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古城めぐり(群馬) ブログトップ
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細谷館(群馬県邑楽町) [古城めぐり(群馬)]

DSCN4030.JPG←東の堀跡
 細谷館は、新田義貞の一族細谷右馬助秀国の居館である。新田氏5代政氏の長子国氏が新田荘細谷に分封されて細谷氏初代となり、その孫が秀国である。新田宗家は国氏の弟基氏が継ぎ、基氏の孫が南北朝史に名高い新田義貞である。1335年に足利尊氏が後醍醐天皇の建武政権から離反すると、義貞は尊氏に代わる武家の総帥として後醍醐から取り立てられて各地を転戦したが、秀国も義貞に従って転戦した。1336年の足利勢の京都制圧後、越前に逃れて足利方の部将斯波高経と越前で戦っていた義貞は、1338年に灯明寺畷で討死した。統領義貞の死で新田軍は劣勢となり、秀国は再起を図って海路西の丹後国府中に逃れ、籠神社の社家海部氏を頼った。1347年に上野国に戻り、旧知の佐貫氏の支配地、邑楽郡佐貫庄篠塚の坪谷に館を築いて寓居した。これが細谷館である。館の鬼門には丹後府中の籠神社から勧進した。これが現在残る籠宮稲荷神社である。秀国の子勝直が跡を継いだ。時代は下って戦国後期の1570年、小泉城主富岡氏の軍勢の中に細谷右馬助義重・同与一郎の名が見える。1575年に義重が没すると、その子義長が跡を継ぎ、富岡氏の客将となり、小田原の北条氏直に属した。1590年に北条氏が滅亡すると、義長はこの地で帰農した。

 細谷館は、県道152号線の坪谷交差点の北西にある。現在館跡は民家の敷地となっているので内部探索はできないが、北・東・南の三方に堀跡が残っている。西の堀は耕地化で埋められてしまっている。遺構としてはそれだけであるが、中世土豪の屋敷の雰囲気を残している。
 尚、館跡の南方170mには、細谷秀国の墓所五位堂があり、その脇に細谷氏の墓所が残っている。五位堂の名は、秀国の位階によるものとも言われる。
五位堂と細谷氏墓所→DSCN4051.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.240561/139.442350/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:居館
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早川田氏館(群馬県館林市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN3979.JPG←館跡の雲龍寺
 早川田氏は、佐川田氏、佐河田氏などとも呼ばれ、高階氏の一族であったとされるがその事績はよくわからない。

 早川田氏館は、現在の雲龍寺の位置にあった。渡良瀬川の北岸に当たるが、この付近だけ県境が渡良瀬川の北岸に張り出しており、明治以降に河川改修によって川の流路が変えられたものと推測される。寺の本堂背後に竹が生えた土盛りがあるが、遺構かどうかは判断できない。尚、雲龍寺は足尾鉱毒事件の闘士、田中正造にゆかり深い寺で、正造の墓があり、正造を祀った救現堂も建っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.278367/139.552717/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:居館
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青柳城(群馬県館林市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN3972.JPG←堀跡のような水路
 青柳城は、後に館林城を居城とした赤井氏の初期の居城であったとされる。館林周辺は佐貫庄と呼ばれ、室町時代には佐貫氏庶流の舞木氏が支配し、赤井氏はその被官であった。永享の乱の最中、舞木持広の寄騎の侍として赤井若狭守の名が見える。しかし室町後期には下剋上で赤井氏が佐貫庄を掌握したらしい。この頃の赤井氏居城が青柳城であったと伝えられる。赤井氏は後に館林城を築いて居城を移したが、その時期は明確ではない。以前は戦国中期頃に館林城に移ったとされていたが、それ以前の享徳の乱の最中の1471年に山内上杉氏の重臣長尾氏が赤井氏の拠る立林(館林)城を攻略したという記録が残っており、戦国時代より前に既に館林城があったことが判明している。また赤井氏の館林城以前の居城としては大袋城とも言われており、青柳城との関係は不明である。

 青柳城は、龍積寺付近の平地に築かれていたらしい。現在寺の北側を水路が流れているが、城のどこかの部分の堀跡である可能性がある。しかしそれ以外は宅地化などで改変されており、明確な遺構もなく、どのような縄張りの城だったのかも皆目わからない。残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.222370/139.517741/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:中世平城
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白旗城(群馬県館林市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN3817.JPG←薮の中に残る堀跡
 白旗城は、享徳の乱の激戦・羽継原合戦の際に、関東管領上杉房顕方の岩松氏が、古河公方足利成氏の羽附陣屋に対して布陣した城と伝えられる。

 白旗城は、鶴生田川南岸の微高地に築かれている。この微高地は白旗山と呼ばれ、付近には馬場、首洗堰等の地名が残るという。現在城跡は激しい薮の林となり、周囲は宅地や団地となっている。川沿いの道を進むと、微高地に北から伸びる1本の堀跡が残り、その東には土塁が築かれている。辛うじて確認できるのはここまでで、後は激しい薮に阻まれて確認できない。いずれにしても一時的な陣城と思われ、大規模な城ではなかっただろう。それにしても対峙した羽附陣屋とはわずか700m程しか離れておらず、川を挟んでいるとはいえ、あまりに近すぎるのがちょっと気になる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.236719/139.573874/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:陣城
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中尾城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN2088.JPG←主郭東の塁線跡
 中尾城は、歴史不詳の城である。場所的に推測すると、箕輪城主長野氏の支城か、或いは和田城主和田氏の支城と考えるのが妥当な線であろう。

