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古城めぐり(岩手) ブログトップ
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堺館(岩手県九戸村) [古城めぐり(岩手)]

DSCN1439.JPG←主郭北西の横掘
 堺館は、大向館とも言い、代々九戸氏一族の居館であったと伝えられる。天正年間(1573~92年)の館主は、九戸城主九戸政実の弟実親と言われる。

 堺館は、瀬月内川西岸の比高30m程の丘陵先端部に築かれている。館跡の北から西にかけて車道が通っており(車道の登口に標柱と解説板がある)、その脇から墓地に通じる登道があるので、そこから館内に入った。この墓地は主郭の一部であるらしい。薮が多いので遺構がわかりにくいが、方形の主郭と前面の腰曲輪から成る館らしい。主郭は北東方向を向いており、腰曲輪は北東に築かれている。主郭の北西には横堀が穿たれているが、台地基部に当たる南西には空堀が見られない。しかし館跡の南西はどうも耕作放棄地の様なので、湮滅してしまったのかもしれない。いずれにしても薮が多くて、館全体の形状が今ひとつ分からなかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/40.236909/141.418011/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


オールカラー徹底図解 日本の城

オールカラー徹底図解 日本の城

  • 作者: 香川元太郎
  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2021/09/28
  • メディア: Kindle版


タグ:中世平山城
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瀬月内楯(岩手県九戸村) [古城めぐり(岩手)]

DSCN1381.JPG←楯跡の無惨な現況
 瀬月内楯(瀬月内館)は、歴史不詳の城である。瀬月内川と安堵城沢の合流点北側にそびえ、南西に向かって突き出た通称「館鼻」と呼ばれる小丘に築かれている。九戸村観光協会発行の『九戸政實歴史探訪史跡めぐり』のマップを見て訪城したが、なんと楯跡は山林皆伐で遺構の多くが破壊されてしまっていた。わずかに山頂に3段の平場跡があること、その南下方に段曲輪が築かれていることがわかるに過ぎない。北東側の丘陵基部には二重堀切が穿たれていたと言うが、現在は大きく破壊されてしまっており、側方に落ちる竪堀がわずかに残るだけとなっている。

 それにしても、『九戸政實歴史探訪史跡めぐり』に掲載し、現地(瀬月内川対岸の車道脇、城の南西方向)に城址標柱と解説板まで設置しているのに、なぜこんな破壊を許してしまったのか、誠に残念でならない。九戸村には昨年5月に遺構が破壊されたことを知らせる投稿をしたが、今に至るまで回答はないままである。
堀切の痕跡の竪堀跡→DSCN1375.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/40.113781/141.443481/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


戦国の城の一生: つくる・壊す・蘇る (475) (歴史文化ライブラリー)

戦国の城の一生: つくる・壊す・蘇る (475) (歴史文化ライブラリー)

  • 作者: 英文, 竹井
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2018/09/18
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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戸田楯(岩手県九戸村) [古城めぐり(岩手)]

DSCN1326.JPG←背後尾根の畝状竪堀
 戸田楯(戸田館)は、天正年間(1573~92年)に九戸城主九戸政実の家臣戸田帯刀重道の居城であったと伝えられる。元々は蝦夷館(チャシ?)だったものを改修した楯と推測されている。当時から四方に道路が通じる交通の要衝であったらしい。

 戸田楯は、比高30m程の居館部と、その東上にある要害部の2つから構成されている。北西麓に古い朽ちかけた城址標柱があり、また瀬月内川沿いの南西の民家の裏手(川土手沿いの小道の奥、見つけるのが大変だった)に真新しい標柱と解説板が立っている。城へは北斜面にわずかな獣道があり、これを辿って登った。最初に現れるのが、城の前面に当たる北斜面の腰曲輪群である。切岸で明確に区画された急斜面の曲輪群で、中段の中程には竪堀状の虎口も見られる。この腰曲輪群の東側には大竪堀が落ちている。大竪堀の東側の尾根には小郭が2段築かれている。この尾根の最上部は物見台になっており、ここに登る小型の枡形虎口がある。物見台から南にはやや幅のある尾根が伸びており、これが要害部である。要害部の西側下方には広い緩斜面が広がっており、これが居館部(主郭)と思われる。居館部は2段程の縦長の平場で構成されているようだ。要害部の背後の尾根にはわずかに段が見られ、最後部が最も高く、櫓台となっていて、祠が祀られている。この背後には尾根筋を遮断する堀切が穿たれている。堀切は、東側で横方向に折れて、横堀に変化して尾根と平行に伸びている。またこの横堀の付け根から東斜面に竪堀が落ちている。更にこの城では、堀切の背後の尾根の東側に畝状竪堀が穿たれている。岩手県内では初めて見る畝状竪堀で、背後尾根からの敵の接近を強く意識していることがわかる。比較的簡素な縄張りの城であるが、大竪堀・畝状竪堀など出色の遺構である。
北斜面の腰曲輪群→DSCN1269.JPG
DSCN1279.JPG←腰曲輪群東側の大竪堀
居館部の上段平場→DSCN1336.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/40.174127/141.433954/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


「城取り」の軍事学

「城取り」の軍事学

  • 作者: 西股総生
  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2013/08/29
  • メディア: Kindle版


タグ:中世平山城
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山根館(岩手県九戸村) [古城めぐり(岩手)]

DSCN1145.JPG←西側の空堀
 山根館は、九戸政実の乱の際の九戸城籠城衆に見える山根彦左衛門の居館と言われるが定かではない。乱の平定後、南部氏庶流の矢嶋氏が山根総三郎を名乗って山根館主となったと伝えられる。

 山根館は、山根集落センターのすぐ南の丘陵先端部に築かれている。センター駐車場の山裾に城址標柱と解説板が立っている。北麓の車道脇からかすかな小道があり(わずかな薮の切れ目しかないので入口がわかりにくい)、これを登っていくと館跡に至る。館は、西辺と南西辺をやや鈍角に開いたL字型の空堀で区画している。実は前述の登道は、この空堀に繋がっており、堀底道であったようである。主郭は広いが北東側に向かって傾斜しており、空堀の角部付近だけ土塁を築いている。主郭の前面には数段の腰曲輪が築かれている。この腰曲輪群の一つは、西の空堀に土橋が架かっており、虎口を築いている。この虎口は、虎口郭になっているらしく、ここから下段の曲輪に屈曲した導線で進入するような構造にも見える。横には竪堀状虎口もあるが、草木が多いうえ土塁などの痕跡がわずかなため、構造が少々わかりにくい。腰曲輪は主郭の北東側に円弧状に築かれていて、この中程に搦手の枡形虎口がある。山根館は、空堀・切岸が比較的小さく大した城館ではないが、その一方で枡形虎口など複雑な構造も見られる。ただ全体に未整備で薮が多いので、少々遺構が確認しづらい。
腰曲輪群の切岸→DSCN1121.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/40.182619/141.426852/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図解 戦国の城がいちばんよくわかる本

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  • 作者: 西股 総生
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  • 発売日: 2016/02/20
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タグ:中世平山城
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伊保内館(岩手県九戸村) [古城めぐり(岩手)]

DSCN1060.JPG←大館南の横掘
 伊保内館は、九戸氏の支館である。九戸氏配下の在地勢力・伊保内氏の居館であったとも言われるが、詳細は不明。天正年間(1573~92年)の館主は九戸政実の舎弟伊保内美濃正常と伝えられる。

 伊保内館は、瀬月内川西岸の比高30m程の段丘上に築かれている。東西2郭から成り、東が大館、西が小館と呼ばれる。いずれの曲輪も広大で、現在は全面畑となっている。大館の南に横堀が残り、郭内には堀に沿って土塁も残っている。また大館東側には腰曲輪があるが、現在は円満寺境内となっており、改変を受けている。小館との間は、現在は切岸で区画されているが、以前は空堀で分断されていたらしい。空堀は現在ほとんど湮滅しているが、段丘端の北端部だけ堀の痕跡が残っている。基本的にだだっ広い曲輪が広がっているだけの館であるが、周囲を防御する切岸が明瞭に残っており、城館の名残を色濃く残している。
小館との間の空堀の北端部→DSCN1082.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/40.204567/141.420221/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


