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古城めぐり(群馬) ブログトップ
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萩生城(群馬県東吾妻町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2904.JPG←主郭外周の空堀
 萩生城は、大戸城(手子丸城)の支城である。大戸浦野氏の家臣小林石見が在城していたと伝えられる。1582年、武田勝頼・織田信長が相次いで滅亡すると、徳川家康との天正壬午の乱を経て、上野一国の支配権を狙って小田原北条氏の勢威がこの地にまで及んできた。吾妻を領有して北条氏に抗していた真田昌幸の岩櫃城を攻撃するため、その前哨戦が三ノ倉で始まったとされ、真田方であった大戸城主大戸真楽斎・権田城主大戸但馬守兄弟は三ノ倉で北条勢を迎撃したが、多勢に無勢で大戸城まで退き、そこで激戦の末討死した。この戦いの中で、萩生城も北条勢に攻略され、小林石見は没落したと言う。

 萩生城は、境野集落に北側に隣接する比高30m程の舌状に伸びた低丘陵の中程に築かれている。城のすぐ東側には旧草津街道が切り通し状に貫通しており、街道を押さえる要害として機能していたことが伺われる。方形に近い形状の主郭を中心に、周囲に空堀を廻らし、前後にニノ郭・三ノ郭を設け、更に北西から北側を巡って南東まで空堀を廻らした縄張りとなっている。従って、主郭の北東側では二重横堀となっており、2つの横堀間には土塁が延々と伸びている。主郭は畑となっており、前述の旧草津街道から畑まで小道が伸びているので、訪城はたやすいが、主郭には無断では進入できない。主郭の北東側ははっきりとした二重横堀となっているが、南西側は改変されているのか、内側の空堀も一部を除いて腰曲輪状になっており、やや遺構が不明瞭になっている。主郭北西の三ノ郭(『境目の山城と館 上野編』の縄張図では郭4としている)の前面には土塁が築かれ、その前には尾根を断ち切る様に二重横堀の外堀が掘り切っている。その先の北西尾根はほとんど自然地形であるが、途中に2本の堀切が穿たれている。一方、南東の尾根は改変を受けているらしく、二ノ郭の南側などはわずかな段差しか残っていない。萩生城は、二重横堀で防御を固めているものの横矢掛かりは見られず、素朴な形態の城である。少々薮が多いのが難である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.487868/138.776293/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平山城
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坂本城(群馬県安中市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2814.JPG←主郭群とニノ郭群を分断する堀切
 坂本城は、歴史不詳の城である。『安中史』に甘楽大夫朝政なる者の城と記載されるというが、元より当てにはならない。どちらかと言えば、中山道を押さえる愛宕山城を側面援護するために、武田氏か北条氏によって取り立てられた城の様に推測される。

 坂本城は、碓氷湖の南東にそびえる標高640m、比高120m程の山上に築かれている。坂本ダムの南にそびえている山で、碓氷湖周辺の遊歩道の脇から北西の尾根に取り付けば、そのまま尾根伝いに城まで行くことができる。山上に中規模の堀切で分断された主郭群とニノ郭群を並べた一城別郭式の縄張りとなっている。主郭群もニノ郭群も最上段を北端に設け、やや傾斜の緩い南斜面に数段の腰曲輪群を築いている。最上段の主郭とニノ郭の北辺には低土塁が築かれ、風除けを兼ねたものと推測されている。主郭群とニノ郭群を分断する堀切は、南に長い竪堀となって落ち、下端で弓形状の腰曲輪に繋がっている。この他、二ノ郭群の北西尾根には二重堀切が穿たれ、更にその下方にも小堀切が穿たれて城域が終わっている。比較的シンプルな縄張りであるが、かなりしっかりと普請されており、この城の重要性が垣間見られる。
二重堀切→IMG_2853.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.351391/138.708358/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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愛宕山城(群馬県安中市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2733.JPG←主郭東角の張出し
 愛宕山城は、碓氷城とも言い、歴史不詳の城である。旧中山道を押さえる位置にあり、横矢掛かりや馬出しを設けた構造から、武田氏か小田原北条氏による築城と推測されている。1547年、笠原城救援に出撃した関東管領上杉氏の上州勢を小田井原で撃破した武田勢は、一気に碓氷峠を越え、一部を坂本に駐留させて松井田衆と競り合っており、その際にこの城を構築したのではないかと推測されている。また後には小田原の役に備えて、松井田城将の大道寺政繁によって改修を受けたと言う説が一般的である。

 愛宕山城は、刎石山から南東に伸びる尾根の先端の、標高570m、比高70mの位置に築かれている。ほぼ単郭の城で、方形の主郭の周囲に空堀が穿たれて防御を固めている。主郭内部の大半は大藪で進入不能であるが、内部は上下2段に分かれている様である。主郭の東角部は横矢の櫓台が突出しており、南東と北東の堀底への攻撃を可能としている。また台地基部側の北西辺は中央部が外側に張り出し、ここでも横矢を掛けている。この他、南西には丸馬出しが設けられ、その外側は三日月堀が穿たれている。馬出しの南東にも土壇があり、物見台か何かがあったのだろう。主郭の背後の尾根は自然地形に近いが平たく伸びており、外郭として機能した可能性もあるが、先端には江戸時代の堂峰番所の施設があったので、江戸期の改変の可能性もある。愛宕山城は、遺構を見る限り、街道を押さえる防衛陣地として機能していた様である。
 尚、城からやや離れた旧街道の西側には、堂峰番所の石垣などの遺構も残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.356480/138.714838/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望―天正壬午の乱から小田原合戦まで

武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望―天正壬午の乱から小田原合戦まで

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2011/05/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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星尾城(群馬県南牧村) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2628.JPG←南斜面の腰曲輪
 星尾城は、南牧衆の筆頭であった砥沢城主市川氏の初期の居城と言われている。市川右近四郎義継が南牧に来住して星尾城を築いたと伝えられる。その子、四郎左衛門真保の時に、砥沢城を築いて移り、以後は砥沢城が市川宗家の居城となり、星尾城はその支城となったと言う。

 星尾城は、標高690m、比高180mの山上に築かれている。峻険な岩山であるが、東の尾根下に林道が通り、トンネル脇から比較的楽に登ることができる。城とは言うものの、ほとんど自然地形を利用した小城砦で、山頂部は岩山そのままのただの物見台で、人のいるスペースはわずかしかない。そこから南西の尾根に何段かの小郭があり、南下に腰曲輪が築かれている。この辺りは普請が明瞭なので、城として使われたことは間違いない。大手は南に伸びる尾根にあったらしい。山深い場所にあるので、ほとんど烽火台としての使用が主だった様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.173470/138.656538/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武田勝頼:日本にかくれなき弓取 (ミネルヴァ日本評伝選)

武田勝頼:日本にかくれなき弓取 (ミネルヴァ日本評伝選)

