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古城めぐり(宮城) ブログトップ
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岩崎楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN7200.JPG←主郭背後の二重堀切
 岩崎楯(岩崎館)は、猿田彦神社の社殿によれば、平安末期の平治年間(1159~60年)に奥州藤原氏3代秀衡の家臣長崎主殿長徳が岩崎楯主であったと言う。一方、『風土記書上』では楯主は岩崎縫殿と伝えられる。また近藤氏の系図には、葛西氏の旧縁・近藤伊賀守忠清が近江国より下向し、岩崎の近藤氏の祖になったとある。時代の変遷により、楯主も変わったものであろうか。

 岩崎楯は、猿田彦神社背後の丘陵上に築かれている。神社社殿が建つ先端の平場も城域であったと考えられる。神社の平場の後ろに2段の平場があり、奥が主郭である。主郭は広く、南北に腰曲輪が築かれ、南中央部に虎口が築かれている。主郭の後部は高台となっており、背後に土塁が築かれ、更に二重堀切が穿たれて丘陵基部を分断している。この二重堀切は、非常に綺麗で見応えがある。一方、主郭の南西にも堀切が穿たれ、外に物見台が築かれている。どうもこの堀切は木戸口であったらしく、斜面下方に城道が伸びていたらしい。物見台はこの木戸口を防衛する堡塁であったと考えられる。前述の二重堀切の先は地山のままの地形が続くが、北東の窪地に平場があり、その後部にあたる北尾根に堀切があり、その先に舌状曲輪が築かれている。どこまでが城域だったのか判然としない部分もあるが、基本的には二重堀切までが城域で、北の舌状曲輪は出丸だったのだろう。部分的に少々薮が多いが、見応えのある遺構が山林内に眠っている。
南西の堀切と物見台→DSCN7157.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.822499/141.041182/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


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タグ:中世平山城
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豊後楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN7091.JPG←主郭後部の大土塁
 豊後楯(豊後館)は、袋豊後守泰時と言う武士の居城である。現地標柱の解説文によれば、泰時は享禄年間(1528~32年)に玉造郡真山村からこの地に移封され、1561年に没したと言う。泰時についてそれ以外の情報はないが、勢力圏から考えると大崎氏の家臣であったのだろう。

 豊後楯は、二迫川南岸の丘陵の北尾根の崖上に築かれている。ほぼ単郭の城で、長方形の平場の北西部が細長く北に向かって突き出た、L字型をした主郭がある。主郭の後部には幅広の大土塁が築かれ、その背後には堀切が穿たれている。大土塁は、その幅の広さから考えて何らかの建物が建っていた可能性がある。この大土塁から主郭西辺に低土塁が伸びていて、全体としてL字型の土塁を形成している。また主郭内の、大土塁の際には井戸跡らしい大穴が開いている。主郭の北は断崖上の細尾根となっているが、ここに舌状曲輪が築かれ、また東には帯曲輪が1段築かれている。この城の北側は絶壁で、大手道は南から丘陵を越えて通じていたらしく、現在でも丘陵上の鉄塔に至る道が残っている様である。私は南の小道の存在がわからなかったので、北西から急な支尾根を無理やり登攀して訪城したが、今後訪城する方は南から通じる鉄塔保守道を見つけて、それを使った方が良いだろう。この道を辿れば、主郭背後の大堀切に至るはずである。以上が豊後楯の遺構で、小規模な城砦であるが大土塁などしっかりした遺構が残っており、見応えがある。
主郭背後の堀切→DSCN7088.JPG
DSCN7055.JPG←井戸跡らしき大穴

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.799024/140.962057/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書

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タグ:中世山城
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武鎗城 その2(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN6975.JPG←万日堂跡周囲の腰曲輪
 武鎗城には2018年12月に訪城しているが、この度、地元の郷土史家である三浦様から招待をいただき、一緒に城跡を巡り歩く機会に恵まれた。またその際に、武鑓氏や武鎗城に関する文献のコピーや、三浦さんがまとめられた武鎗村に関する応仁年間(1467~69年)以降の年表など、貴重な資料をいただくことができた。この場を借りて、改めて御礼申し上げます。

 まず武鎗城の歴史についての補足。最後の城主であった武鎗典膳重信は、元々奈良坂郷高森城(奈良坂城)主奈良坂貞信の3男で、初名は奈良坂又三郎といった。1552年に武鑓因幡重利に入嗣して武鎗城に入り、武鎗城主となった。その後の事績は既述の通り。

 次に城跡について。武鎗城主郭の東に丘があり、万日堂跡とされる。現地標柱の解説文によれば、1187年頃に奥州藤原氏3代秀衡の家臣照井太郎高直が、自身が築いた武鎗城の繁栄と領地内の安全を願って建てたものと伝わっているらしい。しかし照井太郎の伝説には虚実が入り交じっており、俄には信じ難い。一方、紫桃正隆著『仙台領内古城・館』では、この丘は武鎗城の「馬場」とされている。現状を見ると頂部の小さな丘の周りに腰曲輪状の平場があり、物見台だったのではないかという三浦さんの推測の方が正しいように思う。この後、主郭や北西の尾根を巡った後、西館に向かった。西館の中心と思われる一番西の峰は、最近薮払いされたとのことで、周囲に腰曲輪がある他、峰の北東に塚のような土壇がある。三浦さんは西館の遺構の一部ではないかと推測していたが、土壇の上に昭和初頭の馬頭観世音の碑があり、どちらかというと近世以降に築かれた信仰に関わる遺構ではないかと感じられた。一方で峰の南斜面には数段の平場があり、そこを登ってくる小道はS字状に曲がっていて、平場の塁線から横矢が掛かるようになっていて、これは城の遺構と推測された。
 尚、城の南にある町家は、往時の城下集落の名残かと思っていたが、三浦さんの話では城下集落はなく、近代に新しくできた町家とのことであった。そうなると武鎗城が恒常的に維持された城だったのか、疑問も生じてくる。この地域は戦国時代には葛西・大崎両勢力の接壌地帯であり、武鎗城をはじめとする城郭群がどのように維持管理されていたのか、いろいろと考えさせられた。

 いずれにしても、季節的に雁やハクチョウの群れが多数見られ、住宅地に近いというのにカモシカが現れたりと、初冬の楽しい城歩きとなった。


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田子屋楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN6888.JPG←主郭切岸と腰曲輪
 田子屋楯(田子屋館)は、現地標柱には田子谷館と表記され、大崎氏の家臣で斐ノ城主菅原太郎明長が1533年に移った城である。しかし明長は16年後の1549年に御田鳥城に再び居城を移した。慶長年間(1596~1615年)には、伊達氏家臣の守屋伊賀守貞成が田子屋楯に居住したと言う。