知れば知るほど面白い 戦国の城 攻めと守り (じっぴコンパクト新書)

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  • 出版社/メーカー: 実業之日本社
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タグ:居館
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熊野楯(岩手県九戸村) [古城めぐり(岩手)]

DSCN1012.JPG←わずかに残る土塁
 熊野楯(熊野楯)は、九戸一族の城と伝えられている。一説には、九戸氏が最初に構築した楯で、代々九戸氏の居城であったとも言われる。伊保内館と大名館の中間に位置し、これらと連携した城であったと推測されている。

 熊野楯は、標高310m、比高40mの独立丘に築かれている。主郭と思われる平場には熊野神社が建っており、南東から参道が整備されている。遺構はわずか、かつ不明瞭で、主郭は地山の緩斜面で明確な削平はされていないらしし。また熊野神社の北から東にかけてL字型をした土塁が見られるが、平坦地の中にあるわずかな土盛りに過ぎず、防御性を持ったものではなく単なる区画として築かれたものだろう。主郭の西側にはそびえ立つ峰があり、物見台だったと思われる。物見台の周りにも数個の小郭がある。主郭の北東は、ほとんど自然地形の斜面が広がっているだけである。尚、前述の参道の頂部近くには竪堀状の道が見られるが、これも遺構かどうかは不明である。結局、物見台以外はあまりはっきりした城跡の痕跡は見出だせない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/40.213678/141.418912/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世平山城
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大名館(岩手県九戸村) [古城めぐり(岩手)]

DSCN0950.JPG←西側の空堀
 大名館は、九戸氏の歴代の居館であったと伝えられる。九戸氏の祖・行連がこの地に居館を築いて居住したと言われる。行連は、南部氏の祖・光行の6男とされるが、別説では九戸氏は室町時代の信濃守護小笠原氏の流れを汲むともされ、明確ではない。1569年、九戸政実の鹿角奪還戦での軍功により、二戸数郷を加増され、九戸城へ進出して本拠を移した。その後の大名館は九戸市の隠居所であったと言われ、政実の父信仲が居住したと伝えられる。

 大名館は、袖川南岸の東に向かって張り出した丘陵先端部に築かれている。すぐ南には車道が通っており、車道からの高低差はわずかなので、訪城はたやすい。単郭の簡素な城館で、東西に細長い主郭があり、その北と西に浅い空堀を廻らしただけである。しかしその空堀も、西側ははっきり堀形を残しているが、北側はほとんど腰曲輪に近い。中世城館というよりも、ほとんどチャシに近い形状の館である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/40.222477/141.414878/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図説 豊臣秀吉 【オールカラー】

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  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2020/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
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江刺家楯(岩手県九戸村) [古城めぐり(岩手)]

DSCN0773.JPG←北側の二重横掘
 江刺家楯(江刺家館)は、歴史不詳の城館である。室町時代に九戸信伸が居住したが、戦国時代に江刺家氏に交替したとも言われるが確証はない。江刺家氏についても、九戸氏の一族とも小軽米氏の一族とも伝えられる。1591年の九戸政実の乱の際の九戸城籠城衆に江刺家一照斎の名があり、また1600年に南部利直の配下として出羽に従軍した家臣の中に江刺家瀬兵衛の名があり、館主かその一族であった可能性もある。

 江刺家楯は、江刺家集落西方の緩斜面に築かれている。郭内が大きく傾斜した単郭の大型の館城で、外周を中規模の土塁と空堀で囲んでいる。岩手北部では座主楯と似た構造の城であるが、広さは倍以上ある一方で、郭内の斜度は半分以下となっている。主郭内は畑になっているが、段差で概ね3段程に分かれている。最上段には主殿があったと推測され、平坦な平場となっている。中段は東に向かってゆるく傾斜している。東側中央部が下段で、虎口を兼ねた曲輪になっていたと考えられる。主郭の東側は急斜面の段丘崖となっているが、南半分には帯曲輪と横掘が穿たれている。また主郭の外周には北西・西・南に土塁が築かれ、南東端には土塁で囲まれた虎口郭らしい小郭がある。主郭外周には前述の通り空堀が穿たれているが、北側の約半分と西側は二重横堀となっている。北側は、元は全部二重横掘であったと思われるが、耕地化と作業道敷設に伴う改変で、約半分が湮滅しているようである。また南の横堀は、『日本城郭大系』の縄張図では二重堀になっているので、これも改変で外堀が湮滅したらしい。北側横掘の土塁には、所々に竪堀状虎口が築かれている他、主郭北西部に当たる部分には独立堡塁が構築されている。独立堡塁の部分は、主郭の塁線も内側に屈曲して横矢掛りを意識している。横掘の外側は外郭があったと考えられており、西側に堀の一部が残っている。以上が江刺家楯の遺構で、しっかりした堀・土塁が外周に残り、見応えがある。
主郭→DSCN0869.JPG
DSCN0880.JPG←西の二重横掘

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/40.255302/141.408795/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/10/25
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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田手館(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN0748.JPG←館跡の現況
 田手館は、1591年に葛西大崎一揆平定後に葛西氏の旧領を与えられた伊達政宗が、粟野大膳大輔を大原城の地に配し、この粟野氏が築造した居館である。伊達家の藩制で言う「大原所」(「所」は「要害」の下のランク)であるが、ここには元々大原城主大原千葉氏の居館があった可能性がある。後に伊達家2代藩主忠宗の8男伊達宗房が大原に知行替えとなり、この館に入った。後の伊達家5代藩主伊達吉村は宗房の子で、1680年にこの館で生まれ、幼少時を過ごした。後に伊達本家を継いだ吉村は、破綻状態にあった仙台伊達藩の財政を立て直し、仙台藩中興の英主と讃えられた。

 田手館は、大東勤労者体育センター(旧大原商業高校校地)が館跡とされる。改変により明確な遺構は残っていない。かつては館跡の標柱があったらしいが、現在は失われている。敷地脇に、伊達吉村公誕生地と刻まれた石碑と、菅江真澄遊覧の地と書かれた標柱が建つだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.018342/141.396940/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


伊達家: 仙台藩 (家からみる江戸大名)

伊達家: 仙台藩 (家からみる江戸大名)