  • 作者: 笹本正治
  • 出版社/メーカー: ミネルヴァ書房
  • 発売日: 2011/02/10
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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笹ノ平城(群馬県南牧村) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2576.JPG←主郭の櫓台
 笹ノ平城は、南牧六人衆の一人、高橋氏の城である。1567年に武田家家臣団が納めた生島足島神社の起請文に南牧衆のものがあり、ここに名を連ねた小沢源十郎行重、市川四郎衛門重久、市川四郎兵衛貞吉、懸河彦八郎直重、高橋左近助重行、市川兵庫助景吉ら6名を南牧六人衆と称している。笹ノ平城は高橋左近助重行が城主で、元は国峰城主小幡氏が磐戸の高橋氏に命じて築いたとされる。小幡憲重・信貞父子が同族の小幡景貞に国峰城を奪われた後、武田信玄の支援を受けて市川氏の砥沢城に入ると、景貞はこれを討つべく出兵し、この付近の桧平一帯で激戦となり、笹ノ平城も戦闘に巻き込まれたと言う。尚この合戦は、信貞が国峰城を奪還した際、信玄の下で大いに活躍していく端緒となった。その後、南牧六人衆は小幡氏に属した。更にその後は上州諸豪と同じく、武田氏が滅ぶと織田信長配下の滝川一益に属し、本能寺の変で織田政権が崩壊すると、小田原北条氏に服属したのだろう。

 笹ノ平城は、標高500m、比高150m程の山上に築かれている。東麓の民家の裏に尾根へ近づく緩斜面があり、そこを登って南東尾根に取り付けば、そのまま城まで登ることができる。ほぼ単郭の城で、山頂にはこの手の小城にしては広やかな主郭がある。北側に張り出した縦長の三角形状の曲輪で、主郭南東部には櫓台が築かれており、祠が祭られている。主郭の両端には堀切が穿たれているが、規模は小さくささやかなものである。主郭の前面に当たる東尾根には数段の小郭があり、そこからずっと降った先にも2段の段曲輪があり祠が祭られている。主郭の背後の尾根は自然地形で積極的な普請の跡は見られない。遺構を見る限り、山間の街道の監視と詰城として機能していた様だ。
主郭背後の堀切→IMG_2593.JPG


 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.166974/138.723228/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国大名と国衆 (角川選書)

戦国大名と国衆 (角川選書)

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2018/12/21
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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塩沢城(群馬県南牧村) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2553.JPG←城址推定地の現況
 塩沢城は、小塩沢屋敷とも呼ばれ、南牧六人衆の一人、市川兵庫助景吉の城である。1567年に武田家家臣団が納めた生島足島神社の起請文に南牧衆のものがあり、ここに名を連ねた小沢源十郎行重、市川四郎衛門重久、市川四郎兵衛貞吉、懸河彦八郎直重、高橋左近助重行、市川兵庫助景吉ら6名を南牧六人衆と称している。塩沢城は、元は懸河道丹の居城であったらしいが、1558年、国峰城の小幡景定が砥沢城主市川氏に道丹の討滅を命じ、市川氏は3男真好を派遣して夜襲を掛けて道丹一党を討ち取ったとされる。その後は塩沢市川氏の居城となった様だ。

 塩沢城は、小塩沢川の北岸の平地にあったらしい。現在は畑となっているが、何段かの石垣が組まれ、まるで城郭のように立派なものである。往時のものとは考えにくいが、なかなか見応えがある。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.185213/138.728549/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

歴史家と噺家の城歩き (戦国大名武田氏を訪ねて)

歴史家と噺家の城歩き (戦国大名武田氏を訪ねて)

  • 作者: 中井均
  • 出版社/メーカー: 高志書院
  • 発売日: 2018/12/05
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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小沢城(群馬県南牧村) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2511.JPG←帯曲輪北端部の石積み
 小沢城は、南牧六人衆の一人、小沢氏の城である。1567年に武田家家臣団が納めた生島足島神社の起請文に南牧衆のものがあり、ここに名を連ねた小沢源十郎行重、市川四郎衛門重久、市川四郎兵衛貞吉、懸河彦八郎直重、高橋左近助重行、市川兵庫助景吉ら6名を南牧六人衆と称している。小沢城は、小沢行重が城主であったと推測されている。小幡信貞が武田信玄の支援を受けて国峰城を奪還した際、信玄の命で南牧六人衆は小幡氏に属し、その後も小幡氏の配下とされた。その後は上州諸豪と同じく、武田氏が滅ぶと織田信長配下の滝川一益に属し、本能寺の変で織田政権が崩壊すると、小田原北条氏に服属したのだろう。1590年の小田原の役の際には、豊臣方に降った南牧の同族に攻められ、落城したと伝えられる。

 小沢城は、標高498m、比高190m程の城山に築かれている。南西麓に小沢神社があり、その脇から登山道が伸びている。山頂に数段の小郭群から成る本城があり、主郭には馬頭観音堂が建てられている。主郭の前の腰曲輪の下方に小堀切があり、更にその下に2段の段曲輪が築かれている。その下には長大な帯曲輪が延々100m以上に渡って築かれ、一番北の部分には石積みが見られる。またその西下にも帯曲輪があり、林業用のものだったと思われる古びた鉄塔が3本立っている。その下方にもやや広めの平場が広がっており、南端には物見だったと思われる小丘もある。遺構は以上で、基本的には小規模な詰城であるが、想像していたよりも帯曲輪が長大で、遺構も明瞭である。
主郭下方の段曲輪→IMG_2516.JPG


 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.184485/138.751853/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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室沢砦(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2460.JPG←墓地の周囲に見られる土盛り
 室沢砦は、峰屋敷とも呼ばれ、中世の豪族の館跡と推測されている。神田沢と清水沢に挟まれた高台にある。一応、市の史跡に指定されているのだが、既に標注はなく、遺構も不明瞭でどれが館跡なのかもよくわからない。墓地の周囲に土盛りがあるが、遺構とは判断し難い。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.452874/139.206154/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の山城を極める

戦国の山城を極める

  • 作者: 加藤理文
  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2019/09/12
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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谷津館(群馬県桐生市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2449.JPG←西側の空堀と土塁
 谷津館は、新田氏の一族藪塚氏の居館である。藪塚氏は、新田義重の5代の裔孫朝兼を祖とする一族で、藪塚に居館(藪塚館)を構えていたが、戦国時代に由良成重の圧力を避け、谷津の地に土着したと伝えられる。尚、南北朝の動乱期、藪塚氏は、宗家の新田氏に従って戦ったことが太平記に記載されている。
 谷津館は、低丘陵先端に築かれた単郭方形居館で、市の史跡に指定されている。現在でも館跡南に屋敷を構えた藪塚家の所有であるらしい。周囲には土塁と空堀が良く残っている。郭内には段差があり、いくつかの用途に応じて区画されていたらしい。南側中央には虎口が構えられている。それほど大きな遺構ではないが、貴重な遺跡である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.423234/139.252439/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


新田一族の中世: 「武家の棟梁」への道 (歴史文化ライブラリー)

新田一族の中世: 「武家の棟梁」への道 (歴史文化ライブラリー)

