宮前館(埼玉県川越市) [古城めぐり(埼玉)]
←北辺の空堀
宮前館は、下広谷方形囲郭群の一つで、『日本城郭大系』では「某館(2)」、書籍によっては「字宮前の遺構」などとも呼ばれる。歴史不詳の城館であるが、近年の研究では下広谷の囲郭群は、山内・扇谷両上杉氏が争った長享の乱の中で、1497年、扇谷上杉朝良の本拠河越城を攻撃するために山内上杉顕定が本陣を置いた上戸陣(旧河越氏館)に関連して、陣所または兵站拠点として構築されたものと考えられている。その後、戦国期に小田原北条氏の前進拠点となった河越城を、関東管領上杉憲政・扇谷上杉朝定・古河公方足利晴氏の連合軍が長期攻囲した河越城の戦いでも、これらの囲郭群は再利用されたと思われる。
宮前館は、下広谷方形囲郭群の中心的城郭・大堀山城の東に隣接するように築かれている。下広谷方形囲郭群の中では大堀山城に次ぐ規模の空堀・土塁が残っている。北辺から西辺にかけてL字型をした土塁・空堀がある。その内側に当たる南東の山林内にも、かなり浅いが空堀が見られる。この堀は、鉤型が東西に2つ連結したような形をしている。『日本城郭大系』の縄張図とは遺構配置が合わないが、どうも二重の環郭式平城であったような形態である。しかし東側は開墾されてしまっていて、そこから先の堀は消失してしまっているので、遺構の全貌はわからない。また南は民家裏の屋敷林なので、改変されている可能性がある。全体の縄張りがわかるように遺構が残っていればと惜しまれる。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.957401/139.436674/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
宮前館は、下広谷方形囲郭群の一つで、『日本城郭大系』では「某館(2)」、書籍によっては「字宮前の遺構」などとも呼ばれる。歴史不詳の城館であるが、近年の研究では下広谷の囲郭群は、山内・扇谷両上杉氏が争った長享の乱の中で、1497年、扇谷上杉朝良の本拠河越城を攻撃するために山内上杉顕定が本陣を置いた上戸陣(旧河越氏館)に関連して、陣所または兵站拠点として構築されたものと考えられている。その後、戦国期に小田原北条氏の前進拠点となった河越城を、関東管領上杉憲政・扇谷上杉朝定・古河公方足利晴氏の連合軍が長期攻囲した河越城の戦いでも、これらの囲郭群は再利用されたと思われる。
宮前館は、下広谷方形囲郭群の中心的城郭・大堀山城の東に隣接するように築かれている。下広谷方形囲郭群の中では大堀山城に次ぐ規模の空堀・土塁が残っている。北辺から西辺にかけてL字型をした土塁・空堀がある。その内側に当たる南東の山林内にも、かなり浅いが空堀が見られる。この堀は、鉤型が東西に2つ連結したような形をしている。『日本城郭大系』の縄張図とは遺構配置が合わないが、どうも二重の環郭式平城であったような形態である。しかし東側は開墾されてしまっていて、そこから先の堀は消失してしまっているので、遺構の全貌はわからない。また南は民家裏の屋敷林なので、改変されている可能性がある。全体の縄張りがわかるように遺構が残っていればと惜しまれる。
西辺の土塁→
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.957401/139.436674/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:陣城
在家館(埼玉県川越市) [古城めぐり(埼玉)]
←諏訪神社北側の堀状地形
在家館は、下広谷方形囲郭群の一つと推測されている。字在家には、堀や土塁らしき地形があることから、城館があったとの説がある。もし実際に下広谷方形囲郭群の一つであれば、近年の研究ではこれらの下広谷の囲郭群は、山内・扇谷両上杉氏が争った長享の乱の中で、1497年、扇谷上杉朝良の本拠河越城を攻撃するために山内上杉顕定が本陣を置いた上戸陣(旧河越氏館)に関連して、陣所または兵站拠点として構築されたものと考えられている。その後、戦国期に小田原北条氏の前進拠点となった河越城を、関東管領上杉憲政・扇谷上杉朝定・古河公方足利晴氏の連合軍が長期攻囲した河越城の戦いでも、これらの囲郭群は再利用されたと思われる。
在家館は、諏訪神社の北の山林にあるとされる。山林内にはわずかな起伏があり、土塁や堀跡とも考えられるが、現状からでは城館遺構とは断定できない。北の小道沿いにも土塁があり、一段低くなった小道は空堀跡とも考えられるが、あくまで推測の域を出ない。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.955768/139.430451/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
在家館は、下広谷方形囲郭群の一つと推測されている。字在家には、堀や土塁らしき地形があることから、城館があったとの説がある。もし実際に下広谷方形囲郭群の一つであれば、近年の研究ではこれらの下広谷の囲郭群は、山内・扇谷両上杉氏が争った長享の乱の中で、1497年、扇谷上杉朝良の本拠河越城を攻撃するために山内上杉顕定が本陣を置いた上戸陣(旧河越氏館)に関連して、陣所または兵站拠点として構築されたものと考えられている。その後、戦国期に小田原北条氏の前進拠点となった河越城を、関東管領上杉憲政・扇谷上杉朝定・古河公方足利晴氏の連合軍が長期攻囲した河越城の戦いでも、これらの囲郭群は再利用されたと思われる。
在家館は、諏訪神社の北の山林にあるとされる。山林内にはわずかな起伏があり、土塁や堀跡とも考えられるが、現状からでは城館遺構とは断定できない。北の小道沿いにも土塁があり、一段低くなった小道は空堀跡とも考えられるが、あくまで推測の域を出ない。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.955768/139.430451/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
往還上館(埼玉県川越市) [古城めぐり(埼玉)]
←堀状の溝
往還上館は、下広谷方形囲郭群の一つである。歴史不詳の城館であるが、近年の研究ではこれらの下広谷の囲郭群は、山内・扇谷両上杉氏が争った長享の乱の中で、1497年、扇谷上杉朝良の本拠河越城を攻撃するために山内上杉顕定が本陣を置いた上戸陣(旧河越氏館)に関連して、陣所または兵站拠点として構築されたものと考えられている。その後、戦国期に小田原北条氏の前進拠点となった河越城を、関東管領上杉憲政・扇谷上杉朝定・古河公方足利晴氏の連合軍が長期攻囲した河越城の戦いでも、これらの囲郭群は再利用されたと思われる。