  • 作者: J・F・モリス
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2023/10/30
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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大原城(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN0692.JPG←南支尾根から見た主郭と腰曲輪群
 大原城は、山吹城とも呼ばれ、葛西七騎の一つで東山旗頭と称された大原千葉氏(大原氏)の歴代の居城である。1230年に奥州探題として関東から派遣された千葉飛騨守頼胤の子、宗胤が大原に入部して大原城を築き、築城したと伝えられている。しかし鎌倉時代に奥州探題という職制はない上、大原氏の出自には別説もあり、はっきりしたことはわからない。また大原氏の系譜は複数伝わっているが、諸系図によって食い違いも多く不明点が多い。南北朝初期、主家葛西氏は一族内で南朝方・北朝方に分かれているが、大原胤高は北朝方に付いていたと推測されている。しかし一族の大原備中守宗信は、南朝方の陸奥守兼鎮守府大将軍北畠顕家に従って討死した。宗信の討死は「1335年10月5日に和泉国」のこととも言われるが、この時期にはまだ顕家は奥州にあり、また和泉国での顕家軍の合戦は、顕家2度目の西上戦の時で1338年3~5月のことであり、この伝承にも疑問符がつく。1474年、大原肥前守広忠は、気仙沼城(赤岩城?)主熊谷丹波守直氏が父直行と不和となり、戦って敗れ、大原氏を頼ってきた東山に逃れてきた。広忠は直氏を保護し、大原郷内野里50余町を与えた。翌75年、広忠の子飛騨守信広は、気仙郡横田村で気仙の矢作千葉氏(矢作氏)と戦い、その合戦で次男信綱を失った。1498年、大崎氏家中の内紛を契機として「明応の乱」が発生し、信広は薄衣城主薄衣美濃入道清胤と同盟して主家葛西氏に反抗した。この時薄衣清胤が伊達成宗に出した『薄衣状』によれば、信広は数流沢城(摺沢城)に籠って警固したと言う。一方、信広の嫡子伯耆守信明は父と袂を分かち、葛西方に付いた。この戦乱は、伊達氏の仲介によって収束したらしい。1504年、信明は気仙郡矢作郷において浜田安芸守基綱と合戦し、勝利した。1542年、伊達氏の大規模な内訌「天文の乱」が起きると、奥州の諸大名は稙宗派・晴宗派に分かれて抗争し、葛西氏も2派に分かれて抗争した。大原飛騨守信胤は、葛西氏の当主高信と共に晴宗派に属した。信胤は晴宗から書状を受けており、葛西領内屈指の大身で権勢を有していたことがうかがえる。戦国後期になると、葛西晴胤の子飛騨守信茂(葛西晴信の弟)が大原播磨守信光の嗣子となり領内を固めた。1559年、東山の及川一族が主家葛西氏に反抗して武力蜂起した及川騒動(柏木合戦)の際には、信茂が出陣して鳥海城を落城させ、乱を鎮圧した。1587年には、信茂は藤沢城主岩渕近江守と合戦した。1590年、豊臣秀吉の奥州仕置によって葛西氏が改易となると大原氏も没落した。1591年の葛西大崎一揆では、大原飛騨守胤重(または千代竹丸?重光?)が桃生郡中津山香取(神取山城)に出陣した1700騎の軍勢の大将となった。しかし伊達勢に敗れ、桃生郡深谷で謀殺されたと伝えられる。大原城も落城したが、間もなくこの地方の要地として石田三成によって修復され、伊達政宗に与えられた。政宗は粟野大膳大輔をこの地に配した。

 大原城は、大原市街地北西の比高60m程の丘陵上に築かれている。城内は大半が公園化され、主要部が薮払いされており、遺構がよく確認できる(というか、訪城当日はちょうど草刈り中だった)。登り口は2つあり、南麓の大手門口と北東尾根の搦手口とがある。駐車場があるのは搦手口なので、車で行く人はこちらから行く方が良い。さすがは葛西氏家中でも大身であった豪族の本拠で、城は広大、各曲輪の規模も大きい。丘陵中央に主郭があり、東西に長く、東側に祠と大銀杏がある張出しがある。郭内の西辺と南辺に低土塁が築かれている。主郭の南北に腰曲輪があり、それとそのまま繋がる形で西に二ノ郭、東に三ノ郭がある。二ノ郭から主郭に登る手前に大土壇があり、物見台であったと思われる。二ノ郭は南東の支尾根に大きく張り出し、外周に腰曲輪を伴っている。二ノ郭の北東には腰曲輪を兼ねた箱堀状の堀切があり、その北東に小さな東郭が高台となって築かれ、その北側は堀切で台地基部を分断している。一方、三ノ郭は主郭の前面に堀切を穿った高台の曲輪を設け、主郭前面の防御陣地としている。その周囲に三ノ郭が広く展開している。三ノ郭の西には堀切が穿たれ、その先に西郭がある。西郭は傾斜した曲輪で削平が甘い。西の尾根続きに片堀切を穿っている。その先は自然地形である。この他、南や南東の支尾根に曲輪群があるが、これらは大薮の中に埋もれており、折からの降雨もあって踏査はできなかった。
 尚、城内では前述の通り業者さんが草刈機で草刈り中だったが、二ノ郭の腰曲輪にはカモシカが歩いていた。この日は、雉の母子や狸など、野生動物に出くわすことが多かった。さすがに岩手県は自然が豊かで素晴らしい。
二ノ郭北東の箱堀状堀切→DSCN0611.JPG
DSCN0708.JPG←三ノ郭西の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.019442/141.394708/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


続・東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

続・東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2021/10/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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摺沢城(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN0513.JPG←外周の大空堀
 摺沢城(数流沢城)は、八丁館とも言い、葛西氏の家臣岩淵氏(摺沢氏)の居城である。1221年、葛西清親に仕えた岩淵重政が、磐井郷摺沢郷を賜り、摺沢城を築いて居城としたと伝えられる。しかしそれ以前にも千葉氏の一族が摺沢城に居たとも、また古くは前九年の役の際に安倍貞任軍がこの地に拠り、源頼義軍を撃破したとも言われるが定かではない。1498年から翌年にかけての葛西領内の擾乱では摺沢摂津守が参画している。またこの時薄衣城主薄衣美濃入道清胤が伊達成宗に出した『薄衣状』には、「数流沢城は大原飛騨守が籠って警固している」と書かれている。天文年間(1532~55年)頃には摺沢筑前守信定の娘が安俵城主安俵玄蕃忠秀の室となっている。1590年の豊臣秀吉の奥州仕置で葛西氏が改易となると、摺沢氏は伊達氏に仕えたと言う。尚、同年10月に生起した葛西大崎一揆で桃生郡中津山香取(神取山城)に出陣した軍勢の中に摺沢将監の名が、また佐沼城の籠城衆の中に摺沢出雲の名があり、城主か一族であると考えられている。

 摺沢城は、曽慶川南岸の丘陵先端部に築かれている。北西麓に城への入口があり、車道の曲がり角に「八丁館大手門」の標柱があるが、現在は朽ちて倒れている。その奥に城址標柱があり、そこから奥に小道が登っている。南に向かって折れた「く」の字型の尾根に城が築かれている。頂部に長方形の主郭を置き、北西に伸びる尾根に二ノ郭と段曲輪2段を築いている。また主郭後部にも1段低く腰曲輪が築かれている。これらの曲輪群は段差だけで区画されている。また二ノ郭の南北と主郭の南にも帯曲輪が築かれている。この城で出色なのは、背後尾根から主郭北側にかけて穿たれた大空堀で、現地標柱では「馬隠し」と呼ばれている。この大空堀は、二ノ郭の北麓まで伸びている。大空堀の外周に築かれた土塁は、実際は土塁ではなく段付きの帯曲輪となっている。大空堀の裏にも大竪堀が北斜面に落ちている。この他、背後の東尾根にはT字型土塁と平場があるが、用途は謎である。古い航空写真を見ると耕地であった様なので、遺構ではなく耕地の名残かもしれない。以上が摺沢城の遺構で、単純な構造の城であるが、大空堀だけが異彩を放っている。
 尚、主郭に行ったら草むらの中にタヌキが転がっていた。死んでるのかと思って手を叩いてみたら、寝てただけらしく、眠そうな顔をしてモソモソと薮に入っていった。のどかなものである。
竪堀→DSCN0523.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.993280/141.331859/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


 [カラー版] 地形と立地から読み解く「戦国の城」

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  • 作者: 萩原さちこ
  • 出版社/メーカー: マイナビ出版
  • 発売日: 2018/09/14
  • メディア: 新書


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松川内館(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN0363.JPG←主郭から見た二ノ郭・腰曲輪
 松川内館は、松川城とも言い、薄衣城主薄衣千葉氏の庶流松川千葉氏の居城である。1343年に薄衣清堅(清純)の4男隼人正村がこの地に分封され、松川氏の祖となり、内館を居城とした。以後、宗家の薄衣氏を支えながら活動した。1507年、薄衣一族の朝日館主金沢伊豆冬胤が、熊谷掃部直時・高森城主奈良坂信置と共に、峠城主寺崎時胤と合戦し、金沢方が勝利した。この時、松川城主松川太郎三郎胤広は、寺崎方に与したが、敗戦の中で討死したと言う。松川氏は、薄衣城主薄衣清貞の弟信胤が跡を継いだ。その3年後の1510年、今度は薄衣清貞が、弟松川信胤とその子胤光らの加勢を得て金沢冬胤の拠る金沢郷を攻撃した。しかし戦いは金沢方の勝利に帰し、松川胤光が戦死した。1590年、10代民部信胤の時に主家葛西氏が奥州仕置で改易されて没落した。信胤は病弱で、弟の主水胤好が兄の陣代として同年10月に生起した葛西大崎一揆に出陣したが、桃生郡深谷において伊達勢に謀殺された。この後、信胤は出羽国稲二把邑で没したと伝えられる。