 中尾城は、観窓という寺の北東にあったらしい。市街化・耕地化で遺構の湮滅が進んでいるが、主郭部は民家裏の空き地となって方形区画が残り、その周囲に塁線跡らしい段差が見られる。また周辺の住宅地を縫うように水路が巡っており、堀跡であったらしい。主郭北側には竹藪が密生していて、ここには土塁ぐらい残っていそうであるが、近づく術がなく遠巻きに眺めるだけしかできない。いつの日か、遺構があらわになることを望みたい。
主郭北辺の竹藪→DSCN2105.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.368421/139.028324/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:中世平城
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菅谷城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN2064.JPG←土塁跡らしき土盛り
 菅谷城は、箕輪城主長野業政の長子吉業が城主であった城である。善龍寺にある墓碑・解説板によれば、吉業は左京亮の官途名を有し、1556年に実弟業盛に箕輪城を譲って、自身は菅谷城主となった。吉業は、1563年に西上州に侵攻した甲斐武田氏の重臣内藤修理亮昌豊と戦い、高崎の豊岡で討死した。時に36歳とも38歳とも伝わる。その後菅谷城は、家老宇喜氏が城代を務めたが、1566年に箕輪城とともに落城した。しかし別説では、吉業は河越夜戦の戦傷が元で16歳で没したとも言われ、どちらが正かはわからない。

 菅谷城は、浄眼寺の南東にあったらしい。市街化で遺構は壊滅状態であるが、主郭と思われる民家の敷地の入口脇に土塁の残欠らしい土盛りがわずかに残っている。また周辺には水路がいくつかあり、これらも堀跡であったと推測される。いずれにしても城の痕跡は殆ど失われており、残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.378649/139.014752/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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千原田古塁(群馬県邑楽町) [古城めぐり(群馬)]

DSCN1859.JPG←空堀・土塁
 千原田古塁は、青柳城主赤岩安房守照光の家臣宝田和泉守吉勝が1529年に築いたと伝えられる。そして中野の川島五郎四郎等7騎と共に千原田古塁に置かれたと言う。宝田氏は、永禄年間(1558~70年)には小泉城主富岡氏に属し、中野古城を修築して居城とした。1564年の館林城主赤井氏家中の内乱の際、宝田和泉守勝成が小泉勢として活躍したと言う。

 千原田古塁は、藤川の曲流部に突き出た半島状の平地に築かれている。耕地化などでかなり改変されているので往時の縄張りはよくわからないが、半島状平地の基部の南西部の民家裏手の山林内に空堀・土塁が残っている。この空堀は、西端部でL字形に北へと折れており、10m程北に行ったところで堀がなくなり、その先は腰曲輪状の平場となっている。この辺りは、往時のままなのか改変されているのか、判断が難しい。明確な遺構はここだけであるが、遺構が残っているだけでも良しとすべきだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.274682/139.473528/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:中世平城
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藤川城(群馬県邑楽町) [古城めぐり(群馬)]

DSCN1855.JPG←主郭北側の堀跡
 藤川城は、古河公方に属した小泉城主富岡氏が築いた出城である。小泉城を築いた富岡直光の子秀光は、古河公方2代足利政氏に仕え、古河公方に敵対する佐野城(唐沢山城)に対抗するため、1521年に小泉領の北東端に藤川城を築いた。一族で重臣でもあった小林河内守義知を城主とし、敵情を探らせたと言う。

 藤川城は、豊原集落の中央付近に位置している。城跡全体が集落となっているので、遺構の改変が進んでいるが、主郭は城主後裔の小林家の宅地となっており、北側に土塁と空堀が残っている。この北側の堀には横矢掛りの屈曲も見られ、屋敷地入口の東脇にも土塁・空堀が辛うじて残っている。この空堀・土塁は主郭西側にも続いているが、周囲は民家となっていて踏査が難しく、確認できていない。私は冬季に訪城したので空堀であったが、夏場は水堀になるようである。尚、東には寺曲輪、西には上木戸の字名が残っているらしい。わずかとはいえ主郭付近は遺構が残っているので、史跡指定などして保護の手立てを講じてほしいものである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.271482/139.456716/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:中世平城
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富塚城(群馬県伊勢崎市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN3187.JPG←櫓台跡とされる八幡宮
 富塚城は、この地の豪族那波氏の支城で、那波掃部助宗長が拠ったと伝えられる。1454年に勃発した享徳の乱の際には、古河公方足利成氏に従った岩松持国は翌55年に嫡子次郎(宮内少輔)に関東管領上杉方に付いていた那波掃部助・富塚氏の居城那波城・富塚城を攻撃させて、上杉勢を撃退したと言う。

 富塚城は、韮川という小河川の西方の平地に築かれている。城内は完全に宅地化され、遺構はほとんど湮滅している。主郭とされる部分の北と東には堀跡の水路が流れている。また主郭西辺に当たる部分には、車道脇に小さな八幡宮の祠が祀られた高台がある。コンクリートで固められているので風情も何もないが、これは往時の城の櫓台跡とされる。以上が遺構のほぼ全てであり、かなり残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.274924/139.200361/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:中世平城
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玉村城(群馬県玉村町) [古城めぐり(群馬)]

