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金子十郎家忠陣屋(神奈川県横須賀市) [古城めぐり(神奈川)]

DSCN1956.JPG←陣屋跡の石碑
 金子十郎家忠陣屋は、1180年の衣笠合戦の際に金子十郎家忠が敷いた軍営である。家忠の事績については、金子十郎家忠館の項に記載する。1180年に源頼朝が石橋山で平家討伐に挙兵すると、相模の豪族三浦義明は一族をあげて頼朝に呼応した。しかし頼朝のもとに向った三浦一族の軍勢は嵐に遭って合流できず、本拠地に引き返した。一方、武蔵の豪族畠山重忠らは平家方として三浦氏を追撃し、その居城衣笠城を包囲した。この時、金子十郎家忠も平家軍の一翼を担ってこの地に陣を敷き、衣笠城攻撃に奮戦したと伝えられる。その勇猛さは、敵方の義明が称賛するほどであったと言う。

 金子十郎家忠陣屋は、現在山科台と呼ばれる住宅団地の只中にある。遺構は望むべくもないが、宅地の横の空き地に立派な石碑などが建っており、かつての歴史を伝えている。しかし傍らに立つ解説板は、字が全く読めなくなってしまっており、作り直してほしい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.237356/139.656658/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


新版 平家物語(一) 全訳注 (講談社学術文庫)

新版 平家物語(一) 全訳注 (講談社学術文庫)

  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2017/04/11
  • メディア: 文庫


タグ:陣所
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二階堂政貞屋敷(神奈川県大井町) [古城めぐり(神奈川)]

DSCN1897.JPG←屋敷地の現況
 二階堂出羽守政貞は、鎌倉幕府で政所執事や評定衆を務めた有力御家人二階堂氏の後裔である。二階堂氏の祖、山城守行政の次男行村が、1213年の和田合戦の際の功により大井庄を賜り、篠窪の地頭となった。その後、1285年の霜月騒動で大井庄の大部分は幕府に没収されたが、篠窪地区は二階堂氏が伝領し、地頭6代目の出羽守政貞に引き継がれた。政貞は、明徳年間(1390~94年)頃にこの地に屋敷を構えたと伝えられている。1394年に没した。その子孫は篠窪を姓とし、小田原北条氏、大久保氏に仕えたと言う。

 二階堂政貞屋敷は、政貞が開基した地福寺の南東の丘陵地にある。付近一帯は住宅地に変貌し、明確な遺構はないが、民家脇に屋敷の解説板が立っている。また地福寺には二階堂家(篠窪家)の墓所がある他、屋敷南東の山頂には了全塚という二階堂政貞の墓が祀られている(了全は政貞の法号)。
山頂の了全塚→DSCN1903.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:【屋敷】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.349707/139.171457/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【了全塚】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.347642/139.173174/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


北条氏康の家臣団 (歴史新書y)

北条氏康の家臣団 (歴史新書y)

  • 作者: 黒田 基樹
  • 出版社/メーカー: 洋泉社
  • 発売日: 2018/12/04
  • メディア: 新書


タグ:居館
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中原御殿(神奈川県平塚市) [古城めぐり(神奈川)]

DSCN1864.JPG←石碑と解説板
 中原御殿は、雲雀野御殿とも呼ばれ、徳川家康が関東各地に造営した御殿の一つである。家康は、鷹狩りや江戸と駿府往来の途次にここに宿泊した。御殿が造られたのは1596年と言われるが、諸説ある。また御殿は新造ではなく、それ以前から塁や中世土豪の居館があり、それを修築したとの伝承もある。江戸城虎ノ門を出発し、川崎市小杉(小杉御殿)・一之宮・田村(平塚)を経て、大磯化粧坂に至る中原街道の途次にある。1590年の江戸入部の際にここで鷹狩をしたのを初め、その後も鷹狩や中原止宿が行われた。1613年12月、馬場八左衛門が徳川秀忠の重臣大久保忠隣の謀反を家康に訴えたのも、この中原御殿でのことであった。また家康が没し、1617年に久能山から日光に改葬された際、柩が一夜ここに泊まっている。1642年に修復されたが、明暦の大火があった1657年に引き払われた。

 中原御殿は、現在の中原小学校校地を含む一帯にあった。遺構は残っておらず、校地東辺に石碑と解説板が立っているだけである。往時は東西140m、南北100mの規模で、四方に土塁と堀を廻らし、堀の要所には石垣が築かれ、土塁内側の四隅には大井戸が掘られていたという。大手は東側にあり、中原街道と大手道の交差点には高札場があった。尚、御殿の裏門が善徳寺に移築されて残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.343739/139.329600/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


徳川家康 弱者の戦略 (文春新書)

徳川家康 弱者の戦略 (文春新書)

  • 作者: 磯田 道史
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2023/02/17
  • メディア: Kindle版


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殿上砦(神奈川県平塚市) [古城めぐり(神奈川)]

DSCN1843.JPG←砦跡とされる神社
 殿上砦は、小田原城を攻略した伊勢宗瑞(いわゆる北条早雲)が築いた砦と伝えられる。後には小田原北条氏の家臣川口但馬守の居城となったと言う。しかし別説では、上杉謙信が関東諸将を率いて小田原城を攻撃した際、上杉勢の陣城の一つではなかったとの推測があるらしい。