往還上館は、下広谷方形囲郭群の中心的城郭・大堀山城の南方に位置している。民家裏に当たる北西側の山林内に、北側の道路から1本の堀状溝があるのが確認できる。道路沿いにフェンスが設置されていて入れないので、どのような遺構配置になっているのかはわからない。遺構が残っているとしても、遠目に見た限りでは断片的なもののようである。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.953944/139.433198/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
往還上館は、下広谷方形囲郭群の一つである。歴史不詳の城館であるが、近年の研究ではこれらの下広谷の囲郭群は、山内・扇谷両上杉氏が争った長享の乱の中で、1497年、扇谷上杉朝良の本拠河越城を攻撃するために山内上杉顕定が本陣を置いた上戸陣(旧河越氏館)に関連して、陣所または兵站拠点として構築されたものと考えられている。その後、戦国期に小田原北条氏の前進拠点となった河越城を、関東管領上杉憲政・扇谷上杉朝定・古河公方足利晴氏の連合軍が長期攻囲した河越城の戦いでも、これらの囲郭群は再利用されたと思われる。
往還上館は、下広谷方形囲郭群の中心的城郭・大堀山城の南方に位置している。民家裏に当たる北西側の山林内に、北側の道路から1本の堀状溝があるのが確認できる。道路沿いにフェンスが設置されていて入れないので、どのような遺構配置になっているのかはわからない。遺構が残っているとしても、遠目に見た限りでは断片的なもののようである。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.953944/139.433198/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:陣城
広谷南城(埼玉県川越市) [古城めぐり(埼玉)]
←空堀と土塁
広谷南城は、下広谷方形囲郭群の一つである。歴史不詳の城館であるが、近年の研究ではこれらの下広谷の囲郭群は、山内・扇谷両上杉氏が争った長享の乱の中で、1497年、扇谷上杉朝良の本拠河越城を攻撃するために山内上杉顕定が本陣を置いた上戸陣(旧河越氏館)に関連して、陣所または兵站拠点として構築されたものと考えられている。その後、戦国期に小田原北条氏の前進拠点となった河越城を、関東管領上杉憲政・扇谷上杉朝定・古河公方足利晴氏の連合軍が長期攻囲した河越城の戦いでも、これらの囲郭群は再利用されたと思われる。
広谷南城は、下広谷方形囲郭群の中で最も南に位置している。民家の裏にある竹林で立入禁止になっているが、北西にある圏央道の側道から遠目に内部を見ることができる。空堀や土塁が見えるが、遠巻きに眺めるだけなので、どのような配置になっているのかはよくわからない。二重空堀のようにも見えるがはっきりしない。内部探索はできないが、遺構が残っているだけ良しとしたい。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.950678/139.426267/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
広谷南城は、下広谷方形囲郭群の一つである。歴史不詳の城館であるが、近年の研究ではこれらの下広谷の囲郭群は、山内・扇谷両上杉氏が争った長享の乱の中で、1497年、扇谷上杉朝良の本拠河越城を攻撃するために山内上杉顕定が本陣を置いた上戸陣(旧河越氏館)に関連して、陣所または兵站拠点として構築されたものと考えられている。その後、戦国期に小田原北条氏の前進拠点となった河越城を、関東管領上杉憲政・扇谷上杉朝定・古河公方足利晴氏の連合軍が長期攻囲した河越城の戦いでも、これらの囲郭群は再利用されたと思われる。
広谷南城は、下広谷方形囲郭群の中で最も南に位置している。民家の裏にある竹林で立入禁止になっているが、北西にある圏央道の側道から遠目に内部を見ることができる。空堀や土塁が見えるが、遠巻きに眺めるだけなので、どのような配置になっているのかはよくわからない。二重空堀のようにも見えるがはっきりしない。内部探索はできないが、遺構が残っているだけ良しとしたい。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.950678/139.426267/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:陣城
竹ノ内館(埼玉県川越市) [古城めぐり(埼玉)]
←館跡付近の現況
竹ノ内館は、下広谷方形囲郭群の一つである。歴史不詳の城館であるが、近年の研究ではこれらの下広谷の囲郭群は、山内・扇谷両上杉氏が争った長享の乱の中で、1497年、扇谷上杉朝良の本拠河越城を攻撃するために山内上杉顕定が本陣を置いた上戸陣(旧河越氏館)に関連して、陣所または兵站拠点として構築されたものと考えられている。その後、戦国期に小田原北条氏の前進拠点となった河越城を、関東管領上杉憲政・扇谷上杉朝定・古河公方足利晴氏の連合軍が長期攻囲した河越城の戦いでも、これらの囲郭群は再利用されたと思われる。
竹ノ内館は、広谷北城の南西にあったらしい。しかし太平洋戦争中に飛行場として整備されてしまい、遺構は湮滅している。現在この飛行場跡地は富士見工業団地に変貌し、すべて工場敷地となっている。従って、遺構はおろか、その位置すら明確にできない。往時は三重の土塁と堀があったということなので、下広谷方形囲郭群の中心的城郭である大堀山館と似た構造であったのかもしれない。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.957209/139.428735/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
竹ノ内館は、下広谷方形囲郭群の一つである。歴史不詳の城館であるが、近年の研究ではこれらの下広谷の囲郭群は、山内・扇谷両上杉氏が争った長享の乱の中で、1497年、扇谷上杉朝良の本拠河越城を攻撃するために山内上杉顕定が本陣を置いた上戸陣(旧河越氏館)に関連して、陣所または兵站拠点として構築されたものと考えられている。その後、戦国期に小田原北条氏の前進拠点となった河越城を、関東管領上杉憲政・扇谷上杉朝定・古河公方足利晴氏の連合軍が長期攻囲した河越城の戦いでも、これらの囲郭群は再利用されたと思われる。
竹ノ内館は、広谷北城の南西にあったらしい。しかし太平洋戦争中に飛行場として整備されてしまい、遺構は湮滅している。現在この飛行場跡地は富士見工業団地に変貌し、すべて工場敷地となっている。従って、遺構はおろか、その位置すら明確にできない。往時は三重の土塁と堀があったということなので、下広谷方形囲郭群の中心的城郭である大堀山館と似た構造であったのかもしれない。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.957209/139.428735/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:陣城