DSCN3182.JPG←食違い虎口の名残の道路
 玉村城は、甲斐武田氏の家臣宇津木下総守下綱(氏久)が築いた城である。1580年1月、厩橋城主北条(きたじょう)高広を武田方に従属させる斡旋をした功績により、武田勝頼は下綱に那波郡西部281貫文を与え、玉村城を築かせた。1582年3月に武田氏が滅亡すると宇津木氏は小田原北条氏に従属し、厩橋衆の北条従属工作を行ったが、織田氏家臣滝川一益が信長より上野一国を与えられて入部したため、工作を中断した。しかし武田氏滅亡からわずか3ヶ月後に信長が本能寺で横死し、その後の天正壬午の乱の中で上野の過半が小田原北条氏の支配下となった。北条高広が同年8月と12月に那波城を攻撃した際、氏久(下綱改め。「氏」は北条氏直の偏諱か)は那波顕宗と共に籠城して撃退した。また小田原北条氏の沼田城攻撃に参陣した功により、利根川東方の福島を与えられた。1584年には先鋒となって由良氏の金山城攻撃に加わり、金山城を攻略した小田原北条氏は金山北城(坂中城)を氏久に守らせた。小田原の役の際には、領内に混乱があって氏久は小田原籠城に赴くことができなかったらしい。小田原北条氏滅亡後、徳川家康の関東移封に伴って箕輪城に封ぜられた井伊直政から、氏久は本領を安堵され、その家臣となった。井伊氏が彦根城に移封となると、氏久の子泰繁も彦根に移った。

 玉村城は、玉村八幡宮の東方250m程の至近に築かれていた。東西に長い長方形をした単郭の平城で、南に食違い虎口、西に平虎口があったらしい。位置は玉村小学校の北隣に当たり、小学校北門の前の道が、西と東のもので位置がずれているのは、この食違い虎口と空堀位置のズレの名残である。主郭は完全に宅地化されており、一部にわずかに堀跡らしい名残を見せるものの、遺構はほぼ壊滅状態である。戦後間もなくの航空写真を見ても、空堀が田んぼの中の水路として残っている程度で、かなり早くに遺構は失われていたらしい。残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.305641/139.111397/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


群馬県の歴史散歩 (歴史散歩 10)

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  • 出版社/メーカー: 山川出版社
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山名氏館(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN8595.JPG←館跡との説がある光台寺
 山名氏館は、後に室町幕府の四職に名を連ねた守護大名山名氏の、草創期の居館である。山名氏は清和源氏新田氏の一族で、新田義重の子義範が上野国多胡郡山名に分封され、山名氏を称したことに始まる。義範は治承・寿永の乱(いわゆる源平合戦)の際、源頼朝の御家人として平家追討の搦手大将軍源義経に従って活躍し、「平氏追討源氏受領六人」の一人として伊豆守に任じられた。以後、8代にわたってこの地に居住したと言う。時氏の時に元弘の乱となり、当初は新田義貞に、後には足利尊氏に従って戦功を挙げ、室町幕府が成立すると重臣となった。伯耆など西国の守護職に任じられたため西国を本拠とし、時氏の子師義の代では山名一族で西国11ヶ国の守護となり、日本66ヶ国の1/6を領したことから「六分の一殿」と呼ばれる程の強豪の守護大名になった。

 山名氏館の所在地は諸説あるが、一説には現在の光台寺の地にあったとされる。遺構は全くないが、門前に館の解説板が立っている。尚、西の山上には山名城があり、これも山名氏が築城したとの伝承が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.276550/139.043548/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山陰山名氏 (シリーズ・中世西国武士の研究5)

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  • 作者: 市川裕士
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2018/06/05
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タグ:居館
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禰津陣屋(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN8583.JPG←堀跡を思わせる道路
 禰津陣屋は、豊岡藩1万石に封ぜられた徳川氏の家臣禰津甚平信直の陣屋である。信直は、信濃小県郡禰津を本拠としていた禰津宮内大輔覚直の子で、1582年に真田昌幸の攻撃を受け、逃れて徳川家康に服属した。1590年の小田原の役後に徳川氏が関東に移封となると、信直は豊岡に封ぜられた。1606年に三ノ倉に移封されるまで、15年間ここにいたと言う。

 禰津陣屋は、現在は常安寺の境内となっている。遺構は残っていないが、境内周囲の道路は緩いカーブを描いていて、いかにも堀跡を思わせる。尚、境内には禰津氏の墓が立っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.335723/138.973939/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


群馬県の歴史 (県史)

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  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2014/01/01
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タグ:陣屋
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鼻高砦(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN8565.JPG←一段高くなった砦跡
 鼻高砦は、永禄年間(1558~70年)に6回にわたって行われた武田信玄による箕輪城攻撃の際、信玄が本陣を置いた砦と伝えられる。

 鼻高砦は、福泉寺とその周辺にあった。碓氷川南岸の河岸段丘辺縁部にあり、地勢は見るからに本陣を置く適地である。福泉寺境内は周囲より一段高くなっていて、これが主郭と思われる。境内には土塁らしいものもあるが、改変が激しいので往時の遺構かどうかは不明。尚、境内に上杉武田両軍戦没者供養塔が建てられている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.329241/138.947268/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


歴史家と噺家の城歩き (戦国大名武田氏を訪ねて)

