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木之下城(愛知県犬山市) [古城めぐり(愛知)]

IMG_0851.JPG←神社裏の堀跡らしい地形
 木之下城は、尾張守護斯波氏の家臣織田広近が築いた城である。広近は、守護代織田氏の一族岩倉織田氏(伊勢守家)の当主であった織田敏広の弟で、美濃守護代の斉藤妙椿の侵攻に備える為、1469年に兄敏広の命で木之下城を築いて居城としたと言う。以後約70年間に渡って織田氏の歴代の居城となったが、1537年、織田信康(織田信長の叔父)は新たに犬山城を築いて居城を移し、木ノ下城は廃城となった。

 木之下城は、犬山城の南方約1kmの位置にあった平城で、現在の愛宕神社の位置に本丸があったとされる。神社本殿が建つ高台はかつての主殿跡とされ、すぐ脇に金明水という城内の井戸であったと推測される井戸が残っている。神社背後は低い窪地状の地形となっており、堀跡であった様である。周辺は市街化が進んでいるため、城の縄張りはわからなくなっているが、城址碑と解説板が城の歴史を伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.378982/136.942778/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
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犬山城(愛知県犬山市) [古城めぐり(愛知)]

IMG_5270.JPG←山上に聳える国宝天守
(2004年4月訪城)
 犬山城は、国宝4天守の一つとして有名である。1537年に、尾張守護代織田氏の庶流織田信康(織田信長の叔父)によって、木之下城より城を移築したと言われている。犬山城の築かれた山は背後に木曽川を控え、木曽川の渡河点に当たるほか、濃尾平野を一望の下に収める絶好の陣場でもあり、中山道・美濃街道を制する要地でもあったため、戦国時代を通して争奪の的となり、幾多の城主の変遷を迎えた。1547年、信康の子信清は、織田信長に反抗したため城を追われ、信長の家臣池田恒興が城主となった。その後、信長が本能寺の変で倒れると、1584年に豊臣秀吉と徳川家康との間に小牧・長久手の戦いが生起した。この時の犬山城主は織田信雄の家臣中川定成だったが、旧城主で秀吉方の池田恒興が城を急襲して攻め落とし、秀吉が入城して本陣となし、小牧山に拠る家康と対峙した。その後も城主は代わったが、1609年に徳川義直が清洲城主となると、その補佐役の平岩親吉が犬山城主となった。1617年には尾張徳川家の付家老成瀬正成が城主となり、成瀬氏の居城として幕末まで存続した。

 犬山城は大きな城ではないが、コンパクトにまとまった縄張に、非常に均整の取れた天守を戴いている。本丸の背後は木曽川に望む断崖になっており、いわゆる「後堅固の城」の典型例である。本丸に至る大手道の石段は広く直線的で、防御性には問題があるので、太平の世の近世城郭となってからの改修によるのではないかと想像される。大手道の両側には杉の丸、樅の丸などの曲輪が連なり、石垣で囲まれている。外郭は破壊が進んでいるが、山麓には空堀が中世城郭さながらの雰囲気で残っている。犬山の城下町も、古い町並みが残っていて風情がある。非常に印象深い城の一つである。
樅の丸の石垣→IMG_5244.JPG
IMG_5267.JPG←山麓に残る空堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.388062/136.939623/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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小牧山城(愛知県小牧市) [古城めぐり(愛知)]