 殿上砦は、岩戸分神社付近にあったとされる。神社の社伝では、砦を築いた宗瑞が守護神として1511年に建立したと推測されているらしい。砦は高麗山城の北西に張り出した台地上にあり、平塚市の文化財マップでは東西800mにも及ぶ台地全体を砦跡としているが、これは砦の正確な位置がわからないからであろうか?この台地の中でも神社境内だけ、わずかな高台となっている。しかし周囲に広がる台地との間には段差以外に防御施設は見られず、砦としては中途半端である。これは、遺構が湮滅しているためと思われる。今となっては、どのような砦だったのか、想像するのも難しい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.325691/139.315932/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 南関東編: 埼玉・千葉・東京・神奈川

関東の名城を歩く 南関東編: 埼玉・千葉・東京・神奈川

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/07/26
  • メディア: 単行本


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鳴沢城〔仮称〕(栃木県日光市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN1078.JPG←主郭虎口と土橋
 鳴沢城は、新発見した城である(発見したのはCS立体図から)。最初は新発見との確信は持てなかった。城跡が公園の一部となって散策路が敷設され、東屋まで建ち、あまりにきれいに整備されているからである。こんなにきれいに整備されていて、しかも遺構がはっきりしているのに、これが未発見の城とは、現地を確認した際はちょっと信じられなかった。しかし家に帰ってから再確認しても、栃木県の城郭本や各種のネット情報では全く記載がなく、日光市遺跡地図にも記載がない。日光市の文化財課に問い合わせたところ、紛れもない新発見の城であることが確認された。文化財課も早々に調査をしてくれて、保護の手立てを講じてくれるとのことである。

 鳴沢城は、日光市小倉山森林公園の一部であり、大谷川北岸の段丘上に築かれている。霧降大橋の北西である。段丘上でも、一段高くなって斜面で囲まれた高台にあり、いかにも城を築くに相応しい地勢である。前述の通り公園の一部となって、散策路が整備されている。GoogleMap等の航空写真を見ると、城内は一面の林で埋もれているので、最近になって間伐して整備したのかもしれない。大型の南北2郭から成る城で、館城と呼ぶに相応しい規模と構造である。北が二ノ郭で、北西部が内側に折れ曲がった曲輪で、北端が尖っている。北端部の北側には堀切が穿たれ、その前面に土壇が築かれている。二ノ郭の外周には腰曲輪が1段取り巻いている。散策路は北西部の折れ曲がりの部分を登るように敷設されているが、往時の虎口をそのまま散策路として使用した可能性がある。二ノ郭の南にあるのが主郭で、これも二ノ郭同様に北西部を内側に折れ曲げている。この外周に折れを持った空堀を穿って二ノ郭との間を分断し、主郭は空堀に沿って土塁を築いている。土塁の中央左寄りに虎口を開き、空堀には土橋が架かっている。主郭の西側には、二ノ郭西側からそのまま腰曲輪が伸びている。主郭の東側は、堀底と繋がる形で腰曲輪が築かれ、主郭塁線の円弧に沿って腰曲輪が伸びている。不思議なのは、主郭の南東端には堀切がなく、そのまま細尾根が伸びていることである。この細尾根は、城の東側斜面を上部から見下ろす形になっているが、東側斜面は削られて改変されているので、何らかの防御施設があったのかもしてない。

 以上が鳴沢城の遺構で、日光市内では拠点城郭的な規模があり、中世日光山の宗教勢力を統括する立場の豪族の城であった可能性が考えられる。戦国時代には鹿沼城主の壬生氏が日光山勢力を掌握しているので、その代官の居城であった可能性もある。しかし鳴沢城近くの住宅地はいずれも戦後に造られたものなので、その歴史が地元に伝わっていないのかもしれない。それにしても、これまで幾度となく通っている道路の直上に知られざる城があったとは!
空堀→DSCN1099.JPG
DSCN1105.JPG←主郭
主郭の土塁→DSCN1094.JPG
DSCN1138.JPG←主郭東側の腰曲輪
二ノ郭北端の堀切→DSCN1063.JPG
鳴沢城縄張り略図.jpg←略図(クリックで拡大)
(出典:栃木県森林整備課提供CS立体図)

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.753370/139.617616/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


富原文庫蔵 陸軍省城絵図

富原文庫蔵 陸軍省城絵図

  • 作者: 富原 道晴
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/05/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世崖端城
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瀬尾愛宕山城〔仮称〕(栃木県日光市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN1038.JPG←腰曲輪から見た主郭
 瀬尾愛宕山城は、栃木県のCS立体図から発見した城である。愛宕神社が祀られた愛宕山に築かれているが、市内には他にも愛宕山城があるので、ここでは地区名を冠して瀬尾愛宕山城と命名した。主郭には愛宕神社が祀られており、その参道が南麓から伸びているので、これを登れば城域に至る。
 瀬尾愛宕山城は、比較的小規模な山城で、山頂に主郭を置き、南側に腰曲輪を廻らしている。更に南下に舌状腰曲輪を築いている。西尾根には堀切が穿たれ、その先に薮に覆われた二ノ郭がある。二ノ郭の西にも堀切が穿たれ、この堀切に繋がる形で二ノ郭北側に帯曲輪が築かれている。更に少し西の先にももう1本堀切が穿たれている。北尾根は自然地形で、明確な普請の形跡は見られない。一方、南東の尾根の先には高台となった物見台が置かれている。前述の参道は、この尾根に登ってくるが、尾根の中間部分に堀切が穿たれ、更に物見台の付け根にも土橋が架かった堀切が穿たれている。以上が瀬尾愛宕山城の構造である。