  • 作者: 田中 大喜
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/08/20
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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五覧田城(群馬県みどり市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2323.JPG←北郭群の堀切
 五覧田城は、深沢城と並ぶ黒川谷の重要城郭で、争奪の場となった城である。元々、室町中期頃迄は深沢城主阿久沢氏らの黒川郷士は独立した武士団となっていたらしく、この地にはその中の一人、松島氏が築いた崖端城の五覧田の砦があったらしい。しかし桐生氏が黒川谷に進出すると黒川郷士は桐生氏に服属し、桐生氏が滅亡すると、金山城の由良氏の勢力下に入った。この頃由良氏は小田原北条方で、越相同盟が破れたため、1574年、上杉謙信は深沢城と共に五覧田城を攻略したが、翌75年には由良氏によって五覧田城は奪回された。1579年には、北条氏政は由良国繁と協定を結び、深沢城と五覧田城は由良国繁に預け置かれた。しかし1584年、由良氏が北条氏から離反し、それを契機に佐竹・宇都宮両氏を主軸とする北関東連合軍と北条の大軍が下野国沼尻で110日間に渡って対峙した時には、北条氏は阿久沢氏を調略して敵勢の切り崩しを図り、阿久沢・前原・目黒氏ら在地衆に命じて五覧田城を攻略した。その際北条氏直は深沢城主阿久沢彦二郎の戦功を賞し、北条氏照は彦二郎に五覧田城の普請を命じた。従って、現在残る五覧田城の遺構は、北条氏の命で阿久沢氏が改修した姿である。以後、北条氏と対立する沼田方面の真田氏と佐竹氏・宇都宮氏ら北関東諸豪との連絡路(根利通)を遮断するため、引き続き重視されたと推測される。

 五覧田城は、標高593.1m、比高293mの要害山に築かれている。麓からまともに登ったら大変な高さだが、幸い標高520m付近まで林道が付いており、そこまで車で登れるので、訪城は容易である。五覧田城は、T字状になった尾根に曲輪群を築いた、連郭式の細尾根城郭で、堀切で要所を分断しているいるが、縄張りは基本的に古風なものである。三角点のある山頂に主郭を置き、三方に伸びる尾根にそれぞれ東郭群・北郭群・西郭群を築き、各尾根筋をそれぞれ数本の堀切で分断している。しかし堀切の規模はあまり大きくはなく、細尾根という地勢の制約もあってか、技巧性も見られない。普請も割と大雑把で、綺麗に削平された感じではない。この他、『日本城郭大系』の縄張図にはないが、東郭群の先に東出曲輪があり、その途中に堀切が穿たれている。この堀切の南側は円弧状の横堀となり、先端で直角に折れて竪堀となって落ちている。また東郭から北西に伸びる尾根にも段曲輪群と堀切・竪堀が確認できる。史料に残る重要性に比すると、貧弱な縄張りの城で少々期待外れであるが、沼田方面への間道を押さえる高所の要害としては、これで十分だったのだろう。また桐生城の様に整備された城を期待していたが、東郭群以外は薮がちょっと多いのも少々残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.518932/139.290204/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


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三ヶ郷城(群馬県みどり市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2236.JPG←主郭背後の堀切
 三ヶ郷城は、黒川谷の郷士が築いた黒川八城の一つで、東宮修理の城であったとも、或いは永禄年間(1558~70年)に東宮丹波守が築いた城とも伝えられる。時期的には黒川谷が桐生氏の影響下にあった時代で、一方で越山した上杉謙信や金山城主由良氏の勢力が伸びて政情が流動的になっていた時代でもあった。こうした不穏な情勢から、東宮氏は山城を構築したのかも知れない。

 三ヶ郷城は、標高490m、比高160mの山上に築かれている。南尾根が大手で、ここから登っていくが、途中までは林道がある。南尾根の先端近くに電波の反射板(白い色の大きな金属板)があるので、よい目印になる。この先を登っていくと、小堀切の先の大手郭に至る。この大手郭は、虎口もあり、周りに低土塁も築かれているが、内部はほとんど自然地形の斜度のある尾根で削平されておらず、あまり普請は明確ではない。更に尾根を登ると、前面に堀切が穿たれた主郭が見えてくる。三ヶ所郷城は、ほとんど単郭の小規模な城で、主郭は南側がやや広がった曲輪で、前後を堀切で穿って防御し、主郭周囲には腰曲輪を築いている。主郭には後部のみに土塁が築かれ、南西と北東の2ヶ所の虎口が開かれ、それぞれ腰曲輪に繋がっている。また堀切の外にはそれぞれ小さな堡塁が置かれて尾根筋の監視と防御の拠点となっている。この他、『日本城郭大系』の縄張図によれば、北の尾根の先や南東尾根にも曲輪群が連なるとされるが、北尾根を見たところほとんど自然地形で遺構は明確でなく、南東尾根については遠目に見た限り期待薄だったので確認しなかった。いずれにしても小規模な城砦である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.533209/139.320545/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


日本城郭史

日本城郭史

  • 作者: 齋藤 慎一
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2016/11/18
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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小中城(群馬県みどり市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2185.JPG←城址付近の現況
 小中城は、黒川谷の郷士が築いた黒川八城の一つで、松島淡路守の城と伝えられる。松島氏は、深沢城主阿久沢氏と並ぶ黒川衆の旗頭的存在で、五覧田を本拠としていたが、小中城の松島氏はその一族であったと思われる。一説には、小中松島氏が本家であったとも言う。それ以外の詳細は不明であるが、黒川谷に桐生氏が進出すると桐生氏に服属し、桐生氏滅亡後は由良氏に属し、由良氏が1583年に小田原北条氏から離反すると、北条氏に服属したのだろう。

 小中城は、比高50m程の広い段丘上の一角にあったらしい。しかし現在段丘上は一面の耕地となっており、遺構は全く見られない。居館を置くには好適な地勢だが、遺構が見当たらない以上、どこに居館が構えられていたかも判断できない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.537157/139.336746/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 日本の城

ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 日本の城

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2018/06/19
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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神戸城(群馬県みどり市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2154.JPG←虎口
 神戸(ごうど)城は、黒川谷の郷士が築いた黒川八城の一つで、小曾根筑前守の城と伝えられる。その他の詳細は不明。しかし他の黒川衆と同様、黒川谷に桐生氏が進出すると桐生氏に服属し、桐生氏滅亡後は由良氏に属し、由良氏が1583年に小田原北条氏から離反すると、北条氏に服属したのだろう。

 神戸城は、みどり市立東中学校が建っている渡良瀬川北岸の段丘の、南西隅部に築かれている。山城以外の黒川八城では唯一、わずかではあるが明確な遺構を残している。大部分は耕地化で改変されているが、南西角に竹林があり、そこを探索すると隅部に虎口と小郭群が見られ、小堀切も確認できる。この先は川まで降りてしまうので、おそらく川の水を汲むための城道で、水場を監視する物見台があったのだろう。台地上には主殿の建つ曲輪があったと思われるが、そこには明確な遺構は見られない。
堀切と物見台→IMG_2156.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.535916/139.350049/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