IMG_5228.JPG←小牧長久手合戦時の虎口跡
(2004年4月訪城、2017年10月再訪により記事修正)
 小牧山城は、織田信長が美濃侵攻の拠点として築いた平山城である。1563年に濃尾平野を一望できる要衝小牧山に城を築いた信長は、清洲城から居城を移して城下町を建設した。1567年、木下藤吉郎秀吉(後の豊臣秀吉)の活躍などで美濃の戦国大名斉藤龍興の居城稲葉山城を落として美濃を攻略すると、信長は稲葉山城に居城を移して岐阜城と改称し、小牧山城は廃城となった。後、豊臣秀吉の時代の1584年に、小牧長久手の戦いで秀吉と対峙した徳川家康は、濃尾平野の真ん中に聳える独立丘陵の小牧山にいち早く本陣を構えた。この時家康は、信長の城跡を陣城とて大規模な改修を加えた。この要衝を押さえた家康は、秀吉勢の動きを手に取るように把握することができ、秀吉につけいる隙を与えなかった。家康を力で屈服させることに失敗した秀吉は、結局懐柔策で家康を取り込まざるを得ず、このことが家康に、豊臣政権内で他の諸大名と隔絶した大きな勢力を与えることとなった。

 小牧山城には、2004年に行っているが、その後継続的に発掘調査が続けられ、多数の石垣跡などが見つかっていることから13年ぶりに再訪した。以前は山頂付近まで樹木で覆われていたが、かなり伐採されて整備され、主郭周囲の石垣も発掘復元が現在進行形で進められている。現在の現地解説板では、城内は大きく5つのブロックに分けられ、主郭地区・西側曲輪地区・大手曲輪地区・西側谷地区・帯曲輪地区と呼称されている。中心になるのは勿論山頂部の主郭地区で、模擬天守の建つ主郭の周りを幾重にも腰曲輪が取り巻いている。主郭は、発掘調査の結果、内枡形の大手虎口も含めて総石垣であったことが判明しているが、現在は部分的にしか残っていない。主郭地区と西側曲輪地区の間は、堀切で分断されて、土橋と櫓台を設けた虎口が築かれている。私の過去の記事では「大規模な堀切や竪堀がほとんど見られず、中世城郭の遺構としてはそれほど技巧的な縄張ではない」としていたが、これは初級キャッスラーの全くの見誤りであった。この堀切は大きさは大したものではないが、屈曲しながら南に長い竪堀となって落ち、下方で90度曲がって横堀に変化し、土塁囲郭を取り囲んでいる。西側曲輪地区は2方向の尾根に伸びた段曲輪群で構成され、土塁や横堀で防御された曲輪も見られる。大手曲輪地区は、南から途中まで一直線に伸びる大手道の両側に広がる腰曲輪群で、下方には横堀を備えている。西側谷地区は、自然地形の谷戸を利用しており、最下段に土塁で囲まれた方形の「屋敷跡伝承地」がある。帯曲輪地区は、主に東麓一帯に置かれた曲輪群で、武家屋敷が置かれ、南東の土塁で囲まれた最も大きな曲輪は信長の居館跡と推測されている。帯曲輪地区は早くから発掘調査と整備復元が進められ、堀で区画された曲輪跡が復元されている。外周には土塁があるが、これは信長時代にはなく、小牧長久手の戦いの際に築かれたそうだ。またこの時築かれた虎口跡も復元されている。この他に主郭地区の腰曲輪北端に枡形虎口もあったようだが、見逃してしまった。とにかく以前来た時とは全くイメージが異なり、基本的には中世山城の造りだが近世城郭の萌芽が見えており、中世から近世への過渡期の城として見所が多い。
発掘復元中の主郭地区→IMG_0567.JPG
IMG_0598.JPG←主郭周囲に残る石垣
長く落ちる竪堀→IMG_0544.JPG
IMG_5226.JPG←帯曲輪部に復元された土塁と堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.292456/136.913466/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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清洲城(愛知県清須市) [古城めぐり(愛知)]