 城が築かれているのは、この山塊の最高所の峰ではなく、そこより東に張り出した峰にある。このことから、東方に対する備えに重点を置いた城であったことが推測される。また平地を挟んで東方には倉ヶ崎城があるが、倉ヶ崎城は宇都宮氏の城で、天正年間(1573~92年)に対立していた日光山勢に攻め落とされたとの伝承があるので、この時の向城(付城)であった可能性も考えられる。
二ノ郭付け根の堀切→DSCN1023.JPG
DSCN0987.JPG←南の物見台と堀切・土橋
略図(クリックで拡大)→瀬尾愛宕山城 縄張り略図.jpg
(出典:栃木県森林整備課提供CS立体図)

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.741919/139.674854/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


城館調査の手引き

城館調査の手引き

  • 作者: 中井 均
  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2016/08/27
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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出縄砦(神奈川県平塚市) [古城めぐり(神奈川)]

DSCN1834.JPG←出縄高通し公園
 出縄砦は、手縄砦とも言い、伝承では1494年9月に扇谷上杉定正が攻略したと伝えられる。時あたかも山内・扇谷両上杉氏が争った「長享の乱」の最中で、定正は山内上杉顕定方の部将矢野氏が守っていた出縄砦を攻め落とし、矢野氏は討死したと言う。しかし定正はこの翌月に武蔵国高見原に出陣して上杉顕定と対陣中に急死しているので、定正の出縄砦攻略が事実であれば、時期はもう少し遡る可能性がある。

 出縄砦は、出縄高通し公園付近にあったと推測されている。ここは花水川流域の低地帯を眼下に望む丘陵地の東端部に当たり、現在では住宅が立ち並んで往時の眺望は望むべくもないが、周囲を俯瞰する要衝の地であったと思われる。現在は住宅団地となって改変されており、公園内に解説板が立つだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.332624/139.302135/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


神奈川中世城郭図鑑 (図説 日本の城郭シリーズ 1)

神奈川中世城郭図鑑 (図説 日本の城郭シリーズ 1)

  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/04/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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広川城(神奈川県平塚市) [古城めぐり(神奈川)]

DSCN1833.JPG←腰曲輪状の平場
 広川城は、後三年の役で活躍した鎌倉権五郎景政の居城であったとの伝承がある。しかし『日本城郭大系』では、岡崎城攻撃の際の野戦拠点の可能性がある、としている。

 広川城は、五領ヶ台と言う丘陵地にあったとされる。丘陵上には公園があるが、これは五領ヶ台貝塚で、国の史跡となっている。公園化されているので遺構はよくわからないが、中央の平場の側方に一段低い平場があり、腰曲輪跡の様にも見えるがどうであろうか?

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.354345/139.300611/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


蝦夷の末裔―前九年・後三年の役の実像 (中公新書)

蝦夷の末裔―前九年・後三年の役の実像 (中公新書)

  • 作者: 高橋 崇
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 1991/09/01
  • メディア: 新書


タグ:中世平山城
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烏山藩厚木役所(神奈川県厚木市) [古城めぐり(神奈川)]

DSCN1813.JPG←役所跡の現況
 野州烏山藩大久保家は、小田原藩大久保家の分家である。小田原藩初代大久保忠世の弟忠為の3男忠知の家系で、1725年に烏山藩主となった大久保常春は忠為から4代目で、3年後に若年寄から老中に昇進し、相模国内で1万石の加増を受けた。1728年、相州領支配のため、厚木役所を相模川沿岸の水陸交通の要衝の地に設置した。代官の他に3名の役人が常駐し、官司は年4回の交代であったという。設置後、幕末までの140年間、領内支配を初め、厚木村の治安経済文化に関する行政が行われ、宿場商家町の発展に大きな役割を果たした。

 烏山藩厚木役所の跡地は、現在は市街化してマンションが建っており、遺構は全く残っていない。マンションの駐車場脇に、「史跡 烏山藩厚木役所跡」と刻まれた石碑と標柱が立っているだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.443357/139.370606/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


歴史ドラマが100倍おもしろくなる 江戸300藩 読む辞典 (講談社+α文庫)

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  • 作者: 八幡和郎
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2015/10/02
  • メディア: Kindle版


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荻野山中藩陣屋(神奈川県厚木市) [古城めぐり(神奈川)]