城のつくり方図典

城のつくり方図典

  • 作者: 三浦 正幸
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2005/03/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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座間城(群馬県みどり市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2147.JPG←座間城付近の現況
 座間城は、黒川谷の郷士が築いた黒川八城の一つで、橋爪修理亮の城と伝えられる。その他の詳細は不明。しかし他の黒川衆と同様、黒川谷に桐生氏が進出すると桐生氏に服属し、桐生氏滅亡後は由良氏に属し、由良氏が1583年に小田原北条氏から離反すると、北条氏に服属したのだろう。
 座間城は、日枝神社西方の段丘上にあったらしい。一応「マッピングぐんま」の遺跡地図に場所は記載されているが、遺構は不明である。沢入城と同じく、段丘上の居館だった様に想像される。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.535899/139.364254/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の城全史 (歴史群像シリーズ)

戦国の城全史 (歴史群像シリーズ)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 学研パブリッシング
  • 発売日: 2011/09/09
  • メディア: ムック


タグ:居館
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草木城(群馬県みどり市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2134.JPG←草木公園の段丘
 草木城は、黒川谷の郷士が築いた黒川八城の一つで、高草木筑前守綱継・同対馬守則継の城と伝えられる。その他の詳細は不明。しかし他の黒川衆と同様、黒川谷に桐生氏が進出すると桐生氏に服属し、桐生氏滅亡後は由良氏に属し、由良氏が1583年に小田原北条氏から離反すると、北条氏に服属したのだろう。

 草木城は、草木湖というダム湖によって水没してしまったらしく、その正確な位置も不明である。草木橋のすぐ下辺りにあったとも言うが、橋の少し南に草木公園があり、何段かの平場が見られるので、勝手にこの辺にあったと想像しておく。そんな感じなので、明確な遺構など望むべくもない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.560015/139.375563/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の城 (歴史群像シリーズ特別編集)

戦国の城 (歴史群像シリーズ特別編集)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 学習研究社
  • 発売日: 2011/04/21
  • メディア: ムック


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沢入城(群馬県みどり市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2124.JPG←祠のある段丘
 沢入(そうり)城は、黒川谷の郷士が築いた黒川八城の一つで、松島式部少輔古柏の城と伝えられる。松島氏は、深沢城主阿久沢氏と並ぶ黒川衆の旗頭的存在で、五覧田を本拠としていたが、沢入城の松島氏はその一族であったと思われる。それ以外の詳細は不明であるが、黒川谷に桐生氏が進出すると桐生氏に服属し、桐生氏滅亡後は由良氏に属し、由良氏が1583年に小田原北条氏から離反すると、北条氏に服属したのだろう。
 尚一説には、黒川衆は由良氏に属さず小田原北条氏に通じていたため、1579年、金山城主由良国繁は黒川谷に侵攻し、深沢城主阿久沢能登守・沢入城松島式部小輔古柏ら黒川衆と合戦となったと言う(史跡「深沢の角地蔵」に伝わる伝承)。しかしこの時期は上杉氏の勢力が後退し、由良氏も北条氏に属していたため、辻褄が合わない。この合戦が事実であるならば、それは由良国繁が北条氏から離反した1583年のことであろう。

 沢入城は、八幡祠・秋葉祠のある丘にあるとされ、国道122号線の西の段丘に当たる。民家と畑・空き地になっており、何段かの平場があるが耕作に伴うものと思われ、遺構は全く不明である。民家の手前に祠が祀られているので、場所的には間違いないと思われる。城と言うより、段丘中腹を利用した居館だったのであろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.579420/139.389317/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


新田岩松氏 (中世武士選書 第 7巻)

新田岩松氏 (中世武士選書 第 7巻)

  • 作者: 峰岸 純夫
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2011/09/08
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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深沢城(群馬県桐生市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1817.JPG←外郭から見た主郭
 深沢城は、神梅城とも言い、この地の土豪阿久沢氏の居城である。阿久沢氏は、黒川谷の郷士の旗頭的存在で、室町中期頃迄は阿久沢氏らの黒川郷士は独立した武士団となっていたらしい。しかし桐生氏が黒川谷に進出すると桐生氏に服属し、桐生氏が滅亡すると、金山城の由良氏の勢力下に入った。この頃由良氏は小田原北条方で、越相同盟が破れたため、1574年には深沢城は上杉謙信の攻撃を受けて攻略されている。その後、謙信の急死と御館の乱による上杉勢力の減退により、深沢城は再び由良国繁に服属した。しかし1584年、由良氏が北条氏から離反し、それを契機に佐竹・宇都宮両氏を主軸とする北関東連合軍と北条の大軍が下野国沼尻で110日間に渡って対峙した時には、北条氏は阿久沢氏を調略して敵勢の切り崩しを図り、阿久沢氏ら在地衆に命じて五覧田城を攻略した。その際北条氏直は深沢城主阿久沢彦二郎の戦功を賞し、腹巻・甲・刀など破格の褒美を与え、北条氏照は彦二郎に五覧田城の普請を命じている。その後、沼尻合戦が勝敗を決しないまま終結した後、由良氏は北条方の拠点となっていた深沢城を攻撃したが、阿久沢能登守直崇らは激戦の末にこれを撃退した。1590年に北条氏が滅亡すると、阿久沢氏は帰農し、深沢城は廃城となった。

 深沢城は、渡良瀬川西岸の台地上に築かれている。この台地は、比高110m程あり、そこに広やかな緩斜面が広がっており、城集落がある。深沢城は、城集落南の崖端に位置している。地勢上、主郭が外郭より低い位置にある穴城形式となっている。断崖上の南西端に方形の主郭が置かれ、北西角部のみわずかな土塁が築かれ小祠が祀られている。主郭の北と東は大きな空堀が穿たれている。主郭の東には二ノ郭があり、大きな平場となっている。二ノ郭の東側にも自然地形を利用した大きな空堀が穿たれているが、北側は堀が続いていない。二ノ郭の東から主郭北側にかけては外郭で、そこには正円寺の境内も含まれる。正円寺の北から東にも土塁と空堀が築かれている。この他、主郭の西と南、二ノ郭の南にかけては腰曲輪が廻らされている。更に西の斜面にも腰曲輪らしい平場が見られる。更に南西には「登城」と呼ばれる細尾根があり、小郭と堀切2本が確認できるが、曲輪の幅が狭く、土橋程度の遺構で、その名の通り登城道の一つとして機能していたものかもしれない。尚、正円寺には阿久沢氏の墓が残っている。
ニノ郭から見た南腰曲輪→IMG_1867.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.484417/139.254327/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