 田子屋楯は、迫川流域の平地の北に連なる丘陵地の一角、比高30m程の丘陵上に築かれている。大館・小館という2つの曲輪で構成されている。東麓の宅地脇に標柱があり、その先に小道が登っているが、この小道の先は廃屋に至ってしまうので、途中から薮をかき分けて西に進んで訪城した。東西に長い長方形の主郭があり、これが大館である。周囲は切岸に囲まれ、外周に腰曲輪が築かれている。主郭は一部が切り開かれ、北西に3基の祠が祀られている。腰曲輪は竹薮などになっている。主郭の北東下方には、尾根状に繋がった鞍部の曲輪があり、その北に二ノ郭(小館)がある。二ノ郭は全面竹薮となっており、郭内が傾斜していて、北に向かって登り勾配となっている。西と北に土塁が築かれ、その外側下方には西に横堀、北に堀切が穿たれ、これらはL字型に繋がっている。この他、前述の繋ぎの曲輪の南東にも腰曲輪が築かれ、主郭腰曲輪と繋がっている。全体的に薮がひどいが、遺構はよく残っている。
二ノ郭北の堀切→DSCN6939.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.808923/141.108366/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

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  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/08/21
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陣山館(宮城県気仙沼市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN0246.JPG←主郭の現況
 陣山館は、戦国末期の1588年に生起した「浜田の乱」の際に取り立てられた陣城と推測されている。1588年春、葛西氏の家臣で気仙郡の旗頭であった千葉(浜田)安房守広綱は、主家葛西氏に反逆して浜田の乱と呼ばれる戦乱を起こした。その経緯は米ヶ崎城の項に記載する。5月に行われた合戦での広綱の攻略目標は、赤岩城主気仙沼熊谷氏の支城であった長崎城であった。その際、浜田氏に加担してその先鋒となった忍館城主鹿折信濃時兼は気仙沼口に到り、熊谷方が布陣した笹ヶ嶺を望見して「敵は案外微勢である」とうそぶいたと伝えられる(『熊谷家記』)。ここにある気仙沼口が陣山とされ、浜田勢が一時期ここに陣を構えたと推測されている。

 陣山館は、気仙沼港の最奥にある比高50m程の丘陵先端の小山に築かれている。現在は復興祈念公園に変貌しており、その前段階として2019年度に発掘調査が行われた。その報告書では、「公園の整備は大規模な造成工事を避け、現在の自然地形を生かして令和2年度に完成する予定である。これは陣山館跡が、おおむね現状保存されることを意味する。」とあるが、確かに地勢は往時のままであるが、腰曲輪群や土塁・空堀は公園化でかなり改変されてしまっており、山頂に至るスロープの通路が開削されたり排水溝が敷設されたりと、ほとんどまともに遺構が残っていない。主郭に至っては復興モニュメントが建っていて、完全に整地されてしまっている。なんとか南斜面に腰曲輪らしい段があるのがわかる程度である。ただ元々陣山館は山頂の主郭を中心に小規模な腰曲輪群が築かれただけの小規模で簡素な城砦であり、公園化されていなかったとしてもわずかな遺構しかなかったのだろう。1000年に一度という未曾有の大震災から立ち直るためには、やむを得ないところか。
南斜面の腰曲輪群→DSCN0257.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.909577/141.578901/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


復興を生きる: 東日本大震災 被災地からの声

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  • 作者: 河北新報社編集局
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タグ:陣城
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唐桑南館(宮城県気仙沼市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN8300.JPG←主郭に建つ八雲神社
 唐桑南館は、単に南館と呼ばれるが、それだけではどこの城館だかわからないので、ここでは唐桑南館と呼称する。阿部四郎左衛門の居城と伝えられているが、阿部氏は唐桑城の城主である。南館は唐桑城と谷を挟んで南北に並立していること、城の規模が唐桑城の方が大きいことから、南館は唐桑城の出城で、両城一対となって唐桑の港を掌握していたと考えられる。

 唐桑南館は、唐桑城の南方650mの位置にあり、標高107mの山上に築かれている。現在主郭に八雲神社が建っていて、その参道が東麓から整備されているので簡単に登ることができる。山頂に三角形の主郭を置き、南の参道沿いに段曲輪数段、南以外の主郭外周に腰曲輪を1~2段配しただけの簡素な縄張りである。堀切はなく、その形態と、唐桑城より高所且つ湾の入口近くにあることから推測して、物見の城として機能していたのだろう。
腰曲輪→DSCN8311.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.898206/141.638467/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


ビジュアル・ワイド 日本名城百選

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  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2008/09/27
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唐桑城(宮城県気仙沼市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN8091.JPG←土塁がある主郭
 唐桑城は、葛西氏の家臣阿部四郎左衛門の居城とされる。1573年、阿部四郎左衛門頼為は朝日館主星忠信を攻撃し、忠信を滅ぼし朝日館を落城させた。しかし1580年、忠信の遺児星忠元は、姉の夫である気仙郡浜田城主浜田氏の加勢を得て頼為に逆襲し、数度の激戦の末に頼為を討ち滅ぼしたと伝えられる。また、1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で葛西氏が改易となると、唐桑城主阿部四郎左衛門重時は他の葛西氏旧臣と共に決起し、秀吉が派遣した奥州仕置軍に対抗したとされる。桃生郡中津山香取(神取山城)に立て籠もった1700余騎の中にその名が見える。
 尚、唐桑城から谷を挟んで南の山上には南館があり、そのため唐桑城は北館城とも呼ばれる。両城が一対となって機能していたと考えられる。

 唐桑城は、気仙沼湾の東の最奥部の湾に臨む比高70m程の丘陵上に築かれている。南麓の早馬神社脇から登道が整備され、途中で左の小道に逸れれば、簡単に主郭まで登ることができる。頂部に主郭を置き、その外周を取り巻くように二ノ郭を配している。主郭の北側には幅広の土塁が築かれており、櫓台や物見台が置かれていたと思われる。主郭には城址標柱がある。二ノ郭は幅が広い曲輪で、特に主郭北側に大きく広がっている。二ノ郭内の主郭裏の切岸近くには、石積みで囲まれた方形の土壇が見られ、往時の遺構の可能性がある。二ノ郭の北と西には腰曲輪が築かれ、西の腰曲輪から更に下段の腰曲輪に通じる部分には竪堀状の虎口があり、櫓門跡があったようである。腰曲輪の北西部にも岩盤を利用した竪堀状虎口がある。岩盤絶壁が威圧するように虎口脇にそびえていることから、大手虎口ではなかったかと想像される。二ノ郭の北側には、堀切を挟んで三ノ郭が置かれている。三ノ郭は薮があるが踏査は可能で、内部に城址解説板が立っている。但し、解説板に描かれている城の略図は、実態と異なっている部分が多くほとんど参考にならない。三ノ郭の外周にも腰曲輪が廻らされており、東の台地基部には堀切が穿たれて城域が終わっている。一方、二ノ郭西の腰曲輪の南西下方には、数段の腰曲輪の下に四ノ郭が張り出すように築かれているが、内部は薮だらけで踏査が大変である。四ノ郭周囲は切岸だけで区画され、北側下方は緩斜面となっている。以上が唐桑城の遺構で、それほど技巧性のある縄張りではないが、物流拠点の港を押さえる要害として重要であったことがうかがえる。
二ノ郭内の方形の石積み土壇→DSCN8268.JPG
DSCN8119.JPG←櫓門の可能性がある虎口
二ノ郭~三ノ郭間の堀切→DSCN8229.JPG
DSCN8254.JPG←三ノ郭内の解説板