DSCN1783.JPG←陣屋跡の半島状台地
 荻野山中藩は、小田原藩大久保家の分家である。初代藩主大久保教寛(のりひろ)は、小田原藩5代目藩主大久保忠朝の二男で、将軍徳川綱吉の中奥小姓を振出しに家宣・吉宗と3代の将軍に仕え、若年寄まで務めた。その間、1698年に父忠朝の隠居に伴い、相模国足柄郡・駿河国駿東郡内に新墾田6000石を与えられて分家した。1706年には西の丸の若年寄に任ぜられ、駿河国駿東・富士2郡内に5千石、更に1718年に相模国高座・大住・愛甲3郡内に5千石を加増され、計1万5千石の大名に列した。享保年間(1716~36年)に屋敷を駿東郡松永村に置き、松永陣屋として4代教倫(のりみち)まで続いた。1783年、5代教翅(のりのぶ)の時、陣屋を江戸に近い相模国愛甲郡中萩野に造営し、翌年初めに陣屋の体裁がほぼ整うと、教翅は早速移り住んだ。これが荻野山中藩陣屋である。以後、幕末まで続いたが、1867年12月15日、薩摩藩邸に拠点を置く浪士隊の襲撃を受けて焼失した。これは武力倒幕を目指す薩摩藩による挑発で、ここから12月25日の江戸薩摩藩邸の焼討ち、翌月の鳥羽・伏見の戦いへの導火線となった。明治維新後、萩野山中県庁として利用されたが、1871年11月、廃藩置県によって藩知事・県知事を務めた元藩主大久保教義が東京に居を移すと、80余年、3代にわたって続いた陣屋は終焉を迎えた。

 荻野山中藩陣屋は、荻野川に向って南に突き出た半島状台地に築かれている。現在は、陣屋跡地の南端の一部が厚木市の史跡公園となっている他は宅地・駐車場に変貌している。明確な遺構はほとんどないが、地勢はよく残り、御殿の鬼門にあったという陣屋稲荷が往時の位置のまま残っている。また東側の崖下には井戸跡も残っている。台地周辺の土堤も往時のままと言う。厚木の国道脇に幕末の重要な歴史が埋もれているとは思わなかった。
東の井戸跡→DSCN1796.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.480443/139.332991/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1




タグ:陣屋
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長福城 その2(栃木県小山市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN1764.JPG←土塁の発掘調査現場
 長福城が昨年発掘調査され、2023年5月27日に現地説明会があったとの報道を後で知った。そこで6月初旬に現地に行ってみたところ、まだ部分的にブルーシートがかかったままの状態が周りの車道から見ることができた。山林が全面伐採されたので、今まで薮に埋もれていた土塁がよく分かるようになっていた。おそらく曲輪の西側に当たると思われる土塁は、L字型に残っている。東側の土塁も部分的に残存している。その周りは外郭、または腰曲輪があったと推測され、南側には段丘の崖線があり、曲輪の切岸になっていたと思われる。崖線の南には10m程の幅の窪地地形も見られ、天然の外堀となっていたと考えられる。小山市教委文化振興課は、貴重な遺構を何らかの形で保存する方向で協議を進めてくれるようなので、今後に期待したい。
土塁周囲の発掘調査現場→DSCN1741.JPG
DSCN1744.JPG←外郭南の崖線(切岸)
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堺館(岩手県九戸村) [古城めぐり(岩手)]

DSCN1439.JPG←主郭北西の横掘
 堺館は、大向館とも言い、代々九戸氏一族の居館であったと伝えられる。天正年間(1573~92年)の館主は、九戸城主九戸政実の弟実親と言われる。

 堺館は、瀬月内川西岸の比高30m程の丘陵先端部に築かれている。館跡の北から西にかけて車道が通っており(車道の登口に標柱と解説板がある)、その脇から墓地に通じる登道があるので、そこから館内に入った。この墓地は主郭の一部であるらしい。薮が多いので遺構がわかりにくいが、方形の主郭と前面の腰曲輪から成る館らしい。主郭は北東方向を向いており、腰曲輪は北東に築かれている。主郭の北西には横堀が穿たれているが、台地基部に当たる南西には空堀が見られない。しかし館跡の南西はどうも耕作放棄地の様なので、湮滅してしまったのかもしれない。いずれにしても薮が多くて、館全体の形状が今ひとつ分からなかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/40.236909/141.418011/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


オールカラー徹底図解 日本の城

オールカラー徹底図解 日本の城

  • 作者: 香川元太郎
  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2021/09/28
  • メディア: Kindle版


タグ:中世平山城
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本田城〔仮称〕(栃木県塩谷町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN0257.JPG←主郭
 本田城は、栃木県のCS立体図から発見した城である。国土地理院地形図を見ると一番近い地区名が本田だったので、本田城と命名した。荒川に臨む断崖上の峰にあり、単郭の小規模な城である。城へは南の断崖を登るか、西の尾根から登るしかないかと思って、かなりの困難を覚悟していたが、南の断崖に石窟があり、そこに十二社権現が祀られているので、そこまでの登道が整備されていた。更に幸いなことに、十二社権現の石窟から東に登ると小さな展望広場があり、そこから城まではすぐ目と鼻の先で、緩斜面をちょこっと直登するだけで城に至る。