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谷山城(群馬県桐生市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1788.JPG←低土塁のある主郭
 谷山(やつやま)城は、桐生親綱に攻められた仁田山城主里見勝広が自害した城と伝えられる。『日本城郭大系』によれば、元々この地の土豪谷氏の城で、谷直綱は1335年の中先代の乱の時に最後の得宗北条高時の遺児時行に属したとされ、数代後の近綱は享徳の乱の際に上杉勢の本陣であった武州五十子に参陣し、討死したと言う。以後、谷氏は桐生に移り、その跡地は二階堂氏の所領となり、その家臣里見家連が城を守ったが、1574年に上杉謙信に攻撃され、家連は討死し、その子河内は逃れて里見の古城に拠ったと伝えられるというが、この伝承は「はなはだ疑わしい」としている。
 しかし谷山城の歴史には不明な部分もあり、黒田基樹著『戦国北条氏五代』では、北へと勢力を伸ばす小田原北条氏に対して、越山した上杉謙信が1575年10月、沼田衆が守る桐生領仁田山城に対する向城として金山城主由良氏が築いた「谷山城」を攻略したと記載している。この間、どの様な変遷で仁田山城に沼田衆が入り、それと対峙するようになったのかは、よくわからない。

 谷山城は、標高449.2mの峻険な雷電山に築かれている。城へ行くには、鍾乳洞公園から南に伸びる林道を使っていくのが、最も手っ取り早い。但し、途中で道が荒れるので、そこからは車を降りて歩き、取り付きやすそうなところから西の尾根に登り、後はひたすら傾斜のきつい尾根を登っていくしかない。ちなみに西尾根の鞍部には古い峠道と思われる切り通しがある。谷山城は急峻な山上の小砦で、山頂に三角形をした主郭が築かれている。周囲に低土塁を築いた曲輪で、中央には土壇があって雷電神社の祠が祀られている。南には帯曲輪が2段築かれ、南尾根の遥か下方に出丸らしきものがあり、手前に堀切もあるが、これも昔の峠道の切り通しの様に見える。出丸は自然地形も多く、形状がはっきりしない。谷山城は、遺構を見る限り臨時に取り立てた城の様に思われ、仁田山城に対する向城として由良氏が築いたというのが実情の様に思われる。
南尾根の堀切→IMG_1798.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.460398/139.310095/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国北条氏五代 (中世武士選書)

戦国北条氏五代 (中世武士選書)

  • 作者: 黒田 基樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2012/01/10
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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高津戸城(群馬県みどり市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1689.JPG←二ノ郭群外周の横堀
 高津戸城は、山田七郎平吉之の後裔の山田氏の居城であったとされる。しかし1351年、山田則之が城主の時に桐生城主桐生国綱によって滅ぼされたと言われる。1371年に、新田氏の一族里見氏の7代義連の3男氏連が桐生国綱の娘婿となり、その縁で仁田山八郷を国綱から任された。氏連から4代後の宗連は上杉謙信に攻められて自刃した。安房里見氏の一族と言われる里見勝広(上総入道)は、仁田山城の同族宗連の元に身を寄せていたが、宗連の死後は桐生助綱に客将として迎えられ、厚い信任を受けて仁田山城主となった。助綱の後を継いだ親綱は、失政が多く家中は乱れ、諫言した勝広を讒言によって自刃させた。勝広の二子、随見勝政と平四郎勝安の里見兄弟は、上杉謙信の助力を得て高津戸城を再興し、父の敵である石原石見守を討とうとしたが、石原氏に助勢した由良国繁に高津戸城を攻撃され、敗れて1578年9月に兄弟共に滅亡したと言う。但し、これらの伝承には不可解な点も多く、里見兄弟の墓と称される五輪塔も、形式的には鎌倉~南北朝時代のものとされ、時代が一致しないと言う。

 高津戸城は、渡良瀬川東岸に張り出した標高270mの要害山に築かれている。城内は公園化され、主郭には要害神社が建っているので一部改変を受けているが、遺構は全体によく残っている。城域は大きく3つに分かれ、山頂の主郭を中心に腰曲輪を廻らした主郭群、その南に扇状に展開する二ノ郭群、南の舌状尾根に広がる三ノ郭群がある。車で登った先の駐車場は三ノ郭群の付け根で、かつては2本の堀切があったらしいが、現在は改変されて湮滅している。しかし東斜面には段々に平場が広がっており、公園化による改変もあるものの、角張った塁線も散見され、往時の曲輪群の遺構と考えられる。二ノ郭群は最下段に円弧状に横堀を穿って三ノ郭群と分断し、南西と東の横堀を越えて入った所に桝形虎口を築いている。主郭群は改変が多いが、切岸が明瞭で、坂虎口らしい跡も確認できる。主郭の西に2~3段の段曲輪があり、北東尾根にも曲輪群が並び、北東尾根は3本の堀切で分断されている。この内、内側の1本目の堀切は、そのまま腰曲輪と連結しており、主郭の東下方を抜けて二ノ郭群に通じている。遺構は以上の通りで、技巧性は少ないものの普請はしっかりしており、戦国後期に拠点的城郭として利用されたことが伺われる。
北東尾根の堀切→IMG_1699.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.438305/139.281235/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実 (角川ソフィア文庫)

関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実 (角川ソフィア文庫)

  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2017/01/25
  • メディア: Kindle版


タグ:中世山城
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仁田山城(群馬県桐生市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1604.JPG←三ノ郭背後の堀切
 仁田山城は、里見氏が一時期城主であったとされる城である。元は南北朝期にこの地を領した山田氏が築いたが、1351年に筑後守則之がこの城で桐生城主桐生国綱に攻め滅ぼされたと伝えられている。室町中期には、二階堂氏が仁田山郷を与えられ、その家臣里見蔵人家連が城主となった。 桐生氏の最盛期を築いた桐生助綱は、仁田山城の里見上総入道を客将として遇し厚く信任していたが、助綱の養子の親綱の代になると、失政により桐生家中は乱れ、里見氏も讒言によって攻撃され、谷山城で自刃に追い込まれたと言う。
 しかし仁田山城の歴史には不明な部分もあり、黒田基樹著『戦国北条氏五代』では、北へと勢力を伸ばす小田原北条氏に対して、越山した上杉謙信が1575年10月、沼田衆が守る桐生領仁田山城に対する向城として金山城主由良氏が築いた谷山城を攻略したと記載している。この間、どの様な変遷で仁田山城に沼田衆が入るようになったのかは、よくわからない。

 仁田山城は、標高505mの石尊山に築かれた山城である。あまり意識していなかったが何気に高い山で、麓からの比高は265mもある。尾根筋に築かれた曲輪群を堀切で分断した、連郭式の細尾根の城で、主郭・二ノ郭・三ノ郭の背後にそれぞれ堀切が穿たれている。二ノ郭には小さな土壇があるが、物見台であろうか?三ノ郭の前面には堀切に沿って低土塁が築かれている。主郭前面の大手筋には多数の段曲輪群が築かれ、いくつもの祠や不動明王像が立っている。城のある尾根の背後の標高510mのピークの西の尾根には遠堀とされる小堀切があるが、これは向城の谷山城に対する備えであろうか?この他、登り口近くに緩斜面の平場があり、蔵等があった可能性がある。尚、登山道の案内も出ているは助かるが、入口付近のがさ藪はマダニの巣窟らしく、降りてきてから車に乗る前に確認したら、ズボンに10匹近くもマダニがくっついていた!ここに登る時は注意しましょう。
大手の段曲輪群→IMG_1560.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.465938/139.323850/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国北条氏五代 (中世武士選書)

戦国北条氏五代 (中世武士選書)