IMG_5109.JPG←清洲古城の碑
(2004年4月訪城)
 清洲城は、五条川西岸に築かれた平城である。若き織田信長の居城として有名であるが、元々は1405年に尾張守護斯波義重が下津城の別郭として築いたと言われている。後、応仁・文明の大乱が起き、各地の守護勢力が没落して尾張でも騒乱が国内を覆うと、守護の斯波義廉は下津城に代わって清洲城に守護所を移した。しかし義廉は、もう一つの領国越前にあって尾張の守護権力は空白であった為、将軍足利義政は織田敏定を尾張守護代に任じて清洲城主とし、尾張鎮定の任に当たらせた。一方、織田氏の庶流織田信秀(信長の父)は、1532年に駿河の戦国大名今川氏の尾張経営の前進基地であった那古野城を奪って、那古野城を居城とした。1555年、那古野城主織田信長は、伯父の守山城主織田信光と共に、守護斯波義統殺害の仇を報いて清洲城主織田信友を清洲城に討ち、清洲城に入城した。1560年桶狭間の合戦の際には信長はこの清洲城から出陣し、少数精鋭の軽兵で以って驟雨の中を今川義元の本陣めがけて奇襲を掛け、義元の首を討ち果たす大戦果を挙げた。信長の居城となって以降、城は次第に整備拡張され、当初は一重掘であったものが、信長の次男信雄が城主となった1582年には三重掘の構えとなった。信長は尾張国内の同族を討ち平らげて一国を平定すると、美濃侵攻を企図して1563年に小牧山城を築いて居城を移した。以後も尾張経営の拠点として存続したが、1600年の関ヶ原の合戦で覇権を握った徳川家康は、大阪城の豊臣秀頼を包囲牽制する為、1609年諸大名に命じて新たに名古屋城を築城し、「清洲越し」と言われる清洲の城下町丸ごとの移転を行った。以後、清洲城は廃城となった。

 清洲城は、現在では遺構はほとんど湮滅しているが、清洲公園として残っており、清洲古城の碑や信長の銅像が建っている。碑が建っている部分の土盛りが、天守台の跡だったらしい。公園中央を東海道新幹線・東海道本線がぶち抜いているなど破壊はかなり進んでいて、かつての縄張を想像することすら難しい。ただ、五条川西岸の遊歩道に、発掘された本丸南側の石垣が復元展示されているのが唯一の遺構であろう。尚、五条川東岸に建つ模擬天守は全くの創作で、史実とは全く関係ないものであることを付記しておく。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.217654/136.841798/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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那古野城(愛知県名古屋市) [古城めぐり(愛知)]

IMG_4171.JPG←名古屋城二ノ丸の石碑
(2004年2月訪城)
 那古野城は、近世城郭名古屋城の前身で、今川氏が築いた中世の平城である。駿河の守護大名今川氏親は遠江、三河を押さえて強大となり、1521年頃には尾張国の東半分を制圧し、前進拠点として那古野城を築城した。氏親は一族の今川氏豊を那古野城に入れて守らせたが、氏豊は連歌に耽るなど文弱であったため、1532年に織田信秀(信長の父)によって城を奪われ、信秀は那古野城を居城とした。信長が生まれたのは、この那古野城であったと言われている。信秀はその後、那古野城の南方に古渡城を築くなど、名古屋での勢力を強めていった。信秀の跡を継いだ信長は、1555年に清洲城に拠点を移し、叔父織田信光らに那古野城を守らせたが、1582年頃に廃城となった。後に徳川家康が名古屋城を築くに当たり、この那古野城址を取り入れて二ノ丸の一部とした。
 那古野城は前述の通り、名古屋城の一部となってしまい多くの改変を受けてしまったので、往時を偲ばせるものは残っていない。わずかに名古屋城二ノ丸庭園に石碑と解説板が立つのみである。かつては那古野台地の西北端に位置し、尾張平野を一望の下に収める要害の地であったという。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.184437/136.902341/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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名古屋城(愛知県名古屋市) [古城めぐり(愛知)]