 基本的に単郭の城で、南西に向って突き出た台形をした主郭を持ち、東側に腰曲輪を1段、更に断崖に臨む南以外の三方に腰曲輪を廻らした縄張りとなっている。主郭内は削平が甘く、南に向かって傾斜している。北角部分が一番高くなっており、方形に近い小さな平場があり、物見台のようである。その裏手の腰曲輪の角部だけ、わずかに土塁が築かれて横堀状となっている。主郭の東中央に坂虎口がある。また腰曲輪の南端は2ヶ所、短い竪堀が断崖に向って下っている。この他、三方を囲む下段の腰曲輪は、主郭物見台の裏手に段差があり、ここから東側は一段低くなっている。

 本田城は、主郭の削平が甘いことから、恒久的な城というよりは陣城として築かれた可能性が考えられ、南方の平野を監視する要害であったと思われる。南は宇都宮領なので、宇都宮氏と敵対する勢力が築いたものだろうか?
東腰曲輪の南端の竪堀→DSCN0221.JPG
DSCN0225.JPG←主郭の坂虎口
北側の腰曲輪→DSCN0230.JPG
CS地形図.jpg←略図(クリックで拡大)
(出典:栃木県森林整備課提供CS立体図)

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.741180/139.897585/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の城の一生: つくる・壊す・蘇る (475) (歴史文化ライブラリー)

戦国の城の一生: つくる・壊す・蘇る (475) (歴史文化ライブラリー)

  • 作者: 英文, 竹井
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2018/09/18
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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瀬月内楯(岩手県九戸村) [古城めぐり(岩手)]

DSCN1381.JPG←楯跡の無惨な現況
 瀬月内楯(瀬月内館)は、歴史不詳の城である。瀬月内川と安堵城沢の合流点北側にそびえ、南西に向かって突き出た通称「館鼻」と呼ばれる小丘に築かれている。九戸村観光協会発行の『九戸政實歴史探訪史跡めぐり』のマップを見て訪城したが、なんと楯跡は山林皆伐で遺構の多くが破壊されてしまっていた。わずかに山頂に3段の平場跡があること、その南下方に段曲輪が築かれていることがわかるに過ぎない。北東側の丘陵基部には二重堀切が穿たれていたと言うが、現在は大きく破壊されてしまっており、側方に落ちる竪堀がわずかに残るだけとなっている。

 それにしても、『九戸政實歴史探訪史跡めぐり』に掲載し、現地(瀬月内川対岸の車道脇、城の南西方向)に城址標柱と解説板まで設置しているのに、なぜこんな破壊を許してしまったのか、誠に残念でならない。九戸村には昨年5月に遺構が破壊されたことを知らせる投稿をしたが、今に至るまで回答はないままである。
堀切の痕跡の竪堀跡→DSCN1375.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/40.113781/141.443481/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


戦国の城の一生: つくる・壊す・蘇る (475) (歴史文化ライブラリー)

戦国の城の一生: つくる・壊す・蘇る (475) (歴史文化ライブラリー)

  • 作者: 英文, 竹井
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2018/09/18
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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戸田楯(岩手県九戸村) [古城めぐり(岩手)]

DSCN1326.JPG←背後尾根の畝状竪堀
 戸田楯(戸田館)は、天正年間(1573~92年)に九戸城主九戸政実の家臣戸田帯刀重道の居城であったと伝えられる。元々は蝦夷館(チャシ?)だったものを改修した楯と推測されている。当時から四方に道路が通じる交通の要衝であったらしい。

 戸田楯は、比高30m程の居館部と、その東上にある要害部の2つから構成されている。北西麓に古い朽ちかけた城址標柱があり、また瀬月内川沿いの南西の民家の裏手(川土手沿いの小道の奥、見つけるのが大変だった)に真新しい標柱と解説板が立っている。城へは北斜面にわずかな獣道があり、これを辿って登った。最初に現れるのが、城の前面に当たる北斜面の腰曲輪群である。切岸で明確に区画された急斜面の曲輪群で、中段の中程には竪堀状の虎口も見られる。この腰曲輪群の東側には大竪堀が落ちている。大竪堀の東側の尾根には小郭が2段築かれている。この尾根の最上部は物見台になっており、ここに登る小型の枡形虎口がある。物見台から南にはやや幅のある尾根が伸びており、これが要害部である。要害部の西側下方には広い緩斜面が広がっており、これが居館部(主郭)と思われる。居館部は2段程の縦長の平場で構成されているようだ。要害部の背後の尾根にはわずかに段が見られ、最後部が最も高く、櫓台となっていて、祠が祀られている。この背後には尾根筋を遮断する堀切が穿たれている。堀切は、東側で横方向に折れて、横堀に変化して尾根と平行に伸びている。またこの横堀の付け根から東斜面に竪堀が落ちている。更にこの城では、堀切の背後の尾根の東側に畝状竪堀が穿たれている。岩手県内では初めて見る畝状竪堀で、背後尾根からの敵の接近を強く意識していることがわかる。比較的簡素な縄張りの城であるが、大竪堀・畝状竪堀など出色の遺構である。
北斜面の腰曲輪群→DSCN1269.JPG
DSCN1279.JPG←腰曲輪群東側の大竪堀
居館部の上段平場→DSCN1336.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/40.174127/141.433954/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


「城取り」の軍事学

「城取り」の軍事学

  • 作者: 西股総生
  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2013/08/29
  • メディア: Kindle版


タグ:中世平山城
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山根館(岩手県九戸村) [古城めぐり(岩手)]