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.904050/141.638103/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 戦国の城

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  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2021/08/26
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小泉城(宮城県気仙沼市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN7993.JPG←主郭~二ノ郭間の堀切
 小泉城は、『日本城郭大系』では小泉中館と記載され、葛西氏の家臣三条小太夫近春の居城である。近春は、1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で葛西氏が改易となると他の葛西氏旧臣と共に決起し、秀吉が派遣した奥州仕置軍に対抗したとされる。深谷荘和淵村に出陣した800余騎の中にその名が見える。近春の最期はよくわからないが、葛西大崎一揆後のどこかの時点で伊達氏に誅殺されたらしい。桃生郡深谷での、いわゆる須江山の惨劇で討たれたのかもしれない。

 小泉城は、津谷川河口近くに突き出た比高30m程の丘陵先端部に築かれている。城内は車道が東西に貫通し、郭内は墓地や宅地など改変を受けているが、所々に遺構が散在している。現在アンテナ鉄塔が建っている場所が二ノ郭と思われ、現在は車道で分断されているが、車道の南北の平場全体が二ノ郭であったようである。二ノ郭の南半分はほとんどが空き地になっているが、どうも採土で削られているらしい。それでも、背後の主郭との間に堀切が残り、この堀切の南端には南側の腰曲輪が確認できる。二ノ郭東側には民家のある平場があり、往時の三ノ郭だろう。ここも改変されているのではっきりとはわからないが、二ノ郭とは切岸だけで区画されていたらしい。また二ノ郭の北西には堀切を挟んで細長い出曲輪があり、物見として機能していたと思われる。主郭は二ノ郭西側の曲輪と考えられ、車道の南側に小屋と石碑群がある。南側には腰曲輪があり、二ノ郭南側から続いている。主郭の北半分は畑となっている。主郭の西側にも堀切跡が残っている。堀切の西には外郭があったらしいが、北側が墓地になり、墓地の南は採土で大きく削られており、かなり破壊されている。しかしこの外郭にも西側に堀切が残り、北斜面には横堀と腰曲輪が構築されている。小泉城は、破壊された部分が多く、往時の形状がはっきりしない部分も多いが、断片的な遺構が城の痕跡を残している。
外郭北側の横堀・腰曲輪→DSCN8033.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.768163/141.500709/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


宮城県の歴史散歩

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  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2007/07/01
  • メディア: 単行本


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大窪館(宮城県南三陸町) [古城めぐり(宮城)]

DSCN7902.JPG←台地基部の堀切
 大窪館は、窪館・大久保城とも呼ばれる。城があったのは戦国時代と推測され、城主は小山播磨、或いは小山刑部と伝えられる。小山播磨と小山刑部は、同一人物か一族であったと考えられるが、その事績は不明である。いずれにして戦国期の勢力圏としては葛西氏の領域であり、小山氏は葛西氏の家臣であったものだろう。

 大窪館は、桜川の河口近くに突き出た比高40m程の丘陵上に築かれている。主郭や腰曲輪の一部が畑となっており、東麓から登道が付いている。中央が少しくびれた瓢箪型に近い形状の主郭と、その周囲の1~2段の長い帯曲輪を廻らした縄張りとなっている。更に主郭の東前面には数段の腰曲輪が築かれている。主郭内はわずかな段差で2段に分かれ、東側の方がやや高く、面積も広い。北西の台地基部には1条の堀切が穿たれて分断されている。遺構としては以上で、簡素な構造の城館である。
主郭塁線と帯曲輪→DSCN7870.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.690911/141.485903/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図説 近世城郭の作事 櫓・城門編

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  • 作者: 三浦 正幸
  • 出版社/メーカー: 原書房
  • 発売日: 2022/05/09
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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福岡館(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN3111.JPG←館跡付近の現況
 福岡館は、大崎氏の家臣高玉氏の居館と伝えられる。1556年に、高玉茂兵衛が有賀城より移り住んだとされる。『伊達諸城の研究』の沼舘愛三氏は、河川監視のために築かれたと推測している。一方、『日本城郭大系』によれば、館主として佐藤主水の名が伝わっているとも言う。

 福岡館は、迫川北岸の平地に築かれていたらしい。現在は住宅地となっており、遺構は完全に湮滅している。北側に小さな水路があるが、堀跡かどうかも明確ではない。戦後まもなくの航空写真を見ても、既に館の痕跡は明瞭ではない。今となっては失われた城館である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.782048/141.116853/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


宮城県の歴史 (県史)

宮城県の歴史 (県史)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2010/01/01
  • メディア: 単行本



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三玉城(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN3029.JPG←二重堀切の現況
 三玉城は、この地の土豪石川氏の城であったと考えられている。江戸時代に編纂された『佐沼古戦場記』の巻末に「天正年中中奥筋古館主」として37名の城館名と館主が記載されているが、その中に「三玉 石川源右衛門」とあり、戦国末期に大崎氏の家臣石川氏が城主であったらしい。また、慶長年間(1596~1615年)に伏牛城(臥牛楯)主石川重久の子石川源右衛門重時が三玉城と称して居城し、1612年に没したとも伝えられる。

 三玉城は、二迫川とその支流の小河川に挟まれた東西に細長い丘陵上に築かれている。2005~6年に高圧鉄塔新設のため、発掘調査が城の西部で行われている。南麓に城址標柱があり、そこから主郭にある鉄塔への保守道が付いているので、訪城は容易である。畑の脇を登っていくと、虎口状の地形や腰曲輪を経由して、主郭背後の高圧鉄塔に至る。ここに二重堀切があるが、鉄塔建設で改変されているものの、堀切の名残は残っている。主郭は薮になっているが、東端に小堀切が穿たれ、その先に2郭があるが、ここも薮になっている。2郭の東は急に開けており、畑地となっている3郭がある。2郭との間は段差だけで区画され、3郭自体は畑化で改変を受けているので、往時の平場地形かどうかは不明とされる。3郭の南東端に高台となった4郭がある。櫓台として機能していたと考えられ、周囲に二重横堀がL字型に穿たれ、南西端で竪堀が落ちている。4郭の東の山林内に、小さな方形の塚があり、祠が3基祀られている。この他、丘陵南斜面の平場群は、腰曲輪であった可能性があるが、畑化されているので遺構かどうか不明である。遺構としては比較的ささやかな城である。
主郭~2郭間の堀切→DSCN3044.JPG
DSCN3073.JPG←4郭外周の横堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.790729/140.997784/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


宮城県の歴史散歩

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  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2007/07/01
  • メディア: 単行本