IMG_5164.JPG←二ノ丸外周の広大な空堀
(2004年2月・4月訪城)
 名古屋城は、徳川御三家筆頭、尾張徳川家の歴代の居城である。この地には元々那古野城と言う城があったが、徳川家康が関ヶ原合戦を制して天下の権を握り、豊臣氏打倒を計画し始めると、濃尾平野の要地に大規模な城を造営することを考えた。そこで1610年、清洲城に代わる新城造営地として那古野城の故地に、秀吉恩顧の外様大名20家に命じて名古屋城を築城させた。いわゆる天下普請である。これは、豊臣氏に対する備えだけでなく、秀吉恩顧の外様大名の勢力漸減を狙ったことであるのは言うまでも無い。城がほぼ完成すると、1615年に家康の9男義直が入城し、以後、尾張徳川家の居城となって幕末まで存続した。明治維新を迎えた後も、天守や本丸御殿などはそのまま残って保存され、国宝となっていたが、太平洋戦争での空襲により全て消失した。

 名古屋城は、さすがに徳川天下普請で造られただけあって、江戸城に次ぐ規模を持った大城郭である。その遺構の詳細については既に多くのサイトで語られている為、ここでは多くは記載しない。豊臣氏との緊張状態の中で築かれた為、その縄張は極めて実戦的で、馬出しや巧みな曲輪配置でほぼ正方形の本丸を防御している。内堀・外堀の全周には重厚な石垣を築き、周囲の堀は圧巻の規模を持つ。この城で特筆すべきなのは、内堀だけでなく、三ノ丸外周の外堀まで見事に残っていることである。車道建設や市街化で一部改変を受けていると言うものの、門脇の石垣などその重厚さは素晴らしい。天守は残念ながら戦後の再建であるが、築城の名手加藤清正が受け持って築いた天守台石垣は、往時のままの見事な反りを持ち、その曲線美には惚れ惚れとしてしまう。その他、多くの隅櫓や門が現存し、江戸城に匹敵する見事さである。本丸御殿はその礎石だけが残っているが、現在復元計画が進んでおり、いずれ熊本城の様に見事な御殿が再建されることになる。
本丸御殿跡と再建天守→IMG_4136.JPG
IMG_4151.JPG←この見事な反り!さすが清正流
三ノ丸外周の外堀→IMG_5122.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.185182/136.899798/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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守山城(愛知県名古屋市) [古城めぐり(愛知)]

DSC02535.JPG←櫓台跡、頂上に石碑が建つ
 守山城は、那古野城(現、名古屋城二ノ丸)の東方、矢田川沿いの台地上に築かれた平山城である。1521年に今川氏親が那古野城を築いた頃に、小幡城・川村城に対応して築かれたという説があるが定かではなく、築城時期・築城者とも不詳である。三河の松平信定が領有していた頃の1526年、連歌師宗長がこの城を訪れ、連歌の会が盛大に催されたと伝えられている。1535年、松平清康(徳川家康の祖父)は三河の大半を手中に収め、勢いに乗じて尾張攻略を目論んだ。大軍を率いてこの城を織田方から奪って占拠したが、ある夜、馬が暴れだした騒ぎの中、誤って家臣の阿部弥七郎に殺され、主将を失った松平勢は総崩れとなって岡崎へ撤収した。これを「守山崩れ」と言う。以後、松平氏は弱体化し、長い雌伏時代を迎えることとなった。守山崩れの後、守山城は織田信秀に属した。その後、織田信長の叔父信次・弟信時が城主となったが、1560年の桶狭間の戦いの後、廃城となったと言う。

 守山城も末森城と同様、市街地の真っ只中の城であるが、民家の裏に空堀が良好に残っている。この空堀は幅10m以上もある大規模なもので、約40~50mにもわたって一直線に伸びている。また、周囲の住宅地の中に土塁や櫓台の跡が散在している。本丸跡には宝勝寺が建っていて改変されているなど、全体的な遺構は市街化で破壊が進んでいるものの、城跡の痕跡は各所に明瞭に残っている。また周囲の道路も地形的に堀跡であることが明らかで、おぼろげに往時の城の縄張りが見えてきそうな雰囲気がある。これほどの遺構がいまだに残る名古屋は素晴らしい。是非、これ以上破壊が進まないよう保護していってもらいたいものだ。
大規模な空堀跡→DSC02549.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.197089/136.949494/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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末森城(愛知県名古屋市) [古城めぐり(愛知)]