広谷北城(埼玉県川越市) [古城めぐり(埼玉)]
←空堀と土塁
広谷北城は、下広谷方形囲郭群の一つで、『日本城郭大系』では「某館(1)」、書籍によっては「字戸宮前の遺構」などとも呼ばれる。歴史不詳の城館であるが、近年の研究では下広谷の囲郭群は、山内・扇谷両上杉氏が争った長享の乱の中で、1497年、扇谷上杉朝良の本拠河越城を攻撃するために山内上杉顕定が本陣を置いた上戸陣(旧河越氏館)に関連して、陣所または兵站拠点として構築されたものと考えられている。その後、戦国期に小田原北条氏の前進拠点となった河越城を、関東管領上杉憲政・扇谷上杉朝定・古河公方足利晴氏の連合軍が長期攻囲した河越城の戦いでも、これらの囲郭群は再利用されたと思われる。
広谷北城は、圏央道と県道256号線の立体交差のすぐ西側の林の中にある。遺構の残存状態はあまり良くなく、堀跡・土塁が残るものの一部を除いてわずかな遺構であり、縄張りがあまりはっきりしない。また遺構の西部はスクラップ工場となっていて破壊を受けている。そのため、『日本城郭大系』の縄張図と現地の遺構がどう対応するのか、よくわからなかった。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.957209/139.428735/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
広谷北城は、下広谷方形囲郭群の一つで、『日本城郭大系』では「某館(1)」、書籍によっては「字戸宮前の遺構」などとも呼ばれる。歴史不詳の城館であるが、近年の研究では下広谷の囲郭群は、山内・扇谷両上杉氏が争った長享の乱の中で、1497年、扇谷上杉朝良の本拠河越城を攻撃するために山内上杉顕定が本陣を置いた上戸陣(旧河越氏館)に関連して、陣所または兵站拠点として構築されたものと考えられている。その後、戦国期に小田原北条氏の前進拠点となった河越城を、関東管領上杉憲政・扇谷上杉朝定・古河公方足利晴氏の連合軍が長期攻囲した河越城の戦いでも、これらの囲郭群は再利用されたと思われる。
広谷北城は、圏央道と県道256号線の立体交差のすぐ西側の林の中にある。遺構の残存状態はあまり良くなく、堀跡・土塁が残るものの一部を除いてわずかな遺構であり、縄張りがあまりはっきりしない。また遺構の西部はスクラップ工場となっていて破壊を受けている。そのため、『日本城郭大系』の縄張図と現地の遺構がどう対応するのか、よくわからなかった。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.957209/139.428735/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:陣城
勝呂館(埼玉県坂戸市) [古城めぐり(埼玉)]
←土塁と堀跡らしき地形
勝呂館は、鎌倉時代に勝呂太郎恒高の居館であったと推測されている。勝呂氏については、その後裔とされる勝呂豊前守館の項に記載する。現在の大智寺境内が館跡とされ、境内にはわずかに土塁と堀跡らしい地形が見られるが、あまり中世居館の遺構という感じではなく、どちらかと言うと境内整備の中で作られたもののように感じられた。
尚、大智寺の墓地には、1650年に長崎奉行、1665年に大目付など幕府の重職を歴任し、大智寺の中興開基となった黒川丹波守正直とその一族の墓が残っている。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.967231/139.409766/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
勝呂館は、鎌倉時代に勝呂太郎恒高の居館であったと推測されている。勝呂氏については、その後裔とされる勝呂豊前守館の項に記載する。現在の大智寺境内が館跡とされ、境内にはわずかに土塁と堀跡らしい地形が見られるが、あまり中世居館の遺構という感じではなく、どちらかと言うと境内整備の中で作られたもののように感じられた。
尚、大智寺の墓地には、1650年に長崎奉行、1665年に大目付など幕府の重職を歴任し、大智寺の中興開基となった黒川丹波守正直とその一族の墓が残っている。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.967231/139.409766/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:居館
塚越林氏屋敷(埼玉県坂戸市) [古城めぐり(埼玉)]
←北側の空堀
塚越林氏屋敷は、『坂戸市史』では「塚越の構堀林氏屋敷」と呼称され、戦国時代に小田原北条氏麾下の松山衆に属した林氏の屋敷である。現在も林家の屋敷地であり、西辺は堀が埋められてしまっているが、それ以外の三方に空堀が残っている。この内、最も往時の姿を留めていると思われるのが北側の堀で、しっかりした幅と深さがあり、見応えがある。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.967821/139.423671/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
塚越林氏屋敷は、『坂戸市史』では「塚越の構堀林氏屋敷」と呼称され、戦国時代に小田原北条氏麾下の松山衆に属した林氏の屋敷である。現在も林家の屋敷地であり、西辺は堀が埋められてしまっているが、それ以外の三方に空堀が残っている。この内、最も往時の姿を留めていると思われるのが北側の堀で、しっかりした幅と深さがあり、見応えがある。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.967821/139.423671/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
塚越館(埼玉県坂戸市) [古城めぐり(埼玉)]
←館跡南西に残る土塁
塚越館は、歴史不詳の城館である。『坂戸市史』では勝呂一族の館ではないかと推測しているらしい。一方、館跡北西にある墓地には、水村伊勢守義信と刻まれており、水村氏の居館であった可能性もある。
塚越館は、坂戸市立住吉中学校の西側にある。現在は、周囲に民家が点在する大きな畑の区画となっているが、西側に土塁と空堀が残っている。この土塁は南西角ではL字型になっていて、方形館の形態を思わせる。事実、畑地の南、民家との境界には空堀跡らしい窪地地形も残っている。かなり明確な遺構であり、中世の館跡であるとすれば貴重である。一度、発掘調査などで本当に中世の館跡なのか、確認してほしいものである。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.966276/139.426932/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