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タグ:陣城
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里見氏館(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN8561.JPG←民家裏の土塁の残欠
 里見氏館は、新田氏の一族であった里見氏の発祥の地と言われている。新田義重の子義俊が新田氏の所領である里見郷に分封されて里見氏を称した。この地は義俊の所領であったが、義俊がここに居住したかは不明で、その居館地は確認されていないと言う。ただ北西に隣接する光明寺には里見氏の供養塔が残り、里見氏に所縁の深い地であったことを物語っている。

 里見氏館は、前述の通り光明寺に隣接した地にあり、現在は民家となっている。字名を堀之内と言い、西と北に土塁の残欠が見られる。また西側に水路があるが、これはかつての堀跡であるらしい。尚、ここから南方1.3kmには里見城があるが、これとの関係も不明である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.370529/138.908987/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図説 戦国里見氏

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  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
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タグ:居館
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遠北の陣城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN8531.JPG←竪堀とされる堀状地形
 遠北の陣城は、武田氏が築いた陣城と伝わる。1566年に武田信玄は長野氏の拠る箕輪城攻撃に当たって箕輪城と鷹留城の連絡を断つため高浜の砦、次いで白岩の砦を攻略した。遠北の陣城も箕輪・鷹留両城を分断する要地であり、箕輪城攻囲の際にこの方面を担当した小山田・穴山・土屋・諸星・曽根の内のいずれかの陣城であろうと推測されている。

 遠北の陣城は、高浜川東岸の段丘上に築かれている。現在は宅地・畑地となっていて遺構はほとんど残っていないが、西側に竪堀とされる堀状地形が残っている。たまたま訪城した際、宅地のご主人と話をすることができたが、ここが遠北の陣城とされているのをGoogleMapで初めて知ったとのことで、城の伝承についてはご存知ない様だった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.374468/138.928020/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


長野業政と箕輪城 (シリーズ・実像に迫る3)

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白岩の砦(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN8524.JPG←砦跡の現況
 白岩の砦は、箕輪城主長野氏の支城である。1566年の武田信玄の上州攻めの際、高浜砦に次いで落とされた砦と伝わっている。

 白岩の砦は、小堀川沿いの窪地にある。この地は旧水沢街道に接し、箕輪城と鷹留城を結ぶ交通路の中間点に当たる。かつては長谷寺六坊の一つであった入野坊の旧地であり、『信濃をめぐる境目の山城と館 上野編』では白岩の砦を、院坊の施設を利用した街道の中継所で、宿駅的なものではなかったかと推測している。現在は民家と田畑に変貌しており明確な遺構は見られない。この窪地の東側には一段高い平場があるが、砦の一郭であった可能性は考えられる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.386854/138.932955/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
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白川陣屋(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN8519.JPG←陣屋跡の現況
 白川陣屋は、安房勝山藩が築いた陣屋である。1668年、若狭小浜藩主酒井忠直の甥酒井大和守忠国は、1万石を分与されて安房勝山藩を立藩した。1682年に白川・和田山・西明屋・富岡・上高浜・下高浜・本郷の七か村が勝山藩の所領となったため、居城から遠く離れた飛び地を治めるために白川陣屋が設置された。代官は、西明屋の下田理太夫政広が務め、以後下田家当主により代々世襲され、幕末まで存続した。

 白川陣屋は、現在畑となっている。遺構は完全に湮滅しているが、車道脇に標柱と解説板が立っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.370148/138.953898/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


群馬県の歴史散歩 (歴史散歩 10)

群馬県の歴史散歩 (歴史散歩 10)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2005/12/01
  • メディア: 単行本


タグ:陣屋
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和田館(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN8506.JPG←解説板が立つ館跡付近の現況
 和田館は、和田山館とも言い、鎌倉時代前期に和田合戦で敗れて滅亡した鎌倉幕府の重鎮和田義盛の一族がこの地に逃れて居館を構えたとされる。九死に一生を得て和田山の地に潜居したのは、義盛の6男義信、同8男義国、或いは義信嫡子正信など諸説あって明確ではない。いずれにしても上州和田氏は、和田義盛の裔を称した。そして1230年または1243年に赤坂荘へ移って上州和田氏の祖となり、室町時代に和田城(高崎城の前身)を築いて居城とした。

 和田館は、榛名白川西岸の丘陵に三方を囲まれた窪地に築かれていたらしい。現在は民家となっており、市道脇の現地解説板には「濠跡が認められる」とあるが、民家裏の段差ぐらいしか認められない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.381361/138.952632/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


相模のもののふたち―中世史を歩く (有隣新書10)

相模のもののふたち―中世史を歩く (有隣新書10)

  • 作者: 永井 路子
  • 出版社/メーカー: 有隣堂
  • 発売日: 2022/11/15
  • メディア: 新書


タグ:居館
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古仲城(群馬県片品村) [古城めぐり(群馬)]

DSCN9303.JPG←西端の堀切
 古仲城(小中城)は、この地の土豪小中彦兵衛(兵衛尉?)の城である。彦兵衛は、上杉謙信が初めて関東に出馬すると、上野諸将と共に上杉氏に服属した。1569年に沼田氏が没落すると、彦兵衛は沼田城にあって、上野家成・川田重親の下で沼田地衆に関する諸事の奉行を務めた。1578年に謙信が急死すると、武田勝頼は側近の跡部勝資に命じて、彦兵衛を調略して沼田城略取の工作を行わせたと言う。