DSC02435.JPG←本丸周囲の大規模な空堀
 末森城は、1547年に織田信秀が築いた平山城である。この城を築くと、古渡城から居城を移した。守山城を守る弟信光と連携して三河の今川氏に対する備えの為であったと言う。翌年信秀はこの城で病死し、三男信行が城主となった。信行は兄信長に代わって家督を継ごうと画策したため信長と対立し、稲生原の合戦を起こして敗れ、1558年に清洲城で誘殺された。翌年末森城は廃城となったと言う。

 末森城は、那古野城(現、名古屋城二ノ丸)の東南東約6kmの城山に築かれている。現在、城山には城山八幡宮などが置かれて改変を受けているものの、本郭等の周囲の大規模な空堀がものの見事に残っている。空堀の大きさは深さ10m程もあり、山上の遺構とはいえ日本第3位の都会のど真ん中でこれほどの規模の空堀がほとんど完存しているとは、驚愕すべきことである。城は、本丸・ニノ丸・三ノ丸・西出丸に曲輪が分かれるようだ。本丸は八幡宮前の広場になっていて、八幡宮の置かれる三ノ丸とは空堀に掛かる土橋で連結されている。二ノ丸には愛知学院大学の研究棟が建てられている。本丸と二ノ丸の間の道路は、明らかに空堀の跡であろう。二ノ丸の一段下に駐車場があるが、これはどうも腰曲輪の跡のようである。二ノ丸の北側に武道場が建っているが、二ノ丸とは高低差もあり独立性が高いので西出丸だったと思われる。各曲輪の周囲にはいずれも大きな空堀を築いて分断し、防御性を高めている。その他、腰曲輪らしい地形がいくつか散見される。

 以上が概要であるが、行ったのが9月で藪が多く、見通しが利かない部分が多かったが、冬場に行けば空堀の威容をもっとよく見ることができただろう。まるで滝の城が東京23区内にあるようなもので、その遺構の見事さには目を見張らざるを得ない。名古屋恐るべし。
空堀外周の土塁→DSC02448.JPG
DSC02482.JPG←二ノ丸下の腰曲輪跡の駐車場

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.167643/136.959579/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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沓掛城(愛知県豊明市) [古城めぐり(愛知)]

DSC02407.JPG←諏訪曲輪に掛かる木橋と堀
 沓掛城は、桶狭間の合戦前夜に今川義元が軍議を開いたことで知られている。日本城郭体系では1394年に藤原義行によって築かれたとされるが、現地解説板では1325年に近藤宗光が初代として築いたと記している。どちらが正かはよくわからない。9代目景春の時、織田信長に謀反した鳴海城主山口左馬助に落とされ、以後今川方に属した。1560年の桶狭間の戦いで信長はこの城を攻め落とし、城主景春は戦死した。戦後恩賞として簗田出羽守に与えられ城は整備された。出羽守が加賀国に移った後、織田信照が継ぎ、1577年には川口久助が城主となった。1600年の関ヶ原の戦いで石田三成に味方することになった久助は捕えられ、伊達政宗に身柄を預けられた。その後廃城となったと言う。

 沓掛城は現在、本丸と二ノ丸・諏訪曲輪が公園となって保存されている。本丸周囲の堀や土塁が良好に残るが、本丸自体の規模は小さく、周囲の曲輪を合わせても栃木の上三川城の本丸程度の大きさしかない。その規模から考えて、おそらく元は小土豪の居館レベルだったのだろう。本丸の西側の土塁は幅が広く、櫓台を兼ねていた様である。また本丸東側には堀に面して武者走りがあったようである。本丸と二ノ丸は土橋で連結され、二ノ丸周囲は掘で防御されている。現在駐車場になっている本丸北側は周囲の帯曲輪の一部だったようで、堀を挟んで本丸とは木橋で繋がっていたようだ。本丸西側の諏訪曲輪は本丸より高所に位置し、これも本丸土塁と木橋で繋がっていたようである。諏訪曲輪は非常に小さい曲輪なので、物見台の機能を持っていたのかもしれない。本丸南西側の曲輪は現在慈光寺という寺になっている。