塚越館は、歴史不詳の城館である。『坂戸市史』では勝呂一族の館ではないかと推測しているらしい。一方、館跡北西にある墓地には、水村伊勢守義信と刻まれており、水村氏の居館であった可能性もある。
塚越館は、坂戸市立住吉中学校の西側にある。現在は、周囲に民家が点在する大きな畑の区画となっているが、西側に土塁と空堀が残っている。この土塁は南西角ではL字型になっていて、方形館の形態を思わせる。事実、畑地の南、民家との境界には空堀跡らしい窪地地形も残っている。かなり明確な遺構であり、中世の館跡であるとすれば貴重である。一度、発掘調査などで本当に中世の館跡なのか、確認してほしいものである。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.966276/139.426932/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:居館
明泉館(埼玉県坂戸市) [古城めぐり(埼玉)]
←堀状地形
明泉館は、歴史不詳の城館である。寳珠寺の東に並ぶ民家群の北側に堀状地形があり、それが遺構とされる。寳珠寺裏から東に伸びる小道を辿っていくと、道が掘状になり、一直線に東に続いている。南の民家側に分岐する堀地形もあり、また北の畑の周りにも堀地形が見られ、似たような堀状地形多数ある。土塁っぽい地形もあるが、具体的にどこを館跡としているのか、現地を踏査した限りでは場所がよくわからなかった。また個人的には、これが城館遺構という確証も持てなかった。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.970235/139.431396/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
明泉館は、歴史不詳の城館である。寳珠寺の東に並ぶ民家群の北側に堀状地形があり、それが遺構とされる。寳珠寺裏から東に伸びる小道を辿っていくと、道が掘状になり、一直線に東に続いている。南の民家側に分岐する堀地形もあり、また北の畑の周りにも堀地形が見られ、似たような堀状地形多数ある。土塁っぽい地形もあるが、具体的にどこを館跡としているのか、現地を踏査した限りでは場所がよくわからなかった。また個人的には、これが城館遺構という確証も持てなかった。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.970235/139.431396/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
塚越城(埼玉県坂戸市) [古城めぐり(埼玉)]
←空堀と土塁
塚越城は、『日本城郭大系』では西光寺城と記載され、戦国時代にこの地を領していた小島氏の居城と推測される。西に隣接する西光寺の寺伝(解説板)によれば、越後上杉氏に仕えた小島豊後が屋敷内に庵を建て、西光庵と称したのが西光寺の起源とされ、天文年間(1532~55年)に豊後の子小島越後によって庵が再興され、西光寺と呼ぶようになったと言う。ただ、この寺伝は少々おかしい。小島越後が庵を再興したのが天文年間(1532~55年)とすると、父の豊後が活躍したのはそれ以前ということになり、まだ越後の上杉謙信が関東に出馬する前のことなので、関東管領山内上杉氏に仕えていたというのが正しいか、或いは天文年間(1532~55年)という年代が間違っているか、のいずれかであろう。いずれにしても小島氏は、戦国後期には武蔵全域を制圧した小田原北条氏の家臣となった。北条氏が滅亡すると、小島氏はこの地で帰農して境内を寄付し、西光寺の開基となった。
尚、『日本城郭大系』では塚越城を平安時代末期の創築とし、また西光寺の墓地には南北朝期に勝呂地区一帯を本拠地とした在地領主・勝(すぐろ)氏の一族、勝次郎左衛門入道頼阿の宝篋印塔(1366年建立)が移されているので、戦国時代以前には勝呂氏の城館であった可能性も考えられる。
塚越城は、前述の通り西光寺境内の東に築かれている。車道脇から入った山林の中に、南北に伸びる土塁・空堀と、更にそこから西に分岐して、東西に長いコの字形をした空堀・土塁が確認できる。空堀は埋もれているのかかなり浅くなってしまっている部分もあるが、何らかの城館があったことは間違いない。わりと良好に残っている遺構なので、文化財に指定して保存してほしいものである。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.973274/139.429078/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
塚越城は、『日本城郭大系』では西光寺城と記載され、戦国時代にこの地を領していた小島氏の居城と推測される。西に隣接する西光寺の寺伝(解説板)によれば、越後上杉氏に仕えた小島豊後が屋敷内に庵を建て、西光庵と称したのが西光寺の起源とされ、天文年間(1532~55年)に豊後の子小島越後によって庵が再興され、西光寺と呼ぶようになったと言う。ただ、この寺伝は少々おかしい。小島越後が庵を再興したのが天文年間(1532~55年)とすると、父の豊後が活躍したのはそれ以前ということになり、まだ越後の上杉謙信が関東に出馬する前のことなので、関東管領山内上杉氏に仕えていたというのが正しいか、或いは天文年間(1532~55年)という年代が間違っているか、のいずれかであろう。いずれにしても小島氏は、戦国後期には武蔵全域を制圧した小田原北条氏の家臣となった。北条氏が滅亡すると、小島氏はこの地で帰農して境内を寄付し、西光寺の開基となった。
尚、『日本城郭大系』では塚越城を平安時代末期の創築とし、また西光寺の墓地には南北朝期に勝呂地区一帯を本拠地とした在地領主・勝(すぐろ)氏の一族、勝次郎左衛門入道頼阿の宝篋印塔(1366年建立)が移されているので、戦国時代以前には勝呂氏の城館であった可能性も考えられる。
塚越城は、前述の通り西光寺境内の東に築かれている。車道脇から入った山林の中に、南北に伸びる土塁・空堀と、更にそこから西に分岐して、東西に長いコの字形をした空堀・土塁が確認できる。空堀は埋もれているのかかなり浅くなってしまっている部分もあるが、何らかの城館があったことは間違いない。わりと良好に残っている遺構なので、文化財に指定して保存してほしいものである。
勝氏の宝篋印塔→
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.973274/139.429078/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