 松川内館は、砂鉄川の東岸にある比高40m程の小高い丘に築かれている。全域が公園化されており、遺構がよく確認できる。しかも主郭直下まで車で行けるので、訪城もお手軽である。南北に長く弓形になった丘陵上に、北から順に主郭・二ノ郭・三ノ郭・四ノ郭を配置し、外周に腰曲輪を廻らした縄張りとなっている。主郭には古館明神社が鎮座している。主郭には土塁は築かれていないが、面積は広く、綺麗に削平され、周囲をしっかりした切岸で防御している。東西には腰曲輪が築かれ、南の二ノ郭との間は深い堀切で分断している。二ノ郭は中央がややくびれた鼓形をした曲輪で、東西に腰曲輪があり、南の三ノ郭との間に大きな円弧状の堀切を穿っている。三ノ郭は舌状のなだらかな緩斜面で、東西に腰曲輪があり、中央西側に虎口が築かれている。三ノ郭の南西先端にもL字型に空堀が穿たれている。その先は緩斜面になった四ノ郭で、その外周にも腰曲輪がある。以上が松川内館の遺構で、低丘陵を利用した大型の館城で、なかなか見応えがある。
主郭~二ノ郭間の堀切→DSCN0391.JPG
DSCN0417.JPG←二ノ郭~三ノ郭間の円弧状堀切
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.953994/141.252337/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 戦国の城

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  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2021/08/26
  • メディア: 単行本


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門崎城(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN0289.JPG←二ノ郭から見た主郭切岸
 門崎(かんざき)城は、奥州千葉氏の一流門崎氏の居城である。門崎氏には、前期門崎氏と後期門崎氏があったらしい。前期門崎氏は薄衣城主薄衣千葉氏の庶流で、薄衣清純の次男修理亮胤村により築かれたとも言われるが、詳細は不明。1498年に薄衣城主薄衣美濃入道が大崎氏の内紛に巻き込まれて、主君葛西政信の大軍の攻撃を受けた時には、門崎氏は薄衣美濃入道に与して敗れ、没落した。その後、永正年間(1504~21年)頃に気仙郡の浜田氏(浜田千葉氏)の一族浜田安房守盛糺が門崎村に入部し、その玄孫安芸守盛常の時に門崎氏を称したと言う(後期門崎氏)。1590年に豊臣秀吉の奥州仕置で葛西氏が改易となると、門崎氏は伊達氏に仕え、門崎盛隆は1600年の白石の役などに功をあげたと伝わる。

 門崎城は、常堅寺南の標高110mの山上に築かれている。寺の墓地脇に登道があり、これを登っていくと西尾根の腰曲輪群に至る。城は、山頂に長円形の主郭を置き、その周囲に腰曲輪状の二ノ郭を配置している。二ノ郭は、背後に当たる東尾根に沿って東に伸びており、その先端を堀切で分断している。更に小郭をおいてもう1本の堀切で区画して城域が終わっている。一方、主郭の西側下方には三ノ郭があり、外周に腰曲輪を築き、更に西側に四ノ郭とそれに付随する腰曲輪群を配置している。前述の墓地脇の道は、この腰曲輪群に通じている。遺構はよく残っているが、主郭・二ノ郭は一部薮多く、少々辟易する。また城址標柱が二ノ郭にあったらしいが見つからなかった。尚、腰曲輪群を登っていったら、雉らしい母子がいて、母鳥と雛が別方向に飛んでいった。雛がそのままはぐれてしまっていなければいいが・・・。
二ノ郭東の堀切→DSCN0294.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.928559/141.264750/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


日本100名城公式ガイドブック スタンプ帳つき(歴史群像シリーズ)

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  • 作者: 日本城郭協会
  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2020/09/14
  • メディア: ムック


タグ:中世平山城
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薄衣城(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN0157.JPG←二ノ郭から見た主郭
 薄衣城は、葛丸城とも言い、奥州千葉氏の一流薄衣氏(薄衣千葉氏)の居城である。薄衣氏は『薄衣状』でもよく知られる。薄衣氏は奥州千葉氏の一流で、越前国大野郡鳥田城を居城としていた千葉四郎胤堅が、1252年8月に奥州の押えとして陸奥国栗原郡に下向し、磐井郡薄衣庄に居住して翌53年に薄衣城を築いて居城とし、薄衣氏の祖となったと言われる。薄衣氏からは、門崎城主門崎氏・朝日館主金沢氏・松川城主松川氏を分出した。南北朝時代の1339年、南朝方についた薄衣清村は北朝方の葛西高清と戦って敗れ、葛西氏に臣従する事となった。1498年、葛西領に隣接する大崎氏において重臣氏家三河父子が反乱を起こし、大崎氏家中の内紛が勃発した。葛西領の薄衣美濃入道清胤と江刺三河守は、大崎義兼からの内乱鎮圧のための出兵要請を再三受け、ついに断わりきれず出陣した。この清胤は、葛西氏9代満信の子・和泉守重信の子で、薄衣清房の長女と結婚して薄衣氏を継いでいたが、清房の末子常盛は清胤の入嗣を不服とし、両者の関係は険悪なものとなっていた。清胤が大崎氏支援のために出兵すると、常盛は長谷城に籠城して大崎氏救援反対の気勢をあげた。清胤は急遽薄衣城に引き返したが、更に主君葛西政信も大崎救援反対の軍を出し、薄衣城は葛西氏の大軍に包囲された。進退窮まった清胤は自刃しようとしたが、米谷左馬助に制止され、清胤は伊達成宗に救援を求める書状を送った。これが『薄衣状』である。この戦乱は、伊達氏の仲介によって収束したらしい。1507年、薄衣一族の朝日館主金沢冬胤が、峠城主寺崎時胤と合戦し、金沢方が勝利した。その3年後の1510年、薄衣清貞は、弟松川信胤とその子胤光らの加勢を得て金沢冬胤の拠る金沢郷を攻撃した。しかし戦いは金沢方の勝利に帰し、薄衣方の松川胤光が戦死した。この敗戦後、薄衣氏の勢力は頽勢に傾いた。しかし1580年には、薄衣甲斐守が葛西太守に代わって上洛するなど、葛西氏の重臣であったことがうかがわれる。しかし1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で葛西氏が改易となると、薄衣氏も没落。同年に生起した葛西大崎一揆では、薄衣甲斐守胤勝(胤次?常雄?)が栗原郡高清水森原山に出陣した軍勢の大将となったが、伊達勢に敗れ、桃生郡深谷で謀殺されたと伝えられる。

 薄衣城は、北上川東岸にそびえる比高60m程の山上に築かれている。市の史跡に指定されており、北麓から登道が整備されている。山頂に広い主郭を置き、その北から西側半周に腰曲輪を築き、更に西側にL字型をした二ノ郭を張り出させている。主郭・二ノ郭共に内部は大きく傾斜しており、二ノ郭の中央北寄りには大きな土壇が築かれている。この土壇は櫓台ほどの広さがないので、おそらく信仰上の施設が置かれていたのだろう。同様の土壇は黄海城などにもあり、葛西氏領国の城では時折見られるものである。二ノ郭の北尾根に段曲輪群、南斜面に腰曲輪群が築かれているが、草が覆い茂っていたので踏査はしていない。主郭北側の最上段の腰曲輪には、東端に土塁が築かれている。この腰曲輪と二ノ郭との間の谷戸には、前述の登道が通っており、道の東側に腰曲輪が2段築かれている。主郭の南東には、堀切状の通路を挟んで三ノ郭が、その東には四ノ郭が築かれているが、いずれも草が覆い茂っていて遠目に見ただけである。縄張り的には少々面白みに欠け、また比高の数字ほどの高さを感じさせない、川沿いの比較的低い山に築かれた城である。
主郭から見た二ノ郭→DSCN0167.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.891292/141.267743/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/10/25
  • メディア: 単行本