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葛岡城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN2987.JPG←主郭外周の横堀
 葛岡城は、大崎氏の支城である。伝承では、元々は鎌倉初期に坂東武士の鑑と讃えられた名将畠山重忠が、1189年の奥州合戦の戦功により源頼朝から葛岡郡を所領として賜り、城を築いて弟の重宗を代官として派遣したと言われる。その後、1205年に北条時政の謀略により二俣川で畠山氏が滅ぼされると、葛岡城は一旦廃城となった。時代は下って室町末期には、大崎氏の家臣葛岡太郎左衛門(『日本城郭大系』では葛岡監物としている)が城を築き直して城主となった。1588年に伊達政宗が大崎氏家中の内紛に軍事介入した大崎合戦では、伊達勢に中新田城が攻撃された際に、葛岡監物・同太郎左衛門が300余騎にて中新田城に籠城したと言う。1590年の豊臣秀吉の奥州仕置で大崎氏が改易となると、葛岡氏も没落し、再び廃城となった。

 葛岡城は、梅林寺背後の比高50m程の丘陵上に築かれている。寺の脇から登道があり、城内は薮払いされて整備されている。一部が墓地となっているので、やや改変を受けているものの、遺構は概ねよく残っている。城は山稜の主尾根から南に張り出した支尾根に築かれており、南北2郭で構成されている。北が主郭、南が二ノ郭で、2郭の間は堀切で分断され、更に二ノ郭外周と主郭の北西から背後の北東面にかけて横堀が穿たれている。この横堀は主郭背後を分断する堀切を兼ねている。2郭の間の堀切は城道を兼ね、虎口を形成していたとも考えられるが、改変があるので詳細はわからない。また主郭も二ノ郭も後部に土塁を築いている。二ノ郭は小さい長円形の曲輪で、いかにも物見台的な位置付けである。主郭は、内部が南北2段に区画され、北の段はきれいに削平されているが、南の段は緩やかに傾斜している。この他、二ノ郭の西側には腰曲輪状の段がいくつも見られるが、墓地となっているので、どこまでが往時の遺構であるか、判別し難い。遺構としては以上で、簡素な構造の小規模な城砦である。
堀切と二ノ郭土塁→DSCN2948.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.692134/140.904958/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


続・東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

続・東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2021/08/26
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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多田川城(宮城県加美町) [古城めぐり(宮城)]

DSCN2867.JPG←主郭の内枡形虎口
 多田川城は、大崎氏の支城である。城主は、岩手澤城主氏家弾正の家臣多田川大膳とも、大崎氏家臣大谷孫八郎(円幢院の解説版には大谷弥八郎義清とある)とも言われる。いずれにしても大崎氏勢力の城であり、築城は1400年以後とされる。

 多田川城は、円憧院背後の比高40m程の山稜上に築かれている。南麓の民家の入口脇に城址標柱があるが、明確な登道はない様なので、取付きやすそうな円憧院の墓地裏から斜面を直登した。ネットで入手した資料では、西館・中館・東館の3郭があるとしているが、実際には5郭で構成されている。ここでは仮に、西から順に北郭・三ノ郭(西館)・主郭(中館)・二ノ郭(東館)・南郭と呼称する。これらの曲輪が一直線に並び、それぞれ堀切で区画された連郭式の縄張りとなっている。北郭先端と南郭先端の堀切は浅いが、それ以外の堀切はなかなか深い薬研堀となっている。主郭の南東部には綺麗に構築された内枡形虎口がある。また二ノ郭の北東には搦手虎口と思われる虎口郭が付随している。この虎口郭は主郭との間の堀切から通じており、土塁で巻いた櫓台が堀切脇に付いて虎口を形成している。これらの主要な曲輪は、主郭以外は削平が甘く、塁線も不明瞭な部分が散見される。一方で、これらの曲輪の東西の斜面には腰曲輪が築かれている。特に西側は数段に分かれ、土塁や城道らしい跡がある。以上が多田川城の遺構で、基本的には単純な形の連郭式の城に近い形態だが、主郭の内枡形虎口や二ノ郭の虎口郭には見るべきものがある。大崎氏勢力の城としては、設計の新しさを感じさせる。
主郭~三ノ郭間の堀切→DSCN2752.JPG
DSCN2785.JPG←二ノ郭の虎口郭

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.628966/140.838010/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

  • 作者: 松岡 進
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/02/27
  • メディア: 単行本


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宿館(宮城県加美町) [古城めぐり(宮城)]

DSCN2694.JPG←宿館の遠望
 宿館は、矢田川館とも呼ばれ、奥州探題大崎氏11代義直の居館であったとの伝承がある。義直は大崎天文の内乱を巻き起こした当主であった。1534年、義直の横暴に怒った新田安芸頼遠は、中新田・高木・黒沢らの諸氏を誘って叛乱を起こした。これが大崎天文の内乱で、その経緯は泉沢城の項に記載する。義直は直ちに叛乱討伐に出陣したが、独力で鎮圧できなかったため、桑折西山城主伊達稙宗に援軍を要請し、その支援を受けて内乱をようやく鎮圧した。この結果、伊達氏が奥州支配の実権を握ることとなったが、伊達氏もやがて天文の乱と呼ばれる奥州諸侯を巻き込んだ大規模な内乱を起こし、大崎氏もその渦中に巻き込まれることとなった。大崎義直がこの地に居住したという伝承の真偽は定かではないが、内乱の過程で一時的に本陣を置いたか、この地に逼塞を余儀なくされたか、或いは隠居城であったか、いずれかであろうか。尚、宿館の南東の山林内に、大崎義直の墓と伝えられる円墳がある。

 宿館は、民家裏にある高台にあったらしい。スーパー地形などで見る限り、方形をした高台の台地であるようだが、民家の裏の畑や薮となっていて踏査できず、遠望しただけで撤収した。尚、大崎義直の墓は山林の手前に標柱があるが、場所がわからなかったので脇の民家のご主人に場所を教えていただき、お参りした。山林内の円墳の上に自然石の墓があったが、倒れていたので立て直しておいた。しかし多分その後の地震でまた倒れてしまったことだろう。円墳の周囲に土塁状の地形が見られたが、宿館に関連するものであるかどうかは不明である。
円墳上の大崎義直墓→DSCN2688.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.593504/140.808012/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


伊達一族の中世: 「独眼龍」以前 (515) (歴史文化ライブラリー)

伊達一族の中世: 「独眼龍」以前 (515) (歴史文化ライブラリー)

  • 作者: 喜良, 伊藤
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2020/12/17
  • メディア: 単行本


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夕日楯(宮城県加美町) [古城めぐり(宮城)]

DSCN2442.JPG←堀切状の虎口
 夕日楯(夕日館)は、小野田城とも言い、南北朝期の1346年に旭(朝日)楯主7代内海重朝の弟石川七郎重仲が分封されて築いたと伝えられる。その後石川氏は大崎氏の家臣となり、大崎家臣団の一員として戦場で名を馳せたが、1590年の葛西大崎一揆の際に夕日楯主石川長門隆重は四竈城主四竈尾張守隆秀と共にいち早く伊達氏の軍門に降り、その先鋒となって宮崎城攻撃に加わったと言う。江戸時代になると石川氏は帰農した様である。