  • 作者: 黒田 基樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2012/01/10
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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桐生城(群馬県桐生市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1361.JPG←南郭群の大竪堀
 桐生城は、柄杓山城とも言い、この地の豪族桐生氏の歴代の居城である。桐生氏は、渡良瀬川流域の諸豪に多く見られるのと同じく、秀郷流藤原氏の後裔である。その動向が明確になるのは南北朝時代からで、1350年に桐生国綱が桐生城を築いたと伝えられる。国綱は、家臣の谷直綱に命じて高津戸城主山田則之を滅ぼし、高津戸を支配下に置くなど、桐生氏発展の基礎を築いた。その後、この地を拠点に勢力を保ち、享徳の乱では上杉方として活躍した。その後、助綱が当主の時、周囲に勢力を拡大して最盛期を迎え、1560年に上杉謙信が関東に出馬すると、その元に参じた。助綱の死後は、同族の佐野氏から入嗣した親綱が後を継いだが、失政が多く家中は乱れ、民心が離反した。助綱が迎えた客将で厚い信任を受けていた仁田山城主の里見上総入道は親綱に諫言したが、返って讒言によって自害を命ぜられ、家中は益々乱れた。この事態を見た由良成繁は、1572年桐生城を攻撃して攻め落とし、親綱は実家の佐野へ逃れた。その後桐生城は由良氏の支城となり、1574年、成繁は金山城を嫡子国繁に譲り、自身は桐生城に移って善政を敷いた。1578年、成繁が没すると、桐生親綱は桐生城の奪還を計ったが失敗した。1582年に武田勝頼・織田信長が相次いで滅びると、北関東には小田原北条氏が大きく勢力を拡張し、由良国繁・足利長尾顕長兄弟も北条氏に屈し、国繁は北条氏の圧力により金山城を明け渡し、桐生城に退去した。1590年の小田原の役の際には、国繁は小田原城に籠城させられたが、その母妙印尼は嫡孫貞繁を伴って松井田陣の前田利家を訪れ、そのまま各地を転戦した。豊臣秀吉は、妙印尼の功を激賞し、国繁に常陸国牛久5千石、弟渡瀬繁詮に遠江国横須賀3万石を与えた。こうして由良氏が牛久城に移ると、桐生城は廃城となった。

 桐生城は、標高361.1m、比高220m程の城山に築かれている。公園として整備されており、登山道も整備されているので訪城は比較的楽である。私は城の北西まで伸びる林道を車で登り、車道の終点からハイキングコースを城まで歩いた。想像していたより普請の規模が大きい城で、主郭・ニノ郭・三ノ郭に穿たれた堀切はいずれも深さ3~4m程もある。東端から順に主郭・ニノ郭・三ノ郭と並べた連郭式を基本とし、二ノ郭の北の支尾根に北郭群、三ノや郭の南の支尾根に南郭群を置いている。北郭群では堀切の他に桝形虎口や土塁囲郭が築かれている。南郭群では大竪堀や横堀が穿たれている。また主郭とニノ郭は、それぞれ後部に円弧状横堀を穿って備えを固めている。この他、主郭の東と南東の尾根に段曲輪群が築かれ、南東の尾根の下方には堀切・土橋の先に坂中郭という出曲輪がある。基本的に戦国後期のセオリー通りの整った縄張りを有しており、見応えがある。
主郭後部の円弧状横堀→IMG_1476.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.445331/139.358053/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本



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手臼山砦(群馬県桐生市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1319.JPG←主郭北側の浅い横堀
 手臼山砦は、彦部屋敷の背後にある物見の砦である。彦部屋敷の主・彦部氏は、足利尊氏の執事として室町幕府創業期に辣腕を振るった高師直で有名な高氏の庶流である。高氏は高階氏の出自で、源頼義の頃に清和源氏と姻戚関係を生じ、その後源氏の家臣となったらしい。後には下野国足利庄に下向した源義国に従って高惟貞も下野国に下り、源姓足利氏の重臣として活躍し、執事職を歴任することとなった。高氏は大高・南・彦部らの諸氏を輩出し、元弘の乱で足利尊氏が一族を引き連れて鎌倉を出陣した際には、足利一門32人に対して「高家の一類43人」とあり、主家足利氏を上回る人数になっていた(『太平記』第9巻)。この地の彦部氏は、伝承では1336年5月の摂津湊川の合戦で討死にした彦部光高を祖とする一族とされる。彦部氏ではこの他にも、観応の擾乱の際に1352年に武庫川で惨殺された高一族の中にも彦部七郎の名が見え、また2代将軍足利義詮に供奉した彦部秀光も知られ、室町期には幕府の奉公衆として京都で活動した様である。1561年、彦部信勝は、関東に下向した関白近衛前嗣に従って上野国に下り、近衛親子の帰京後も桐生市広沢に留まり、後に帰農した。

 手臼山砦は、彦部屋敷背後の標高190m、比高100m程の山上に築かれている。東麓の賀茂神社の脇から登山道が整備されている。但し、一応道はあるが砦の近くなど一部途絶に近い部分もあるので、注意を要する。物見と言うだけあって小規模な城砦で、頂部の主郭の他、数段の腰曲輪で構成されただけの簡素な造りである。主郭北側には浅い横堀が穿たれているのも確認できる。西尾根はなだらかな広い尾根であるが、自然地形で積極的に普請された形跡は見られない。あくまで山上の小城砦だったのだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.372058/139.346015/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


高 師直: 室町新秩序の創造者 (歴史文化ライブラリー)

高 師直: 室町新秩序の創造者 (歴史文化ライブラリー)

  • 作者: 亀田 俊和
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/07/21
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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発知城(群馬県沼田市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_0978.JPG←発知城址の桜
 発知城は、発知館とも言い、沼田氏の庶流発知氏の居城である。沼田景盛の子、発知三郎景宗が文永年間(1264~74年)頃に築いたとされる。その後の発知氏の事績は不明であるが、後に上川田城に移ったらしい。また発知氏は、その後7代続き、1581年、発知四郎左衛門景朝の時に、真田昌幸に奪われた沼田城の奪還を目指した沼田平八郎景義の軍に参加したが、昌幸の謀略により景義は重臣の金子泰清に謀殺され、景朝も共に滅亡したと言う。

 発知城は、上発知地区にあるという以外その正確な場所も不明であるが、この地区に「発知城址の桜」と言われる桜の木がある。東に向かって開いた谷戸で、背後に山を控えており、畑になった何段かの平場群が見られる。相模・武蔵によく見られる鎌倉期の古い居館と同じ様な作りになっていた可能性がある。尚、東に流れる発知川に架かる小橋の名は「馬場橋」で、いかにもここに城館があったことを想起させる。
城址?の平場→IMG_0981.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.721136/139.061229/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

  • 作者: 松岡 進
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/02/27
  • メディア: 単行本


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高王山城(群馬県沼田市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_0890.JPG←西の腰曲輪群
 高王山城は、戦国時代に発知氏が築城したと伝えられている。1581年には、沼田景義がここに本陣を構え、真田昌幸に奪われた沼田城の奪還を図ったと伝えられる。しかし返って昌幸の謀略により、景義は重臣の金子泰清に謀殺され、沼田氏は滅亡した。