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富沢城(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN0110.JPG←富沢城の遠望
 富沢城は、古館とも言い、岩淵民部の居城とも、或いは奥州千葉氏の一流富沢彦次郎の居城とも言われるが、詳細は不明。葛西大崎一揆の伝承では、流郷富沢城主千葉彦九郎久胤が栗原郡高清水森原山に参陣したと伝わる。いずれにしても、奥州仕置で改易となった葛西氏の家臣団については、事績が混乱しているものが多く、富沢城主もその例に漏れない。

 富沢城は、標高40mのU字型をした尾根に囲まれた低丘陵に築かれている。おそらく、尾根に囲まれた真ん中の谷戸が主郭で、その背後を防衛する丘陵であったものと考えられる。しかし、主郭と考えられる谷戸も含めて、ほとんどの部分が民家となっていて、内部の探索ができない。わずかに西側の尾根だけ探索できたが、明確な遺構は確認できなかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.884661/141.251457/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


描かれた中世城郭: 城絵図・屏風・絵巻物

描かれた中世城郭: 城絵図・屏風・絵巻物

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2023/12/04
  • メディア: 単行本



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青葉山城(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN1014.JPG←腰曲輪外周の横掘
 青葉山城は、東永井館・東館とも言い、永井讃岐の居城と伝えられる。それに先立つ応永年間(1394~1428年)には菅原道長・春道の居城で、後に西館(西永井楯)に移ったとの説、また平安末期には奥州藤原氏3代秀衡の家臣照井太郎の一族照井次郎の居城であったとの説もある。

 青葉山城は、標高80mの丘陵上に築かれている。西麓の車道脇に城址標柱があり、そこから谷地形の畑の脇を抜けていくと、山中の小道があったので、これを辿って南東へと登っていくと、小道は堀状になって城の南の尾根に至る。道はここから更に南に伸びているが、それでは城から離れてしまうので、尾根上で道をそれて北に向かうと、切岸が現れる。ここからが城域である。青葉山城は、山頂に主郭を置き、その北西に二ノ郭が突き出ている。主郭内には祠が2基ある土壇がある。西に虎口があって、二ノ郭に繋がっているが、単純な坂虎口である。二ノ郭は主郭・二ノ郭の西から南にかけて腰曲輪が築かれている。二ノ郭はこの腰曲輪に対して横矢を掛けるように張り出している。腰曲輪も同様に塁線が外に張り出している。この腰曲輪の外周には幅広の横掘が穿たれており、前述の塁線の張り出しは、この横掘への横矢掛りとなっている。横堀の外周には土塁が築かれ、その外周にも腰曲輪がもう1段築かれている。横掘の東端部には、下方の腰曲輪からの虎口が形成されている。地形が崩れていて明確にはわからないが、枡形虎口を形成していたようにも見える。以上が青葉山城の遺構で、高倉城よりもしっかりした遺構であり、また城内もある程度間伐や薮払いがされているので、遺構が見やすい。
祠のある主郭の土壇→DSCN1081.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.786848/141.244762/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


続・東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

続・東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2021/10/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平山城
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高倉城(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9981.JPG←主郭群東の横掘
 高倉城は、西永井館とも言い、葛西晴信の家臣加瀬谷三河の居城と伝えられる。加瀬谷氏の事績は不明である。

 高倉城は、高倉山丘陵の東に張り出した標高100m弱の小山に築かれている。登り口はわかりにくいが、南東麓の民有地の小屋の脇に奥へ登っていく道があり、それを辿ると北西の斜面を登る獣道に至り、それを登ると三ノ郭腰曲輪の虎口に到達する。城は、最高所に主郭を置き、南に二ノ郭・三ノ郭を配置している。主郭は外周に2~3段の腰曲輪を廻らし、上段の腰曲輪と二ノ郭との間に堀切を穿ち、中央に土橋を架けている。この虎口の両側には土塁を築いて防御している。主郭の2段目の腰曲輪は、二ノ郭との間の堀切に繋がっている。二ノ郭と三ノ郭との間も堀切で区画されている。二ノ郭の両側には腰曲輪があるが、東のものはそのまま三ノ郭東まで繋がっている。この腰曲輪に虎口があり、最初に書いた獣道はここに繋がっている。また主郭群の東側には横堀が穿たれているが、横掘になっているのは一部だけで、他は腰曲輪状を呈している。この他にも『岩手県中世城館跡分布調査報告書』の縄張図では、更に北東に曲輪・横掘や、西の尾根鞍部に堀切などの遺構があるようだが、城内は薮と倒竹地獄で踏査が困難である上、遺構も見劣りするものだったので、戦意喪失して未確認のまま撤退した。
主郭腰曲輪に架かる土橋→DSCN9944.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.758476/141.232274/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世の豊島・葛西・江戸氏 (中世史研究叢書 33)

中世の豊島・葛西・江戸氏 (中世史研究叢書 33)

  • 作者: 今野 慶信
  • 出版社/メーカー: 岩田書院
  • 発売日: 2021/07/01
  • メディア: 単行本


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角城楯(岩手県遠野市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN6693.JPG←三重堀切
 角城楯(角城館)は、沢村氏の城と伝えられる。沢村氏について詳しいことはわからないが、大槌孫三郎の兄との伝承があるらしい。一説には建保年間(1213~19年)の築城とされるが、現在残る遺構は明らかに戦国期のものであり、遠野阿曽沼氏支配時代の遺構と推測される。

 角城楯は、小烏瀬川西岸の比高100m程の山上に築かれている。Y字型をした尾根に曲輪が展開しており、山頂が主郭、南尾根が二ノ郭、南東尾根が三ノ郭である。南麓から小道があり、それを登っていくと二ノ郭前面の段曲輪群に至る。段曲輪群を登っていくと、細尾根先端の二ノ郭に至る。二ノ郭は物見台的な小郭で、両側方にも帯曲輪を築いている。後ろの尾根を伝っていくと、再び腰曲輪群が現れ、その上に主郭がそびえている。主郭は外周に1~2段の腰曲輪が取り巻き、背後の尾根にはなんと三重堀切が穿たれている。2つ目の堀切の後ろには小郭がある。この三重堀切から落ちた竪堀は、東西両翼で二重横堀に変化して主郭下方の斜面を走っている。この内、東のものは二重横堀が両方とも直角に曲がって竪堀になって落ちている。この上には三ノ郭があるが、三ノ郭は段曲輪群で構成された郭群である。この他、三重堀切の先の尾根にも堀切っぽい地形があるが、山道を切り開いたような跡があり、形状もやや不明瞭で遺構とは判断し難い。いずれにしても、遠野地域の山城の例に漏れず、多重堀切とそこから派生する多重横堀で防御を固めた、見事な遺構である。
腰曲輪と主郭→DSCN6652.JPG
DSCN6602.JPG←東の二重横堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.371804/141.593599/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


パーツから考える戦国期城郭論

パーツから考える戦国期城郭論

  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2021/02/26
  • メディア: Kindle版


タグ:中世山城
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火渡楯(岩手県遠野市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN6463.JPG←東尾根の三重堀切
 火渡楯(火渡館)は、横田城(鍋倉城)主阿曽沼氏の一族火渡中務の居城である。中務の子広家(後に玄浄と称す)は、1600年に阿曽沼広長が最上出陣の留守中に鱒沢広勝らが反逆した際、それに与せず抵抗した。その為鱒沢氏らの攻撃を受け、火渡楯で数日の攻防戦の末討死したと言う。尚、広家の遺児倉之助は寺に匿われて生き延び、後年南部氏に忠臣の遺児として召し出され、土淵の山口村に50石を与えられた。