 夕日楯は、鳴瀬川南岸の標高130m、比高70mの山上に築かれている。北麓の車道脇に城址標柱があり、西の谷戸に奥に伸びる小道があり、その奥から北西の腰曲輪群に登る道が付いている。おそらくこれが大手道だったのだろう(この道があるのは降りてきた時にわかったが、登る時はわからなかったので北東の斜面を直登して訪城した)。夕日楯は中心に主郭を置き、外周に二ノ郭を環郭式に廻らし、更に山頂から五方向に伸びる尾根地形を利用して腰曲輪群を配置している。この城の特徴は星型をした主郭であり、五方向に塁線を突出させて横矢を掛けている。星型主郭の例としては栃木の金丸氏要害があるが、それと比べると夕日楯の主郭は小さく、大した居住性を有していない。夕日楯の主郭で南東に突き出た部分は、二ノ郭から登る坂土橋を兼ねている。また夕日楯では、主郭だけでなく二ノ郭も星形となっている。腰曲輪群は外周の斜面全周に築かれているが、北東・北西・西の斜面で多く築かれ、特に北西と西は段数が多い。しかも腰曲輪端には坂土橋や土塁が多く散在しており、堀切のような虎口も設けられている。この堀切状虎口の脇には物見台が備わっており、同じ形状の虎口が数ヶ所構築されている。特に二ノ郭北東部には虎口の脇に大型の櫓台と土塁が備わっている。また北西腰曲輪群の北西端、西腰曲輪群の北西端・南西端の3ヶ所に堀切が穿たれ、その前面に物見台を設けている。主郭の南端にも、堀切と物見台土塁が築かれている。この他、南尾根の腰曲輪の先には、東斜面に4本の畝状竪堀が、また西斜面には二重竪堀が穿たれている。宮城の城で畝状竪堀は希少である。但し、南尾根には林道(現在は薮)があるので、元々多重堀切があったものが、林道開削で尾根上の堀切が堙滅し、側方の竪堀だけが残った可能性もある。
 いずれにしても夕日楯は、宮城県内でも有数の巧妙な縄張りを有しており、一見の価値がある。写真ではその魅力が十分伝わらないのが残念である。
星型主郭の塁線→DSCN2563.JPG
DSCN2530.JPG←主郭南端の堀切と物見台
北西斜面の腰曲輪群→DSCN2668.JPG
DSCN2390.JPG←北西端の堀切と物見台
南尾根の畝状竪堀→DSCN2473.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.566849/140.776727/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


パーツから考える戦国期城郭論

パーツから考える戦国期城郭論

  • 作者: 西股総生
  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2021/03/01
  • メディア: 単行本


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郷六御殿(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN6197.JPG←御殿跡の標柱
 郷六御殿は、仙台伊達藩4代藩主綱村が造営した別荘である。1687年に郷六の地が地の利を得た佳境であることから、綱村は藩士上野市郎兵衛らに命じて築かせた。かつては総面積は約2haに及び、周囲には高さ3mの土塁と幅6mの外堀を廻らし、三層の楼閣や御蔵・御留守宅・馬場などがあったと伝えられる。梅の古木なども植えられて、別名「楽寿園」とも呼ばれたと言う。

 郷六御殿は、広瀬川曲流部の西岸の段丘上に築かれている。現在は宅地と畑に変貌しており、民家脇の標柱と井戸跡が残る以外は、遺構は完全に湮滅している。しかし古い航空写真を見ると、広大な長方形の屋敷跡が確認でき、北・西・南を囲む堀跡が明瞭に残っていたことがわかる。広さはすぐ近くにある郷六館の4倍以上あり、かなり広大な屋敷でさすがに大藩伊達家藩主の別荘であっただけのことはある。1970年代初頭までは遺構が残っていたが、東北自動車道・宮城仙台ICの建設で遺構の西部が破壊され、その後の宅地化で遺構は完全に湮滅したらしい。ちなみに標柱と井戸跡があるのは、屋敷地の外側である様だ。
 尚、南西にある大梅寺に御殿の一部が移築されて現存しているとのことなので、機会を改めて訪問してみたい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.261527/140.817239/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


伊達の国の物語 政宗からはじまる仙台藩二七〇年

伊達の国の物語 政宗からはじまる仙台藩二七〇年

  • 作者: 菅野正道
  • 出版社/メーカー: 株式会社プレスアート
  • 発売日: 2021/05/22
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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琵琶館(宮城県加美町) [古城めぐり(宮城)]

DSCN6180.JPG←西の堀跡の道路
 琵琶館は、大崎氏の重臣笠原氏の一族で、柳沢大楯(大楯城)主柳沢直広(直康)の嫡子備前守隆綱が館主であったと伝えられる。1588年に伊達政宗が大崎氏家中の内紛に軍事介入した大崎合戦では、隆綱は父直広と共に新井田隆景に与して「中新田城の戦い」で伊達勢と戦い軍功を挙げた。1590年の葛西大崎一揆では、父と共に宮崎城の笠原民部少輔隆親に従って伊達勢と戦い討死した。

 琵琶館は、田川南岸の段丘辺縁部に築かれている。館跡は民家となっており、遺構はあまり明確ではないが、南と西に堀状の道が通っており、空堀跡と思われる。西の堀跡の道路の内側に土塁がある可能性があるが、薮でよくわからなかった。いずれにしても小規模な城館であったようである。尚、車道脇に標柱が立っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.604974/140.772028/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


伊達政宗―戦国から近世へ

伊達政宗―戦国から近世へ

  • 出版社/メーカー: 岩田書院
  • 発売日: 2020/05/01
  • メディア: 単行本


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奥山館(宮城県加美町) [古城めぐり(宮城)]

DSCN6145.JPG←東に残る土塁
 奥山館は、仙台伊達藩の家臣奥山氏の居館である。伊達家の藩制で言う「小野田所」(「所」は「要害」の下のランク)である。元々は1593年に伊達氏家臣中島監物定成が小野田を領して築館した。1695年に中島監物利成が上口内要害に転封となった後、古内義長がこの地に入部して居館とした。1757年に義長の子義清が宮崎所(宮崎館)に移封となると、奥山主計良風が黒川郡吉岡所(吉岡城)から小野田所に移封されて居住した。以後、幕末まで奥山氏の居館となった。

 奥山館は、鳴瀬川北岸の平地に築かれている。館跡は宅地や畑となって改変を受けているが、東と南に土塁が残っている。南中央には虎口らしい地形も見られる。これらの遺構から推測すると、方形館であったらしい。西の外郭の外側には外堀跡と思われる水路がある。遺構はわずかであるが、宮崎館と共に藩政時代の貴重な遺構である。
 尚、奥山館の南東にある重要文化財「松本家住宅」は、奥山家の家老松本氏の代々の住居である。
南の土塁と虎口→DSCN6153.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.578542/140.763509/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