 桶狭間前夜に今川義元が宿泊した城と言うことで、歴史上非常に重要な城であるが、城が小さくてちょっとがっかりである。駅からかなり離れていてバスもほとんど通らない場所なので、往復2800円もかけてタクシーで行ったのに・・・。
本丸周囲の堀→DSC02409.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.068968/137.021806/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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中島砦(愛知県名古屋市) [古城めぐり(愛知)]

DSC02265.JPG←現状の中島砦周辺
 中島砦は、1559年に織田信長が今川義元の尾張侵攻に備えて築いた砦群の一つで、善照寺砦と共に今川方の橋頭堡鳴海城を包囲する3砦の一つである。桶狭間合戦の折には、1560年5月19日午前、信長はまず善照寺砦に手兵3000を終結させて敵情報告を受け、先方隊に攻撃を命じた後、自らはこの中島砦に移って奇襲戦の行動を起こしたと伝わっている。
 中島砦は手越川と扇川の合流点近くに築かれており、三方を川で囲まれた要害の地であったのだろう。現在は完全に市街化しており遺構は全て湮滅しているが、民家の庭先に「中島城址」と書かれた立派な石碑があり、土地の持ち主のご好意で自由に見学できるようになっている。こうした歴史的に重要な場所が、誰にでも開放されていることは素晴らしく、持ち主の方の寛大な志には感謝の念を禁じえない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.076905/136.953893/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

善照寺砦(愛知県名古屋市) [古城めぐり(愛知)]

DSC02259.JPG←主郭下の腰曲輪跡?
 善照寺砦は、1559年に織田信長が今川義元の尾張侵攻に備えて築いた砦群の一つである。今川方の橋頭堡鳴海城までわずか600mの至近の地にあり、鳴海城の動きを封じつつ、侵攻してくる今川勢を食い止めるために築いたものである。1560年の桶狭間の戦いの時には佐久間右京亮が守将であり、5月19日午前、信長はこの砦に手兵3000を終結させて、奇襲戦の行動を起こした。
 砦跡は現在、砦公園という公園になって改変されており、周囲は全て住宅地となっているので、遺構はほとんど残っていない。しかし、主郭跡の南側下に腰曲輪らしき段が残っている。鳴海城から見れば、この砦は丘続きの東端にあり、今はのどかな住宅地が、かつては桶狭間前夜の厳しい緊張状態にあったのだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.081629/136.957262/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

鳴海城(愛知県名古屋市) [古城めぐり(愛知)]

DSC02222.JPG←本丸南端の土塁らしき跡
 鳴海城は根古屋城とも言い、1394年に安原宗範が築いた崖端城である。鳴海城が築かれた地域は、尾張・三河両国の接壌地帯で地形の起伏も多く、多くの城塞が築かれた。戦国時代には織田信長の父信秀が修築して山口教継を守将としたが、信秀が死にウツケという評判の高かった信長が後を継ぐと、教継は今川義元の誘いを受けて離反した。後、義元に殺されたが、これは信長の謀略によるとされる。その後、義元は勇将岡部元信をこの城に入れて織田氏に備えた。今川方にとっては尾張侵攻の重要な橋頭堡であり、桶狭間合戦の際は大高城と共に今川方の最前線となった。信長はこの城の周囲に丹下・善照寺中島の3砦を築いて対抗した。義元が討たれた後も元信は最後まで立て籠もって奮戦し、義元の首を引き取ってからようやく開城したと言う。合戦後は佐久間信盛、正勝らが城主となったが、1590年に廃城となった。