 高王山城は、標高766mの高王山に築かれている。未舗装の林道が南中腹まで伸びており、駐車スペースもあり、そこから登山道も整備されている。山頂に三角点のある主郭を置き、北に馬蹄段状に二ノ郭、三ノ郭を配置している。また主郭西側にはやや広い腰曲輪が数段築かれている。またそれらの下方には長い帯曲輪が延々と築かれ、ほぼ半周している。西斜面には更に帯曲輪が築かれている。一方、主郭の南東は虎口があったらしく、尾根上に小郭が2段築かれ、あまり明瞭ではないが、堀切も穿たれている様だ。この他、スーパー地形を見たら、西最下段に帯曲輪があるのがわかり、これも西から南へと延々数100mも伸びていた。高王山城は、大きな城ではないが、普請はしっかりしており、西方への備えを厳重にしていたことが伺われる。
長い帯曲輪→IMG_0911.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.691599/139.051166/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実 (角川ソフィア文庫)

関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 黒田 基樹
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2017/01/25
  • メディア: 文庫


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石倉城(群馬県みなかみ町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_0823.JPG←主郭背後の浅い堀切
 石倉城は、1478年に平井城主・関東管領上杉顕定が故郷の越後との中継地として清水街道沿いに築いた城と言われている。この頃越後では顕定の弟の越後守護上杉房能と守護代・長尾為景との抗争が続き、1507年に房能は敗死した。1509年、弟を討たれた顕定は子の憲房と共に、白井・沼田を落し、更に為景を越後に攻め、一旦は為景を越中へ追放した。しかし、1510年の長森原の戦いで高梨政盛に敗北した顕定は自刃し、石倉城も廃城となった。

 石倉城は、利根川西岸の2つの細流に挟まれた段丘上に築かれている。先端に主郭を置き、横矢の掛かった堀切を挟んで西に二ノ郭が広がっている。但し堀切は小さく、深さ1m程しかない。主郭側には低土塁が堀に沿って築かれている。主郭先端は東に細く伸び、やや傾斜して端部が断崖に面している。二ノ郭は大半が畑となっており、平場以外に明確な遺構は見られない。関東管領が築いたにしては随分とささやかな城で、元々土豪の城であったものを越後への中継拠点として利用しただけなのかも知れない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.746794/138.978724/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


上杉顕定 (中世武士選書24)

上杉顕定 (中世武士選書24)

  • 作者: 森田真一
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/12/05
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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味城山砦(群馬県みなかみ町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_0704.JPG←南東の竪堀
 味城山砦は、見城の柵とも呼ばれ、小川城主小川可遊斎が鉢形城主北条氏邦の大軍に攻められた際、立て籠もって抵抗した城砦と伝えられている。その経緯については小川城の項に記載する。可遊斎は将兵を指揮して大いに奮戦したが、700mもの高山であったため、水や食料の補給が困難となり、結局越後へと落ち延びたという。

 味城山砦は、上越新幹線上毛高原駅の西にそびえる標高757.4m、比高307m程の味城山に築かれている。東麓から南東の尾根まで登道があり、そこから尾根筋を登れば城址に至る。平坦な山頂に、東西に4つの曲輪を連ね、周囲に帯曲輪群を廻らしている。4つの曲輪は堀切で区画されているが、堀切はいずれも浅くささやかなものである。南東の帯曲輪には明確な竪堀が落ちており、他の遺構がささやかなのと比べると異彩を放っている。この竪堀は南の支尾根からの斜面移動を防ぐためのものの様である。この南支尾根にも竪堀が数本穿たれ、先端に物見台が置かれていた様である。また北西に伸びる尾根にも遺構らしいものがあり、小堀切も見られる。その北斜面に何段かの腰曲輪の様な地形が見られるが、構造が崩れていて不明瞭である。味城山砦は、北条氏の攻撃に備えて急ごしらえで作った城らしく、あまり本格的な普請はされていない様である。
主郭の堀切→IMG_0718.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.692528/138.965957/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


北条氏康の家臣団 (歴史新書y)

北条氏康の家臣団 (歴史新書y)

  • 作者: 黒田 基樹
  • 出版社/メーカー: 洋泉社
  • 発売日: 2018/12/04
  • メディア: 新書


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権現山城(群馬県高山村) [古城めぐり(群馬)]

IMG_0560.JPG←主郭南側の横堀
 権現山城は、一説には榛名峠城と同一の城とも言われ、小田原北条氏が名胡桃城に対する境目の城として築いた城である。築城は1588年前後とされ、わずか3年足らずしか使われなかった短命の城である。猪俣能登守宛の北条氏政書状に「なくるミ(名胡桃城)へ矢たけの権現山取立儀」とあることから、権現山城が北条氏によって新規築城されたことが知られる。一方、これとは別に『榛名峠城法度』と呼ばれる文書が存在する。学術的には『猪俣邦憲判物』(林文書)と呼ばれ、1587年に鉢形城主北条氏邦の重臣である猪俣邦憲が榛名峠城の城将林治部左衛門に、榛名峠城における13ヶ条の法度を伝えた文書である。但し、これらの文書の年代推定の結果からすると、権現山城と榛名峠城は別に存在していた可能性があり、今後の検討を要する。また現在山上に残る遺構が権現山城と言われる城なのか、榛名峠城と言われる城なのか、まだ明確にはなっていないが、ここでは権現山城として記載する。

 権現山城は、標高840mの山上に築かれている。東西に連なり尾根がほぼ直角に南に折れ曲がる付近に築かれている。この南に折れた尾根の先は国道145号線の権現峠に至る。権現峠から林道が伸びているが、現在工事中で途中で進めなくなってしまうので、途中で車を乗り捨てて適当に尾根に取り付いて行くしか方法はない。この南尾根を登っていくと小堀切と土塁があり、ここから城域となる。尾根の高台の周囲に横堀状の腰曲輪が廻らされ、更に東にも腰曲輪らしい平場がある。北に進むと細尾根となり、主郭と思われる最高所はほとんど自然地形に近い。ここから前述の通り尾根は西に向きを変えて続くが、北側に腰曲輪、南側に横堀が穿たれている。この横堀は明確で、規模は異なるが御坂城と類似した構造である。更に西に進むと小ピークがあり、ここから南に派生する支尾根がある。この尾根には虎口の土塁や小堀切が見られるので、城域であったことは間違いなさそうである。更に西側にもう1本、南に伸びる支尾根があるが、こちらはほとんど自然地形で遺構は不明瞭である。東西に伸びる主尾根には堀切がなく、この尾根の西方に対する防御はほとんど意識されていない様である。権現山城は、部分的に明確な遺構が残り、城があったことは間違いないが、全体に普請が不徹底でささやかな遺構である。短期的戦術上の攻撃拠点とは、松山城の例にも見られる通り、この程度の普請で十分だったのかもしれない。
南支尾根の虎口土塁→IMG_0607.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.644629/138.986278/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図説 戦国北条氏と合戦