林氏屋敷(埼玉県坂戸市) [古城めぐり(埼玉)]
←北西辺の堀跡
林氏屋敷は、文亀年間(1501~04年)に信州諏訪から当地に移り住んだと伝えられる林氏の屋敷である。詳しい系譜や戦国期の事績は不明であるが、江戸時代には赤尾村下分の名主を務めているので、戦国期にもこの地の名家として重きをなしていたと思われる。
林氏屋敷は、県道74号線沿いの、天神橋のたもとに位置しており、現在もご子孫の居宅となっている。屋敷正面には立派な長屋門があり、その脇に土塁が残っている。また宅地の四周にはほぼ全周にわたって堀跡が残っている。内部探索はできないので外周から見て回ると、南西辺にも土塁が残っているようである。戦国時代から残る屋敷跡として貴重である。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.987287/139.434443/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
林氏屋敷は、文亀年間(1501~04年)に信州諏訪から当地に移り住んだと伝えられる林氏の屋敷である。詳しい系譜や戦国期の事績は不明であるが、江戸時代には赤尾村下分の名主を務めているので、戦国期にもこの地の名家として重きをなしていたと思われる。
林氏屋敷は、県道74号線沿いの、天神橋のたもとに位置しており、現在もご子孫の居宅となっている。屋敷正面には立派な長屋門があり、その脇に土塁が残っている。また宅地の四周にはほぼ全周にわたって堀跡が残っている。内部探索はできないので外周から見て回ると、南西辺にも土塁が残っているようである。戦国時代から残る屋敷跡として貴重である。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.987287/139.434443/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:居館
大串次郎館(埼玉県吉見町) [古城めぐり(埼玉)]
←川沿いの竹薮の中の土塁状地形
大串次郎重親は、武蔵七党横山党の一流である。大串氏は、由木保経の次男・次郎隆(孝)保が大串郷に入部して大串氏を称したのに始まる一族で、隆保の子が重親である。重親は、烏帽子親が坂東武者の鏡とされる畠山重忠であり、「重」の字は重忠からの偏諱である。治承・寿永の乱(いわゆる源平合戦)では源氏方に属して活躍した。『源平盛衰記』等の軍記物では、宇治川の戦いの際、急流を徒歩で渡ろうとして足を取られて流されそうになった重親が近くで渡渉していた重忠にしがみつくと、怪力の重忠は重親を掴んで向こう岸まで投げ飛ばしたと伝えられる。重親は、敵前で「徒立ちの先陣なり」と大声で名乗り、敵味方から笑いが起こったという(既に佐々木高綱が騎馬で先陣の功を上げていた)。
大串次郎館は、市野川北岸の自然堤防上にあったらしい。明確な位置は不明であるが、ネットの記事を参照すると2ヶ所の候補地が考えられる。一つは現在の堤防の南側にある竹薮で、遺構はあまりはっきりしないが、土塁らしきものが見られる。もう一つは、そこから北東にやや離れた集落内で、民家の周囲に堀や土塁らしい地形が見られる。どちらであったのかは明確ではないが、自然堤防上にあったことから推測すると、前者の方が有力であるように思う。ちなみに、埼玉県埋蔵文化財情報公開ページの遺跡地図では、この2つとも異なる、金蔵院付近を館跡としている。それにしても、館跡近くにある県道76号線の橋の名が「徒歩橋」と言う名で、珍しい名前だと思っていたが、大串次郎の徒立ちの先陣に由来する名だとその事績を調べていて気が付いた。
尚、金蔵院の西方約60mの畑の中にある宝篋印塔は、大串次郎重親のものと伝承されている。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.020043/139.472616/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
大串次郎重親は、武蔵七党横山党の一流である。大串氏は、由木保経の次男・次郎隆(孝)保が大串郷に入部して大串氏を称したのに始まる一族で、隆保の子が重親である。重親は、烏帽子親が坂東武者の鏡とされる畠山重忠であり、「重」の字は重忠からの偏諱である。治承・寿永の乱(いわゆる源平合戦)では源氏方に属して活躍した。『源平盛衰記』等の軍記物では、宇治川の戦いの際、急流を徒歩で渡ろうとして足を取られて流されそうになった重親が近くで渡渉していた重忠にしがみつくと、怪力の重忠は重親を掴んで向こう岸まで投げ飛ばしたと伝えられる。重親は、敵前で「徒立ちの先陣なり」と大声で名乗り、敵味方から笑いが起こったという(既に佐々木高綱が騎馬で先陣の功を上げていた)。
大串次郎館は、市野川北岸の自然堤防上にあったらしい。明確な位置は不明であるが、ネットの記事を参照すると2ヶ所の候補地が考えられる。一つは現在の堤防の南側にある竹薮で、遺構はあまりはっきりしないが、土塁らしきものが見られる。もう一つは、そこから北東にやや離れた集落内で、民家の周囲に堀や土塁らしい地形が見られる。どちらであったのかは明確ではないが、自然堤防上にあったことから推測すると、前者の方が有力であるように思う。ちなみに、埼玉県埋蔵文化財情報公開ページの遺跡地図では、この2つとも異なる、金蔵院付近を館跡としている。それにしても、館跡近くにある県道76号線の橋の名が「徒歩橋」と言う名で、珍しい名前だと思っていたが、大串次郎の徒立ちの先陣に由来する名だとその事績を調べていて気が付いた。
尚、金蔵院の西方約60mの畑の中にある宝篋印塔は、大串次郎重親のものと伝承されている。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.020043/139.472616/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
高根沢城(栃木県高根沢町) [古城めぐり(栃木)]
←主郭南の空堀
高根沢城は、宇都宮景綱の弟上総介盛綱の後裔高根沢新右衛門尉兼吉が、南北朝時代に築いたと伝えられる。兼吉は、観応の擾乱の際、足利尊氏方に付いた宇都宮氏綱の軍勢が、足利直義方の桃井直常・長尾景泰らと戦った上野那波庄の合戦で、宇都宮勢に属して戦い討死したと言う。兼吉の死後、益子宗之が高根沢郷を領して高根沢氏を再興した。1597年、宇都宮氏が改易となると廃城となった。尚、鎌倉時代の正嘉年間(1257~59年)に高根沢胤吉の名が伝わっており、この頃に胤吉によって築かれた可能性もある。