 古仲城は、片品川西岸に突き出た断崖上に築かれている。西側の台地基部以外の三方は渓谷に臨む垂直断崖で囲まれており、西側以外からは城へは接近できないという要害地形である。西側を通る市道脇に城への入口があり(城の案内標識があるが、根本が朽ちて倒れていた)、城までの散策路が一応付けられている。「一応」というのは、途中が笹薮に埋もれてわかりにくくなっているからである。城の西側を流れる細流に架かった一枚板の木橋を渡り、東に進めばすぐ城域である。最初に現れるのが台地基部を穿つ堀切で、ここから先が本城域になるが、堀切の西側にも腰曲輪状の平場が見られるので、堀切沿いに外郭があった様である。城内には、低土塁で囲まれた曲輪群があり、西から順に三ノ郭・二ノ郭・主郭と連なっている。三ノ郭の入口は食違い虎口が築かれ、三ノ郭・二ノ郭間は浅い空堀で区画されている。二ノ郭と主郭との間にはわずかな段差しかないが、ここにも食違い虎口が築かれて主郭に通じている。主郭内は広い平場となっているが、内部にはクランクする低土塁があり、建物などを仕切っていたと思われる。主郭の先端は高台となっており、物見台や烽火台として使用されていたと思われる。以上が古仲城の遺構で、城内は薮払いされており、遺構をよく確認することができる良好な城跡である。
主郭に通じる食違い虎口の土塁→DSCN9330.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.826729/139.240851/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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木内氏館(群馬県沼田市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN9283.JPG←北辺の土塁
 木内氏館は、木内屋敷とも言い、天正年間(1573~92年)に沼田一の豪者と謳われた木内八右衛門の居館であった。1580年、八右衛門は宮野城(猿ヶ京城)の守将尻高左馬助義隆と共に、北条方として三国峠を越えて越後荒砥城を攻撃し、城将樋口氏を討ち取り、北条氏政から感状を受けたと言う。しかしその後は沼田城を押さえていた真田昌幸に服属した。翌81年、反逆の疑いで真田昌幸の追捕をうけた沼田城代海野能登守輝幸は、迦葉山を目指して逃れる途中、岡谷で真田勢に追撃された。その際、真田の検死役田口又左衛門と木内八右衛門と戦い、八右衛門は又左衛門と共に輝幸に討たれた。しかし輝幸も自刃して果てたと言う。

 木内氏館は、現在民家の敷地になっている。そのため周りから眺めるほかないが、宅地の周囲には高さは低いものの土塁が明瞭に残っている。土塁の周囲には堀もあったと思われるが、堀跡は湮滅してしまっている。これ以上の改変がないように、遺構保護の手立てを講じてもらいたいものである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.708829/139.064169/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


群馬県の歴史散歩 (歴史散歩 (10))

群馬県の歴史散歩 (歴史散歩 (10))

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2005/12/01
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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石倉館(群馬県みなかみ町) [古城めぐり(群馬)]

DSCN9221.JPG←土塁の角部と石塁
 石倉館は、関東管領山内上杉憲政が北条氏康の侵攻に抗しきれず越後に亡命した際、一時滞在した石倉治部の館と伝えられる。後には石倉三河の居館であったとされる。

 石倉館は、石倉城南東の利根川西岸の平地に築かれている。国道291号線から狭い車道の急坂を東に下り、その先の細い小道を北に辿っていくと、畑の奥に土塁が見えてくる。これが石倉館である。この場所は段丘の縁に当たり、西に開いたコの字型に土塁が廻らされている。土塁の中には石塁が多数散在している。しかし郭内は一部を除いて倒竹地獄と劇薮で、踏査は大変である。南北に虎口があり、また北辺は土塁の外に堀跡も残っている。また塁線は、東側だけ中央部が外に向かって張り出している。遺構としてはこの程度で、石倉城に行ったついでに寄る程度のものだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.744911/138.981900/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


上杉憲政-戦国末期、悲劇の関東管領- (中世武士選書シリーズ34)

上杉憲政-戦国末期、悲劇の関東管領- (中世武士選書シリーズ34)

  • 作者: 久保田順一
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2016/07/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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雷電山砦(群馬県太田市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN3381.JPG←虎口の石垣
(2021年2月訪城)
 雷電山砦は、金山城主由良氏が築いた砦と考えられている。藪塚温泉から籾山峠に至る途中の標高190mの雷電山に築かれている。南西の県道脇から登山道があり、それを登っていくと砦に至る。砦の名の通り小規模な城砦で、山頂部には土壇と腰曲輪状の平場がいくつか見られ、四阿や雷電山の標柱がある。この砦では、南山腹を廻る横堀があり、虎口には石垣が残っている。しかし横堀はほとんど腰曲輪の様に見え、虎口の石垣も小さい。虎口の上を山頂まで登る道の脇には竪土塁・竪堀があるが、竪堀はほとんどわからない程度のものである。この他、県道脇の登り口近くに井戸があるとされるが、私が確認した限りでは石切場の跡らしく、遺構とは思えなかった。
 尚、砦には車道脇から登れるのだが、登り口近くには車を駐車できるスペースがない。しかも車の往来が結構激しい山道なので、路肩に車を停めておくのも困難である。そのため少々行きづらい位置にある砦である。
砦の頂部の平場→DSCN3399.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.364308/139.327401/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


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矢田代官所(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN3368.JPG←北辺の空堀と土塁
(2021年2月訪城)
 矢田代官所は、矢田陣屋の北にほぼ隣接する様に築かれた代官所である。吉井藩鷹司松平家の代官である小林氏が居住したと言う。