DSCN1145.JPG←西側の空堀
 山根館は、九戸政実の乱の際の九戸城籠城衆に見える山根彦左衛門の居館と言われるが定かではない。乱の平定後、南部氏庶流の矢嶋氏が山根総三郎を名乗って山根館主となったと伝えられる。

 山根館は、山根集落センターのすぐ南の丘陵先端部に築かれている。センター駐車場の山裾に城址標柱と解説板が立っている。北麓の車道脇からかすかな小道があり(わずかな薮の切れ目しかないので入口がわかりにくい)、これを登っていくと館跡に至る。館は、西辺と南西辺をやや鈍角に開いたL字型の空堀で区画している。実は前述の登道は、この空堀に繋がっており、堀底道であったようである。主郭は広いが北東側に向かって傾斜しており、空堀の角部付近だけ土塁を築いている。主郭の前面には数段の腰曲輪が築かれている。この腰曲輪群の一つは、西の空堀に土橋が架かっており、虎口を築いている。この虎口は、虎口郭になっているらしく、ここから下段の曲輪に屈曲した導線で進入するような構造にも見える。横には竪堀状虎口もあるが、草木が多いうえ土塁などの痕跡がわずかなため、構造が少々わかりにくい。腰曲輪は主郭の北東側に円弧状に築かれていて、この中程に搦手の枡形虎口がある。山根館は、空堀・切岸が比較的小さく大した城館ではないが、その一方で枡形虎口など複雑な構造も見られる。ただ全体に未整備で薮が多いので、少々遺構が確認しづらい。
腰曲輪群の切岸→DSCN1121.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/40.182619/141.426852/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図解 戦国の城がいちばんよくわかる本

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  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: ベストセラーズ
  • 発売日: 2016/02/20
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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伊保内館(岩手県九戸村) [古城めぐり(岩手)]

DSCN1060.JPG←大館南の横掘
 伊保内館は、九戸氏の支館である。九戸氏配下の在地勢力・伊保内氏の居館であったとも言われるが、詳細は不明。天正年間(1573~92年)の館主は九戸政実の舎弟伊保内美濃正常と伝えられる。

 伊保内館は、瀬月内川西岸の比高30m程の段丘上に築かれている。東西2郭から成り、東が大館、西が小館と呼ばれる。いずれの曲輪も広大で、現在は全面畑となっている。大館の南に横堀が残り、郭内には堀に沿って土塁も残っている。また大館東側には腰曲輪があるが、現在は円満寺境内となっており、改変を受けている。小館との間は、現在は切岸で区画されているが、以前は空堀で分断されていたらしい。空堀は現在ほとんど湮滅しているが、段丘端の北端部だけ堀の痕跡が残っている。基本的にだだっ広い曲輪が広がっているだけの館であるが、周囲を防御する切岸が明瞭に残っており、城館の名残を色濃く残している。
小館との間の空堀の北端部→DSCN1082.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/40.204567/141.420221/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


知れば知るほど面白い 戦国の城 攻めと守り (じっぴコンパクト新書)

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  • 出版社/メーカー: 実業之日本社
  • 発売日: 2014/05/02
  • メディア: 新書


タグ:居館
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尻内城の遺構が確認できたので、記事を改訂しました [日記]

栃木市にある尻内城ですが、
『栃木県の中世城館』には遺構図が載っているにも関わらず、
私が2012年に訪城したときは踏査した場所が間違っており、
遺構が確認できませんでした。

今回、昨年10月に公開されたばかりのCS立体図 栃木版を見て
城の位置が特定できたので、
改めて訪城して遺構を確認しました。
本日、その結果に基づいて尻内城の記事を改訂しましたので、
中世城郭好きの方は是非御覧ください。
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熊野楯(岩手県九戸村) [古城めぐり(岩手)]

DSCN1012.JPG←わずかに残る土塁
 熊野楯(熊野楯)は、九戸一族の城と伝えられている。一説には、九戸氏が最初に構築した楯で、代々九戸氏の居城であったとも言われる。伊保内館と大名館の中間に位置し、これらと連携した城であったと推測されている。

 熊野楯は、標高310m、比高40mの独立丘に築かれている。主郭と思われる平場には熊野神社が建っており、南東から参道が整備されている。遺構はわずか、かつ不明瞭で、主郭は地山の緩斜面で明確な削平はされていないらしし。また熊野神社の北から東にかけてL字型をした土塁が見られるが、平坦地の中にあるわずかな土盛りに過ぎず、防御性を持ったものではなく単なる区画として築かれたものだろう。主郭の西側にはそびえ立つ峰があり、物見台だったと思われる。物見台の周りにも数個の小郭がある。主郭の北東は、ほとんど自然地形の斜面が広がっているだけである。尚、前述の参道の頂部近くには竪堀状の道が見られるが、これも遺構かどうかは不明である。結局、物見台以外はあまりはっきりした城跡の痕跡は見出だせない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/40.213678/141.418912/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世平山城
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大名館(岩手県九戸村) [古城めぐり(岩手)]