高根沢城は、鬼怒川と五行川に挟まれた宝積寺台地の東縁部に築かれている。城跡の大半は、本田技研のテストコース建設によって破壊されてしまっている。わずかにテストコース外の山林内に空堀の遺構が断片的に残っているだけである。『高根沢町史』所収の関口和也氏の縄張図によれば、段丘崖東縁部に沿って南北に長い城だったらしく、北端に橫矢の折れを持った空堀があり、そこから城の西側を一直線に南に走る外堀があったらしい。この外堀は、昭和20年代前半の航空写真でもその痕跡を確認できる。縄張図には明確に区画された主郭が明示されていないが、前述の航空写真を見ると、どうも現在民家が建っている崖上の区画であったように見受けられる。この民家の南に明確な空堀が残っている。北側にも空堀の痕跡が見られ、大半が車道になっているが、車道脇にわずかに空堀跡が残っている。また主郭の南には二ノ郭があったと推測され、その東側に橫矢の折れを持った横堀が南北に走っている。この横堀は南の方で埋もれて消えてしまうが、その先の方で東斜面に竪堀らしいものが落ちている。結局、往時の縄張りがはっきりしないところもあり、ちょっと消化不良になる城である。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.582633/140.025859/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
高根沢城は、宇都宮景綱の弟上総介盛綱の後裔高根沢新右衛門尉兼吉が、南北朝時代に築いたと伝えられる。兼吉は、観応の擾乱の際、足利尊氏方に付いた宇都宮氏綱の軍勢が、足利直義方の桃井直常・長尾景泰らと戦った上野那波庄の合戦で、宇都宮勢に属して戦い討死したと言う。兼吉の死後、益子宗之が高根沢郷を領して高根沢氏を再興した。1597年、宇都宮氏が改易となると廃城となった。尚、鎌倉時代の正嘉年間(1257~59年)に高根沢胤吉の名が伝わっており、この頃に胤吉によって築かれた可能性もある。
高根沢城は、鬼怒川と五行川に挟まれた宝積寺台地の東縁部に築かれている。城跡の大半は、本田技研のテストコース建設によって破壊されてしまっている。わずかにテストコース外の山林内に空堀の遺構が断片的に残っているだけである。『高根沢町史』所収の関口和也氏の縄張図によれば、段丘崖東縁部に沿って南北に長い城だったらしく、北端に橫矢の折れを持った空堀があり、そこから城の西側を一直線に南に走る外堀があったらしい。この外堀は、昭和20年代前半の航空写真でもその痕跡を確認できる。縄張図には明確に区画された主郭が明示されていないが、前述の航空写真を見ると、どうも現在民家が建っている崖上の区画であったように見受けられる。この民家の南に明確な空堀が残っている。北側にも空堀の痕跡が見られ、大半が車道になっているが、車道脇にわずかに空堀跡が残っている。また主郭の南には二ノ郭があったと推測され、その東側に橫矢の折れを持った横堀が南北に走っている。この横堀は南の方で埋もれて消えてしまうが、その先の方で東斜面に竪堀らしいものが落ちている。結局、往時の縄張りがはっきりしないところもあり、ちょっと消化不良になる城である。
二ノ郭東の横堀→
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.582633/140.025859/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
狸穴城(栃木県宇都宮市) [古城めぐり(栃木)]
←城跡推定地の現況
狸穴(まみあな)城は、御殿山城とも言い、応永年間(1394~1428年)に宇都宮氏の家臣大谷玄蕃頭高利の居城であったと伝えられる。
狸穴城は、鬼怒川東岸の満美穴町内にあったらしい。満美穴町の名は、古くは「狸穴」と書いたものを、あまり良い印象を持たれない字であることから「満美穴」と当て字にしたものだろう。正確な場所は、詳細な資料がなく不明であるが、『日本城郭大系』には「台地上に柏木稲荷がありその近辺が館跡といわれている」、『栃木県の中世城館跡』には「鬼怒川の東南岸に張り出した段丘面に立地し、低地の水田面から20mの比高を持つ」とあるので、そこから場所を推測した。おそらく140.7mの三角点がある付近だと考えられるが、確証はない。淡路城の所から三角点の所まで歩いて辿ってみたが、柏山稲荷は発見できず、畑仕事をしていた地元の方も稲荷の存在をご存じなかった。耕地化で遺構も残っていないらしいので、結局場所を特定する術がなかった。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.584011/139.976099/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
(推定地)
狸穴(まみあな)城は、御殿山城とも言い、応永年間(1394~1428年)に宇都宮氏の家臣大谷玄蕃頭高利の居城であったと伝えられる。
狸穴城は、鬼怒川東岸の満美穴町内にあったらしい。満美穴町の名は、古くは「狸穴」と書いたものを、あまり良い印象を持たれない字であることから「満美穴」と当て字にしたものだろう。正確な場所は、詳細な資料がなく不明であるが、『日本城郭大系』には「台地上に柏木稲荷がありその近辺が館跡といわれている」、『栃木県の中世城館跡』には「鬼怒川の東南岸に張り出した段丘面に立地し、低地の水田面から20mの比高を持つ」とあるので、そこから場所を推測した。おそらく140.7mの三角点がある付近だと考えられるが、確証はない。淡路城の所から三角点の所まで歩いて辿ってみたが、柏山稲荷は発見できず、畑仕事をしていた地元の方も稲荷の存在をご存じなかった。耕地化で遺構も残っていないらしいので、結局場所を特定する術がなかった。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.584011/139.976099/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
(推定地)
淡路城(栃木県宇都宮市) [古城めぐり(栃木)]
←段々の削平地と切岸
淡路城は、宇都宮氏の家臣直井淡路守の居城と伝えられる。
淡路城は、鬼怒川東岸の台地の東側の縁にある。ここは、台地に南から谷が入り込み、台地が細長く括れた部分に当たる。地勢的には阿久津城とよく似た占地である。『日本城郭大系』や『栃木県の中世城館跡』によれば、以前は二重の堀もしくは土塁があったが、昭和40年代前半に団地造成のため大部分が破壊されたと言う。現在は民家裏の竹薮となっており、台地の東縁部に段々の削平地が見られ、曲輪遺構の可能性がある。また2段目の削平地の南東下方に堀状地形もあり、遺構である可能性がある。しかし前述の通り大半が破壊・改変されているらしく、どのような縄張りだったのかは現状からでは推測が難しい状況である。