 火渡楯は、荒川西岸の比高60m程の丘陵上に築かれている。主郭には神社が建っており、その参道が南尾根に整備されているので、それを登って城に行くことができる。城域は思ったよりも広く、山頂から北西に伸びる尾根先端までの全域に遺構が残っている。中間部に堀切があり、それより上が主郭群、下が二ノ郭群である。いずれの郭群も段差で区切られた多数の段曲輪群・腰曲輪群で構成されている。主郭群は北西に向かって伸びた縦長三角形の郭群で、最上段には前述の通り神社が建っている。しかし最上段の主郭は大した広さはなく、詰城的な曲輪である。二ノ郭は横長の広い曲輪で、前面に腰曲輪群を何段も築き、北西に伸びる尾根に段曲輪群を築いている。この段曲輪はほとんど丘陵の麓近くまで築かれている。この城で出色なのは、主郭群・二ノ郭群の北側に穿たれた長大な横堀で、二ノ郭群の北では1本だが、主郭群の北東では二重横堀となり、東尾根に近づくに連れて堀が大きくなっている。この二重横堀は主郭側方の東尾根を穿つ堀切となり、二重横堀のまま主郭背後の南東斜面に回り込んでいる。この二重横堀から神社参道脇に竪堀が落ちている。また参道の主郭手前にも堀切が1本穿たれている。前述の主郭東尾根では、二重横堀の外側にもう1本堀切が穿たれ、合計で三重の堀切となっている。この内、一番外側の3本目の堀切はまっすぐ尾根を掘り切っているが、横に横堀が派生して、堀のネットワークを形成している。この他、主郭群・二ノ郭群の間の堀切から落ちる竪堀は、北斜面の横堀に繋がっている。以上が火渡楯の遺構で、南東の平地側よりも斜面の傾斜が緩い北側の谷に面した部分を、横堀群で重点的に防御した城である。
主郭群を構成する曲輪群→DSCN6356.JPG
DSCN6370.JPG←主郭群・二ノ郭群を画する堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.406364/141.537992/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 日本の城

ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 日本の城

  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2022/03/10
  • メディア: 大型本


タグ:中世平山城
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松崎東楯(岩手県遠野市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN6292.JPG←二重横堀の一つ
 松崎東楯は、松崎楯(松崎館)の出城と考えられる。岩手県の文化財地図には松崎東楯の呼称はなく、「松崎館」として一括りにされているみたいだが、独立性の高い出城であるため、ここでは松崎東楯という仮称で取り扱う。

 松崎東楯は、松崎楯から谷を挟んだすぐ東の峰に築かれている。松崎楯との間の谷戸にある木戸口と推測される段の脇から、かすかな登道があり、これを登っていくとやがて帯曲輪群に至る。本城の松崎楯と比べると素朴な縄張りで、山頂に3段の曲輪が連なり、その周囲に多数の帯曲輪群を取り巻いた構造となっている。最上部の主郭の後部には土塁が築かれ、その背後に二重堀切が穿たれている。内堀は深く鋭さがあるが、外堀は浅いものである。この二重堀切から、北東斜面に向かって二重横堀が伸びている。また横堀の付け根からは竪堀が1本落ちている。二重横堀は、南東に下り勾配となりながら延々と伸びている。以上が松崎東楯の遺構で、いかにも松崎楯の東方を防衛する出城と言う印象の城である。
主郭→DSCN6256.JPG
DSCN6306.JPG←二重堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.367939/141.553012/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


地図でめぐる日本の城

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  • 出版社/メーカー: 帝国書院
  • 発売日: 2023/07/08
  • メディア: 大型本


タグ:中世山城
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松崎楯(岩手県遠野市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN6085.JPG←五重堀切の一部
 松崎楯(松崎館)は、横田城(鍋倉城)主阿曽沼氏最後の当主広長の家臣松崎監物が城主であったと伝えられる。

 松崎楯は、猿ヶ石川と小烏瀬川の合流点西側の比高80m程の山上に築かれている。すぐ東の峰には、出城として松崎東楯(仮称)が築かれている。松崎楯に登るには、南東を通る市道脇から松崎楯と松崎東楯との間にある谷に入り、それを登っていくと左手に大きな谷地形が見えてくるが、これが実は松崎楯の多重堀切から落ちてくる大竪堀で、しかも登城道を兼ねているので、これを登っていけば良い。また松崎楯と松崎東楯との間の谷には、木戸口らしい段も見られ、これが往時の大手道であった可能性がある。前述の大竪堀を登ると、竪堀は2つに分岐し、右手のものはそのまま登っているが、左手のものは屈曲しながら腰曲輪群の横を登っており、腰曲輪群に通じる登城路であったと推測される。山頂には主郭があり、きれいに削平されている。前述の腰曲輪群は、主郭の東側に何段も築かれている。一方、主郭の南西には段曲輪群が数段築かれている。段曲輪群の西下方には横堀が穿たれている。この横堀は、段曲輪・主郭の西斜面を走って、背後の多重堀切に繋がっている。主郭は後部に土塁が築かれ、その背後の尾根には中規模の五重堀切を穿っている。陸奥国域では初めて見る五重堀切で、しかも見応えのある規模である。3本目の堀切外の土塁は上端が丸い平場となっている。五重堀切だけでもすごいのだが、松崎楯では更にここから落ちる竪堀が、複雑な堀のネットワークを形成している。内側4本の堀切は、西斜面で合流しながら屈曲して三重横堀に変化、外側の堀から分岐して竪堀が落ち、また外側2本の横堀は少し先で合流して竪堀となって落ちている。一番内側の横堀は、もう少し先まで伸びた所で竪堀となって落ちるが、その側方から横堀が派生して、前述の段曲輪西の横堀へ繋がっている。5本目の堀切だけは、西斜面にまっすぐ落ちている。一方、東斜面では、まず真ん中3本の堀切から落ちる竪堀が合流して1本の竪堀となり、そこに更に5本目の堀切から落ちる竪堀が合流、更にその下で1本目の堀切から落ちる竪堀(前述の腰曲輪群に繋がる登城路)が合流して、最終的に1本の大竪堀となって東の谷に落ちている。以上が松崎楯の遺構である。尚、主郭に到達した瞬間、立派な角を持った大きな雄鹿がダッシュで逃げていった。非常に見応えのある遺構と、大きな鹿とで、とても印象深い城である。
 また遠野阿曽沼氏の領域ではこの城に限らず、周辺地域では見られない多重堀切・多重横堀の防御構造が突然変異的に現れる。この築城技術がどこから来たのか、大いに考えさせられる。
南西の段曲輪群→DSCN6131.JPG
DSCN6095.JPG←竪堀群が横堀群に変化

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.366894/141.551424/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


「城取り」の軍事学

「城取り」の軍事学

  • 作者: 西股総生
  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2013/08/29
  • メディア: Kindle版


タグ:中世山城
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横田城(岩手県遠野市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN5978.JPG←北側の堀切と独立堡塁
 横田城は、遠野阿曽沼氏の歴代の居城である。阿曽沼氏は、下野有数の豪族藤姓足利氏の庶流で、源頼朝の奥州合戦の軍功により閉伊郡遠野保を与えられた。その事績は鍋倉城の項に記載する。築城年代は、1189年に阿曽沼広綱が築いたとする説、建保年間(1213~19年)に広綱の子親綱が築いて居城としたとする説等があり明確にできないが、いずれにしても中世の遠野郷を支配した阿曽沼氏の長い間の本拠地であった。天正年間(1573~92年)に第13代阿曽沼広郷は、鍋倉山に新城(後の鍋倉城)を築いて居城を移した。

 横田城は、高清水山の南東の裾野にある傾斜した段丘上に築かれている。南北に深い沢が入り込んだ、扇状をした台地となっている。市の史跡に指定されており、南麓から登城道が整備されている。この登城道は、堀切のような切通しの道となっているが、左右に櫓台がそびえており、往時の大手であったと推測される。この上には前面の腰曲輪群が数段築かれ、その奥は広大な緩傾斜地となっており、全体が広大な主郭となっていた様である。内部にはいくつかの段差が見られるが、区画ははっきりしない。主郭の南は沢に面した急崖だが、北側は空堀・堀切が穿たれ、独立堡塁が数個築かれている。主郭の背後には、天然の沢を加工した大堀切が穿たれ、そこにV字に2本の土橋が架かっている。しかし土橋については造作がはっきりしない部分もあり、自然地形に多少手を加えた程度のものだった可能性がある。主郭の中程には薬師堂が建っているが、この付近だけ小さな段々地形があり、何らかの曲輪遺構であった可能性がある。この他、城の東下方の墓地や畑も、腰曲輪群であった可能性がある。以上が横田城の遺構で、天然の要害地形をそのまま利用した感じで、縄張りに技巧性はあまり見られない。
登城道左手の櫓台→DSCN5943.JPG
DSCN6003.JPG←主郭背後の土橋・堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.352377/141.520772/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