DSCN0950.JPG←西側の空堀
 大名館は、九戸氏の歴代の居館であったと伝えられる。九戸氏の祖・行連がこの地に居館を築いて居住したと言われる。行連は、南部氏の祖・光行の6男とされるが、別説では九戸氏は室町時代の信濃守護小笠原氏の流れを汲むともされ、明確ではない。1569年、九戸政実の鹿角奪還戦での軍功により、二戸数郷を加増され、九戸城へ進出して本拠を移した。その後の大名館は九戸市の隠居所であったと言われ、政実の父信仲が居住したと伝えられる。

 大名館は、袖川南岸の東に向かって張り出した丘陵先端部に築かれている。すぐ南には車道が通っており、車道からの高低差はわずかなので、訪城はたやすい。単郭の簡素な城館で、東西に細長い主郭があり、その北と西に浅い空堀を廻らしただけである。しかしその空堀も、西側ははっきり堀形を残しているが、北側はほとんど腰曲輪に近い。中世城館というよりも、ほとんどチャシに近い形状の館である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/40.222477/141.414878/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図説 豊臣秀吉 【オールカラー】

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  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2020/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
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江刺家楯(岩手県九戸村) [古城めぐり(岩手)]

DSCN0773.JPG←北側の二重横掘
 江刺家楯(江刺家館)は、歴史不詳の城館である。室町時代に九戸信伸が居住したが、戦国時代に江刺家氏に交替したとも言われるが確証はない。江刺家氏についても、九戸氏の一族とも小軽米氏の一族とも伝えられる。1591年の九戸政実の乱の際の九戸城籠城衆に江刺家一照斎の名があり、また1600年に南部利直の配下として出羽に従軍した家臣の中に江刺家瀬兵衛の名があり、館主かその一族であった可能性もある。

 江刺家楯は、江刺家集落西方の緩斜面に築かれている。郭内が大きく傾斜した単郭の大型の館城で、外周を中規模の土塁と空堀で囲んでいる。岩手北部では座主楯と似た構造の城であるが、広さは倍以上ある一方で、郭内の斜度は半分以下となっている。主郭内は畑になっているが、段差で概ね3段程に分かれている。最上段には主殿があったと推測され、平坦な平場となっている。中段は東に向かってゆるく傾斜している。東側中央部が下段で、虎口を兼ねた曲輪になっていたと考えられる。主郭の東側は急斜面の段丘崖となっているが、南半分には帯曲輪と横掘が穿たれている。また主郭の外周には北西・西・南に土塁が築かれ、南東端には土塁で囲まれた虎口郭らしい小郭がある。主郭外周には前述の通り空堀が穿たれているが、北側の約半分と西側は二重横堀となっている。北側は、元は全部二重横掘であったと思われるが、耕地化と作業道敷設に伴う改変で、約半分が湮滅しているようである。また南の横堀は、『日本城郭大系』の縄張図では二重堀になっているので、これも改変で外堀が湮滅したらしい。北側横掘の土塁には、所々に竪堀状虎口が築かれている他、主郭北西部に当たる部分には独立堡塁が構築されている。独立堡塁の部分は、主郭の塁線も内側に屈曲して横矢掛りを意識している。横掘の外側は外郭があったと考えられており、西側に堀の一部が残っている。以上が江刺家楯の遺構で、しっかりした堀・土塁が外周に残り、見応えがある。
主郭→DSCN0869.JPG
DSCN0880.JPG←西の二重横掘

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/40.255302/141.408795/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

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東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/10/25
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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田手館(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN0748.JPG←館跡の現況
 田手館は、1591年に葛西大崎一揆平定後に葛西氏の旧領を与えられた伊達政宗が、粟野大膳大輔を大原城の地に配し、この粟野氏が築造した居館である。伊達家の藩制で言う「大原所」(「所」は「要害」の下のランク)であるが、ここには元々大原城主大原千葉氏の居館があった可能性がある。後に伊達家2代藩主忠宗の8男伊達宗房が大原に知行替えとなり、この館に入った。後の伊達家5代藩主伊達吉村は宗房の子で、1680年にこの館で生まれ、幼少時を過ごした。後に伊達本家を継いだ吉村は、破綻状態にあった仙台伊達藩の財政を立て直し、仙台藩中興の英主と讃えられた。

 田手館は、大東勤労者体育センター(旧大原商業高校校地)が館跡とされる。改変により明確な遺構は残っていない。かつては館跡の標柱があったらしいが、現在は失われている。敷地脇に、伊達吉村公誕生地と刻まれた石碑と、菅江真澄遊覧の地と書かれた標柱が建つだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.018342/141.396940/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


伊達家: 仙台藩 (家からみる江戸大名)

伊達家: 仙台藩 (家からみる江戸大名)