仙台藩ものがたり

仙台藩ものがたり

  • 出版社/メーカー: 河北新報総合サービス
  • 発売日: 2022/01/20
  • メディア: 単行本


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八石館(宮城県加美町) [古城めぐり(宮城)]

DSCN6117.JPG←南西隅の塁線の段差
 八石館は、1617年頃に伊達政宗の家臣中島監物定成が小野田郷を拝領し、新館として築館したと伝わる。

 八石館は、鳴瀬川北岸の台地にある方形居館である。現在は末孫と言われる伊藤家の宅地となっている。以前は古い中門が残っていて、当時の在村武士の館の遺構として貴重とのことであったが、現在はなくなっている。また宅地の南側には方形郭の塁線が段差として残っており、概ね往時の姿を想像できる。西側にも塁線が残るが、農地のため踏査できていない。八石館はたまたま通りかかって標柱を見つけて訪城した。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.576731/140.768831/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

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  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/08/21
  • メディア: 単行本


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君ヶ袋館(宮城県加美町) [古城めぐり(宮城)]

DSCN6094.JPG←標柱が立つ主郭跡の民家
 君ヶ袋館は、大崎氏の家臣千葉籾負(ゆきえ)介常継が1543年に築いて居住したと言われている。以後、君ヶ袋氏を称し、1590年の葛西大崎一揆の際には、君ヶ袋九郎左衛門兼継が伊達勢と戦って落城した。兼継の弟胤継の後裔は伊達家に仕えた。

 君ヶ袋館は、鳴瀬川と田川に挟まれた平地の中程に築かれている。現在は宅地となっており、主郭とされる民家の入口脇に標柱が立っている。民家が立ち並んで改変されてるので、城域がよくわからないが、堀跡らしい水路が北側に見られる。但し、昭和20年代前半の航空写真との照合すると、北辺部は水路開削で改変されているようなので、全てが堀の名残りとは言い切れない様である。土塁が残るとの情報もあるが、あまり明確ではなく、残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.581126/140.813441/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


<伊達政宗と戦国時代>政宗が煽動? 大崎・葛西一揆 (歴史群像デジタルアーカイブス)

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  • 作者: 宮本義己
  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2015/02/25
  • メディア: Kindle版


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李埣館(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN6089.JPG←堀跡のような道路
 李埣(すもぞね)館は、『伊達世次考』では李曽根要害と記載され、大崎氏の家臣米谷越前入道の居館であったと伝えられる。同書によれば、1536年の大崎氏の内訌の際に、岩手沢一栗氏ら氏家党の攻撃を受け、米谷越前入道・治部父子は李埣館から逃れたと言う。

 李埣館は、李埣八幡神社の境内付近にあったらしい。主郭と外郭から成っていたらしいが、現在は神社のすぐ南の館跡中心部付近を市道が貫通するなど、市街化で遺構は全く残っていない。その正確な場所すら明確ではないが、南西に堀跡らしいカーブを描く道路が見られる。また南の空き地に水路、また北の市道沿いにも水路があり、これらも堀跡であった可能性がある。いずれにしても明確な痕跡ではなく、今後の考究に待ちたい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.574063/140.977163/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


日本100名城と続日本100名城に行こう 公式スタンプ帳つき (歴史群像シリーズ)

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  • 作者: 日本城郭協会
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  • 発売日: 2020/12/17
  • メディア: ムック


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平渡楯(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN0298.JPG←主郭虎口
(2020年11月訪城)
 平渡楯(平渡館)は、平渡五郎左衛門尉の居城と伝えられる。平渡五郎左衛門尉は、元々関東の豪族であったが、一族と共に奥州に下向し、この地に城を構えたと言う。

 平渡楯は、比高30m程の丘陵上に築かれており、南麓の車道脇に標柱が立っている。主郭を中心に四方の尾根に曲輪群を配置した縄張りとなっている。明確な登道はないが、一番取り付きやすいのは南東の尾根で、車道脇から山林内に入って斜面を登っていくと、南東尾根の先端に築かれた物見台のような円丘に至る。この尾根は主郭の南尾根から派生する東の支尾根に当たり、この先端の孤塁は古墳跡だと思われる。この尾根を北西に辿って行くと、数段の曲輪群を登った先に南郭に至る。南郭は南北に長く、あまり明瞭でない部分もあるが先端に曲輪群が置かれ、途中には僅かな痕跡を残す浅い堀切も見られる。南郭の北には主郭があり、虎口は南に向かって築かれている。虎口は、単純な坂虎口である。主郭内はきれいに削平され、周囲を高さ数mの切岸で囲まれている。土塁は見られない。主郭の周囲は腰曲輪が廻らされ、西と東の尾根にそれぞれ西郭・東郭が置かれている。西郭はその先がY字状に分岐し、南西と北西の尾根にそれぞれ曲輪群が置かれている。東郭は比較的広い曲輪1つだけのようだが、薮が多くて形状がよくわからない。これらの各尾根の曲輪群は、いずれも側方に腰曲輪2~3段を伴っている。主郭の背後に当たる北尾根には曲輪がなく、堀切のみで防御している。形状からすると、戦国期以前の古い形態の城だったと思われる。尚、『日本城郭大系』所収の紫桃氏による縄張図は、あまりにざっくり過ぎて現地と合わない部分がほとんどで、全く参考にならなかった。
北尾根の堀切→DSCN0403.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.487675/141.099300/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 日本の城

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  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2018/06/19
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タグ:中世平山城
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吉田城(宮城県七ヶ浜町) [古城めぐり(宮城)]

DSCN0250.JPG←城跡の墓地
(2020年11月訪城)
 吉田城は、留守氏の家臣吉田右近の居城と伝えられている。留守顕宗の継嗣をめぐる家中の論争では、花淵城主花淵紀伊守らと共に伊達晴宗の3男政景の擁立に動いた。その後の歴史は不明だが、1590年、豊臣秀吉の奥州仕置で留守氏が所領を没収されると、吉田城も廃城となったのだろう。

 吉田城は、金剛寺の裏山にあり、現在は金剛寺の墓地に変貌している。見た限りはただの墓地で、墓地の奥に城址標柱が立っている。改変が多いので往時の縄張りを推測するのも困難だが、墓地内は南に向かって傾斜した何段かの平場に分かれている。また墓地の西側の小道は周りより低くなって丘陵基部を横断しており、往時の堀切の跡であるかもしれない。海沿いに面した比高20m程の小丘だが、周囲の眺望に優れ、港の向こうには花淵城がよく見える。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.309252/141.079452/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


宮城県の歴史散歩

宮城県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2007/07/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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花淵城(宮城県七ヶ浜町) [古城めぐり(宮城)]