 矢田代官所は、矢田陣屋と同様、矢田川とその支流に挟まれた台地の東縁部に築かれている。内部は民家となっているので入ることはできないが、南側に土塁が残り、その西端部には枡形状の通路の屈曲が見られる。また北側の林の中には土塁と空堀が残っている。普通は陣屋跡をそのまま代官所にすることが多いはずなので、陣屋と代官所が別に置かれた稀有な例である。矢田陣屋があった時代に、鷹司松平家の家臣となっていた小林氏が陣屋のすぐ北に屋敷を構え、陣屋が吉井に移って代官に就任してからも自分の屋敷をそのまま代官所としたために、この様な形となったのかもしれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.250581/138.996481/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


国別 城郭・陣屋・要害・台場事典

国別 城郭・陣屋・要害・台場事典

  • 出版社/メーカー: 東京堂出版
  • 発売日: 2021/06/13
  • メディア: 単行本


タグ:陣屋
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矢田城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN3344.JPG←西側の空堀と土塁
(2021年2月訪城)
 矢田城は、近世には矢田陣屋と呼ばれ、この地の土豪小林氏が中世に築いた城館である。江戸時代前期以降には、京都五摂家の一、鷹司家の出である松平信平を祖とする鷹司松平家の陣屋となった。その経緯は吉井陣屋の項に記載する。1752年、松平信友が藩主の時に吉井に陣屋を移した。尚、すぐ北に隣接するように矢田代官所が置かれている。

 矢田城は、矢田川とその支流に挟まれた台地の東縁部に築かれている。方形単郭居館であったと思われ、西辺と北辺に立派な土塁と空堀が残っている。郭内は民家になっているので、外回りから眺めるしかできないが、すぐ西を通る車道からでも、よくその遺構を見ることができる。一部ではあるが、史跡指定されていないのが不思議なほど、遺構がよく残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.249110/138.996030/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


小藩大名の家臣団と陣屋町 4 東北・北関東地方

小藩大名の家臣団と陣屋町 4 東北・北関東地方

  • 作者: 米田 藤博
  • 出版社/メーカー: 株式会社クレス出版
  • 発売日: 2019/12/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館 陣屋
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黒川城(群馬県富岡市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN3291.JPG←大土塁
(2021年2月訪城)
 黒川城は、鎌倉初期の武士渋谷次郎高重の居城と伝えられる。渋谷高重の事績は早川城の項に記載する。黒川郷を源頼朝から賜ったことが、頼朝の側近で上野国奉行人であった安達盛長から伝達されたと言う。但し渋谷氏は相模国を本領とする御家人なので、黒川郷を与えられて所領としていたとしても、高重自身は本領に留まり、黒川郷には一族家臣を代官として派遣して支配していたものと思う。

 黒川城は、比高30m程の丘陵先端部に築かれている。不動尊の裏山で、不動尊脇から登道が付いており、案内板も設置されている。ほぼ単郭の城で、後部に削り残しの土塁があり、主郭の外周は一段低く横堀か腰曲輪が廻らされている。しかし土塁は形が改変されている模様で、『日本城郭大系』にも「近年破壊された」とあるので、元の形状から削られてしまっている様である。また外周の横堀・腰曲輪も、南辺の横堀ははっきりしてるが北辺の腰曲輪・横堀は東麓からの登道になっていて、改変の可能性が強く、元の形状は不明である。土塁の後ろには平坦な台地が広がっているが、普通なら土塁背後に堀切がありそうなのにここでは堀切の痕跡も確認できない。遺構を見る限り、所領統治の陣屋的な城だったように思う。
主郭南側の横堀→DSCN3297.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.264492/138.865932/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


源頼朝-武家政治の創始者 (中公新書)

源頼朝-武家政治の創始者 (中公新書)

  • 作者: 元木 泰雄
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2019/01/18
  • メディア: 新書


タグ:中世平山城
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尻高城(群馬県高山村) [古城めぐり(群馬)]

DSCN3226.JPG←堀切と主郭
(2021年2月訪城)
 尻高城は、長尾尻高氏の居城である。平時の居館としての里城・並木城に対して、山上の詰城に当たる。1401年に白井城主長尾重国(景春)の家臣が築城し、2年後に完成すると、重国の3男重儀が城主となり尻高左馬頭を称した。尻高氏の事績については、並木城の項に記載する。

 尻高城は、赤狩川西岸の標高700mの「ゆうげい(要害の転訛)」と呼ばれる山上に築かれている。並木城の北東1.5kmの位置に当たる。南麓の小屋集落の最上段から山道が付いている。最初は幅広の尾根で、地形図の標高610m地点まで来ると、大手郭群の堡塁に至る。大手郭は前面に堀切があり、その上に腰曲輪を伴った数段の平場で構成された堡塁があり、最上段は櫓台の様な形状で、背後は切岸で区画されている。この堡塁の南西の支尾根にも段状に曲輪群が構築されているが、その先は自然地形となっていてどこまで曲輪としていたのかはよくわからない。大手郭群の先は急斜面の細い尾根道となり、これを高さ60m程登ると、山上の主城部に至る。主城部は、T字型の細尾根上に築かれている。最初に現れる南尾根は、先端に2段ほどの段曲輪を置き、その先はほとんど自然地形の細尾根となっている。その先に段差があって主郭に至る。主郭の西に降る尾根には、堀切2本と二重堀切が散発的に穿たれ、その西の峰に物見の小郭、更に西に小堀切が穿たれて城域が終わっている。この小堀切の内側には横長の石が間隔を空けて2つ並べられており、門跡の礎石であった可能性がある。また他の堀切には石積みも確認できる。一方、主郭の東には堀切を挟んで二ノ郭がある。二ノ郭には全部で5基の石祠が間隔を空けて置かれている。二ノ郭の先端は1段の腰曲輪があり、その先は急峻な細尾根となっている。また二ノ郭の南斜面には2段の帯曲輪が築かれている。以上が尻高城の遺構で、ネット上で見つけた『群馬の古城』の縄張図はちょっと不正確で、西尾根の遺構は縄張図に載っていない。堀切としてはこちらの方が深くしっかり穿たれている。いずれにしても大した兵数を置くことはできず、冬期の籠城も困難で、あくまで有事の際にだけ使用された城であることがうかがわれる。
大手郭群の段状曲輪→DSCN3123.JPG
DSCN3201.JPG←西尾根の門跡?の石
堀切沿いの石積み→DSCN3210.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.630726/138.906873/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


