそうになるような尾根直登に近い山道なので、登るのはかなり大変である。小規模な城砦で、四方の尾根に堀切を穿ち、その手前に櫓台を配置して守りを固めている。南尾根以外の堀切は、この手の小城砦には不釣り合いなほど規模が大きい。また西・北の堀切は、間にある窪地状の平場で合流しており、更に北の堀切から東の堀切までの外周に武者走りが通じており、これらの堀切が城内通路を兼ねていたことがわかる。主郭は小さな櫓台状の高台で、周囲の腰曲輪は傾斜し、前後の櫓台との間は堀切状の鞍部となっている。また主郭の南下方には横堀が穿たれている。この他、北西の谷間には水の手が残っているが、藪が多くて形状が把握しづらい。以上が尾畑城の遺構で、少人数の番兵だけを置いて物見と烽火台を主任務とした城だったのだろう。
堀切状の鞍部と主郭→DSCN6227.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.514008/137.097402/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図説 上杉謙信

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  • 作者: 今福 匡
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  • 発売日: 2022/03/18
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タグ:中世山城
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高尾城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN6194.JPG←主郭の現況
 高尾城は、歴史不詳の城である。高嶺城の北西わずか900m程の位置にあり、仁歩川と室牧川に挟まれた丘陵地内の標高250mの峰に築かれている。山頂近くには送電鉄塔が建っており、南麓から保守道があるので、それを登っていけば城まで行ける。山頂には2段の平場が確認でき、主郭と二ノ郭であろう。主郭は倒木だらけの上、草に覆われていて形状がわかりにくいが、中央に土壇が見られる。主郭の南には鉄塔が建つ二ノ郭があるが、ここも鉄塔付近以外は藪で覆われている。主郭の北には空堀と土橋が築かれ、腰曲輪が構築されている。その西には小道があり、朽ちたベンチも残っているので、以前は公園か何かになっていたらしい。いずれにしても小規模な城砦であるうえ、遺構にも見どころが少なく、あまり見応えのある城とは言えない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.565969/137.112540/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書

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  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2020/10/27
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タグ:中世山城
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高嶺城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN6139.JPG←横堀と北東の櫓台
 高嶺城は、歴史不詳の城である。神保氏の部将が城主であったとも、或いは丹羽市右衛門という武士が城主であったが上杉氏に攻撃されて落城したとも伝えられる。

 高嶺城は、仁歩川西岸の南北に連なる丘陵上の、東側に突出した標高260mの峰に築かれている。この城へ登るには、南の水田地帯の道を登って南東中腹に至り、そこから斜面を直答するルートと、北尾根を貫通する市道から未舗装の林道に入り、林道伝いに城の直下までくるルートの2種類があるらしく、私は前者で訪城した。広い主郭を持つ単郭の城で、大まかには半月形をした曲輪形状となっている。北側半周には低土塁が築かれ、その外周に横堀が穿たれている。塁線は緩やかに凹凸のカーブを描いており、北東には張出しの櫓台、北西には出枡形の虎口が築かれている。また櫓台の西には虎口らしき土塁の切れ目があり、横堀をまたいで木橋で繋がっていたようである。櫓台は、この木橋に横矢を掛ける形となっている。櫓台東の横堀は、途中までは残っているが、重機で破壊を受けている。主郭内は削平の甘い地山で、内部が傾斜している。恒常的に使われたのではなく、陣城として一時的に使われた城だったように感じられる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.559972/137.119128/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集 1(中央部編(富山市・中新川郡

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  • 作者: 佐伯 哲也
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  • 発売日: 2023/03/26
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タグ:中世山城
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下笹原砦(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN6051.JPG←主郭後部の土橋と空堀
 下笹原砦は、射水・婦負郡守護代神保氏の支城と伝えられる。『肯搆泉達録』に「越後より越中攻めの時、神保の将住す」とあることから、戦国時代に越後守護代長尾氏か上杉謙信が越中に侵攻した際、神保氏の城砦となっていたと推測される。

 下笹原砦は、茗ヶ原川屈曲部に東から突き出た断崖上に築かれている。ほぼ単郭の小規模な城砦で、崖端にある細長い主郭の東と南を空堀で穿って周囲の台地と分断している。この空堀は、この手の小城砦としては規模が大きく、主郭切岸もしっかりと切り立っている。主郭の先端近くには虎口があり、空堀に木橋が架かっていたと推測されている。主郭後部には土橋が架かり、その脇は堀切となっている。また主郭北面には腰曲輪が1段築かれ、前述の空堀はその横に落ちている。簡素な形態の城砦であり、他の城砦群と連携して守りを固めていたと推測される。
 尚、この城へは東の車道脇に案内板が出ており、小道が伸びているので、てっきりこの小道がそのまま城まで通じていると思ってしまうのだが、実際はこの小道をそのまま進んでしまうと城には辿り着けない。しばらく小道を進んでから、道のない山林を西に進まないといけないので、注意が必要である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.572759/137.138536/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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舘本郷館(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN6028.JPG←館跡の諏訪神社
 舘本郷館は、室町中期にこの地の土豪であった田中又四郎市正の居館と伝えられる。当初田中館を居館としていたが、後に舘本郷館に居館を移した。田中市正の事績については田中館の項に記載する。

 舘本郷館は、諏訪神社の境内付近にあったらしい。田中館同様、遺構は全く残っておらず、館跡の雰囲気も感じられず、ただの神社という感じである。ただ、神社の南南西260mの所の車道脇に田中市正の墓や一族のものと思われる数基の五輪塔、顕彰碑が立っている。
田中市正の墓→DSCN6029.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.614400/137.130361/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 日本の城

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  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2022/03/10
  • メディア: 大型本


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