DSCN0227.JPG←主郭背後の空堀
(2020年11月訪城)
 花淵城は、留守氏の家臣花淵(花節)氏の居城と伝えられる。『仙台領古城書立之覚』では城主を花節紀伊守とし、『留守分限帳』では「花ふし治部少輔」の名が見える。花淵氏は、留守氏家中では着座の身分で、留守顕宗の継嗣をめぐる家中の論争では、吉田右近・辺見遠江らと共に伊達晴宗の3男政景の擁立に動いた。1590年、豊臣秀吉の奥州仕置で留守氏が所領を没収されると、花淵城も廃城となったと推測されている。

 花淵城は、七ヶ浜半島の東端に位置する花渕崎北方の断崖上に築かれている。花渕崎の山頂にあるかと思っていたが、場所が違っていた。南麓にある同性寺から山上の墓地へ登る道があり、その途中の展望台になっている場所から北西に山林を進むと、その先に城がある。山林が竹薮に変わったらもう少しで目の前に空堀が現れる。ほぼ単郭の城らしく、垂直絶壁の断崖に面した丘陵北端に主郭がある。南東には尾根筋を分断する空堀が穿たれている。主郭の後部には空堀に沿って低土塁が築かれている。主郭の南西には一段低く腰曲輪が置かれ、更にその下方にも腰曲輪がある様だ。しかしいずれも薮がひどく、主郭の中もとてもではないが踏査できる状況ではない。空堀すらも竹が密生しており、写真撮影もままならない程である。いずれにしても、城というより居館に近い形態の城郭である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.302735/141.086351/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


伊達氏と戦国争乱 (東北の中世史)

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  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/12/21
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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桜井館(宮城県多賀城市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN0191.JPG←桜井館のある丘
(2020年11月訪城)
 桜井館は、歴史不詳の城館である。1548年に作成された『留守分限帳』には、留守氏の家臣団の中に「さくらい(桜井)」の名が見える。また『多賀城町誌』では、留守氏の家臣黒川氏の居館と推測している。

 桜井館は、多賀城市役所のすぐ西側にある比高10m程の小丘に築かれている。過去に行われた発掘調査の報告書によると、主郭の後部(西側)に土塁を築き、背後を堀切で分断し、堀切のすぐ東側に腰曲輪を1段置いていたらしい。ほぼ単郭の簡素な構造の城館で、現在も遺構は残っていると思われるが、現地を訪れたところ、桜井館のある丘は不動産会社の管理地となっており進入不可能であった。おまけに周りは住宅地だらけの上、北側には家族連れが遊んでいる公園があるなど、とても山林を探索できるような環境ではなかった。破壊される前に、いつの日か遺構が開放される日を望みたい。尚、以前は北側の公園に館跡の標柱があったようだが、現在はそれも無くなってしまっている。

 お城評価(満点=五つ星):―(未踏査のため評価なし)
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.293591/141.002923/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


宮城県の歴史 (県史)

宮城県の歴史 (県史)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2010/01/01
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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福岡楯(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN0099.JPG←南東尾根先端部の堀切
(2020年11月訪城)
 福岡楯(福岡館)は、葛西清重11代の裔孫左京太夫の弟大崎隼人清宗の居館であったと伝えられる。清宗は後に鴇田に改姓し、その子若狭守は天正年間(1573~92年)に再び福岡楯を居城としたと言う。しかしその典拠は不明とされる。

 福岡楯は、仙台市水道局福岡浄水場の裏山に築かれている。標高167.1m、比高80m程である。城へは、浄水場の敷地外を南に迂回し、動物よけの柵を越えて浄水場の裏から尾根に取り付けば、尾根上に山道があり、すぐに城域に入れる。城は三角点のある山頂に主郭を置き、主郭周囲には腰曲輪が築かれ、その周りは北西尾根以外を大きな切岸で断絶している。城の中心部から北・北西・東・南東に伸びる各尾根に曲輪群を配置している。それらの内、堀切は南東尾根の先端部に1本と北西尾根に2本穿たれている。北尾根は、『日本城郭大系』の縄張図では堀切が3本ある様に描かれているが、改変されているのか明確な堀切はなく、段差と木戸口の様な両側土塁の遺構と尾根の付け根の左側に竪堀らしいものしか確認できなかった。また南の尾根の先にも曲輪と堀切があったらしいが、現地を歩いた時は遺構があるようには見えず、踏査しなかったため見逃してしまった。いずれにしても、全体に防御が甘い城の様に感じられた。
北西尾根の堀切→DSCN0164.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.352797/140.775472/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


戦国の山城を極める

戦国の山城を極める

  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2019/09/12
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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杭城(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN1019.JPG←東郭群の中心郭の虎口と土橋
(2020年11月訪城)
 杭城は、杭城楯(杭城館)とも言い、山野内城主須藤刑部定信が立て籠もった城と伝えられる。定信は、1584年に結城七郎と戦ったが敗れ、山野内城は落城した。定信は逃れて杭城を築いて立て籠もったが、最後は福岡川崎で自刃したと伝えられている。

 杭城は、標高256mの杭城山に築かれている。この山は、七北田川の支流西田中川の最奥部に位置する丘陵で、西田中川はこの丘陵の東端に突き当たったところで南北に分かれて遡っている。即ち杭城山は、南北を峡谷で刻まれ、東に離れた平野部から隔絶した地にある。その為、宮城県内でおそらく最も踏査困難な城だと思う。それほど山深い地であるので、クマの出没リスクも高く(実際に足跡があった)、目印の乏しい広幅の緩傾斜地であるため、遭難リスクにも怯えながらの訪城となった。
 訪城ルートは、よく参考にさせていただいている「城郭放浪記」さんの案内を参考にした。杭城山林道を東進し、南北に分かれる分岐路を南に進んで降っていき、途中で谷に降りていく分岐路を入って西田中川に降りる。浅瀬を渡渉して東の山裾に取り付き、薮に埋もれた作業用林道を登っていく。しかし途中で道が消失したため、結局傾斜のある斜面を直登して城域に辿り着いた。

 城の遺構は、大きく3群に分かれて自然地形を挟んで散在している。『日本城郭大系』の表記を参考にして、ここでは東から順に東郭群・中郭・西郭と呼称する。東から西へ辿ると最初に現れるのが東郭群前面の長い切岸で、城の最前面に切岸・土塁の防御線が構築されている。そこから西に進んだ先に、東郭群の中心となる曲輪がある。全周を切岸で防御し、後部に土塁と横堀を構築し、土橋を架けている。また周囲には帯曲輪を廻らしている。この曲輪から南にやや離れた所に南の出曲輪があるらしいが、今回は見逃した。いずれにしても東郭群の防御が最も厳重である。東郭群からあまり幅のない尾根を西に登っていくと、その先に中郭がある。中央がややくびれた東西に長い曲輪で、前面に枡形虎口を築き、その南に堀切と出曲輪を置いている。また中郭は、背後に幅広の土塁を築き、その背後には堀切を穿って土橋を架けている。中郭から西の斜面を登っていくと、杭城山山頂にある西郭に至る。西郭は、最高所にあるが小さな平場で、いかにも物見という雰囲気である。背後に堀切を穿っているが、明確な遺構はそれだけである。南に伸びる尾根上はほとんど自然地形の平場である。以上が杭城の遺構で、最高所にある西郭は前述の通り物見台と考えられるので、主郭に当たるのは中郭だろう。広い丘陵上に曲輪が散在し、全く求心性のない縄張りである。追い詰められて立て籠もった城としても、少々理解に苦しむ城の構造である。
中郭の虎口→DSCN1029.JPG
DSCN1037.JPG←中郭の幅広の土塁
中郭背後の堀切→DSCN1049.JPG
DSCN1070.JPG←西郭背後の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.333089/140.749851/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の城の一生: つくる・壊す・蘇る (歴史文化ライブラリー)