  • 作者: J・F・モリス
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2023/10/30
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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大原城(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN0692.JPG←南支尾根から見た主郭と腰曲輪群
 大原城は、山吹城とも呼ばれ、葛西七騎の一つで東山旗頭と称された大原千葉氏(大原氏)の歴代の居城である。1230年に奥州探題として関東から派遣された千葉飛騨守頼胤の子、宗胤が大原に入部して大原城を築き、築城したと伝えられている。しかし鎌倉時代に奥州探題という職制はない上、大原氏の出自には別説もあり、はっきりしたことはわからない。また大原氏の系譜は複数伝わっているが、諸系図によって食い違いも多く不明点が多い。南北朝初期、主家葛西氏は一族内で南朝方・北朝方に分かれているが、大原胤高は北朝方に付いていたと推測されている。しかし一族の大原備中守宗信は、南朝方の陸奥守兼鎮守府大将軍北畠顕家に従って討死した。宗信の討死は「1335年10月5日に和泉国」のこととも言われるが、この時期にはまだ顕家は奥州にあり、また和泉国での顕家軍の合戦は、顕家2度目の西上戦の時で1338年3~5月のことであり、この伝承にも疑問符がつく。1474年、大原肥前守広忠は、気仙沼城(赤岩城?)主熊谷丹波守直氏が父直行と不和となり、戦って敗れ、大原氏を頼ってきた東山に逃れてきた。広忠は直氏を保護し、大原郷内野里50余町を与えた。翌75年、広忠の子飛騨守信広は、気仙郡横田村で気仙の矢作千葉氏(矢作氏)と戦い、その合戦で次男信綱を失った。1498年、大崎氏家中の内紛を契機として「明応の乱」が発生し、信広は薄衣城主薄衣美濃入道清胤と同盟して主家葛西氏に反抗した。この時薄衣清胤が伊達成宗に出した『薄衣状』によれば、信広は数流沢城(摺沢城)に籠って警固したと言う。一方、信広の嫡子伯耆守信明は父と袂を分かち、葛西方に付いた。この戦乱は、伊達氏の仲介によって収束したらしい。1504年、信明は気仙郡矢作郷において浜田安芸守基綱と合戦し、勝利した。1542年、伊達氏の大規模な内訌「天文の乱」が起きると、奥州の諸大名は稙宗派・晴宗派に分かれて抗争し、葛西氏も2派に分かれて抗争した。大原飛騨守信胤は、葛西氏の当主高信と共に晴宗派に属した。信胤は晴宗から書状を受けており、葛西領内屈指の大身で権勢を有していたことがうかがえる。戦国後期になると、葛西晴胤の子飛騨守信茂(葛西晴信の弟)が大原播磨守信光の嗣子となり領内を固めた。1559年、東山の及川一族が主家葛西氏に反抗して武力蜂起した及川騒動(柏木合戦)の際には、信茂が出陣して鳥海城を落城させ、乱を鎮圧した。1587年には、信茂は藤沢城主岩渕近江守と合戦した。1590年、豊臣秀吉の奥州仕置によって葛西氏が改易となると大原氏も没落した。1591年の葛西大崎一揆では、大原飛騨守胤重(または千代竹丸?重光?)が桃生郡中津山香取(神取山城)に出陣した1700騎の軍勢の大将となった。しかし伊達勢に敗れ、桃生郡深谷で謀殺されたと伝えられる。大原城も落城したが、間もなくこの地方の要地として石田三成によって修復され、伊達政宗に与えられた。政宗は粟野大膳大輔をこの地に配した。

 大原城は、大原市街地北西の比高60m程の丘陵上に築かれている。城内は大半が公園化され、主要部が薮払いされており、遺構がよく確認できる(というか、訪城当日はちょうど草刈り中だった)。登り口は2つあり、南麓の大手門口と北東尾根の搦手口とがある。駐車場があるのは搦手口なので、車で行く人はこちらから行く方が良い。さすがは葛西氏家中でも大身であった豪族の本拠で、城は広大、各曲輪の規模も大きい。丘陵中央に主郭があり、東西に長く、東側に祠と大銀杏がある張出しがある。郭内の西辺と南辺に低土塁が築かれている。主郭の南北に腰曲輪があり、それとそのまま繋がる形で西に二ノ郭、東に三ノ郭がある。二ノ郭から主郭に登る手前に大土壇があり、物見台であったと思われる。二ノ郭は南東の支尾根に大きく張り出し、外周に腰曲輪を伴っている。二ノ郭の北東には腰曲輪を兼ねた箱堀状の堀切があり、その北東に小さな東郭が高台となって築かれ、その北側は堀切で台地基部を分断している。一方、三ノ郭は主郭の前面に堀切を穿った高台の曲輪を設け、主郭前面の防御陣地としている。その周囲に三ノ郭が広く展開している。三ノ郭の西には堀切が穿たれ、その先に西郭がある。西郭は傾斜した曲輪で削平が甘い。西の尾根続きに片堀切を穿っている。その先は自然地形である。この他、南や南東の支尾根に曲輪群があるが、これらは大薮の中に埋もれており、折からの降雨もあって踏査はできなかった。
 尚、城内では前述の通り業者さんが草刈機で草刈り中だったが、二ノ郭の腰曲輪にはカモシカが歩いていた。この日は、雉の母子や狸など、野生動物に出くわすことが多かった。さすがに岩手県は自然が豊かで素晴らしい。
二ノ郭北東の箱堀状堀切→DSCN0611.JPG
DSCN0708.JPG←三ノ郭西の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.019442/141.394708/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


続・東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

続・東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2021/10/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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あけましておめでとうございます [雑感]

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
おかげさまで平穏な一年の始まりを迎えることができました。
皆様にとって幸多き一年となりますようお祈りいたします。

また一日も早い戦争終結を祈念いたします。

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