 鳴海城は扇川に臨む急崖の上に築かれていて、その地勢は今でもはっきりと見ることができる。しかし城跡は現在ほぼ完全に市街化で埋没し、わずかに本丸跡が城址公園となっているが、ほとんど遺構らしいものは残っていない。わずかに周囲の道の脇にかつての土塁の名残らしいものが認められるだけである。また公園の西側には藪があるので遺構が残っている可能性が高いが、フェンスで囲まれていて中に入って確認することができない。国土変遷アーカイブの昭和20年代の写真を見ると、本丸と二ノ丸の間に明確な空堀が残っていたことがわかるが、これが公園の東側の道路に相当するようだ。二ノ丸は住宅地や県道になって破壊されているが、その東端に当たると思われる場所に天神社が建っていて、そこに城址碑と小さな解説板が立っている。天神社の東側は道路の形状からして堀跡であったことは間違いない。もう少し堀などの遺構が明確に残っていればと惜しまれるが、駅にも近い都市部なので仕方のないところなのだろう。

 なお、私は岡部元信の事跡についてこの城で初めて詳しく知ったが、その出処進退の見事さには感心した。
本丸北側の切岸と堀跡→DSC02229.JPG
DSC02233.JPG←公園東側の堀跡の道路

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.081506/136.949944/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

鷲津砦(愛知県名古屋市) [古城めぐり(愛知)]

DSC02201.JPG←腰曲輪と土塁
 鷲津砦は、織田信長が築いた砦群の一つである。信長は、今川義元によって奪われた大高城を包囲し、今川勢の尾張侵攻を阻止する目的で、1559年に丸根砦などと共にこの砦を築いた。翌1560年の桶狭間の合戦の際には、織田方の部将飯尾定宗らが守るが、今川方の朝比奈泰能に攻められて、砦に籠る織田勢は全滅した。しかしこうした戦果に気が緩んだのか義元の軍勢は統率が乱れ、丘陵地の狭間を縦列行軍する愚を犯し、側面を織田勢の奇襲によって突かれて軍勢が分断、東海道随一の有力大名が討ち死にする悲劇となった。

 地勢については丸根砦の項で書いたので、そちらを参照されたい。

 鷲津砦は丸根砦より規模が大きく、約800mの至近の位置で対峙する大高城に対抗するために築かれたことがよくわかる。住宅地脇の鷲津砦公園から林の中に入っていくと、腰曲輪や横堀・土塁らしい地形が良好に残っている。しかし砦の境界は明確でなく、往時にどれほどの規模であったのかはよくわからないが、明らかに丸根砦よりは大きいので、100近い兵は籠められたかもしれない。側面を防御する丸根砦と連携して大高城と対峙していたと考えられる。

 それにしても鷲津砦のすぐ真横を東海道新幹線の高架が通っているのである。新幹線のすぐ横にこんな遺構が残っているとはビックリである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.069143/136.942370/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

丸根砦(愛知県名古屋市) [古城めぐり(愛知)]

DSC02173.JPG←外堀跡の切通し道
 丸根砦は、織田信長が築いた砦群の一つである。信長は、今川義元によって奪われた大高城を包囲し、今川勢の尾張侵攻を阻止する目的で、1559年に鷲津砦などと共にこの砦を築いた。翌1560年の桶狭間の合戦の際には、織田方の部将佐久間盛重がこの砦に立て籠もって大高城を包囲したが、大高城への兵糧運び入れを成功させた松平元康(後の徳川家康)が鉄砲を用いて攻撃に転じ、砦に籠る織田勢は全滅し砦も陥落した。しかしこうした戦果に気が緩んだのか義元の軍勢は統率が乱れ、丘陵地の狭間を縦列行軍する愚を犯し、側面を織田勢の奇襲によって突かれて軍勢が分断、東海道随一の有力大名が討ち死にする悲劇となった。