尚、城の南東250m程のところにある墓地に、淡路守の墓碑が立っている。そこには「直江淡路守」と刻まれているので、もしかしたら直江が正しいのかもしれない。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.573449/139.980519/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
淡路城は、宇都宮氏の家臣直井淡路守の居城と伝えられる。
淡路城は、鬼怒川東岸の台地の東側の縁にある。ここは、台地に南から谷が入り込み、台地が細長く括れた部分に当たる。地勢的には阿久津城とよく似た占地である。『日本城郭大系』や『栃木県の中世城館跡』によれば、以前は二重の堀もしくは土塁があったが、昭和40年代前半に団地造成のため大部分が破壊されたと言う。現在は民家裏の竹薮となっており、台地の東縁部に段々の削平地が見られ、曲輪遺構の可能性がある。また2段目の削平地の南東下方に堀状地形もあり、遺構である可能性がある。しかし前述の通り大半が破壊・改変されているらしく、どのような縄張りだったのかは現状からでは推測が難しい状況である。
尚、城の南東250m程のところにある墓地に、淡路守の墓碑が立っている。そこには「直江淡路守」と刻まれているので、もしかしたら直江が正しいのかもしれない。
堀状地形→
←直江淡路守の墓碑お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.573449/139.980519/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
千原田古塁(群馬県邑楽町) [古城めぐり(群馬)]
←空堀・土塁
千原田古塁は、青柳城主赤岩安房守照光の家臣宝田和泉守吉勝が1529年に築いたと伝えられる。そして中野の川島五郎四郎等7騎と共に千原田古塁に置かれたと言う。宝田氏は、永禄年間(1558~70年)には小泉城主富岡氏に属し、中野古城を修築して居城とした。1564年の館林城主赤井氏家中の内乱の際、宝田和泉守勝成が小泉勢として活躍したと言う。
千原田古塁は、藤川の曲流部に突き出た半島状の平地に築かれている。耕地化などでかなり改変されているので往時の縄張りはよくわからないが、半島状平地の基部の南西部の民家裏手の山林内に空堀・土塁が残っている。この空堀は、西端部でL字形に北へと折れており、10m程北に行ったところで堀がなくなり、その先は腰曲輪状の平場となっている。この辺りは、往時のままなのか改変されているのか、判断が難しい。明確な遺構はここだけであるが、遺構が残っているだけでも良しとすべきだろう。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.274682/139.473528/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
千原田古塁は、青柳城主赤岩安房守照光の家臣宝田和泉守吉勝が1529年に築いたと伝えられる。そして中野の川島五郎四郎等7騎と共に千原田古塁に置かれたと言う。宝田氏は、永禄年間(1558~70年)には小泉城主富岡氏に属し、中野古城を修築して居城とした。1564年の館林城主赤井氏家中の内乱の際、宝田和泉守勝成が小泉勢として活躍したと言う。
千原田古塁は、藤川の曲流部に突き出た半島状の平地に築かれている。耕地化などでかなり改変されているので往時の縄張りはよくわからないが、半島状平地の基部の南西部の民家裏手の山林内に空堀・土塁が残っている。この空堀は、西端部でL字形に北へと折れており、10m程北に行ったところで堀がなくなり、その先は腰曲輪状の平場となっている。この辺りは、往時のままなのか改変されているのか、判断が難しい。明確な遺構はここだけであるが、遺構が残っているだけでも良しとすべきだろう。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.274682/139.473528/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:中世平城
藤川城(群馬県邑楽町) [古城めぐり(群馬)]
←主郭北側の堀跡
藤川城は、古河公方に属した小泉城主富岡氏が築いた出城である。小泉城を築いた富岡直光の子秀光は、古河公方2代足利政氏に仕え、古河公方に敵対する佐野城(唐沢山城)に対抗するため、1521年に小泉領の北東端に藤川城を築いた。一族で重臣でもあった小林河内守義知を城主とし、敵情を探らせたと言う。
藤川城は、豊原集落の中央付近に位置している。城跡全体が集落となっているので、遺構の改変が進んでいるが、主郭は城主後裔の小林家の宅地となっており、北側に土塁と空堀が残っている。この北側の堀には横矢掛りの屈曲も見られ、屋敷地入口の東脇にも土塁・空堀が辛うじて残っている。この空堀・土塁は主郭西側にも続いているが、周囲は民家となっていて踏査が難しく、確認できていない。私は冬季に訪城したので空堀であったが、夏場は水堀になるようである。尚、東には寺曲輪、西には上木戸の字名が残っているらしい。わずかとはいえ主郭付近は遺構が残っているので、史跡指定などして保護の手立てを講じてほしいものである。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.271482/139.456716/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
藤川城は、古河公方に属した小泉城主富岡氏が築いた出城である。小泉城を築いた富岡直光の子秀光は、古河公方2代足利政氏に仕え、古河公方に敵対する佐野城(唐沢山城)に対抗するため、1521年に小泉領の北東端に藤川城を築いた。一族で重臣でもあった小林河内守義知を城主とし、敵情を探らせたと言う。
藤川城は、豊原集落の中央付近に位置している。城跡全体が集落となっているので、遺構の改変が進んでいるが、主郭は城主後裔の小林家の宅地となっており、北側に土塁と空堀が残っている。この北側の堀には横矢掛りの屈曲も見られ、屋敷地入口の東脇にも土塁・空堀が辛うじて残っている。この空堀・土塁は主郭西側にも続いているが、周囲は民家となっていて踏査が難しく、確認できていない。私は冬季に訪城したので空堀であったが、夏場は水堀になるようである。尚、東には寺曲輪、西には上木戸の字名が残っているらしい。わずかとはいえ主郭付近は遺構が残っているので、史跡指定などして保護の手立てを講じてほしいものである。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.271482/139.456716/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:中世平城
妙吉塚(栃木県宇都宮市) [その他の史跡巡り]
←妙吉塚