太田道灌と長尾景春 (中世武士選書43)

太田道灌と長尾景春 (中世武士選書43)

  • 作者: 黒田基樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2019/12/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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岩下城(群馬県東吾妻町) [古城めぐり(群馬)]

DSCN2974.JPG←大堀切、奥は主郭
(2021年2月訪城)
 岩下城は、岩櫃城の支城である。岩櫃城を居城とした斎藤氏は、一時期庶家の大野氏に実権と城を奪われ、その配下となって岩下城を居城とした。その後大永年間(1521~28年)に、斎藤憲次が大野氏を滅ぼして岩櫃城を再び居城とすると、家臣の富沢但馬守基光を岩下城に入れて守らせた。憲次の子憲広の時、岩櫃城は武田氏の家臣真田幸隆に攻略されて没落したが、岩下城主の富沢但馬守行連は、甥の弥三郎・海野長門守等と共に岩櫃落城前に武田氏に内通し、所領を安堵された。その後富沢氏は、吾妻郡を領した真田氏に属して岩下城を守備した。行連の子勘十郎は、1575年の長篠合戦で討死したと言う。

 岩下城は、吾妻川北岸の標高545m、比高115mの山上に築かれている。吾妻川を挟んだ対岸には三島根古屋城がある。岩下城の東下まで山道が伸びているのでそこを車で上り、北の峠の部分から西の尾根に取り付けば、簡単に城に到達できる。T字型の尾根に沿って曲輪を連ねた城で、西尾根に大堀切を穿って城域を二分した一城別郭の縄張りとなっている。前述の山道から尾根を南に登っていくと、最初に浅い堀切が現れ、その先に中規模の堀切2本と小郭があり、その先に三ノ郭がある。三ノ郭は三角形に近い形状の曲輪で、西に一段低く腰曲輪を置き、東・南斜面に帯曲輪1段、また南尾根には舌状曲輪を配置し、先端部に段曲輪群を築いている。この段曲輪群の段数は、『日本城郭大系』『境目の山城と館』の縄張図に描かれているよりも多く、段曲輪中にはわずかに石積みの跡が見られる。これらの東の遺構群の西側に、前述の通り深さ10m程にも及ぶ大堀切がある。この堀切は北側に竪堀となって長く落ち、西側には竪土塁が築かれている。この竪堀に沿って、東西に腰曲輪群が築かれている。大堀切の西側にそびえるのが主郭で、後部に土塁を築いた小さな曲輪である。主郭の西に一段低く二ノ郭があり、神社が祀られている。主郭・二ノ郭の北斜面から西尾根にかけて大きな腰曲輪が築かれ、更にその下方にも腰曲輪群が築かれている。以上が岩下城の遺構で、城自体はそれほど大きなものではないが、堀切が大きく、特に城域を二分する堀切は圧巻の大きさである。北尾根から近づいて行くと、段々と堀切が巨大になっていくので、城の守りの堅さを実感できる。
北尾根の2本目の堀切→DSCN2901.JPG
DSCN2938.JPG←段曲輪群に残る石積み

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.559817/138.771969/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


パーツから考える戦国期城郭論

パーツから考える戦国期城郭論

  • 作者: 西股総生
  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2021/03/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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三島根小屋城(群馬県東吾妻町) [古城めぐり(群馬)]

DSCN2813.JPG←登り途中の二重堀切の内堀
(2021年2月訪城)
 三島根小屋城は、天文弘治の頃(1532~58年)に手子丸城主大戸浦野氏の家臣江見山城守の居城であったと伝えられる。江見氏は、浦野氏と共に岩櫃城主斎藤憲広と戦ったが敗れ、信濃へ落ち延びたと言う。その後、浦野下野守が三島根小屋城に入ったとされる。尚、吾妻川の対岸には斎藤氏の支城岩下城があり、三島根小屋城と対峙している。