 名古屋から電車で向かうとよくわかるが、丸根砦が築かれた一帯は、三河から東海道を尾張方面に向かうと現れる、起伏に富んだ唯一の丘陵地で、ここを越えれば後は名古屋中心部まで一望千里の平坦地となる。従って信長からすれば今川勢を迎え撃つのはこの地域しかありえず、ここを突破されれば後は清洲城まで何らの防波堤も持たない、絶対死守の最終防衛線であった。その地の一角を占める大高城を今川方に奪われたのは信長にとっては致命的であり、従って、大高城の動きを封じつつ丘陵地を越えて進撃してくる今川勢を何としても食い止めるためにこの地に砦を築く必要性があったことは、その地勢を見れば容易に想像がつく。

 そうした使命を負った丸根砦は、丘陵地の先端、大高城から直線でわずか800mの至近の地に築かれた。しかしあまりに規模が小さく、今川の大軍を迎え撃つ防波堤の役目を負うことはできなかったであろう。兵を目一杯籠めたとしてもせいぜい数十人という規模である。ほとんど円墳のような丸い小山で、主郭の周囲にはいくつかの腰曲輪が見られる。外周は幅3.6mの外堀で囲まれていたというが、現在は道路と化し、わずかに切通しのような部分だけが堀の形を留めている。鷲津砦は丸根砦より規模が大きいので、おそらくは鷲津砦と連携しつつこれを側面から防御する役目を負っていたものと考えられる。

 周辺は完全に市街化しているが、砦のあった小山だけ時間が取り残されているかのようだ。こんな小さな砦でも、命を投げ出して戦い散っていった武者達がいたのである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.064322/136.945331/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

大高城(愛知県名古屋市) [古城めぐり(愛知)]

DSC02110.JPG←本丸~二ノ丸間の空堀
 先年9月、たまたま名古屋方面に出張する機会があり、そのついでに休みを取って名古屋周辺の史跡巡りをした。まず訪れたのが、桶狭間の攻防で名高い大高城である。

 大高城は知多半島の脊梁山地の末端近く、西側が開けた丘陵上に築かれた平山城である。室町時代の永正年間(1504~21年)に花井備中守によって築かれたと言われている。戦国期の天文・弘治年間(1532~58年)の頃には水野忠氏父子が居城していたが、今川氏から織田氏に付いた為、今川方の鳴海城主山口左馬之助に攻められ、今川義元の家臣鵜殿長照が入った。1560年に今川義元が大軍を率いて尾張に侵攻して生起した桶狭間の戦いでは、織田方に包囲された大高城救援の為、松平元康(後の徳川家康)が包囲を破って兵糧の運び入れに成功し、そのまま城を守った。元康は義元が討たれて今川勢が敗走するまで当城に留まり、その後岡崎城に引き揚げた。その後、大高城は重要性を失って廃城となったが、1616年に尾張藩家老志水忠宗が館を構えて幕末まで存続した。

 名古屋から電車で行くと、大高駅に近くなるに従いこれまで平野しか見えなかった車窓に突然丘陵地形が現れる。大高城はその一角にある。かつては四方に二重の堀を巡らした厳重な構えであったというが、現在は周囲は完全に市街化し、城跡も公園化しているのでかなりの改変を受け、当時の面影はわずかである。しかし、その地勢は現状からでも推し量ることができる。比高20m程しかないが周囲一帯の平野部を一望にできる絶好の陣場で、本丸跡と二ノ丸跡が良く残り、周囲には何段かの腰曲輪も明確に残っている。本丸は広く平坦であるが、北側が一段高くなっていて、土塁や虎口らしい遺構が残っている。本丸と二ノ丸の間には深い空堀跡も残っている。また二ノ丸から三ノ丸に繋がる虎口には土塁が築かれている。

 全体に公園化が進んでいるものの部分的にではあるが遺構が残っていて、城跡らしさをわずかに感じさせてくれる。なお城跡周囲の住宅地は路地が狭く車で行くのは大変そうなので、この城には電車と徒歩で行く方が良いようだ。
本丸上段の土塁と虎口→DSC02100.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.064515/136.936319/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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