城館調査の手引き

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  • 作者: 中井 均
  • 出版社/メーカー: 山川出版社
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タグ:中世平山城
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二桜城西砦〔仮称〕(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN5281.JPG←竪堀
 二桜城西砦は、地形図でたまたま見つけた城館候補遺構である。城館候補遺構とは、「断定はできないが、城館の可能性を残しているもの」のことで、北陸地域の中世城郭を調査している佐伯哲也氏が提唱している呼称である。ここでは佐伯氏の提唱に倣うことにする。

 二桜城西砦があるのは、二桜城の南西に突き出た支尾根の南斜面で、現在は一面にソーラーパネルが設置されている。傾斜量図を見ると、ここに堀っぽいもので囲まれた台形をした地形が確認できる。このすぐ西の尾根上には市の有形文化財「貞治3年金剛界大日種子石塔婆」があり、これは二桜城主清水氏が建てた供養碑である。元々この石塔婆の場所を地図上で探していて、この西砦を見つけたのである。この石塔婆には一応覆屋があるが、倒れかけている。また岩手県の文化財地図では「葛西塚」と記載されている。この石塔婆の存在からもわかるように、この尾根は古来より二桜城と密接に関連する場所であり、西砦は寺院等の結界か隠居城であったかもしれない。しかし斜面にあるので、まとまった広さの平場はない。ソーラーパネルでよく見えないが、堀で囲まれた中に段々に曲輪群が造成されていたものと推測される。東西には竪堀が明瞭に残り、曲輪群の最上段は土塁となっていて、背後を切岸で落としている。埋もれてわかりにくいが、切岸下には空堀もあったように見受けられる。ここでは城館遺構の可能性を指摘するだけにとどめたい。
 尚、石塔婆へはソーラーパネルの東の山林の斜面を登って行った。尾根上には道があったので、どこかから山道が通じているらしいが未確認である。
土塁背後の切岸→DSCN5285.JPG
DSCN5275.JPG←尾根上にある石塔婆

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.847019/141.155927/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


城館調査の手引き

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  • 作者: 中井 均
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西永井楯(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN5874.JPG←主郭後部の横堀
 西永井楯(西永井館)は、内ノ目城・西館とも言い、戦国後期に永井氏の城であったと伝えられる。元々は、1457年に菅原春道が青葉山城から西永井楯に移居し、道慶に至るまでの居城となった。その後、1555~90年まで永井半左衛門の居城となったと言う。

 西永井楯は、比高50m程の丘陵上に築かれている。南麓には民家が立ち並んでいるので、民家のない東斜面を直登して訪城した。山頂に堀切で区画された主郭・二ノ郭を東西に並べ、その周囲に腰曲輪を築いている。主郭・二ノ郭ともに北面は急崖に面しており、北側だけ腰曲輪は築かれていない。主郭は後部が円弧状の塁線を描いており、その外側に横堀を穿っている。これら主郭前後の空堀は、北斜面に竪堀となって落ちており、主郭は空堀に沿って土塁を築いている。主郭はきれいに削平され、社が建てられている。二ノ郭と腰曲輪は、郭内が大きく傾斜している。二ノ郭・腰曲輪は、以前はどうも果樹園であったらしい。以上が西永井楯の遺構で、簡素な構造の比較的小さな館城である。
主郭~二ノ郭間の堀切→DSCN5910.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.799475/141.225407/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


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タグ:中世平山城
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男沢城(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN5811.JPG←東郭外周の横堀・土塁
 男沢城は、鷹鳥城とも言い、葛西氏の家臣及川一族の城である。1590年の葛西大崎一揆では、男沢城主及川主計正頼通が栗原郡高清水の森原山に陣取った薄衣城主千葉甲斐守胤勝を大将とする葛西勢に加わったと伝えられる。

 男沢城は、標高66m、比高46mの館平という丘陵上に築かれている。西麓の豊龍神社脇の道から登城道があり、標柱も立っている。その先を登っていくと平坦な平場が広がっていて、これが二ノ郭に当たる。二ノ郭の中央には段差だけで区画された主郭が置かれ、環郭式の縄張りとなっている。二ノ郭の外側にも腰曲輪が築かれている。二ノ郭は、全体として方形に近い形状のようだが、東側中央部が外側に突出している。更にこの東側には急崖に面して東郭(出丸)がある。東郭は、規模は小さいが東に突出した物見台的な曲輪と考えられる。楕円形をした曲輪で、北から東側にかけての外周に円弧状の横堀・土塁が築かれている。以上が男沢城の遺構で、主郭・二ノ郭は耕作放棄地となっているので、一部を除き薮が多く、踏査不能の劇藪もある。いずれにしても比較的簡素な構造の館城だったと思われる。
腰曲輪と二ノ郭切岸→DSCN5794.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.814240/141.217339/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


完全保存版 日本の城1055 都道府県別 城データ&地図完全網羅!

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小野下館(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN5757.JPG←館の全景
 小野下館は、歴史不詳の城である。但し、岩手県の遺跡地図では単に「中世」という漠然とした表記ではなく「室町~江戸」時代と具体的な時代が明示されているので、何らかの伝承はあるらしい。1573年3月2日の『葛西晴信知行状』に出てくる「流日形村小野館」が、小野下館のことであろうか?この城の歴史についてご存じの方がいたら、ご教示を乞う。

 小野下館は、小野堤の北に隣接する独立丘陵に築かれている。小さな丘で、いかにも城館の適地らしく見える。主郭には民家が建っているため、郭内の踏査はできていない。しかし、北には一段低く腰曲輪がある。スーパー地形などで見ると、背後の小野館山との間の鞍部には天然の堀切があるようだが、これも近づく術がなく確認できていない。いずれにしても、丘の頂部を平らに整形しただけの館城だったと思われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.829904/141.246908/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


城館調査の手引き

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タグ:中世平山城
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葉山楯(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN5740.JPG←外周の横堀
 葉山楯(葉山館)は、波山館とも記載され、小野寺肥後守の居城であったと伝えられる。楯主の小野寺氏は、1475年にこの城に入り、以後約80年間居住したと言う。小野寺肥後は、天正年間(1573~92年)の岩ヶ崎城主富沢日向守直綱の騒動や米ヶ崎城主浜田安房守広綱が反逆した浜田兵乱の際に、葛西勢として参陣している。

 葉山楯は、標高83mの独立丘陵に築かれている。明確な登道はなく、北麓の牛舎の脇から斜面を直登した。山頂の主郭と、それを取り巻く横堀から成る簡素な構造の城である。横堀は全周しておらず、北から西面にかけて、主郭の約半分を囲んでいるだけである。郭内は傾斜した地山となっており、郭内の平場の段差は不明瞭で、南東側だけ段差が比較的明瞭となっている。横堀の西側中央部に土橋があったらしいが、横堀以外の遺構があまりに見劣りする感じで、途中で戦意喪失してしまい、見逃した。遺構の感じからすると、恒久的な城館と言うより、一時的な陣城とだったのではないだろうか?