図説 戦国北条氏と合戦

  • 作者: 黒田基樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2018/07/14
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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中山古城(群馬県高山村) [古城めぐり(群馬)]

IMG_0457.JPG←主郭背後の堀切
 中山古城は、昭和40年代に発見された城で、元々この地域の中核的な城であった。戦国末期に小田原北条氏がこの地を制圧するまで、中山衆と呼ばれる地侍達が活躍した城である。築城は大永年間(1521~28年)か永禄年間(1558~70年)であろうと考えられている。城主は中山氏であったとされている。中山氏の出自には諸説あり、武蔵七党児玉党の一流、阿佐見弘方の子実高が中山氏の祖となったとも、或いは岩櫃城を築いた斎藤憲行がその次男幸憲を中山に分封したのが中山氏の始まりとも言われる。但し、斎藤氏が児玉党阿佐見氏の出自と言われることから、いずれにしても阿佐見氏の後裔であった様である。中山安芸守は上杉謙信に属していたが、謙信急死の後の後継争い「御館の乱」が起きて1579年にこの地に武田勝頼の勢力が及ぶと、武田氏に従った。1582年6月、本能寺の変後の混乱の中で、安芸守の子右衛門尉は津久田城を攻撃して討死にし、弟九兵衛は名胡桃城に落ちて、中山古城は北条氏に服属した白井勢に占領された。その後間もなく北条氏が新城(中山城)を築くと廃城となった。

 中山古城は、標高680m、比高100m程の山上に築かれている。南西麓の民家脇から登道が付いており、ほとんど迷うこと無く簡単に登ることができる。馬蹄形の尾根を利用して築かれており、北の尾根が主郭を中心とした主城部で、南の尾根が外郭若しくは出曲輪に相当する。北尾根には北東から順にニノ郭・主郭・三ノ郭が並び、三ノ郭の先にも更に数段の段曲輪が築かれている。主郭と二ノ郭の背後には堀切が穿たれているが、いずれも規模は小さい。二ノ郭の北には外郭があり、南の尾根に曲輪が続いているが、外郭の背後にも堀切が穿たれ、堀切はそのまま南に伸びる外郭東側の腰曲輪(部分的に横堀となる)に続いている。主城部の北西斜面にも腰曲輪が続き、堀切から落ちる竪堀が貫通している。この他、馬蹄形の尾根の間には小屋掛けの平場があり、大手虎口を築いていたと思われる。中山古城は、普請はしっかりしているが、全体に普請の規模が小さい。地衆の城であれば、この程度のものだろうか。
外郭の横堀(腰曲輪)→IMG_0431.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.634505/138.962932/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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中山城(群馬県高山村) [古城めぐり(群馬)]

IMG_0120.JPG←主郭の土塁
 中山城は、小田原北条氏が真田氏攻撃の為に新造した城である。1582年前後の書状等から、1582年12月~83年初頭頃の築城と推測されている。既に北条氏に服属していた白井長尾氏の軍勢が中山の地を攻略すると、沼田顕泰の孫に当たる赤見山城守昌泰を中山に置いて守らせた。北条氏は直ちに新城(中山城)を築き、山城守の調略により、川田・須川・沼田の地侍で北条氏に服属する者が相次いだ。しかし1586年、真田昌幸によって中山が奪還されると、中山城には真田方の林弾左衛門らが入ったと言う。その後の中山城の歴史は不明であるが、豊臣秀吉による沼田領帰属問題の裁定が下るまで、北条・真田両氏の間では強い軍事的緊張状態が続いたので、城は存続していたと考えられ、1590年の小田原の役の際に廃城になったと思われる。

 中山城は、比高わずか15m程の舌状台地に築かれている。台地中央の東端に方形の主郭を置き、周囲に大きな空堀をコの字に穿ち、更に外側に二ノ郭を巡らしている。主郭内は東辺以外の3辺に土塁が築かれて防御を固めている。二ノ郭は、主郭の西から南にかけてL字状に配置され、主郭北側の北二ノ郭とは空堀で分断されている。二ノ郭周囲にも空堀が穿たれ、周りに三ノ郭が配置されている。北二ノ郭・三ノ郭の北側にも空堀が穿たれ、帯曲輪と北郭が築かれている。三ノ郭は耕地化で改変されており、ニノ郭外周の空堀は一部はかなり埋められてしまっている。また三ノ郭の南側には舌状の四ノ郭があり、間に堀切を穿って分断している。『日本城郭大系』では四ノ郭を「捨郭」としている。四ノ郭はただだだっ広いだけで、外周に腰曲輪があるものの、あまり防御構造を築いていない。こうした面を考えると、兵坦拠点としての機能を重視した城だった様に思える。
 さすがは戦国末期に築城巧者の北条氏が築いただけあって、空堀は大規模で防備に余念がないが、横矢掛かりは思いの外少ない。但し二ノ郭周囲の堀は、やや複雑な堀のネットワークを形成しており、まるで迷路の様である。また北ニノ郭から主郭の堀底へは横矢が掛けられ、攻撃のポイントを絞った普請がされている。中山城は、村の史跡に指定され、主郭は整備されているが、残念ながらそれ以外はけっこう薮がひどい。ニノ郭など、もう少しきれいに整備されていると期待して行ったのだが、残念な状況だった。
主郭外周の空堀→IMG_0138.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.627376/138.951623/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


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箱崎城(群馬県みなかみ町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8937.JPG←二ノ郭西側の堀切
 箱崎城は、1541年以後は布施の地侍衆原沢大蔵が守り、その後、森下又左衛門が城代を務めたとされる城である。その他の歴史は不明である。

 箱崎城は、須川川北岸の比高30m程の段丘先端部に築かれている。みなかみ町新治支所の南から登り道が付いている。これを登り切ると小郭を経由して二ノ郭北東角の虎口に至る。二ノ郭は五角形の曲輪で、ほぼ全周に土塁を築き、西側の台地基部に大堀切を穿って分断し、枡形虎口を築いている。南には主郭があり、主郭との間の堀切は東側だけ明瞭で、西側はかなり不明瞭になっている。主郭は大きな高低差で区間されたの2段の平場となっている。数mもある高低差なので、普通なら各々独立した曲輪として扱われるはずだが、『日本城郭大系』の縄張図では一つの曲輪として扱っている。下段郭の先端と側方に残る土塁の形状が極めて不自然だし、昭和20年代前半の航空写真では2段の平場は確認できないので、おそらく土取りで大きく削られたものではないかと思う。主郭下段の更に南側には笹曲輪が築かれている。遺構は全体に良く残っているが激薮の城で、特に主郭は形状把握が難しい程である。ニノ郭も半分は薮に埋もれていて、冬季以外の踏査は不可能だろう。縄張り的にも平易で、やはり土豪の城という感じである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆(薮の分、☆1つ減点)
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.684080/138.923728/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


図解 戦国の城がいちばんよくわかる本

図解 戦国の城がいちばんよくわかる本

  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: ベストセラーズ
  • 発売日: 2016/02/20
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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