妙吉塚は、南北朝末期の1387年に築かれた高塚である。塚の上には宝篋印塔が建ち、「至徳四丁卯八月七日 聖金剛仏子妙言(吉?)貞禅」と刻まれている。また塚の東側には、妙吉安産子育高地蔵尊がある。宝篋印塔の碑文は妙言貞禅と読めそうだが、見様によっては妙吉貞禅とも読める。南北朝時代で妙吉と言えば、初期の室町幕府を主導した足利直義から絶大な信任を得ていた謎の禅僧に思い至る。妙吉は、元々尊氏・直義兄弟が深く帰依した夢窓国師の兄弟弟子で、夢窓の斡旋で直義に近侍してその信任を受け、絶大な権勢を振るったらしい。そして直義の側近上杉重能・畠山直宗と結んで、将軍尊氏の執事高師直の暗殺を目論んだが、失敗した。逃れた師直は京に大軍を集めて直義邸、次いで直義が逃れた将軍御所(尊氏邸)を囲み(「御所巻」という)、上杉重能・畠山直宗・妙吉3人の引き渡しを要求した。数度の交渉の結果、直義は政務から身を引き、上杉・畠山両名は配流となったが、妙吉だけはこの混乱の最中に逐電し、その後行方知れずとなり、歴史からその姿を消した。妙吉は、軍記物の『太平記』だけでなく、第1級の同時代資料である『園太暦』にもその名があるので、実在したことは間違いない。観応の擾乱の導火線となった大事件の当事者であった。妙吉塚はこの僧妙吉の供養塚の可能性がある。おそらく全国でも妙吉にまつわる史跡はここにしかなく、もし本当に妙吉のものだとしたら、晩年は宇都宮氏の庇護を受けていたのかもしれない。
妙吉塚は、日光街道の西に並走する脇道沿いにある。高龗(たかお)神社境内の西端にあり、脇の市道はこの塚を避けるためやや屈曲している。想像していたよりも大きい立派な塚である。南北朝フリークにとっては貴重な史跡である。
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.588371/139.863338/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
妙吉塚は、南北朝末期の1387年に築かれた高塚である。塚の上には宝篋印塔が建ち、「至徳四丁卯八月七日 聖金剛仏子妙言(吉?)貞禅」と刻まれている。また塚の東側には、妙吉安産子育高地蔵尊がある。宝篋印塔の碑文は妙言貞禅と読めそうだが、見様によっては妙吉貞禅とも読める。南北朝時代で妙吉と言えば、初期の室町幕府を主導した足利直義から絶大な信任を得ていた謎の禅僧に思い至る。妙吉は、元々尊氏・直義兄弟が深く帰依した夢窓国師の兄弟弟子で、夢窓の斡旋で直義に近侍してその信任を受け、絶大な権勢を振るったらしい。そして直義の側近上杉重能・畠山直宗と結んで、将軍尊氏の執事高師直の暗殺を目論んだが、失敗した。逃れた師直は京に大軍を集めて直義邸、次いで直義が逃れた将軍御所(尊氏邸)を囲み(「御所巻」という)、上杉重能・畠山直宗・妙吉3人の引き渡しを要求した。数度の交渉の結果、直義は政務から身を引き、上杉・畠山両名は配流となったが、妙吉だけはこの混乱の最中に逐電し、その後行方知れずとなり、歴史からその姿を消した。妙吉は、軍記物の『太平記』だけでなく、第1級の同時代資料である『園太暦』にもその名があるので、実在したことは間違いない。観応の擾乱の導火線となった大事件の当事者であった。妙吉塚はこの僧妙吉の供養塚の可能性がある。おそらく全国でも妙吉にまつわる史跡はここにしかなく、もし本当に妙吉のものだとしたら、晩年は宇都宮氏の庇護を受けていたのかもしれない。
妙吉塚は、日光街道の西に並走する脇道沿いにある。高龗(たかお)神社境内の西端にあり、脇の市道はこの塚を避けるためやや屈曲している。想像していたよりも大きい立派な塚である。南北朝フリークにとっては貴重な史跡である。
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.588371/139.863338/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
観応の擾乱 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い (中公新書)
- 作者: 亀田俊和
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2019/02/08
- メディア: Kindle版
タグ:墓所
下小倉堀ノ内(栃木県宇都宮市) [古城めぐり(栃木)]
←屋敷に残る土塁
下小倉堀ノ内は、大桶城とも言い、宇都宮城主宇都宮国綱の家臣大桶備前の屋敷跡であるらしい。大桶氏は、元々那須郡に居たが、宇都宮氏に仕えて小倉郷を拝領し、堀ノ内地区に大桶館を建てたとされる。大桶氏と言えば、那須氏麾下の根古屋城(大桶城)主大桶氏があり、1590年に主家那須氏改易と共に没落しているので、もしかしたら那須氏改易後に宇都宮氏に仕官して、この地に入部したのかもしれない(官途も同じ備前守である)。1597年、宇都宮氏が改易となると、大桶氏はこの地で帰農したと言う。近くにある清泉寺には、大桶備前夫妻の墓があると言う。
下小倉堀ノ内は、現在は民家となっており、その南と東に土塁が残っている。これが、宇都宮氏改易前からあった城館(大桶館)なのか、それとも帰農後に構えられた屋敷なのかは不明であるが、昭和20年代前半の航空写真を見ても、この下小倉地区では図抜けて大きな屋敷地であり、江戸時代にこの地の名主として続いた名家であったのだろう。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.687599/139.920588/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
下小倉堀ノ内は、大桶城とも言い、宇都宮城主宇都宮国綱の家臣大桶備前の屋敷跡であるらしい。大桶氏は、元々那須郡に居たが、宇都宮氏に仕えて小倉郷を拝領し、堀ノ内地区に大桶館を建てたとされる。大桶氏と言えば、那須氏麾下の根古屋城(大桶城)主大桶氏があり、1590年に主家那須氏改易と共に没落しているので、もしかしたら那須氏改易後に宇都宮氏に仕官して、この地に入部したのかもしれない(官途も同じ備前守である)。1597年、宇都宮氏が改易となると、大桶氏はこの地で帰農したと言う。近くにある清泉寺には、大桶備前夫妻の墓があると言う。
下小倉堀ノ内は、現在は民家となっており、その南と東に土塁が残っている。これが、宇都宮氏改易前からあった城館(大桶館)なのか、それとも帰農後に構えられた屋敷なのかは不明であるが、昭和20年代前半の航空写真を見ても、この下小倉地区では図抜けて大きな屋敷地であり、江戸時代にこの地の名主として続いた名家であったのだろう。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.687599/139.920588/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:居館