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.831927/141.240031/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


戦国の軍隊 現代軍事学から見た戦国大名の軍勢

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  • 作者: 西股総生
  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2015/01/28
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峠城(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN5435.JPG←本丸館~北館間の大堀切
 峠城は、苅明楯(苅明館)とも言い、葛西氏の家臣寺崎氏の居城である。寺崎氏は、戦国末期には流郷24郷の旗頭として勢威を振るった。元々峠城主は峠千葉氏で、峠千葉氏は金沢城主金沢清胤の3男胤資に始まると言われる。その子胤時は、嫡男胤永が早逝したため、5男胤継を後継とした。尚、4男定時は下油田蒲沢楯主として独立している。胤継以後、峠千葉氏は寺崎氏を称したとされる。胤継の嫡孫寺崎下野守時胤は、1507年9月に金沢城主金沢冬胤と争いを起こし、千葉一族の抗争に発展した。この抗争で時胤は討死した。また胤永の嫡孫で宗家に当たる日形城主千葉秀胤も討死したため峠千葉氏は衰微し、桃生郡寺崎城より葛西氏支族の寺崎氏(寺崎倫重?)が峠城に移った。1579年、岩ヶ崎城主富沢日向守直綱は大崎氏の支援を受けて、峠城主寺崎石見守良次(良継)を攻撃したが、良次は葛西諸勢力の支援を受け富沢勢を撃退し、更に追撃して岩ヶ崎城まで追い詰め、富沢氏を降参させた。1582年、良次は九戸城主九戸政実に攻略された河崎城(金ヶ崎城?)を攻撃する葛西勢4000騎の総大将となったが、敗退して討死した。良次の養嗣子正次は、1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で没落し、翌91年に桃生郡糠塚山に至る途中で伊達政宗の謀略によって討死したと言う。
 以上が峠城主の歴史の概観であるが、葛西氏家臣団の例に漏れず、峠千葉氏・寺崎氏の事績についても文献によって異同があり、何が正しいのかよくわからない部分もある。

 峠城は、標高120m、比高60m程の丘陵上に築かれている。W字型をした山稜上に曲輪が連なっており、北から順に北館、本丸館、東館、南館の各曲輪が配置されている。伝承では本丸館に寺崎石見守、北館に千葉伊豆、東館に岩渕美作、南館に千葉大隅と、寺崎氏とその家臣団が居住していたとされる。城の北西にある林道から南東に谷戸を登る小道があり、それを登っていくと本丸館(主郭)と北館を画する大堀切に至る。北館はしゃもじのような形をした曲輪で、そこから北西に細長い曲輪が伸び、先端には平野神社が建っている。その背後には土塁があり、その裏に二重堀切が穿たれ、城域の北限を画している。『岩手県中世城館跡分布調査報告書』では、二重堀切の北にも平場が見られると言うが、薮でよくわからない。本丸館(主郭)は、登山靴のような形をした曲輪で、断崖に臨む東以外に腰曲輪を廻らしている。主郭北の腰曲輪には二重竪堀が穿たれ、その下方の尾根には堀切がある。主郭の西側にも何段もの腰曲輪群が築かれている。主郭南西の腰曲輪には竪堀状虎口があり、屈曲して横堀状通路になって、下の腰曲輪に繋がっている。本丸館の南東には東館がある。東館はやや細長い曲輪で、西側に腰曲輪を伴っている。南端は三重堀切で分断している。ここに土橋が架かり、南館に繋がっている。南館は単純な平場で、南端に小堀切が穿たれている。以上が峠城の遺構で、さすがはこの地域の旗頭の城であり、この地域では屈指の大城郭である。

 尚、西を通る車道の西側山上には西館があるが、未踏査である。
三重堀切の一部→DSCN5658.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.835654/141.221545/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/10/25
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高森城(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN5353.JPG←鞍部から落ちる二重竪堀
 高森城は、奈良坂城とも言い、葛西氏の家臣奈良坂氏の居城である。奈良坂氏には平姓と藤原姓の2流があったとされる。平姓奈良坂氏は、葛西小八郎延平を祖とし、建武年間(1334~38年)に奈良坂郷に住して奈良坂氏を称したと伝えられる。即ち葛西氏一族である。一方、藤姓奈良坂氏は、登米郡弥勒寺城主佐藤信行の次子信貞が流郷中村城より奈良坂家重の養子となったことに始まると言われる(但し弥勒寺城にはその様な伝承はない)。信貞は、奈良坂小山城をしばらく居城としたが、1466年に高森城に移り、家重は清水城に転じたと言う。この頃、平姓奈良坂氏当主は5代重光で、重光は継嗣がなく、黒沢氏から重朝を養子とした。8代重弘は、1564年に馬籠重胤が主家葛西氏に逆らって討伐を受けた馬籠合戦の際に討死した。次の重時の代に豊臣秀吉の奥州仕置を迎え、平姓奈良坂氏は没落したと言う。また藤姓奈良坂氏も奥州仕置で没落したと言われ、両系が戦国末期まで存続していたようで、どちらが高森城主だったのか、正確なところは不明である。いずれにしても、高森城は大崎領に接する葛西領の最前線にあり、境目の城として機能していたと推測されている。

 高森城は、養寿寺背後の丘陵上に築かれている。南に張り出した小丘に主郭を置き、鞍部を挟んで北の斜面に二ノ郭を配置している。養寿寺の墓地裏を登れば、もうそこは主郭群である。主郭は、西側先端にL字型の土塁を築き、その脇に虎口を開いている。虎口を出た西側には西1郭がある。西1郭は北辺に土塁を築いている。西1郭の先には切岸の下に西2郭がある。主郭・西1郭・西2郭の南斜面には腰曲輪群が数段築かれており、養寿寺墓地も腰曲輪であった可能性があるが、全てが遺構かどうかは定かでなく、一部は畑跡かもしれない。主郭群の北の鞍部は堀切となり、その北の二ノ郭は外周三方(西・北・東)をコの字型に横堀で囲んでいる。この二ノ郭周囲の横堀の西辺部は、南端で直角に折れて竪堀となって西へ降っている。この竪堀は前述の暗部の堀切から落ちる竪堀と並走しており、二重竪堀となって降っている。二ノ郭は、斜面上に築かれているため、郭内は大きく傾斜しており、建物などはなかったのではないかと考えられる。二ノ郭の上端には土塁的な段があり、その背後を前述の通り横堀が防御している。また、二ノ郭の真ん中下方が窪んでおり、城門など何らかの構造があったようである。この他、コの字横堀の北西の折れ部では、外側土塁の西斜面に竪堀が落ちている。以上が高森城の遺構で、境目を防衛する城にしては規模・構造ともに大したものではなく、防御が固い城であったとも思えない。どちらかといえば、物見や狼煙台的な運用をされた城だったようにも思える。
二ノ郭北西の横堀角部→DSCN5396.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.844262/141.133697/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


パーツから考える戦国期城郭論

パーツから考える戦国期城郭論

  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2021/02/26
  • メディア: Kindle版


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金森城(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN5224.JPG←主郭の現況
 金森城は、高山館とも言い、葛西氏の家臣金森氏の居城である。元々は、清水城(二桜城)主だった清水重兼が、1520年に子に城を譲って金森城に隠退したと伝えられる。その後、天正年間(1573~92年)には金森内膳貞利が城主であったが、1590年の葛西大崎一揆に加担し、桃生郡糠塚で伊達政宗の謀略によって討死したと言う。

 金森城は、二桜城の南南東1kmの段丘先端部に築かれている。主郭は現在水田となっている。しかし水田の後ろ(南)にある薮の部分も郭内である。主郭南端の東半分には幅広の土塁が築かれ、その裏には空堀が一直線に穿たれている。この空堀は、東に掘りきったところで東下方に穿たれた空堀と交差し、全体としてT字形をした空堀となっている。東下方の空堀は南の二ノ郭側方まで伸びているが、その先は薮のため未踏査である。遠目に見た感じと、スーパー地形の地形図から推測すると、改変によりあまり遺構の存在に期待できない可能性が大きい。この他、主郭の北から東にかけて、腰曲輪が円弧状に廻らされているが、ここも薮が酷くて一部しか踏査できていない。以上が金森城の遺構で、簡素な構造の館城だったと思われる。尚、東麓にある金蔵寺には金森貞利の供養碑が残っている。
主郭背後の空堀→DSCN5236.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.840017/141.162021/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

  • 作者: 松岡 進
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
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