戦国の城の一生: つくる・壊す・蘇る (歴史文化ライブラリー)

  • 作者: 英文, 竹井
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2018/09/18
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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八乙女館(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN9942.JPG←空堀のクランク部
(2020年11月訪城)
 八乙女館は、国分氏の家臣八乙女淡路守盛昌の居館である。八乙女氏は、国分氏の庶流松森氏の一族に当たる。国分氏が没落すると、八乙女氏は伊達政宗に服属した。八乙女氏は一時七北田村に隠棲したが、1588年に淡路の子善助が伊達政宗に旧領を安堵され、実沢に移り住んだと伝えられる。

 八乙女館は、萱場川と八乙女川の合流点西側にある比高15m程の段丘東端部に築かれている。南側の市道脇に解説板があり、その横から登道が付いている。主郭の東半分は土取りによって穴ボコだらけになってしまっており、往時の曲輪の形状はよくわからなくなっている。残っている主郭部分は耕作放棄地の薮となっている。主郭の西側には台地基部を分断する空堀が穿たれ、空堀の内外に土塁が築かれている。この空堀・土塁の北1/4ぐらいの所に虎口があり、その前に馬出しの土塁が構築されている。縄張図を見ると、以前は馬出しの周りに空堀もあったらしいが、現在堀は埋められてしまっている。また前述の空堀・土塁の南1/3ぐらいの所に、横矢掛かりの塁線の張出しが構築されており、土塁と空堀がクランクしている。張出し部分の塁線のすぐ北側に虎口があり、そこから張出した土塁の周りを回る様に武者走りが作られている。非常に珍しい構造である。八乙女館は、単郭の小城館であるが、西側の空堀・土塁による防御線は充実している。但し、薮が多いのは残念である。
馬出しの土塁→DSCN9925.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.321121/140.810587/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

  • 作者: 松岡 進
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/02/27
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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白石城(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN9882.JPG←主郭外周の空堀
(2020年11月訪城)
 白石城は、白石三河守宗頼の居城と伝えられる。宗頼は子がなかったため、国分能登守某の弟を養子として世嗣とした。これが三河守宗明とされる。これらのことから白石氏は国分氏の重臣であったと推測されている。一方、白石城内にある宗頼の墓には、伊達晴宗の正室栽松院の家臣とある。栽松院は伊達政宗(貞山公)の祖母に当たり、1591年にこの地に移り、1594年に亡くなった。

 白石城は、比高10m程の段丘南東端に築かれている。現在明確に残っているのは主郭部分だけである。段丘の南東端をL字の空堀で穿って主郭を築き、主郭の北から西にかけては土塁を築いて防御している。また主郭の東側にも一段低い腰曲輪を置いている。この腰曲輪は、北側に主郭から続く土塁と空堀があり、塁線がやや北側に張り出して横矢を掛けている。主郭内には宇佐八幡神社が置かれ、内部は公園化されている。また栽松院や白石宗頼、根白石で没した黒川季氏の墓も立っている。主郭の外側にも二ノ郭などの外郭があったと思われ、空堀外の北側には低土塁があるほか、腰曲輪のような雰囲気で若干高くなっている。また西側に広がる空き地の西には水路が通る堀状の地形があり、その脇には土塁も見られるので、おそらく二ノ郭の空堀跡だろうと推測される。
 尚、実は白石城に来るのは今回が2回目である。前回は2019年の夏に来たが、薮がひどくて空堀が見にくかったので、今回再訪した。ところが、前回は主郭の土塁や空堀は山林となっていたのに、今回来てみたら、重機を入れて土塁と空堀の山林が全て伐採されており、主郭西側の土塁を一部崩して重機道を作っていた。整備してくれるのはありがたいが、遺構を損壊するのはやめて欲しい。
主郭北側の土塁→DSCN9853.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.348809/140.798271/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国大名伊達氏 (中世関東武士の研究25)

戦国大名伊達氏 (中世関東武士の研究25)

  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2019/03/30
  • メディア: 大型本


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本郷楯(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN9713.JPG←重ね馬出しの内側の馬出し
(2020年11月訪城)
 本郷楯(本郷館)は、国分氏の支城と推測されており、城主は花坂勘解由と伝えられている。慶長年間(1596~1615年)には本郷盛重の居城となったと言う。国分氏の通字「盛」を称していることからすると、本郷氏は国分氏の一族であろうか。

 本郷楯は、広瀬川北岸の比高40m程の段丘先端部に築かれている。この城へは西側から近づくのが最も早いと思うが、西側は一面の耕作放棄地のガサ薮となっており、背丈ほどの草薮を強行突破する必要があり、なかなか大変な訪城である。しかしその先にある遺構はその苦労をするに足るものである。城は3つの曲輪で構成されており、東端にあるのが主郭、その西に二ノ郭、二ノ郭の北に三ノ郭が配置されている。二ノ郭・三ノ郭の西側には台地基部を分断する二重空堀が穿たれ、内側には土塁が築かれている。前述のガサ薮を越えて山林内を進んでいくと、最初に現れるのがこの二重空堀である。二重空堀は内堀の中央付近で内側の塁線が凸字状に突出して横矢を掛けている。また、二重空堀の中間部は帯曲輪状になっており、両側に土塁を築いて中央が窪んだ形になっており、通路状に武者走りがあった様である。二重空堀の南端には、非常に複雑な虎口構造が見られる。土塁の脇をすり抜けて外に出るとL字型の堀・土塁で囲まれた小郭が置かれ、更にそこから土橋を出ると、L字の堀・土塁で囲まれた南北に長いコの字形の堡塁が築かれている。これは全国的にも類例の少ない重ね馬出しの構造である。慶長年間の本郷氏時代の改修だろうか。二重空堀の北端にも馬出し状の構造があるようだが、薮がひどくて形状がよくわからない。二ノ郭と三ノ郭は東西に伸びる一直線の土塁と空堀で分割されている。また主郭と二ノ郭も、土塁と空堀で分断され、また主郭先端には物見台があり、その脇に枡形虎口があって下方に通じている。本郷楯は大きな城ではないが、重ね馬出しと二重空堀で防御を固めた城で、見て損はない。
二重空堀→DSCN9738.JPG
DSCN9760.JPG←二重空堀の内側塁線の突出部

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.281111/140.766052/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/08/21
  • メディア: 単行本


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