 三島根小屋城は、吾妻川南岸の標高675m,比高240m程の斥候山(城山)に築かれている。城域は、山麓台地上の鉄塚と呼ばれる麓城と斥候山の山城部分に分かれている。
 鉄塚部は、諏訪神社背後の比高50m程の平坦な台地上にあったが、近年の上信道建設で東側半分ほどが破壊されてしまっている。しかし西半分は残っており、畑となった平場の北側に大きな方形の土壇があり、櫓台であったらしい。台地上の平場の南斜面には、腰曲輪らしい平場が一段あり、また台地の西側の斥候山に登る手前には、数段の平場群と堀状通路が見られる。但しこの辺りは林業などで改変されている可能性もあるので、全てが城の遺構かどうかは判然としない。
 山城部は、山頂までの長い尾根に段曲輪が散発的に配置している。砂礫部の多い急傾斜の尾根で、城道は一部を残してほとんど消滅しているため、ほとんど尾根直登となる。段曲輪群には、ほとんど技巧的なところは見られず、単に曲輪をポツポツと並べただけで、戦国期の城と言うより南北朝期の古い形態の城の様に思える。途中に石積みらしいものも見られるが、構築意図は不明である。段曲輪群の途中には2ヶ所に堀切が穿たれ、下方のものは二重堀切となっている。山頂の主郭は狭小な曲輪で祠が祀られており、前後と右側に腰曲輪が付随している。背後の尾根にも段曲輪群と堀切が2ヶ所に構築されている。尾根鞍部の堀切は二重堀切となっているが、かなり浅く痕跡的になってしまっている。
 以上が三島根小屋城の遺構で、曲輪の数こそ多いものの山城部はあくまで有事の際の詰城の位置付けで、技工性も見られない。久々の登城比高200mオーバーの山城だったが、遺構がどれも小規模であまり苦労が報われなかった。
鉄塚部の平場→DSCN2771.JPG
DSCN2789.JPG←謎の石積みと段曲輪群
背後尾根の堀切→DSCN2852.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.554766/138.757313/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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羽田城(群馬県東吾妻町) [古城めぐり(群馬)]

DSCN2621.JPG←主郭背後の大堀切
(2021年2月訪城)
 羽田城は、箕輪城主長野氏の一族羽田氏の居城である。1562年、武田信玄は羽田彦太郎を逐って、その跡を手小丸城主浦野重成に与えたと言う。また永禄年間(1558~70年)頃に羽田長門守康文が城主であったとの伝承もある。彦太郎は康文の子である可能性があるが、正確な関係は不明である。

 羽田城は、今川北岸の比高80m程の丘陵南端部に築かれている。平坦な丘陵上ではなく、丘陵の南斜面に築かれているため、城内は予想外に高低差が大きい縄張りとなっている。南西に大きく張り出したひしゃげた五角形状をした主郭と、堀切を介して北に配置された長方形の北郭から構成されている。主郭は内部が階段状に3段に区画され、最上段は更に東西にわずかな段差で区切られている。主郭の南中央には平虎口があり、その左側で塁線が張り出して横矢を掛けている。主郭の東西には横堀が穿たれ、背後の堀切と繋がっている。この横堀からは、西側で2本の竪堀が落ちている。また東側の横堀も、南端で直角に曲がって竪堀となって落ちている。この堀の直角部から上の腰曲輪に向かっても堀状通路が伸び、虎口を形成していたものと見られる。西の横堀の南端部にも虎口らしい部分があるが、この辺りは薮がひどくて形状がわかりにくい。北郭は、背後にも堀切が穿たれ、前後を堀切で分断されている。いずれの堀切も規模が大きく一直線に穿たれている。この他、主郭の南東部にも平場があり、ここも一郭であったと思われる。南東端に愛宕山大権現と刻まれた小さな石祠が立っている。以上が羽田城の遺構で、堀切が大きく、外周の横堀から落ちる竪堀を駆使した城であるが、一方で横矢掛りは少ない特徴がある。
主郭西側の横堀→DSCN2659.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.528873/138.744439/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

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  • 作者: 松岡 進
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/02/27
  • メディア: 単行本



タグ:中世平山城
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大戸平城(群馬県東吾妻町) [古城めぐり(群馬)]

DSCN2552.JPG←平場群の上にある二ノ郭
(2021年2月訪城)
 大戸平城は、歴史不詳の城である。戦国時代に大戸の領主であった手子丸城主浦野氏に関連する城と推測されている。一説には、厳冬期には居城が困難な山城の手子丸城に対する冬館とする見解もある。

 大戸平城は、大戸宿の南西にある比高30m程の丘陵上に築かれている。現在、城の二ノ郭・三ノ郭が公園として整備されている。北東麓から案内板に従って登っていくと、段々になった平場群を抜けて三ノ郭に至る。三ノ郭は半月形の曲輪で、その北東側に2段ほどの腰曲輪が広がっている。三ノ郭の後ろに2m程の段差で区画された二ノ郭がある。二ノ郭は城内で最も広い曲輪で、現在は木製の展望台が建っている。二ノ郭の奥には、2m程の段差で区画された主郭がある。主郭内は未整備で薮に覆われている。主郭・二ノ郭の東西には一段低く腰曲輪が置かれている。主郭背後には堀切が穿たれているが、形状は箱堀で、これは前述の東西の腰曲輪を繋ぐ通路としての機能を持っている。堀切の南には南郭があるが、現在は墓地と空き地となっている。墓地の部分は一段高くなっており、櫓台があったと考えられる。この櫓台からは前述の西側の腰曲輪に対して横矢が掛かる様になっている。以上が大戸平城の遺構で、特筆するような特徴はないが、予想外に整備されていたのが嬉しい。
主郭背後の堀切→DSCN2520.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.509662/138.772634/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


群馬県謎解き散歩 (新人物往来社文庫)

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  • 出版社/メーカー: 新人物往来社
  • 発売日: 2013/01/15
  • メディア: 文庫


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